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9月, 2021の投稿を表示しています

カタカナ表記は侮辱的か?

 地名や人名などのカタカナ表記は侮辱的だとの意見があるが、個別の状況によりけりだと小生は考える。その理由を説明したい。  名詞に限らず、通常は漢字やひらがなで表記すべき言葉がわざわざカタカナにされる例で最も頻繁に使わられる用法は、小説や漫画などで外国人が喋っているのを表す時だろう。「ワタシ オナカ スイタ」とか「ゲイシャ!フジヤマ!テンプラ!」とか「ドーモ ニンジャスレイヤーデス」とかがこれに当たる。  外国人が喋る以外の、例えば地名でカタカナ表記が多用されるのは、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、トーキョー、フクシマ、などが挙げられるが、これもその用法を考えれば、外国人への認知度が高いからという意図が隠れている。だが、これはその地名の外国人への認知度が高くなった出来事に関連した意味も含まれるので不快に感じる人も出てくることになる。  ヒロシマやナガサキは原爆が投下された都市であり、世界的な認知が高まったから日本語表記もカタカナが使われるようになったと解釈できるが、ヒロシマやナガサキの記載は、広島や長崎との表記と違って原爆と密接に関連した印象が持たれる。自治体としての広島市もヒロシマとの表記を使う際は平和関連事業であることが殆どだ。第二次世界大戦末期の激戦地だった沖縄もこの流れでオキナワ表記の場合には平和活動関連の事が多い。このように、単に国際的な認知度が高いからだけでなく、地名のカタカナ表記は何かしらの意味や思想が込められている場合が多い。  特に福島のフクシマ表記がそうだ。カタカナ表記になったのは間違いなく原発事故以降のことであり、国際的な認知度が高まったからという以外に、ヒロシマ、ナガサキが原爆や被爆を連想させるのと同様にフクシマの原発事故による被曝を強調したいという人間の意思が込められている。だが、福島県内において深刻な被害が出たのはごく一部の地域であるにも関わらず、被曝を強調した言い回しであるフクシマという表記には心外に思う人も多いだろう。  トウキョウの場合は、単に日本の首都として有名でありオシャレ感を出すための表記として使われる場合が多く、それをダサいと思う人はいるが、不快に感じる人は少ない。  地名以外ではどうだろうか?侮蔑的な用法のカタカナと言えばネトウヨやパヨクが有名だ。ネトウヨはネット右翼の略称で、パヨクは説明すると長いが「ぱよぱよちーん」という挨

心理的リアクタンス理論

 心理的リアクタンス理論とは1966年にジャック・W・ブレームによって唱えられた理論で、簡単に説明すると「押すなよ!絶対押すなよ!!」と言われると押したくなるあの心理状態のことだ。一般的に言うと、個人が特定の自由を侵害されたときに喚起される自由回復を志向した動機的状態だ。  最近では、新型コロナウイルス対策を無視して、マスクを着けない、ワクチンの接種もしない、密集・密閉・密接状態で騒ぐなどの行為に及ぶ人も多少いるが、彼らは強制に反対し自由を求める心理状態にあるのだと思われる。一方、大半の人が感染対策に関して心理的リアクタンスを生じないのは、その必要性を十分に理解していているからであり、また自由を制限しているものの本質は感染症であり、対策を強制しようとする社会では無いことを知っているからでもあるだろう。自由の回復のためには感染対策をするしかないのだ。  反ワクチンや反マスクのように極端に有害なものでなくても、人は何かしら規制されるとこうした反応を起こしがちだ。この応用として、よくバーゲンなどで見かける先着何名様に限り半額とかいう情報も、急がないと半額で物を買える自由を失うという制限に対抗する心理を人におこさせる罠であることが多い。こうして哀れな犠牲者はいらないものを買わせられるのだ。  また、独裁国においても、国民に対し強制や規制をしがちだが、彼らはその原因を外国や国内の反動勢力にもとめてることでうまく民衆からの抵抗を回避している。極論すれば、独裁国は敵がいなくなると困る政体でもあり、常に無実の敵を捏造し続ける。声高に誰かのせいで自由が脅かされているなどという煽り文句を聞いた時は、騙されていないか十分に検証すべきだろう。

