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大量中絶

 報道によると世界では年間に約1億2100万人の子が望まれぬ妊娠として命を授かり、その内の61%が中絶されて生まれぬままに死亡するそうだ。また、望まれぬ妊娠は妊娠全体の半分にも及ぶと言う。  つまり、膨大な数の女性が、本人が希望しないのに妊娠させられていることになる。その結果として、大量の赤ちゃんが殺される。一体なんという地獄だろうか?  そしてこれは、生まれた子供の3割近くは望まぬ妊娠の結果生まれた子供であることを意味する。望まれて生まれた子供でもその後に虐待される例も、望まれなかったけど生まれてからは大事にされる子供もいるだろうが、そんなに多くの望まれぬ子がいるのは不憫な話だ。  これらは挙児を希望しない女性を妊娠させなければ解決可能な問題だ。要は男性が嫌がる女性を妊娠させなければ済む。プロライフ派は中絶を非難する前にそちらに文句を言うべきだろう。  しかし、プロライフ派は、何が何でも中絶を否定する。エルサルバドルでは、妊婦が転倒して流産しても中絶したとして収監された例もあるほどだ。アメリカでも事実上中絶を禁止する法律を成立させる州が増えている。これは強姦の被害にあった場合も例外ではなく、さらに緊急性のある状態でなければ母体保護の目的であっても中絶出来ない法律で、医学的妥当性はない。プロライフ過激派により中絶を施行する産科医が殺人者として私刑で殺される例もあった。ちなみにプロライフ派によると、女性が性行為を受け入れた時点で出産を望んだ事になるらしい。強姦の場合もしっかり抵抗しなかった方が悪いとかいう謎理論だ。  今回の報道で、大量の死者数が突きつけられた事によって、この酷い状況がより切実な実感をもって理解できた。膨大な数の女性が望まぬ妊娠を強いられていることも、その結果として、毎年日本の人口の6割ほどの人数の赤ちゃんが殺されていることも本当に恐ろしい。

潜在的暴力

 人間の社会には治安と秩序がある。これらを守っているのは法だ。そして、各国の中で法が滞りなく執行されるのを保証する暴力が警察だ。こうした公的な暴力の力が弱まる場所では私的な暴力が支配する無法地帯が発生しうるので、警察は国中に目を光らせている。  しかし、例えば各ご家庭の中には警察は理由なく介入できない。だから、暴力で家庭を支配する人間がいれば、その中では暴力を振るう人間の独裁が成立する。もちろん、人が死んだり怪我をしたりすれば警察が介入するのだが、多少の事は民事不介入でスルーされてしまう。そういう家庭では残念ながら、ひどい状態が続くことになる。そして、暴力的に支配を続けた人間(だいたい父親)は、老化によりその体力が落ちた途端に報復を受けることになる。  では、仮に父親が家庭内で最強の生き物だとして、誠実で道徳的な父親がいる家庭であればこうした問題は発生しないのかと言うと実はそうでもない。立場も体力も大人より弱い子供がわがまま勝手な言動をした場合は、親から教育的に指導されるだろうが、父親が子供と同様につい何かしらのいけない行為をしてもそこまで強くは言われないことが多いのではないか?この子供と父親を分ける差は暴力の潜在的能力の差だ。父親本人に暴力を振るう気が無くても、暴力を振るわれるかも知れないという恐怖を弱者側が持てば、弱者は強者の意に反しにくくなる。そして、圧倒的な能力の差の前に少しも恐怖するなと言う方が無理なのであり、家庭内で最強の人間は倫理的に自らを律する必要がある。逆に、家庭内で最強の存在が他の家族と完全に平等に扱われているのならば、それはものすごく信用されている証だろう。  家庭だけでなく、こうした潜在的暴力の強さは弱者の自発的忖度を招くのには十分だ。強者が倫理に厳しく縛られる必要があるのはこの為だ。もちろん、暴力とは単に筋力や武器の使用に長けていることのみを意味しない。知的水準の高さも経済力も縁故の濃さも全て暴力になりうる。何かしらの能力に自信がある人間は気づかぬうちに潜在的加害者にならないように用心した方が良いだろう。

ウィル・スミスのビンタ

 アカデミー賞の授賞式でプレゼンターから妻を侮辱されたウィル・スミスが相手を平手で殴った事件が話題になっている。同情的な意見も散見されるが、世論は総じて暴力の行使に対しては批判的だ。  ウィル・スミスは怒りに任せて相手を殴ったのだから、仏教的な解釈では忍辱の心が足りなかったのだと言える。ウィル・スミスは仏教徒ではないだろうから忍辱を守る宗教的義務は無いが、一般論として怒りを抑える技術は大切であり、やはり今回の事は褒められたものではないだろう。ところで、今回の彼の怒りの正体はなんだろうか?  実は、このプレゼンターが侮辱的な発言をした時、会場の多くの人は笑っていた。当のウィル・スミスも笑っていたように見える。妻は明らかに困惑した顔をしていた。ウィル・スミスの怒りは妻を馬鹿にされた事に対する直接的な怒りばかりではなく、それを笑ってしまった自分への憤りも相当分に含まれていたのでは無いだろうか?こうした経過から、そもそもの侮辱的発言は問題だけど、それを理由にウィル・スミスの暴力行為を肯定するには弱いと考えるのが多数派のようだ。  さて、世界的にはウィル・スミスに責任があるという世論が優勢であるように見えるが、実は日本ではそうでもなく、むしろ擁護意見の方が多いように感じる。家の名誉を守るという思想が現代にも息づいているからだろうか?江戸時代の鍋島藩の武家の心得を説いた「葉隠」では勝算や社会状況などを一切無視した即時的報復が是とされている。「葉隠」冒頭の「武士道とは死ぬこととみつけたり」とは、生き残りたいが為に、自分が死にそうな義務を放棄するのを戒める言葉だ。武士は当時の相互確証破壊のための装置だといえる。そこにあるのは怒りよりも報復の義務だ。こうした思想だと、ウィル・スミスは怒りに任せて暴力を振るったという印象よりも、家族の名誉を守るために義務を果たしたのだという印象が強くなる。  人はその根底となる考え方で随分とものの見方が変わる。まあなんにしても暴力は良くない。ウィル・スミスも反省のコメントを出していたし、穏便に解決するように祈る。

ミャンマー軍が民主派を全滅させると宣言

 ミャンマー軍のミン・アウン・フライン総司令官が27日の演説で民主派を指してテロリストとよび、これを全滅させると述べた。暴力で民主的選挙を無効とし権力を奪い取った賊軍の長がよくもまあこんな大それた事を言えたものだ。  ミャンマー軍に民主派を皆殺しに出来る力があるかどうかは実際のところ怪しいが、かかる非道な発言を堂々とするとは控えめに言って狂っている。  しかし、このところ世界は巨大な問題が連続でおきており残念なことにミャンマーへの注目度は今ひとつだ。国際的な支援の規模は事態の深刻さと比して少ない。また、ミャンマーの事情は極めて複雑で支援先の選定も難しい。中には軍事政権を支援する団体もあるので注意が必要だ。もし募金をするならば国際的に名の通った組織を選ぶのが無難だろう。  ともあれ、ミャンマーの軍事政権が一日も早く崩壊して民主制にもどり、各民族間の諸問題も平和裏に解決するように祈る。

