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11月, 2021の投稿を表示しています

ゾーニング

 特定の場所に特定の目的やルールを定めるゾーニングは、主に行政上の問題だ。例えば、大規模な工場の隙間に住宅地があるような構造は危険で非効率だし、学校の近所に性風俗店が出店すれば教育上の問題もある。こうした問題を棲み分けで避けるのがゾーニングの主たる理念だ。  しかしながら、行政の注意が及ばないところにもこうした問題は発生しうる。先日、とある一般の商業施設においてイラストの展示会が開かれた。これ自体は問題は無いのだが、施設の会場外から見える形で展示されていた絵には、少女の乳首と局所が幅の狭いリボンで隠されているだけの扇情的な裸体像もあった。これを問題視した一般客の抗議の声を受けて、店側は外から展示物が見えないようにゾーニングを行った。  これで、この問題は解決するはずだったのだが、事態は複雑化している。展示物のようなイラストの愛好家らが、これらイラストは芸術でありゾーニングは表現の自由の弾圧などといって騒ぎ出したのだ。  展示イラストの内容は先述した物の他にも、貞操帯様の拘束衣をつけた少女が口でスカートの端を咥え股間をさらけ出すような絵すらもあった。このような展示物を問題視する人はいて当然で、会場の外部から見えないようにするのは妥当な処置だ。ゾーニングは混ぜたら衝突を起こすであろう人達を分離する知恵でもある。表現の自由とは別問題だ。  この問題を拡大解釈して言論や思想弾圧の嚆矢だという輩もいるが、見当違いも甚だしい。ゾーニングは逆に多様性を担保するものだ。ある意味で街全体がゾーニングの内側にある秋葉原や日本橋などの一種の解放区での常識は、外側では通用しないのを自覚していないと今後も無用の衝突を招くだろう。

鬼束ちひろのキック

 未確認の情報だが、救急車を蹴って逮捕された歌手の鬼束ちひろ氏は、パチンコ屋で痙攣を起こして倒れた友人の為に救急車を呼んだところ、近くにいた男から「ギャンブル中毒者なんて助けるな」などの暴言を浴びたそうだ。その後、駆けつけた救急隊にその男の逮捕するように訴えたが断られたことに激昂し救急車を蹴ったという。  救急隊にしたらまさに踏んだり蹴ったりだ。鬼束氏も怒るべきではないと思うが、友人を助けるなと言われた鬼束氏の気持ちも理解は出来る。ギャンブル中毒患者を助けなくていいという意見は暴論であり、むしろギャンブル中毒者はしっかり治療してギャンブル依存症から脱却させるべきだ。  そもそもパチンコやパチスロなる違法賭博場が堂々と営業を続けるからギャンブル依存症が蔓延するのだ。それで財産や健康や命を失う人は後をたたない。この問題に関する行政の怠慢は異常であり、パチンコ関係の組織に警察の天下りがあることからも行政と犯罪組織が一体となって国民の健康を害し犯罪組織の利益としているのは明白だ。行政も違法賭博場の経営に目をつぶればある程度の税収は期待でき、天下りなどの利益供与によりこうした犯罪行為を野放しにしているのだ。  全くもって嘆かわしい、鬼束氏は極悪な行政組織に対してこそキックをすべきだったのだと思う。

明徳と仏性

 明徳とは儒教で説かれる人間がみな天から賦与されて持つとされる徳の事です。仏教でいうと仏性のようなものです。儒教の中で最も重要とされる四書五経の一つ「大学」の中に以下の文言があります。なお()内はだいたいの現代語訳です。 大学之道 在明明徳 (大学の道は明徳を明らかにすることにある) 在親民 在止於至善 (人々に慈愛を持てば善なる状態を保ち続けられる) 知止而后有定 定而后能静 (善の状態に留まるのを知っているから心が定まり、心が定まるから心静かになる) 静而后能安 安而后能慮 (心が静かであれば安らかであり、安らかだから思慮深くなる) 慮而后能得 (思慮深くあれば徳を得ることができる) 物有本末 事有終始 (物事には本末があり、始まりと終わりがある) 知所先後 則近道矣 (こうした順序を知ることが出来れば、大学の道は近い)  「大学」は元々は礼記の一部でしたが朱子学では重要視され独立して扱われることが多い書です。「大学」では、自身を修めているから家庭を整えることができ、家庭が整っているから国を治めることが可能であり、国を治めるレベルの上に明徳を天下に示し世を太平に出来るとする考えがあります。つまり、修身、斉家、治国、平天下の順に進んでいき、明徳を示しこの世を平和にすることが一つの到達点なので、為政者たちに重視されてきた歴史があります。戦前の道徳教育が修身と呼ばれているのもこれに由来します。戦後は道徳と名を変えますが、そもそも儒教では仁・義・道・徳を重視しており、修身が同じく儒教思想に由来する道徳と言う名の授業に変わったのは、名称を変えた人々が儒教的な価値観の継承を期待したのかも知れません。  さて、世の中を見渡せばとんでもない悪人が多く、儒教の説く明徳は本当に全人類に備わっているのかという疑問もあるでしょう。しかし、私は明徳は全人類に備わっていると考えます。儒教では家庭や社会の秩序を特に重視する傾向がありますので、社会性が善であり徳であると仮定するとわかりやすいです。人類はその社会性とそれによって生み出された組織の力で地球上の霊長としての地位を築いて来たのです。人類の進化の過程で、極端に社会性に乏しい発想をしやすい脳をつくる遺伝子は生存競争に敗れ淘汰されているとみて良いでしょう。つまり、突然変異や脳に何らかの障害がある人以外の全人類は社会性を持ちうる生物だと言えま

