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下載清風

 下載清風は有名な公案集の碧巌録の中に出てくる言葉です。全ての存在や理は一つに帰するがその一つはどこに帰するのかと修行者から訊かれた趙州禅師が、青州にいた時に七斤(約4.2kg)もある重い上着を作った事があると返答します。いかにも禅問答らしい一見すると意味不明の対話ですが、その解説として、かつて畳み掛けるように質問を受けた趙州だがその上着の重さの意味を知る人は何人いただろう、今やそんな物は西湖に捨ててしまった、荷物を下ろしてしまった後の清々しい風を誰に伝えよう、という歌が加えられています。  また、禅宗の歴史書である五灯会元にも宋代の禅僧の五祖法演の話として次のようなものがあります。五祖法演の師である白雲が道場にいる既に悟った修行者のことを未在(ダメだ)と評します。その理由が分からなかった五祖法演がある日突然、自分の得た悟りにこだわるのを捨てて師と面談したところ、白雲はたいそう喜んだそうです。後に五祖法演はこの時の状態を評して下載清風と言っています。なおこの五祖法演は 法演の四戒 の回にお話したあの法演です。  下載清風は荷物を下ろした身軽になった帆船が風を受け気持ちよく進む様を示しており、思い込みや執着をすてた正見の状態と言えるのかと思います。

浄土真宗の禅!?

 日本仏教の最大宗派である浄土真宗の教義としては自力の行としての禅は否定されています。真宗の教義では、称名念仏も自分が行っている訳ではなく阿弥陀如来の慈悲が届いた結果として自然に溢れるものだと解釈されており、代々それは大事に守られ御仏に感謝がささげられてきました。小生は以前から念仏には六波羅蜜の禅定の効果が期待できるのでは無いかとの説を提唱していましたが、これは他力の念仏を否定するものではなく、念仏により結果として心が落ち着くよねと言っているだけです。  一方で浄土真宗教団の最大宗派である本願寺派、いわゆる西本願寺では近年自力の行を許容するかの様な公式談話もしばしば見られ個人的に注目していました( 「私たちのちかい」闘争  参照)。本日お話しするのは何か新しい発表があったのでは無く、ふと海外の本願寺派のサイトを見ていた時にビックリするような記載があったので、その概要を説明します。  なんと!カナダの浄土真宗本願寺派には瞑想の修行が存在します!もうビックリ仰天です。いやまあ内輪で話し合って新境地を拓くこと自体は否定しませんが、教団の保守派は納得したのでしょうか?詳しい人がいたら御教示ください。以下に浄土真宗本願寺派カナダのサイトに載っていた文章について考察してみます。なお原文はこちらからどうぞ  https://www.bcc.ca/jodoshinshu/meditation.html  まず違和感を覚えたのは、本来は浄土真宗は称名念仏のみであるとしつつも、称名念仏も瞑想であるとされていた事です。念の為にその部分の原文を提示すると" Traditionally, Shin Buddhism has limited its meditation practices to sutra chanting and recitation of the “Nembutsu”; Namo Amida Butsu.   "となっています。これは念仏に瞑想の効果があるとしても、称名念仏が阿弥陀如来の慈悲の発露であり自力で唱えている訳ではないとする真宗の教義に反するかと思います。続いて通常の禅定の説明がありこれ自体は概ね正しいのかと思いますが、瞑想により己の仏性に目覚めるのは明らかに自力の行だと言えます。そういう目的を持って瞑想した時点で阿弥陀様におまかせしていませ

陰謀論者の説得は本来の目的ではない

 新型コロナウイルス感染症の猛威が続くなか、陰謀論者はあいも変わらずコロナはただの風邪だから経済を回すために元通りの生活にしろなどと訳の分からん事を吹聴して回っています。そして、そんな人に乗せられた多くの人が自粛しなくなっているかのように見えますが、陰謀論者にそんな力はありません。  いわゆる自粛をしない人たちの多くは陰謀論者の馬鹿げた理屈を信奉しているからではなく、そうしないと生活が立ち行かないから自粛しないだけです。苦しくても自粛をしている人たちの多くには、ちょっとした口実を与えるだけで自粛を終わらせる事が可能となります。後で問題が起きても責任は陰謀論を説いたおかしな人であり、自分は騙されただけだというロジックが成立するからです。  国民一人ひとりの善意による自粛には限界があります。自分の生活に直接的な危機が迫る時に、自粛を守る事は難しいですし「自粛」の強要も出来ないでしょう。  公益を考えれば行政は国民に厳重な行動制限をさせたり素早くワクチンを普及させたりするべきですが、行政がそのためにしたことと言えば国民の善意に依存した自粛のお願いと一部から「香典のつもりか」と揶揄される程度の微々たる公的資金援助程度です。しかも、まいどまいど中途半端なところで自粛のお願いすらやめてしまうという意味不明の行動を続けています。必要なのは十分な経済的保証と行動制限の命令です。自粛のお願いなどというものは結局の所は厚生行政の責任を国民に丸投げしているだけです。  ですが、諸外国では可能な国家の命令による国民の行動制限も日本国の特殊な法的事情を考えれば難しいかも知れません。結局、自粛をお願いするしか無いのならせめてお金をばらまくべきです。こう言うと債務残高の話をしてくる人がおりますが、いま死ぬかも知れない時に10年後に死ぬかも知れない事を心配するなど愚かな事です。平時ならいざ知らず、茹でガエルの如き危機感のなさだと言わざるを得ません。  こんな状況では陰謀論を吹聴する人はますます勢いづきます。これに対して陰謀論者に議論を挑む人は後を断ちませんが、まあ無駄でしょう。プロの陰謀論者は動画やブログの広告やそれから誘導する書籍や有料記事で生計を立てているのですから、いかなる説得を受けても不安な人たちの心に響くキャッチーなデマを振りまき続けるだけです。  この問題の最大の目的は感染のコントロー