コツコツした努力の積み重ねも一瞬で失われる。

 親より先に死んだ子供がその滅罪のため三途の川の河野で延々と石を積まされる 賽の河原 の伝説では、ようやく積み上がりそうになった石の塔はあっという間に鬼に打ち壊されてしまいます。また最初からやり直しです。  私が若かった頃と比べて日本はだいぶん住みやすい良い国になりました。国民一人一人の地道な努力の成果です。とは言え、現代は現代で問題があります。格差は拡大し貧困層も増え、教育水準も低下し、過激なレイシストや陰謀論者が暴れています。しかし、それを問題視し活動する人々も多く、昔と同様に諸問題は改善されていくものと信じます。こう言うと、今の方が酷いとの意見を受けることもありますが、若い方々は昔の酷さをご存じない。  昔は飲酒運転や危険運転でバンバン人が死んでいました。ヤクザが幅を利かせ買収に応じない家屋にはついうっかりダンプカーが突入する事故がなぜか多発していました。殺人などの凶悪犯罪も今より圧倒的に多かったです。今の時代に問題視されている児童の虐待死だって、表に出てなかっただけです。体罰やネグレクトをしつけと呼んで憚らない時代でした。タバコのポイ捨て・不始末による火災や、歩きタバコのせいで火傷を負う人も多かったです。おじさん方は所構わずタバコを吸うばかりではなく公の場でも痰を吐き散らかし小便を垂れ流していました。女性が強姦されればイタズラをされたと言われほとんどの例で罪にもならず、痴漢は挨拶のような物でした。極左テロは吹き荒れ、大学や企業で爆弾が炸裂する。中学高校でも不良が武装し暴虐のかぎりを尽くす。治安を維持するための警察も左翼政党の圧力により手足を縛られた状態でした。そんな地獄のような時代がほんの数十年前の日本にはあったのです。  それが今や、飲酒運転は激減し、危険運転も厳しく取り締まられるようになりました。ヤクザは暴対法で壊滅寸前です。殺人事件も激減しています。児童虐待も見かけは増えていますが実数は減っているでしょう。歩きタバコやポイ捨てもほぼ見なくなりました。昔の漫画で待ちぼうけの男性の足元に吸い殻の山が出来ている場面を見たことがあるかも知れません。あれは時間経過を示す手法ですが、昔はそれが問題視されていなかったのです。道端が小便くさいことも痰を踏むことも無くなりました。強姦や痴漢は今では犯人が社会的な死を迎えるほどの重罪となりました。そこらじゅうで爆弾が炸裂す

戦死者とその遺族への侮辱

 あるウクライナ兵が、戦死したロシア兵の私物のスマートフォンを用いその家族にビデオ通話して相手を嘲笑う動画がネット上に流れている。この動画が本物なのか何らかの意図を持ったフェイクなのかは分からないが現代ならではの酷い話だ。もっとも昔であっても、もし兵士が家族と容易に通信出来る手段をもったまま戦争に行っていたら同様の事態は起きたのだとは思う。機密保持の観点から戦場にいる兵士が個人的な通信機器の携帯を許可されているとは考えにくいが、開戦初期でもロシア兵が母親とメッセージのやりとりをしていた話もあったので、ロシア軍の軍規は存外にいい加減なのかも知れない。  侵略軍の兵士が現地でどれだけ非人道的なことをしたとしても、戦死した兵士の家族に直接通信しバカにするという行為は常軌を逸している。この話が事実ならば当該ウクライナ兵士には適正な処罰を願いたい。  兵站の不備が指摘されているロシア軍内では空腹や寒さから略奪する兵士も増えている。またロシア軍の無差別攻撃で民間人の死傷者も増えている。そんな中では現地のロシア兵への怒りは沸騰していることだろう。これ以上の犠牲者を増やさないためにも、一日も早い侵略軍の撤退とロシアの民主化を願う。

戦争と日本仏教

 日蓮宗や浄土真宗が有名だが先の大戦で日本の仏教諸宗派はその教義や教学に変更を加えてまで戦争遂行に協力した。戦後はその反省に立ち日本仏教の伝統宗派は一貫して戦争反対の立場をとるようになった。今回のロシアによるウクライナ侵略においても、殆どの伝統宗派は戦争反対の意志を表明している。  だが、それでも少し気になる事がある。今回のロシアの侵略ほど責任の所在がはっきりしている事はそうそうない。それにも関わらず、いわゆるどっちもどっち論を用い、ロシアの侵略を容認するかのような発言をする仏教者も散見される。開戦前はさらに酷く、ロシアの軍事的恫喝をまるで正義の義挙であるかのように言う者までいた。  侵略に抵抗するのもまた戦争行為で良くないなどと言う仏教者は、石山合戦や護法一揆で戦った先人をどう思っているのだろうか?侵略や理不尽な暴力に晒された時に、弱者を守らずただ悪人の好き放題に虐殺と略奪をさせることのどこに善があると言えるのか?そんな無作為は単に侵略者を手助けしているだけではないのか?侵略者を防ぎ弱者を守る為に戦って死んだ兵士に、お前は戦争行為をした極悪人だなどと本気で言うつもりなのか?  もちろん個々人のレベルでは侵略軍の兵士にも防衛側の兵士にも善い人も悪い人もいるだろう。だが、それがどうした?善人も悪人も救うのが宗教だろうが、ならば救ってみせろ。どうして、今まさに侵略が行われている時に侵略軍を支援する?そりゃあ侵略側にだってどんな妄想だろうがこじつけだろうが何かしら大義名分というものはある。それを聞いて侵略された側に譲歩を迫るのは、中立ではなく侵略の支援だ。もしあなたの家に押し入った強盗殺人犯に次々と家族が殺されていく中、突然したり顔で現れたお坊さんが「この強盗にだって言い分はあります。貧乏だったのです。警察を呼んだり抵抗したりしないでお金を分けてあげてください」とあなたに言ったらどう思う?その程度の想像力すらないのか?嘆かわしい。  また、ロシア国民の中には経済制裁で死んでしまう人もいるから制裁するべきではないと言う意見もある。死ぬのはプーチンでは無く弱者だというものだ。確かに弱者から犠牲になるであろう。では経済制裁をせずにロシアが侵略を続ければより多くのウクライナ人が死ぬ事になるのは良いのか?という問いに彼らは何と答えるだろう。説得でと言うかも知れないが、外交交渉も説得

