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1月, 2021の投稿を表示しています

キュアグレース

 今回は女児向けアニメの話で恐縮なのだが、話題になっている今期のプリキュアの展開に乗っかって一言。プリキュアとは2004年以来続いている女児向けの戦隊モノのようなアニメシリーズで、時代の流れか近年では多様性と相互理解を訴えかける作品が多かった。別にプリキュアシリーズだけではなく、昨今のアニメなどの子供向け文化はこの考え方が前提として作られている場合が多い。それ自体は悪くはないのだが、いま物語の終盤を迎えているヒーリングっどプリキュアの第42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」で主役のキュアグレースこと花寺のどかは、敵の幹部からの助けの求めを拒絶した。一般的なアニメのヒロインキャラは慈愛と自己犠牲の精神であらゆる者を救うのがステレオタイプとなっているが、嫌なものは嫌だとはっきり言える強い女性像を打ち出したことは良いことだ。ヒロインが自分を犠牲にして利用され捨てれるのを美談とするような物語の濫造は子供の頃から女性はそういうものだとの洗脳を施しかねない。さんざん悪さをしてきた男が都合のいい時だけ女性に負担を強いて利用しつくしたらまた悪さをする気が満々である時に、相手に向かってふざけるなと言えるヒロインの登場はなかなかに小気味いい。  私が流行り物に乗っかった時はその後に酷いオチが待っている事も多いので、そうならないように祈りつつ、今後とも子供達に夢と希望を与える作品が多く生まれるように祈る。

感謝の念

 人間は他の力なしには生きていけません。毎日いただく食事も他の動物や植物の命をいただいていますし、空気や大地がなければどうしようもありません。自分の力だけで何かをしているというのは思い上がりです。勤め人は会社を支える多くの人達により仕事が出来ています。一人で作業をしているように見える芸術家でも創作に使う道具を作る人や作品を買ってくれる人達とは無関係ではいられません。人は関係性の中に生存しており、その考えもまたお互いに影響を与えあっています。関係性の中にしかいない我という存在は確固たるものでは無く全ては移ろい行くという考えは仏教の基本ですが、その関係性は世界の全てにつながっており、世界に感謝を捧げることは自分への執着を取り除くためにも有効です。  だまされたと思って世界中の全てに感謝してみましょう。世界の事を思い浮かべると、どうしても許せない人や考えも多くみつかるかと思います。そんな物事を思い浮かべる時は、まず自分が存在しないとしてもそれらは許せないものなのか考えてみましょう。自分が存在しなければ許せるものならば、その許せないは自分への執着から生まれたものです。自分の存在の有無に関わらず許してはならない道義的に悪い物事ならば、その物事が善いものに変わるように祈りましょう。そして我が身を振り返れば道義的な悪は必ず自分の中にもあります。悪は悪として止めるとしても、考える機会となってくれた事には感謝しましょう。許さなくても感謝は出来ます。  止めるべき悪が理解できなければ善もまたありません。自分も含めて悪い人の幸せとは悪を成就することではなく、悪から解放されることです。世界への感謝は、全ての人が幸せであるようにと祈るきっかけにもなります。全ての人の中にはもちろん自分も含まれます。世界に自利利他の精神が広がりますように。南無三宝。

あるがままを受け入れる

 密教や如来蔵思想では、世界の全てに仏を見ます。全てがありのままで尊いのです。心穏やかに全てを受け入れて生きるのが良いとする言説はしばしば聞かれるものです。こうした見方では全てが平等であり、地べたを這う虫も大恩ある師も命の価値は差別なく同じく尊いとされます。もちろん、自分や仲間を殺戮するような犯罪者の命も尊いと言うことになりますし、弱いものをいじめて我欲を満たすような人の命も尊いのです。  さて、この文脈から世俗の決定を批判せずに従うのが宗教者としてあるべき姿だとの意見もあります。しかし、それは本当にありのままを受け入れている姿なのでしょうか?  ある日もし日本が独裁国となったとして、国家主席を賛美し信仰を放棄し国家に逆らう市民を殺すように世俗の権力から命令を受けた場合、唯々諾々とそれに従うのはありのままを受け入れる事にはなりません。  七仏通誡偈にあるように、悪いことをせずに善いことをして心を清めるのが仏の教えです。悪い命令には従わずに、その結果として刑罰を受けようが殺されようが自分の行為を納得して受け入れられるような状態が、ありのままで善いといえるのです。全てがそのままでよいというのを、悪に屈する脆弱さの言い訳にしてはいけません。もちろん、どんな悪人の命も尊くはありますが悪が尊い訳ではないのです。  人は文字ばかりにこだわるとこんな簡単なことも分からなくなるものです。思考実験ではない他との関わりの経験と常識は大切にすべきです。

人を生かす情報、殺す情報

1.人を生かす情報  世の中には人の役に立ち命を救う情報があります。天気予報の発達により、人は台風が来る何日も前から準備に取り掛かる事が出来るようになりました。大雪が来るのも事前に分かります。情報技術の発展で大雨時の河川水位も出かける事なく分かります。地震だって到達直前ですが警報が出ます。こうした人を生かす正しい情報は科学の進歩により支えられています。  ある時代に科学的に正しいと思われていた事が後に違うと分かる事もありますが、間違いを修正しつつ科学は進歩します。現代科学はこの歴史の積み重ねでもあり、基本的には昔の物より今の方が正しいのです。科学は感情や煩悩や思惑を廃した純粋な知が求められますが、基礎分野を離れ応用に行くほど人間の思惑に接近していき、最終的に科学から生み出された道具や情報を受け取る人間は、それをどう利用しようかということを考えます。  純粋な知は単なる事実です。良いも悪いも生かすも殺すもありません。それらは利用する側の心の問題です。天気予報だって、悪天候を利用した犯罪計画を立てることも可能ですし、高波の予報が出たからとわざわざ波乗りに行って遭難する人もいます。科学的知見は人を生かす方向に使いたいものです。また、科学の仮面をかぶったニセ情報には十分な警戒が必要です。 2.人を殺す情報  一方で嘘の情報は殆どの場合で有害です。天災が来るのに来ないという誤った情報が流布されれば、それを信じて準備を怠った人が死傷することもあるでしょう。信じたくない事実があったとしても、それから目を背けていては被害は広がるばかりです。  また、何か大きな社会問題がある時に、それを特定の人物や組織や民族の陰謀だとして過激な行動に出る人達も後を断ちません。なんの証拠も無いのにこの手の話を信じてしまう人が多いのを見るにつけ、人がいかに嫌なことから目を背けて自分たち以外の何かを悪者に仕立て上げたがっているのかがわかります。  この手の情報も言論の自由のうちだとの意見もありますが、まず無根拠に他人を悪人扱いしている時点で侮辱や名誉毀損ですし、それに基づいて暴力行為を煽動するような言説は明らかに犯罪であり認めてはなりません。それでもしつこく、万人に反論の機会があるのだから個別に取り締まれば良いだけで、言論の自由を優先せよとの意見もあります。しかし、これを言う人間の大半は弁舌の才に恵まれた

