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5月, 2022の投稿を表示しています

事故物件

 事故物件が簡単に検索できる某サイトでその仔細を見ると、殺人や自殺のみでなく病死も含まれている。これにはいささか驚いた。自宅で死ぬ人が少なくなった現代、若者の視点では病院以外で死ぬ事は異常なのかも知れない。とはいえ、在宅で亡くなった方が全て事故扱いされている訳ではなく、主に独居者が死亡して発見が遅れた場合を事故として扱っているようだ。  そもそも、事故物件だったからと言って清掃などが済んでいれば、実用的な問題がある訳ではない。あまり、事故物件だと騒ぐのもいかがなものかと思う。第二次世界大戦では日本の都市部はさんざん空襲で焼かれそこら中に殺された死者がいたわけで、死者がいた場所が気味悪いなどと言って気にしだしたらキリがない。  死者も死んでからまで気味悪がられるのはなんとも気の毒というか失礼な話で、気にせず居住すれば良いのだ。入居を募集する時点で一通りの供養は済んでいるだろうし、もしどうしても気になるなら、自主的にご供養すれば良い。死者の冥福を祈って法要をするのは普通に善行であり自身の功徳にもなろう。  あまり事故物件だと騒ぐのはいわゆる心霊スポットなる噂を招き、死者への敬意を欠いた不心得者を生むのだ。けしからん。  

持続可能な菩薩行

 捨身飼虎では無いが菩薩行は身命を投げ打つのが本来的姿だとされる。まるで葉隠の説く武士道のようだ。  葉隠においてとにかく自分が死ぬ選択をすることは、命惜しさになすべき判断を誤らない為だ。誰しも生き残りたいから自分に利のある選択に何かしらの口実をつけて選んでしまいがちとなる。  ただ、武士道で命をかける局面は基本的に主君の為のみであるのに対して、菩薩は一切衆生を救うのだから死ぬべき場所はいくらでもある。もし、虎を助けるために我が身を餌にして与えるのを是とするならば、発心した菩薩は一日も生き延びれはしないだろう。  釈尊は苦行を禁止し中道を説いたのではないかという意見もあろうが、釈尊自身も悟りを開いた時の瞑想は悟りを開くまでこの場を立たないと誓ってのものであり命懸けであった。法華経にも有名な不惜身命の文言がある。命をかける事自体は悪くないが、だからと言って葉隠レベルで死のうとしていては大乗仏教を伝える者はいなくなるだろう。この状態で大乗仏教が滅びなかったのは、人が死にそうになっているのを放置する菩薩がいなかったからだろう。無茶をして死にそうになっている菩薩は仲間の菩薩が必ず助ける。僧伽が仏と法と並んで尊ばれるのは、そういう意味もあるのかも知れない。  つまり、菩薩行が持続可能な状態で修められる為には仲間の存在が大事だということだ。しかし、もし仲間がそばにいないのなら、まず自分が死なない様に努力すべきだ。仮に会ったことが無くても、あなたの幸せと生存を望む菩薩はいるのだから、その願いを無にするべきではない。程よく食べ、程よく休み、気力と体力を充実させておいた方が人助けも捗るというものだ。

理論と実践

口に誦するも身に行わざらば、当に何に喩うる所を得べき。 譬えば重病人に空しく薬の力を談ずるが如し。 (菩提行経 五・一〇九)  菩提行経にある上記の文言は、経典などを読んでもその内容を実践しなければ、病人に薬を与えずに治療法を知識として教えるようなものだというたとえです。  仏教の教えを受けなくても社会的通念や常識として何をすべきで何をすべきでないのかは多くの人は理解しているものです。ですが、刑法に触れないまでも善いことのみをして悪いことをせずに済む人は稀です。  野球で飛んできた球をバットで打てばいいと分かっていても、ちゃんとヒットさせるには練習が必要です。正しいことをちゃんと出来るように練習することが大乗仏教の修行です。完全に出来たら仏様なので、上手く出来なくてもめげずに頑張るしかないのです。

暴力団も良いことだってしているという論法

 犯罪的集団に対して、それらも良いことだってしているのだから一方的に叩いてはいけないとする意見がある。  確かにその集団を構成するどんな悪人であっても、少しは良い事をしているだろう。だが、そう言って彼らを擁護する人達は、世間の視点がわかっていない。犯罪集団の構成員が多少いいことをしていたとしても彼らを擁護する理由になるわけがない。ヤクザが地域住民に親切であっても存在が許されないのと同じことだ。  暴力団が暴力で私的な目的を達成しようとする反社会的な集団である時点で、社会の秩序に対する脅威でしかない。そんな暴力団が例えば地震の際に炊き出しや掃除をしたからと言ってそれが何だ?往々にしてそんな美談は犯罪組織の宣伝目的になされているだけだ。炊き出しするならすればいいし掃除するならすればいいが、社会が彼らに感謝して攻撃の手を緩めれば結果としてより多くの被害者を生むことになる。  暴力団だけでなく、ナチスだろうがオウム真理教だろうが同じことだ。彼らやその残党やシンパが何か良い事をしたからと言って擁護する要素は何もない。だがもちろん、そうした仲間から抜け出した個人に関しては更生の道もある。  この期に及んで、プーチンや習近平らの集団を擁護している人達はその辺の事を自覚してほしいものだ。

賢者アルヒドル

 クルアーンには賢者アルヒドルがムーサー(モーゼ)をやり込める話があります。  アルヒドルは船底に穴をあけたり、少年を殺したり、不義理な民の住む街の壁を修繕したりと、ムーサには意味不明の行動をとりますが、実はそれぞれに理由があったというものです。  アルヒドルの行動の理由というのは現代のリベラル的価値観では理由になって無いものばかりですが、これは神が正しいとするものであり、イスラム的には正しいのです。(アルヒドルの行いの理由は以下の通りです。船は貧者の物だったが王が強奪しようと狙っていたので沈めた。少年を殺したのは彼が不信心で親に反抗的だったから殺してより良い子が生まれるようにした。壁の修繕はその街にいる孤児が受け継ぐべき遺産で、孤児が成人した時に掘り出すように神が望んだから。)  現代の突飛な事をする人間にも、何かしら言い分はあるもので、よく話を聞く必要があります。理由を聞いても分かり合えるとは限りませんが、それで争いを回避出来る可能性があるなら必要なプロセスです。