どうしようもないことは

 どうしようもないことは、どうしようもないので考えても無駄であり他の事をした方がいい。問題はどうしようもないという判断が正しいのか誤っているのかを人は容易に分からない方だ。一見どうしようもないけど何か工夫したらどうにかなるのではないかと思うから迷うのだ。はじめから絶対に無理だとわかっている事を人は試さない。宝くじを買う人はもしかしたら当たるかも知れないと思って買うのだ。可能性がゼロなものと限りなくゼロに近いものの間に日常生活レベルでは差は無いはずなのだが、そこに大きな差を見出してしまうのが人間の愚かさであり同時に美しさでもありまた恐ろしさでもある。  我が子を生き返らせようと誰も死者が出ていない家のケシの実を探し回ったゴータミーも、そんな物は存在しないと途中で気がついたから良かったものの、迷いが深ければ死ぬまで探し続けたかも知れない。  諦めずに切り開く道もあれば、諦めることで見つかる道もある。どちらが正しいのかは両方を同時に試せないので永遠に分からないけど、人生は短い、時間は大切に。

法華経と維摩経と勝鬘経

 日本仏教の祖というべき聖徳太子は救世観音菩薩の化身としても信仰をされており、没後1400年にあたる今月は多くの寺院で法要が営まれました。法華経と維摩経と勝鬘経はそんな聖徳太子が注釈をつけ重要視した経典です。この三経典には日本仏教の精神の核が内包されています。  まず、維摩経ですが、在家信者の維摩詰居士が主に文殊菩薩との議論を通じて教えを説く形となっています。言語的な対立的概念への執着を離れれば、在家の日常生活の中にも仏道修行の完成をみることが出来る事を示しており、在家主義を強調した作りとなっています。  勝鬘経は在家信者で王妃の勝鬘夫人が誓いを立て教えを説きお釈迦様が追認する形式であり、全ての人が仏となりうる事を説く如来蔵思想の経典です。  有名な法華経はお釈迦様の教説とされ、様々に見える仏の教えも一つであることと仏の永続性を説く経典です。  三つをまとめると在家を差別せず、女性を差別せず、方法論が違って見える考えも皆が仏になるという一つの目的に統合しており、聖徳太子の和を以て貴しとなすの思想と調和しています。  聖徳太子はこうした仏典を推古天皇にも講義されており政治にも影響を与え、また社会福祉にも尽力されました。皆が平等に助け合う日本的な精神というものは聖徳太子の導きによるものとも言えるでしょう。  こうした偉大な先人に感謝の誠をささげてまいりたいものです。

仏炎苞

 サトイモ科の植物の大きな苞の事を仏炎苞と言います。アンスリウムや水芭蕉の花で見られるアレです。色や形から炎の様に見えるものもありますが、宝珠形や舟形の光背のように見えるものなど様々です。またサトイモ科以外でも極楽鳥花の胴の部分も仏炎苞と言われる場合があります。  さて炎の光背というと不動明王が真っ先に思い浮かぶように明王の光背として有名ですが、明王以外でも馬頭観音や蔵王権現や迦楼羅王の光背などに炎があります。しかし、水芭蕉の花の仏炎苞は舟形光背の様に見え、どちらかと言うと如来の光背を想起させます。  通常は如来像の光背が火焔様であることは無いですが、阿弥陀如来の別名の一つには光炎王仏であり、その光は煩悩を焼く炎でもあるのです。なので仏炎苞という名称でもまあいいのかなと思います。  今年はコロナ禍での移動制限で水芭蕉を見に行くのも難しいでしょうが、仏の炎は皆に届くよう祈ります。

日本人と道

 日本人は道が好きだ。道路ではなく伝統的な心と技としての道だ。道の名前がつくだけでその技術は引き締まって見える。例えば剣道ではなく剣術と言うと、精神性が無いなにか薄っぺらい技術のように感じてしまう。剣道は精神性があるから剣道であって単なるスポーツではない。楠正位も「剣道は武士道を実行する為に修行するのだ。武士道を離れた技術だけなら虎狼の如きである。」と言っていた。相撲だってその精神性を強調する時は相撲道と呼称されることがあるし、柔道は柔術からの派生ではあるが道の名を冠した柔道の方が日本人には広まった。道の名は日本人の心を打つ何かがある。それゆえに日本には様々な道が作られ、ラーメン道とか野球道とかまであり、何かの技術を伝承するにあたり精神性を重視する場合に道の名がつけれる。茶道や香道も技術の習得だけでなく、お茶を点てたり香りを聞く作法にのせて先人の心や思想を継ぐことに重きが置かれている。どんなに良いお茶を点てても客をぞんざいに扱うような行為は茶道では無く、茶道が単にお茶を点てる伝統技術ではないのは明白だ。  仏教もその教えを実践する場合は仏道と言われる事が多い。仏教は宗教であるから精神性が重視されるのは当然と言えば当然なのだが、その教義をどんなに深く理解していても、盗みや殺人に明け暮れるような生活を送っている者は仏道に励んでいるとは言えない。学術的な理解だけでは道では無い、行為を伴ってこそ道となる。これは他の道でも同じで、精神性がバッチリでも美味しいラーメンが作れないとラーメン道としては意味が無い。技術や修行や実践がその精神に一致して不可分の状態でないと道にはならない。  仏教だって四無量心を取り除けば容易に虚無主義に堕する。技術のみの瞑想は仏道ではない。

つながらない権利

 つながらない権利とは勤務時間外の職場からの電話対応などを断る権利のことだ。医師と僧侶と軍人には縁遠い権利でありうらやましい限りだ。しかし、これはなるべく多くの職種で守って欲しい。  考えても見てほしい、24時間365日プライベートの時間が無い状況を。常に電話がなることを想定して行動するのはかなりのストレスだ。疲弊を防ぐために当番制にしても、そもそも部署の人数が少なければ人数分の1日は、例えば3人なら3日に1回、24時間連続で仕事をすることとなり、しかも当直ではないから翌日も連結で仕事となる。労基的には問題だろうが大体の企業では超勤も出ていないだろう。しかも、当番制になっていても結局なんだかんだと言って電話は非番の人間にもかかってくるのだ。さらに災害時に連絡がつくようにとの口実で個人のスマホにトラッキングアプリを仕込む企業もある。日常の全てを監視され支配されサービス労働をさせられる会社に勤務しつつのおだやかな日常生活なんて夢のまた夢だ。  ほぼ全ての時間を費やして働くがゆえに家庭にいる時間は少なく、家族からは他人扱いされる。そもそも家庭を築くことから不可能である場合も多く、もはや労働マシーンだ。しかも、給与は安い。これでは過労死や少子化やうつ病が増えても当然と言える。  こうした労働者の権利をしっかり守る企業にはきっといい人材が集まり収益を上げることだろう。まるで奴隷のような状態の労働者から吸い上げたお金を経営陣がひたすら溜め込むだけでは、いずれ大きな衝突が起きる。経営者は足るを知るべきだと思う。