コロナ禍の時代における人の慢

 慢は仏教で説かれる煩悩の一つで、おおざっぱに言うと自分と他者を比較し自分を過大評価して思い上がる事です。そもそも仏教の基本的考え方では自分とは全体の関係性の中で成り立つ移ろい行くかりそめの物に過ぎないのですから、自他を比較して良し悪しを論じるのは誤った物の見方ということになります。  コロナ禍にある現在でも社会のあちこちで慢が見られます。一部の健康な若者の中には、高齢で持病がある人達は自分たちの税金を食いつぶすだけの価値が低い存在なのに、その人達を守るために生活が不自由になるのは納得がいかないと言う人までいます。これは他人を見下し差別する慢と、自分は何があっても健康であるという思い上がりの慢とが合わさった考え方です。強く我欲にとらわれるとこのように恐ろしい邪見を生み出してしまうのです。  さて、自他を比較しなけば慢は生まれませんが、俗世を生きていくうえで完全に比較を避けるのは難しいものです。健康か病弱か、知能が高いか低いか、裕福か貧乏かなどの違いはどうしても目につきます。しかし、慢が先の例のように恐ろしい方向へいくのは、その人に貪欲さがあるからです。コロナなんて気にせずに自由に生きたいというのは人間として当然の欲求といえますが、自由にしたいがために他人を自分より劣っているとみなし、その命なんてどうでもいいと考えるから慢となるのです。確かにコロナ禍で生活が不自由となり経済的に苦しくなっている人が多くいるのは問題ですが、それは公的な支援が十分に出ればある程度は緩和されます。弱者の命を価値が低いとみなす事で自己の公衆衛生に反する行いを正当化するよりも、財政出動を促す陳情でもした方が健全です。自他を比較するよりも、自他の隔てなく平等により良い状態を目指す心が大切です。  一方で、こうした老人や病人をゴミあつかいにして好き勝手にしよとする人を、良心が無い悪人だとして叩くのも慢です。彼らはそのような歪んだ物の見方をする悲しい存在であり、攻撃では無く救済の対象です。説得が通用するかは分かりませんし、場合によっては強硬な対応をせざるを得ない場合もあるかも知れませんが、相手は悪人だから死んでも構わないなどと思えば彼らと同じ理屈にとらわれた事になります。  また、人は油断すると誰しも慢に取り憑かれます。常に自分の心を観察するのも煩悩を防ぐのに有効な手段です。他人の慢はすぐ気づきますが

極悪非道の人への礼拝

 法華経に出てくる常不軽菩薩の話では、悟ってもいないのに悟ったと思い上がる僧や在家の仏教徒たちに対して、常不軽菩薩が「あなたは必ず仏になる人ですから軽んじません」と言って礼拝しました。また、菩薩行の基本となる四弘誓願の一番目は全ての衆生を救おうと誓う事です。全ての人はその内に仏を宿しているのですから、どんな人にも敬意をもって対応するのは仏教徒の心得です。法華経を奉じていた宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」はこの菩薩行を詠んだと言われています。  さて、全ての人に対してその内なる仏への礼拝の心を持って応じるのは、仮に相手があなたの家族を殺した強盗殺人犯でも、民族浄化を行った独裁者でも、非合理的な理由で暴動を起こす陰謀論者でも、どんな極悪非道な人に対しても敬意をもたねばならないと言うことです。これは難しいことです。  もちろん、刑事事件を起こしている相手が目の前にいれば、自分の身の安全の確保を最優先しつつ自首を促すなり、警察に通報するなりしなければなりませんが、菩薩行を修める者はその際に相手を憎む心や怒りの心をもってはなりません。相手が誰であってもです。  そんな時に、相手もいつか必ず仏になる人なのだと礼拝する気持ちがあれば、いくらかでも怒りを抑える事が出来るかも知れません。相手が欲する不条理を受け入れなくても敬意を持つことは可能です。  誰しも嫌な相手の一人や二人はいることでしょう。その怒りにとらわれるのは自分のためにも相手のためにもなりません。そんな時は、相手を礼拝するするつもりで見てみると、完全に怒りが消えなくても、冷静さを取り戻せることでしょう。

自力と他力

 暦は違いますが1月25日は浄土宗の開祖である法然上人のご命日です。仏教の伝統的なフォーマットは僧が修行を積んで自力で仏に至るというものでしたが、法然以後は、阿弥陀如来の他力による成仏という考え方が日本に広がっていきます。これは各宗門間の抗争の原因ともなりました。本日はそんな自力と他力に関して考えてみます。  まず、日本の伝統宗派で最も他力を強く主張するのは、法然の弟子の一人であった親鸞が開祖となった浄土真宗です。真宗では、信仰心も唱える念仏も門信徒が主体的に阿弥陀如来を信じ称名念仏している訳ではなく、如来の本願力が他力として働いた結果、各人が如来を信じて念仏申し上げていると解釈しています。そこに自力の要素は無く、門信徒は他力の救いを感謝するのみとなります。一般的な仏教徒が修行として善行に励み功徳を積む行為も、真宗では否定されます。善行は修行のためでなく、如来の本願力を受け自然に行うようになるものと信じられています。それゆえに真宗では祈祷や占いや真言・陀羅尼などは禁止されています。  その他の宗派は、浄土宗でも四修など修行のような考えがあり、また陀羅尼の入った経典も唱えますので程度の大小はあれ自力の要素は存在していると言えます。さて、その中で最も自力を重視する宗派は曹洞宗かと思いますが、では曹洞宗が絶対自力なのかと言うと他力の要素も含んでいます。道元禅師が南宋からの帰路、観音菩薩に祈り水難を逃れた話などは有名であり、決して自力に慢心していた訳ではありません。  そもそも論として、日本に伝わった大乗仏教ではこの世の一切が仏の現れであり全ての存在に仏の因子が内在されているとする如来蔵思想がベースとなっています。この場合、自力とは自分の内外にある仏の他力に任せる努力とも換言できます。我が我がとの邪見を離れれば、自ずと仏性に目覚める訳です。こう考えると全ての日本仏教の宗派は他力であるかのようにも見えますが、浄土教系の他力本願とは、この邪見を離れようとする自力の努力をも如来の他力に任せようと言う発想と言えます。  こうした他力の発想により得られた心の平穏と、自力の修行により得られた心の平穏を比較した場合、後者は自分の努力の成果だとの慢心を招きやすく、前者は自分をつつむ他力への感謝が生じやすいので、一見すると他力の方が良いようにも思えますが、他力という意識がある方が煩悩に呑み込

失敗恐怖症社会

 自分が若い頃の話をしだすのは老害化の始まりであり、また時代の雰囲気とは徐々に変わるものだ。だから有史以来、老人が最近の若い者はなどと口うるさいのは自然なことだし、そういう世代間の意見の違いや対立が新たな発展を生み出す機会にもなるのだと思う。そんな訳で今日は昔語りなどを少々。  自分が若い頃は何にも挑戦せずに行動しないことは怠惰だとみなされたものだ。しかし、経験の少ない若者が何かをやっても大体は失敗する。それでも何度でも挑み続けて成功をもぎ取るのが正道とされた。気合いとか根性とかそんな感じだ。しかし、効率的な成功を目指すのなら盲目的に失敗を重ね反省し対策を構築するのではなく、先人の知恵やノウハウを広く共有化した方が目的を達成しやすくなる。目的の達成の為に要求されるものは気合いから効率化へと変化していった。こう言う変化は良いことだった。  しかし、失敗を減らし効率化が図られた際に、失敗は何があっても絶対に避けるべきだとの考え方が広がっていったようにも思える。確かに失敗は少ない方がいいのだが、未知の分野の研究開発では上手くいくことの方が少ないものだ。失敗を絶対に避けるという傾向は新しく野心的な発明や発見を目指しにくくなる事でもある。これは研究分野だけでなく色んな仕事での新しい試みや、起業、結婚などあらゆる物にゼロリスクを求めていては何も出来なくなる。  またゼロリスクを希求するあまり、簡単な事しかしなくなった人達の行動力や判断力は著しく低下している。これはデマや陰謀論に踊らされる人が増えた事にも影響を与えているかも知れない。  売れる子供向けの小説やマンガも昔は努力で苦難に立ち向かっていく物が多かったが、近頃ははじめから圧倒的に強い主人公が敵を蹂躙し人気者になるようなものが目立つ。少なくとも去年大ヒットした努力を重視する物語である鬼滅の刃が新鮮に感じる程にはこの傾向はある。ただこの作品が売れたと言う事は旧来の価値観もそこまで廃れていないのかも知れない。  ともあれ努力とか失敗を積み重ねてしか得られないものも多い。特に若い人達には命に関わるもの以外なら挑戦する心を忘れないで欲しいと思う。実際にデキる若者は挑戦してるし失敗も恐れておらず経験として糧としている。しかし最近では、十分な才能がありながら自己評価が恐ろしく低い若者も多く実に勿体ない。現在の弱者搾取社会で大人しくして

