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勝鬘経にみる親切のしかた

 このご時世、困っている人は大変多いです。いま余裕がある人はもちろん、いま困っている人もお互いの助け合いが求められています。今回は、聖徳太子の解説の回でも、紹介した優れた女性の仏教者を描いた勝鬘経から、人を助ける時の心構えを紹介します。  勝鬘経は正式には「勝鬘師子吼一乗大方便方廣経」といい、勝鬘夫人が雄弁に説いた大乗仏教の悟りに導くための広大な教え、という意味です。勝鬘はシリーマーラーと言う人の名前を漢語に訳したもので優れた花飾りという意味です。この物語(お経)の中で、コーサラ国の王女でアヨーディヤー国に王妃として嫁いだ勝鬘夫人(シリーマーラー)が、仏の教えを理解し、お釈迦様から勝鬘夫人が未来に悟りを開いて仏になると予言を受けたあと、十の誓いをたて自らの戒めとしました。今回、ご紹介するのはその七番目です。 世尊  我從今日乃至菩提 不自爲己行四攝法 爲一切衆生故 以不愛染心無厭足心無礙心攝受衆生 現代語訳:お釈迦様、私は今日より悟りをひらくまで、自分のために四攝法を行わず、全ての人のために、執着や飽きや滞りの心を持たずに人々を受け入れ助けます。  この節のなかの四攝法が今回のポイントとなります。四攝法は人々を助け摂めて守る四つの態度、方法の事で、布施、愛語、利行、同事の四つです。仲間をまとめるための方法としても知られます。一つずつ解説していきます。  まず、布施です。物や精神的な施しを相手に与えることです。布施は自分の執着を捨てるための行でもあります。こんなにしてあげたという思い上がりの心があれば布施にはなりません。  次に愛語です。優しい言葉をかける事ですね。もし何かを人に施しても、その際に発せられる言葉が酷いものだったなら上手くいきません。また、優しい言葉を使うことにより、自分の気持も優しくなるものです。心にゆとりが無いときほど優しい言葉を使うようにこころがけましょう。  三つめは利行です。人の為になることを行う事です。物や言葉だけでなく実際の行動も大切です。行動が伴う親切は相手に与える安心感が違います。  四つめは、同事です。平等に事を同じくすることです。お互いに協力して努力することでもあります。助けるだけでもない、助けられるだけでもない、一緒に働くことが良い結果を生むのです。  勝鬘夫人

怨親平等

 怨親平等という言葉があります。過去現在因果経と言う経に怨親悉平等とあるのが由来とされており、要は自分を怨みに思う人も、自分を親しく思う人も、平等に慈悲の心をもつべきであると言う意味です。  日本では武士が活躍した時代にこの精神に基づき敵も味方も分け隔てなく、戦死者を供養するのはよくあることでした。  あなたは、自分を怨みに思う人に慈悲の心を持てるでしょうか?かりに持てたとしてもその慈悲の心は自分に親しくしてくれる人と同等でしょうか?  たとえば教職にある人が、自分を嫌っている生徒と自分を好きな生徒を担当していたとして、それが学校の評価に影響を及ぼすようなことはあってはいけません。嫌っている生徒の評価を不当に低くし、好きな生徒の評価を過剰にする。どちらもいけない事です。  医療従事者でも同じです。日頃からスタッフに暴言をはき暴れる患者様と、いつも穏やかで挨拶やお礼を言ってくれる患者様がいたとして、それを理由に不当な差別をしてはいけません。慈悲の心が肝要です。  分かっていても無意識にそういう差別は起こりえます。だから怨親平等という言葉として意識に刻み、過ちを少なくするのに役立てましょう。  それではまた、合掌。

介護に役立つ仏教の言葉2

布施行  今回の介護に役立つ仏教の言葉は布施です。お布施という言葉は日常的には法事などの対価としてお寺やお坊さんに払うお金のことを意味してますが、布施の本義からすると間違っています。ここでは仏教者の行としての本来の布施のことをお話して参ります。布施の精神を介護にもですが人生に役立ててみましょう。  布施とは困っている人や尊敬すべき人など他の人に何かを施すことを言いますが、同時に自分の執着を捨て去るための行(修行)なのです。布施を行うにあたっては、布施を与える人と、受ける人と、布施される物の三つが清らかである必要があるとされます。これを三輪清浄と呼びます。  清らかであるとはどういうことでしょうか?まず、布施を行う人が布施を施した人に対して、自分はこんな良い施しをしてやったのだからと見返りを求める心を起こしてしまっては清らかとは言えません。むしろ、布施を受けてくれてありがたいという気持ちをもってこそ布施だと言えるのです。  布施を受ける側も清浄でなければなりません。例えばお坊さんが受け取ったお布施が少額だったからと言って、法事や葬儀で手を抜けばそれは清浄ではありません。ただ、このような扱いを受けたからといって布施をした施主が怒っては、布施は何かの対価ではなく執着を捨てる行なので、やはりこれも清浄ではありません。もちろん、今から強盗するから武器を布施するように言ってくるような人の犯罪を幇助してはいけません。  布施される物も清浄でなくてはなりません。布施行を行うために物を盗んでくるような事はあってはなりません。また、布施される物は必ずしもお金や品物である必要もありません。温かいまなざし、和やかな笑顔、優しい言葉、体を動かしたお手伝いやお世話、慈悲の心を持った思いやり、席を譲る、安らげる場所を与える、これらのことは無財の七施と呼ばれる立派な布施なのです。  こうした見返りを求めない布施が人から人へお互いにつながりあっていければ、貪りや怒りが人々から薄れていき世の中は良くなっていくことができます。  さて、こうした布施の精神を介護の現場にいかすにはどうすれば良いでしょうか?必死に介護に務める家族や介護士でも、悲観的になった患者様から否定的な言葉を受け無力感にさいなまれたり、逆に怒ってしまう事もあるでしょう。そうした時に布施の精神を思い出してくださ

介護に役立つ仏教の言葉1

「ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。」(ダンマパダ(法句経)第十七章二二八:岩波文庫「ブッダの真理のことば、感興のことば」中村元:訳)  患者様の家族なども含めた介護を提供する人は様々なストレスに晒されます。その中で思い通りにならずに、あるいは過労からついイライラする事もあるでしょう。その結果、他人に対して当たったり、怒りを表出させなくてもそのような感情を持つ自分に自己嫌悪を抱く事もあるかも知れません。そんな時は冒頭の言葉を思い出してください。この世に完全無欠の人間なんていません。自らの過ちに気づき改善しようとすることが尊いのです。  それではまた、合掌。 「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。」(ダンマパダ(法句経)第五章六三:岩波文庫「ブッダの真理のことば、感興のことば」中村元:訳)