フェミニスト過激派

 昨日の話の続きではないが、フェミニストの発言に対するかなり的外れな批判でも多くの支持が集まる理由の一つに、過激派のフェミニストの存在があると思われる。彼女らへの反感により、フェミニズムっぽい発言は全て叩くべきものというバイアスが形成される。  どこからが過激派なのかには様々な意見があるが、ここでは男性への絶対的嫌悪がその思想に取り込まれている人達のこととする。即ち、生まれたばかりの男の赤ちゃんでも攻撃対象とみなすような人達だ。もちろん、仲間には男性はいない。ジャッポスという言葉を聞いた事がある人もいるかと思うが、攻撃的にその言葉を使う人はフェミニスト過激派だとみて良いだろう。ちなみにジャッポスとは日本人の蔑称であるジャップと男であるオスを組み合わせた造語であり、日本人男性全員はフェミニスト過激派から見て差別や殺害が当然とされる対象だ。  フェミスト過激派はその排他性からみて取り締まられるべき社会の敵だ。だが、いつものごとく表現の自由、言論の自由とやらで野放しとなっている。そんな過激派の一番の攻撃対象はいわゆるオタク層の人達だ。もちろん女性のオタクもいるのだが、過激派からは名誉男性として扱われやはり攻撃対象となる。企業や行政とコラボしたいわゆる萌えキャラを使ったイベントなどは、度々これらフェミニスト過激派の攻撃にあい中止を余儀なくされてきた。確かに、オタク側も過剰に扇情的な図画を公衆の目に触れるように展示・販売するなどの行き過ぎた行為をすることはあるが、そうで無いおとなしめのイベントでもフェミニスト過激派は潰しにかかる。流石にクローズドの寄り合いは襲われる事は少ないが、それは寛容さ故の話ではない。過激派が入り込めないだけだ。彼女らはそれらの破壊を虎視眈々と狙っている。こうしてオタク層の多くはフェミニスト過激派だけでなくフェミニスト的なもの全体を恨んでいくようになる。  こうした経緯があるから、過激派で無いフェミニストがなにか言っても、逆襲とばかりにオタク層は食って掛かる。それが、理屈にかなったものであればよいのだが、発言内容を見ずに何か言ったら攻撃しようとするから昨日のような無理筋をゴリ押ししてしまうのだろう。誠に恨みの連鎖は恐ろしい。

進撃の巨人はジェンダーに配慮された作品か?

 マンガやアニメで有名な「進撃の巨人」をネタに今ネット上でフェミニストとオタクが戦っている。もちろん、フェミニストとオタクはほぼ通年性に戦っており、彼らが言い争っている事自体は珍しくもない。だが、今回かなり興味をひかれたのはとあるオタク側陣営の人の発言だった。日頃、彼らの争いで過激な意見や行動を起こすのはフェミニスト側の人が多いのだが、今回は違った。明らかに常識の斜め上を行っているオタクがいた。  その発言に至るまでの経緯を簡単にまとめると、とあるフェミニストが「進撃の巨人」を評して、女性蔑視をほぼ感じずに読めるとし、その理由の一つとしてセクハラシーンが無いことをあげていた。これに対してオタク陣営からは、いやいや女性キャラが性的に酷い目に遭うシーンならあっただろうとのツッコミが殺到した。「進撃の巨人」では女性を含む弱者への差別を否定的に描いており、当該フェミニストの発言の意図としてはセクハラを許容するようなシーンが無かったと解釈出来るが、語義的にセクハラのシーンの有無だけを言っているとも解釈は可能だ。だから、後者の意味にとった人達から胸糞悪くなるようなシーンはあっただろうとツッコミが入ったところまでは理解出来る。しかし、このフェミニストの発言への批判の一つに以下の物があった。 「進撃の巨人はジェンダーに配慮し女性蔑視から脱してて素晴らしい!」 ヒストリアは本当の意味で「産む機械」扱いされて実際一人は子どもを産んだし、始祖ユミルも褒美と称して子を産む事を強制されたんですけどそれは良いんですかね…  これは他のオタク達からの批判とは違う。 「進撃の巨人」に酷いシーンはある。その有無を論じるのと、そのシーンが女性蔑視であると言うのとでは、論点がまるで違ってくる。 圧倒的な権力をもつ王が女性に褒美として子を産ませるという場面は作中で酷いこととして描かれており、主人公のエレンはその悲劇の連鎖を破壊するためにより悲劇的な手段を取ることになる。このような非道を称賛も推奨もしていない。ところが、このオタクの人は、そういうシーンがあるから「進撃の巨人」は女性蔑視から脱してもいないしジェンダーにも配慮してないと言っていることになる。これは明らかにおかしい。  この発言に多くの批判がつき、このオタクは次のような弁明をしているが、これが更におかしい。 なんか今日の朝から急激に伸びてるんだ

謝ったら負け?

 自らの罪を懺悔し謝罪してきた人に対して怒り許さ無いのは、大乗仏教の十重禁戒の瞋心不受悔戒(不瞋不受謝戒)に反する。この戒に反した者は菩薩の地位を失う重罪となる。  日本は一応大乗系の仏教国であり、その信徒は菩薩たるべきなのだが、その自覚がある者はごく少数だ。謝罪を受け入れず怒り攻撃の手を緩めない事例は社会の至る所で見られる。  特に最近では己の非を認めた相手に対し、そうれ奴は自分で悪だと認めたぞ徹底的に叩けとばかりにネットリンチや現実での嫌がらせがなされる例もしばしば見られる。叩く方は自分らが正義のつもりでやっているのだろうが、この袋叩きのせいで死んでしまう人まで出ており悲しいことだ。  世間はそんな状態だ。謝ればどんな目にあわされるか分かった物じゃない。こうした恐怖から、決して謝ろうとしない風潮も生まれている。無理筋でも開き直れば一定の支持者は集まるが、謝った途端に孤立無援となり吊し上げられてしまう可能性が強いからだ。  もちろん、謝罪とは口ばかりで自己正当化に終始し逆に他者を攻撃するような演説は謝罪では無い。また、しでかしたことの程度によっては菩薩は許しても世俗の刑法によって裁かれるだろう。  だが、この世に過ちに犯さぬ人はいない。謝罪と許しはお互い様の精神で成り立っている。既に謝罪すべき人がいなくなっている場合、人は神仏に赦しを乞うのだ。謝ったら負けなどという発想は精神の貧困さの表れだ。  

刑法に抵触しない悪への対処法

 世の中には刑法に抵触しない悪がある。近年で最も身近な例を言えば、ワクチンに関する陰謀論だ。新型コロナウイルスワクチンやHPVワクチンなどに関する(打つと死ぬとか不妊になるとか謎の機械が埋め込まれるとかの)明らかな誤情報を宣伝すること自体は、言論の自由の名の下に取り締まりの対象ではない。だが、これらの情報を信じた為に死んでしまった人は多い。これは、情報が正しいかどうかを見極める力に劣った人達を狙った詐欺であり、信じた人は命の危険と引き換えに様々な詐欺的商品を買わされる危険も増す。また、こうした集団の存在は感染の拡大を招くので公衆衛生にとっても脅威だ。個人的にはこうした詐欺師やその信者及びこれらの危険な誤情報を流布する報道機関や出版社は取り締まるべきだと思っているが、法的整備がなされていない。もし、私が彼らを私的に逮捕拘禁すれば、刑法により処罰されるのは私の方だ。だから、現状を変える為には私刑を執行することではなく、法整備を目指して政治に働きかけるのが合法的で正当な手段ということになる。  だが、法的な整備を目指したロビー活動は遅々として進まない。ご存知の通り、国会議員にも詐欺療法を信じて擁護する人達がいるからだ。最近、こうした詐欺師たちの横暴に痺れを切らして、正しい医師らが詐欺師たちに現行法で対処できる範囲で抵抗しようとする動きが見られる。素晴らしいことだ。頑張ってほしいと思う。  それを踏まえた上で、少し考えた方がいいと思うのは、先述のワクチン陰謀論など多くの死者を生む公衆衛生上の極めて深刻な脅威に対しては全力で叩きに行って良いが、直接的にも副次的にも死亡や健康被害が出ることがほぼ無いが宣伝されている効果も無いような医療詐欺に関しては、それを指摘して相手が謝罪し詐欺的治療を撤回したのならば、それ以上叩かなくてもいいのでは無いかということだ。日本の刑法だって教育刑が基本であり、死刑以外は吊し上げや見せしめの効果は期待されていないはずだ。既に謝罪した人を吊し上げて、次はお前だぞと見せしめにすればなるほど詐欺は減るかも知れない。しかし、保険外の処方を詐欺としてではなく効果があると信じてする医師も多く、彼らに恐怖を与えるより、間違いを指摘してあげた方が平和的ではなかろうかと思う。  語弊を恐れずに言えば、日本の医師の中で保健適応外の処方をした事が無い人は一体どれくらいいる