企業や研究者の倫理

 学校だけではなく職場においても後進の教育は重要です。とくに、企業や研究者の倫理規定が邪魔な拘束ではなくその理念を実現するための規則であると知るためには、経験と教育がかかせません。理念も倫理も無い企業や研究者は反社会的勢力と変わりありません。  規律の無い自由な研究や医療は人体実験や移植臓器目当ての殺人をも肯定するものであり、独裁国ではよく見られます。独裁者に倫理規定や理念が無く自由に欲望のままに配下に指示できるからです。  企業に強い倫理的拘束があるのは強大な力を持つ法人が自らを律し、社会に貢献する企業理念を実現する為です。民主主義国の憲法と同じです。  もちろん、倫理的に何が正しいのかは時代や地域によって違います。旧約聖書の昔では客人を守るために自分の妻や娘を暴徒の慰み者として提供することが倫理的に正しかったわけですが、現代においてそんなことをする人がいたら非難轟々でしょう。倫理規定は時代に応じて変わる必要もあるのです。  ただし、倫理規定の変更はあくまでも倫理的目的を達成するための変更であるべきで、利益を得るのに邪魔だから変更するような事があってはなりません。  近年では研究者に関しては毎年の倫理講習が義務付けられておりいくらか状況は改善されていますが、倫理を軽視する企業はいまだにあるように見られます。規律なき自由は地獄を招くのみです。学校や企業でもしっかりとした倫理教育が望まれます。

ワクチン陰謀論

 ワクチンはその発祥の時期から根も葉もない風評被害に遭ってきました。一般的な医薬品と同様に一定割合の副作用の出現は避けられませんし、ワクチンを接種された者が効果を直接実感することもありません。それ故に何か変な事に利用されているのではないかと不安を持つ人らによるワクチンの妄想や陰謀論は後を絶ちません。  もちろん、公衆衛生学的経済学的にみればワクチンの効果は絶大であり、死者を減らし経済的損害を軽減します。また、ワクチンは基本的に健常者へ予防的に接種するものなので、安全性の確認も慎重に行われます。ただ100%の安全はありえません。その効果に対して副作用による被害を政治的に無視して構わないと国家権力が判断した場合にワクチンは使用されることになります。ワクチンは医学の問題だけでなく政治的な側面も強いのも、マスコミすら陰謀論に加担しやすい素地といえるでしょう。  マスコミがワクチンによって副作用が出た例を取り上げること自体は事実なので問題ないのですが、ワクチンにより得られた公益について触れずにワクチンを廃止すべきだという結論に誘導するのは間違っています。もちろん、公益性を考えても医療行政の推進により被害者が出るのを嫌うという考え方は、個人的には同意しかねますが、その思想自体は否定すべきではありません。議論で解決すべき問題ですのでマスコミにはバイアスを極力排除した報道をお願いしたいものです。  偏ったマスコミ同様に危険なのはSNSなどに流れる陰謀論で、このワクチンは偽物で日本人を絶滅させるために某国から送り込まれた遅効性の毒だとか、世界的大富豪が人類を奴隷とするためにワクチンにマイクロチップを仕込んでいるとか、何の効果も無いワクチンを世界中の政府と製薬会社と医療関係者がボロ儲けをするために結託して広めているとかいうものです。普通の人からみたらバカバカしい話でも、それを信じて過激な行動をする人達がいるので油断は出来ません。  彼らが何か犯罪行為をする恐れもありますが、そもそも論としてワクチンは多くの人に使ってもらわないと公衆衛生学的効果を十分に発揮してくれません。あまりワクチンを接種しない人が増えると良くないのは間違いないのです。これに対して、ワクチンを推進する立場の医師や行政は、正しいことを説明すれば国民は納得して従ってくれると思っている節がありますが間違っています。全体の為だ

民主主義の勝利

 アメリカのバイデン大統領の就任式の演説にあった民主主義の勝利だという発言に対し、一部の右翼から自分が勝てば民主主義の勝利で相手が勝てば民主主義では無いとでもいうのかという、明らかに演説を聞かず言葉尻だけを捉えたトンチンカンな批判が出ています。  とりあえず東京新聞の就任演説和訳のリンクを貼っておきますので演説を聞いていない人は確認してみてください。 https://www.tokyo-np.co.jp/article/81092  演説にある民主主義の勝利とは、民主的な投票の結果を暴力により捻じ曲げようとした過激派に対する勝利な訳です。この事は候補者ではなく民主主義の大義の勝利であると言っていることからも明らかです。  この期に及んでもトランプ氏の勝利を訴える陰謀論者はおり、彼らによるとバイデン大統領の勝利は民主主義の敗北だそうですが、バイデン大統領は正規の手続きで勝利を収めています。司法上も選挙結果を覆すような大きな不正は無かったと判断されており、法と秩序の支配による民主主義的手続きが個々人の妄想による暴力に負けず完遂された事は、民主主義の勝利と以外言いようがありません。  また、日本の右翼もトランプ政権が日本の国益にかない、バイデン政権になったらおしまいだとしきりに喧伝しています。これはオバマ元大統領がその政権時に中国の軍事的拡張を黙認したことを念頭にした意見かと思います。しかし、トランプ前大統領とバイデン大統領のどちらの政権が日本と世界にとって良いかは、是々非々です。  トランプ政権末期は、トランプ氏にその意図が仮に無かったとしても過激派を煽り結果として死者まで出るようなクーデターまがいの暴力事件が起きたのでアメリカ国民から糾弾されるのは仕方のないことです。ただ一方で、トランプ前大統領はこれまで見捨てられてきたチベットやウイグルや南モンゴルの人達を支援する行動を世界の有力な政治家の中で初めて実施しました。絶望に打ちひしがれていた彼らにトランプ氏は希望の星に見えたはずです。また、イランやパレスチナやイエメンなどの人々は反対するでしょうが、アメリカの働きかけで多くの中東諸国とイスラエルの和平が実現したことは一応トランプ前大統領の功績といっても良いでしょう。さらに、少なくともコロナ前まではアメリカの経済も比較的順調に行っていたと言えます。他方、地球温暖化を否定する

