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南泉斬猫

 南泉斬猫は難解な物が多い禅問答の中でも特に難しい公案です。この話の主である南泉普願禅師は、死後はどこに行くのかと聞かれた時に水牛になると返事をしたと伝わっています。死後もあえて涅槃に安住せず迷いの世界に戻って、しかも畜生として修行をつもうというのですから決して畜生の命を軽視していた訳ではないでしょう。しかし、南泉禅師は残酷にも猫を斬り殺したことがあります。その南泉斬猫は次のような話です。  ある日のこと、お寺のお坊さんが飼っていた猫が、他のお坊さんの椅子を引っ掻いてしまいました。それについてお坊さんたちが争っていたところに現れた南泉禅師はお坊さんたちに「君たちがこの猫について何か言うことができればこの猫は斬るまい、言うことが出来ぬのなら切り捨てる」と言いました。お坊さんたちは何も言えなかったので猫は南泉禅師に首を切り落とされてしまいました。その後に南泉禅師の一番弟子が帰ってきて、禅師がこの話をすると、そのお弟子さんは履いていた靴を頭に載せて部屋から出ていってしまいました。それを見た禅師は「あの時、お前がいたら猫を救ってあげられたのに」と言ったと伝わっています。  これが南泉斬猫の話です。通常の感性では全くもって意味不明で、そもそも猫が可哀想です。仏教が禁じる殺生をしてまで禅師は一体なにを伝えたかったのでしょうか?まあ公案なので人それぞれに答えがあっていいのですが、南泉禅師の問いに素早く答える者がいれば猫は死なずにすんだのかも知れません。一番弟子が話を聞くなり意味不明の行動を起こしたのもとにかく何かをしたのが評価されたともみえます。もし、素早く決断し筋力に訴えることの多い臨済や黄檗がその場にいたならば、南泉を張り倒していたのではないかと思います。  世の中は時代が変わっても少しの油断が取り返しのつかない結果を招く事が多々あります。全てのものは移ろい行き、同じ状態をたもつものなどありません。南泉斬猫の話は理解出来なくても、自分の身の回りにある人や物が決して常在不変のものではないと教えてくれているような気がします。今の瞬間を大事にして生きていきたいものです。合掌。

石は玉をふくむ故に砕かれ

 玉(ぎょく)は宝石の翡翠のことで、漢土では古来から白い軟玉が珍重された。産地としては東トルキスタンのホータンが有名で特に和田玉と言われている。日本でも翡翠は取れていたが、その採掘や加工は奈良時代以降衰退しており、日本の古い文献で玉の話が出てくれば基本的には漢土の宝石である玉のことだ。  さて、そんな玉だが、鎌倉時代に日蓮聖人が信徒に宛てた手紙の一文に「石は玉をふくむ故に砕かれ」とある。自分らが正しいから苦難にあうのだという意味で使われている。なんとも前向きな考え方だ。  しかし、高僧でもない一般人が周囲からの反対や抗議にあった場合、自分に瑕疵がなかったか見直してみるのも大切なことだ。もちろん、間違いなく正しいことをしているのならば、理不尽な弾圧に屈するべきではないのだが、圧倒的多数から批判を浴びる場合は何か間違いが無いかよくよく検討した方がいいだろう。  陰謀論者が叩かれるのは彼らが正しいからではなく、社会に対する脅威だからだ。

目つき

 だいぶん昔の話だが、とある病気で当科外来に通院していた患者様に別の病気を見つけ、その病気を扱う他科に紹介したのだが、治療の甲斐なくお亡くなりになった事があった。ちなにみ当科で診ていた病気と新たに見つかった病気との間には何の関係もない。そんな事があったある日、ご遺族が話があると言って来院された。わざわざ挨拶に来たのかと思って面談したところ、患者様が死んだのは当科疾患のせいであり医療ミスだと言って詰め寄られた。その件に関しては無関係であるとの説明をしてどうにか納得してもらえたのだが、そうすると次は小生の目つきが悪いとか態度が悪いとか言ってすごい勢いでお怒りになっていた。こればかりは主観の問題なので先方がそのように感じたのであれば如何ともし難い。もちろん当方はそのような目つきや態度で接したつもりは無いのだが、上司が小生の目つきや態度が悪くて申し訳ないと謝罪することでどうにか決着した。  当時、上司が謝罪したことに小生はいたく不満だった。その場を取り繕うために小生を犠牲にしたのだと思ったのだが、当時の上司がいうには実際に小生の目つきは悪かったとのことだ。当時の小生は変な患者家族に言いがかりをつけられたと感じており内心なんだこの野郎と思っていたので目つきに出ていたのだろう。以来、なるべく目つきは良くしようと心がけている。しかし、意図的に表情を作ると「なんだニヤニヤしやがって」などと苦情を受けることもありなかなかに難しいものだ。  仏教でいう和顔愛語も身と口の動きだけでなく意が込もっていないといけないのだろう。  

犯罪と銃規制

 日本では銃器の所持が難しい。過去、銃犯罪が起きるたびに銃所持はどんどん困難になっていった。銃がある限りそれを使った犯罪がゼロになることはあり得ず、今後もこの傾向は続くだろう。日本から銃犯罪を撲滅するという意味では良いことだが、一方で厳しすぎる銃規制によりハンターの数が激減し、鹿や猪などによる農作物への獣害は増加傾向にある。  もし民間の銃所持を規制し続けるのならば、害獣の駆除は公的機関の責任において実施する義務を課すべきだ。いっそ、自衛隊、警察、海保以外に銃器の使用を認めなくするのも一つの手ではないかと思う。こうした考えを危険視する人もいるが、警官や自衛隊員による銃犯罪も稀にありはするものの、彼らの持つ銃器の総数と比して発生頻度は極端に低い。国防や治安維持の観点からも公的機関からの銃の全廃は現実的ではない。  しかし、過去に自衛隊が害獣駆除に協力した事例ではあまり成果は上がっていないという事実もある。以前、害獣のいる島に自衛隊が射撃訓練をすることで害獣を追い払うという民間への協力を行っていたこともあったが、あくまでも標的は島であり、害獣を狙って撃っていたわけではなかった。また、害獣の偵察や運搬で自衛隊が協力したこともあったが、害獣に直接的に火力を用いてはいない。警察に至っては猟友会に射撃させておいて、違反として取り締まるなどの意味不明の行為すらしている。  基本的に公的機関は責任を取りたがらないので仕方がないと言えば仕方がないのだが、その責任を丸投げできる民間の銃所持者が公的な規制の強化により減っている以上、公的機関が主体となって害獣対策を担当してもらわねば困る。  悲惨な銃犯罪を防ぐために銃規制を強化するのは正しいことだ。だが、それにより起こる弊害に対して国が無策であるのは問題だと思う。