宮型霊柩車

 日本ではすっかり見かけることが減った宮型霊柩車だが、東南アジアやモンゴルなど他の仏教国へ輸出されている例もある。東南アジアの上座部仏教もモンゴルのチベット密教も日本とは寺の形が違うはずだがちゃんと仏教の車両として認識されているのは興味深い。  日本で宮型霊柩車の利用が減った原因は、目立たない様にしたいとの消費者側のニーズの低下が原因とも言われているが他にも要因はありそうだ。小生が子供の頃は霊柩車を見たら親指を隠さないと呪われるというような迷信がまだあった時代で、葬式も自宅で行うのが普通だったし、今の日本人の大半は病院で死ぬが昔は自宅で死ぬ人の方が多かった。  つまり、今の霊柩車は病院から斎場そして火葬場へのご遺体の輸送が主任務だが、ド派手な宮型霊柩車の主な役割は葬儀後に故人が住み慣れた家を離れ冥土への旅に出るのを隣近所の人から見守られながら盛大に葬送することであり、そのための特殊車両であったとも言える。要は時代とともに活躍の場が減ってきたのだ。今後、自宅でのお看取りは増えると思われるが、隣近所の人が寄り集まって自宅で葬儀を行う風習はもう戻ってこないだろうから、宮型霊柩車が再び増える事も無いかと思う。  また、宮型霊柩車は維持費がかなりかかるようで、企業側としても少ない需要に対して多くの特殊車両を保持し続けるのは難しいのだろう。  最近ではミャンマーの軍事政権に殺害された市民の葬列の報道でも宮型霊柩車を見かけた。やはり宮型霊柩車の役割は国が変わってもご遺体の輸送ではなく葬送の儀式なのだろう。

ジンクス

 黒猫が目の前を横切ったり、鏡が割れたり、ハシゴの下を通ったりすると悪い事が起きるという迷信があり、こうした実際には因果関係が無いのに何々をすれば悪いことが起きると言う形式の迷信をジンクスと呼びます。  しかし黒猫はともかく、割れた鏡で怪我をするかもしれないのは危険だし、上から何かが落ちてくるかも知れないハシゴの下を通るのも危険があります。ジンクスでは鏡が割れたりハシゴの下を通ると全く無関係な局面で悪いことがあると言っているのですが、その不幸の元となる行為には何らかの危険性があるものも少なくはありません。  また、全く関係ないのに多くの人が信じるから効力を発揮するジンクスもあります。日本だと仏滅や友引で有名な六曜がそれにあたります。多くの仏教宗派では六曜による吉凶判断を否定していますが、実際にはお葬式の日程を友引から外して設定したり、祝い事の日は仏滅や赤口を外して大安を選んだりします。これは喪主などが実際に気にしていると言うよりも訪れる人達に気にする人がいたらとの配慮からなされるのでしょう。しかし、実際のところ葬儀にお参りする人たちの大多数もあまり六曜は気にしていないと思われます。実際に効力を発揮しないとわかっているジンクスでも風習として皆が従うのなら、少なくとも表面上はジンクスが実際に効力をもったのと変わりありません。しかし、こうしたジンクスは他者への思いやりの表れともみることができますので、一概に悪いのかどうかは個々の判断によるかと思います。  投資においてもテクニカル分析と呼ばれる考え方では、企業の実際の状態よりも値段の推移を見て売り買いされます。統計的に分析されたこれらの予測は当たることも多いのですが、実のところ多くの参加者がそのようになると信じて売り買いするから、実際に予測通りに値が動くという側面もあります。こうした例もジンクスが実現している例とも言えます。  一見すると無意味な迷信やジンクスも、それを信じる人が多い社会では一定の効果を持つことがあるので文化の異なる土地に行くときには注意が必要です。また、忌み言葉などのジンクスは迷信というよりは礼儀となっている事もあり配慮が必要です。難しいですね。

冷戦

 米中による新冷戦体制化も懸念される昨今だが、米ソ冷戦とはまた違う物になりそうではある。しかし、冷戦を体験として知らない人も多くなった昨今ちょっと昔語りをして考えをまとめてみたい。  以下、主観に基づく話だが、まず、米ソの全面核戦争による世界滅亡のシナリオは可能性として十分ありうる話だった。それを防ぐためのホットラインや相互確証破壊ではあるのだが、当時の人はもしかしたらいま世界が終わるかも知れないという考えを心の隅にもちながら生きていた。では四六時中緊張した生活だったかというとそうでもなかった。長期化する緊張や災害や戦争などの中にあっては非常時の中でも日常が形成されるものだ。ただ、今の世の中よりも人は刹那的であったようにも思える。明日生きてる保証が無いのだから当然と言えば当然だが、明日生きている保証が無いのは実は現代でも同じことなのにそれに気づかない人が多い。  また、ソ連など東側社会の詳しい情報は一般人にはほとんど入手出来なかった。恐らく東側からみた西側の情報も同様だっただろう。双方が相手のことを恐怖を振りまく悪の帝国としてみる一方で、両陣営の反体制派は相手の国を理想郷だと夢想したりもする。現代においても情報の入手が比較的困難な北朝鮮を実はこの世の楽園だと盲信する人たちが一定数いるのと同じことだ。よくわからかい相手には自分の恐れや希望を投影しがちになるのだろう。  さて、来たるべきなのか来ずに終わるのか分からないが、米中の新冷戦はどんなものになるだろうか?旧冷戦時代の頃と比べて現代では相手国の全てを核で焼き払うという行為へのハードルは著しく上がっている。可能性としてゼロでは無くても昔ほどの緊張感が人々の心に生まれるかは疑問だ。また科学技術の発達により、情報の遮断も昔と比べてはるかに不完全なものにならざるを得ないだろう。技術大国にして独裁国という情報遮断には理想的である中国が封じ込めようとしてもウイグルの情報がチラホラと漏れ出るのをみるに完全な情報統制は不可能では無いかと思われる。よって以前ほどの分断が米中両陣営間に成立する可能性は低い。台湾などで武力衝突が起きる可能性もあるが、それがすぐに両陣営の同盟国を巻き込んだ世界戦争に発展するかは疑問だ。米中冷戦は、主に経済戦争となり軍事力の行使はあっても局地的なものにとどまる可能性が高いのではと思う。  冷戦は嫌なことでは