学習性無力感

 心理学の用語で学習性無力感というものがあります。抵抗し難い過酷な状況にずっとさらされ続けると、人は抵抗する努力をやめてしまうという現象です。ブラック企業で抵抗は無駄だと洗脳されてしまって積極的に奴隷労働を続ける人のような状態です。  これは個人の問題だけでなく、集団的社会的なあきらめ感が起きることもあります。強権的な独裁国では人々は独裁者に逆らうことやめて積極的に隷属します。独裁国で無くても強固な社会的問題に対して抵抗をやめる人は多いものです。  例えば、近年の労働環境は悪化の一途をたどっていますが、ほとんどの人が飼いならされた羊のようにおとなしく労働基準法を無視した条件で黙々と働いています。労働組合もほとんど機能していません。派遣社員や名ばかり管理職や個人事業主化など様々な法の抜け道を駆使して人々は奴隷のような状態に陥れられています。奴隷労働にあまんじる人はみな抵抗は無意味だとそれから逃れる努力を放棄しています。  本当に最低な状態なら抵抗して失職しても雇用保険や生活保護などが使え、逆に状態の改善も見込めます。奴隷労働に甘んじながらすり潰されて死ぬよりマシです。厳しい状況にある人は恐れずに行動しましょう。  あと日頃投票に行っていない人は無駄でも次の選挙には行きましょう。選択肢が無くてもどちらかマシな方に投票しましょう。投票した候補者や政党が勝たなくても、投票率が上がるということは固定支持層以外の不確定要素が増えることを意味し、政治家も幅広い意見に耳を傾けざるをえなくなります。投票率を上げることは支持政党の如何によらず公共のために有益です。  学習性無力感にとらわれるようなつらい状況にある人達に御仏の加護があらんことを祈ります。

仏教と社会

 現在、日本仏教の諸宗派は人権問題や社会問題に対して何らかの活動をしているところが多いですが、仏教は世俗の問題に関わらないのが本来あるべき姿だとして批判されることもしばしばです。こうした批判は主に、初期仏教の信奉者から受ける場合と、政教分離の立場から批判される場合とがあります。  確かに、初期仏教において出家者集団は世俗社会に支えられて修行に励む立場で、世俗の在家信者に説法などはしても組織だった社会問題への介入は行っていませんでした。しかし、日本へ伝わった大乗仏教では、利他の精神が強調されており、聖徳太子の昔から困窮者や高齢者などを対象とした病院や福祉施設の整備が行われてきました。飛鳥時代から奈良時代の仏教は国家鎮護の意味も強く、社会の平和を祈り、また行基菩薩などは個人的に公共のための土木工事も行っています。日本仏教は当初から社会に介入していたのです。  こうした行いに対して物質的では無く精神的な活動をしろとの批判もあるようですが、助けられるものなら飢えや病に苦しむ人を助けるのは常識の範疇の話であり、止められる筋合いはありません。ただ、明治以降に財政基盤が脆弱となった諸寺院の慈善事業は縮小していき、現在では社会福祉は国家主導となっています。ともあれ、日本の仏教が社会に介入するのは菩薩行として問題ありません。社会問題に関する見解は人それぞれ千差万別ですから、必ずしも本山の意向に同意しかねる場合もあるでしょうが、その辺は個々人の自由です。異論があるのならば具申すればよろしいのです。  また、政教分離の観点から、仏教の社会問題への介入を懸念する声もあります。これに関しては一定の理解が可能です。上記のように社会問題に関する見解は本来個々人で差があって当然なのですが、カルト教団が一つの意見を信者全体の意見として押し付け政党を結成し国政を左右しようなどという邪悪な企ては断固粉砕すべきです。ただ、仏教関係者が社会的なメッセージを発しただけで、政教分離がどうのこうのと言って食ってかかるのもやりすぎでしょう。出家、在家を問わずに仏教者も国民の一人であり、社会的問題に意見をいたす権利はあるのですから。

根性

 昭和の時代までの教育では努力と忍耐と根性が強調されており、後に根性論や精神論として批判されています。しかしながら、努力は何にせよ必要なものです。仏教でいうところの精進です。忍耐も何かをなす時に必ず起きる苦境に耐え感情を乱さずにおくのは生きる上で重要な事です。これは仏教で言うところの忍辱にあたるでしょう。  では、根性はというとなかなかに定義しづらい概念です。アメリカ英語で言うところのGritのように何かをやり抜く精神力的なニュアンスですが、Gritの場合はその目標の実現可能性が喪失すれば終わるのに対し、根性にはその辺の切り替えに欠ける印象があります。また、かつては体罰の際に根性を叩き直すという形容も使われており、この場合の根性は人の性質のような意味で使われています。仏教のお経で根性という言葉が出てくる場合は概ね才能とか資質とかそういう意味で使われています。  考えれば分からなくなりますが、高齢者が体感的に理解している根性はなんかもうオカルト的な呪文とかと同じです。体力、精神力の限界が来て倒れても「根性だ」と一言唱えると立ち上がり戦い続けます。統計に残っていないだけで、根性の濫用で過労死した人も多いことでしょう。ただ命がけの局面で根性を発揮できれば逆に助かることもあり一概に悪いものとも言えません。  根性は体や心が発する限界に近いというアラームを一時的に解除するものなのかも知れません。いざという時に使えるように無いよりはあった方がいいですが、限界内で努力していても徐々に能力があがり限界のラインは広がるものなので、無理してアラームをOFFにする必要も無いです。日頃の努力がより大切なのです。ただし、明らかにアラームが誤作動して余裕すぎる範囲内でくじける人には根性は必要です。昔は、それを見極め指導できる人が良い教育者と呼ばれていました。根性とハサミは使いようなのです。

あなたを知っている人と同じ数だけあなたはいる

 あなたは自分をどんな人間だと思っているだろうか?あなたが自分についてどんな認識をしていたとしても、その人物像は他の人が思い描くあなたとは違う。あなたの知人と同じ数だけあなたはいるし、あなたを直接知らない人もあなたの業績や民族や性別や年齢や職業などなどで勝手に各人のイメージであなたを捉えているものだ。  自分自身も含めてあなたを知っている人の数だけ存在しているあなたと言う人間像のうちどれが正しいという事は無く、強いて言うならどれも間違っている。固定された人間像というもの自体が存在しないからだ。しかし、各人が持つお互いの人間像にあまり差がなければ利害の対立はあったとしても円滑な対話が可能となる。だが世の中はそうでないこともしばしばだ。  そんな人間だとは思わなかったなどという怒りは、本来はそう言って怒る人の思い込みが壊れた事に対するものであるのに、多くは他人にその怒りを向けている。そもそも固定された確固たる人の心は存在しないのだから仮に本当に変わったのだとしても仕方の無い事でもある。  だから他者へ対する怒りは意味がない。現象として非道なことをする人間に対しては怒らずに粛々と制圧すればいいだけだ。人が自分に良くしてくれた時には感謝すればよい。そうで無い時に怒ってはいけない。  これは人間だけでなく、組織や国などに対しても同様だが、あまりにも各自のイメージがバラバラだと実務上困るので、会社には建前でも企業理念があり、国家にも憲法などでその理念が文章化されている。だから、組織や国においては組織像や国家像に対する逸脱が厳しく非難されるのだ。似ているようで同列では無い。