仏法僧は仏教の基本

 仏と法と僧のいわゆる三宝への帰依は仏教徒になるための条件でもあります。日本仏教の祖である聖徳太子も十七条憲法の第二条に「篤敬三寶 三寶者仏法僧 (篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり)」とあるように、仏教が日本に伝来してからもこの基本は共通しています。仏教徒となるにはこの三宝への帰依に加えて、受戒(在家の場合は 五戒 の受持)が必要とされます。  しかし、仏教の基本中の基本である仏法僧にも時代や地域や宗派によりいささかの見解の差があります。  まず、仏とは一般的にはお釈迦様のことです。しかし、大乗仏教ではさまざまな仏様がおり、浄土教系の宗派で仏様と言えば通常は阿弥陀如来が意識されますし、他宗派の寺院でも多くは特定のご本尊がいらっしゃいます。また、如来蔵思想に基づけば我々一人一人の中に仏はあります。禅宗系の宗派では生死の中に仏や涅槃を見出しますので仏が示す範囲は限りなく広く、法華宗系の諸宗派でもお釈迦様はインドで法を説かれた存在だけではなく世界に常住の仏と考えられており、密教系でも究極の仏である大日如来は世界と同義であり、一言に仏と言っても人によって印象は異なるわけです。ただ、仏は真理を体現した存在である事には変わりありません。  法は、こうした仏が説いた教えですが、これも宗派ごとに重視する経典やその解釈に相違があります。ただ、どんな宗派でも煩悩を原因として苦が生まれ、煩悩を滅すれば苦もなくなるという縁起の考え方は共通しています。これから派生して、物事は全てうつろい行き、その中に確固たる自己という存在は無く、煩悩と苦に満ちた状態を滅した悟りの状態は安穏であるとする考えがあり、この三つが仏教の最小要件とされています。宗派による法の解釈の相違は共通する悟りという目標に向けた方法論の差とも言えます。  僧は通常は出家したお坊さんのことですが、在家でも同じ教えを戴く同朋に対してお互い敬意を持つという意味でも使われることがあります。いずれにしても仏と法を守り伝える僧という存在は貴重です。  さて、この仏法僧をそれぞれ独立した存在ではなく同一と捉える考え方もあり、同一三宝や一体三宝とも呼ばれます。大乗の涅槃経にも「慈即佛性佛性即法 法即是僧僧是即慈 慈即如来 (慈は仏性であり仏性は法であり、法は僧であり僧は慈であり、慈は如来である)」という文言があり、人にも仏性があるという思想で

改めて五戒を思う

 あまりにも当たり前の事である人を殺してはいけないとか、物を盗んではいけないなどと言うことを、日々自分に言い聞かせる人は少ない。だが、こうしたことは毎日思うべきだ。  直接的な殺人行為でなくても、例えば危険運転や業務上の不安全行動など、結果として人の死に結びつくかも知れない行為は、人を殺してはいけないと常々念じていれば行いにくくなる。他にも、例えば立場の弱い人間に対して何かしらの行動を強要することも時間や費用を盗んでいるに等しく、物を盗んではいけないと常々念じていればこうした行為は行いにくくなる。  在家の仏教徒が守るべき五戒は、殺さず、盗まず、嘘をつかず、邪な性行為をせず、お酒を飲まない、の五つだ(不殺生・不偸盗・不妄語・不邪淫・不飲酒)。完全に守れるかどうかは別として、日々これらの戒を思うと積極的には悪いことが出来なくなる。  嘘をつかないことも常々念じていれば、嘘に嘘を重ねて大きな問題になる前にその成長を断つ事ができる。邪な性行為をしないのも常々念じておけば、魔がさして浮気や性犯罪を行い家庭や人生を棒にふることもなくなる。お酒を飲まないということも常々念じておけば、仮に飲んでも気が引けるので大量は飲みにくくなる。  こうした戒は常々念ずることが重要だ。そうでないと人は、ちょっとくらいは良いかと易きに流れる。それこそ、ついカッとして人を殺すことなどあってはならない。また、自分の心と行いを制するのは仏道修行の基本であり、煩悩の赴くままに人生を無駄に浪費させない為にも、改めて五戒を守る努力をしたいものだ。

オリンピックの外交的ボイコット

 来年2月には北京で冬季五輪が行われる予定だ。民族浄化や思想弾圧や女性差別などを行う中国が平和の祭典である五輪を開催するにふさわしい国なのかは甚だ疑問だ。  思い起こせば13年前、チベット人らが虐殺されたにも関わらず夏季の北京五輪は普通に開催された。経済的な損失を被ってまでチベット人やウイグル人の人命を守ろうとする五輪関係者はいない。  ただ、今回は米英などが政府関係者を北京五輪に参加させない外交的ボイコットを検討中ではある。この場合、外交的ボイコットをした国からも選手団は派遣され競技に参加する。近代オリンピックは単なる世界的な大運動会ではなく平和の祭典と定義されているから、ホスト国政府による人権蹂躙に対して何らかのアクションを起こすのは納得出来る話だ。  しかし、高度に興行化してしまった近代オリンピックにはもはや当初の理念は残っていない。オリンピックが平和の祭典である事自体を知らずに観戦している人も珍しくはない。ここではっきりと平和の大切さを訴えられないようなら近代オリンピックそのものを廃止すべきだろう。  また、日本は、岸田政権はこのまま中国共産党の暴虐を是認し続けるのか?多くの国民は注目している。

ロボット盲導犬

 まだ不確かな話ではあるが、ロボット盲導犬なるものが開発中だそうだ。四足ロボット自体はすでにあるし、自動運転が可能になりそうな近年の科学技術をもってすれば不可能では無いだろう。本当にロボット盲導犬が完成するならば実に喜ばしいことだ。上手く行っても実際に世に出るのは何年も後だろうが、開発企業には頑張ってもらいたい。  現在の日本でも盲導犬を必要とする人に対しての盲導犬の供給は10%ほどだという。しかも、訓練や育成に高額な費用がかかる盲導犬に関しては、その貸与先の選定などに黒い噂もたびたび聞く。利用者から虐待を受ける盲導犬も多い。  幼犬の頃から厳しいトレーニングを受けた盲導犬が良識ある利用者に貸与されればまだいいが、そうでなければ利用者からは虐待を受けつつ老化して道具として使いものにならなくなるまで酷使される。そんな盲導犬の一生はなんとも不憫だ。  ロボット盲導犬が普及し、一日も早く動物の盲導犬がその歴史的役割を終えるように切に願う。