レジ袋

 コンビニなどでのレジ袋廃止は市民には概ね不評だ。まず、不便であるし、その効果を疑う人もいる。確かに、海洋ゴミの問題はレジ袋だけでなくペットボトルなど他の分解されないプラスチック素材に関して幅広く考えなければならない問題であるが、まずは小さな一歩でも評価したい。プラスチックゴミが海洋生物に与える影響は大きい。しかも残留し続けるので、生態系への打撃は長期化する。その被害は当然ながら人間にも及ぶ。他人事ではない。  プラスチックはリサイクルしにくい素材でもあり、日本では2/3ほどは焼却処分されている。一部は焼却の際の熱を有効活用してはいるが、二酸化炭素の排出は増える。現在のようにプラスチック製品が溢れていると処理が追いつかない。プラスチック以外の素材で対応できる物にプラスチックを使わないでおこうとする動き自体は正しいと言える。  環境にプラスチックが流出しても自然に分解されるプラスチックの開発なども一部で進められているが、未だ商業ベースとは言えないし、本当に有効なのかも未知数だ。また、漁具などの耐久性を要求される製品には使いづらい。やはり、プラスチックを極力使わずに済むように努力するしかなさそうだ。プラスチックごみを出し放題で良いという意見には同意しかねる。  また、生産されたプラスチックが環境に流出しないように管理することも大切だ。だから、法治の行き届いていない独裁国の中国では世界の1/4の海洋プラスチックごみが排出されており最悪の海洋汚染の原因国となっている。独裁制は環境にも悪い。

ウイグル人強制収容所の目的

 中国による占領が続く東トルキスタンのウイグル人強制収容所から内部資料が流出し注目が集まっている。外国への渡航歴がある人間は逮捕しろとか、逃げようとする者は射殺しろとか、なかなかに恐ろしいことが書いてある。  中国共産党の言い分ではこの強制収容所は宗教的過激派などを再教育するための施設だとされているが、もちろんそんなのは嘘っぱちであり、ウイグル人の民族浄化を目指しているのは経過を見れば間違いないだろう。  ただ気になるのはその手段だ。収容所内では理不尽な虐殺もあると伝えられるが、もし片っ端から処刑するのならばあれだけ大規模な施設の維持は不要であり、中国はウイグル人を大規模に長期収容することで緩徐な民族浄化を目論んでいるように見える。また、拘束を免れたウイグル人女性に漢人の子を産ませたりもしており、中国共産党が目指すのは今のところ遺伝子レベルの民族浄化ではなく、ウイグル人の民族としての意識や言語を消滅させ、中国人と同化させることにあると思われる。  ただ、現状ではウイグル人の老人と子供を除く男性の大半は収監されていると思われ、残っている人達にも厳しい監視があるので、中国共産党がその気になればいつでも速やかに遺伝子レベルでの民族浄化も可能な情勢だ。彼らがそれに踏み切れないのは国際社会の目を気にしているからに他ならない。  世界的な問題が頻発する昨今、ややもすればウイグルへの注目度が下がりがちだが、ちゃんと注目して騒がないと彼らの命が危ない。

飛び恥とSAF

 飛び恥という言葉がある。大量の燃料を消費し二酸化炭素などを撒き散らす飛行機に乗ることを環境問題の視点から恥だとするものだ。しかし、実は旅客機よりも一般乗用車の方が(車種にはよるが)輸送量あたりの二酸化炭素排出量は多いので、あくまでも印象の問題だろう。また、電動化が比較的容易な自動車に比べて、旅客機などの大型飛行機の電動化は今の所は難しくイメージは悪い。  そんな飛行機を環境負荷を少なく利用するための一つの答えがSAF(Sustainable Aviation Fuel :持続可能な航空燃料)だ。SAFは環境中にある炭素を原料とした燃料のことであり、様々な製造方法があるが、植物やゴミを利用するものは、広大な面積を必要としたり利用に制限があったりもする。電力を使って大気中の二酸化炭素を原料に燃料を生成するPTL(Power to Liquids)と呼ばれる技術ならば、そうした問題は解決されるが、まだまだ効率化を図る必要がある。  脱炭素化は地球環境保全の為に必要不可欠であると同時に、様々な技術革新を必要としており大きな商機といえる。この分野にどれだけ投資出来るかが、今後の各国の盛衰に大きく影響するだろう。温暖化なんて嘘だとか脱炭素なんて必要ないなどという陰謀論に踊らされた国や企業は衰退一直線となる。確実に陰謀論を粉砕していきたい。

戦後レジームの崩壊

 戦後レジームの脱却とは安倍元首相の言だが、彼の治世下では戦後レジームは崩れなかった。だが今、ロシアによるウクライナ侵略を契機に急速に戦後レジームは崩壊しつつある。  バイデン大統領の日本訪問では驚きの発言が連発された。台湾有事の際にアメリカが台湾を防衛すると明言し、日本の国連常任理国化を支援するとも言い、中国抜きの経済同盟の設立を呼びかけている。日本の防衛費増強に関しても特に異論は無いようだ。これらは、中国を念頭においているのは確実であり、国連を動かしている五大国のうちロシアと中国を締め出した新たな国際体制づくりを目指している感もある。  ただ、バイデン大統領はこれまでも先走った発言をして後で撤回する事も多々あり、今回も早々にホワイトハウスからは大統領の台湾に関する発言を否定するコメントが出ている。だがまあバイデン大統領の本音ではあろう。  一気に乱世の様相を呈してきた国際情勢だが、どうにか独裁国陣営が折れて平和裏に対立が解消する事を祈るばかりだ。

悪党への慈悲

 世の中には他人を傷つけたり殺したりして喜ぶ人がいます。その被害者や遺族が悪党を口汚く罵る例も見られます。被害者達の心情からすれば当然のように思えますが、相手が悪党であれば何をやってもいい訳ではありません。もちろん、批判された悪党がこれらの自分に向けられた批判をマナー違反だと言うのも違います。悪党はまず反省すべきです。  悪党にも慈悲をもって接するべきです。ただそれは、悪党に好き放題のわがまま勝手にさせようというのではありません。悪党がこれ以上の悪さをしないようにするのが悪党へ対する慈悲というものです。例えば、悪党が刑法に違反している場合は、彼らを収監してもらうことで当面は悪事を働けなくなります。その間に反省する機会もありましょう。また刑事罰に問えない場合でも、悪事を働けないように社会的な圧力を加えたり、法の改正を促すことで抑止を目指すこともできます。  自分の仲間にだけ親切にするのは慈悲ではなく執着です。悪党にも慈悲をもって接するべきです。

