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改めてお寺へのお布施について考える

 昔からと言えば昔からなのだが、存外にお寺やお坊さんは叩かれがちだ。小林一茶の句にも「御仏や寝てござっても花と銭」と詠まれるように、批判の対象となるのは今も昔も金銭関係の事が多い。ただ、確かにがめついお寺もありはするのだろうが、実体験としては良心的な所しかみかけないので、今日はお寺へのお布施について擁護してみたい。  お布施と言うとお寺への謝礼だという通念があるが、本来お布施とは物や行動を他人に施すことにより自己の執着を捨てる修行であり何かへの対価ではない。もちろん、お布施の対象はお寺だけではなく、自分以外のあらゆる生き物や仏が対象となるが、今回のテーマに沿ってお寺の場合で話をすると、お寺は檀家の布施を受け取るのが相手の執着を捨てさせる役に立つこととなる。だが、現実的な話ではお寺の運営としてあたかも値段として決まっているような物は多い。お墓の維持や葬儀のお勤めや戒名や法名の対価だと思われがちなお布施は、本来の考え方に基づけばお寺と檀家がそれぞれに独立して相手にお布施をしている状態となる。  以前にも書いたが、お布施する物は盗んできたものなどの不浄なものは避けねばならないなどのいくつかの決まりがあるが物品だけでなく、優しい表情や言葉や行動もお布施になる。もちろん何かの見返りを期待してはいけない。優しくしてあげたのに裏切られたと言う場合の優しさはお布施では無く、よい見返りを狙った貪りの心の現れに過ぎない。こうした貪りや自分の執着や思い上がりを捨てることで、怒りや貪りを離れる事ができ様々な事を耐えられる心が鍛えられる。大乗仏教の修行として有名な六波羅蜜の布施と忍辱はこうしてお互いにつながっており、更に盗んだり傷つけたりしない持戒にもつながっていく、こうした事を努力する精進や、それによる生まれる心の安定で禅定もしやすくなって、智慧が得られることなるから、六波羅蜜はそれぞれに関連している。六波羅蜜の第一歩は布施であり、本来のお布施は極めて重要な意味をもつと言える。  そういう、大事なお布施であるけど、実際に大金を支払わせられて困ると言う意見もあるだろう。そうした場合、まず大切なのはそのお寺と相談することだ。相手が仏道に基づく僧侶なら金額の相談や維持管理にお金がかからないお寺への紹介など何らかの解決策を探してくれるだろう。設定されたお布施の金額はあくまでも目安であるし、お寺の維

自利利他の心

 自利利他は大乗仏教の修行である菩薩行の根幹で、古くは菩薩行を説いた十地経というお経の解説書である世親(天親)菩薩の十地経論の冒頭の偈文でも自利利他の文言は見られます。自利とは仏教の修行をすることで自分の利益になることで、利他は他人に功徳利益を施す事ですが、自利がそのまま利他となり利他がそのまま自利となる境地が菩薩の目指すべきところです。今回はこの解釈を採用しますが、浄土真宗では自利を自力の修行、利他を阿弥陀如来の本願力と解釈しています(※)。  宗教的に突き詰めると難しい話ではありますが、在家の人間の生活で例えると、会社や顧客の為にと頑張りすぎて倒れれば、自分の為にも会社の為にも顧客の為にもなりません。自分の能力を高め健康を維持するのは、他人の役にも立つことなのです。職場では、特に管理職にある者は、自分だけでなく部下や周囲の健康に気を配るべきですし、病気や不慮の事故に倒れる人がいれば出来るだけ支援してあげるのが倒れた人に対してだけでなく自分の為にも組織の為にも有益です。福利厚生とは単に労働者を守るだけのものではありません。何かあっても守ってもらえると評判の会社と、何かあれば見捨てられると言われる会社ではどちらに有能な人材が集まるかは明白です。たとえ再起不能な状態であってもできるだけの支援を企業は国とともに行うべきなのです。倫理にかなうことは実利にも結びつくのです。ところが、倫理を無視して悪逆非道な振る舞いで経営陣だけが暴利を貪ろうとするような企業もあとを絶ちません。  労働者を使い捨ての消耗品のように扱ういわゆるブラック企業が社会悪なのは、被害者の健康や命を損なわれるというのが最大の理由ですが、継続的に働き成長できていれば大いに社会に貢献したであろう人を失うことは社会やそこに暮らす全ての人に対する損害でもあります。倒れた人をろくに助けないのも言語道断です。ブラック企業に使い潰される人の多くは責任感が強く他人への思いやりに富んだ良い人です。そうした人の善意を食い物にして自己の収入に変えることしか考えていない我欲に満ちた経営者がいなくなるように活動するのも自分と他人を利する事になります。人間は自利利他ではなく私利私欲に走りがちであり、他人を助けるよりも奪い取りやすいですが、他人を助けることが結果として自分も助けることになるのを忘れてはなりませんし、自分を助ける事が他人

アイドルの推しと初期仏教

 初期仏教の教団運営はアイドルとそのファンの構造に似ている。大乗仏教はこの例えでいくならばワナビの学校のようなものだ。それぞれにいい味があると思う。  ここではアイドルとそのファンの構造を、芸能の才をもった輝かしい人物がより高みを目指して行くのをファンが支えるものとする。アイドルはその芸や熱く語る言葉によりファンに希望や勇気を与える。このお互いの支え合いによりアイドルとファンの集団内の一体感が増すと同時に、コンサート会場や出版物やネット環境などなど周辺の様々な分野に経済効果をもたらす。  初期仏教でもその後の部派仏教でも現在の上座部仏教でも、出家した僧侶は永遠とも思えるような長い転生の繰り返しの果てに気が遠くなるような功徳を積んで今その最終目標である解脱にリーチがかかった状態のヒーローのようなものであり、これを応援したくなるのは人情として自然だ。僧侶は在家の悩みを説法で慰めしっかり功徳を積めるように導いていくし、在家もどうにかこの僧侶を成道させてあげたいと九仞の功を一簣に虧かぬよう支援していく、こうした双方による布施の循環はお互いの功徳を増すという宗教的な意義以外にも、地域コミュニティの安定や寺院の建立や説法に集まる人々の流れなどで経済効果も生み出すこととなる。  経済効果を伴わない集団はなかなか存続しない。仏教がいろんな地方の文化に適応しながら進化してきたもの、一定の経済効果をもたらしてきたからであり、開祖のお釈迦様がその教団を都市の近郊においたのは慧眼であったといえる。一人でヒマラヤの奥にこもっていても経済効果は生まれないし後世にその教えが伝わることもなかっただろう。  大乗仏教も経済効果を持つが構造としてはアイドルとそのファンのものではない。大乗仏教の信者は基本的にはみなトップ(仏・如来)を目指している。今回の図式に当てはめるとアイドル養成学校の生徒のようなものだ。しかもズブの素人が今この世には存在しない人類を超越した究極のトップアイドルを目指している。この場合、お坊さんは学校の先生の役割を果たしているといえるが、お坊さん自体はみんなが目指す如来ではないので、この先生もみんなを率いながら究極のトップアイドルへの道を進んでいることになる。  こう考えると大乗仏教がアイドルとそのファンの構造を持つ上座部仏教の一部信者から嫌われる理由も少しは分かる。一般人がアイドル