新嘗祭

 11月23日は勤労感謝の日です。戦前は天皇陛下により行われる宮中祭祀である新嘗祭を祝う日として、同じく新嘗祭という名前の祭日でもありました。宮中祭祀の新嘗祭では、その年に取れた新穀を陛下が天照大神をはじめとする神々ささげ、ご自身も食されると言われます。天皇陛下は天照大神の子孫ということになっていますので、この祭祀は先祖崇拝の形の中にあります。また、新嘗祭に先立つ10月には伊勢神宮で神嘗祭と言われ、同じく新穀を神々に捧げる儀式が行われ、この際に今上陛下に神々の力がいただけるように祈られます。  宮中以外でも各地の神社で新嘗祭は行われており、収穫を神に感謝しともに祝うという図式は継承されています。収穫を祝う祭りの起源は記録に残っていない程の昔、日本に農耕が定着した頃まで遡るとも言われます。同様のお祭りは世界各地にもみられ、農作物を実りを祝う気持ちは世界共通です。  また、人間だけでなく天照大神も高天原で農耕にはげまれ同様の祭祀を行うとされています。古事記にもある天の岩戸の伝承でも、素戔嗚尊が姉である天照大神の田や祭祀を行う場を汚したとの表記があります。そうなると新嘗祭は神も人も共に働き共にその恵みに感謝し収穫を祝う日だとも言えます。  さて、祭祀としての新嘗祭は今でも宮中や各地の神社で行われていますが、祭日としての新嘗祭は戦後に祝日としての勤労感謝の日となります。この名称の変更はGHQの方針によるものですが、新嘗祭の心を伝える感謝の文字が残っているのには先人の努力が偲ばれます。  新嘗祭だけでなく、世界中の収穫祭にも感謝や祝いの心があり殺伐した心を和ませる効果もあります。世界が平和でありますように。  

油断

 油断の語源にはいくつか説があり、一般には、大乗版の涅槃経にある、王様が家臣に油で満ちた鉢を持たせて人々の中を歩かせ一滴でもこぼしたら殺すと脅したところ家臣は一滴もこぼさなかったという話に由来するとされます。油をこぼして命を断たれないように集中して慎重に行動したから油断という言葉が生まれたというものです。しかし、油断は和製漢語で中国では使われません。文献上、油断が現代の意味で使われ出したのも鎌倉の頃のようで、涅槃経起源説が本当かどうかにはいささか疑念もあります。  他の説としては比叡山が最澄の時代から代々絶やさず守り継いでいる不滅の法灯に由来するとの説もあります。この法灯は現在でも皿に入れた菜種油を燃料としており1日に2回の継ぎ足しが必要であり油断すると1200年以上に渡り燃え続けたともし火が消えてしまいます。このように油が断たれないように気をつけることから油断という言葉生まれたとの説もあり、個人的にはこちらの方がしっくりきます。  油断の語源としては他にも説がありますが、言葉の起源がどうであっても、油断は禁物です。例の流行り病も日本では落ち着きつつありますが、海外の状況をみると油断するにはまだ早いと思われます。流行り病も諸行無常、永遠に続くことはありませんので最後まで油断なく参りましょう。

毒と薬の例え

 浄土教系の教えでは、煩悩にまみれた凡夫でも阿弥陀如来の本願により救われるとされています。このため、古くからどうせ救われるならどんな悪逆非道な行いをしても問題ないと誤解する人がいました。これを批判した文章で有名なものに親鸞の毒と薬の例えがあります。この文章は親鸞が門徒に送った手紙に書かれていたものです。  原文では「 煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」となります。  現代語訳では「煩悩だらけの身だからと、心を制御せずに、してはならない事を行い、口にしてはいけないことも言って、思ってはいけないことも思いながら、好き勝手にしても良いなどと言うことは実に至らない考え方で、酔いもさめないうちに酒を勧めたり、毒が消えないうちに毒を勧めるようなものだ、薬があるから毒を好めということはあってはならない」という風な感じです。  この文章で面白いのは、心にまかせてしてはいけないこととして、身にするまじきこと、口にもいふまじきこと、心にも思ふまじきこと、があげられており、これが仏教における悪の分類である十悪に対応していることです。十悪も身と口と意(心)によるものに分かれています。内訳は、身に由来するものとして生き物を殺すことと物を盗むことと邪な性行為の三つがあり、口に由来するものとして誤った言説と悪口と二枚舌と上辺だけ飾った言葉の四つ、意に由来するものとして貪りと怒りと愚かさの三つがあります。親鸞のこの批判は実に基本に忠実なのです。  浄土真宗はしばしば仏教のルールを守らないアウトローだとの批判を受けがちですが、守らないのではなく能力不足で守れないだけで積極的にルールを破りに行っているわけではないのです。ルールを守れないことに対する慚愧の念と、そんな酷い人間を救ってくれる如来の慈悲に対する感謝が、浄土信仰の基本フォーマットです。浄土教への批判者はしばしば正しい仏教者の自分は完璧に戒律を守り善を積んでいるのに浄土教はなっていないとしますが、本当は不

性犯罪

 先日、しばらく会ってなかった友人が性犯罪で逮捕されたと報道で知った。にわかには信じがたい話だったが、間違いないようだ。被害者の回復をお祈りする。犯人の日頃の言動を見るにそのような犯罪からは縁遠い人のように思っていただけに極めて残念だ。  性犯罪者は許してはならない存在であり厳罰が求められる。また、今回の事件の刑罰がどうなっても社会的に厳しい制裁が待っているのは間違いない。  性犯罪者はなぜ目先の煩悩に突き動かされ被害者や関係する多くの人を傷づけて自分の人生を台無しにしてしまうのか?それが犯人の本性だったのだと言ってしまえばそうなのかも知れないが、心を制御できず煩悩のままに行動してしまう弱さは人の本質でもある。  貪りや怒りや無知による妄執でその身が動きそうな時は一歩立ち止まる習慣をつけたいものだ。幼児はそうした訓練がなされていないから親権者の保護下にある。成人しても飲酒や薬物の使用あるいは老化や病気で人としての抑制が弱まったり無くなったりすることがある。このうち、病気や老化によるものは仕方ないので医療や福祉で保護する形となるが、飲酒や薬物による脱抑制は本人の注意で防ぎうるものだ。  仏教の在家でも守るべき五戒にはお酒を飲んではいけないとする不飲酒戒がある。日本において最も守られていない戒だ。不飲酒戒を守れないまでも、自身の心的な抑制が無くなったり記憶を失うほどには飲まないようにするべきだと断言する。記憶の無いところで行った犯罪でも、酒や薬物の摂取の結果であるのならばその責任は免れ得ない。  違法薬物の摂取は論外だが、飲酒に関しても十分な注意を促したい。コロナ禍で忘年会や新年会などの飲酒の機会も減っているだろうが、参加される方は自制を願いたい。