地下鉄サリン事件と仏教

 1995年3月20日は仏教系のカルト教団であるオウム真理教が東京の地下鉄で毒ガスサリンを用いたテロを起こした日です。犠牲となった皆様のご冥福をお祈り申し上げます。  さて、既に27年前となるこの事件、今の若者は狂信的なカルト教団による凶行として理解しているかと思いますが、実は一連の事件がオウムの仕業だと発覚する前までは実際に家族や友人が洗脳されて被害を受けた人やそれを助けようと活動する人達以外に、その異常性はあまり認知されていませんでした。一般人からは空中浮遊の芸をする面白い人達という認識でしたし、一部の仏教者や学者からは、オウム真理教の出家制度や厳しく修行に打ち込む姿勢をみてオウムは立派だと持ち上げ、日本古来の仏教を叩く材料としてもいました。  小生は事件前に知人がオウム真理教に入信して大変な思いをしたこともありオウムに対しては初めから否定的でしたが、存外に人は騙されるものだと恐怖したことを覚えています。オウム真理教の教義は、仏教的にはありえないと否定されがちです。確かに仏教の共通項において殺人が是認されることなどありえないのですが、仏教はかなり幅が広い教えでオウム真理教がその教義のベースとした密教では、呪殺と称した殺人は歴史上しばしば行われてきました。近年でも左翼思想の仏僧が政敵を呪殺することを標榜して活動していたりもします。  また、呪殺など殺人の許容だけでなくもっと深刻な問題があります。仏教の影響を受けた昭和のテロ組織である血盟団が唱えた一殺多生は、一人を殺すことで多くの人が救われるのならばその殺人は認められるべきだという思想です。オウム真理教で言う所のポアも、生かしておいても悪業を積むだけの人間をこれ以上の罪を犯す前に殺してやるのは慈悲であるとの思想であり、類似点が見られます。こうした考えは容易に大量殺人に繋がります。  一殺多生はトロッコ問題のような部分はありますが、このような考えを元に殺人が行われる場合は、本当に一殺により多生が得られるかも分からない事が多いです。組織の都合により、殺人の被害者をありえない極悪人に仕立て上げている事がほとんどだからです。こうした発想はキリスト教圏にもあり、妊娠中絶を行う医師が未来に殺されるであろう胎児を救うとの名目で殺される事があります。そして、その一殺のターゲットは個人だけではなく、民族や国にも拡大して解釈されがちで

金剛般若経

 金剛般若経は初期の大乗経典で、内容的には「空」を説きながら「空」の文言は登場していません。このことから金剛般若経は「空」の概念が出来上がりつつあった西暦150〜200年頃に成立したと思われます。以下に簡単に解説していきます。  この経典は釈迦と弟子の須菩提の問答を軸に話が進みます。序盤から自己と他者の区分や分別を否定しており、初学者には難しい内容となっています。すなわち、菩薩が全ての生き物を救おうとして、実際に救っても実は誰も救っていないとされます。なぜかと言うと、救うということは救う自己と救われる様々な他者が存在することになり、そのような無常である自他の概念に執着するような者は菩薩では無いという理屈です。  次に五感や思想によった布施をしてはいけないと説かれています。布施とは本来は執着を捨てる為の修行ですからこういう話になるのです。(布施は募金や投資とは違うのです。「自分」がこんな「善いこと」をしました皆さん見てくださーい!と強調するような布施は布施ではなく宣伝です。)  さらに仏に備わると伝えられる身体的特徴が全て虚妄だと断じ、分類された特徴を特徴ではないと見ることで物事をありのままに捉える事が出来ると、分別が虚妄を生むことを指摘しています。続けて須菩提が、後の世の正しい教えが衰退したあとにこの経典の説く内容を理解する人がいるだろうかと心配したのに対して、お釈迦様が正しく理解できる人はいると告げます。その理由として、これらの優れた人は繰り返された転生で積んだ功徳の結果、全てのことに対する執着を離れているかだと説明されます。仏法でさえもそれが役目を果たした後は捨てるようにと執着を離れることを強調しています。  次に仏法が言葉では説明できないものである事が説いてから、この教えから四行詩だけでも取り出し人々に説明するのは、ものすごく功徳があると続けています。この流れは一見矛盾するように見えますが、仏法そのものは言葉で表現できなくても、それを伝えるために言葉の否定に執着するのは現実的ではありません。この後、この経では有名な四句否定の原型を見るかのような例えが続きます。仏法は仏法ではないという話にはじまり、仏に至るまでの修行者の階位をたとえに、その位にある修行者が自分がその位にあると思うことはないという話がされていきます。自我や物事に執着した心を起こしてはいけないという

降伏論

 プーチンの戦争が始まって以来、主に左派の論客が、ウクライナ人に抵抗をやめてロシアに降伏するように勧めるという現象が起きている。これは論客が親露派というだけでなく、とにかく戦争はいけないことだからやめようという発想でも言われている。後者の場合、ならばそれは侵略したロシア軍に言うべき話であるが、何故か彼らは侵略に抵抗する側にそう勧める。彼らがそう言う根拠は抵抗すればするほど犠牲者が増えるというものだ。これもおかしな話でロシア軍が侵略を進めれば進めるほど犠牲者は増えるのだからやはり武器を捨てよとの呼びかけ先はロシアであるべきだ。べき論で言ってもこうだが、左派論客には決定的に欠けている視点がある。  視点を変えてなぜウクライナ国民が侵略に激しく抵抗するのか考えれば、日本の左派論客がどんなにおかしな事を言っているのか分かるだろう。ウクライナ人の頑強な抵抗は国民の大半が戦った方が降伏するよりマシだと信じているからだ。2008年、ジョージアがロシアの侵略に敗れた南オセチア紛争では略奪、市民の殺害、強姦等が多発していた。ロシアに占領されるというのは、そういうことだ。ウクライナの男達は、侵略に抵抗し勝つ事を第一の目標にしているだろうが、同時に時間を稼いで女性や子供や老人が避難するチャンスを作る為に命がけで戦っているのだ。  この状況で果たして、ウクライナ国民の多くが降伏した方が戦うよりマシだと信じることはあるだろうか?ロシアのプロパガンダのように、実はプーチンは物凄い善人で降伏したら理想的な政治をしてくれるという戯言はもはや誰も信じまい。逆にプーチンがウクライナ人を絶滅させる勢いで大量破壊兵器を投入してNATOも助けてくれなければ、政治的には降伏せざるを得なくなる局面も生じるだろうが、市民の大半はロシアへの怒りを強くするだけだ。なお、言うまでも無いことだが、もしウクライナに核攻撃がなされても、非難されるべきはプーチンとロシア軍であり、核攻撃される前に降伏しなかったウクライナ人が悪いわけではない。左派論客は本気でウクライナ人を批判しそうで怖い。  また、戦争ではなく外交交渉で問題を解決すべきとする左派論客もいるが、この場合の外交交渉は軍事と別物ではない。この外交、和平交渉は軍事的に有利な方が有利に進める。この外交でという左派論客は、人が死ぬよりウクライナがロシアの言い分を聞いて非武装