アメリカの感謝祭シーズン

 今年は11月26日がアメリカの感謝祭(Thanksgiving day)でした。アメリカでは伝統的に、この11月第4木曜日からの4連休で家族や友人らが集まる日本のお盆的な雰囲気があるシーズンです。今年はコロナ禍で自粛となるかと思いきや全米で5千万人が移動するとのことで感染の拡大が懸念されています。  感謝祭は1620年にアメリカに移住した有名なピルグリム・ファーザーズが植民地で営農に失敗し飢饉に直面していたところを、ネイティブアメリカンのワンパノアグ族から支援を受け生き延び、翌1621年の収穫期にワンパノアグ族を招いて神に感謝する宴を催したのが始まりとされます。これが南北戦争後に家族や友人との絆を深める伝統に変容して現代に伝わっています。感謝祭を前に大統領が七面鳥の恩赦をするニュースも毎年あり日本でもよく知られていますが、これがコロナも気にせず国内大移動が起きるくらいの心情的に重要なイベントだとは今年始めて思い知っています。  一方で、感謝祭の起源となったネイティブアメリカンと入植者との間の友情物語は都合のいい話だけを切り貼りした捏造であり、最終的にはワンパノアグ族の9割以上が白人に殺戮されます。このため感謝祭に反対するネイティブアメリカンらの抗議活動が毎年行われています。アメリカ人にとっては家族や友人との絆を深める心温まるシーズンですが、その元となる昔話が嘘っぱちで白人入植者による虐殺と略奪の歴史を隠す欺瞞だとすれば素直に祝えません。もちろん400年も前の話であり、もしかしたら一瞬でも友情が成立していた可能性までは否定しませんが、仮にそうだとしても全体としてみれば極々レアケースなのは間違いありません。    ただ昨今、アメリカの建国期の英雄たちは軒並み悪逆非道の輩として社会的に断罪されています。現在の価値観から見ればそれは間違いないのですが、その罪を現代の白人に償わせるばかりでなく迫害までするのは、いわゆる構造的差別論を受け入れたとしても行き過ぎです。いつか彼らに和解と許しが訪れますように、そして、今すぐの話しとして今年は移動を自重してくれるように祈ります。

ジャータカにおける自己犠牲

 今日は、このブログでも時々取り上げているお釈迦様の前世譚であるジャータカについて考えてみたいと思います。ジャータカは歴史学的にはもちろん実話ではなく創作のお話で、当時の民話を仏教に取り入れアレンジしたものと見られています。おそらく世界最古の転生モノの小説群です。これらが東西に伝わりいろんな童話のベースとなったであろうことは、文化や歴史を語る上ではたいへん面白いのですが、今回は思想・宗教的側面から解釈していきたいと思います。  ジャータカには様々なバリエーションのお話が多数ありますが、有名なものの多くは前世のお釈迦様が自分の命や身を犠牲にして他人を救う話です。しかし、これらの自分の命までも犠牲にする話は極端な苦行を否定したお釈迦様の教えに反しはしないでしょうか?  例えば、お釈迦様の前世であるウサギが僧侶への供養のために自ら焚き火に飛び込んだり、別の前世のときの王子が飢えた母虎の為に自分の身を餌として投げ出したりする話は、強い利他や慈悲の精神の表れとして大乗仏教でも称賛される事が多いです。ただ注意すべき点はジャータカ自身は大乗仏典ではなく、部派仏教(小乗仏教)の経典に属する話だということです。慈悲や利他行を大乗仏教ほどは重視していない部派仏教の視点ではジャータカをどう解釈すれば良いでしょうか?  まずジャータカは小乗の修行者では無く、その在家信者などの大衆に対して説くために作られた話です。部派仏教の考え方では出家者以外に成仏するチャンスはありません。一般人は現世で出家者を供養し功徳を積んで来世以降で頑張りましょうと説いていたわけですから、現世で必死に善行を積み次につなげるように促す意味もあったのです。お釈迦様だって前世ではこんな命がけの布施行に励んだのだから来世で成仏を目指すのならば自分たちへもっと支援をしろという宣伝にもなります。  次にそもそも自分の命を犠牲にするような修行は間違っているのでは無いかと疑問には、そんなことをしたから転生するまで悟れなかったのだと答えることも可能ですが、それよりもお釈迦様の没後におきたお釈迦様神格化の影響が強いと思われます。  お釈迦様が悟りを開いてまず教えを説いたかつての修行仲間の五人は短期間のうちにお釈迦様と同じ悟りを開きます。その後もお釈迦様の布教により次々と悟りを開く人は現れましたが、その死後は悟りへのハードルはどんどん高く

神本仏迹説

 本地垂迹説は大乗仏教の仏や菩薩が日本の神の本体であるとする考えで平安時代に頃に生まれた神仏習合の賜物です。これに対して表題の神本仏迹説は、日本の神の方が仏の本体であるとする日本の神々の優位性を説いたもので、同じく平安時代頃に出来て鎌倉時代に伊勢神道により主張されていました。  どちらが本体でも良いのですが、日本では常に異論はあったものの明治までの約1000年近く神と仏は同体だったことになり、昔の文章を読む場合はこの辺の事情を考慮する必要があります。ただ祭祀は神式と仏式が別々であり続けており、神仏習合と言いつつ決して合成はされなかったのです。  宗教として神道と仏教が融合しきれなかったために、明治の神仏判然令に伴う廃仏毀釈につながるのですが、神道のトップである天皇家も明治以前は仏教にも帰依していた事を考えると、この長期間で二つの宗教が融合しなかったのは歴史的に見て単純に驚異的出来事です。仏教の視点からは神々と言えでも天部に所属する迷える衆生に過ぎないことになり、神道からはそれに対する反感もあった訳で、その対立は物部家VS蘇我家の昔から続いたことになります。  明治以前の伏見稲荷神社は神宮寺であった愛染寺の僧と神職との対立の記録なども残っている一方で東寺や本願寺との関係もあったのを思うと、良い方向に競い合って日本の文化が形作られて来たのかも知れません。今の神仏分離状態が常識である現代人から見ると、紆余曲折はあったものの、こうした競争で多様な思想や文化が残ったのは結果として良かったと思います。

続くコロナ禍と医療・福祉スタッフのストレス

 新型コロナウイルス感染症の影響で、いま大半の病院や施設で入院・入所している患者様とご家族様の面会は制限されています。春頃から制限しているところではもう9ヶ月ほどそんな状態は続いています。家族と面会出来ない事は患者様やご家族様には不満な事でしょう。対策としてネット上のテレビ電話などで対応している施設も多いです。  新型コロナウイルス感染症が高齢者や持病のある人で悪化しやすい傾向がある以上はやむを得ない処置ではありますが、現場のスタッフとしては特に長期の入院・入所者の心の面のケアにも留意したいところです。  ただ、こうしたご時世で、患者様やそのご家族様の不満が出やすい状態です。患者様側からのややもすれば理不尽なクレームに対しても、医療福祉スッタフは不快な感情を示すこと無く冷静に話を伺い適切に処理することを要求されます。こうしたいわゆる感情労働に従事するスタッフのストレスも高まりつつあります。  こうした問題に関してはスタッフの負担をなるべく減らすような労働管理を行うことが第一です。ですが、心身が持たないと思う場合は休職や退職も検討すべきです。過労死は絶対に避けるべきことです。コロナ禍がまだ続くであろう現状を考えると全国規模で問題が起きないか心配です。  菩薩行を実践する仏教者は、相手に対して優しい顔と言葉を用いる布施の精神や怒りを抑える忍辱の心をもって精進すべきで、こうした苦境も修行と出来ますが、命の危険を感じる場合は身を守るべきです。命を失うような修行はお釈迦様の嫌う極端です。責任感から死ぬまで頑張ろうとする人もいますが死なれた方が職場的にも困るでしょうから、上役が嫌がっても強行すべきです。どうしても無理なら労組なり労基なりに相談しましょう。いかなるトラブルが発生しても自分の命を守るを最優先にしてください。  全国の医療福祉職員に無事を祈ります。