オオカミ少女の嘘

 ある程度の年齢以上の人ならばオオカミ少女の話を聞いたことがあるだろう。インドでオオカミに育てられた少女2名が保護されたが、まるでオオカミの様に振るまっていた。その後、白人のキリスト教伝道師ジョセフ・シングの善意に満ちた養育をもってして一人がどうにか二足歩行と簡単な言語を習得できたと言う話で、幼少期の教育の大切さを示す逸話として今でも時々語られることがある。  実はこのオオカミ少女の話は捏造だ。そもそも生物学的にオオカミが人間の子を養育するなんて無理だし、シングがオオカミ少女の世話をしていた時の写真は、彼女らの死後に別の人を使って撮られたものだと判明している。オオカミ少女だとされた人間はシングの営む孤児院で普通に二足歩行をして生活していたとする証言もある。シングはこの捏造話を出版させて一儲けしようと企んだ詐欺師だったのだ。  まれに今でもこの話が子供の教育の大切さを示すものとして語られることがある。もちろん、熱く語っている人が実話だと思ってオオカミ少女の話をしているのだろう。しかし、こうして嘘は長く生き残っていくので見かけたら空気を読まずにそれは事実ではないと指摘するべきだ。  ひとたび広く事実だと信じられてしまった嘘は訂正するのにすごく時間がかかる。最悪の場合は嘘が定着してしまう。オオカミ少女の話は単に胸糞が悪いだけで害は少ないが、民族憎悪や陰謀論などの嘘が社会に定着したら、現代でもホロコーストがおきない保証は無い。    

子猫を4匹殺して10万円

 今年6月、長崎市で生まれたばかりの子猫4匹をビニール袋に詰めてゴミとして収集所に捨てて殺害した27歳の男性がいた。11月10日に長崎簡易裁判所は犯人の男に動物を遺棄した罪で罰金10万円の略式命令を出した。  動物愛護法による動物殺害の罪は、5年以下の懲役か500万円以下の罰金となっている。今回の罪が動物の殺害ではなく遺棄であること自体がまずおかしいが、子猫を4匹も苦しむような手段で殺害しておいて罰金10万円ならば、いったい動物愛護法の刑罰規定はどんな大量虐殺を想定したものだったのだろうか?担当の判事は動物愛護法の理念というものが分かっていないようだ。  また、このような残虐行為に対してあまりも量刑が軽いと、動物を虐待することに快楽を覚える危険人物が模倣しかねないだろう。今回の犯人は名前も公開されておらず社会的な制裁を受ける可能性も皆無だ。こんな司法しかないのなら、日本は動物虐待趣味者の天国となってしまう。  現在、国民が裁判官を直接的に罷免させる手段は、衆議院総選挙の際の最高裁判所裁判官国民審査しかない。しかし、地方の判事が著しく法理に反する判決や命令を出すことはしばしばある。こうした無法な判事に対しては、裁判官訴追委員会に訴追請求を提出し認められれば弾劾裁判が行われる。だが、この制度が始まってから弾劾裁判が開催されたのはわずかに9件であり対する請求数は2万を超える。しかも、判決が不当だとする訴追請求が認められたことは一度も無い。つまり、制度としてほぼ機能していない。最高裁の国民審査だって事実上罷免は不可能だ。どんな無法な事をしようが裁判官は基本的に裁かれない。  明らかに法の解釈がおかしい判事が野放しにされれば困るのは国民だ。もう少し、異常な判事を罷免しやすいように政治的な働きかけが望まれる。

日本版マグニツキー法

 海外での深刻な人権侵害加害者に対して日本国が制裁を科せるようにするいわゆる 日本版マグニツキー法の制定が見送られる事になった。岸田自民党総裁の決定だ。  世界の自由主義陣営各国が中国による人権蹂躙や虐殺に抗議し制裁するなか、日本だけが出遅れている。自民党は今年6月にも単独で可能だった人権侵害非難決議を見送り、今回は加害者を制裁する「可能性」すら放棄した。  この決定は日本国が習近平に屈したと言うメッセージを世界に発信した。対中制裁の足並みが揃わなければ、自由主義陣営が敗北するだけでなく、中国によるウイグル人やチベット人の民族浄化が完成しかねない。岸田首相には和製チェンバレンの称号を与えたい。  岸田首相は超えてはならない一線を超えた。また日頃は中国に威勢のいいことを言っている自民党議員もこの決定には唯々諾々と従っており所詮は口先だけだった事が証明された。そうでないと言うのなら志ある自民党議員は離党し新党を結成すべきだろう。ぜひ口先だけでは無かったことを証明していただきたいものだ。

インドネシアのシヴァ−ブッダ信仰

 インドネシアのジャワ島周辺は13世紀後半、シンガサリ王国の最後にして最大の王であるクルタナガラ王の治世にあった。彼は自らをシヴァ神とブッダの融合した神聖な存在として君臨していた。発想としては別々の神と仏が融合したのではなく、シヴァもブッダも唯一で絶対の神的な実在の違う表現形だという思想だった。王国の滅亡後、インドネシアではイスラム教が優勢となっていった。このため、近代のインドネシアの国是であるパンチャシラの第一は唯一神への信仰となっている。国民に唯一神への信仰を半ば義務付けるのは純粋に宗教上の話だけでなく、国から無神論である共産主義者を排除する目的でもある(※)。一方で、インドネシアで公認されている宗教は、イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教、儒教であり、ヒンドゥー教以下の3つは唯一神がいない宗教でありパンチャシラに反するようにも見える。これが許容されているのはクルタナガラ王の考えたところの唯一の真理が諸宗教の根源にあるという解釈が現代に息づいているからかも知れない。  仏教に限らず、宗教が広がる過程で現地の風習や他の宗教と習合することはよくあるが、単に混じるのではなく、各地方や時代でそれぞれ特徴ある習合のしかたをするのはなんとも興味深い話だ。 (※)インドネシアの共産主義者狩りについては  インドネシア大虐殺その1   インドネシア大虐殺その2  を参照のこと。