陰謀論に騙されている人への対応

 あなたの身の回りにコロナはただの風邪だと信じたり、トランプ大統領は悪の秘密結社ディープステイトと戦う孤高のヒーローだと信じる人はいるだろうか?いたとしてそれを間違っていると指摘した事はあるだろうか?そうした事がある人には分かると思うが彼らの妄想を治すのは至難の技だ。  こうした陰謀論を信じている人は過激な行動をとりがちであり、自分に近しい間柄なら必死に治そうとするのは人情というものだ。だが、必ずしもその好意は相手に届かず逆にあなたのことを敵だとみなして攻撃してくることもある。悲しいことではあるが自分の身に危険が及ぶようであれば、相手を助けるよりもまず身を守ることが先決となる。彼らの説得にあたるのならばまずそのことを忘れてはならない。  カルトに入信した者を脱退させようと説得した家族や友人が危険な目にあうのと同じ事だと思ってもらっていい。昨今の陰謀論には明らかな組織的な本部は無い場合が多く、主にネット上で誤った情報が真実として共有され仲間以外は敵だとする考えが育っていく。イスラム国でもそうだったが、明確な指示系統は必ずしもなく、地球の裏側でもその思想に共鳴してテロを起こせばISの聖戦士が行った義挙として宣伝される。陰謀論者も予想外の場所で犯罪を行う可能性があり危険だ。明らかな犯罪の兆候が見られる場合は躊躇なく警察に通報するべきだ。  さて、身の安全をた保つだけならば、彼らから距離を取るのが最も簡単な解決策だ。だが説得となるとそうもいかない。彼らが罪を犯すの防ぎ妄想から救い出すには接触を図るしかない。陰謀論を信じる人を説得するにはまず、彼らがどんな不満を持っているのかを考える必要がある。陰謀論自体は冷静に見れば論理的に破綻しており何の証拠も無いのだが、それを指摘しても陰謀論者の盲信は解けない。彼らは正しい情報ソースを敵からもたらされた誤情報だと信じているからだ。そんなことを信じるそもそもの原因は何かに対する不満があって、それを解決する簡単な解答を欲しているからだ。福島原発事故の時も、元自衛隊幹部の田母神氏の毎時120シーベルトを数分被曝して初めて遺伝子に障害が出るとか6シーベルトまでは問題ないとかという妄言が一部で信じられていた。彼らは放射線対策で不自由をこうむったり原発が止まる事に対して不満を持っており、それを正当な方法で解決しようとするのではなく放射線の危険性自体

吉村知事のPCR陽性者と感染者は違うとする発言の問題点

 大阪府の吉村知事が1月13日の会見で新型コロナウイルスのPCR検査で陽性であっても感染していることは意味しないという主旨の発言をした。自治体の首長の発言としては大変危険なものだ。今日はこの問題点を解説したい。  まず、PCRの検査陽性でも感染を意味しないという言葉だけならば正しい。検体の取り違え、混入など人為的、技術的な問題により誤った結果が出ることは完全には防ぎ難い。また、吉村知事は感染者を他人に感染させる力を有する者と定義して話をしているが、この考え方ならば感染する前にウイルスの飛沫を吸入してまだ鼻や口の粘膜に付着しているだけの状態で同部から検体を回収されてもPCR陽性となる可能性はあるし、感染後の回復途上でもう十分にウイルス量が減っている段階でも検査が陽性となる可能性もある。  しかし、人為的技術的な偽陽性は別として、感染前の単なる付着であっても、その後に感染が完成する可能性とその程度は予測困難であり感染しているものとして隔離・警戒するのは妥当だ。また、回復途上にある者かどうかは、例えば3週間前に風邪気味でしたと申告する人のPCR検査が陽性であっても、その時の感冒症状が新型コロナウイルスによるものであったのどうかは確実には分からない(抗体検査などから予測は出来たとしても)。そして、そもそもこのような感染させる力が無い人がPCR検査の陽性者に混じっていても、普通に感染している人と見分ける事は出来ない。  上記のような少数の例外はあったとしても見分ける術も無いし、現在の流行の程度などから考えてPCR陽性ならば感染とみなして実務上は問題なく、そうするべきなのは自明だ。  さて、このPCR陽性者と感染者は同義ではないとする言葉の上では正しい事が、なぜに首長の発言としては危険なのかと言うと、この論法はコロナはただの風邪だと唱える人達によりPCR陽性者の大半は感染者ではないという読み替えで陰謀論的に喧伝されてきたことだからだ。彼らの理屈ではすでに日本ではコロナは蔓延したあとで、集団免疫は成立しておりもう問題が無いとするのだが、各地の抗体検査の極めて低い陽性率はこの説に何の根拠も無いことを示している。また、コロナ流行前に不自然な老人の大量死も観測されていない。こういうと彼らは日本人には自然免疫があってコロナは脅威ではないと反論してくるのだが、優秀な大和民族のみが保有すると

自分の体は大切に

 利他行に励む仏教者は時に我が身をかえりみずに不幸な結果を招く事があります。お釈迦様の前世譚であるジャータカにも捨身飼虎として有名な自分の身体を餌として飢えた母虎に与える事で虎の母子を救う話もあり、自己犠牲の尊さが強調されがちな仏道ですが、極端な修行はお釈迦様の最初の説法である初転法輪でも否定されています。ジャータカは仏教的な御伽話の類であり額面通りの理解では無く行間を読む事が大切です。  目標に向う中で苦境に耐える力は貴重ですが、苦しむ事自体が尊い訳ではありません。他人を助けようとする人も、他の利他行に励む人から見たら救われるべき対象です。一切の命が救われるべき貴重な命であるのならば、自分の身も当然貴重なのです。  だからまずは自分の身を大切にしましょう。世の中ものすごい体力と精神力をもって修行に邁進する人も居ますが力が及ばないのにマネしてはいけません。別に仏道の修行は競争では無いのです。自分に出来る事を少しづつ積み重ねていくものです。  厳しい時代にあって多くの思いやりの心を持つ人が過労で倒れていくのは辛い事です。皆様もお体を大切にお過ごし下さい。

目標と結果

 大乗仏教の菩薩は一切の衆生を救おうとする大目標があります。さて、現在この世で菩薩行に励む仏教者の誰か一人でも、この目標を存命中に達成できるかと言うと無理です。確実に無理です。不可能です。  現代社会を生きる私達は結果を伴わない努力を無駄と考えがちですが、道半ばで倒れても偉大な目標にわずかでも近づく事が大切なのです。いかなる苦難にも退かず前進を続けるしか無いのです。  どうせ叶わぬ目標だと放り出して享楽にふけっていては人生はあっという間に終わります。目標を見失い退いてしまった菩薩を敗壊の菩薩と言いますが、敗壊の菩薩となっても人はまた菩薩道に戻る事が出来ます。巨大すぎる壁に挑む時、古い価値観よと見下げられる努力、忍耐、根性はいずれも役に立ちます。  たとえ孤独の中に苦闘する菩薩がいても、その心は仏とその教えとそれを奉じる仲間と共にあります。乱れきった世の中に心を痛めている人たちに呼びかけます。この世にはそんな人を助けようとする菩薩がたくさんいます。目の前にいなくてもいます。あなたが人のために何かをしようと思い行動を起こした時、あなたも菩薩の仲間です。その親切はきっと他の困っている人に届きます。この世に菩薩が増えれば必ず世界は良くなっていきます。こうした思いやりの心が仏教でもっとも大切なのだと信じています。皆の力で少しずつ世界を平和で安穏なものに変えていきましょう。ご協力お願いします。