妙見神

 今年はコロナ禍で昨日今日にあるはずだった八代の妙見祭も中止でした。神事自体は行われたと思いますが寂しい事です。改めて疫病の早期沈静化を祈ります。  さて、そんな訳で今日は妙見神(菩薩)についてお話します。妙見信仰はあちこちの信仰が混じって出来たハイブリッドなものとする説もありなかなか興味深いものがあります。  日本に来た妙見菩薩は仏教の菩薩信仰と道教の北辰(北極星)信仰の合成とされ、少なくとも晋代には信仰が成立していました。日本では天地造化の神である天之御中主神が当てられています。北辰信仰でも北極星は最高神とされますが北辰信仰自体はより古い時代に遡る歴史があります。ですが、北極星は歴史的視点では比較的短い周期で変わっており、古代の人が崇めた星と現代の物は別の物です。現代の西洋風の星座の原型は紀元前5千年ほど前のメソポタミア地方にあると言われ、この頃からすると3回は北極星は変わっていることになります。ちなみに今から8200年後には白鳥座のデネブが、11500年後には琴座のベガが北極星になると予測されています。明るいほうが探しやすくていいですね。現在の中国がある地方にもメソポタミア地方から信仰が伝わったとする説もありますが、人間の寿命レベルの時間では天にあって動かない星を特別視する事は別に文化の交流が無くてもありうることで果たして本当かどうか分かりません。ただ例えば、秩父神社の秩父夜祭が、秩父神社に祀られる女神とされる妙見神と、その南にある武甲山の竜神(蛇神)の男神である蔵王権現が年に1度の逢瀬を楽しむものとされていますが、妙見菩薩が日本に輸入されるより前からの信仰とされており、北辰信仰の世界的な広がりに夢想が広がります。日本での妙見信仰も、水の神だったり、観音様の化身だったり、薬師如来の化身だったり、軍神だったり、キリスト教のThe神だったり多種多様に渡り、謎の出自に恥じない多くの顔をもっています。  何でも節操なく取り込みすぎとの批判もあるかも知れませんが、そもそも大乗仏教的には全てに仏性が宿っているので問題ありません。こうした何でもありの精神はきっと異文化の理解にも役に立つことでしょう。世界が平和でありますように。

新型コロナウイルス感染症に対する経済優先政策を考える

 個人的には反対ではあるが、新型コロナウイルス感染症に対して経済優先のノーガード戦法をすべきだという意見をもつ人はいる。違う考え方でも相手の心情は尊重するが、それは同時に高齢者を切り捨てる覚悟を持って言うべきだと思う。  よくノーガード戦法の実施国として引きあいに出されるスウェーデンだが、社会的な距離を取る努力はしているし、何よりも強力な対策として老人の切り捨てがあるのを忘れてはいけない。国が直接指示している訳ではないが、現場では高齢の感染者ははじめから集中治療室での治療は適応とならない。死亡するのも重症化するのもほとんどが持病持ちの老人なのだから、彼らを切り捨てて医療資源の消耗を抑えられれば医療崩壊も起きにくい。しかし、これだけやっても感染者は増加傾向だ。日本で経済優先を唱える人たちにこの覚悟はあるのか疑問だ。彼らの意見では、マスコミや医師会の陰謀で隠されているが実は日本人には元々コロナウイルスに耐性があるとか既に集団免疫ができているとかいう根拠のない憶測で 日本人は大丈夫だから経済を優先させよと言っている人が多いからだ。もし感染爆発が起きて大量の死者が出ても 恐らくこれらの煽動者は責任を取るまい。  更に恐ろしいのは、何も対策をせずに製薬会社や現場医療の努力だけでたまたま大惨事に至らなかった場合に、これらの妄想を唱えていた人の中でその妄想は確信へと変わり、妄想の信者数も増えていく事だ。無根拠に日本人は何があっても大丈夫という妄想を持つ人が多い社会は壊滅的な脆弱性を持つ事になる。もっとも彼らは根拠を持って言っているつもりだろうが、もし今後それが真実だと分かったとしても今の所は何のエビデンスもない憶測に過ぎず、それを元に政策を決めるのは危険だし、PCR陽性者が実際の感染者と大幅に乖離しているような陰謀論を唱えるような輩が、今後どんな災害や危機が訪れても何かの理由を捏造して日本人はすごいから大丈夫と言うのは目に見えている。  こうした妄想を持っているかどうかは別として、週末に行われたGoToトラベルキャンペーンに関する世論調査では11%もの人がキャンペーンをそのまま続行すべきだと回答している。現在の新型コロナウイルス感染症の再拡大を全く問題視していない人がここまで多くいると言うことであり、有効な対策のとりにくさを示す数字でもある。  この感染症の発生源だった中国は独裁

末法灯明記

 最澄の作とも偽書とも言われる「末法灯明記」は特に浄土真宗において無戒の僧の存在を許容する根拠として用いられることが多い文章です。お釈迦様の死後、その教えはどんどん衰えていくのでそれが極まった末法の時代においては形ばかりの僧でも尊敬するべきだという内容の文も書かれており、概ねその視点で論じられることが多い「末法灯明記」ですがその主題は別のところにあります。  「末法灯明記」は冒頭で仏教の教えで人々を導く法王と、天下をうまく治める仁王とが世間の道理と仏法の真理とを協調させればよい政治が行われるとしており、それに引き換え最澄が朝廷の支配下にあることを嘆いています。続く話の大部分は時代とともに衰退する仏教と、その中にあっては昔と比べて質の劣った僧侶でも貴重であることが強調され続けます。そして、最後の部分では俗世界の政治権力により仏教の組織が支配されるのは仏教を滅ぼし、ひいては国を滅ぼす原因になると警告し、そならないように僧侶を大事にあつかうように説かれています。  「末法灯明記」が最澄の真作でも彼に仮託した贋作でも、未だ国家による統制が強かった当時の仏教界において、その支配から離れ独立的立場を樹立したいとする意志の表明のように思えます。よく批判されるように、僧侶の堕落を認めさせるための権威付けとして捏造された贋作である可能性も否めませんが文章全体の流れとしては、朝廷による仏教の支配を嫌う流れになっているのは事実です。  現代にも残る真面目に戒律を守る僧侶からしたら確かにとんでもない事が書かれており仏教の論争のネタとしては頻出の書です。ただ時代の移ろいとともに最善なものは変わるとする考え方は、かくあるべきか否かは別にしても本当のことだと思います。決まり事を守ろうとする人と変わる世界の圧力とのせめぎあいの中から、新たな工夫が生まれることもありますので、今後もこうした緊張状態が続くのはある意味では良いことなのかも知れません。