八功徳水

 八功徳水といえば極楽浄土の水という話が有名だが、他にも倶舎論にその記載がある。  倶舎論に説かれる古代の世界観ではこの世の中央には須弥山というとても高い山がありその周囲を囲うような山があり須弥山との間に海がある。その山を更に囲う山が合計七つあってそれぞれの間に海がある。七つ目の山の外側が我々の知る塩水の海である外海で、須弥山に近い七つの海は内海と呼ばれ、その水は、甘く、冷たく、軟らかく(おいしく)、胃に軽く、きれいで、腐らず、飲んでも喉を傷めず、飲んでもお腹をくださない、という八つの優れた点があるから八功徳水と呼ばれていた。  阿毘達磨倶舎論の成立は4〜5世紀頃とされ、浄土教経典が成立した2世紀より新しいが、倶舎論の更に元ネタとなる発智論は2世紀前半の成立とみられ、また、倶舎論は浄土教などの大乗仏教が成立する以前からの部派仏教の教理のまとめであることを考えれば、八功徳水のオリジナルは浄土教以前に遡るとみていいだろう。お釈迦様が誕生された時にも八功徳水が湧き出てお母様のマーヤ夫人が身を清めるのに使ったとする言い伝えもある。安全な水の確保に難渋していた古代インド人のとっての理想的な水が八功徳水の伝説として残っているのかも知れない。  ちなみに浄土教の八功徳水は、浄く澄んでいて、清く冷たく、甘美であり、軽く軟らかく、潤沢にあり、おだやかで、飲むと飢えと病を癒し、飲んだ者の心身を健やかに育てるものとされ、倶舎論の八功徳水と若干効能が違い癒やしの効果が付与されている。浄土真宗で仏壇にお水をお供えしないのは、極楽浄土には潤沢にすごい水があるので娑婆の普通の水なんて供えられませんという発想らしい。  仏教におけるこうした水へのこだわりは、安全で潤沢な水の確保が大変であったか先人たちの苦労が生み出したものだろう。しっかり消毒されたきれいな水が蛇口をひねるだけで飲めるようにした現代科学とそれを生み出した人々の縁の積み重ねには感謝するしかない。こうした恵まれた環境に慣れきっているせいか、時々、山野で沢の水を直接飲む人がいるが、寄生虫などに汚染されている可能性があるのでやめた方がいい。どうしても必要なら濾過して煮沸してからにするべきだ。エキノコックスや、海外では恐ろしい住血吸虫もいる、各種の細菌やカビも油断ならない。安全第一で生きてまいりましょう。

悪気が無い人を責める人

 先日の 放生会 の話でも触れたが、迂闊に生き物を環境に放つと遺伝子汚染を起こす恐れが強く、各種イベントで行われる川への魚の放流などがしばしば問題視されている。  こうしたイベントだけでは無く、小型の水棲動物のペットは、哺乳類のペットに比べて飼えなくなったからと放流されがちではある。最近ではアメリカザリガニの様なメジャーなペットも特定外来生物に指定されており法的な規制も進んでいる。  ただ、特定外来生物などの指定が無くても、川や沼は独自の生態系があり、同種の生物でも川や沼ごとに遺伝子的には差があり、合法であっても迂闊な放流はやはり環境の遺伝子汚染を招きうる。  ここで問題となるのは、遺棄は論外であり批判も妥当であるが、イベント等での放流では遺憾な事に企画した側は良い事をしているつもりでやっている場合がほとんどだと言うことだ。彼らを批判する場合には相応の配慮も必要となってくるのだが、こうした場合の批判は著しく攻撃的である事も珍しくない。  環境保護の視点にたてば放流イベントの不備を指摘するのは当然で正しい行為だ。無責任な放流で多くの生物が絶滅しうるのだから、断固として止めるべきだ。それは間違いない。  では遺伝子汚染を招くような放流をした人達が、ああ良い事をしたなあという余韻に浸っている時に、環境保護の志に燃える活動家が鬼の様な形相で彼らを激しく罵倒したとしたらどうだろうか?罵倒だけならまだしも、お前らははじめから環境破壊を企んでいる極悪テロリスト集団だなどと内心まで決めつけてかかるのはいくらなんでもやりすぎだ。  そもそも、悪気がなく過ちを犯した人に対しては、まず落ち着いて、問題点を分かりやすく説明するべきだ。いきなり攻撃的に接しても聞く耳をもって貰えない。話を聞いてもらえなければ事態も改善されない。環境保護団体がなすべきは正義の暴力を振るって悪を叩き快感を得ることではなく、環境保護の精神を広めてより多くの人からの協力を得ることだ。もしかしたら攻撃的に騒ぎ立てることによって、環境保護団体に恐怖感をもたせ言うことをきかせようという戦略なのかも知れないが、それは間違っている。環境保護団体に強い反感を持つ人が増えれば、環境保護の理念に納得する人は減って、人為的な遺伝子汚染も自然のうちだとなどとする屁理屈の信奉者が増え、環境を保護するための法整備へ悪影響を及ぼす可能性もある