あと一歩のところで

 ここまで来たらもう目標を達成したも同然と確信するような「あと一歩のところ」は実は結構あやういものです。まだ達成していないにも関わらず、その目標が既にかなったものとして楽しい未来を色々と思い描いてしまいます。それ自体は自然なことなのですが、世の中どうなるかわからないという覚悟も持っていないと、あと一歩のところで失敗したときのショックもひとしおです。  また、達成した目標は過去の実績としては残りますが、達成された事は永続するものではありません。いずれ何らかの形で終わります。死を前にして積み上げてきた過去をしみじみと振り返り思い出にふけるのも楽しそうですが、今達成されたものがずっと続くと思うのは幻想です。  更に、あと一歩だと思っていたのに実はあと千歩だったとか万歩だったとかいうこともしばしばあり、結局の所は目標は達成されるまで慢心してはいけないのです。心を乱さず集中して精進していくしかありません。  日々の細かい目標に関しては達成することもありましょうが、菩薩道の道は遠いので当面達成の目はありません。ただ、大きな目標を据えることで歩むべき道が見えるのであと一歩ではなく、一歩一歩の積み重ねが小さな達成となります。そう考えると今の瞬間をより大切に出来るようになります。

二度目のサフラン革命は起きないのか?

 2007年にミャンマーで起きた軍事政権への抗議デモは、仏僧も多く参加し中心的役割を果たしたことからその僧衣の色になぞらえてサフラン革命とも呼ばれている。日本人ジャーナリストが取材中に軍から射殺された事でも知られている。このデモは軍に鎮圧されるが、この翌年の2008年には新憲法案に対する国民投票が行われ、民主化の呼び水となったとも言える。そして、2011年に民主化を果たしたミャンマーはその10年後の今年2021年にまた、軍事政権化し民主化を求める市民が弾圧、殺害されている。  このサフラン革命の時に散々に弾圧されたせいか、ミャンマーの上座部仏教界からはあまり軍事政権への強い抗議が起きていないようにみえる。ミャンマーの僧の一部はデモに参加したり一定の国軍批判もしているがサフラン革命の時のような大きな動きは無く、中には軍に協力する僧までいる。  仏教で説かれる四無量心は他人に楽を与え、苦を除き、幸福を喜び、相手に対して落ち着いた心を保ち平等に接する心を無量に持つことだ。上座部仏教にもこの概念はあり、上座部仏教であっても僧侶たちが四無量心を発揮する対象は一切衆生でなければいけない。もし、その対象が軍事政権のメンバーのみならば無量心ではない。  今の所は二度目のサフラン革命がおきる雰囲気もなさそうだ。

夢と執着

 仏教では執着は忌避されます。執着があれば中道も空も無いからです。執着を避けるのは正しいのですが、在家の人の日々の生活の中でもつ夢も執着として批判されることがあります。はたして夢と執着は同じものなのでしょうか?  少欲知足は貪りを捨てる基本ですが、例えばスポーツ選手が二位でいいやと言ってしまえばトップを目指す競技の存在意義から怪しくなります。ではスポーツ選手は執着の塊の恥ずべき職業なのでしょうか?    スポーツに限らず、世俗の夢を叶えられる人はごく一握りであり、大多数は失敗します。だから夢を叶えた人は「すごい!」と褒め称えられるのです。夢はまた叶えられた歴史は残っても永続はしません。夢とはなかなかに儚いものなのです。  夢もまた無常なのです。人は夢の儚さを知っているから大事にしていると思えば、執着とはまた別物のように思えます。スポーツ選手は誇っていい仕事だと言えます。  しかし、サッカーのフーリガンなど特定のチームに執着して暴力の限りを尽くすのは夢をチームに託しているとは言えないでしょう。むしろ暴れる口実があれば何でも良さそうにみえます。  スポーツ以外にも、例えば貧乏な幼少期を送った人がお金持ちになる夢をもっていたとして、それはすぐに貪りになるのかと言えばそうでもありません。正当な手段でまっとうにお金を稼ぐのならとやかく言う必要はありません。苦労を積んだ人間なら稼いだお金を世のため人のため正しく使ってくれるかも知れません。個人レベルではもちろん社会全体がひもじい思いをせずに生きていけるのは良いことです。ひもじかったり困窮した状態でも善い心を保つのは偉いことですが、皆が豊かであればそっちの方がいいに決まっています。  学問や技術の探求への夢も素晴らしいことです。ただ、悪用が可能な高度な知識や強い力には高い倫理性が要求されるのを忘れてはいけません。夢に執着することによって悪事に手を染めることがあってはなりません。  また、夢を目標だと解釈すれば菩薩の夢は一切衆生の成仏です。とっても夢がある話ですね。

ヴァッカリ

 雑阿含経にヴァッカリという僧の話があります。重い病の床に伏した僧のヴァッカリがお釈迦様に使いをやって会いに来てもらいます。やって来たお釈迦様がヴァッカリに何か心配事があるのか尋ねると、教義上の心配ではなく自分の体が弱りお釈迦様にお目通りが出来なくなったのが気になっていたのだと答えます。お釈迦様は自分の体なんかみても何にもならない、この世の全ては無常であり、仏法をみることとお釈迦様をみることは同じであると諭します。お釈迦様の肉体が仏なわけではないのです。仏法は悟りをひらいた仏の智慧を説いたものだから、法をみる者は仏をみることとなり、仏をみる者は法をみることになるのです。  我々はヴァッカリのように肉体を持ったお釈迦様を自分のところへ呼び寄せることは出来ませんが、お釈迦様の死後2500年以上の時を超えても仏の教えを聞く機会に恵まれており、法をみる者は仏をみるのだから今ここにお釈迦様をみることができるのです。仏様はいつも私達とともにあるのです。そうして仏様をみる人は、不完全ではあっても仏様ならどうするかを考えて行動できるようになり、その智慧である法をみることも出来るのです。