六方礼経

 初期仏教の在家の道徳を説いたものに六方礼経というものがあります。父親の遺言で意味も分からずに東西南北と天地の六方向に礼拝している青年に、お釈迦様がその真意を説いたとされる経典です。今日はその話をしてみます。  当時の世間での六方礼拝は外から災いが訪れるのを防ぎ幸せを祈るために行われていたものだったようですが、お釈迦様はこの礼拝を外からの災いではなく内からわいてくる災いを防ぎ止めるものであると説いています。  六方を礼拝するための準備としてまず、四つの悪い行為である殺し、盗み、不貞、偽りを捨てさり、四つの悪い心である貪りと、怒りと、愚かさと、恐れを押し止める必要があるとされます。また、家や財産を傾ける六つの門を閉じるようにとも言っており、その六つとは酒を飲み不真面目になること、夜ふかしして遊び回ること、音楽や芝居に溺れること、賭け事にふけること、悪い人間と交流をもつこと、仕事を怠けることです。  その上で真の六方を礼拝するのですが、東西南北と天地にそれぞれ社会を生きる上での人間関係についてのあるべき姿を当てています。即ち、東に親子関係、南に師弟関係、西に夫婦関係、北に友人関係、地に主従関係、天に教えを説くものとそれに奉仕する者の関係を述べています。これは例えば親子の場合、親は子にどうするべきかと、子は親にどうするべきかが書かれており双方向性の布施の精神のような感じです。こうして全ての人間関係を礼拝して気にかけ、それらが円満なら災い無く生きていけるという考えです。  外からの災いを防ぎ切るのは並大抵のことではありませんが、自分の内から生じる災いは気をつければ大きく減らすことが出来ます。これらの教えは在家がより良く生きるためのもので悟りを目指すものではありませんが、後に大乗仏教の代表的な菩薩行である六波羅蜜の禅定と智慧以外はこの教えと重複しており興味深いところです。  個々の人間関係を礼拝することにより強くその安定を目指すというのは、現代の指差し声出し確認のようでもあります。近すぎて逆に疎かになりがちな人間関係の一つ一つに感謝するのもいいものです。合掌。

コロナ感染拡大とユーチューバー

   コロナ幻想論者はまるで戦時中の日本の新聞各社のようだ。現場では緊張をもって敵と対峙しているのに、後ろで好き勝手にやれ敵は弱いのに弱腰だとか煽る。その方がウケがいいからだ。当時は新聞が売れたろうし、今では Youtubeなどの広告収入が増える。  Youtube界隈は結構闇だ。所謂第1波終了後には、流行はもう終わった第二波なんてこないとか、PCR陽性者は感染者じゃないとか、顔にさえ触らなければ恐るるに足らずとか、上げればきりが無いいい加減な話を根拠として感染対策を行わず元通りの日常にしろと怒鳴り散らし、必死にクラスター潰しに努力している現場や行政を罵倒していた。  ただこれは専門外でもあろうしと生暖かく見守って来たが、アメリカ大統領選の陰謀論も同様の人らが騒ぎ立てているのを見て確信した。コイツらワザとやっていると。何が量子力学で行動がトレースできる投票用紙だ?ドイツのサーバーを米軍が差し押さえた?投票率が100%超え?死者名義で大量の投票?笑止千万、少しでも裏取りをすれば分かるデマをワザと吹聴しているのは明白だ。  不安を抱える 人は事実を認めたくないために妄想の世界に引きこもりやすくなる。そういう人々の不安につけこみ、それっぽい陰謀論を吹き込む動画を作ると存外に信じてしまう人の数は多い。彼らは繰り返し動画を再生し拡散して広告収入を献上していく。東日本大震災時に一部の人がこれは単なる地震ではなくアメリカの地震兵器による攻撃だと真顔で言っていたのを思い出す。  新型コロナウイルス感染症は先月までのデータでも80歳以上の人の死亡率は17.5%と高い。高齢者人口が多い日本で感染爆発が起きれば大量の死者が出ることになるのは明らかだ。それによる病院機能の低下は、コロナ以外の患者の死亡率も押し上げる。経済を止めれば自死者が増えると言う意見もあるが、不景気による自殺者は政府が経済支援をすることにより減らせる。既に900兆円を超える国債残高がある日本で更に100兆や200兆円の国債が増えたところで何だというのか?減税して国債を発行すればよいのだ。後の事を心配する前に今の事を心配するべきだ。  こうした危機的状況の中でも人を騙してお金儲けしようとする人がいる。陰謀論を信じた犠牲者はマスクもせずに街に出かけて感染対策に勤しむ店の人を直接攻撃したりもする。危険だ。表現の自由は大切だが

大乗仏教の利他精神は余計なおせっかいなのか?

 上座部仏教などの部派仏教は大乗仏教の対義語として(差別的用語だとする意見もありますが)小乗仏教とも呼ばれます。いったい何が大で何が小なのかと言うと、小乗仏教は基本的に僧侶が自分一人の悟りを目指す教えであり、大乗仏教は一切の生物を救うのを目指していますから、救いの対象の大小だと言えます。大乗仏教は、高度に学術化専門化されてしまった当時の部派仏教への疑問から成立していますので、そういう学を修めた一部の人間がだけが救われるのを善しとしないのです。  大乗仏教は従来の仏教と比べて救いの対象が圧倒的に広がったから大乗なのですが、それに対する批判として例えば、お釈迦様はその在世中に広く布教したのは真理を理解できる人を救うのが主たる目的で一切衆生の救済は主目的では無かったとするものがあります。さて、大乗仏教の利他は余計なお世話なのでしょうか?  現代社会においても、高等教育の有無はその人の社会的立場や収入に多大な影響を及ぼします。そもそも生まれによる差別が無いはずの仏教においても、部派仏教で高度に学術化された教義体系の理解は、教育の有無、換言すれば貧富の差によって有利になったり不利になったりしたのは間違いありません。出家僧を支える布施が無限で無い以上は、遺憾ながらその資質により僧として生き残れる者とそうで無い者がいたのも自明です。そうした時代背景で苦しむ弱者を救済したいとの慈悲の心が大乗仏教成立の原動力になり在家主義の勃興を生んだのです。余計なお世話だと言われればそうかも知れませんが、時代のニーズはあったのだろうと確信します。また、こうした変化から大乗仏教は仏教ではないとの言説もよく聞かれますが、基本思想は言語的な教義の複雑化を嫌った縁起説に基づく空の思想であるので、むしろ仏教の原点を再評価したとも言えます。  仏教では全ては関係性の上に成り立っていると考え確固たる我の存在を認めません。それゆえ大乗仏教において自利と利他は同一線上にあると言えます。その意味では利他行為が余計なお世話とは言い難い感もありますが、これは大乗仏教の価値観内の話であり注意が必要です。例えば、ユダヤ教やキリスト教やイスラムなどのアブラハムの宗教では我と他には明確な違いがあり神は絶対の存在ですし、唯物論にしてもミームの存在を認めても我は物理的に存在します。こうした我を確固たるものとする価値観の人に対して大乗