等身

 お釈迦様の入滅から500年以上に渡り、お釈迦様の像は作られることはなく図示する場合は法輪などの象徴的なものが用いられていました。その後、1世紀頃のガンダーラ地方で仏伝を説明する際に人物のレリーフが用いられる様になったとされます。  当時のガンダーラ地方にはギリシャ人の定住もあり彫刻が盛んであったのも、仏像誕生に一役かったと思われます。レリーフに刻まれたお釈迦様はそれと分かるように他の人々より大きく彫られる傾向にありましたが、やがて単独の仏像として彫られた初期のガンダーラ仏は等身大であったとされます。  以後は等身の仏像だけでなく、お釈迦様の超人性を表して人間よりも大きな仏像が作られたり、運びやすい小型の仏像など様々な大きさの仏像が作られていきます。一方で、仏像建立の発願者や王族と同じ身長で仏像が彫られる風習も出来て、日本でも法隆寺夢殿の救世観音菩薩像や金堂の釈迦三尊像は聖徳太子の等身だと伝えられています。  仏伝のレリーフはお釈迦様の骨を安置し礼拝の対象であった巨大な仏塔の周囲に彫られたものでしたが、仏像の発明により礼拝の対象を地域や個人で所有することが容易となり、仏教の拡大に寄与したものと思われます。ご自宅の仏壇にある絵像や仏像もこうした歴史の積み重ねの上にあるのです。仏像が等身でなくても等身大の衆生を仏は見守っています。南無佛。

幽霊だって空である

 幽霊と言う物はもちろん物理的には存在しません。見る人の執着がそれを見せるのです。だから、幽霊だって縁によって存在するように見える空であり、その意味では私たち人間と大差はありません。  人ならぬ何かを見たり感じたりした時、後になってその時間に知人が死んだ事を知ってあれは知人の幽霊だったのか、などと語る怪談話はよく聞きます。こうした話の科学的に妥当な推論としては、まず見たものは精神疾患や思い込みや寝不足などの疲労から見えたパレイドリアや幻覚であり、その時間に知人が死んだのは単なる偶然でしょう。だが、それを見て知人の幽霊を見たと信じている人にとっては、その知人が何を伝えたかったのだろうかなどと考えたりもします。その人に科学的に妥当な説明をして納得し安心してくれれば良いですが、頭ではそうかなと思っても体感的に納得いかなければ、幽霊を見た人にとって幽霊は存在することになります。  つまり目撃者と死んだ知人の縁によって目撃者の脳内に幽霊が作られるのです。これは縁によって成り立つ仮初の存在であり、空だと言えます。私たち人間も過去からの縁により仮初に存在してる空です。幽霊も人間も空なのです。  家族や祖先の幽霊を見る場合は、故人の事を知っていたり言い伝えを聞いているから具体的に見るのであり強い縁のなせる技です。だから、家族などの幽霊を見てしまった場合は、その縁に想いをいたせば良いのです。生前の恩に感謝し、お経の一つでも供養してさしあげましょう。  お盆やお彼岸に家族の霊を見たと言う話もしばしば聞きますが、仲が良かった故人も悪かった故人も幽霊を見るほどの縁があったと言うことで、あまり怖がったりしないで問題ありません。

断惑証理

 断惑証理(だんわくしょうり)は読み下しでは、惑ヲ断ジ理ヲ証スル、となり迷いを断って悟りを得るという意味になります。一般的な仏教においては、修行して煩悩を滅して悟りを開くのがその目標なので、その事を言い表していますが、この単語は多くは浄土教系の宗派が、そんな事出来ないよね、と強調する時に使われる事が多いです。  法然上人は「無量寿経釈」で、断惑証理なきが故に生死を出づる輩なし、と言っており、「黒谷上人語灯録」でも、戒行において一戒ももたず禅定において一もこれを得ず智慧において断惑証果(断惑証理と同義)の正智をえず、として仏教の根本である戒定慧の三学の一つも達成不能だと言っています。浄土真宗の「報恩講私記」にも、断惑証理愚鈍の身成じがたく速成覚位末代の機およびがたし、とあります。  まあ、実際に短い人生で断惑証理など達成不能だとは思いますが、達成不能だからと言って努力を怠ってはいけません。最終的に他力に救ってもらうのは全然構いませんが、戒律はなるべく守る、禅定も真似事でもまずは実践してみる、煩悩だって消えないけど小さくできれば、不完全でもそこから得られる智慧だってあるでしょう。  人生、なにかを達成するには短すぎます。完全主義者はだいたい絶望しますから、気楽に生きましょう。