暴力に屈する政治家

 政治家は暴力に屈するべきではない。暴力にたやすく屈する政治家は、もし日本に軍事独裁政権が出来ても、その尖兵となるだけで決して国民を守りはしない。  外国が暴力を以て理不尽な要求を日本に飲ませようとした時に、交渉もせず怖いから言うことを聞きましょう!それが平和のためですなどと言う政治家を信じてはならない。彼らは決して国民を守らない。  そもそも、侵略者が怖いからと、その意を受けて被害にあった人々の発言をも封殺するような政治家の一体何を信じろと言うのか?実際に日本が脅されてもいないのに率先して侵略者の手先になるような政治家は決して国民を守らない。  なんたることだろうか?どうして日本の政治家はここまで利他の心も慈悲もない煩悩まみれの畜生に成り下がったのか?実に嘆かわしい。彼らは賢しげに国益の為などと言うが、国益とは帝国主義者の走狗となることではない。法と正義を守ることこそが国益となる。  法と正義を守って暴力に晒されたら殺されたらどうしてくれるのか、と言う意見にはこう答えよう。「ファシストの狗となってもどのみち殺される。少なくとも生きていると言える状態ではなくなる。同じ死ぬのなら、悪の手先として死ぬのか、誇りを持って死ぬのかどちらかを選べ」と。

唯識無境の無境

 大乗仏教で言われる「唯識無境」はこの世界は識のみで成り立っており外界に存在する物はないという意味だ。つまり心が世界全体であると言っている訳だが、これはしばしば誤解を招いている。特に、この世は「自分」の妄想に過ぎないとする誤解が最も多い。唯識論では「自分」というものも妄想に過ぎないのだからこれはおかしい。唯識では考えても故に我ありとはならないのだ。また、この世は思い込みで成り立っているので世界を好き勝手に改変できるという誤解もあるが、世界が識のみで成り立っていても別に学校で習った物理法則が突然変わったりはしない。こうした誤解を放置すると、他者なんて自分の妄想だから殺そうが奪おうがどうということはないとする極論にまで行き着くので危険だ。ちょっとその誤解をといてみよう。  唯識論では個々人が認識する物は全て心が作り出すと考える。違う人も同じ物や世界を見ているのは共通する種子と呼ばれる因子が無意識の中から育って意識されるからだという。この個々の心から出た共通認識はその後も共通であり続ける。例えばAさんが花瓶を壊した時に、花瓶を割ったAさんにとっては花瓶は割れており、それを見ているBさんや後でそれを見ることになるCさんにとって花瓶は割れていないなんてことは起きない。皆がその花瓶を壊れていると認識するのはそれぞれの人の種子に働きかける増上縁と呼ばれる縁があるからだとされる。認識の元となる種子は無意識の中で自己増殖したり、意識下の経験から無意識に還元されたりして、結局のところは全世界の事象は種子として各人の無意識に溜め込まれていることになる。この考え方はいかにも宗教的であり、科学的に分別された考え方では自己の精神の中に森羅万象が収まっているとは考えにくい。だが、科学的視点をもってしても人は認識の外には出られないことには違いない。  唯識無境の無境に注目してみると良い。境が無いのだ。識の限界が世界の果てだ。当然だが、我々が観測あるいは想像できる全ての事象は我々の識を超えては存在しない。未だ発見されていない未知の事実があったとしても、技術の発展で認識できる範囲が増えたとしても、識が捉えうるものしか我々は知り得ない。しかも、いかに科学的に誤解のないような記述でそれらを表現したとしても、言語は記述したい事象そのものにはなりえない。我々はどこまでもバイアスから逃れられない。先人が唯識論に

日本国内のプーチンの戦争

 プーチン戦争はウクライナだけで起きているのでは無い。日本でも今回の侵略戦争を肯定するファシストが政界や経済界や言論界に跋扈している。彼らはついに侵略に対する抵抗すら否定するにまで至っている。  ファシストは暴力をもって自分たちへの批判を封じる。こう言うと、日本にいるファシスト達は直接暴力を振るっていないと反論されるかも知れない。だが、それは間違っている。彼らはファシズム国家の軍事力を背景に我々を脅しているのだ。「あの軍事大国と戦争になってもいいのか?」とか「抵抗しても無駄死になるだけだから服従するべきだ」などと言うのだ。その先には民主主義も言論の自由もない。  こうしたファシストの横暴を言論の自由だ表現(暴力)の自由だとして許せば、寛容な勢力は次々と封殺され、言論の自由も表現の自由もない社会が生まれる。そんな事はあってはならない。寛容な社会を維持するためには不寛容には不寛容でなければならない。ファシズムは不寛容の極みだ。だからファシズムを容認するのはロシアの味方をして侵略を支援していることになる。  ウクライナ支援の募金やボランティアだけでなく、ファシストを社会の表舞台から一掃するのもプーチン戦争をウクライナ人と共に戦う手段だ。  ファシストの政治家は次の選挙で当選させてはならないし、人命と引き換えにプーチンからの利益を得ようとする企業の商品は絶対に買ってはならない。破廉恥にも侵略戦争を賛美し抵抗を批判する人間を取り上げるマスコミには徹底した抗議を行うべきだ。  ファシストの詭弁で多くの日本人が騙されるのは戦争の定義だ。それは侵略に抵抗するのも戦争行為だとするものだ。しかし、国際法上の戦争は侵略した方が戦争を起こしているのであって、抵抗する側は自衛権を行使しているだけだ。自衛権の放棄で得られる物は、戦争の終結では無く虐殺の始まりだ。  ファシストどもに屈してはならない。これは武器を用いぬ戦争だ。侵略者に対して自衛権を行使するのは正当な行為だ。日本からファシズムが消滅するまで抵抗しなければならない。一時期の左翼過激派によるアンチファ運動ですっかり反ファシスト運動は胡散臭いものと見られるようになったが、過激派は相手をファシストとレッテル貼りすることで自分たちの活動を有利に進めようとしていた訳で、反ファシストであること自体は至極まっとうだ。そして、今レッテル貼りでなく掛

頓死

 ついさっきまで元気だった人が突然に死んでしまうことがある。それは次の瞬間の私かもしれない。この絶対的な真理の前に人間は無力だ。  人生は短い、怒りや貪りや無知に起因する争いに巻き込まれることなく心穏やかに過ごしたいというのは大半の人が望むところであろう。  病気や災害や事故や戦争で突然に亡くなってしまった人を見聞きするにつけ、安穏たる日々の大切さが身に染みる。  歴史上、多くの求道者は心の平安を望んで山奥などの一人で過ごせる場所に籠もってきた。そのまま、そこで死んだ人も多かったことだろう。  だが、そこで得た知見を広めて他者も救おうとする者は再び里に降りてくる。一人でなら死ぬまで心穏やかに過ごせただろうに、わざわざ煩悩にまみれた俗世へ戻ろうというのだ。並大抵の利他や慈悲の心では出来ない。  もちろん、一人で修行して得られたと思った成果は修行者自身の単なる思い込みや慢心である方が多かったはずだ。だが、いずれにしても彼らは人を救うために自らの利益を捨てて帰ってきた。菩薩と呼ぶにふさわしい。  チベット密教で観音菩薩への信仰心は四つに分類されている。そのうちの一つは「もし自分が観音菩薩の徳を持っていれば無数の衆生が救えるのに」と思うことで求道信仰心と呼ばれる。利他と慈悲は大乗仏教の基本だ。  簡単に人がバタバタと死んでいく場所でも、心ある人々は助けあい利他と慈悲の心に溢れている。仏教国で無くてもみられるこの現象は、やはり人間には仏性があるのだと思わせてくれる。  死者に冥福が、生者に慈悲が、世界に平和があるように祈る。

上座部仏教に社会性はあるか?