カマラ・ハリス氏とレイシズム

 カマラ・ハリス氏は黒人女性として初めてアメリカ合衆国の副大統領になる予定の人物です。  本日のニュースによると、彼女に対して人種差別あるいは女性差別的な表現のあったFacebookの書き込みが運営より削除されました。この件に対してネット上では表現の自由を危惧する声も一部に見られました。いつものことです。近年、自由主義諸国内で声高に表現の自由を主張する意見は少なからずレイシズムやヘイトの発言を許容せよとする人によるものです。  ハリス氏の主義主張は概ね左翼的なものであり、これが気に入らない人はアメリカの人口のおよそ半数はいるはずです。文句をつけたい人も多いでしょうが、人種差別や女性差別のワードを盛り込まずにおかしいと思うところに文句を言えば良いのです。  保守層が気にする今後のハリス氏や民主党政権への不安の一部を文章化してみると、「富裕層への増税に関しては、一定の理解はできるもののコロナ禍の拡大するアメリカで今やるのは経済への打撃が深刻になる恐れがあり得策とは思えません。また、彼女の判事時代は有罪判決の割合が多かったのに大麻関連の犯罪についての判決は甘かったのも司法判断に個人的なバイアスの影響が強かったのではないかという懸念が持たれます。」などになるかと思い一考の価値はあります。こうした意見に人種差別主義者が人種差別的な言葉を加えてしまうと、元の意見にも人種差別的でない保守層にも被害が及びます。差別主義者には考えを変えていただく必要がありますが、まず言動から変えてもらわないと彼ら自身の利益にもなりません。  これは相手がトランプ大統領でも同じ事です。彼の風刺画はかなりえげつない内容の物が多いですが、同じような風刺画をハリス氏で描けばヘイトと判断されるレベルの物も目立ち公平性に欠けるのは間違いありません。その辺はSNS側のバイアスといえます。そうした不正をただすのは対立者へのヘイト発言ではなく、SNS運営への苦情です。  大体のヘイトやレイシズム発言をする人は怒っています。自分が正しいと思っているから他人を攻撃するわけです。悪人を罰するのにいかなる表現も自由に認められると思う人は、世間的に少なくは無いようです。日本でも某政治家が交通事故にあった時に、実名を出しているSNSNユーザーがその政治家を心配せずに「ざまあみろ」だの「死ななかったのか」だのと書いていたのを見た時

社会人

 社会人という言葉は成人とも労働者とも違う社会に参画する働く大人的な意味であり、日本語特有のものらしいです。市民や人民という言葉では子供もその範疇に含まれますが社会人には含まれません。ご隠居さんも含むかどうかは微妙なところで、ここでは仮に社会人とは労働世代の成人を指すと定義してみます。  ロック歌手などが言うつまらない大人と社会人とはほぼ同義かと思われますが、労働している成人ならロック歌手も社会人に含まれるはずです。ですが、社会人に否定的な彼らは自分のことを社会人だとは思っていません。彼らは少なくとも自覚的には社会の外にいて、下らない社会に異議を申し立てる戦士だからです。もちろん本当のところは、彼らが曲を売って立ててる生計には種々の企業や人々が関与しており社会を憎みつつも社会の中に生きているのです。  彼らは自分たちの曲に感動してくれる社会人のファンや、良いものを届けようと努力する録音技師や宣伝に駆けずり回る営業の社会人を下らないと見下しているのでしょうか?そうでは無いはずです。下らない大人と聞いて人々がイメージするのは、下らない会社に勤める下らないサラリーマンですが、その下らない社会人は一体どんな業種のどんな役職の人でしょうか?イメージ出来ている人は少ないでしょう。それは単なるアイコンであり、そんな下らない大人のほとんどは妄想の産物に過ぎません。  どんな仕事でも社会に何かしら貢献しており、収める税金は社会福祉や治安の維持に役立っているのです。社会人の一人一人の努力が社会全体を支え守っているのです。子供や老人などの弱者は社会人の労働を原資とする税金によって守られているのです。そう考えれば労働は立派な布施行です。だからこそ、社会人を痛めつけるブラック企業は許してはいけないし、社会人をつまらない大人などとかいう批判は看過出来ません。  皆さん自信をもって労働に勤しみましょう。合掌。

自分の個人的経験を一般論化するのは偏見です。

 人は自分の経験を一般論として語りがちです。例えば、男性にひどい目にあった女性や、女性にひどい目にあった男性が、一般論として異性の事を害悪視して社会やネット上で暴れる姿は時々見かけます。人類の総人口の約半数を類型化してしまうのはいくらなんでも行き過ぎでしょう。ですが、そういう極端で過激な事を言ったりしたりする人を糾弾すれば良いのかというとそれも違います。そういう人たちと関わりになる機会があれば、攻撃的な言動をせずに、私はそうは思わないと伝えてあげるのが無難です。きっと人類の半数を敵視してしまうくらいの嫌な経験をした結果なのでしょうから思いやりの心を忘れないようにしたいものです。  有名人への批判も似たような物です。何かしら自分の気に入らない事をしたXXさんは、もはや人間としてのXXさんでは無く、憎しみのアイコンとしてしか見られない人が散見されます。だからXXさんの言動の中身ではなく、XXさんがすることは全て悪いとの前提で物を見てしまうのです。XXさん=許されざる悪という一般論化は恐ろしい偏見です。実際にSNSでいじめられて自殺に追い込まれる人もおりますので、自分が殺人を犯さないためにも、そういう思い込みは避けるべきです。相手が直接的に襲いかかってくるとかでない限りは、嫌な相手にわざわざ関わりを持ちに行く必要なんてありませんから距離をとって冷静になれば良いのです。そもそも論として誰か特定のXXさんがいつでもどこでも何をやっても悪である可能性なんてほとんどありません。外側でなく中身で判断するべきです。

無慚

 部派仏教では人の心やこの世の事象を細分化し定義づける作業に熱心であり、人の心に伴っている作用(心所)は実に46種類にも分類されています。倶舎論として知られるこの考え方は大乗仏教にも影響を及ぼしています。慚愧の熟語で有名な慚と愧もこの分類の中の善なる心にともなう作用の分類である大善地法の一つです。表題の無慚は慚の心が無いという悪を示す言葉になります。  大善地法は、信、勤、捨、慚、愧、無貪、無瞋、不害、軽安、不放逸の10個です。このうち慚と愧は二通りの解釈があり、一つ目は他者の徳に対する恭敬が慚で自己の罪に対する畏怖が愧となります。もうひとつの解釈では自己を省みてその過失を恥じるのが慚で、他者を観察して自分の過失を恥じるのが愧となります。なので無慚とは他者の徳を軽んじたり、自分の悪い面を恥じることが無い状態となります。無慚と無愧は大不善地法と呼ばれ46種類の分類で独立した2つと数えられます。  字が違いますが最近流行りの漫画のキャラクターに無惨と言う名の鬼がおり、他者を敬ったり自らの行いを反省しているようには見えないので無慚でもあるのでしょう。  他の大善地法を説明しておくと、信は仏教の基本である四諦八正道と仏法僧の三宝と縁起の法へ確信で、勤は善行に勤めることで、捨は偏りを捨てた心の平静で、慚愧は前述の通り、無貪は貪らないこと、無瞋は怒らないこと、不害は非暴力、軽安は環境に応じて事を行える巧みさで、不放逸は善に専心してはげむことです。  倶舎論にある森羅万象を細分化した定義やその因果関係の分析は、少なくとも現代科学の観点では明らかな間違いも含まれますが、初期仏教からの流れで修行者たちがどの様に心を観察して瞑想してきたのかを知る意義は深く有用です。また、こうした発想の行き詰まりが空の思想や大乗仏教を熟成していく歴史もありますが、日本仏教では今でも倶舎論は重視されておりお坊さんたちは慚愧の心に富んでいるのだと思います。