菩薩のお約束

  菩薩が菩薩となる時に守ることを誓う決まり事に三聚浄戒というものがある。内容を簡単にいうと、悪いことをするな、善い事をしろ、人々を救え、の三つだ。大乗仏教では在家でも出家でも菩薩たるべしというコンセンサスがあるので、日本仏教自体にこの前提があると言っても過言ではない。  さて、三聚浄戒の悪い事をするなとは戒を守ることを意味している。宗派や在家か出家かの立場によりどの戒を用いるのかには差があるが、一般の在家信者なら殺さず、盗まず、嘘をつかず、不倫をせず、お酒を飲まないが最小の要求となる。  善い事をするとは行動と言葉と考えを正しくすることだ。例えば大乗仏教の修行である六波羅蜜を収めることもそれに当たる。六波羅蜜は、貪りの心を捨てて他者に施し、悪い事をせず、逆境にあっても怒ったりせず、努力を続け、座禅する時のように心を集中させ、これらを総合して知恵を得ることだ。この中には悪い事をしないと項目も、人を助ける項目も含まれているので、六波羅蜜の修行に励むことで三聚浄戒は守られる。六波羅蜜だけではなくあらゆる仏法の実践は善い事をしているということになる。善いということが単に悪い事をしないだけなら、極論すれば何もしないことで達成できる。三聚浄戒の一つとして敢えて善い事をするという項目を入れたのは、菩薩が人としての生活を送る上で行動や言葉遣いや冷静な考え方が大事である事を強調した結果であり、つまりは菩薩が修行者として何もせずに己のためだけに引きこもる事をよしとしていないことになる。  人を救うのはどうか?無知で能力が無ければ人を救えない。だから悪を断ち善を行い知恵を養う必要がある。しかしどんなに努力しても人間が完全な知恵を持つことは無い。だから知恵が完全になるまで何もしない場合は誰も救えないことになってしまう。落とし穴に落ちそうになっている人がいたら、余計なことは考えずに助けるべきだ。人間は基本的に楽な事を望む、人助けせずに労力を使わずに済むのならと色々と言い訳を作る。自分の知恵は不完全だから人を助けられないとか、救う相手は悪人だから助けない方が世の為だとか、そんな事を言って困っている人を見捨ててしまいがちだ。もちろん、全てを救うのは無理であり能力に不相応な事をすればかえって他人の迷惑になることはある。だから出来る範囲で出来ることをすれば良いのだ。間違ってたらその都度ただせばいい

イデオロギーが生む偏見

 福島の原発事故の時も、今回のコロナ禍でも概ね右翼はそのリスクを過小評価する傾向がある。原発事故が話題になっていた頃は大量に被曝してもかえって健康になると言った元航空自衛隊幕僚長もいたし、今回のコロナ禍が始まったごく初期にYoutubeで激怒しながらコロナはもう終わったんだいつまで対策なんてするんだ!と狂ったように喚き散らす右翼の言論人もいた。右翼は概ね何のリスクでも過小評価する。これはある種のマッチョ主義というか、自分達は強くて人々が騒ぐ脅威なんて恐るるに足らずと見せたい心があるのかも知れない。また、彼らはリスクの過小評価を、世間や政敵がリスクを過大評価しているとして攻撃するためにも利用している。その敵に対する怒りがますます過小評価に拍車をかける構造がある。  一方の左翼はどうか?彼らは基本的に原発が嫌いなので原発事故の時はそのリスクを過大評価しまくりだった。先入観がリスクコミニュケーションを無力化していた。会話が通じないというか、中には当時の左派政権を擁護するために、東日本大震災自体がアメリカの秘密兵器による物だという荒唐無稽な話を信じ込んでいる人までいて全くお話にならないレベルだった。しかし、今回のコロナ禍ではそのリスクを過大評価する人もいれば過小評価する人もいる。そして過大評価する人は政府の対応が手ぬるいと批判し、過小評価する人は政府の対応が大袈裟だと批判する。彼らが大嫌いな自民党政権を批判するためにはリスクの評価は極端であればあるほど都合がいいので勢いそういう認知の歪みを生みやすいのだろう。  その辺、中道勢力は概ね冷静だと言える。イデオロギー的な立ち位置が偏っているとどうしても誰かを攻撃し怒りを向ける傾向が生まれる。それは本来は冷静に判断すべき脅威をも政争の道具に使ってしまうという結果を招く。脅威に対する科学的知見や公共の利益の前に、より極端な解釈をして相手を困らせることが第一になっている。困ったものだ。

 仏教の基本である四諦の一つである集諦は、この世の苦が煩悩を原因にして起きる事を示している。この場合の「集」は原因とかそういう感じの意味だ。原因や条件により結果が生まれ、それぞれの結果はまた他の原因や条件となる。世の中は因果や因縁の複雑な関係を織りなされて出来ている。  戒を守り悪いことをせず身を修め生活すると善い原因を作っていくこととなる。それが直接自分に対して良い結果を生まなくても、広く衆生の幸せを喜べる心を持てば良い結果となったと言えるだろう。そもそも、仏教的には原因が結果を生むのは必ずしも生きているうちに起きるとは考えられていない。自分の行為が原因となった事象のつらなりは自分の死後も残りどこかで何かの結果を生むのだろう。いわゆる業の継承による転生観が、一般的な人が思う転生と同じと言えるのか甚だ疑問ではあるが、視点を広げれば些末な差だ。  殺したり奪ったりするのは言うまでもなく悪いことだ。信じた人の命を危険に晒す誤情報を喧伝し他人を騙してお金を奪うのはもう最悪だ、最悪の原因は最悪の結果を生むだろう。