阿呆陀羅経

 阿呆陀羅経とはお経のように(主に和讃風に)社会風刺を詠んだり歌ったりする一種の話芸で、江戸後期に流行しその後も受け継がれていましたが、現在ではほとんど目にしません。レコードやビデオなどの媒体で残る阿呆陀羅経は、民謡風だったりジャズ・ロック風だったりするものもあり、内容も社会風刺だけでなく漫才風のものなども多く、もはや阿呆陀羅経だと名乗ったのもが阿呆陀羅経だと言えなくもない物です。また、韻を踏みリズムを重視する歌詞はラップのようでもあります。歌い出しが「仏説阿呆陀羅経」となっているものもあり自分が好き勝手に作った歌詞を仏説というあたりはなんとも不敬ですが昔の冗談はかなりキツイものも多く、ある意味で寛容だった時代背景もあるのでしょう。また阿呆陀羅経には当時まだ権威があった仏教界を茶化す面白さもあったと思われ、現代の権威が弱くなった仏教をイジってもそうインパクトはなく面白くもありません。  こう考えると阿呆陀羅経は滅ぶべくして滅んだ芸能とも言えます。今後も生きた話芸としてではなく、文献や音声・画像データとして記録が伝わっていくのだと思います。はてさて、昔の阿呆陀羅経と同じく、今ある新しめの芸事や趣味のジャンルが100年後、200年後にどのていど記録としてでなく生きた芸や趣味として残っているのか気になるところですが、それを見届けることが出来ないのはちょっと残念です。  実際にここ半世紀ばかりでも、趣味の世界ではイギリスの狐狩りは事実上滅びましたし、芸事で言えば純粋なパンクロックも滅んだと言っていいでしょう。全ては記録の中にしかありません。まさに諸行無常。

遺教経

 お釈迦様が入滅される前、最後に説いたとされる教えが遺教経として伝わっています。遺教経は出家者に語りかける形式を取っています。内容を要約すると、戒律を守り、物欲と心を制し、食事は必要最小限とし、休む事なく努力を続け自省をし、決して怒らず、驕りたかぶることもなく、媚びへつらうこともなく、欲を少なくして、満足することを知り、騒がしい世間から離れ静かなところで修行し、徹底的に精進し、正しい教えを守り、禅定の修行で集中を保ち得られた智慧を散逸させず、こうして智慧を得れば貪り執着することも無くなる。更に考えても無駄な事に心を煩わせる事なく、怠ける事なく、四諦の教え(※)を守り、自分の死を悲しまず教えを伝え修行に励むように、と説かれています。  このように遺教経では繰り返し努力するように説かれており、また、世俗を離れ自己の悟りを目指す修行するようにと説かれています。この経の実際の成立時期がいつかは分りませんが、概ね初期仏教の理念を伝えていると言えます。大乗仏教でも禅宗系の仏教は個人の修行が基本なので、遺教経も重視されています。  人生でなにかをなそうとすれば、やはり努力は必要です。お釈迦様が入滅したと言われる2500年前も現代も違いはありません。 (※)この世の全ては苦であり、苦の原因は煩悩で、煩悩を滅すれば苦も無くなり、煩悩を滅し苦を除く為には八正道と言う修行があるとする仏教の基本的な教理。

戯論

 人生は短いものです。考えても無駄な事に心と時間を占有されていては一瞬で何もせずに終わってしまいます。  遺教経の中でも不戯論が説かれているように、無駄な言論である戯論は避けるべきです。戯論による結論の出ない論争を繰り返せば、無意味に時間を浪費するだけでは済まなくなります。戯論による論争は、論理によって決着がつきません。元から非論理的だからです。論争で決着がつかないと人は往々にして感情的になり物理的な戦いに発展することすらあります。  戯論は避けるべきというのは間違いないのですが、戯論に取り憑かれた人は自分の考えが戯論であることに気がつきません。我こそは正論を言っていると思って戯論どうしを戦わせるから終わりなき戦いに繋がるのです。  では、戯論はどうやって見破ればいいでしょうか?大乗仏教的に見れば、原因と縁により結果が生じると考える縁起の思想や、それらは全て移ろいいくと諸行無常の考えに基づかないものは戯論と言っていいでしょう。仏教的な話でなく、より卑近で日常的な話でもこの考え方は大切です。原因や条件を考慮せずに感情的に結論を決めつけている論は、ネット上でもしばしば見られます。また、状況の変化により以前の状況では正しかった論が現在も正しいとは限らないという事を認識せずに、識者の言説が以前と変わっていると激しく非難する人もよく見られます。  一方で、仮説を立てて検証することは戯論ではありません。ただし、単なる仮説を確固たる真実のように語るのは戯論です。また、仮説にもレベルがあります。実際に確認された現象に対して、論理的に矛盾が無い原因や条件を推測して、それを確かめる努力をするのは、今起きている現象への対策や利用を進める上で大切な事です。しかし、世の中には自分の欲望に基づいた単なる妄想を仮説だとか著しくは真理だなどと言って周囲を攻撃する輩もいます。  逆に必要な考えるべき事を戯論として忌避する人もいます。宗教家に多い印象がありますが自然科学を敵視する執着をもった方々は世俗の事を低く見ています。在家主義である大乗仏教ではこのような偏見は避けたいものです。

ズィハール離婚

 イスラム教以前のアラブ地域ではズィハール離婚という制度がありました。  これは夫が妻に「あなたは私の母の背中のようだ」宣告することにより離婚が成立し、宣告された元妻は元夫に慰謝料や扶助を請求できず、再婚も禁止されるというものです。  この制度は男性が妻に対して事実上、生殺与奪の権をもっていることを意味します。当然ながらこの制度が是認される社会では女性の地位は著しく低く、女児が生まれれば殺害されることもしばしばでした。  イスラム教の誕生によりこれらの行為は禁止され、当該地域の女性の地位は向上しました。イスラム教はムハンマド以前の時代を無明時代(ジャーヒリーヤ)と呼びます。  しかし、現代では逆にいわゆる原理主義者のイスラム解釈は、女性に対して著しく差別的です。確かにクルアーンには夫はしつけとして条件付きで妻を殴る権利が認められたりしていますが、ジャーヒリーヤを終わらせた理念を考えれば、タリバンやイスラム国の様な歪んだイスラムの解釈で女性を殺害してまわる方がジャーヒリーヤ的だといえます。  アフガニスタンもまだまだ大変な状況です。彼の地で人権が守られるように願うばかりです。

聖徳太子の孝養像

 聖徳太子の像は、お札にもなっていた笏を持っている有名な摂政像の他、太子が二歳の時に合掌し「南無仏」と唱えたところその手から仏舎利がこぼれ出たという伝説に基づく二歳像、太子が十六歳の時に父の用明天皇の病気平癒を祈っている姿とされる柄香炉を持った孝養像があります。  孝養像の祈願と同様に、法隆寺に伝わる釈迦三尊像も聖徳太子を慕う人達が太子の病気平癒と助からぬ場合は苦しまず成仏する様に祈りをこめて造りました。聖徳太子は日本仏教の祖とも言える存在ですから、日本に仏教が伝来した頃には既に仏に対して病気平癒などの加持祈祷を行うことは一般的だったのだと思われます。  聖徳太子が重視した法華経も後半は祈祷的な内容が目立ちます。もちろん祈ったところで病気が治ったりはしませんが、その気持はありがたいものです。聖徳太子もただ祈るだけではなく成人してからは施薬院や療病院などの医療福祉施設をつくり病気に苦しむ人達を救う政治を行いました。これも仏教の心が政に活かされた結果でしょう。日本には千四百年以上も前から仏教とともに人の病を癒したいという祈りが連綿と受け継がれているのです。  先人の努力を無にすることがないよう努力したいものです。