彼岸の中日

 春と秋のお彼岸は日本の祖霊崇拝の風習が仏教に取り入れられて出来た日本仏教独自の風習で、春秋分点を中心にした一週間、先祖に感謝し仏教の修行に励む期間です。お墓にお参りされる方も多いでしょう。  先祖への感謝と言っても様々です。記録として残っていないレベルの遠い祖先に感謝するのは容易いことです。この辺はもはや祖霊という概念だからです。時代が下って、郷土史に残るような先祖についても、人間誰しも功罪があるものですが、子孫の我々にわざわざ伝えられる人の大半は功の方が多いし、そうでなくても家名をつないだことに対して感謝をするのに抵抗を感じる人は少ないでしょう。更に時代が下って、会ったことはないけど両親や祖父母などが直接知っている程度の比較的最近まで生きていた先祖に関しては、両親や祖父母との関係が悪かった故人ならば、お彼岸の墓参りに多少のわだかまりが生じる可能性も出てきます。  もし、とても嫌いな親族のお骨がお彼岸にお参りする墓に入っていたとしても、故人はもうあなたに嫌なことをしてきませんから、人を許す修行だと思って冥福を祈ってあげてください。あなたと仲の悪かった故人との関係性が家族に知れているならば、お墓参りは孫や子の世代に慈悲の心を見せる機会ともなるでしょう。また、自分の死後に墓参りする人たちが嫌な思いをせずに済むように、家族は仲良く、すぐ怒ったり貪ったりせず自利利他の精神で生きていきたいものです。

陰謀論者が死ぬのは自然淘汰では無い。

 反ワクチンやフードファディズムなどなど、それを信じる集団の寿命を短縮させるであろうデマや陰謀論は数多くある。では、嘘を嘘と見抜けない人がより死亡しやすく、嘘を嘘と見抜くことが出来る人がより生き残るという状態は、自然淘汰であり許容されるべきなのだろうか?これに関しては強く否定しておきたい。  なぜならば、それは遺伝的身体的な要因による環境適応ではなく、人間の脳が誤情報に汚染されたことにより起きる問題であり、進化論の自然淘汰とは異なるからだ。  こう言うと、いやそんな誤情報を容易に信じてしまうような脳を持つ人間が情報化社会に適応出来ずに死亡するのだから自然淘汰だろうと言う反論もありうるかと思う。なるほど極めて賢い人間ならば、そうそうデマや陰謀論に騙される事はないだろうが、絶対では無い。今現在、デマや陰謀論を信じ込んでいる人間が、そうでない人間と比して生物学的な素養としての知能に大きな差があるのか疑問だ。環境さえ整えば容易に人は騙されるものだからだ。  陰謀論は人命を危険に晒すミームなので、そのミームさえ除去出来ればミームの担体となっている人間を排除する必要は無い。伝染性の感染症と同じことだ。  理解不能なモノやコトに対する不安を利用して広がるミームには、現実のリスクの理解を促進する事で拡散を防ぐことが可能だ。だが、人々が不安に思う問題を理解させるのはなかなかに難しい。  目に見えてわかる病気を「治療」するのなら人は治療行為に多少のリスクがあっても率先して治療を受けようとする。一方、今現在は元気で問題ない状態にあるのに今後の病気の「予防」のために副作用が起きるかもしれない行為を受けようとする際には、理性的に考えればどんなにリスクベネフィット的に見て有利であっても、その予防的行為に対する本能的な警戒感があるのは自然なことだ。理性が十分に育っている人間ならリスクに対して十分に安全な予防行為に大きな不安は無いだろうが、理性の発達が不十分か、著しく不安感が強いか、その両方に該当する人間は予防的行為に強い警戒感を持つ。理性の発達が不十分なだけなら教育は効果があるかも知れないが、不安感が強い人に対しては教育のみでは不十分で不安に共感し落ち着いてもらう事が先決となる。また、病的な不安感に対しては医学的な治療が必要だろう。要するに多角的な対策が必要となる。  ワクチンも殺虫剤や防カビ剤

中秋の名月と放生会

 本日は中秋の名月です。古来から月を愛でる風習がある日本でも、平安時代に唐の文化を受けて特に旧暦8月15日の月を眺める宴を催すようになっていきます。月見に宗教的な意味はなく単に月を眺めて楽しんでいました。  さて、旧暦8月15日のお月見自体には特に宗教的な意味は無いのですが、明治時代より前のこの日は岩清水八幡宮などで放生会が行われる日でもありました。  放生とは捕らえられた虫、魚、動物などを解き放つ行為で、梵網経や金光明経などにも説かれる殺生を戒める慈悲の実践です。道教の列子にも同様の行為を元旦に行うとの記載があります。  八幡宮の放生会は、元々は九州での内乱平定の犠牲に対して八幡神の宣託を受け宇佐八幡宮で行われてものが原型とされます。八幡神は応神天皇の神格であり、神仏習合時代には八幡大菩薩と呼ばれていました。このため、仏教行事である放生が八幡宮にも取り入れられた訳です。  さて、放生会の日には生き物を捕らえている人はそれを放すのですが、特に生き物を捕らえていない人にも放生してもらうために、昔は鳥やウサギや亀などが売られていたそうで、なんともマッチポンプな話です。環境の遺伝子汚染などが問題なりそうな行事ですが、奈良の興福寺で4月に行われる放生ではこの問題を重視し去年から池に生息する在来種を捕らえて放すようになっています。もはや単なるキャッチアンドリリースですが、生き物を逃がすという象徴的な行為に意味があるのでしょうし、時代の流れでもあるしょう。  さて、各地の八幡宮を中心に行われていた仏教風の儀式である放生会も、明治維新の廃仏毀釈により名称や開催日の変更を余儀なくされます。しかし、放生会を元々行っていた神社は何だかんだで祭事を引き継いでいるところも多いです。旧暦8月に近い新暦9月に行われる事が多いですが、日付は様々です。  昔、旧暦8月15日に放生会を行った人々は夜に中秋の名月を見上げます。月は仏法の象徴ともされますから、宗教と無関係の月見でも思うところがある人も多かったはずです。皆様の住む地域では月は見えていますか?