奇貨居くべし

 さてさて、コロナ禍が始まって2年を過ぎた今でも、芸能人だけでなく医者や学者の肩書を持った一部の人までもワクチン陰謀論や明らかに間違った新型コロナウイルス感染症に関する情報を煽りたてており、その致死的なミームをメディアが拡散させている。実に嘆かわしいことだ。  だが、実はこの状況はコロナ禍より前からあったものだ。新聞の広告には何とかを食べると癌が消えてなくなるとか、健康になるには何とかをすればいいなどという煽りの書籍や雑誌の記事やテレビ番組が溢れていたし、健康器具やサプリメントも詐欺の吹き溜まりだった。  だから、実は急に変な人達が増えた訳ではない。今回のパンデミックにより昔からあった矛盾が一気に噴出したのだ。少数派だが無視出来ない規模の誤情報を信奉する勢力が社会的な脅威となった。知的な社会分断は進み、それにより引き起こされた混乱は取り返しがつかないようにも見える。  だが、これはチャンスでもある。昔からあった悪質なデマとそれを使って金儲けをする詐欺師どもを社会から根絶やしにするチャンスだ。彼らが取り締まられなかったのは、彼らの被害に遭う人間が少数派だったからだ。今や健康詐欺師達は公衆衛生と治安と秩序の敵に他ならない。信じれば人が死ぬ情報をばらまくのはテロだ。断じて言論の自由などではない。速やかな法的整備が強く望まれる。  これを言うと、いわゆる表現の自由戦士らからはファッショだなんだと文句を言われるが、本当になんでもかんでも自由でいいのか?若い人には信じられないかも知れないが、昭和の中頃は痴漢はおろか強姦でもまともに加害者が裁かれることはなかった。子供の虐待死が疑われる例も事故として処理されていた。タバコのポイすてはあたりまえで、痰やガムはそこかしこに吐かれ、立ち小便もされ放題だった。これらはわずか数十年で次々と規制され、その結果、犯罪は激減し日本は随分と住みやすい良い国になった。次はデマや詐欺師を一掃する時が来たのだ。

眉唾ワード

 今日、全国規模でノーマスク反ワクチンデモが行われた。この人達の主張によると世界は闇の秘密結社に操られており、それに立ち向かうために現れたのがトランプ元アメリカ大統領などの真実に目覚めたヒーローたちであり、それを支持して行動しているのだという。彼らは公衆衛生に対してのみならず、既に治安と秩序の敵だ。馬鹿馬鹿しすぎて反証の必要もないが、日々ネットの偽情報に晒されていると騙されてしまう人もそこそこはいるようだ。  実際に、デマを煽るいわゆるインフルエンサーに対する信者の賛辞をみると、よくぞ真実を語ってくれたなどというような言葉で溢れている。煽る方も「マスコミが伝えない真実」とか「だれも知らない真実」とか「国民は何某に洗脳されている」とか世間の常識とは別にあたかも少数の選ばれた人だけが知っている世界の真実があるかのような煽り言葉が目立つ。自分だけが知っている必勝法を教えてほしければ金を払えという教材詐欺や投資詐欺と同じだ。最近では広告収入を当てにして何らかの品物や情報を売らずにおく人も多く、詐欺として捕まりにくくするという対策まで打っている。  この世に少数の人間だけが知っていて他の全人類が騙されている真実が存在する可能性は無視し構わないほどに低い。だからもし「少数だけが知っている世界の真実」に類する事を言ってくる人がいたら、それはほぼ確実に嘘や詐欺だ。だから、その証拠を出すように言っても全く証拠にならないものをありがたそうに提示してくるだけだ。それに対しいちいち反証してもよいのだが、そんなことを言ってくる人間は山程おり、反証する手間や時間を考えるとはじめから相手にしない方がいい。もし本当にそれが真実ならばそう遠くないうちに実証される。そもそも真実だと主張する方がロクな証拠を出せない時点で終わっている。  ワクチンとか地球温暖化とか選挙とか原発事故とか地震とかそういう大きなイベントが起きると必ず「少数だけが知っている世界の真実」という眉唾なことを言っている人がいる。そんなのに騙されるような人間は近くにいないよと笑われる方はいるかもしれないが、残念なことに認知機能が低下してきた人が騙される例もあり、日頃あっていない高齢の家族がいる人は用心にこしたことはない。

不酤酒戒と不飲酒戒

 仏教の戒で最も守られていないものとして有名なのは、飲酒を禁じた不飲酒戒だろう。不飲酒戒は守らなかったら懺悔を要する努力義務のようなものだ。しかしながら、菩薩戒を授けられる時の十重禁戒の中にある酒の売り買いを禁じた不酤酒戒は、これに違反すると菩薩としての地位を剥奪される重罪となる戒だ。不酤酒戒では、自分自身のみならず他人に酒を売買させることも禁じられている。  実際に飲酒するよりも売買する方が重罪になるのはおかしいと思う人は多いかと思うが、お酒を違法薬物だと考えるとわかりやすい。麻薬売人が自分自身で麻薬を摂取することは少ない。その恐ろしさを熟知しているからだ。つまり麻薬のように恐ろしいものをお金のために他人に摂取さえるのは、悪を禁じ善をなし他者を救う菩薩の使命から考えるとあってはならないこととなる。だから不酤酒戒は重罪となる。  しかしながら、仏教徒の中にはお酒にまつわる仕事についている人も多い。そして、生活自体が不酤酒戒に反している彼らは菩薩になりえないことになってしまう。在家も菩薩となるべき大乗仏教においてはなかなかの問題だ。だが、実際のところ、日本では仏教勢力により酒屋さんが糾弾されることも無く、出家も在家も飲酒者が多いので黙殺されがちな戒ではある。  医療現場からの視点では、アルコール依存症や飲酒による脳や肝臓の障害ばかりでなく、飲酒が原因の一つになったと思われる転倒や交通事故や脳出血などを考えれば不飲酒戒の徹底をお願いしたいところだ。しかし、不酤酒戒に反する方々のおかげで大いに助かったこともある。今回のコロナ騒動の初期に消毒用のアルコールが不足した時は全国の酒造業者の努力でアルコールが増産された。実数には現れないが、これで救われた命も多いだろう。  個人的な話でも寒空を歩いたあとの屋内で飲むホットワインは至福の一杯だ。これはお酒ではなくキリストの御血だということにしておこう。わざわざ異教の神を持ち出さなくても日本には般若湯と呼ばれる伝統飲料もあることだし良いのだが、それでも飲みすぎないようにするべきだと思う。

火山噴火に関する陰謀論

 トンガの火山噴火で被害に遭われた方々にあらためてお見舞い申し上げるとともに、トンガの一日も早い復興をお祈り申し上げます。  さて、いたましい被害を出したトンガの噴火災害ですが、嘆かわしいことに、トンガ国民の事を心配せずに喜んでいる愚か者がおります。なんとも哀れなことです。  いわゆるネット右翼の人にそのような言説が目立ちますが、彼らの妄想によると、今回のトンガの火山噴火では人類が産生する100年分の量に匹敵する膨大な二酸化炭素が排出されたと言うのです。だから、地球温暖化に対する人間の努力など無意味で化石燃料は使い放題で良かった、というのが彼らの主張です。実に荒唐無稽なデマです。  さて、まず第一に今回のトンガの災害でどれほどの二酸化炭素が放出されたのかは確定していません。100年分とかいう分かりやすい数字はどこから出てきたものでしょうか?もし、現代の人類が年間に産出する二酸化炭素量(約40ギガトン)の100倍もの二酸化炭素が一気に放出されたのならば、大気の総質量を5.28X10^18kgとした時に、二酸化炭素濃度は762ppm近く上昇しているはずですが、そんな現象は観測されていません。また、1年に40ギガトン近く放出されると見積もられる人間の活動により生まれる二酸化炭素に対し、1991年のピナツボ火山の大噴火ですら0.05ギガトン程度しか二酸化炭素を放出していません。今回のトンガの噴火で人類100年分の4000ギガトンもの二酸化炭素が放出された可能性はまずないと言って良いでしょう。  ともあれ、地球温暖化への対策は喫緊の課題です。おかしな陰謀論に騙されることなく、粛々と対応しましょう。