良寛さんの歌 その6

 今回は良寛さんの晩年の歌をみながら、その思想の変化を考えてみたいと思います。まずは、その5に紹介したような、気弱な歌で晩年の良寛さんの落ち込みを見ていきます。  いかにして 人を育てむ 法のために こぼす涙は 我が落とすなくに  この歌は良寛さんが何度も仏法を説いても全く理解してくれない人がいて、自分の説得力のなさに自然に涙が出てきた情景を詠んでいます。理解力に乏しい相手にではなく、あくまでも自分の拙さを責めているのです。  楢崎の 森の烏の 鳴かぬ日は あれども袖の 濡れぬ日はなし  この歌は「うき世の人を思ひて」と前書きされた歌で、楢崎の森に住むカラスが鳴かない日はあっても、世の人々を思って自分が泣かない日は無いという意味になります。良寛さんのあふれる利他の心と現実との落差が晩年の良寛さんを嘆かせていたものと思われます。  老いぬれば まことをぢなく なりにけり 我さへにこそ 驚かりぬれ  歳をとってしまうと本当に意気地なしになってしまったことに自分も驚いているという意味になります。  このように晩年の良寛さんは悲観的な側面が目立ちますが、自力の菩薩行に半ば挫折した良寛さんは浄土教へ傾倒していきます。  御仏の まこと誓ひの 広くあらば 誘ひ給へ おぢなき我を  この歌の御仏は阿弥陀如来をを指します。阿弥陀如来の全ての衆生を救う誓いが広くあるのならば意気地なしの自分も極楽浄土へ導いてくださいの意味となります。  かくかくに ものな思ひそ 弥陀仏の 本の誓ひの あるにまかせて  あれこれと考え込まずに阿弥陀如来の本願にお任せなさいと言う意味になります。良寛さんは元々は禅僧です。もちろん阿弥陀如来にも敬意は表するでしょうが、この歌にあるような考えは浄土教の絶対他力であり、やはり禅僧としての自身の限界を感じていたものだと思われます。  草の庵に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  これは訳する必要が無いと思いますが念仏三昧状態です。次は以前に紹介した辞世とは別の辞世だとする説のある歌です。  良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏と言ふと答へよ  これも訳は不要かと思いますが、辞世を南無阿弥陀仏と言ってしまう程には浄土教への傾倒はあったと見られます。一方で、晩年でも禅僧らしい次のような歌も残っています。  いにしひの ひぢりの技を 今の世の

偏見と正見

 人は偏見から逃れられません。もし偏見から逃れられたとしても言語化した時点で言語に依存した偏見は生じ、その真意は他者へ完全には伝わりません。その意味で人間は良心的な相互誤解の上に平和と秩序を保っているのです。  お釈迦様がはじめに説法された悟りに至る考え方や修行である四諦八正道は正しいものの見方(正見)を得ることが一つの到達点です。この場合の正見とは、別に全知全能になることではなく、偏見に惑わされないことです。通常、人は偏見にまどわされ続けていますので、まずその自覚を持つことが正見に近づく上で大事です。特に予想外の事が起きた時に、偏見から冷静な分析によらず感情的な理由を作り上げてしまう事があり警戒が必要です。  例えば勝てると思っていた勝負に負けたときに、何かしら悪者をデッチあげるようなものです。第一次世界大戦でドイツが敗れた時に、ドイツ人の一部は戦争に負けたのは軍や国のせいでは無くドイツ国内から軍の行動を妨害した社会主義者やユダヤ人のせいだとする、俗に「背後の一突き」と呼ばれる陰謀論を唱えました。このデマから生じた怨嗟が後のナチス第三帝国によるユダヤ人虐殺の遠因となったのです。現代社会でも、どう考えてもありえない話や証明しようがない話を真実と思い込み陰謀論に突き動かされる人はいます。ラジオから流れたデマで虐殺がおきたルワンダと同じような事は、アメリカや日本で決して起きないと保証は出来ません。  偏見とは時に大量虐殺までも生み出す大変恐ろしいものです。偏見から完全に逃れることは出来なくても、常に偏見におちいらないように注意するのは生きていく上で大切です。特に怒りの心がある時は騙されやすくなります。気をつけたいものです。  一切衆生に正見が得られますように。合掌。

キリスト教の聖霊と大乗仏教の如来蔵思想

 キリスト教の聖霊についてはご存知の方も多いと思います。誤用が一般的化している日本語の三位一体も元々はキリスト教で父なる神と子たるイエス・キリストと聖霊は一体であるとする考えです。このうち神とイエスはイメージしやすいですが聖霊は一般的日本人には比較的馴染みが薄いかと思いますので少し解説します。  キリスト教にもバリエーションがありますがカトリックなどの主な宗派の解釈では、聖霊とはイエスが死んで後に復活し昇天した時に集まった信者に神が降したものです。以後、聖霊は洗礼を受け信者となった者にのみ降るとされます。つまり、キリスト教の信者はその内に神を宿している事になります。信者はこの聖霊に恥じぬように神から与えられた使命を遂行していくことになります。  この考え方は大乗仏教の如来蔵思想にも似ている面もありますが、如来蔵思想があくまでも先天的に一切の生き物に仏性が宿っているとするのに対して、聖霊は人間のキリスト教徒のみに宿るとされます。こうした違いはありますが、キリスト教徒が神の愛のミッションを強く遂行できるのは、神から頂いた聖霊を大事にしているからとも言えます。大乗仏教の信者もこれを見習ってもう少し自分の内にある仏性を大事にしていきたいものです。  それではまた。合掌。

大徳寺納豆

 京都名物?で大豆の塩漬けを麹菌で発行させた大徳寺納豆というものがあります。食べた事がある人は分かると思いますが実に独特な味で、お菓子などのアクセントとして使われる事もあります。  名前は納豆ですが現代の納豆とは全く別物で、宋代に禅僧らが日本に伝えた納豆は大徳寺納豆のような食品でした。この納豆はお寺の出納事務を行う納所で作られ貯蔵されたから納豆と名付けられたとも言われます。大徳寺納豆はこの納豆の製法を受け継いでいた一休宗純が広めたという伝説もあります。  中身は現代の納豆とは別でも、いわゆる納豆の語源はこの時代の納豆であると思われ、個人的には納豆を見ると禅の歴史を感じたりもします。大徳寺納豆やそれに類する発酵食品も話のネタに食してみるのも面白いかも知れません。ただ、すごく好みが分かれる味ですのであくまでも自己責任での挑戦をお願いします。

倶胝竪指

 本日は禅の公案集「無門関」の中でも最大級に意味がわからない「倶胝竪指」の話をします。はじめにネタバレすると今回の私の話に特にオチや結論はありません。単なる個人の感想ですのでご容赦ください。  倶胝という和尚さんは仏法について詰問を受けた時はただ一指を挙げて返答としていました。ある時、寺の童子が外からの客に、ここの和尚さんはどんな風に仏法の要点を説いているのかと尋ねられたので、和尚さんと同じ様に指を立てて返答としたところ、倶胝はこの童子の指を刃物で切り取ってしまいました。痛みに泣き叫びながら逃げる童子を倶胝和尚は呼び止め、童子が振り返ったところで指を一本立ててみせました。これをみた童子は忽然と悟りを開きました。後に、倶胝和尚が死ぬ間際に集まった人に対して「自分は天龍和尚の元で一指頭の禅を学んだが、一生かかっても使い尽くす事が出来なかった」と言って亡くなりました。  この話を受けて無門は「倶胝和尚も寺の童子も指の頭で悟ったのではない、その事がわかれば天龍和尚も倶胝も童子も自身と共に串刺しにされるされるだろう。」と言って、次の詩をよみます。「倶胝は師の天龍をバカにして刃物で童子を脅す、巨霊神はたやすく山を引き裂く」  これが倶胝竪指のお話です。全く意味が分かりませんが、禅の公案ですので先人の答えを模範解答とするよりも自分で考えることに意義があるのでしょう。少し考えてみます。  前半を見ると、悟ってもいないのに悟った風な態度をとるのは良くないと言う意味にも思えますが、指を切られた童子は倶胝が指を立てるのを見て悟りを開きます。これは仏教におけるいわゆる悟りであり、悟ったフリをするのは良くないという事だけを理解したのとは違います。そして、倶胝和尚は死ぬ前に一指頭禅を使い尽くす事が出来なかったと自分の一生を回顧します。童子の指を切らないと悟らせられなかったことに問題を感じていたのかも知れません。全く他の意味で使い尽くせなかったと言っているの可能性もありますが、後半の無門の解説でもこの童子の話を軸に進んでおり、使い尽くせ無かったというのは童子に犠牲を強いたことをさすとします。そして無門は、一指頭禅で悟った人たちは指の頭で悟ったのではないと断言しています。童子に至っては指を切られており、当然ですが悟りの要素として指が必要不可欠という訳では有りません。指をみて悟ったのではないと理解す