温暖化対策とコロナ対策

 コロナ禍ではワクチン、マスク、三密回避や移動制限など様々な対策がなされた。そのかいもあって少なくとも現時点では日本の被害は海外より少ない。それぞれの国や地域の社会資源は有限であり無制限の対策は出来ようはずもなく、また各国ごとの文化もあり対策の強弱は世界的にはバラバラだが、少なくとも人類の大半は新型コロナウイルスを脅威とみなして対策を行った。このウイルスをタダの風邪だとみなす陰謀論者達もいたが、幸いにして彼らは少数派だった。ただ、無視できない規模の少数派であり、一部の自治体では陰謀論者が首長となって対策に支障をきたしたりもしていた。  コロナ陰謀論者は間違っているが少数派だ。彼らはコロナ禍が収まっても存在し続けて自分の正しさを主張するだろうが取るに足りない勢力であり、社会は彼らを生暖かく見守ることも可能だ。だが現在、新型コロナウイルスよりも遥かに深刻な問題において陰謀論者が野放し状態となっている。地球温暖化を否定する陰謀論者達だ。新型コロナウイルス感染症は短期間に目に見える被害があるので実感しやすいが、真綿で首を締めるように進行する地球温暖化はそういえば昔より暑いな程度としてしか体感しにくく、データを読めない人間には事態が深刻であるとの実感はわかない。  地球温暖化は科学を知らない者には分かりづらい話だ。陰謀論者が喧伝する「地球温暖化なんて嘘だ!大企業と政府が儲けようとしてグルになっているんだ!」などというまるで世界中の国や企業が一枚岩の結束を誇る悪の秘密結社であるかのようなヨタ話を信じる輩は意外と多い。科学リテラシーに乏しい人間は、意図的にピックアップされたり編集されたりしたデータやグラフを提示されても疑問を持たずに科学的に正しいと信じてしまうものだ。そこに、大企業や国家などのヒールを配置して恨みを煽れば容易に人は騙される。  そうならない為にも科学リテラシーの教育は大切だし、ルサンチマンを煽られたくらいでゆらがない心を培う教育も必要だと言える。また、そもそも論として現代の技術で地球温暖化に立ち向かうのは難しく、さらなる技術革新のために基礎的教育レベルもあげるべきだ。高校で三角関数を教えるななどという馬鹿な議員もいるようだが、教育にはふんだんに予算を割いてほしいところだ。

確信犯的動物愛護過激派

 動物愛護活動家が千葉の劣悪な環境で飼育されていたドーベルマンを救出するとの名目で犬を窃盗するという事件が起きた。類似の事件は他にもあり、長崎で虐待を受けていた盲導犬が忽然と姿を消したのも、動物愛護活動家による窃盗だったとの噂が根強い。  このように犯罪であることを知りつつ、動物愛護のために過激な行動に出る人たちがいる。著しくなるとクジラを守るためにと称して日本人船員の傷害を企図した環境テロ組織シーシェパードなどもいる。シーシェパードは酸の入ったロケット弾を日本人船員めがけて射出しており、怪我人も出ている。当たりどころが悪ければ死亡するおそれもあった。この他にも船で体当たりしたりレーザー光を照射したり等のテロ行為を続けていた。彼らはいずれも確信犯だ。日本の遠洋クジラ漁が無くなってからはシーシェパードによる攻撃も無くなったが、警戒は怠れない。なお、公海上でも日本船への攻撃に対しては日本の海賊法の適応となり、最高刑は死刑である。実際に死刑になる可能性は低いだろうが、彼ら狂信的テロリストは死をも恐れずに攻撃してくる。  動物愛護団体過激派の理念の是非はともかく、抗議するにしても各国の法律内の行動にしてもらいたいものだ。例えば国内の悪徳ブリーダーやペットショップや飼い主をどうにかしないといけないのはある意味で正しいのだが、そのために窃盗や傷害や殺人をして良い法はない。動物愛護団体各位には冷静さを保つように願いたい。

泥舟

 社会的常識や価値観は比較的短い期間で変わっていく。その中で稀に数千年に渡り維持されている価値観がある。これらは伝統とか宗教とかと呼ばれるものだ。こうしたある意味で盤石な価値観に基づく言動は無難であり、社会の中で大船に乗ったような安心感がある。いくら社会の変遷が激しいとは言っても、明日から無条件な殺人が称賛されることも、窃盗や詐欺が推奨されることも無いだろう。  なぜ人を殺したらいけないのかなどという問いに本気で悩む学者も存在しようが、現実として平時においてむやみに人を殺したらいけないという価値観を共有する社会が歴史的に生き残って来たのだから、今後も社会の圧により殺人を是とする価値観は排除され続ける可能性が高い。戦争では、その価値観が一旦棚上げにされるから有事なのだ。  一方で歴史の浅い価値観は変化が激しい。数十年ほどの人間が生きている範囲の短期間でも昔の常識が現在では決して許されない悪となっている事例も多い。人気アニメの機動戦士ガンダムで、主人公のアムロ・レイが上官のブライト・ノアに殴られた時に、親にもぶたれたことがないとの発言をする場面があった。このアニメが放映された1970年代なら、指導や教育に暴力が使われるのは当然であり、殴られたくらいでグダグダいう男は情けない存在だったのだ。製作者の意図はともかく、当時の視聴者の多くは殴ったブライトさんの方にではなく殴られて泣き言をいうアムロの方に嫌悪感を覚えたことだろう。だが、今いわゆるファーストガンダムを見る若者は、アムロのあのシーンを戦時下の異常な状況として理解するに違いない。  今の会社で上司が部下を殴って、殴られもせずに一人前になれるか!などと叱責すれば、首が飛ぶのは上司の方だ。ところが、日本の映画監督の中には昭和の価値観で、痴漢は挨拶、強姦はイタズラ、暴力は指導、過重労働は当たり前などという行動をしている人が今でもおり、批判されたら名誉毀損で逆提訴するという暴挙に及ぶ輩もいる。この狂った映画監督を擁護するミソジニストらも散見されるが、もう彼らの時代は終わったのを理解できていないようだ。更新されない価値観に基づく行動はまるで泥舟に乗っているかのようだ。

ミャンマー血盟団

 現在、賊軍が支配しているミャンマーからまた血生臭い話が聞こえてきた。賊軍の一部かその支持者と思われる血盟団(Blood comrades)と名乗る犯罪集団が、4月21日からオペレーション・レッドなる、国民民主連盟のメンバーや支持者を殺害する作戦を開始した。現在までに多くの議員やジャーナリストや一般市民らが殺害・拉致されている。ご遺体にはミャンマー血盟団のバッジやカードが添えられており、賊軍に逆らうと殺されるぞとの見せしめにしている。  ミャンマーの賊軍はプーチンを支持しておりなるほどやり口が似ている。また賊軍は同じくプーチンを支持している中国共産党とも連携しており、今や世界の敵だと言っても過言ではない。日本においても渡辺秀央が率いる日本ミャンマー協会が賊軍を支持して暗躍を続けており日本のODAの執行機関であるJICAも未だにミャンマーで活動を続け、自衛隊も賊軍の教育に加担している。  これら日本政府によるミャンマー人虐殺支援は日本の歴史の大きな瑕疵として残るだろう。すぐさま辞めさせなければならない。