無情説法

 無情説法は禅の公案の一つで、草や木や石や瓦や壁などの物体も仏の教えを理解し説いているのかという問いかけです。先人たちは、その声が聞こえたり聞こえなかったり見ることができたりして、それぞれに答えを出してきました。  北宋時代の有名な文人である蘇東坡もこの難問に挑み以下のような詩を残しています。  渓声便是広長舌  山色豈非清浄身  夜来八万四千偈  他日如何人挙似  彼には無情の説法が聞こえたようです。  無情の声が聞こえるか聞こえないかに関わらず、無情の存在も説法しているものと考えて向き合えば、物を粗末にしなくなるのでそれはそれで良いことです。そして、水鳥も樹林もことごとくみんな仏を念じ法を念じているのならば、人間にそれが出来ないこともないでしょう。日々精進して参りたいものです。

護国神社

 北海道と殆どの府県にある護国神社を靖国神社の地方分社だと認識している人は多い。確かに、靖国神社と各地の護国神社には密接な連携があるのは事実だが、護国神社が靖国神社の分社との認識は正確とはいえない。  例えば全国にある稲荷神社の多くは伏見から分霊された祭神を祀っている。しかし、護国神社の祭神は靖国神社から分霊された御霊では無く、各神社がそれぞれに招魂した英霊達を祀っている。  結果として護国神社では、靖国神社で祀られている神々のうち各地に縁のある方々を祀る形となるが、完全に一致してもいない。靖国神社では原則的に戦時下の軍務に殉じた国民を祀る訳だが、一部の護国神社では自衛隊員や殉死した公務員や戦火に巻き込まれた民間人も祀っている。  護国神社のそもそもの成り立ちも、明治に入って各地に戦火に倒れた人々を祀る招魂社が多数出来ていたのを後に地域ごとにまとめたものだ。靖国神社ありきでは無い。この時に出来た護国神社はだいたい何々県護国神社という名前がついているが、それ以外の地域独自の護国神社も今に残っている。  護国神社は主に地域の戦死者を祀るという性格上、神社を支えて来た人の多くは遺族の方々だった。しかし直接の遺族も徐々に減少し、地方では過疎化も進んだ影響で今後の存続を不安視する声もある。神社の維持費も馬鹿にならない。神社の財務状況が逼迫すれば怪しげな連中の付け入るスキも生まれる。  戦争の記憶がどんどん薄れいく昨今、遺族の想いを伝えて来た護国神社にはどうか健全な形で残って欲しいものだ。

コロナによる一般病床の減少

 去年の夏頃も同じような事を言いましたが、新型コロナウイルスの再流行に伴い、コロナの患者用の病床だけでなく、一般病床も不足しています。  一般に大きな病院では看護師一人当たり七床のベッドを担当します。コロナの場合は個人防護具の着脱などの感染防御に手間も取られることから、看護師一人当たり一から二床の担当をすることになります。つまり新型コロナウイルス感染症で入院を必要とする患者様が増えると急速な看護師不足に陥ります。よって一般病床も減ります。  とある不見識な政治家は国立病院機構の5万床に5千床のコロナ病床を提供するように命令すれば出来ると自信満々に言っていましたが、その場合は一般病床を完全に潰さなくてはなりません。田舎の方では国立病院は高度医療や三次救急最後の砦となっている場合も多く、その機能を完全に停止させるような事が起きれば、多くの人がコロナ以外で死ぬことになります。  こうした事態を避けるためにも感染防御を徹底し、また、生活習慣で予防できそうな病気や怪我になるべくならないようにご協力お願い申し上げます。

不説四衆過戒

 不説四衆過戒は菩薩にかせられる十の重い禁止事項(十重禁戒)の一つで、通常は男女の出家者と在家者の過失を咎めない事とされます。同じく菩薩にかせられる四十八の軽戒のうちには、戒に背いたものを見過ごさずにその罪を教えて懺悔させねばならない(不挙教懺戒)があり、不説四衆過戒と合わせることで、他人の過ちは吹聴して責め立てずに、過ちを犯した本人に懺悔を促すのが良いとされていることになります。  しかし、もし仏教者が内部の不祥事を一切告発出来ないのであれば、例えばある僧侶が殺人や強盗や強姦など僧侶の資格が剥奪されるような戒を破っても、本人の懺悔による自白によってしか罪が成立しなくなります。どんなに個人的に懺悔を促されても犯人が嘘をつき続ければ宗教的に悪業を積むことにはなっても、僧侶の資格が剥奪される事はなくなります。これは流石に問題です。  ちなみに僧侶の集団内の最高刑は僧侶の資格の剥奪です。普通の犯罪行為は世俗の法により裁かれることとなります。  罪を犯した人に懺悔を促すのは良いとして、それを聞き入れてもらえなかった場合、あるいは既に罪を犯した人間が死亡している場合などは、被害者救済の問題もありますし、起きた事件に対して然るべき調査と議論が必要でしょう。不説四衆過戒を仏教集団内の不祥事を隠蔽する口実として使ってはいけません。

災害時の仏道

 トンガの大規模な火山噴火で被災された方の無事と回復をお祈り申し上げます。同じような災害は火山列島である日本でも起きうる話です。我々も備えと、助け合いの心を持って日々臨みたいものです。  地震に被災した良寛さんが知人に宛てたお互いの無事を喜ぶ手紙の最後に「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」という言葉が書かれています。圧倒的な力を持つ自然の前に、思い悩んでも仕方がないとの開き直りの心なのかも知れません。    ですが、極限状態にたえられる人はそうそういません。素早い救援は人の命だけでは無く心も救うことになるでしょう。日赤などの信用出来る機関が募金をはじめたら布施行と思ってご支援をお願いします。