陰謀論を信じないために

 アメリカ大統領選挙の影響でネット上は陰謀論が花盛りです。世界を牛耳る悪の秘密結社が不正に選挙をコントロールしているとかで、一般人からみればアホかと思うのですが、存外に信じている人が多いです。  人は自分が納得出来ない結果に直面すると、原因を自分や自分が所属するもの以外が卑怯な事をしたからだと考えがちです。そこに個別には事実であることや、あるいは全く捏造さたものを証拠として多数提示されれば信じてしまう人も出ます。  例えば、日本には巨大な動物虐待組織が暗躍しており動物たちが危険にされされているという陰謀論があったとします。もちろんそんな組織は無いのですが、動物愛護精神に富んで日頃から動物虐待のニュースに心を痛めている人に対して、ペットショップやブリーダーの動物虐待や動物の里親を騙る虐殺魔やネット掲示板にある動物虐待趣味の人らの酷い会話内容などの実際にあった話をして感情に働きかけ、なんとその犯人たちは大した処罰を受けていないという事実を怒りを以て力説し、動物をいくら虐待しても罰せられないと信じさせれば、だから国家ぐるみの陰謀組織があるんだという陰謀論を信じてしまう人もいるでしょう。  実際には動物を虐待すれば罰せられます。量刑が軽いのは法整備がマズいという問題であり、背後に日本の行政や司法に関する職員全てを押さえつけるほどの強力な闇の組織がある事を意味しません。この場合、存在しない動物死ね死ね団に決戦を挑むべく血眼になって探したり武装するのではなく、普通に政治家に陳情して法律改正を狙った方が良いのは明らかです。  仏教全般において極端を避けた中道的視点を保つよう勧められていますので、仏道に縁がある人は常々心を落ち着かせましょう。騙されにくくなります。また、同じく仏教の基本として滅すべき代表的な煩悩である怒りにも注目しましょう。陰謀論では極悪非道の組織の存在を、それに対する怒りを利用して強く信じさせようとします。義憤であっても怒りにとらわれればものすごく騙されやすくなります。  小生も用心して参りたいと思います。陰謀論の被害に遭う全ての人の無事を祈って合掌。

八不

 今回は大乗仏教の祖とも言うべき龍樹菩薩の代表作「中論」の冒頭の偈文です。この文が中論の要約になり有名な八不が説かれています。 不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不異 不来亦不出 能説是因縁 善滅諸戯論 我稽首礼仏 諸説中第一  この一見わけが分からない文章は、この世には確固たる自分(自性)というものは存在しないという無自性を基本として原因と結果の関係で成り立つ縁起を考えないと理解不能です。  まず「不生亦不滅」という、この世のものは生まれることはなく滅することもないという文は、この世は関係性の中に成り立っており、自分や他人なども含めて確固たる不変の存在(自性)はないのだから、存在しない自性から何かが生まれることはない。そして、生まれていないものが滅することもないのです。  続く「不常亦不断」という、何も恒常的には存在せずまた何も終末があることは無いという矛盾しているように見える文章も、物事は縁起という関係性の中にのみ成り立っていて自性は無いと見ればわかる話です。つまり、物事に自性があると考えるから存在が永遠にあるとか、終わってしまうとか考える訳です。自性という概念がなければこうした考えは無いということになります。縁起もそれ自体が存在しているというわけでなく関係性の話です。原因が無くなれば結果も無くなるから、煩悩がなければ最終的に苦が無くなる訳ですが、煩悩自体に実体がなくても関係性は残るのです。  三つめの「不一亦不異」という何もそれ自身と同じものもなく同時に違うこともないという話も、縁起の考えから導かれます。原因と結果は同じものでは無いが、異なりもしないということです。薪と炎は違うものだけど分離できないという例えでも知られます。  最後の「不来亦不出」という何ものもやって来ることはなくまた去ることもないという文章は、自性の否定から理解できます。もし確固たる存在である自性があれば、物事が生滅することが無いのだから生まれたり消えた様に見えることは、全てどこからかやってきたものか去っていったものということになります。消滅の様に見える物事が去るということに注目すると、この世にはすでに何かが去ってしまった後か、まだ去っていない場所しかないのに、ものの消滅として何かが去っている途中の場所は存在しない。不来も同じ理解です。これはこの世に確固たる自性なるものは存在しないと言っている事

香港

 巷ではアメリカ大統領選挙が色んな方向に盛り上がっていますが、こうした世界中の注目を集める事件があった時は、日頃なら話題になるような事件も埋没しがちです。そんな訳で世の流れに逆らって今日は香港の話です。  香港警察は11月5日に市民から香港国家安全維持法違反の事例を密告するホットラインを開設しました。スマホのメッセンジャーアプリやショートメッセージアプリから気軽に密告できるようになりました。香港の一国二制度が事実上崩壊しているので本土並みの監視社会が訪れるのは予想の範囲内ではありましたが、それにしてもえげつない話です。  香港国家安全維持法は要は中国共産党の方針に同意出来ない人達を犯罪者として裁くための法律であり、その対象は香港人や中国人だけでなく世界の全人類が対象となっています。  中国は信用スコアと呼ばれるものが多く利用されており、社会的な信用が電子的にスコア化され、高得点の人ほど社会的に優遇され、点数が低いと公共交通機の利用制限などのペナルティーが生じるようになっています。もちろん共産党に逆らうような犯罪行為は著しい減点対象になります。共産党に逆らう悪い人を密告するような善良な市民は共産党のおぼえもめでたくなるので、どんどん密告は増えるでしょう。  共産党の人権弾圧に抗議しようとするなんて恐ろしい犯罪行為をする人はどんどん減っていくことになります。また、魔女狩りと同じで冤罪の増加も懸念されます。  香港に御仏の慈悲が届きますように。合掌。

生聞

 南伝の相応部経典に生聞という話があります。生聞はあるバラモンの名前です。今日は生聞の話をしたいと思います。  生聞がお釈迦様に、この世の一切は有かと問うとお釈迦様はそれは極端な見解だとおっしゃいました。続いて生聞は、では一切は無なのかと問いますと、お釈迦様はそれも極端な見解だと諭し、有無の二つの極端を離れた中によって法を説くと言って縁起の法をお話しになりました。これが生聞のあらましとなります。なお、相応部経典には生聞以外にも似たような話があります。  これらの話は、全てのものが存在しているというのも虚無であるというもの極端であり、極端から離れた中道がよいとしたもので、後に大乗仏教を生み出す龍樹菩薩にもこの考えが強く影響を与えました。そして、お釈迦様の言う中道とは縁起の法のこととなります。  縁起の法とは根本的な煩悩である無明(無知)を原因として苦が生まれ、無明を滅することによって苦が消えると言う仏教の基本的思想で、無明から苦までを十二の要素に分けて説明する十二支縁起が有名です。煩悩も苦も存在しますが、それは消し去る事ができるのですから、固定した有でも固定した無でもありません。   龍樹菩薩の代表作である中論に説かれる八不も中道たる縁起の法の論理的解釈といえ、初期仏教のこうした思想が大乗仏教の空に発展していったのです。