一切の生き物への慈悲

 あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するように、一切の生きとし生けるものに対しても無量の慈しみのこころを起こすべし。(スッタニパータ 149)  冒頭の文は南伝経典に釈尊の言葉として伝えられている物です。まあ現代だとジェンダー問題上好ましくないとか言われかねませんが、実際に母が子に与えるような慈悲を全ての生き物へ向けるのは至難の技です。  小生も、自分に対して罵ってきたり暴力を振るってくる人にはまだ慈悲も持てますが、自分の周囲や全く無関係な人を攻撃してくる人に対してついつい怒りの心をもってしまう事はあります。また慈悲の心を持って他者を助けようとしても、それ自体がうまくいかないこともしばしばです。  暴力行為を緊急的に制圧するのはやむを得ないかと思いますが、その時に怒りの感情はもってはなりません。憐れみましょう。また、酷いことを言われて傷ついている人がいた時に、悪口をいった人にやめるようにお願いしてもやめてくれない場合があります。この場合も相手を哀れだと思う気持ちが先立てば怒りも湧きません。ただし、被害者は加害者から守らねばなりませんので、とりあえず両者を引き離すなどの工夫は必要でしょう。  では、暴力行為を何らかの事情で阻止出来ない場合はどうでしょうか?何も出来ずに人々に危害が加わるのを傍観するのは辛いものです。その時に自分の無力さを嘆くよりも犯人に対する怒りが湧きはしないでしょうか?一切の生き物への慈悲とはその犯人にも慈悲の心を持たねばならないのです。怒りの主体はいつも自分です。この世に確固たる我というものはなく全ては関係性の中にあるという諸法無我の教えを思い出してまずは冷静になりましょう。自分も被害者も加害者も関係性の中にあり全ては救う対象です。人間は無力です。どうしようもない時は祈るしかありません。何かいいアイデアが思い浮かぶかも知れないし、そうで無いかも知れませんが、全ての人が救われるように祈りましょう。

コロナはただの風邪という話はなぜ一部の人に強固に信じられるのか?

 新型コロナウイルス感染症の広がりを受け、病院の業務上の問題も出てきている昨今ですが、ネット界隈ではコロナはただの風邪だとする意見も多く、それに意義を申し立てると本題とは無関係な人格攻撃まで受ける始末です。  コロナをただの風邪だとしたい気持ちも分からなくは無いのです。休業補償などが十全でない状態での自粛は死活問題です。だから、命がかかっているから自粛しないという選択肢はありです。しかし、多くの人はそれが出来ない。コロナは大変な感染症だけど他人に感染を拡大させる危険性より自分の生活の方が大切だから自粛しないというのと、コロナはただの風邪だから自粛しないというのでは精神的な負担があまりにも違いすぎます。人々は自粛しないための何らかの言い訳を欲しており、コロナは無害だと言う話は信じられやすいのです。  自粛や自助に頼る以上はこうした話はやむを得ないのです。本気で抑え込むのなら、公的権力が強制した上で、十分な補償を与えるしかない。だけど、これまでの経過を見ると政府にその意思はなさそうです。ワクチンの開発や治療法の改善も進んでおり、おそらく無策でも数年内にはこの流行もおさまるでしょう。財政規律を絶対視する行政は、高齢者と持病をもっている人には死んでもらった方が好都合とでも考えているかのようです。  生きている内にこんな分断と対立が先鋭化した地獄のような社会を目にするとは驚きです。目の前の仕事に取り組みつつ、祈るしか無いです。

陰謀論者のいうディープステイトって私達のことですよね?

 主にトランプ支持者が信じている、世界を裏から操る恐怖の秘密結社がディープステイトです。もちろん実在する組織ではありませんが、陰謀論者はこの存在を信じており、彼らの中ではトランプ氏はそれと単身戦う正義のヒーローなのです。  実に馬鹿馬鹿しい話なのですが、類型となるような話は昔からありました。イルミナティなどは有名ですね。フリーメイソンもよく陰謀論者の標的となることがありますが、フリーメイソンは実在する自由・博愛・平等を旨とする相互扶助団体なので主体的に反論も出来ます。実在しない組織を捏造すればその組織からの反論もありません。実在しない組織をでっち上げて、気に入らない誰それが実はディープステイトやイルミナティのメンバーだとして叩くのは、組織的な反撃が起こりにくいので陰謀論を煽る人からしたらやりやすいのです。  これは魔女狩りと同じ構造です。魔女という非実在の社会の敵を想定し、気に入らない者を魔女として始末していくのです。魔女狩りは教会権力の他、地域コミュニティでも行われており、今回の陰謀論者のコミュニティ内でも類似の事象が起きています。  1月6日にワシントンで起きたトランプ支持者らによる連邦議会襲撃事件は5人の死者を出しアメリカ国内のみならず世界的にも批判を受けました。この事件は当のトランプ氏も批判しており、トランプ氏の為にこの襲撃を行った人達の他のトランプ支持者からの評価は、突入したのは実は極左勢力のスパイでトランプ支持者の評判を落とす為に議会を襲撃したのだと馬鹿げたものとなっており、突入した人達はトランプ支持者から殺害予行を受けるにまで至っています。  魔女狩りの手法は、敵対する勢力を倒すより、内輪に向けて恐怖による結束を生み出す効果があります。こんなことをする人達に権力を取らせてはいけません。  彼ら陰謀論者からみれば、彼らの邪魔となる人間はみなディープステイトの手先なのですから、実は私も貴方も世界中の殆どがディープステイトのメンバーです。陰謀論者がいくら暴力に訴えかけて私達を倒そうとしても、私達の方が圧倒的多数なのです。陰謀論者達の妄想を治療して、平和な地球を作りたいものです。陰謀論者が平和を愛する世界中の人達をディープステイトと呼ぶのならば私らはディープステイトで結構です。ディープステイト万歳。

陰謀論は表現の自由に該当せず

 今、世界中で陰謀論を原因とした多くの不和や悲劇が生まれている。  陰謀論とは捏造された種々の証拠を用いて特定の人物、民族、組織などを悪だと多くの人々に信じさせ、それらに対する攻撃を煽るヘイトクライムだ。陰謀論を信じ込まされた人の大半は、許せない巨悪に正義の怒りをもって立ち向かっている訳だが、実際には無根拠に無実の人達を攻撃していることになる。また、陰謀論の信奉者は新たな信奉者を増やそうとしネズミ講的に被害は拡大していく。彼らに攻撃を受ける側は当然被害者だが、攻撃する彼らは加害者であると同時に被害者でもあるという複雑な構造をしている。  第二次世界大戦中にもユダヤ人を標的とした荒唐無稽な陰謀論の為に600万人もの犠牲者が出たのは有名な話だ。その後も、種々の陰謀論は存在し続けたが何十年もそれは一部のオカルトマニアが熱く語る程度のものだった。  しかし、情報通信技術の発達により事態は一変する。多くの人が一次情報を直接発信できるようになると、それまでのマスコミのバイアスに満ちた欺瞞が次々と明らかとなり、既存メディアの信頼は地に堕ちた。変わってネットの情報がより重視されるようになってきたが、ネットに氾濫する情報の大半もまたバイアスと欺瞞に満ちた物だった。その中の極端な意見を鵜呑みにした人達が、それぞれの立場で自分たちの真実のみを信奉して社会に戦いを挑んだ結果、社会の分断はかつて無いほどに広がっている。  昨今、言論の自由が保証された自由主義諸国において、表現や言論の自由を一番声高に叫んでいるのは実はヘイト団体であるのは笑えない冗談だ。彼らは、彼らが悪と信じる民族や組織を罵倒し侮辱し脅迫し時には暴行するのも表現の自由と呼ぶのだ。  また、これに同調し一部の文化人なども、社会には間違った意見に反論する自由もあるのだから、こうしたヘイトや陰謀論も表現の自由として保護すべきだという社会性が欠如した意見が出ることもある。陰謀論は個人の思考の外に出て、言語なり行動なりで表現された時点で無実の他者に対する侮辱や脅迫や暴行であり、犯罪行為だ。表現の自由に該当して良いはずがない。