煽られても乗らない

 近年では煽るという言葉が挑発すると似たような意味合いで使われる事も増えています。挑発はする方が悪いのですが、挑発に乗って暴力沙汰を起こしたとすれば挑発に乗った方が悪いのも自明です。煽り=挑発はロクなものではありません。  だから、どんな事情があってもまず挑発をしてはいけず、相手が挑発されたと思わないような落ち着いた言葉を保たねばなりません。次に挑発を受けても言葉と行動を慎まなくてはなりません。内心に怒りが無ければ容易い事ですが、怒りが生じても言葉と行動でそれを表現してはなりません。言葉と行動が加われば怒りもまた増大するからです。  完全にこれらを守れなくても注意しているだけで減らす事は出来ます。自分の心や言葉や行いに注意を向ける正念は冷静さを取り戻すのに役に立つものです。  煽りというと自動車の運転中のそれも社会問題となっています。理不尽な煽り方をされたからといって煽り返したり急ブレーキを踏めば更に双方の行動がエスカレートされるし、そもそも危険運転は犯罪です。忍辱の心が肝要でしょう。ただ、こちらが煽り返さなくても粘着される場合もあり、そうした時はどうにかして身を守り警察に通報するしかありません。  しかし、煽り運転は近年話題になっているものの、実は昔からあり体感的にはむしろ昔の方がひどかった印象すらあります。ドライブレコーダーの登場や法の厳罰化の他にインターネットによる情報拡散力も抑止力となっているのかも知れません。世の中が少しずつでも良い方向に行っているのは嬉しいことですが、抑止力となりうるネットの情報拡散力は煽り行為にも利用できるので、やはり最後は人の心を大切にせねばならないのだと思います。

不増不減経

 不増不減経は如来蔵系の経典に分類される短いお経です。お経の内容は、お釈迦様の一番弟子である舎利弗がお釈迦様に、全てが苦しみの状態であり輪廻を繰り返す衆生は増えたり減ったりするのかを尋ねて、これにお釈迦様が答える形式となっています。その答えをものすごく端折ると、衆生も菩薩も如来も同じ法身の違う状態であるとして、衆生界と法身に違いはなく増えも減りもしないと説きます。法身が一切の煩悩から解放されれば如来であり、法身にまとわりつく煩悩を除くべく修行している状態が菩薩であり、法身が煩悩によって遮られている状態が衆生となります。衆生界において煩悩と法身は共存しているけど一体化することはなく、煩悩を払えば如来の本体である法身があり、究極的存在である法身は増えも減りもしないという理屈です。  こうした如来蔵思想は、この世に成仏できない生物はいないという考えであり、一切の衆生を成仏させるという使命を持った菩薩の修行の根拠ともなっています。一方で、衆生界が既に法身であるならば修行は不要であるとの曲解を生み出しやすいお経でもあります。衆生は法身が煩悩に覆われているのですから、それを払うのは前提なのですが困ったものです。修行を全否定する浄土真宗においては、自分が煩悩の塊であることを徹底的に知ることが前提となっており、その結果として自発的におきる善行などの傍から見たら修行のように見える行為も弥陀の本願力の発露であるとの信仰ですので、修行は否定していても問題ありません。  ただ、こうしたお前はもう救われている系の教えに慚愧や感謝が伴わなければ、単なる慢心に堕するということは留意しておく必要があるでしょう。

磨鏡のたとえ

 四十二章経の第十一章に磨鏡のたとえというものがあります。それによると、悟りには形が無いので知ることは出来ないが、鏡についた汚れを落とせばはっきりと物が映るように、自分の欲や執着を除く修行をしていけば、悟りの境地が見えるであろうと説かれています。  悟りという結果を形として追い求めていては悟りに対する執着となり悟ることが出来ないというロジックです。執着せずに、善いことをして悪いことをせず、心を集中していれば、自ずと正しく物事を観ることができるようになるのでしょう。  修行を続けることと悟りを同一とみなすのは道元禅師の修証一等などの考えにも通じます。どんなに高い志も一歩一歩の積み重ねで到達するもので、道は日々の生活の中にあるのです。

環境と善人

 南伝のパーリ語仏典中部の鋸喩経の中にこんな話があります。あるところに親切でしとやかで謙遜だと評判の裕福な女主人がいました。その使用人の一人が、この女主人は本当に評判通りの人なのか環境によるものなのかを試そうと思いわざと女主人を怒らせるように遅刻をし、それを咎められるとそんなことで怒るものではないと言って挑発しました。使用人は次の日も遅刻したところ、女主人は使用人に対して怒り棒で殴りつけたので、良い評判を失ったというものです。  この話は快適な環境にいる時だけ親切で評判の良い行為が出来るのは真にいい人とは言えず、逆境にあるときにも心静かにして善い行いを出来る人がよい人であると説くための寓話です。しかし、この話にそのままそうだそうだと言って同意していいのかには疑問もあります。  確かに使用人を殴りつけた女主人は褒められたものではないでしょうが、そもそも相手を試そうとして他人に嫌な行為をする使用人も随分とひどい人間のように思えます。主人も使用人もお互いが相手を思いやり良い環境を維持できていれば、皆で善行に励めていたはずです。逆境にあっても親切で善行に励める人がすごく立派なだけで、世間一般には良い環境にあっても貪り怒るばかりの煩悩が盛んな人が大半であるのだから、良い環境の時だけ善いことを出来る人も十分に立派です。  良い環境にあっても他人に親切にできる人は少ないとはいえ、人は逆境にいるよりも豊かな環境にあり余裕を持っている方が他人に親切に出来るものです。だから、社会全体が豊かで悩みの少ない環境にあることは、善い行いをする人々が増えることにもつながります。思い通りにならないこの世にあって、逆境でも善行を続けられるように教えを説くのは重要なことです。しかし、良い環境を作り保つための努力もまた疎かにしてはいけないことだと言えるでしょう。  だから、人の善さを試すためにわざとブラック企業を増やしてはいけませんし、快適な社会を目指すのは何も悪いことではないのです。