敬老の日

 今日は敬老の日です。敬老の日は戦後まもない昭和22年に兵庫県の野間谷村で始まった「としよりの日」が全国に広がり昭和41年に国の祝日となったものです。当初は9月15日に固定の祝日でしたが平成15年からは9月の第3月曜日になっています。  少子高齢化社会に伴う老齢人口の増加により世代間の対立が目立ちつつある昨今、高齢者を現在の社会問題を作ってきた元凶とし、かつ既得権益を利用して若者世代を圧迫する老害として叩く風潮もあります。  しかし、物事はそう単純な話では無く現在はそのような批判を激しくしている若者も歳をとれば未来の若者から同様の批判を受けます。有史以来、人は先行する老人を乗り越えて進歩を続けて来た訳で、乗り越えるべき対象の質と量が変化しているだけで人の本質に変化はありません。  相撲では入門時に指導してくれた先輩に勝つ事を恩返しと言います。負けた先輩は悔しく寂しくも、強く育ってくれた後輩を誇らしくも思うものです。一般社会でも、ずっと先輩が負けないと後輩がちゃんと育っているのか不安になるというものですが、あっさり敗北するような弱い先輩でも後続がちゃんと育つか心配です。  金枝篇の王殺しのようなものですが、昔と違い破れた者が死ぬ訳でも無いので存分に競い合えば良いのです。  空気を読んで手加減してくるような若者は敬老精神が足らんわ。

祈祷

 日本の主な伝統仏教で浄土真宗以外は何らかの加持祈祷の儀式は存在する。現世利益を祈るだけではなく、追善回向もその効果を直接的には確認できないだけで先祖の成仏を祈る祈祷の一種だし、灌頂系の諸儀式も仏縁を頼りに自ら成仏を目指すための祈りと言えなくもない。加持祈祷は神仏の力である「加」を受持するための祈りだ。こうした祈祷を全否定する浄土真宗は現代的な思考では正しいのだが、では他の宗派が間違っているかと言うと違う。  密教など呪術に近い宗派は否定するだろうが、神仏に祈ろうが拝もうが、どうにもならないものはどうにもならない。しかし、どうにもならない世の中で、あえて行う祈祷は貪欲さを促進するものではなく、現実に出来る限りのことをしてもなお届かない目標に対する執着を断ち切る効果もあると思われる。神仏の力を持ってしてもダメならば諦めもつこう。逆に、祈祷によりどうにかなると思い込めば挫けずに問題に対処する力を得ることもあるだろう。他に何も出来ないくらい努力した後なら、祈祷の意味は決して少なくはないだろう。  ただ、何の努力もせずに初めから神仏に頼る姿勢では、偶然に願いが叶った時は強い慢心を生み、叶わなかった時には自分の努力の無さを棚に上げて神仏を恨んだりすることもあるかも知れない。このために、加持祈祷をする場合には目標に対する真摯さが求められる。  また、いわゆるお祓いのような霊的な何か不吉な存在を処理する祈りは、不安に怯える人に対して安心を与えることだろう。しかし、これも一歩間違えば不安を煽ってしまうことにつながりかねない。運用上の注意は必要だろう。  加持祈祷が無い浄土真宗はこの世は祈祷なんかじゃどうにもならない穢土だと言う現実を受け入れて阿弥陀如来にお任せしましょうと言うスタンスなので、祈祷に由来する諸問題は起きえない。人間なら執着も不安もあるのが普通だから仕方ないとみて受け入れることになる。だが、この考えは人が本来するべき精進すらも放棄しがちとなる副作用もある。もちろん、浄土真宗は人間が凡夫であることを言い訳として、悪行をせよなどとは言っておらずそうならないように自制は必要だ。  ともあれ今現在が大変な世の中だが穏やかになるように祈りたい。