今回の緊急事態宣言

 今回の緊急事態宣言は弱い。規制が弱い、強制力が無い、補償も少ない、法的な罰則を設定しない代わりに私刑を誘発させる情報は公開する。しかも、入国制限もザルのままだ。  この宣言が言っていることは単に大変な事になっているなあという感想と、まあ自助努力しろよという意見にすぎない。従う人は前回ほど多くは無いだろう。  一部の右翼からは、新型コロナウイルス感染症で深刻な被害を受ける持病持ちや高齢者の命など気にせず経済活動を以前通りに行うべきだなどという暴論も出ているが、政府の決定も似たようなものだ。いや、中途半端に規制する分もっと悪い。  誠に遺憾ながら政府が動かない以上は結局のところ自助努力するしかない。この状況でも動かないのだ、もはや与党に対する陳情もロビー活動も意味を持つまい。あとは次の選挙までにまともな政党が出現するのを願うばかりだ。  皆さんの感染防御がうまくいくように祈ります。南無三宝

識は境に托して心となす

 大乗仏教の基本の一つである唯識論を現代風に言うと、五感から得られた情報は意識に統合され自分に対する執着心に歪められて心の深いところに蓄積されると考え、五感から得られた情報が統合される意識もまた蓄えられた記憶を元に自分に対する執着心の影響を受け歪められるのです。人は外界のうち認識したものを事実として捉えますが、五感と心の深い部分との間には自分に執着する心があり、外界の事実を歪めて認識してしまっているのです。唯識論の論書の成唯識論述記に「識は境に托して心となす」という言葉があります。この言葉の「識」は五感とその認識や自分への執着心や記憶などのことで、「境」は外界のことです。外界をどう認識しどう感じるかは人それぞれバラバラなのです。  本日、残念なことにアメリカの連邦議会に暴徒が突入しそのうち4人が警備に射殺されるという事件が起きました。ワシントンで行われていたトランプ大統領を支持する集会に集まった群衆に向かいトランプ大統領が連邦議会に向かうように呼びかけた事により起きた事件です。これは事実ですが、この事件に関してはそれを見る人の立場により様々な認識の歪みがあり、ネット上を騒がせています。まず、暴徒達やそのシンパは先の大統領選挙で不正があったのでそれを正す為の行動だと見ています。ただ、大事になったあとに当のトランプ大統領は暴徒たちに家に変えるようにツイートしており、連邦議会に突入させるつもりまでは無かったのかも知れません。しかし、この事件を大統領による計画的犯罪であると見る民主党支持者は多いようです。逆に、この混乱を受けて少なからぬトランプ支持者がこの事件は極左暴力組織であるAntifaの陰謀であると言っていますが、流石に無理があるでしょう。常識的に考えれば、大統領選での敗北を認めたくないトランプ大統領が、集会で群衆を煽ったところ想像以上に暴徒化した悲劇と見るのが妥当かと思います。  ただ識は境に托して心となすのです。外界に起きた事実は一つでも、それを見る人により千差万別の真実が人の認識として存在するのです。私達が見ているそれぞれの真実が、外界の事実と同じかどうかも究極的には分かりようがありません。ですが、自分に執着する心による歪みをなるべく少なくすることで、より冷静な判断は出来るようになるはずです。  大統領選も、新型コロナウイルス感染症でも極端な話が吹聴され、それを

外国人悪玉論を斬る

 新型コロナウイルス感染症に関して、その初期から一部の人(主に右翼)による外国人たたきがあった。私が見聞きした範囲ではその全ては捏造か歪曲であり、コロナ禍の混乱に乗じてヘイトクライムを犯したい差別主義者の扇動と言える。特に、直近の感染拡大はGoToなどのせいではなく全て外国人のせいだとする排外主義者らの言動は目に余る物がある。今日はコロナ禍に関するこうしたデマを成立時期が早い順に3つ解説していきたい。  まず、この感染症が拡大し始めて間もない頃から一部で言われ続けているのが、新型コロナウイルスを中国の生物兵器とする説だ。これに関しては100%否定は出来ないのと同レベルで肯定も出来ないはずなのだが、自信満々に断言する右翼の方々は多い。彼らはその根拠として中国ではSARSの研究をしていたというが、以前にもSARSで痛い目にあった中国がSARSの研究をするのは当然としか言いようが無い。一般にはコウモリに感染したSARSウイルスの変異により今回流行しているSARS-CoV2が生じたと考えられているが、もし仮に中国の研究施設から漏れ出たものだとしても生物兵器とは言えないだろう。少なくとも意図的に拡散された証拠は何一つ無い。もし中国に文句を言いたのなら初動の対応のまずさやその後の恩着せがましい外交姿勢に言えば良いのであり、無根拠な難癖をつける意味が分からない。  次に古い陰謀論は日本の新型コロナウイルスの感染者の殆どは実は外国人だったする妄想だ。右翼の人達が言うには日本の血税を使い大量の外国人を治療しているらしいが、馬鹿馬鹿しいにも程がある。現場で見ていても外国人患者なんてほとんどいない。なぜ彼らがそんな狂った妄想をしているのかというと、厚労省が発表している統計で、患者の国籍不明者が著しく多いので、日本国籍が確認された者以外は外国人だとして騒いでいるのだ。実際に、昨年12月29日18時までの集計では、累計感染者数22万2085人中、日本国籍が確認された者は5万0194人に過ぎずこれは全体の約23%だ。では残りの77%が外国人かと言えばそんなことは当然無い。外国籍が確認された感染者は1923人だけだ。残り大半の国籍不明者は、実は多くの自治体が感染者の国籍を発表していないから不明なだけだ。地域により外国人の人口比率に差はあるだろうが、国籍が分かっている感染者での外国人の比率は約4%

宴会の危険性

 つい先日まで、一部の政治家は感染対策をした上で行ったとして大人数の宴会を続けていましたし、これらの宴会に対する批判に麻生太郎議員がじゃあ家族では食事をしないのかと反論していました。また、外食産業よりも家庭内感染の方が多いから宴会は安全だと主張する人もいます。これらは何が間違っているのでしょうか?順をおって説明しましょう。  まずはじめに思い出してほしいのは、新型コロナウイルス感染症は、人から人や動物にうつっていくと言うことです。だから、実現不能ですが、もし地球上の全生物の移動と接触を1ヶ月ほど完全に断てればそれだけでこの問題は解決します。まずこの前提を忘れないようにしてください。  またもし、すべての人が自分の家族としか接触しなければ、感染症が起きてもうつるのはその人の家族だけです。接触する時間の長い家族にはそもそも感染しやすいですが、感染はその中で完結します。しかし、現実的に家族としか接触しないと言うのは不可能です。現にいま時点でも感染は拡大し続けています。現在、家族の者に感染させたはじめの一人は必ず外から感染してきたのです。  では外での感染はどこで発生するのでしょうか?危険性が高いのは皆さん聞き飽きた三密の空間で、マスクをしない状態で口を開いたり喋ったり歌ったりする機会のある場所です。要は宴会のようなシチュエーションです。満員御礼の小さな箱での演劇や口角泡を飛ばす会議などもそうです。いくら密集していても換気が良く、ほぼ全員がマスクをして会話や飲食をしない満員列車ではそうそう感染は広がりません。外食でも換気のいい店で距離を離して一人ずつ着席し無言で食物を摂取してもらえれば危険性は下がるかと思いますが、宴会はアウトです。こうした宴会的な状況に集まった多くの人々に感染が広がり、その感染を自宅に持ち帰った一人から複数の家族の者が感染するので、家庭内の感染の方が多いのはある意味自然なのです。  今回、宴会のような状況になりやすい夜間の飲酒を伴う飲食に関して規制が出ようとしています。それ自体は感染を抑えるという目的からは一定の理解は可能ですが、公的に金銭的な補償をしないと規制を守る人も少ないでしょう。飲食業の人も生活がかかっているのです。逆に言うとどれだけまとまったお金を出すかで行政の本気度も測れようというものです。また、酒類の提供をしない、宴会にはならない、一人で黙々