いいニュースとわるいニュースの判断と中道

 世間に流れる報道やニュースは一般化すると事件や事故や天災や訃報などの凶事や、スポーツや競争ごとの勝敗など見る人によっていいことにもわるいことにもなるものや、科学技術の進歩など人の役に立つよいしらせなど様々な物があります。しかし良い悪いの判断は最終的にはニュースを受け取る個々人の価値観により絶対的なものではありません。  仏教では中道的なものの見方を重んじますが、それが単に世間に溢れる意見の中間をとるものと勘違いすれば恐ろしい過ちを犯しかねません。中道はあくまでも道理に照らして判断されるもので、世論に左右されるものでは無いからです。  世論はしばしば極端に傾く拠り所が無いものです。その平均値が中道になるのではありません。例えば民族差別が加熱している国で特定の民族を全て強制収容しようという意見と皆殺しにしようという意見が拮抗していた場合に中間をとって半数を殺す事は中道ではありません。最初から差別しないのが中道です。  仏教者たるもの法灯明、自灯明の精神を忘れないようにしたいものです。

想像力

 たとえば高性能な製品がとても安価で売られていたとする。多くの人がとてもラッキーだと思うだろう。しかし、なぜそんなに安いのかについて少し考えてみた方が良いかもしれない。  そんな不自然に安価な商品の裏に、製造や販売で労働基準法を無視した低賃金で働かされている人はいないだろうか?また材料の輸入に際しても、その材料への対価は適切に生産者に払われているのだろうか?奴隷労働や虐殺による収奪の結果として得られた材料ではないだろうか?  そうした不正は行っていないのであれば企業はちゃんとした説明をする義務がある。少なくとも株式会社が株主からそういう疑念をつきつけられたのなら答えるのが資本主義的にも正しい。隠蔽して開き直ったり、話のすり替えを行う経営者は批判を免れえぬだろう。  また、消費者側も想像力を働かせるべきだ、値段が安いからと買ったその商品により、悪逆な企業が儲けてさらなる悪事を働く恐れがある。知らない内に暴力や殺人に加担してしまう恐れもあるからだ。  良い経済活動は人がお互いに貧困や飢えから守られて、人々の幸せに寄与できる。自分が品物を買うことで人が殺される恐れが強い商品はどんなに高性能で安価でも買ってはならない。

SDGsは単なる理想論では無い

 SDGsは2015年に国連で採決された2030年に向けた持続可能な開発目標の事で、環境や人権に留意し貧困防ぎ保健福祉を推進し持続可能な成長を目指すものです。  SDGsは自由と民主主義の恩恵を受けるリベラル層の理想を結実させたような正論であり、一部には非現実的な理想論だとかの批判も見られます。  しかし、少なくとも自由主義諸国においてこのSDGsを無視した経済活動は理想に反するからのみならず実利の面でも有害だと言えます。  そもそも、SDGsが果たして本当にリベラルの夢が詰まった単なる理想論かと言うと怪しいものです。発展途上国が国内の人権を強力に規制したり環境を破壊することでも利潤あげている現状に対して、人権・環境意識が比較的発達している欧米先進各国がまったをかけるための圧力として利用されている向きもあります。もちろん人権意識や環境保護の精神があまねく世界に広がる分には何も問題は無いのですが、こうした理想を遵守した場合に既に経済や学問の素地が整っている先進国に対し発展途上国が短期的に勝つのは困難なのも現実であり、結果として欧米が政治的に優位な立場を保てます。  さて、SDGsには理想論以外にも欧米の権益を守る側面もあるとなると、SDGsを守らない企業や国は欧米の経済的な仲間から外されることを覚悟しなければなりません。地球環境に優しくなかったり人権を蹂躙して利益を貪る企業や国は相応の損失を被ることになります。  しかし、そういう側面があったとしても人権が守られる世界になるのは良いことです。SDGsを守らないブラックな企業の従業員に好んでなりたがる人はおらず、SDGsを守らない国の国民は亡命や移民をする人が多いのです。  残念な事に、このところ日本の企業や国のエライ人がSDGsの理念を無視した発言をして問題となることが多いですが、国民や従業員にも被害が及ぶので謹んでもらいたいところです。2020年のSDGs達成度ランキングで日本は17位と世界水準からするとマシな部類には入るものの、日本にも外国人技能実習生制度という極悪な奴隷貿易システムがあり、大学入試や給与面で著しい男女差別が横行しており油断は出来ません。なお、ランキング16位以上は全て欧州の国かイギリス連邦所属の国で要は白人国家です。  なにはともあれ、個人的にはSDGs達成のための努力はするべきだと思いますし、S

花まつり

 今日はお釈迦様の誕生日とされる花まつりこと灌仏会です。去年の花まつりと同じくまだまだコロナ禍が続いており各地の花まつりも縮小規模にあるかと思います。  縮小規模とは言っても、キリストの誕生日であるクリスマスに比べると元から大変慎まやかなお祝いです。  仏教の教義的に考えてお釈迦様の誕生日を酒宴を開いて飲めや歌えやの大騒ぎをするのも似つかわしく無く、ケーキもツリーもプレゼントもありません。甘茶と花と誕生佛と優しい目の白象が文化的にはあっているのかと思います。もっともキリスト教も篤信者は平均的日本人ののクリスマスのように羽目をはずしたりしませんけどね。  とは言え、子供へのプレゼントはあっても良いのかなとは思います。物で釣っているのではなく布施の精神を伝えていると思えば良いのです。お釈迦様の誕生日に楽しい思い出がある子どもは自然と仏法に接する機会も増えることでしょう。  メリー花まつり!