 主に東南アジアで信仰されている上座部仏教の教えでは修行して仏の一歩手前までの悟りの段階に到れるのは僧侶だけとされている。そうでない一般人は僧侶に布施などをすることで功徳を積み来世に良い転生先を得られるようにするという教えだ。  こうした考え方のせいか、一部の上座部仏教の僧侶からは世俗を軽視しがちな発言が聞かれる。日本に滞在している上座部仏教の高僧も、宇宙開発は無用の下らないものだと言う者までいた。また、日本の上座部仏教の信者からもしばしば、日本の大乗仏教を偽物だ紛い物だと批判する声も聞かれる。  まあ、たしかに上座部仏教と日本の仏教は違う。上座部仏教のみを正しいと考えていれば大乗仏教は許しがたい偽物なのだろう。大乗仏教の立場からいえばこの批判は遍計所執性によるものだと思う。大乗仏教では僧も在家もともに救われる存在であり市井の生活もまた大切な修行だ。  数年前に、仏教国であるタイで多数のウイグル人難民が中国に強制送還される事があった。亡命をこころみたウイグル人らが中国当局に引き渡されれば殺されたり収監されたりする。この時、上座部仏教界からは大きな批判は起きなかった。また、ミャンマーでロヒンギャが一部の上座部仏教過激派により殺戮される事件もあった。この時も上座部仏教界からは大きな批判は出なかった。そんな上座部仏教の信者から偽物よ堕落よとの非難に晒されている日本仏教の諸宗派の殆どが、今回のプーチンの侵略戦争に対して戦争反対の意をあらわにしている。一方で、上座部仏教界は今回も目立った批判をしていない。  大乗かそれ以外かに関わらず、一切の生きとし生けるものの安寧を願うのが仏教の基本のはずだがどうしたことだろうか?これは、上座部仏教の教義上は現世で仏法に出会えずに苦しむのは前世からの宿業であり仕方がないという発想がある為だろう。人々の幸せを願いはするが、まあ来世でガンバレよという感じだ。こうした発想の違いはもはやどうしようもない。別段批判しようとも思わないが、上座部仏教に大乗仏教と同様の社会性を期待するのは間違っているだろう。

軍隊嫌い

 平和を愛する国民の中には軍隊や兵器そのものを憎む人がいる。阪神淡路大震災の時は行政の中に自衛隊を嫌う人がいたために、出動の要請が遅くなり結果として被害が拡大したのは有名な話だ。あなたがもし最近では国民の自衛隊への信頼もあがり、もうそんな事はないと思っているのならばそれは勘違いだ。近年でも、大きめの地震が起きた時に自衛隊の艦船が救援に駆けつけても、軍隊に協力はしないとして寄港や接岸を拒否する自治体もある。また、災害時の救援計画のために民間の空港利用を想定しても、軍隊に民間の空港は使わせないと断る企業もある。その結果どれだけの人々が死のうと、軍隊に協力しない自分の正義に酔いしれるのだから始末に負えない。  気づいていないだけで、あなたが住む土地の近所にもそういう自治体や企業はきっとある。自分の考えを通すなら人の死など気にもしない貪りや執着、軍事組織と言うだけで内容を吟味せずに怒る愚かさ、これらは仏教で説かれる煩悩そのものだ。  そういう煩悩にとりつかれた行政組織や企業を救うのも菩薩行のうち。どんどん告発していくべきだろう。己がイデオロギーさえ守れたら市民の大量死など無視出来る思想がプーチンのような化け物を生むのだ。そのような人間に自治体や企業をまかせてはいけない。

ロシア文化への迫害

 プーチン戦争が始まってから、日本国内でもロシア文化への理不尽な圧力が強まっている。「序曲1812年」の演奏会が中止されたり、ロシア料理店や商店が襲われたり、ロシア料理を紹介したYoutuberが非難されたりなど意味不明な行為が散見される。  序曲1812年については、ロシアの戦勝を祝う曲だからケシカランという意見もあったが、あれはロシアが侵略者ナポレオンを撃退したのを祝っている曲だ。侵略者を倒す曲だとみれば別に問題なかろう。そもそも、ナポレオンの侵略とプーチンの侵略に直接的な関係は無い。自粛しすぎだ。  ロシア料理店や商店の看板を破壊したり嫌がらせをするのは日本国の法律に反する。仮に店主がプーチンのシンパでも法治国家としてやってはならないことだ。犯人は罰を受けるべきだろう。また、ロシア人でも平和を愛し独裁に反対する人もいる。彼らをロシア人だと言うだけで迫害するのはヘイトクライムだ。仮に一部のロシア人が日本国内でプーチンの狂った思想に基づく破壊活動をした場合でも、その対応は警察の仕事だ。一般人は通報するなり逃げるなりすればいいのであって、市民による逮捕や正当防衛はやむを得ない場合だけだ。積極的に暴力に訴えてはいけない。  ロシア料理を紹介したYoutuberが一部から非難されたのも道理にかなってない。料理に罪は無い。また、当該の動画はロシアの侵略前に作られており、使われる素材が旬のものだから予定通り配信したと製作者の料理人は言っている。動画公開の理由は実際そうなのだろうが、おそらくはこうした理不尽な批判が来るのを承知の上で、文化(料理)的な差別は間違っていると言うつもりで後の先をうったのだと思う。見事だ。  なんにしても、狂った独裁者が侵略戦争を始めたからといって、その国民や民族全体を差別するのは間違っている。先の大戦では世界中で敵国の文化を排除し民族全体を差別した。より人権思想が進化した現代において、同じ過ちを繰り返してはならない。

Tibet uprising day

 今年もチベット蜂起記念日がやってきました。63年前の今日、中国共産党の侵略を受けたチベットは、その後の30年で人口の20%に及ぶ120万名もの国民が共産党により虐殺されたと言われます。チベットは今なお中国の植民地とされたままです。仏教国だったチベットでは多くの寺院が破壊され、仏教の教えは共産党の指導下におかれ、逆らう人は投獄されたり殺されたりし続けています。  今日、ロシアがウクライナを侵略していますが、テレビでは侵略軍がウクライナに武装解除せよというのならウクライナは武装を放棄して歩み寄るべきだなどという知識人もおります。そういう人はチベットの事を思い出してほしいものです。元々、軍備らしい軍備も無かったチベットが軍事的に恫喝され侵略され破壊されていったことを思い出してください。  理不尽な侵略に対して武器を捨てても訪れるのは平和ではなく一方的な殺戮です。それを覚悟した上で殺されることを選ぶのも自由ですが、抵抗する衆生をまるで平和の敵であるかのように非難するのはあまりにも無責任と言うものです。自由と平和と国土と国民と朋友と家族を守り戦う勇者に慈悲を。  南無観世音菩薩。