緊急事態宣言によるコロナ以外の疾病増加

 新型コロナウイルス感染症の拡大に対して、政府では再度の緊急事態宣言が検討されているが、経済的補償や強制力にかける中途半端で長期の規制は効果が不十分であるばかりでなく、新型コロナウイルス感染症以外の疾病の増加を招くのは確実だ。このことを踏まえて、政府には強力な規制と補償と人心の安定が保てるような施策をお願いしたい。  なぜ、このようなことを断言しうるのかと言うと、2011年に起きた福島の原発事故で発生した大量の避難民の健康状態のデータがあるからだ。避難や失業に伴う家族離散などにより、避難民には著しいストレスが加わった。K6と呼ばれる精神健康状態評価で、13点以上だと重い心理的負荷があると判定される。通常の生活環境ではK6で13点以上の人口は全体の3%ほどとされるが、事故1年目の福島からの避難民ではこれが14.6%にも達していた。こうしたストレスによりうつ病が増え、残念ながら自死率も上昇した。更に、運動不足や閉じこもりがちな生活となったため、肥満や糖尿病や高血圧や脂質代謝異常、さらには慢性腎臓病も増加した事が分かっている。  つまり、新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言は、その目的であるウイルス感染症の拡大を抑えるための強い規制だけでなく、生活の保障と社会的不安の排除も同時に目指さなければならない。もし名目上の緊急事態宣言のみで、結局は国民の自助に期待するだけのお願いしかしないのであれば、むしろやらない方がマシかも知れない。  医療現場の人間として緊急事態宣言を出すのには異論は無い。だが、その内容こそが重要であると政府には理解を願いたい。

COVID-19流行期のビハーラ

 このブログのタイトルにもなっているビハーラという言葉は、現代の日本では主に仏教的な終末期医療を意味します。ビハーラという言葉は元々は寺院や精舎のサンスクリット語で休息の場を原義とします。インドでの初期仏教の時代、僧侶は托鉢しながら修行をしていましたが夏の雨季にあっては寺院にこもって修行しており、この風習が禅宗の夏安居として今にも伝わっています。現代日本でのビハーラはホスピス同様に死の床に臨む人達にやすらぎを与えるのがその目的ですが、広く仏教的理念を持つ医療や介護でもビハーラという単語は使われます。  さて、そんなビハーラですが、新型コロナウイルス感染の拡大により、日本国内の殆どの病院や施設は面会禁止ないしは制限が行われるようになりました。医療介護者のマスク着用も必須となりました。患者様に対して優しい表情と思いやりのある言葉で語るという仏教でいうところの和顔愛語も、表情を隠されマスク越しでは耳の遠くなった高齢者の方々には聞き取りにくいという問題もありますがやむを得ません。  こうしたやりにくい状況でも人は日々死んでいきます。それは本人や家族が死ぬときにはこうありたいという物とは違うことも増えてきているのです。制限の中にあってもネットの発達で擬似的な面会なども可能にはなっていますが、COVID-19の流行に伴う対応で増えた負担から病院や施設のマンパワー不足も悪化してきており、自由に面会可能だった頃と比べると不便です。  医療介護従事者としては可能な範囲で工夫して対応していくしかありませんが、こういう状況になってくると、病気や怪我を負う前に日頃から家族や友人などに自分の思いをしっかり伝えておくことの大切さを思い知らされます。  今ありがたいと思ったことはすぐに相手に伝えましょう。今すまないと思ったことはすぐに相手に謝りましょう。今を逃せばそれを伝えられなくなることもあるのですから、なるべく悔いの残らない生活様式が大切なのです。  今は非常事態ですが、そうでなくても人は生まれた以上は確実に死ぬのです。ビハーラの精神を広く人生全般に広げていくことが、よりよい死を迎える一助になると信じます。死に臨む人に親切にするのは、自分も他人も大切することに繋がります。良い死を迎える事が出来た人は良い生を全うしたと言えます。あなたやあなたの大切な人がより良く生きるために、死ぬ運命にある人に

GoToキャンペーン

 新型コロナウイルス感染症だけでなく、一般的な伝染病対策としても人の移動や接触を避けるのは基本ですので、一連のGoToキャンペーンの中止はある程度は理にかなっていると言えます。しかし結果として廃業や失業に追い込まれる旅行関連の会社や労働者がいるのは大問題です。その対策として、GoToキャンペーンの停止による廃業や失業に関しては業界への大規模な免税や資金援助、日本全体でも一定期間の消費税廃止や場合によってはベーシックインカムを導入するなどして乗り切るべきです。まだ時間はかかりますが、この感染症が落ち着けば旅行業界の需要はまた増えるのですから、その時に業界が壊滅していれば恐ろしい規模の機会損失が発生しますし、何よりいま困窮する人を見捨ててはなりません。  ここ数日の間、GoToキャンペーンを中止しても感染者は増えて続けているからGoToキャンペーンで感染が拡大したのでは無いとの意見もネットを中心に増えてきていますが判断するには早計です。GoToキャンペーンの中止は12月28日からであり、先行した東京等の流行地域を目的地としたものも12月21日までに開始された予約済みの旅行についてはキャンペーンの対象とされていたのでまだあまり時間が経っていないのと、当然ですがGoTo以外の要素もあるので今のデータで断言することは無理です。また人々の移動を減らすことで、元々人口密度が高く蔓延しやすい都市部から高齢化率が高く医療の余力も乏しい地方に感染を拡大させないという理屈を考えれば、都市部の目的地だけを対象とした先行停止はあまり意味を持ちません。もちろんGoToキャンペーンだけで感染が拡大した訳ではないとはいえ悪影響が自明である移動を促す政策は愚の骨頂です。既に全国に感染は拡大しましたが、さらに移動を促進する必要もありません。どうしてもやりたいのなら出発地も目的地も各都道府県内限定にするとか一工夫あるべきでしょう。ただ、先述のように減税と資金援助の方が無難であろうと考えます。  ただ、イギリスや南アフリカの変異株が流入した先月より前で昨年7月以降の国内での感染に関しては国内の2つのクラターが起源であり、当時もうしばらく強い移動制限をかけクラスターを潰し、海外からの人の流入も制限しちゃんと検疫していれば、今頃日本は台湾やニュージーランドのように感染を抑え、それこそ大手を振ってGoToトラベ

新年あけましておめでとうございます。

 新年あけましておめでとうございます。令和三年の元旦を迎える事が出来ました。  今年もコロナ禍は続いており、初詣の行かれる人も少ないかと思いますが、各寺院では元旦の法要が行われていることでしょう。離れていても祈る心は広く人々とともにあります。  難局にあっても心静かに祈りを捧げましょう。心の平静を保つことは仏教の基本でもあります。皆様の心が安穏でありますように。南無三宝。