ロシア、ウクライナとの停戦交渉を打ち切り

 ロシア外務省よりウクライナとの停戦交渉を打ち切ったとの発表があった。今後、戦局や政局が変化すればまた交渉再開の目はあるだろうが残念なことだ。また、わざわざ交渉を打ち切ったということでロシア側はどのような効果を狙っているか気になるところでもある。何か考えがあってのことならまだ良いが、何も考えずに独裁者の感情論で交渉を打ち切ったのなら、さらに何をしでかすか分かったものではなく事態は深刻だ。  このプーチンの戦争をどう終わらせるかも問題だ。侵略軍をウクライナ全土から追い返したとして果たして終わるのか?周辺諸国はロシアを十分に無力化しないと安心出来まい。どの程度で妥協するにしてもロシアが再び交渉のテーブルについてくれないと話にならない。そうでないと戦争は終わらない。  ロシアが予想外の行動に出ることで、周囲を恐怖させて交渉をまとめようとしている可能性もあるが、単に狂っている場合はどうしようもない。日本でも念の為に近所の地下施設や頑丈な建物は把握しておいた方が良いだろう。

リプレイスメント陰謀論

 5月14日にアメリカはニューヨーク州バッファローで起きた黒人を狙った銃撃事件で、犯人のペイトン・ゲンドロン(18)はリプレイスメント理論あるいはグレート・リプレイスメントと呼ばれる陰謀論を信じていたという。  この陰謀論は白人社会のエリートが多産な有色人種をその国家に大量導入し、かつ白人の出生率を下げるように仕向けて、最終的に白人を絶滅させようとしているというものだ。全く荒唐無稽なものであり、こんな馬鹿げたデマで殺されてしまった10人の被害者には同情を禁じえない。  この陰謀論はフランスのルノー・カミュにより2010年頃より唱えられており、政府が自分の言いなりにならない国民を入れ替える為に行われる陰謀だとしている。更に、グローバリズムによって、文化や民族や国家から分離された取替られる人間が増やされているのだともいう。この考え方では移民は先住白人を絶滅させに来ている侵略者であり、リプレイスメント陰謀論はレイシストに広く受け入れられていった。  このナラティブはユダヤ陰謀論の焼き直しとも言える。社会の中の弱者を実は強大な敵だとして彼らへの差別の口実とするものだ。そもそも、国のエリートが言うことを聞く国民に入れ替えるのが目的だというが、自分らと考えの近い民族を異民族に入れ替えてすんなり言うことを聞いてくれる訳がない。だから文化や民族や国家から分離された人間にするんだという反論も無茶苦茶だ。実際に、欧米に移民している有色人種が各々の文化を捨てているかという話で、明らかにNOだ。少しは薄まるかも知れないが、アメリカに移民したムスリムがいきなり無神論者になったりはしない。  近年、民族浄化が実際に目指された例としては中国の東トルキスタン侵略がある。だが、あれは明らかに軍事侵攻した上で、強権的に支配し虐殺、強制移住、断種、大量移民、絶滅収容所の運営などを行った結果であり力技だ。しかも、これだけやっても民族浄化は達成できず、今でも激しい抵抗が世界中で続いている。リプレイスメント陰謀論が説くようなまどろっこしい手段では民族浄化なんて出来ようはずがない。百歩譲って仮にそれを実行可能な程の力がエリートたちにあるのなら端から力技でやった方が早い。  リプレイスメント陰謀論の類型は山程ある。陰謀論者どもは差別を受けている社会的弱者を指してこう言うのだ「彼らは被害者ぶっているが実は強大な悪の

釈尊在世の頃は人は次々に悟りを開いていた話

 釈尊在世の頃は、その弟子は次々に悟りを開いていた。その後、時代が降るにつれて悟りはどんどんと不可能なものになっていった。これは、人間の資質が劣化していったからだと言われることが多いが、現実的には高々数千年の間に人類がそんな劣化することはない。お釈迦様の入滅後、人々が悟りを開けなくなったのは部派仏教の人達が悟りへのハードルを果てしなく高くしていったからだと考えるのが妥当だろう。  大乗仏教のある意味でのインスタントさは、不必要に権威化してしまった仏教への反動であり、計らずもそれが原点復帰に近い教えを生み出したといえる。だが、もちろん大乗仏教こそ原始仏教だなどというつもりは毛頭ない。両者は基本的な思想を共有しつつも明らかに別物だろう。  しかし、大乗仏教を非難する人の多くは、原始仏教と違うから大乗仏教は邪道だとか仏教ではないと言う。そこで問いたいのだが、そもそも原始仏教とはなんぞやと言う話だ。  大乗仏教を批判する人が用いる原始仏教という言葉は、どれもこれも批判者が考えた最強仏教に過ぎない。それもそのはずで、原始仏教は後世の文字化された経典からその姿を類推するしかないものだからだ。原始仏教にも縁起の思想はあったであろうが、それは大乗仏教にも当然存在する。おおよそ仏教の根幹たる思想は大乗仏教にも継承されている。では原始仏教支持者が大乗仏教を批判する根拠は何か?彼ら個々人の考える俺様の原始仏教と大乗仏教が違うからだという以外にない。  そんな個人的思想への執着で、大乗仏教は簡単に成仏し衆生を救うという詐欺だと言われても困るし、彼らが言うほど簡単でもない。道林禅師ではないが、三歳児に分かることが八十の老人にも実践しがたいものだ。自利利他を基本とする大乗仏教に比べれば、自利のみを説く俺様の原始仏教の方がよほど簡単だと思う。だいたい簡単だと悪いという発想がおかしい。実際に釈尊在世の折には人々は速やかに悟っていたのだから、原始仏教こそ簡単でなければ困る。そして、簡単に悟れるのならばそれは素晴らしいことだ。