富豪の慈善事業と個人のボランティアと募金

 ビル・ゲイツなどアメリカの大富豪は概ね慈善事業に熱心だ。これは税金対策という側面もあるだろうが、アメリカ文化の影響もあるだろう。アメリカには個人の才能は人々のために使うために神から与えられたものだという考え方がある。無神論者が増えた現代においても、アメコミという聖典群にその思想は引き継がれている。大富豪がその才能によって築いたり守ったりした富は人々のために適切に使うべきだという社会的圧力が存在しているのだ。  一方で、個人的なボランティアは富豪のように必ずしも生活に余裕がある人たちばかりではない。被災したりその救援に入った経験がある人ならば分かるだろうが、火事場泥棒のようなボランティアもどきも存在するし、救援物資という名目で明らかなゴミを投棄していく人もいる。こうした明らかな悪意が無いまでも、スキルや知識が乏しく善意と正義感だけが空回りして現地の秩序を乱し、自衛隊などの公的組織やNPOなどの経験を積んだボランティア組織の足を引っ張り、被災地に迷惑をかけてしまうような人もいる。  現地に行っても迷惑をかけるだけだろうとの自信がある人間は、スキルを持つ人達に募金を通じて資金援助した方が絶対に効率が良い。現地までの移動費や食費や寝泊まりなどにつかうお金を身銭を切って払ったあげく迷惑となっては本末転倒だ。どうしても現地に行きたいのなら、相応のスキルや知識を身につけてからにした方が良いだろう。  とはいえ、募金した先が詐欺的な集団なこともあるので用心が必要だ。これを避けるもっとも無難な方法は有名な団体に募金することだ。ボランティア団体ではないが日本赤十字とかなら、万が一内部で汚職があったとしても露見する可能性が高い。逆に、新興宗教や政治結社が災害時にボランティアを派遣して募金を呼びかけることがあるが、本当に適正な募金の利用がなされているか甚だ疑問だ。  募金は布施行にも通じる。自分への執着や貪りを捨てさせてもらう修行だと思ってボランティア団体に寄付するのもおすすめだ。そもそも、一定のスキルや組織力を有する団体は、その管理運営にもそれなりの資金を要する。先に言った大富豪の寄付で成り立っているようなボランティア団体の中にはかなりの高給取りの職員もいる。ボランティアがその活動で収入を得るのは間違っているという人もいるが、給与が高いことは優秀な人材の確保にもつながる。スーパーボラン

ヒューマンエラーを防ぐ機械

 ヒューマンエラー、人為的な失敗は作業を続けている限りいつかは必ず起きる。ヒューマンエラーが起きたならば、それをつぶさに分析し、どうすれば再発の頻度を減らせるのか対策を考えるのが常だ。  その対策は作業マニュアルの作成だったり、職場環境の改善だったり、指示系統の見直しだったり色々あるが、便利な道具や機械を使うのも一つの手だ。  無論どんな対策も万全ではあり得ないのだが、対策案の内容が既存の方法よりも人間の努力が減るものに関してはしばしば反論を受ける。人は楽をすると油断をしてミスが増えるというのが彼らの言い分だ。  しかし、彼らは人間の注意力や努力に依存する方が危険だということが分かっていない。極度の努力や集中力はそうそう持続はしないのだ。対策は可能な範囲でなるべく作業する人が楽をできるように考えられるべきだ。もちろん個々の作業において集中してミスがないように努力するのは良いのだが、個々人に努力せよという命令だけでは作業の効率や安全性は頭打ちになる。  しかるに、便利な機械や道具が登場したときに、こんなものに頼るのは危険だというのは間違っている。例えば、自動車の安全機能に関しても機械に頼ってドライバーの運転技能が下がるなどという人間がいるが、そもそもこうした機能はヒューマンエラー対策であり、個人の注意や努力を超えて危険が迫った時のバックアップなのだから批判自体が的外れだ。初期の自動車にはバックミラーすら付いていなかったのだが、現在、鏡を頼って後方確認を疎かにするなどと文句を言う人が果たしていようか?バックミラーには死角があり目視で後方や側方を確認するは常識だが、それでも完全ではない、機械的な目にも助けて貰えるのは純粋にありがたいことだ。レギュレーションがあるレース競技でもなく公道を走るのであれば安全機能はあった方がいい。便利で楽をするのが人間の質を下げるというのならば、パソコンもスマホも使わずに仕事をしてみればいい。ミスは今の何倍にも膨れ上がり作業効率は著しく低下することだろう。  道具は使いこなしてナンボやで。

マイメロママが炎上する社会

 マイメロママが炎上している。マイメロディはサンリオ社のウサギ風のキャラクターで、2005年には「おねがいマイメロデイ」というタイトルのアニメにもなっている。このアニメにも出てきたマイメロディの母親がマイメロディママ、通称マイメロママだ。  このマイメロママ、アニメでは毒舌と言うか強いキャラクターとして人気を博し、「おねがいマイメロディ」自体がサンリオの狂気とまで讃えられるようになった一因でもある。  そんなマイメロママの名言と言われるものには以下のようなものがある ・女の子が気にしていることをいうような男はぶってもいいのよ。 ・昔話をしている男ほど将来を期待できないものよ。 ・一度や二度の失敗でクヨクヨするような男をつかんだら一生の不覚よ。 ・人ってね権力を手にするとおのれの器もわきまえず使ってみたくなるのよ。 などとなかなかの内容だ。  今回問題となったのは、バレンタインチョコのパッケージにこれらマイメロママのいわゆる名言がプリントされていることだ。その一つに「女の敵は、いつだって女なのよ」というものがあり、前時代的だと炎上している。また、先に紹介したマイメロママの名言と呼ばれるものの多くも、マイメロママが専業主婦の立場からした発言が多く、専業主婦そのものの存在を許さない価値観の人達からも激しい攻撃を受けている。  当時を知る人間からすれば、こうした言葉は話の流れや時代背景も考慮して見るべきだと思うだろうが、そんな事情を知らない人達からは批判しない方が奇異に感じるのだろう。社会の価値観は割と短い期間で大きく変わる。例えば1979年にリリースされヒットした沢田研二の歌謡曲「カサブランカ・ダンディ」の歌い出しは「聞き分けのない女の頬を一つ二つはりたおして」だ。今ではおそらく発売できまい。だが、たかだか40年と少し前の日本では、男が女をはりたおしても然程問題にはならなかったのだ。それが2005年の「おねがいマイメロディ」の頃には、マイメロママに見られるような強い女性が男をいいように操るのが面白いとされていて、2022年の現代ではそんなマイメロママも男性の支配体制に与する悪鬼羅刹のような扱いを受けるようになった。  今後、社会的価値観がどのような変遷をたどるのかは分からないが、10年や20年スパンでもそういうものは著しく変わっていくものだ。まだそんな経験のない若い人間に