人は自ら足るに止まること能わずして亡ぶ

 春秋戦国時代の書「韓非子」に次のような話があります。  斉の国の王様である桓公が宰相の管仲に「富に限りはあるか?」と尋ねます。管仲は「富を貪り過ぎて身を滅ぼした時が富の限りでしょう」と答えました。  何事にも限界はあるものです。どんな強者も無限に富を集める事は出来ません。栄華を極めた一門もいつかは没落します。貪り過ぎずとも、戦争や災害などで滅ぶこともあります。  あまりにも極端に富が集中すると、大多数の餓死しそうな人達から搾取してごく少数の人達が贅沢三昧をする形となります。こうなるともう民衆は革命を起こすしかなくなります。もちろん、どのような政体でもそうならないように対策がなされています。大まかに分けて富の再分配を行って極端な貧困層が増えるの防ごうとする対策と、軍事力を利用した徹底弾圧で抑え込もうとする対策があります。前者がより平和的なのは言うまでもありません。  また、再分配は国だけでなくお金持ちによって自主的になされる事もあります。一般的に大富豪は慈善事業に熱心です。その最大の理由は税金対策ですが、そのおかげで助かっている人も多く結果的には良いことです。より古い時代の大富豪は、橋やお寺などの公共性のある施設までも作ってその富を地域へ還元していました。有り余る富で名士として地位を買っていたとも言えます。  裕福だからと無駄遣いする必要はありませんが、既に余裕がある人はひたすら溜め込まずに有意義に富を使えば、自分にとっても他人にとってもよい結果を招くでしょう。  しかし、社会保障や福祉が脆弱な国では、人々は心配してなるべく多く富を溜め込もうとします。そう努力はしても、稼いだお金の全てが生活の為に消費される状態の人は貯金も資産運用も出来ませんから、結局の所、裕福な人はより裕福になりやすく、貧乏な人はいつまでも貧乏なままとなりがちです。  多くの人が足るを知って助け合うためには、その国にいかに良質で安定した行政サービスが存在しているのかが重要です。政治も生臭いばかりでなく、人の心をより良く保つ為に大切な役目があるのです。

悲惨な戦争

 1862年12月、南北戦争のフレデリックスバーグの戦いで、リー将軍率いる南軍の防御陣地に対し、北軍は無謀な突撃を繰り返し大損害を出して敗北した。南軍勝利のあとこの惨状を見てリー将軍は「戦争が悲惨なのはいいことだ。我々が戦争を好きにならずにすむ。」と言ったと伝えられる。  戦争は悲惨なものだ。だが、南北戦争の頃の戦争とは単に複数の勢力の利害を解決するために行われる一連の戦闘行為であった訳だが、現代の国際法上の戦争はそのようなことを意味しない。戦争をするのは戦争を起こした側であり、攻め込まれた側が自衛権を行使するのは戦争行為ではない。国際連盟でもこの国連を引き継いだ連合国でも戦争は禁止されている。戦争は禁止しているが加盟各国は軍備を保有しているのは、それがあくまでも自衛のための軍事力だからだ。  戦争は悲惨なものだ。だから国防を担当する軍人たちは概ね戦争が嫌いだ。彼らは今日も祖国に戦争をしかける馬鹿がいないように、自衛の力を磨いている。

断言

 この世に絶対に正しい事は何もない。これは科学や法学を含まない狭義の哲学としては妥当な考え方だろう。だが、現実の社会的な行動としては、十分な証拠があって確からしいことは断言して構わない。    地震の後に気象庁が発表する津波の予想は、まれに外れることもあるが基本的には間違いない。この場合、津波が来るから逃げろと勧めるのは政治的にも正しいし、津波が来ると判断するに足る十分な証拠があるのだから科学的にも正しい。絶対でないからと津波が来ると言うのは良くないとか、逃げるか逃げないかを判断するのは市民の権利であり国家権力により強制されるのは自由の侵害だなどと言う人はほぼいない。これは、ほぼ当たる予測であり、しかも甚大な被害をもたらす現象に関する事だからだ。だからもし、予測の的中率が低かったり、大した被害をもたらさない現象に関する予測で同じことをすれば批判する人は増えていく。  だが、同じく確からしい事でも、直接的に見聞きした経験が無かったり実感することが難しい脅威に対しては人は往々にしてその危険性を過小評価しがちだ。新型コロナウイルス感染症や地球温暖化に関して陰謀論が後を絶たないのはこの影響だろう。  新型コロナウイルス感染の拡大防止の為には、ワクチン接種率を上げて通常の感染防御にも努めるのが、現在選択しうる最善手だと断言出来る。だが、ワクチンも防御対策も不要だという陰謀論者のなんと多いことか。日本は完璧では無いまでも医療現場や行政の努力により、他国と比べればその被害を抑えられている方だ。それでも残念なことに18000人を越す人が亡くなった。この結果だけをみて、この程度の被害ならワクチンもマスクも手洗いも含めて努力は不要だとか言う人がいるが、胃が痛くなるような努力の結果が現在の状況であり、無策ならもっとひどいことになっていたのは明らかだ。だいたい、他国より少ないとは言っても年率で交通事故死の3倍ほど死んでいるのに、この程度といえるあたりが命を軽んじているとしか思えない。  地球温暖化についても然りだ。近年の地球気温の上昇が人間が排出する二酸化炭素を主な原因とするのは間違いない。より巨大な環境因子である、太陽活動などの影響で地球は寒冷化するのだから二酸化炭素の制限など不要だと言う人もいるが、そんなものは寒冷化したら二酸化炭素を増やせば良いだけだ。現在の技術では二酸化炭素を増やす