沖縄本土復帰50周年

 実は私は沖縄の本土復帰から数年後に沖縄にしばらく住んでいたことがある。沖縄の方々には申し訳ないが当時はその治安の悪さに恐怖したのを覚えている。米軍の支配はロシアや中国の支配よりはマシだったとは言え、これが占領地の現実かと思った。だがまあ、アメリカの治安も大概なので、彼らからしたらそこまで悪くないと思っていた可能性はある。  そんな沖縄の治安も年々回復している。たまに行くともはや昔住んでいた沖縄とは別の県かと思うほどだ。だが、例えば今回のコロナ禍におけるワクチン接種率の低さや行動抑制のゆるさを聞くと、ああ私がいたころの沖縄はまだあると思わせてくれる。良くも悪くも彼らは自由だ。  政治的思想や心情は別として忘れてはいけないのは、沖縄県には日本政府との交渉で「独立」という強力なカードを持っているということだ。戦後から50年前まで本土復帰運動があったとはいえ、沖縄は半世紀前までは日本ではなかったのだ。事実、沖縄弁には日本人への蔑称であるナイチャー(内地の人)という言葉がある。ちなみに北海道民がいう内地の人とはニュアンスがまるで違うので注意されたい。ナイチャーは明らかな侮蔑語であり、使われたら身構えるようにお勧めする。  沖縄が独立して中国の半植民地となれば東アジアにおける米軍の優位性は大きく揺らぐことになる。日本の安全保障へも致命的な影響を与える。よって、交渉の場において独立を匂わせることは沖縄県がなし得る日本政府への最大の脅迫である。だがもちろん、沖縄が中国に支配されれば米軍統治下より酷い状況が招来されるのは間違いなく、また匂わすだけでなく実際に独立運動を開始すれば内乱罪の適応となるだろうから現実的ではない。  しかし、プーチンの戦争であったように、頭がアレな独裁者がいる独裁国なら他国の地域の独立を支援するとの名目で侵略戦争をおこしうる。日本からの独立を希望する大中華民族の一員である琉球民族が人民解放軍に救助を求めているとして習近平が特殊軍事作戦を命令する可能性はゼロではない。目下その可能性がゼロに近いのは米軍基地が沖縄にあるからであって、習近平が親切だからではない。  大戦末期の沖縄戦では多大な犠牲を払って米軍の本土侵攻を防ぐ要因の一つとなった。心情的に沖縄県には感謝しかなく、大量の公的補助は当然であると考える。また、地政学的も沖縄は戦略的要衝であり、沖縄は日本に安全

社会活動の成否と経済と政治

 世には多くの社会活動がある。それぞれ理想を目指して頑張っているのだろうが、その成否は残念ながら大体予測可能だ。  成否の最大の要因は経済性だ。その活動によりどのような利益が社会にもたらされるのか?あるいは起きうる損失が防がれるのか?これが大事だ。少なくとも活動により損失の方が大きくなる場合はほぼ成功しない。  暴力団追放が概ね上手く行ったのは、暴力団の活動による経済効果より、カタギの者から奪われることによる経済的な損失の方が多かった為だ。学園闘争が失敗したのは、日本に共産主義政権が樹立されたら経済的な損失が大きいと見込まれ、常識的な大人が協力しなかったからだ。  一方で、経済的な損失が見込まれても、長期的に見て必要がある事は、政治の力で実施される場合もある。成果が出るかどうか分からない多くの研究への投資は、目先の利益だけでは語れない。そうした民間ではなし得ない事をするために公的機関は損失を被るのであり、その支出を増やさせようとする社会活動も多い。  政治力が絡むと利益よりも理念が追求されがちとなる。だから、多くの社会活動家は政治の方に注力するのだが、利益はあがるならあがった方がいい。社会が豊かになれば皆ハッピーだ。正しい事はいかなる犠牲を払ってもやるという決意は良いのだが、正しいことだから皆の協力が得られるような方法を模索しようとする方が建設的だし成功率も高い。  また政治力の利用はいうほど簡単ではない。確かに政治的工作で強権が発動されれば大概の無理は通る。だが、倫理的に問題があるが経済力もある組織が政界に工作するのも常套手段であり、政治力が悪用されることもしばしばだ。  例えばユニクロは安価で良質の品物を社会に提供している会社だが、その企業活動がウイグル人の奴隷労働や、自社社員の不当な過重労働で支えられているのは明白だ。この状態を改善するには政治的圧力をもってするしかない。だが、ユニクロは政界にも強い影響力を持っており一筋縄ではいかない。パチンコ屋が明らかな違法行為を経済力を背景とした政治への介入で回避しているのと同じことだ。  更に、偏った理念により政治が暴走した例もある。現在アメリカ南部の諸州を中心に成立が進んでいる絶対的中絶禁止法は、女性の命と人権を危険にさらしている。これを単に経済面で考えれば、多くの若年女性の命を危険にさらしており損失が大きいのだが、保

仏の慈悲は届いている

 大乗仏教の利他と慈悲の思想は、代々受け継がれており、昔から一切衆生を救おうとする僧侶が存在し続けている。だから、誰かが酷い絶望の淵に沈んでいても、その人を助けようとする意思はこの世界に存在している。  仏教を宗教ではなく科学や哲学だと言う人もいるが、仏教は宗教だ。修行の果てに悟りを開いた仏が、人々を救うために慈悲をあまねく世界に届けているという確信は、論理ではなく信心に他ならない。だが仏の慈悲を信じられない人でも、仏の意志を継ぐ僧侶や在家は目に見えるはずだ。 光雲無礙如虚空 一切の有礙にさはりなし 光澤かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ  親鸞聖人の浄土和讃にあるこの歌は阿弥陀如来の慈悲の光は何物にも妨げられず全ての生き物に届いていることを述べて、その計り知れない仏に帰依する事を勧めている。  阿弥陀如来が気に入らなければ釈迦牟尼仏でも薬師如来でも近所のお寺の和尚さんでも結構だ。全ての生き物が安らかであるようにとの願いはこの世に存在する。物理的な助けは無くても、その想いがあることは間違いない。どんな惨めな状況の人間にも、どんな残虐な人間にでも、仏の慈悲は届いている。

今後のツイッターはどうなる?

 ツイッター社を買収したイーロン・マスクが、凍結されているドナルド・トランプ前アメリカ大統領のアカウントを復活させようとしている。  ツイッター社は公的機関ではなく私企業なので、彼らの判断でアカウントを凍結しようが復活させようが自由だ。それ自体は問題ない。だが、極度のデマやヘイトすらも表現の自由の範疇とみなし規制を嫌う姿勢は、公共に対する脅威だ。ネット中心に組織されアメリカ議会を襲い警官を殺害したQアノンらのテロリストを一企業が許しても各国の刑法は許さない。ツイッターで過激派を野放しにすることはこうした犯罪の増加を招きかねないが、見える化することで官憲による危険因子の監視には有利かも知れない。  イーロン・マスクは匿名を嫌っているとも言われる。これも恐らく上記の規制緩和と関連する。つまり、ツイッターでの発言はあくまでも個人の責任であって、プラットホームを提供する会社は責任を負わないようにするためだろう。規制せずに殺人予告や脅迫や侮辱などのツイートが乱舞し、それを一々イーロン・マスクが賠償していれば世界有数の富豪でも破産しかねない。  自由には責任が伴うものだ。実名化もいいだろう。だが、実際にはツイッターには匿名のユーザも多い。実名だとしがらみで言えないこともあるからだろう。小生も現役の医師であり、身バレすると色々面倒だから匿名でツイッターのアカウントを持っているが、ツイッター社がその気になれば特定されるだろう。匿名で続けるのもどうも居心地が悪い。ツイッターの実名化が進めば、無難な事をいうアカウントだらけになり、エキセントリックな発言をする輩が目立つようになるかも知れない。ただ、そうなると第二のFacebookが出来るだけな気もする。  しばらくは様子見だが、個人的には明らかなデマやヘイトは今より規制してもいいくらいだと思っているので、残念なことだ。