分別と言葉

 仏教は分別を嫌います。有無、生滅、増減などの対立する二つの概念は人の分別や偏見から生じたものと考えられており、言葉で説明されたすべての物事はありのままではなく、語った人の認識に歪められているのです。  例えば、赤い花という言葉を聞けば赤い花びらを持つ花を想像するでしょうが、実際の赤い花の花びらにはグラデーションがあり、模様や花脈まで赤いとは限りません。花びらの形や葉や茎などの状態も赤い花という言葉だけでは伝わって来ませんから、この言葉を聞いた各自のイメージする赤い花がそれぞれあることになり、しかもその頭に思い浮かべた花は世界のどこにも実在しません。実在する赤い花も次の瞬間には色や形や艶や張りなどが変わっていきます。物事は言語に落とし込んだ時点で、どんなに巧みな言葉をつかったところで実在しないものとなります。  しかし、言葉で表現されたものがあまりにも不安定だと日常生活に多大な支障を来します。だから、日頃はあまり気にしないで済むように社会的な共通認識の範囲内で言葉は使われ利便性をもたらすとともに、詩人や詐欺師の腕のみせどころにもなります。また、曖昧では困る数学や論理学や科学などの分野では誤解が無いように使用する言葉や概念の定義付けがなされるのです。こうした日常にどっぷり浸かっていると、言葉が人の偏見を強化する力や物事の儚さを忘れがちになります。  言葉の暗示力は強力です。例えば、誰かを友達というカテゴリーに分類するか、敵というカテゴリーに分類するかによって、その誰かと自分の移ろいゆく本質を無視した強制力が発揮されてしまいます。呪いのようなものです。逆にすべての人を軽んじなかった常不軽菩薩が会う全ての人にあえて言葉でそう伝えたのは、言葉により実態を良い方向へ変えようとしたのかも知れません。言葉の力とは恐ろしいものです。しかし、人間は言葉を使わずに社会生活を送ることは困難ですから、なるべく良い言葉を使い悪い言葉は使わない方が良いでしょう。仏教で説かれる十悪のうち四つまでが言葉に関するものであるのは、先人の言葉に対する警戒心の表れでしょう。  言葉は容易に認識を歪ませ、怒りや貪りを煽り偏見を生んで殺生や盗みや邪淫など他の悪の原因ともなります。また逆に他の悪がより悪い言葉を使わせて、その言葉により更に他の悪も激しくなるという悪のデフレスパイラルが起きるのです。この悪循環を断

妄念はもとより凡夫の地体なり

 妄念はもとより凡夫の地体なり、とは源信和尚のものと伝わる横川法語の一文です。人間とは迷いや煩悩から離れられないという意味です。  世の中、恥ずかしいことも失敗することもいくらでもあります。人間なので仕方ないのです。人が悔いたり恥じたりするのは正しく物を見られず執着があるからです。中には何をやっても悔いたり恥じたりしていないようにみえる人もたまにいます。しかし、そのほとんどは人格者ではなく無法者です。  自分の至らない点に気づくだけでも立派なのです。もっと自信をもって失敗しましょう。人倫に反しない範囲内でやりたいことがあるのなら、とりあえずやってみればいいのです。実生活で経験しないと自分の迷いや煩悩も見えてきません。  妄念を恐れて何もしないのなら何もしないうちに一生はあっという間に終わります。妄念を滅ぼしてからでないと何も出来ないのなら世界中の人は何もすることが出来ず人類は滅びます。妄念を気にしすぎても気にしなさ過ぎても上手くは生きません。中道の精神で参りましょう。

茶道の四諦

 仏教の四諦と言えば苦集滅道の四つですが、仏教の影響を大きく受けた茶道にも茶道の四諦とされる言葉があります。有名な和敬清寂です。  この和敬清寂という言葉はわび茶の祖とも伝わる村田珠光のものとする説もあります。村田珠光は浄土宗の僧でもあり、珠光の名は観無量寿経の文言からつけられました。  和敬清寂の和は調和です。1400年遠忌を迎えた日本仏教の祖である聖徳太子も十七条憲法の筆頭に据えた和です。敬は相手を敬い自分を慎むことです。清は心を清く保つことです。寂は安らぎの状態です。  お茶席では主人も客も調和して、お互いを敬い慎みあい、心を清くして、お茶を楽しみ安らぐのです。  お茶席だけでなく、日常の生活でも和敬清寂の心をもってすごせば安穏でいられることでしょう。

コロナの風評被害と幻想論

 新型コロナウイルスによる風評被害は恐ろしいもので、地域によっては感染した一家がご近所さんから嫌がらせを受け引っ越しを余儀なくされるような例も散見されます。感染後も死なずに治癒したのならまずはおめでたいことで歓迎すればよいのだし、そもそも未だ発症していない人よりは免疫が出来ている可能性が強く、そういう人が地域にいてくれた方が感染防御としては良いはずなのですが、地域ぐるみでいじめるのです。いじめる側の理屈としては、みんなが感染防御に気をつけているさなか、例えば感染者一家に帰省した家族がいるとか飲み会にいったとかいうことを糾弾して地域を感染拡大の危険にさらした懲罰としていじめて見せしめとすることで、他の人の逸脱行為を防ごうとする意図があるのでしょう。しかし、こうした行為は倫理的にも感染防御の意味でも間違っています。  倫理的な誤ちは他人に暴言・暴力を振るう時点で明らかですが、感染防御上も不利益であるとは次の理由によります。まず、感染は誰かからはうつされた訳です。全く人との接触を絶っている訳では無い以上は仕方がないことです。そのうつした誰かはまた別の誰かにうつされた訳で、ずっとそのリンクをたどっていけばどこかに好ましからざる行為をした人がいることもあるでしょう。では、そういう人を見つけ出して地域社会が徹底的にリンチすればどうなるか?好ましからざる行為をする人は減るかもしれませんが、それによりリンチを恐れて、感染した時にその経路に思い当たる事があっても報告しないようになる人が多くなるのは自明でしょう。日々発表されている感染経路不明者数の中には本当にわからない人のほか、わからない事にしている人も多いと思われます。実際に、特殊性癖のある人達の会員制クラブでクラスターが出たときなど、はじめに見つかった感染者はそこに行ったことは隠蔽しようとしたそうです。それによりリンクの追跡が遅れた事は社会全体に脅威となりました。直接関与してなくても知人や友人にどういう裏があるかわからないのですから、迷惑がかからないように黙っている人も出てきます。リンチをすることによりその恐怖から感染者がいつどこで誰とあったのかを報告しないようになったら結果として感染はより広がります。感染者の行動に問題がない場合はもちろんあっても責めてはならないのです。倫理的にも実利的にもです。  この他にも問題があります。よく