良いニュース

 大体のニュースは悪い知らせだ。正直いって気が滅入る。だからといって、世の中の不都合に目をつぶり身近な楽しい事ばかりに目を向けていても事態は悪化するばかりだ。誰かが社会問題に無関心でも、他の人が対応すればどうにかなるが、社会問題に無関心な人ばかりの自治体では容易に衆愚政治が成立してしまう。  ゆえに悪いニュースを無視することは出来ない。だが悪いニュースばかりを見聞きしていると人間の心は荒む。人に夢や希望や笑いをもたらす良いニュースも、持続可能な社会活動には必要だ。しかし、人はついつい嫌な情報にばかり目が奪われがちで、良いニュースの中にも何かしら問題点を発見しようとする。  例えば、1月10日、アメリカのメリーランド大学で、遺伝子に修飾を加えたブタの心臓を人に移植する手術が行われた。このブタの心臓が無事に機能し続けるのかどうかは経過を見なければならないが、もしこの技術が確立されれば、世界中(主に中国)で臓器目当てに殺戮される無辜の市民も減るというものだ。慢性的に不足している移植臓器が安定供給されれば、病気に苦しむ多くの人も助かる。これは希望が持てるよいニュースだ。一方で、ブタの心臓を使うことに関して宗教的な禁忌や生理的な嫌悪感を持つ人も少なくは無いと思われ、どのように受益格差を小さくしていくべきかと問題もある。動物愛護過激派の攻撃も心配だ。  こう考えると良いニュースも一転して不安の種となる。しかし、逆に悪いニュースであっても、その情報を元に何かしらの対策をたてられると思えば良い側面もある。仏教者が分別にこだわるなというツッコミもそろそろ聞こえてきそうだが、この場合は俗諦の話であり一向に構わない。悪いことばかり考えずに、良いことにも目を向けて、悪を減らし善を増やすべきだ。そうして、より多くの人が苦しまず安楽に暮らすことが出来れば、それに勝る良いニュースはない。良いニュースがやってくるのを待たずに、自分たちの手で作り出すように心がけるのも菩薩行だと心得て、まずは職場や家庭でちょっと良い事をしてみるといい。自分で作り出した良いニュースに心もおちつくはずだ。

オミクロンと進化論

 1月9日に公開されたAbema的ニュースショーで舛添要一元厚生労働大臣が新型コロナウイルスのオミクロン変異についてまたおかしなことを言っていた。舛添氏は東京大学法学部卒であり学歴的に言えばエリートだと言える。しかしながら、ウイルスが意思をもって合目的に進化するなどといった少なくともダーウィニズムには反する事を公に発言してしまっている。しかも、その場に居合わせた番組のキャストも誰一人としてツッコミを入れていない。日本の教育制度にいかに問題があるかを物語る一幕であった。他にも酷いことを吹聴していたが割愛して、本日は進化論に関する誤解を説明していきたい。  まず、はじめに断っておくが舛添氏が抜きん出ておかしい訳ではない。学歴や経歴を考慮すると問題ではあるが、日本人の大半は生物は何かしらの目的のためにその意思をもって進化したのだと信じている(ちなみにウイルスは一般的には生物ですらないとされる)。もちろんこれは間違いなのだが、教育系のテレビ番組でも、例えばキリンは高い木の葉を食べるために首を長くする進化をしたのだという感じの間違った説明はしばしばされる。彼らの発想では昆虫の擬態だって捕食者から身を守りたい個体の祈りが天に通じてその身を変じたかのような言いようだ。この文章を読まれている方の中にももしかしたらそのように思っている人がいるかも知れない。  さて、日本を始め世界中の学校でスタンダードとして教えられている進化論はダーウィンの進化論の系統のものだ。先に私がおかしいといった目的論的な進化論はラマルクなど古い世代の説であり、ポケモンの進化のようなおとぎ話だ。ダーウィンの時代は遺伝子はまだ明らかになっていなかったが、概ね次のように考えられていた。それは、個体間には形質の差があり、環境によって生存や繁殖に有利な形質をもつ個体が選別されて増えた結果、その形質が世代ごとに蓄積されていくというものだ。だから、キリンは首を伸ばしたくて伸びたのではなく、首の長い個体が生き残りやすかったから徐々にそうなったのであり、昆虫の擬態も様々な変異のうち捕食者に発見されにくい個体の特徴が引き継がれてきた結果に過ぎない。そういう特徴を持ちえなかった集団は環境に適応した他の進化を遂げたか絶滅したかということになる。後に遺伝子やその仕組が解明されていっても、ダーウィンの唱えた進化論の大枠は変わっていない。

食品照射(食品への放射線照射による殺菌、殺虫)

 医療現場では放射線滅菌された器具を日々使用している。注射針やシリンジが汚染されていては一大事であり、信頼性の高い滅菌方法が取られており無論使い捨てだ。滅菌や殺菌手段としての放射線照射は極めて優秀だ。  日本では福島第一原発の事故以降、放射線に関する一般人の知識が増えたこともあり、放射線を当てたものと放射能は別物であると知る人も多くなった。放射線を当てられたものが放射能となるいわゆる放射化も起こりうるが、食品の殺菌に使う程度の線量では照射後の食品からは放射能の増加は検出されない。検出されなくてもごく僅かな放射能が生じている可能性もあるが、何もしていない食べ物にも一定の割合の放射能は十分に検出可能なレベルで含まれており、前値と差がないのなら実質的に無視して構わない。  食品照射によりフリーラジカルも発生するが、消費者に届くころには消費されている。栄養価もとんでもない高線量を加えない限りは影響ないレベルだ。  海外では多くの国で何十年にも渡り、放射線の食品照射が続けられているがこれまでにそれによる健康被害は生じておらず、食中毒や腐敗による損失が減っただけだ。細菌やカビや寄生虫による健康被害を大幅に低減出来る放射の食品照射だが、日本ではじゃがいもや香辛料など一部に使われているのみとなっている。  日本ではたびたび食中毒が起きる。そのたびに規制は強化され、既にレバ刺しが食べられなくなって久しい。ユッケも今や高級品だ。検出も出来ない放射能におびえて、致死的な細菌感染症のリスクを無視するのはどうしたものだろうか?ちなみにこの規制は輸入食品にも適応される。十分に殺菌できない食品が国産よりも輸送の時間をかけて国内に入ってくるのだから、それだけ細菌やカビが繁殖するスキも出来ている。一体どっちが危険なのか政治家にはよくよく考えてもらいたいものだ。