 例えば陰謀論を信じてしまってワクチンを打たせまいとする迷惑な人達は、嘘を信じてはいるが本人たちは嘘だとは思っておらず、人を助けようとして人を害している。当然、社会は彼らを野放しには出来ないが、彼らは社会の脅威であるから対処されるのであって、彼らが悪であるから排除されるのではない。彼らもまた嘘による被害者なのだ。  一方で、真偽の問題ではなく価値観の相違に関する問題では、ある人がどんな事を考えていてもそれは嘘ではない。だが、本当はそうは思っていないのに嘘をついて双方を煽り、人々を争わせて楽しむのは悪だ。仏教では妄語(嘘)、綺語(飾り立てた実のない言葉)、悪口、両舌(人を仲違いさせる言葉)が禁じられている。争いを煽って楽しむ人は、まず自分に嘘をついており、双方の意見を飾り立てて人々の高慢を招き、お互いの相手を煽る罵詈雑言を用い、争いを激化させる。同じ人がやっていると分かるように実行すれば頭がおかしい人にしか見えない。しかし、別人を装って、あるいは仲間を用いて社会の中の意見の違いに関して、話し合いではなく叩き合いに誘導したがる悪は残念ながら存在する。  どんなに意見が分かれることでも、話し合いさえできれば妥協点は見いだせる。例えば夫婦別姓を推進する人達と、家の制度を守りたい保守派の間でも、戸籍の制度を維持しつつ別性を名乗っても不自由しない制度の構築が模索されている。どちらかが滅ぶまで殴り合えばいいというものではない。  そして、話し合いにおいて、相手と意見が違っても嘘をつかない誠実さが交渉の第一歩となる。嘘はついちゃいかん。

過労死

 国内外の疫学調査によると週に55時間以上の労働は脳卒中や虚血性心疾患のリスクが増大させると言われている。医師は週に100時間以上働く人も珍しくはなく、小生の友人でも若くして突然死した医師はいる。いたましいことだ。お釈迦様も度の過ぎた苦行を禁止していた。昔から過労死する人は多かったのだろう。世のため、人のためと働く人は立派だが、過労死しないようにちゃんと休んでほしい。持続可能な努力の方が結果として多くの人を救う事になる。確かに人間は、ここぞと言う時に頑張らねばならないこともある。それはしょうがない。だが、人にやさしく責任感が強い良い人ほど無理をしてしまう傾向にあるので、職場では周囲にも気を配りたい。  去年、労働安全衛生総合研究所から発表された短報によると、30〜60歳代に模擬長時間労働を課したら作業中の血圧は50歳代以上で有意に高かったという。血圧の上昇は脳卒中や虚血性心疾患の危険因子だ。  時代劇などで登場人物が憤死するシーンを見たことがある人も多いだろう。あれは怒りのあまりに死ぬのではなく、怒りで血圧が上がった結果、脳卒中や心臓疾患などが惹起されたと見るべきであり、実際に起こりうる。血圧を甘く見てはいけない。過剰な塩分摂取を避けて十分な休養を取るのが大切だ。  もちろん、血圧だけが過労死の原因ではない。過労でうつ病となり自死する場合も多い。精神的に参った時もとにかく休んで、必要に応じて精神科を受診することが望ましい。  また、もし家族が過労死した場合、労災の申請をしないと補償を受けられない。労災の申請には時効があるので、もし疑問に思うことがあれば、なるべく早めに労働基準監督署に相談した方がいい。なお公務員の場合は身分により申請先が違うので、職場の事務方に問い合わせるのが早いかと思われる。嫌な話だが、過労死の疑いがある場合に、わざわざ労災の申請を勧めてくる企業や組織は皆無なので、疑った時は遺族が動く必要がある。現在、過労死と認められる目安は、脳や心疾患の場合は直近一ヶ月の時間外労働が100時間以上か、直近2〜6ヶ月の時間外労働が月あたりの平均で80時間程度とされる。心理的な負荷によるものの場合は、それを認めるうる特殊な出来事があったのかなどが争点となる。  過労死をゼロにする為にも、人類が思いやりの心を持つように祈る。

意見の合わない人は能力的に劣っている訳では無い

 社会活動家などによくみられる現象で、自分と思想が異なる人や集団は能力的に劣っていると思ったり、技術や道具も自分たちのものが優れており敵のものは劣っていると過信したりするものがある。  いわゆる反米平和活動家がオスプレイやF-35の事をこき下ろすが、実際のところは彼らが言うような欠陥は存在しない。事故率はゼロでは無いが従来品と比較すれば安全で優秀な軍用機だ。ただ、反米活動家はその能力を把握した上でわざと誤った情報を流し民衆の不安を煽っている可能性はある。そうすれば、たまに起きる事故に対して大きな反発を惹起しうるという思惑もあるだろう。米軍の日本への展開を阻みたい彼らからしたら合目的なデマの吹聴かも知れないが、本気で欠陥があると信じてる活動家も多いように見受けられる。これは嫌いな米軍が使っているものは欠陥に決まっているという思い込みがあり、そしてそれは、ひどい欠陥品を使うくらいに米軍は愚かで人命を軽んじる非倫理的な集団だとの偏見から生じている。  人種や民族を差別する人たちが、何々人や何某民族は能力的に劣っているとすることで差別を正当化したり、ミソジニストが女性は欠陥生物だから男に従うべきだと言って支配を正当化するのと同じ文脈だ。本質的に原因と結果が逆転している。つまり、差別に足る理由があるから差別するのではなく、差別し搾取したいから差別したい対象が劣っているという妄想をいだくのだ。確かに人種や性別による体格差などは存在するので、特定のパラメータに絞ればその集団ごとの平均値では優劣が発生するだろうが、それは選ぶパラメータを変えれば容易に逆転するものであり、当然ながら差別の理由にはならない。お互いの長所と短所が違うのなら、差別や支配をするより助け合った方が建設的だ。  また、思想的に相容れず戦いが避けれられない場合において、相手の能力を低く見すぎるのは危険きわまりない。考えが違う嫌いな相手は弱いなどと勘違いしていたら死を招くことになる。プーチンの戦争で圧倒的に強いと思われていたロシア軍が著しく苦戦しているのは、彼らがウクライナ軍を舐めすぎていたのも一因だろう。プーチンがウクライナ軍の力を正当に評価していれば戦争も起きなかったかも知れない。  いずれにしても、現在のところ地球上で最強の国家であるアメリカは、反米平和活動家がそうだと信じるほどバカでも弱くも無く、国家としての