仏教と理念と生存者バイアス

 生存者バイアスとは生存者のみをサンプルとしてしまってそうでないサンプルを無視することによって生じるバイアスです。例えば、第2次世界大戦中に帰還したアメリカ軍機の被弾箇所を調べて多く被弾している箇所の防御能力をあげようとする意見が出たことがありますが、これに対してハンガリー出身の統計学者エイブラハム・ウォールドは帰還した航空機の被弾箇所は被弾しても帰還できた部位であり、帰還し得なかった航空機は帰還した航空機が被弾していない箇所に損害を受けているとしてその部分の装甲増強を提案しました。またSNSなどで、世の成功者たちは自分が如何に単純なことをして成功したかを自慢気に語り凡人はなぜそれをしないのかと嘆きますが、実は同じことをして失敗した人の方が遥かに多く、成功者のみをサンプルとして抽出しても意味があるとは言えません。成功者と同じ事をしたところで、みんなが成功できることなどありえないのですが、今日も騙される人があとを絶ちません。しかし、これは決して他人事ではなく仏教でも同様の誤謬が起き得るのです。  何らかの宗教や理念を信じる人間は、この事を忘れてはいけません。なにかの理想を信じる事自体は悪くないのですが、それが万人に通用するわけではないのです。自分や仲間にとって救いとなった教えでも、それが役に立たない人だっています。仏教に多種多様な教えがある理由を説明するのに、歴史学的に見れば分派の連続により形成されたのでしょうが、宗教的にはお釈迦様が説法する人に合った教えを説いたので多種多様になったとする対機説法の話があります。仏教の基本構成を守りつついろんな文化や風土に合うように進化してきたのが仏教の歴史とも言えます。  しかし、対機説法があるから仏教はあらゆる局面で人を救うのかというとそんな事はありません。仏教の根幹でもある諸行無常や諸法無我も、これを否定する思想というものは当然あるわけです。少なくともキリスト教やイスラム教やユダヤ教では人間の魂は神から与えられた確固たるものだし、神の統べる天国も無常ではありません。自分と仲間たちが救われた教えだから他の全ても救えるとする考えも、救われた人達だけを抽出して出来た生存者バイアスと言えます。SNSのエコーチェンバー現象のようなものです。大乗仏教の仏教者たるもの、仏縁のない人への思いやりも忘れてはなりません。  このように理念や宗教など

円融三諦、この世は空だから世間を見下すという発想は空ではない。

 大乗仏教の根本思想として知られる空は、別に竜樹菩薩が新たに作ったものではなく釈尊の教えの言い換えです。この世の全ては網の目のような縁起の連鎖であり移ろいゆき変わらぬ物も不変の我もありえないのです。だから空をしっかり観ることができれば、自分に執着することも物に執着することもなくなるのです。空の思想も部派仏教の縁起をみて中道を極める考えもその根本において違いはありません。大乗仏教と部派仏教の違いは空の思想の有無ではなくそれを観た上で菩薩という道を選ぶか否かの差でしょう。  しかし残念ながら、執着をすてるはずの空の考えに執着して世間をどうでも良いものと見下し、著しくは人々の生命すらどうでもいいものと軽んじる人もいます。割とありがちな誤ちで時々そういう意見は見聞きします。その大体が不適切な指導での瞑想により個々の偏った内世界を観た人のものですが、そうした人が怪しげな指導者となって誤解を再生産していく場合もあります。  日本には古来より、この世の無常に対して哀れという独特の感傷をもつ文化があり儚く移ろいゆくものを受け入れてきました。こうした風土の影響か先述したような誤った思想は日本ではあまり広がりませんがちらほらとは見かけます。  天台の教えに円融三諦というものがあります。三諦とは、この世の全ては実体を持たない空であるとする空諦、全ての事象は因縁より生じる仮のものであるとする仮諦、それらを前提としてこの世の全てを真実としてありのままにみる中諦、これら三つをさしています。世俗の実生活では主に仮の状態につかっていることになります。それ故に、因縁によってうつろいゆく仮の物を実体がありと捉える偏った状態におちいりがちです。これを是正するために、空と仮と中は不可分であると観る瞑想がありこれを一心三観といいます。こうして三諦は円融するのです。この元ネタは龍樹菩薩の中論で、全ての因縁は空であるから(自性がない)仮のものであり、これが中道であると説かれています。本来はつながっているものの見方が、世間ではバラバラだとされがちなので統合するための瞑想を行う訳です。空も仮も不可分なのですから仮として起きている現象を空の立場から見下すのは理屈的には出来ないのです。なぜそんな誤ちが起きるのかと言うと、空を仮より高次のすごい状態だと優劣をつけて盲信しそれに執着して区別するから物事をありのままに観る中道

廓然無聖

 廓然無聖(かくねんむしょう)は禅宗の祖である達磨大師の言葉です。梁の武帝が自国を訪れたインドの高僧である達磨大師を招いて会談したときの話です。武帝が自慢することには自分は多くの寺を建てお経を写させて僧を育ててきたと言い、この功徳にはどれだけのものになるかと尋ねます。達磨大師は功徳なんて無いと答えます。なぜ無功徳なのかと食い下がる武帝に達磨大師はそんなものは煩悩を増すだけだ等々と功徳なしと畳み掛けます。自分の積み重ねてきた善行に功徳なしとされた武帝は、では仏教の最も大切な真理は何かと尋ねたところ達磨大師は廓然無聖と答えました。この言葉の大意は心が広々としており聖俗の別が無いということです。達磨大師を聖なる高僧として招いた武帝はではあなたは何者なのかと問いただすと達磨大師は知らんと答えたと言われます。  廓然無聖は我執から解放されると見える世界です。武帝のはじめの質問に対する無功徳という答えも、どんな善行も見返りを欲する我執にとらわれていては功徳もないという意味に繋がります。寺を建てお経を写し僧を養う布施行とは他のために財や労を提供することで自分へのこだわりを減じられる良い結果が功徳であり、我欲を満たすための物理的な見返りを期待していては我執に更にとらわれるのみです。最後の達磨大師が何者かとの問いも確固たる我にとらわれていなければ答えようがなくやはり廓然無聖につながった考え方です。  我執を離れ世界をありのままに観れば聖も俗もなく、そして世界を平等に観て慈悲の心を起こすからこそ人は菩薩になりうるのです。こうした境地に到達するのは難しいですが、方向性がわかっていれば近づくことは出来ます。精進してまいりましょう。  しかし、世界が平等でありあらゆる区別がないのならば、殺人も窃盗も邪淫もなんでもOKなどと勘違いする人も多いです。廓然無聖は禅の話ですが、浄土教思想でもどうせ救われるのだから何をしても良いなどと教えを曲解する人は昔からいました。仏教がそんな話なら元から悪いことを禁じる戒など無かったことでしょう。一部分の言葉だけ自分の我執に都合のいいようにつまんできても仏教の思想は理解出来ません。  似たような話は仏教以外にもあり、例えば ヴォルテールのものという嘘が多くの人に信じられている贋作名言に「 私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」