行為者観察者バイアス

 行為者観察者バイアスは、行為をしている人自身はその行為の原因を自分以外の何か外的な他人や環境などの状況要因に求め、他人の行為を観察している人は他人の行為の原因を他人自身の内的な資質や性格や能力などの個人の気質要因に求めやすいというバイアスです。  例えば、交通事故が起きた時に、追突事故など以外ではその責任が10対0になることはあまりありません。つまり、警察や保険会社が客観的に見れば双方にある程度の責任があるわけです。ところが、実際に交通事故を起こした人は、相手の不注意が原因で事故は起きたのだと思いがちであり、相手から自分の不注意を指摘された場合は道路状況が悪かったからとか相手のヘッドライトに幻惑されたからだとかの外的な要因のせいだと自己弁護しがちです。  他にも、重大な事件の犯人は「社会が悪い」「環境が悪い」「被害者が悪い」などの自分以外が悪くて犯行に及んだのであり自分は悪くないと言いがちです。そんな犯人の弁を伝える報道を見た人達の多くは、なんて身勝手な言い訳だと思い怒る訳ですが、自分が何かしたときにも他のせいにしがちだと言うことを思い出して過剰に叩くのは避けたいところです。  自分に何か過失があった時に、他者や環境が悪いと自分の責任を棚上げして周囲を攻撃すると、いわゆる逆ギレ状態となり状況はさらに悪化します。そうならないために、自分が何か失敗してしまった時は、まずは自分に何か問題が無かったか考えてみると良いでしょう。  しかし、実際の責任は100%個人の内的な要因にも100%他人や環境の外的な要因にもありません。いろんな条件や原因が複雑に影響しあっているのが普通です。これは良いことでも、悪いことでもそうですが、行為者観察者バイアスは、悪いことがあった時により強く現れる傾向があるように思えます。チームで働いていて、手柄は全部俺のもの失敗は全部お前のものみたいな態度でいればトラブルは必発です。自分が成功した時はより謙虚に、他人が失敗した時は他人を吊るし上げるよりも再発防止の対策に注力した方が建設的です。

両論併記

 マスコミの報道姿勢が偏向しているという批判はよく耳にするが、では両論併記ならいいのかと言うとそうでもない。  確かに、世論を二分するような話だったり、二分までしなくても相当数の異論を言う人がいる問題についての記事なら両論併記が良い。マスコミが世論の大勢とは違う意見を持つ時に、あたかもマスコミの意見が世論の大勢であるかのごとくに偽装する偏向は許してはならず、マスコミの意見に反対する意見も報道すべきなのは間違いない。  だが、両論併記が認められるのはその両論が議論や検討に値するものの場合だけだ。明らかな誤情報は論になりえない。  例えば、台風が接近している時に、どの程度の勢力でどんな大きさの台風がどこに向かっているのかは、人々の命や財産を守る上で正確に伝えなければならない情報だ。ところがニュース番組の台風情報を伝える時間の半分を費やして、実は台風接近というのは気象庁が政権の不祥事を隠すためについた嘘で台風なんて存在しないから日常生活を堅持すべきだという意見が根強くあると報道したとすれば、もし本当にそんな意見の人が実在しても、これは公正な両論併記とは言えない。もちろん、こんな分かりやすいものは実際には無いが、マスコミが両論併記の体裁でガッツリ偽情報を突っ込んでくることはしばしばあるので油断ならない。マスコミの両論併記を見ても、なにか裏がないか調べたほうがいいだろう。  逆に、いわゆるヘイトスピーチをする差別主義者がしばしばこの両論併記をマスコミに要求する事もある。世間では極めて少数派で倫理的にも認められない彼らの差別的意見を両論として報道せよなどというのだ。もちろん、ほとんどのマスコミはこんな要求を認めたりはしないが、差別主義者はマスコミが両論併記をしなかったと言って叩く材料にする。  両論併記であれば必ずしも公正であるとは限らないように、両論併記しないことが必ずしも偏向していることを意味するわけでもない。両論併記があるからないから良いの悪いのという意見は、必ずその中身を吟味してから判断すべきだ。

心配しているフリをした攻撃

 大阪大学の忽那賢志教授が文藝春秋10月号で、巷にあふれる反ワクチン本を糾弾する記事を書いた。それを受けてネット上では、怖い反ワクチン勢に文句を言うなんて忽那先生の身辺が心配だという風なご憂慮のお気持ちを表明する人も見かけられた。  まあ、詐欺師の本体は流石になにもしないかと思うが、確かに洗脳された陰謀論信者は教祖に文句をつけられたと過激な行動に出ないという保証も無い。しかしながら、それをあえて多くの人に言って回るのは反ワクチン勢力に意見をすれば暴力的な制裁がまっているぞという脅しにもとれる。  暴力団を脅しに使うのと同じ理屈だ。暴力団と利益をともにする人が、自分に逆らうと暴力団から目をつけられるぞと吹聴し、一般人に恐怖心を喚起させ彼らが自分たちに不都合な発言や行動をとらぬように抑えこもうとするのだ。  実際に忽那先生をの身辺を心配した人が、果たしてこうした脅しをしたつもりだったのか、あるいは本当に心配しただけだったのかは分からないが、仮に反ワクチン派が暴力団並みに恐ろしい存在でも、黙るべきは反ワクチン派であり、怖いから正論は言わないでおこうよと勧めることは社会にとって有害だ。  余談だが忽那先生は藤原家の流れをくむ忽那水軍の末裔だと聞く、そんな武士に卑劣な脅しは通用しないだろう。