意見が違うことは必ずしも敵対することではない。それが多様性ある社会。

 公衆衛生に関する誤った知識や、事実無根のデマによって起こる憎悪犯罪は、誤った情報を否定し、正しい情報を広く告知しないと大変なことになる。これは言論や表現の自由を守る事とは相反しない。意見の違いではなく真偽の問題だからだ。  しかし、なにかが美しいとか醜いとか、美味しいとか不味いとか、心地よいとか気持ち悪いというのは、あくまでも主観的な問題であり千差万別だ。これらは言論や表現の自由の範疇にあり、個人の主観を理由に迫害されてはならない。  こうした主観やそれに伴う需要の違いがあるから、人の社会では無用の衝突を避けるためにゾーニングを行っている。工場や住宅地や小中学校や商店街や飲食店や性風俗店など、それぞれの秩序に基づいて混在せずにあるのは、まぜると主観の相違による問題や、物理的な危険も発生するからだ。例えば、大型車両の出入りが多い工場のすぐそばに小学校があることや、小学校の門前にソープランドがあることもない。  しかし世の中にはこうした配慮を要請しただけで、恐ろしく攻撃的な態度でくる人達がいる。いわゆる表現の自由戦士だ。ゾーニングを守らずに自分たちの好き勝手出来ないのは言論弾圧であり表現の自由に反すると言うのだ。もちろん、意見としてそう言うのは良いのだが、実際の行動をともなってあまり無茶をすると無用の軋轢を生み、最後には本当に弾圧されることになりかねない。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない。それが意見の違う者同士がともに生きられる多様性のある社会を守ることになる。何事も穏便に解決するように努力したいものだ。

デマを潰す人のメンタル

 コロナ禍でも去年のアメリカ大統領選挙でも、もっと前ならば東日本大震災の時にでも、特定の人や集団を攻撃するためのデマや陰謀論がネット上で吹き荒れた。だが同時に、それが嘘だと丁寧に指摘し続ける人たちもいた。  彼らは時には脅迫めいた暴言を浴びせかけられながらも、貴重な時間と精神力を費やして慈善事業のように間違いを正そうと呼びかけ続ける。一体どこの菩薩様だろう?凡夫たる私が真似をしたら5秒で瞋恚の炎に焼かれていることだろう。  ただ、彼らも分かっていると思うが、いくら懇切丁寧に分かりやすく説明しても、人口の3割ほどは理解してくれない。こうした発言はよく他人を見下しているなどと批判を浴びるが、成人を対象とした知能検査でもその程度の割合で人は、ごく簡単な図表や文章を理解出来ない。これは情緒論ではなく事実だ。  もっとも、ネット上でエキセントリックなことを言う人達は人口の3割もいない。理解できなくても国やマスコミの発表や、知り合いの言う事なら信じようという人が多いからだ。広い範囲の人々に何かを説明するのならば、どうやって理解してもらうかと同時にどうやって信じてもらうかも考えるべきだ。  デマを潰す人たちの口調が概ね穏やかなのは、それを知っているからかも知れない。とはいえ、罵詈雑言を浴びつつ、殺害や傷害の予告を受けてもなお正論を言い続けるメンタルは並大抵のことではない。彼らの努力には大きな敬意を表したい。

騙された話

 例のファミマのおにぎりはちょっと食べてみたいと思っている。今度大量購入しに行く。  5年前、ファミリーマートは会社の総意として自衛隊を扱った商品を不愉快な物と認定し店に置いた事を謝罪し撤去したとの話があったが、実はこの話は嘘だったとさっき知った。日頃は医療や仏教に関するデマを潰しているつもりでも自分がすっかり騙されてたのでは世話はない。恥ずかしい限りだ。なお小生は騙されてた期間中は一切ファミマを利用しなかった。行っていればデマだと気づいたのだろうが、ファミリーマートには悪いことをした。  騙された小生の様な知的弱者が悪いと言えばそれまでだが、デマを流した人間の方が悪質だと思う。デマを信じた人は良かれと思って無実の者に被害を与える。騙された人が少数で社会的な影響は無くても、騙されたと知った人間は慚愧の念にたえないし、多くの人が騙されれば去年のアメリカ議会襲撃事件の様な事だって起きる。  今後とも騙されない様に注意したい。また騙されたと知ればすぐに行動を改めるし、自分が知っている件に関しては他の人が騙されないように注意も続けたい。無謬の人はいないとの認識は自分に対しては注意深さを、他人に対しては寛容さをうむだろう。

野巫

 ヤブ医者の語源という説もある野巫は、呪術で病人の治療をしようとする医術の理解に乏しい田舎者の医者のことだ。天台の摩訶止観でも一部だけを知って本義に疎い学に欠ける禅修行者の例えとして用いられる。  現代でも、エビデンスに基づかず、医者個人が勝手に効くはずだと思い込んだだけの無効だったり有害だったりする薬の処方が行われることがある。その非科学的な不思議な力を信じる患者も付き従っている。まさに野巫だ。天台の野巫と同様に、彼らは一応は医師免許をもっており断片的な知識はあるので、知識がない人が聞くとそれっぽく聞こえるのはやっかいだ。  もし、無治療なら患者の1割ほどが死ぬ病気があったとして、その患者たちが野巫の治療を受けても9割ほどは助かる。そうすると、実際にはなんの役にも立っていない野巫は助かった人達からすごい医者のように言われるのだ。ちゃんと治療すればほぼ全員たすかったのに沢山の人が死んだという事実を信者たちは無視し、それを指摘する健常者を陰謀の主のように言って攻撃さえする。  医療業界では標準的治療が殆どの場合で最適な治療法だ。その治療法が現在選択できるものの中では一番効率が良かったから広まったのであり当然だ。どこかの野巫だけが知っている世界一優れた治療法なんて信じてはいけない。

オミクロン変異と時間稼ぎ

 オミクロン変異は強い伝播性をもつ。流行を防ぐことは困難だろう。岸田首相の指示により行われた水際対策は抜け道もあったものの、他国と比べては上出来で、オミクロン変異の流行までの時間をかせぐことが出来た。  問題は稼いだ時間で何か準備が出来たのかというと怪しいことだ。前倒しでの3回目のワクチン接種や、5-11歳のワクチン接種も既に有効性と安全性が確認されたのだから実施の許可を出すべきだったのだ。3回目は医療関係者でもまだ一部しか実施されていない。  もうオミクロン変異の流行は始まっている。稼いだ時間を有効に利用出来なかったのは残念だ。日本はワクチン接種率も高く他国よりはマシなのかも知れないが、第6波では相当数の感染者が出るのは間違いない。  当院でもまた一般病床が減るだろう。コロナ対策は新型コロナウイルス感染症の患者だけの問題ではない。他の疾患の患者に対応するマンパワーも減る。流行が抑えられなくてもピークを抑える事が大事だ。患者が爆発的に増えれば薬剤も人手もベッドも供給が追いつかなくなる。引き続き、マスクの着用や手洗いや三密を避けるなどの対策を続け、ワクチンのより幅広い実施も進めなければならない。  また、デルタ変異よりもオミクロン変異の方が弱毒化しているのは間違いないが、デルタ以前と同程度かそれよりもやや強いとされており一部の陰謀論者がいうようなただの風邪では断じて無い。市中にはまだデルタ変異も残っているし、オミクロン変異でもワクチン未接種者にはコロナ禍の始まった当初と同様に危険だ。  強い伝播性をもつウイルスは防ぎきれず蔓延し、それにより集団免疫の獲得は達成できるかもしれないが、そうなる過程での死者や後遺症を残す人は少ない方がいい。一般人も、陰謀論を主張する詐欺師もそれに騙されている被害者も等しく健康であるように祈る。