菩薩の目標

 菩薩行に励む者は一見すると到達不能そうな目標を達成するために日々精進している。全ての生き物を救い、全ての煩悩を断ち、全ての教えを学び、仏道を成就される。冷静に理性的に考えれば明らかに到達不能な目標だ。だが、菩薩たらんとする者はその目標に一切の妥協も加えない。結果が出ないと絶望もしない。何度失敗しようが精進をやめない。  仏と同等でありながらあえて菩薩の位にとどまり人々の救済を続ける観音菩薩は、仏教者の理想像であり、自らもかくありたいと願う存在であり、絶対の信頼を寄せる帰依の対象でもある。  偉大な宗教家は、後の世で観音菩薩の化身であるとみなされることもある。聖徳太子は救世観音菩薩とされていて信仰の対象だし、親鸞聖人の妻である恵信尼は夫が観音菩薩だったという夢を見たとも伝わっている。  観音菩薩だけでなく、日蓮聖人は上行菩薩であったと信じられているし、聖人自身もその自覚を持っていたという。  このような高名な菩薩やその化身でなくても、大乗仏教の信者も菩薩の末席にいるといえる。偉大な先輩たちに恥じぬように心がけたいものだ。

陰謀論者の公民権

 当たり前と言えば当たり前だが、現在なかばテロ集団と化している種々の陰謀論者にも公民権はある。だから、反ワクチンの首長をもつ自治体があるし、DSなる世界を操る闇の秘密結社があると公然と言う国会議員もいる。彼らが当選したのは支持者がいるからだ。もちろん、彼らの陰謀論者以外の側面も加味された選挙行動なのだろうが、これらのトンチキな発言は問題視されなかった事になる。  このように陰謀論者にも一票を投じる選挙権があり被選挙権がある。陰謀論を信じる某国の独裁者が今なにをしているかを見れば、陰謀論者に権力を握らせるのが如何に危険かは言うまでもない。陰謀論者が公民権を持つのは社会の安定への脅威であり大変に恐ろしいことだが、これを制限することは困難だ。  現在の民主主義国で、良い判断が出来るであろう賢い人と、周囲に流されだけの愚者に同じ公民権が与えられているのは、人権思想による。人間は人間であるだけで人権を持つのだから陰謀論者であることを理由に公民権は制限出来ない。  だが、日本で合法的に公民権を停止される人もいる。1つ目は禁固刑以上の刑に服している囚人、2つ目は公職にある者が収賄などで有罪となった場合では刑期を終えても一定期間は公民権が停止される。  世にはびこる陰謀論者すべてを逮捕して禁固刑にまで持っていくのは不可能だろうが、彼らのリーダー的な存在であれば不可能ではない。陰謀論者集団も頭を失った烏合の衆となれば大きくその脅威を減じる事が出来る。ワクチン接種会場への乱入・妨害や医師へ凶器を送りつけての行為、これらは多くの人命を危険に晒すテロ行為であり許してはならない。当局にはもっと毅然とした態度で事に臨んでほしいと切に願う。

子供に与える情報

 今日はこどもの日だ。端午の節句を起源とするこの祝日は、祝日法によると子供の人格を重んじ子供の幸福をはかるとともに母に感謝する日となっている。父は感謝されないようだが、本筋には関係ない瑣末な問題だ。  さて、子供の幸福を考えた時には、親が子に与える情報には配慮が必要だ。例えば、子供には分かりにくい話を要約もせずに説いて聞かせるのは、その内容がどんなに有益でも子供にとっては苦痛だろう。また、一般的に幼児は現実と空想の区別がつきにくいとされる。作り話だからと言ってあまりショッキングな内容を提示するのは心に傷を残しかねず良くない。この空想と現実の混同は5〜6歳ごろには改善するが、小学生までは多少は残るとも言われており、子供に与える情報にはある意味でのパターナリズム的制約が必要だろう。稀に子供にはどぎつすぎる本も目にするが、本屋さんや本を買い与える大人も油断せずに吟味してもらいたい。  子供の人権は大切だが自由勝手のわがまま放題をさせればいいというものではない。将来、人間らしく生活できる知恵や道徳を伝えるのは大人の義務だし、年齢に応じた社会性を持たせることは子供を守ることにもつながる。子供の頃から反社会的な教育を受ければ、その後の人生に大きな禍根を残す。例えば人種差別や女性差別を是とする教育を施すのは、児童虐待に等しい事だ。  だが、子供を守れという人々の言動を、多くの差別主義者は嫌う。子供をダシにした言論や思想の弾圧だと言うのだ。だがそうだろうか?子供の頃から残虐な情報に曝露し萎縮させる事こそ、子供の自由な言論や思想を阻害する。親やその他の大人が子供の人格を尊重しつつ、子供を様々な脅威から守る姿勢を見せなければ、その子は他者の人格を尊重せず他人をすぐ見捨てる大人になるだろう。子供は守って大いに結構だ。子供を矢面に立たせてこき使う方が論外だ。  全ての子供達が幸せでありますように。

プロゲーマーによる障害者への侮辱発言

 戦争ゲームを見せ物にすることでお金を稼ぐSaRaなる芸名のプロゲーマーが、そのゲーム動画の実況配信中に障害者を侮辱する発言をしたと話題になっている。その時の動画を確認すると、ゲーム中に安全そうな場所に敵がいないかわざわざ確認したプレイヤーに対して「障害者やろ、マジで」と暴言を吐いている。  ネット上では10年くらい前から知的障害児を揶揄するガイジという言葉が流行っていた。ガイジという言葉は批判する相手が実際の知的障害児でなく、単に嫌いな相手が何かしら失敗をした時に使われることも多かったので今回の用法と似てはいる。この言葉に対する批判は強く近年ではあまり聞かれなくなったが、障害児という単語を直接的に相手を馬鹿にするために使うのが憚れるのでガイジと隠語風にして言っていたのだと考えると、障害者という単語を直接的に相手を馬鹿にするために使った今回の発言の異常性が際立つ。世界に向けて配信している仕事の動画で差別発言をするのだから、逆にSaRa氏の社会的常識の認識の方が気になるところではある。  障害者を障がい者や障碍者と記載することもある。害の文字の印象が良く無いからとのことで地方自治体などが採用している場合が多い。一方で、一部の障害者団体などは、障害とは社会の側にある差別の問題であり害の文字を隠すことで問題の本質を分かりにくくするから障害者で良いとする意見も出ている。なお、政府や中央省庁の使用する書類では今でも障害者の表記だ。障害者差別は単に個人の問題ではなく、差別の構造を内包する社会の問題だとも言える。  差別主義者は、自分や家族や友人もある日突然に障害者となる可能性があることを思い出すべきだ。福祉や医療の整った安心できる社会の構築のためにも、障害者に対する根深い差別意識は取り除いていく必要がある。