ロードレイジ

 ロードレイジ(Road rage)は、あおり運転の問題が話題になったこともあり聞く機会が増えた言葉ですが、要は運転中に激高する事です。  自動車の運転中は他の自動車が周囲にいても目の前に人間としての相手がいるわけではなく、自分も自動車という箱の中にいて名前や顔を直接晒してる訳ではありません。一見匿名のように感じるインターネットでは粗暴で攻撃的な書き込みが多いのと同じで、自動車運転中も日頃はおとなしそうな人が急に怒りっぽくなったりするのもしばしば見かけます。  片側2車線の高速道路を運転している際に、追い越し車線の遅い先頭車両をあおる車はよく見かけますが、ひどい例になると、そのあおっている車をさらに後続車があおり、5台ほど自動車が連なって走行している姿もたまに見かけます。横に抜けられず先頭が詰まっている段階で3台目があおっても単に危険が増すだけなのは自明です。そもそも、前の車が遅いことは命がけで怒るほどのことではありません。怒りで正常な判断が出来なくなるとそんな簡単なことも分からなくなるのです。  無謀な運転をする人がいて自分にも危険が及びそうになった場合はついついイライラしがちですけど、その場で説得出来るわけも無いのでそんな危険な自動車からは距離をとって運転するのが良いでしょう。  自動車の運転の際には、他の自動車にも人が乗っていることを忘れていはいけません。先日の華厳経の話でもありましたが怒りの感情はろくな結果を招きません。運転中に怒りそうになった時にはこれも煩悩に打ち勝つ修行だと思って落ち着きましょう。逆に日常生活で怒りそうになった時に、自動車運転中に怒る危険性を思い出してみるのも怒りを抑える役にたつかも知れません。これは日常で不条理な事をする人に屈服せよと言っているのではありません。ただ、怒らずに粛々と打開策を講じたほうが効果的でもあるのです。  それではまた。合掌。

善悪

 過去に存在した仏の全員が説いたと言われる七仏通戒偈にもあるように善いことをして悪いことをしないのが仏教の重要な教えの一つです。日本の仏教で説かれる善として有名なものに十善がありますが、これは積極的になにか善いことをするというものではなく悪をはたらかないことをもって善としています。この時の十善の反対の概念である代表的な悪を十悪とよび、殺生、盗み、邪な性行為、嘘、悪口、内容のない飾り立てた言葉、人を仲違いさせる言葉、貪り、怒り、偏ったものの見方のことを指します。対する十善は十悪をしないことです。  この十善は密教系の宗派でより重視される傾向にありますが、その理由は次のようなものだと思われます。まず、密教の修行では手に印を組み、口で真言を唱え、心で仏を念じることを、それぞれ身密、口密、心密と呼び合わせて三密といいます。人間の行動はその身体によるもの、発言によるもの、心によるものの身口意に分類され、三密で人の全ての行動を修行に結びつけているのです。十善はこの身口意に対応しており、身による善が殺さいない、盗まない、邪な性行為をしないの三つで、口による善が嘘や悪口や人を仲違いさせる言葉や内容の無い飾り立てた言葉を使わないの四つで、意による善は貪らず、怒らず、偏ったものの見方をしないの三つです。つまり、十善は三密の修行に対応した善行であると言えるのです。三密はこのご時世では感染防御のために密集、密接、密閉を避けると言う意味で使われることが圧倒的多数ですが、おそらくこのフレーズを作った人も意識していたのでは無いかと思います。  さて、話がそれましたが、この十善を全てできるかと言うと実はかなり難しいです。身と口に関する善は意識すれば実行可能です。しかし最後の意に関する善は、代表的な煩悩である貪り、怒り、無知の三毒を克服せよと言うものであり、これができれば仏道修行は事実上完了するという類のものです。それでも怒りや貪りはまだコントロールのしようもありますが、無知の克服に関しては、偏らない正しいものの見方をせねばならず至難です。  浄土真宗の開祖である親鸞聖人の言行を記録した歎異抄には、如来でなく単なる凡夫に過ぎない自分には何が善で何が悪であるのか全く分からないという趣旨のことを親鸞聖人が言ったと書かれています。ややもすると頼りなく聞こえる言葉ですが、正しくものを見ようと心がけていても偏

西行の歌、山家集より#2

 今日は疲れたので気分を盛り上げるべく、西行の山家集よりこの時期にちょうどいい気分が上がる「草花の野路の紅葉」と題された歌をご紹介します。  紅葉散る野原を分けて行く人は花ならぬまた錦きるべし  秋の花が咲き乱れる野を行く人に散る紅葉が舞い、花の錦の上に紅葉の錦を重ね着し進む姿が目に浮かぶようで清々しい歌です。  僧侶たるもの華美な服飾に見立てて自然の美しさを褒め称えるとは何事ぞ、日本の仏教は堕落しているなどと言う批判は小さいことです。そのような批判は、維摩経でアレもコレもダメと規則を気にしてばかりいる声聞の聖者に花がまとわりついて離れなくなったのと同じです。執着から離れてパーッと自然を愛でるのもまた良し。だって大乗だもの。

怒り

 日々、腹立たしく悲しい事件が続く昨今、皆様はいかがお過ごしでしょうか?しかし、仏教者たる者、怒りは禁物です。華厳経の普賢菩薩行品に次のような文言があります。  仏子  若菩薩摩訶薩起一瞋恚心者  一切悪中無過此悪  何以故  仏子  菩薩摩訶薩起瞋恚心  則受百千障礙法門  要は怒りが仏教の修行をする上で最悪のものだと言っているのです。    怒りはもとより仏教で言う三大煩悩(三毒)の一つです。三毒とは無知と貪りと怒りですが、通常はこのうちで最も根源的な煩悩は無知だとされます。普賢菩薩行品では、なぜ煩悩の根源たる無知では無く、怒りを最悪としているのでしょうか?経典では怒りにより謙虚さが無くなり、悪い人たちがよってきて、悟れなくなるなどの理由が挙げられています。  しかし、まず、そもそも論として、三毒の筆頭である無知の解消は仏教の修行の最終目的でもあるので修行の障害という意味では少し違うのもあるでしょう。ここで言う無知とは知識の量が少ない事は意味しません。中立的な偏らないものの見方が出来る事が無知を破った智慧がある状態となります。仏教では全ての苦しみは偏った見方に原因があるとしているのです。  無知以外の残りの三毒である貪りと怒りでより盲目的で破壊的なのは怒りであり、怒りの方が修行の妨げとなるのは間違い無いでしょう。また、貪りもバランスの問題で、生命に必要な食事の摂取や求道心に基づく修行も過剰であれば貪りへと変化する性質のものですが、怒りは常に有害であり滅尽すべきものです。  経典では怒りを抑えるために、まず衆生を捨てない事が説かれています。全ての事象はお互いに関係性の中に生じてるに過ぎないとする空観を基礎した慈悲と利他の行いによって怒りを消すことが出来るのです。  なかなか難しい事ですが、頑張ってまいりましょう。