人身取引

 人身取引とは一般には人身売買と呼ばれる行為です。日本の行政機関では売買ではなく取引と称します。金銭による売買に限らないので人身取引で良いのですが、やや語感が弱くなる印象はあります。  さて、国連の人身取引議定書でも人身取引は禁じられています。この人身取引の定義を簡単にまとめると、搾取を目的として暴力などの強制力による脅迫などの手段を用いて人間を取引することを言います。搾取の内容は管理売春や奴隷労働や臓器の摘出が含まれます。被害者が搾取に同意していたとしても、暴力などの強制力による手段が用いられていれば人身取引にあたります。この手段は直接的な暴力や脅迫の他、誘拐、詐欺、欺罔、権力の濫用、脆弱な立場に乗ずること、金銭や利益の授受が含まれます。また、18歳未満の人間の取引はこれらの手段を用いなくても人身取引とみなされます。  つまり、世間にありふれている借金の棒引きを条件に管理売春を強要するという話は人身取引にあたります。ですが、実際にはあまり取り締まられていません。本当は人身取引でも建前上は、借金を返すために女性が自主的に風俗店に勤務して、店が禁止している売春行為をこっそりと勝手にやっているというデッチ上げの話がまかり通っているからです。  外国人技能実習生も来日に伴い多額の借金を負わされ奴隷労働を強要されている人が多く事実上の人身取引です。これもほぼ取り締まられません。取り締まられても元締めの政府ではなく末端受け入れ先が処罰の対象です。日本国は国家主導で堂々と人身取引をしており由々しき事態です。  労基違反の低賃金で過労死しそうな奴隷的労働をさせる企業も労働者に対して詐欺・欺罔をもってそうせざるを得ないと思い込ませて支配しているのですから人身取引といえるでしょう。これも人身取引としては全く取り締まられていません。  こうしてみると、現実的には人身取引は取り締まられないと考えて間違いありません。自分や家族や友人が被害に合わないように互助の精神を大切にして参りましょう。

責任能力

 重大な事件の犯人に精神鑑定が行われた結果、心神喪失あるいは心神耗弱と認められれば、責任能力が不足しているとして裁判で無罪になったり減刑される事がある。こうした場合、世論は判決が理不尽だとして怒り、その矛先がその犯人が有していた精神疾患の患者全般に向けられる事もしばしばだ。  一方で、責任能力の欠如に関して世論が同情的になる場合もある。以前、認知症の老人が徘徊し鉄道事故を起こした時に鉄道会社が家人へ賠償請求を行った事があった。認知症患者は責任能力が無いから、その管理者たる家族に賠償請求がなされたのだ。結局、家人への賠償請求は撤回されたが、世論は概ね家人に同情的だったし、徘徊老人がケシカランなどとする意見も少なく、仕方ないという意見が多かった。  また、アメリカなどでは幼児が誤って人を射殺する事件もたまに起きるが、もちろん彼らに責任能力は問えない。親の管理責任だし、世論もその幼児のケアに気を配り、悪虐非道の殺人者だのと罵られる事は通常はない。日本の奈良時代の法律でも数え10歳未満の子供は死罪になら無いとあり、責任能力を問えない者を裁きようが無いとする考えは昔から存在していた。しかし、現在の少年法では責任能力を問えるであろう成人に近い年齢までその保護の対象となっているので、凶悪な少年犯罪が起きた時は批判の対象となりやすい。  また、未治療で症状が安定していないてんかん患者は運転免許が停止となる。これは交通事故を防ごうとする理念によるのだが、てんかん患者がその発作により交通事故を起こしても責任能力が無いので、運転そのものを法的に禁止しそこに責任をおく意味もある。なお、治療介入して発作が起きないであろうと判断されれば免許も戻ってくる。日本ではそのための観察期間は2年であり他国と比べて長めだ。以前、自分にてんかんがあると知りつつ薬も飲まずに運転し人身事故を起こした医師がいた。こうした事件が起きた時に、まじめに治療に励む患者も十把一絡げにしててんかん患者全体を叩く世論が形成される事があり配慮が必要だろう。てんかん患者は差別を受けやすい。例えば、狭心症があるのに治療せずに喫煙や暴飲暴食をし不規則な生活を送っている人が運転中に心筋梗塞を起こして重大な事故を起こしても、てんかん患者が事故を起こした時とうって変わって、世論は狭心症患者は悪虐非道だと叩かないばかりか心臓発作なら仕方ないと

言葉への執着

 このブログでもたびたび書いていますが、ヘイトスピーチをする過激な団体はしばしば表現の自由を盾に、自分たちの憎悪犯罪を社会に認めさせようとします。しかしながら、寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容には不寛容であらねばならないのです。ヘイトスピーチは表現の自由の枠外なのです。だけど、「表現の自由」という言葉に執着してしまうと、日頃は寛容で良識的な判断をする人でも、ヘイトスピーチの権利を擁護し、いわれなき他者への攻撃に加担してしまう事があります。  これは思考を放棄して「表現の自由」という言葉に執着するからおきる悲劇と言えるでしょう。表現の自由は絶対に守らなければならないという思い込みが、思考を停止された結果です。他人を侮辱したり、信じれば人命に関わるような誤情報を吹聴する自由などあってはなりません。それを規制するのは当然であり、表現の自由は絶対ではないのです。  大乗仏教では言葉にとらわれないという龍樹以来の伝統があります。馬鳴の作との伝説がある大乗起信論でも言葉のもつ危うさは指摘されています。すなわち、好き嫌いの偏見によって生まれた快・不快の妄想に執着し、それに名前をつけることで本質を分かったような勘違いを起こし、その言葉に惑わされて更に迷ってしまい自由を失うというものです。  例えば、不愉快に思う相手に「敵」という名前を与えてしまえば、相手のあらゆる行動は敵のそれとしか見られなくなります。危険を適切に認識するのは重要な事ですが、なんでもかんでも敵あつかいして攻撃すれば、本来は無用の争いを招くことになりますし、是々非々で協力できたかもしれないことも全てなくなってしまいます。状況の判断が敵という言葉に引っ張られて歪むのです。もちろん、実際に襲いかかってきている人や集団は当座は敵と見做して問題ないのですが、本質的には敵と味方は明確に分離できません。裏切る可能性のない敵も味方もいないのですから、そのようなラベリングに執着すると判断を誤ることになります。味方とのラベルを信じ込み、相手の気持ちも考えずに無茶な命令ばかりしていれば、知らないうちに敵になっていたということもあり得るのです。今、たまたま味方をしてくれる人がいるのならば、大切にしてあげるのが良いでしょう。敵も永久に敵とは限りません。許しあう心も大切にしましょう。