浄土教擁護論

 一部の人達、主に上座部仏教や原始仏教の信奉者からしばしば浄土教は仏教ではない邪教だとして叩かれることがある。本日はこの意見に対して浄土教を擁護してみる。  まず、仏教の最小要件として、ここでは大乗仏教も部派仏教も密教の信者でも概ね了承してもらえるであろう四法印を採用したい。つまり、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の教えを根幹としていれば仏教だとみなす事ができる。浄土教は四法印を満たしうるかみていこう。  一切皆苦に関しては言うまでもなく、他の日本仏教に比べて浄土教は徹底している。日本の浄土教の祖ともいうべき源信が「往生要集」で説き、徳川家康の馬印にも使われた「厭離穢土、欣求浄土」の文言にも示されるように、浄土教ではこの世界を汚れた穢土とみなしている。この世は、厭い離れるべき穢れた世界なのだ。そして、我々人類はいずれも救いがたい凡夫でしかない。浄土との対比において地獄も人間界も大差はなく等しく穢らわしいのだ。浄土教ではこの世を救いのない絶対的な苦だと見ているのは間違いない。  諸行無常、諸法無我はどうだろうか?これはこの世の全てが苦だとみなした時点で、結論が出ている。釈尊の時代から無常であることが苦とされているのだから、諸行無常ゆえに一切皆苦なのだ。そして諸行無常なら自分という確固たる存在もまた存在しない。この世の無常と無我は先の「往生要集」にも繰り返し説かれており、浄土教は一切皆苦、諸行無常、諸法無我の原則を支持している。  では涅槃寂静はどうだろうか?定義上は、永遠に繰り返される生滅が断たれた静かな状態が涅槃寂静とされ、先の一切皆苦、諸行無常、諸法無我の対義となる。「浄土」は「穢土」の対義で、穢土とは一切皆苦の世界だから浄土こそ寂静な涅槃の世界と言える。  つまり、浄土教においても四法印は踏襲されており、「厭離穢土、欣求浄土」とは煩悩を滅して悟りを開くということの言い換えだ。  そもそも論として、仏教は拡がっていった地域や、その時代にあわせて進化してきた歴史がある。仏教の精神が現地の人に受け入れられたのなら表現の違いなど些末な事だ。2500年前のインドの時代にあった表現以外が邪教というのならそれは仏教が嫌う執着に他ならない。  また、浄土教が修行を否定しているという意見もある。なるほど浄土真宗などは宗派として修行を否定しているが、実質的には違う。この世の無

反社会的組織の構成員の人権

 反社会的勢力である暴力団の構成員に対して、銀行口座を開かせないとか、賃貸住居に入居出来ないなどの規制は暴対法と暴排条例の施行以後から日常となったが、先日はついに都市ガスの利用を認めないという企業まで現れた。いわゆるライフラインの使用契約をも停止するのは人権問題では無いかと指摘する人達もいる。確かに、法律的には暴力団員であること自体に刑事罰の適応は無いはずなのだが、現在の法律の運用では暴力団員に対して社会的な制裁を加えることが事実上、民間レベルにも義務付けられている。日本の刑法では教育刑を基本としているにも関わらず、私刑を推奨する応報刑的な法の運用が人権的に考えて問題なのは間違いない。そんな事をせずとも暴力団員であること自体を刑事罰の対象にすれば、さっさと全員収監してしまえて手間も省けるというものだが、これを可能にすると暴力団に指定さえしてしまえば、日本に存在するあらゆる団体を合法的に潰せるので、そんな強すぎる権限を国に与えて良いのかと考える人達の反対で今後も当面成立する事は無いだろう。  さて、現状が暴力団員の人権を考えた時に問題があるのは間違いないが、この問題を論じる時に人権を守れと言う人の一部、いや多くに、論点のすり替えを企む輩がいる。つまり、法律とその運用が人権をないがしろにしているでは無いかというのが論点であるにも関わらず、暴力団がいかに社会に有用であるかを力説し、だから暴力団を守るべきだという話に持っていこうとする人が多すぎる。  曰く、暴力団があるからコントロールが効かない半グレや海外の犯罪者集団などを抑えられていたのに暴力団を潰すから、そういった奴らがより無秩序に暴れているだとか、不良のたちに働く場を与える必要悪だとか、地域の問題を解決し義理人情に厚いいい人たちだったとか、そんな話を声高に主張して暴力団を守ろう!人権を蹂躙する政府に文句を言おう!などとするトンチキ野郎のなんと多いことか、嘆かわしい。  法律やその運用に人権上の問題があろうがなかろうが、暴力団が滅ぼすべき社会の敵であることになんの変化も無い。どさくさまぎれに暴力団を支援するんじゃあない。暴力団を滅ぼして他の組織が暴れるならそれも滅ぼせばいい、不良の職場には犯罪組織じゃなくて更生して一般企業を選べばいい、地域の問題を解決したとか言っても暴力を用いてだ、一部の素人の受益者の言い分など聞く必