侮辱罪の厳罰化

 今国会で侮辱罪を厳罰化する刑法の改正が目指されている。この法案が成立すればヘイトスピーチやネット上のしつこい嫌がらせがいくらかは減るかもしれない。基本的には良いことだ。  しかし、日頃からヘイトスピーチをするような人達は早速この法案に反対を意を表している。お題目はいつも通り言論の自由だ。  また、国家権力が侮辱罪を拡大解釈し政府批判を封じ込めようとしているなどという意見は的外れだ。政府がそのつもりなら現在でも侮辱罪はそのように運用されているだろうが、政府がその批判者を侮辱罪で提訴した例は無い。そもそも司法は独立しているのだから、そんな無茶が効く訳がない。もちろん政治家個人から侮辱罪で訴えられる事はあるだろう。しかし、批判と侮辱は違うのだから、批判しているだけならなんの問題も無い。中には侮辱を批判の手段と捉える人もいるようだが、その考えは間違っている。例えば、ある政治家が如何に悪逆非道であっても、その先天的な問題や出自などに対する誹謗中傷はヘイトクライムとして裁かれるべきであり、侮辱する方が悪いに決まっている。  なんだかんだと理由をつけても、多くは自分の発言が侮辱罪に抵触するかもと恐れるから反対するのだろう。ついうっかり侮辱してしまったのなら謝って訂正するべきであり、他人を侮辱する権利を主張し続ける方がおかしいのだ。

各宗派の戦争反対声明

 プーチン戦争が始まってから日本仏教の諸宗派は戦争反対、暴力反対の声明を発表しています。人々を苦しみから救う仏教の心が示された事は、平和を愛する諸国民にも励ましとなっている事でしょう。以下に主な宗派の声明のリンクを貼っておきます。 天台宗 https://www.tendai.or.jp/oshirase/?msg-ukraine 曹洞宗 https://www.sotozen-net.or.jp/syumucyo/20220301_5.html 臨済宗妙心寺派 https://www.myoshinji.or.jp/hp/statement/1367 浄土宗 https://jodoshu.net/infomation/12906/ 真宗大谷派 https://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/19111504/ 日蓮宗 https://www.nichiren.or.jp/information/statement/20220225-5879/ 真言宗智山派 https://chisan.or.jp/news/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A3%B0%E6%98%8E  さて、そんな中にあって日本最大級の仏教宗派の一つは未だに沈黙したままです。そればかりか、その宗派と関係の深い芸能人の一部はプーチンの主張そのまま陰謀論を唱えています。つまり、ロシアとの約束を破りNATOが東へ拡大したためにロシアは自衛のために仕方なく立ち上がったのだというもので、その黒幕がアメリカでありウクライナの現政権はアメリカの野望の尖兵であるとする荒唐無稽なものです。この理屈はまず前提条件から間違っており、アメリカとロシアの間にNATOを東へ拡大させないという約束は存在しません。プーチンがそうあって欲しくないと思っていただけです。そもそも、NATOに参加するかどうかは各独立国とNATO参加国との間で話し合われる問題であり、それを大国間で決めてしまうのはナチスドイツとソ連の間で結ばれたポーランド分割の合意と同じ帝国主義者の発想です。そのような帝国主義的発想のロシアが、

ウクライナは白人の国だから注目されるのか?

 プーチンのウクライナ侵略には世界中の注目が集まっている。だがこの動きに対して幾人かの人権活動家などが「ウクライナが白人の国だから注目を受けるのだ、中東やアフリカでどれだけの人が死んでも世界は見放す、これは差別だ!」ということを訴えかけている。はたしてそうだろうか?確かに欧州では自分たちに近い民族がひどい目にあっている方が共感をもたらすのかも知れない。だが、今回のプーチン戦争が世界中から注目を浴びているのは、第三次世界大戦や全面核戦争となる可能性が潜んでいるからだ。  ソ連のアフガン侵攻もアメリカが戦ったベトナム戦争もかなりの注目を受け両大国は叩かれた。だがこれらは多くの国々の市民にとって遠い異国の可哀想な出来事だった。今回の戦争で自分にも災禍が降りかかるかもという緊張感ではキューバ危機と同様な感覚がある。注目を集めるは自然だろう。  勿論アフリカや中東を見捨てて良い訳などありはしないが、ウクライナに注目が集まるのは世界的に他人事では無いからだ。逆に例えば中国が現実的な脅威である日米ではチベットや東トルキスタンの問題は注目されているが、アフリカや中東ではさほどでも無い。皆、自分に影響の少ない話には冷たい。酷い話だ。そういう事実の方が人権や差別問題としては深刻だ。  なんにしても、国連の戦争を禁止する枠組みは今回の件で崩壊した。世界各国が抑止力の強化を始めている。新秩序が確立するまでは混乱が続くだろう。

兼行六度

 法華経の分別功徳品第十七に以下の文言があります。 況復有人能持是経 兼行布施持戒忍辱精進一心智慧 其徳最勝無量無辺 譬如虚空東西南北四維上下無量無辺 是人功徳亦復如是無量無辺 疾至一切種智  これを簡単に言うと法華経は受持するだけですごく功徳があるけど六波羅蜜も同時に修めるとものすごくよい、という意味です。要はちゃんと日常生活の中で仏道を実践しろよという事です。学んで知識として蓄えるだけでは単なる宗教学です。信じて実践するから宗教となるのです。大乗仏教では人に施し、節度を守り、怒らず、善い努力をし、心を集中させて、知恵を得るのが仏道修行の基本で、祈るだけでなくこれらを日々実践するのが重要なのです。これが兼行六度と言われるものです。  苦しんでいる人々を物心ともに支えようとする言動があるから宗教は宗教たり得るのだと思います。お釈迦様が悟りを開いた直後は自分の考えを人に説こうとは考えておられませんでした。そこを梵天の願いを聞き入れ翻意されたという梵天勧請の話は有名です。この梵天勧請があったからこそ仏教は誕生したのです。考えているだけで何もしないのは仏教ではないと言っても過言ではないでしょう。

正義

 最近では正義の評判がすこぶる悪い。単独の価値観以外を認めず他者にそれを強制する排他的な人や集団の事を正義と呼んで忌み嫌われる場合が多い。しかし、それは本当に正義なのだろうか?また正義は言われるほど不要で汚らわしいものなのだろうか?  否。少なくとも、法と秩序を守るという意味での正義は社会に必要だ。だから、特定の属性の人々に対するヘイトを振りかざし独自の価値観を絶対視して暴れるような人や集団は社会の敵であり正義ではなく悪だ。  では、法と秩序を守って公共哲学的に許容できないほどの異端を排撃する正義は、単独の価値観以外を認めず他者にそれを強制する排他的なものなのか?違う。そもそも、社会の法と秩序の中では他者に寛容な多様な価値観は自由に存在できる。排除されるのは極端で非寛容なものだけだ。もしこうした異端すら排除出来ないのなら、先述のようなヘイトクライム集団をも排除できずに、社会はならず者に支配されてしまう。  社会がならず者に支配されずに済んでいるのは、社会を構成する国民の多くが正義の心をもっており、民主的手段により権力者が選べるからだ。選挙制度が脆弱か事実上存在しないような国はだいたいとんでもない人間が支配する独裁国になってしまう。  だから社会全体に正義なんてつまらない、何でもかんでも自由だとする混沌めいた思想が広がれば、やがてとんでもないことになる恐れがある。

高齢医師には反ワクチン派が多いのか?