天中天

 天中天とは神の中の神、つまり神々を超越した存在の意味で通常はお釈迦様の事を指します。仏教的世界観では、天や神も人間と同じ有限の命しか持たない煩悩と因縁の連鎖の中に現れる仮初の存在であり、仏はその枠外です。その違いを強調した言葉が天中天です。  さて、天中天のお釈迦様ですが生まれた時は人間でした。そうではないという人もいますが、歴史的には人間だったのは間違いないです。素質の差はあるにしても、人間なせばなるものです。  人も仏に成れるとの説は大乗仏教の基本の一つでもあります。どんな絶望的な状況からでもどうにかなるという教えは過去から多くの人を救ってきました。この安心感は結果的に執着を薄くし苦を減らす効果もあると言えます。ただし、仏に成ることにも執着せずに、目の前の修行を一つ一つこなしていくのが肝要です。なんくるないさ。

文化の日と憲法記念日と明治節

 11月3日は文化の日です。1946年11月3日に日本国憲法が公布された日で、同憲法が平和と文化を重視していたからとして1948年に文化の日という祝日として制定されました。、、というのが建前になっています。  5月3日の憲法記念日は憲法が施行された日です。憲法が公布された11月3日こそを憲法記念日とするべきだとの意見も祝日を制定する為の話し合いでは言われましたが、同日が戦前は明治天皇の誕生日を記念した明治節であったことから、憲法と明治天皇を合わせるのはGHQ的には好ましくなく反対された経緯があります。また、当時の日本国内には明治節は明治節として残すべきだとの意見もあったのですが、当然これもGHQとしては望ましくない。そこで、憲法と明治天皇以外の名称ならGHQも許可するということで出来たのが文化の日だった訳です。  また、実は日本国憲法は1946年11月1日に公布の予定でした。半年後に施行の予定でしたので、そのままでは1947年5月1日、労働者の祭典メーデーの日が日本国憲法の施行日となってしまいます。だが、それでは共産主義者達に勢いを与えかねないとの懸念から、11月1日以外の11月3日に公布されました。しかし、元々は明治節であった11月3日がその後の祝祭日制定の口実とするためにあえて選ばれた可能性もあるかと思います。  日本国憲法が平和と文化を重んじるから文化の日というのも変な話で、日本国憲法の理念を考えれば平和の日の方がしっくりきます。明治天皇と言えば文明開化の象徴でもありますから、あえて文化の日としたと考える方が自然です。こうした流れで今でも11月3日を明治の日にしようとする運動もあります。  ともあれ例年、文化の日を記念して一部の博物館は無料になるなど文化的に良いことがあります。ご近所にもそうしたところがあれば訪れてみるのも良いでしょう。

最高裁判所裁判官国民審査

 先の最高裁判所裁判官国民審査で辞めさせた方がいいとされたのは、比較的政府よりの深山氏が7.85%、反政府的立場の宇賀氏が6.88%だった。残りの85.27%が中道と言う訳ではないだろうが、わざわざアクションを起こす人は左右合わせても15%に満たず、今回の投票率(55.93%)も勘案すれば、活動的な左派は総人口の4.39%、同じく右派は3.85%に過ぎないことになる。ネットやマスコミではよく見かける彼らも実は少数派だ。  最高裁判所の裁判官の15人の構成比が極端に左右に偏ることはない。彼らは内閣から指名されるものの、左派勢力が強い日本弁護士連合会から4人が推薦され政府がそれを追認するのが慣習となっているからだ。だから、偏りが生じるとすれば日本に左派政権が誕生したときだ。その時は、弁護士枠は当然左派で他の指名も左派よりになるから一気に偏るおそれがある。だが、検察も推薦枠を2つ持っているので、ある程度はバランスをとってくると思われる。もっとも検察人事に政府が介入することもあるので安泰ではない。  さてそんな最高裁判所裁判官国民審査だが、これまでにこれで罷免された裁判官はいない。国民のバランス感覚が優れているからと言うよりは関心が薄いのが最大の要因だろう。活動家諸君が、国民を啓蒙すれば自分たちが気に入らない裁判官を罷免できると考えているのもその予測による。だが、恐らく国民の全てが関心を持ったところでそうそう罷免は生じないだろう。左右に各々支持者がいるのである程度は拮抗してしまうのに加えて、自分とは意見が違っても最高裁判所の裁判官の構成は多様な意見の持ち主をおいておくべきだと考える層が一定数いるからだ。  この問題だけではなく、色んな活動家にありがちなことだが、真実を知れば人々は自分の味方をしてくれるはずだと信じがちだ。そもそも活動家の信じる真実にはバイアスがかかっているで彼らのいう真実が本当に真実かは疑問だが、仮に客観的な真実が存在したしても、それを知った人の反応は千差万別だ。  こうした多様性があるから、とりあえず最高裁判所裁判官国民審査では自分の考えで好きにバツをつけたりつけなかったりすれば良い。それでも罷免されるのなら、やはりとんでもない裁判官だろう。

悪口と批判

 何か問題がある事に対して批判をするのは間違っていない。誤ちは正さねばならないし、公に批判することにより、批判そのものの妥当性もまた評価される。むしろ、間違いに対して見て見ぬ振りをする方が問題だ。だが批判と悪口は紙一重だ。その批判は本当に批判なのか、誰かへのヘイトの為に、相手の言動に一々難癖をつけているだけではないかは自省せねばならない。  世の中は是々非々だ、全ての言動が間違っている人間なんていない。極悪非道の不良が捨て猫を拾って育てていたらそれはそれで評価すべきだろう。  力を持つ人間は、自分の意見を通しやすい。その力は状況によっては筋力だったり経済力だったり政治権力だったりする。より強い人間であればある程その行動により支持してくれる人も増えれば、反対する人も増える。賛成反対は個別の案件に関して検討されるべきものだ。もし、ある人の意見が日頃から自分の意見と合わないからその人そのものが嫌いだと思っては物事を冷静に見られなくなる。言動にではなく、個人に対して憎悪を向けると、その人が良いことをしようが悪いことをしようが妨害しようとするだろう。個人への憎悪に基づく批判は、やっている人達は正しいことをしているつもりでも、他からは個人攻撃のヘイトであると容易に看破される。その批判は反対ばかりで軸も理念もない悪口ばかりだからだ。  自分達が悪と戦っているのに多くの人は理解してくれないと嘆く人は、知らず知らずのうちに自らがヘイトクライムを犯していないか省みても良いだろう。