憲法記念日

 憲法記念日と言えば改憲派と護憲派のバトルが風物詩だが、この世に永遠不滅なものなんてないのだから、いずれは改憲されるだろう。別に改憲されるのは良い。時代が変わればルールも変わるのは有史以来続いていることだ。だが、どう変わるかは重要だ。  実のところ、現行の日本国憲法は国際連盟の理念をほぼ丸パクリしただけあってなかなかに良い内容だ。憲法の第一条で国体思想も保持されており保守派も納得だろう。無理に変えるべきところも見当たらない。ただ、戦後この憲法の、特に第九条の解釈は無茶苦茶であり、誤解がないように書き直すことは検討した方がいい。  国際連盟から国際連合に至るまで、戦争の禁止とは侵略の禁止のことだ。自衛権は一切否定されていない。GHQが作り日本の国会が了承した(させられた)日本国憲法でもこれは踏襲される。これを日本の教育界ではあたかも自衛のための戦闘行為も違憲であるかのように教えてきた。今でもそう勘違いしている人が多いだろう。この誤解の元凶は、朝鮮戦争の際に当時の首相であった吉田茂が憲法九条を盾に集団的自衛権の行使を拒否したことだ。だが、当時まだまだ敗戦の傷が癒えない日本からの出兵は現実的には難しかったであろうと思われ、ある意味で吉田は九条を利用して日本を守ったとも言える。歴史的功罪はなんとも判定しづらい。  戦後日本の九条思想に基づく徹底的な争いの忌避は日本以外にも被害をもたらしている。これまで日本は周辺国で縁も深い中国やミャンマーやインドネシアや南北朝鮮で政府による住民虐殺があった時に、民衆を助けずに圧政を敷く独裁的な政権に融和的に接してきた。争いを避けるためだ。なるほど虐殺は一方的な殺戮であり戦いではない。他国との緊張を避けるために無辜の市民を虐殺する政府を支援するのは憲法九条の狂った解釈のもとでは正しいのだろう。現在でもロシアの侵略に屈するようにと呼びかける九条信奉者は多い。  日本国憲法九条の誤った解釈とそれから派生する他国の軍事政権や独裁制への賛美は恐ろしい矛盾を抱えている。暴力で人々を支配しようする者に抵抗するのは争いで良くないのなら、日本に軍事独裁政権が誕生した時もそれに抵抗するのも良くないということになる。暴力に対して抵抗しない人間はその暴力を認めており、彼らが信じる九条の暴力絶対反対の精神に反する。彼らの信じる九条と現実の九条が違う。間違った理屈を盲

法に反しなければ何をやっても良いという誤解

 法に反しなければ何をしようが自由だという考えの人がいます。しかし、法律は変わるものです。例えば飲酒運転は1970年より前は罰則がありませんでした。飲酒運転はやめた方がいいという世論があったから法律が改正されたのです。この今でも続く世論に対して飲酒運転の自由を弾圧する恐るべきキャンセルカルチャーだなどという人間が誰かいるでしょうか?  社会には違法では無くても脱法状態の問題はいくらでもあるものです。それに対する批判をやれ言論の自由に対する弾圧だとかキャンセルカルチャーだなどと言う方こそ自由な批判を阻害しているのでは無いでしょうか?そもそも批判をされても反論する自由はあるし、実際にキャンセルカルチャー云々という人達が彼らへの批判者をそれはそれは口汚く罵っている様もしばしば目にします。世間から眉をひそめられている者がちょっと苦情を受けただけで言論の自由が侵されたなどと騒ぎ立てるのはどれだけ自分らを被害者に見せたいのかと思わず失笑してしまいます。  立法府では選挙で選ばれた議員が世間の声を聞いて法を改正したり新たに作ったりするのです。2016年に成立したいわゆるヘイトスピーチ解消法も罰則は無く日本人に対するヘイトスピーチは対象外ではあるものの、ヘイトスピーチを許さない世論に押されて成立した法です。それより以前はヘイトスピーチは合法でした。合法だから批判してはいけないなどという乱暴な意見がまかり通れば今でもヘイトスピーチは合法のままだったことでしょう。  このヘイトスピーチ解消法が成立しかけた時も多くの差別主義者どもが表現の自由を守れと言いながら暴れまわっていたのが思い出されます。今後、罰則規定や日本人に対するヘイトも禁じるなどの改正が必要ではありますが、大きな方向性としてヘイトスピーチが表現の自由と認められる日は当面もどっては来ないでしょう。歴史を振り返っても戦後社会の倫理的な浄化はとどまるところを知らず進んでおり、大戦争や大災害で社会基盤が破壊されない限りは、このまま社会のホワイト化は止まらないと思われます。脱法のプロ集団だった暴力団も今や壊滅状態です。昔と比べれば実に素晴らしい時代になりました。法に反していないことはやり放題だという思想は今すぐすてた方が良いでしょう。

戦時のジェンダー論

 当然と言えば当然だが戦時下において平時のジェンダー論や男女平等論は通用しない。侵略され多数の命が失われることが見込まれる際に、将来を担う子供や人間の再生産の律速段階である出産可能な女性は第一の庇護対象であり、その他の人間が敵を食い止めている間に逃げてもらわねばならない。動けぬ高齢者も逃げてもらわねばならぬが、移動にかかるコストから見殺しになることもある。敵を防ぐことに割くリソースが大きすぎて手が回らないからだ。  防御側からみた場合、男は戦い女は逃げるのが基本であり、そこで男が平等を主張して逃亡を図るなど唾棄すべき臆病者との扱いとなる。女性でも戦う人はいるが、それは特殊技能を持つ者か人員が払底した場合だ。戦時には明確な性別による区分が存在する。女性は四の五の言わず前線から離れ後方に逃げるべきだ。  侵略側の視点ではもちろん男女平等など存在しない。抵抗に失敗し男性の大半が死んだ街では強姦と略奪が横行する。侵略者が勝者であることを見せつけて恐怖で支配し、後の入植や同化を見据えたうえで必要な工程だ。非人道的だがそもそも侵略軍に倫理性を期待するほうが間違っている。戦時下においても男女平等や人権が尊重されると信じる輩は無防備都市宣言なる利敵行為をすれば死者が減るなどというが大間違いだ。無抵抗で都市を明け渡せば、無傷で入ってきた侵略軍が元気いっぱいに、市民を見せしめ目的で大量死刑とし残る人間の奴隷化が進むだけだ。徹底抗戦して脱出可能な人間を出来るだけ逃した方が助かる人数も多いだろうし、侵略軍に損耗が多いほうが占領後の組織的虐殺の遂行能力も下がるというものだ。  日頃、やれジェンダーだ男女平等だと言えるのはひとえに平和であるからであり、恐怖と暴力が支配する環境ではなんの意味もない理念だ。だからこそ平和は大切なのであり、平和を守る為のコストを惜しんではならない。財務省にはそれが分かってない。