 某有名小説家や若手の医師などがまことしやかに高齢の医者には反ワクチンやコロナ陰謀論の支持者が多いと言っているが果たして本当だろうか?  確かに医学部を卒業して引き続き研修医として教育を受けている若い医師で荒唐無稽な陰謀論を信じる人は皆無であろう。教育の力は偉大だ。ならば上記の爺医(ジジイ)老害論は正しいのかというと違うと思う。  そもそも、高齢の医者でも陰謀論を信じている人はかなりのレアキャラだ。しかも、紹介状のやりとりがある地域に数人程度はいる陰謀論的な思想の医師も必ずしも高齢者ではない。高齢の医者なら変な奴だということは無い。むしろ例外だ。  ただ、例えばワクチン接種に関して若い人ほどは積極的に勧めない高齢の医者は多い印象がある。医師は臨床年数が長いほど、激しいクレームに遭う経験が増える。医学的には自分の診療と全く関係がない患者の死亡や障害でその家族からお前が悪いと詰め寄られた経験の無い者は、よほど幸運であったか患者を診た数が少ないかのどちらかだろう。  こういう経験を経てきた医者は他人に何かを勧めることは避ける傾向が生まれる。治療の説明の際もリスクベネフィットを淡々と説明して患者に選ばせるようになる。当たり前だが素人が治療の指針を決めるより、専門家が決めたほうが治療がうまくいく可能性は高い。本来ならば医師はワクチン接種を強く広く勧めるべきなのだ。だから小生は自分の担当する患者に関してはワクチン接種を勧めている。だが、患者からどうすればいいのかと訊かれた時に、説明だけして患者の自己責任で決定せよと伝える医者もそこそこいる。こうした姿勢が高齢医師に反ワクチン派が多いとの認識を若者に与えているのかも知れない。  しかし、若者がこうした高齢医師を批判する時に、高齢の医者はエビデンスに基づく教育を受けておらず劣っているからだという意見が多いようだが、これは見当違いも甚だしい。医師はリタイアするまで勉強の連続を必要とする。医師が高齢だからエビデンスを無視するなんてことはありえない。もしいても個人の問題であり、高齢者が皆バカだ的な批判は暴論だ。むしろ、これを言う若者は一体どんな変な医者ばかりいる劣悪な環境で医業をしているのかを想像し可哀想になる。

桃花より青松を好む

 聖徳太子が三歳の時の逸話です。三月三日に桃の花を愛でながら、聖徳太子の父君である用明天皇が御子に「桃と松のどちらを好むか?」とお尋ねになりました。太子は「桃は一旦のさかえ、松は千年のかがやき」とお答えになり松を選ばれたと言われます。  このお話の桃の花はこの世の諸行無常を、色が変わらぬ常緑樹の松は悟りである真如を象徴しています。  三月三日は現代ではひな祭りですが、古代の日本では女児のためのお祭ではなく、厄祓いの日でした。桃は伊邪那岐尊が黄泉の国から脱出する際にも魔除けの役割を果たしており、この日にピッタリの花と言えるでしょう。そんな日にわざわざ松の方を好むという三歳児は只者ではありません。  和国の教主として人々の幸せを願われた聖徳太子は救世観音菩薩の化身であったとも言われます。何かと悲しいことが多い世の中ですが、聖徳太子以来受け継がれてきた教えを守り和を尊ぶ世界の実現を目指したいものです。

ウクライナへの募金が武器購入費用にもなるから避けたい人へ

 ネットを見ているとウクライナ大使館への募金は武器購入にも使われるから、他の団体に寄付したなどという人がいる。思想も行動も自由なので良いのだが、ウクライナ国内のインフラや医療福祉に対して募金したとしても、政府が払うべきそれらの費用が浮き結局は武器が買われる。また食料や燃料は市民にとって重要な物資でその確保に募金も活用されるだろうが、それを兵士が軍が利用したら文句を言うのか?一般論として募金にそこまでの紐付けはできまい。丼勘定なのだから、自分が払ったお金が武器になったかどうかは考えても詮無いことだ。そもそも論として、市民を守る軍人や武器がなければ、人道支援なんてロシア軍の略奪の対象にしかならない。  もし、何がなんでも自分が払ったお金で武器を購入して欲しくないのなら難民支援の募金をすることだ。ただ、難民の受け入れ先の国も支援で浮いたお金で武器を購入するかも知れない。  もっとも、アメリカをはじめ様々国々のウクライナに武器の支援では高額なものが現物で支給される。その総額を考えれば我々の募金など微々たるものだ。そんな瑣末なことを気にするよりは、今現在ロシア軍の無差別攻撃に怯えるウクライナ市民を助けることを考えるべきだ。気にせず募金して良い。

仏子よ毒矢のたとえを思い出せ

 仏教者なら聖俗にかかわらずおなじみの毒矢のたとえ、阿含経などにある次のような内容の話です。  ある仏弟子がお釈迦様に「この世は永遠なのかそうでないのか、無限なのかそうでないのか、心と身体は同じなのか別なのか、仏は死後もあるのかないのか、お釈迦様がそれに答えられないのならもう修行はしません」と言いました。お釈迦様はその質問には答えずに、あるたとえ話をします。  もし毒矢に射られた人がいて医者が彼を治療しようとした時に、毒矢に射られた人が「この矢を射たのがだれなのか、どんな弓を使ったのか、どんなやじりがついているのか、どんな弦がつかわれたのか、矢羽はどんな鳥からとられたのか、これらがわからない限り自分は治療を受けない」と言ったらその人は死んでしまうだろう。  要は、人の命は短いのだからまず苦を滅することが先決だという話です。  さて、この有名な話を仏教者は今おもいだす必要があります。ここ数日の間、多くの仏教者が戦争反対の声を上げています。人を殺しても殺さしめてもいけないという仏教の思想では当然の話です。ですが、一方で、この戦争の是非が分からないから言及しないと表明する仏教者もいます。この状況で何が分からないのか逆に疑問ですが、何にしてもウクライナに刺さったロシア軍という矢を抜くのが先決です。  今回の戦争はプーチンが起こしたものです。使った武器も明確です。なんなら理由だってプーチン本人が言っています。それは「ウクライナなんて国は存在しない、アメリカの軍事拠点となっている」という荒唐無稽な陰謀論でした。この状況で実はプーチンはいい人かも知れないしウクライナ国民は全員悪魔なのかも知れないという妄想にとらわれ、それが本当かどうか確認されるまでは指をくわえて侵略戦争を放置するというのは明らかに間違っています。  毒矢が刺さっている人がいたら先ず助けろ。