カルムイク、ヨーロッパの仏教国

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 カルムイク共和国はロシア連邦に所属する地理的にはヨーロッパに属する仏教国で、主にチベット密教が信仰されています。このため国旗にも白蓮華が描かれている他、旗が黄色なのはモンゴル地方ではチベット密教は「黄色の教え」とも呼ばれるからです。国旗の中央の白蓮華は青い丸で囲まれていますが、青や空色はカルムイク人の起源となった中央アジア東方の象徴的な色です。カルムイク人は民族的にはトルグートと呼ばれる遊牧民族の末裔となります。  トルグートはモンゴル西方のオイラト地方から東トルキスタンの付近の遊牧民です。伝説ではインドからやってきて漢土の西部に王国を築いた仏教の転輪王の子孫とされます。伝説の真偽はともかく一般にはモンゴル人に近いオイラト民族の中の一部族とされます。言語はモンゴル語族のオイラト語の方言で、カルムイク語として現在に伝わっています。  トルグートは同族間の争いを避けるために、故郷の天山山脈の付近からはるばると(独ソ戦でも有名な)ヴォルガ川の下流域に1630年に移住しこの地に住んでいたチュルク系の民族を攻めてカルムイク・ハン国を形成します。この時にチベット密教も彼らとともに伝えられました。遠くヨーロッパの地にあっても、彼らはチベットやオイラト地域とも連絡を取り続けました。  その後1637年に、トルグートの故郷である中央アジア東部にはオイラト民族によって世界最後の遊牧帝国とされるジュンガル帝国が成立します。しかし、ジュンガル帝国は清朝との争いに敗れ1755年に滅亡します。その後も一部は抵抗を続けましたが清朝による虐殺と疫病の流行でジュンガルの人は殆ど滅亡してしまいました。そしてこの頃、ロシア帝国との関係が悪化していたヴォルガ川のカルムイク人は、1771年に衰退した中央アジア東部へ戻ろうとします。しかし、ロシアはこれを妨害するために西トルキスタンの諸民族を使い攻撃させ大量の死者が出ました。現在、カザフスタンにあるバルハシ湖は彼らの血で染まったと伝えられます。そのような妨害に遭い出発時には17万人いたカルムイク人は7万人までに人口を減らして、清朝支配下となった東トルキスタンに到着し清朝の勢力として組み込まれました。しかし、そもそも出発の時点でヴォルガ川の西岸にいたカルムイク人はヨーロッパに取り残されてしまい定着しました。  ヨーロッパに残留したカルムイク人は後にナポレオンと

年賀状

 割とそうである年が多いが、昨年も年末が多忙で年賀状を書けずに年が明けてからぼちぼち書いている。  個人的な連絡手段としての郵便が衰退しつつある今日、年賀状の発行枚数も減ってきているようで、この風習もあとどの程度続くのか疑問だ。年始の挨拶はSNSで済んでしまう。昔は多くのハガキ職人がいたものだと懐かしく思うが、何かしら気の効いた趣向はネット上でも可能だ。  有名人の私信だけでなく、何気ない郵便物でも時代が古くなれば当時を知る貴重な資料となる。だがそれも徐々にデジタルに置き換わっていくのかも知れない。諸行は無常。  まあ、世情がどうあれ私的には年賀状を書けるうちは書こうと思う。

修正会

 正月と言えば初詣です。コロナ禍で自粛したり時期をずらして参る人も多いでしょうが、それでもかなりの数の日本人は神社へ初詣に参ります。年末にお寺に除夜の鐘を撞きに行く人などは年越しで新年からお寺参りをしましょうし、大寺院などでは新年の参拝客も多いですが、日本全体で見れば新年からお寺参りする人は神社へ初詣に行く人よりは少ないでしょう。  さて、そんなお寺ですが、ちゃんとお正月の法事である修正会があります。修正会は、天平の頃から続く天下泰平や五穀豊穣を祈り皆が幸せでありますようにと願う集まりです。概ね現代でもそういう趣旨の法事で元旦あるいは大晦日の晩から3日間〜1週間くらい続けられます。浄土真宗は祈祷しないので阿弥陀如来に感謝し我が身を振り返る法事となります。また名前が修正会では無いお寺もありますが、正月には何かしら特別な法事をするお寺が多いです。  田舎のお寺の新年は参拝客も少なく閑散としています。去年よりは多いかも知れませんが、コロナ禍もまだまだ続いており例年よりは人出が少なくなっているところが多いでしょう。お坊さんたちが人々の幸せを祈願してくれるのは良いのですけど、檀家としては新年にあたりお寺の存続を祈りたいと思います。

新年あけましておめでとうございます。

 新年あけましておめでとうございます。  今年は寅年です。仏教で虎と言えば捨身飼虎の話が思い出されます。  前世のお釈迦様が飢えた虎を救うために自身を餌として与える話です。このような究極的な苦行が中道を重んじる仏教の精神にかなうものか疑問もありますが、他にも、修行者の食事となるためにこれまた前世のお釈迦様であるウサギが焚き火に飛び込む話や、お釈迦様の前世の王様が鷹に襲われる鳩を助けるために自分の肉を切って鷹に差し出す話とか、自分の身を犠牲にするお釈迦様の前世譚は多くあります。こうした昔話は、我が身に執着するなと言いたいのかと思います。  我が身に執着しすぎると、他人に害をなし貪ることに躊躇が無くなりますが、逆に自分の身をぞんざいに扱うのも危険です。命は大切にしましょう。何事も中道の精神が大切です。捨身飼虎の話は嫌なことでもやらねばならぬことはしようくらいのニュアンスで捉えておいて良いかと思います。やらねばならぬことでもキツく面倒くさい事柄は、なんだかんだと言い訳をしてついつい後回しにされがちです。小生も実家の掃除はもう何年も放棄しており今年こそはやり遂げようと思います。合掌。