ピグマリオン効果

 ピグマリオン効果は、1964年にローゼンタールらによって行われた実験に基づく推測で、教育者がこの子の才能は伸びると期待を持って接した生徒の方がそうでない生徒よりも実際に学習効果が上がるとするものだ。この実験では潜在能力の高い(今後、学力が伸びると見込まれる)児童の名簿と偽って、単にランダムに児童を選んだだけの誤情報を小学校教師に伝えたにもかかわらず、その名簿に名前のあった児童は本当に他より成績が向上したという。これは、名簿を見た教師が意図的か無意識にかは別として、名簿に名のあった児童への指導をより熱心に行ったり、試験の採点時にバイアスが働いた可能性がある。  この実験の再現性には疑念ももたれており、やはり教師個人の資質や性格によるバラツキが大きいのだろう。心理学の実験は科学的に妥当なデザインが困難な場合が多いので、心理学者なる人物が提唱する理論は必ずしも事実では無く、提唱者の偏見であることもしばしばだ。このピグマリオン効果も良くてそういう傾向がありそうだ程度に考えておいた方が良い。  もちろん、もし教育者が特定の児童に特に目をかけて指導にあたればその分、児童の学習効果が上がりやすいであろうことは、実験をせずとも頷ける話だ。だが逆に、教師のリソースが限られている教室で特定の児童に集中的な指導を行えば、十分な指導を受けられない児童が発生し、その児童の学習効率が下がるのも当然だろう。  ピグマリオン効果は、優秀だと期待された児童の成績があがった点に注目されがちだが、その他の児童の学習効率が落ちたのだとすればそちらの方が問題だ。  さらに、教師の思い込みだけで過度な期待を込めた指導をするのは児童に余計なプレッシャーをかけることになり、児童の心にも悪影響をもたらすだろう。  だから、教師のリソースを十分に児童の学習指導に充てるには、教師に児童を差別せずに平等に指導するように勧めるよりも、教師の数を増やし学習到達度別に少数ずつその子らにあわせた指導を行う方が良い。予算的には厳しいのかも知れないが、少子化の時代だからこそ教師数を減らさずに厚めの教育が実施できるようにすべきだと思う。

人道支援

 世界各地にいる苦境に立っている人々に、余裕のある国の政府や国民は人道支援として、救援物資や資金を提供している。しかし、その対象国が軍事独裁国やそれに類する場合、支援は困っている人達に届かず、独裁政権の関係者でいいように浪費されるのが常だ。現地で困っている人には気の毒だが、こうした国や地域に対する支援は、結局のところ苛烈な政治を長引かせ人々の苦しみを長期化させる効果しかないので、人道だろうが何だろうが支援すべきではない。現地政権に抵抗する力を持たない弱者に支援を直接届けても治安当局や軍や武装集団に収奪されるので結果的には大差は無い。  虐殺者を支持・支援するのは間接的に虐殺しているのと同じ事だ。略奪者を支持・支援するのは間接的に略奪しているのと同じ事だ。不殺生戒、不偸盗戒に反するので、少なくとも仏教徒がするべき事では無い。どんな目先の利益があったとしても、そんな貪欲に負けて悪をはたらいてはならない。そもそも、苦境に喘ぐ人達を虐めている人らに支援をして一体なんになると言うのか?支援をすれば残虐な政権も態度を軟化させるのでは?とは昔からよく言われる事だが、順番が逆だ。残虐な政権が十分に反省したと確認できてから支援を始めるべきだろう。

一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず

 「 一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは主に日蓮宗で説かれている言葉で、この世の 社会でなす全ての 政治や製造や農業や商売や生活などの活動は仏の教えに沿ったものであるとする意味です。法華経の解釈として伝教大師最澄がいった言葉だとされており、天台宗の「一隅を照らす」にも通じるものがあります。法華経ではこの世こそが実は仏国土であるとみなしており、法華経の信者はこの世を仏国土たらしめる菩薩であるとの自覚をもって日々の生活に励むことになり 「 一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」はそのライフスタイルにしっくりくる言葉です 。  ただ、日蓮宗は日本の伝統的仏教宗派では最後発であり、そのために他宗との違いを強調する傾向があります。 「 一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の文言も、浄土教系のこの世の外に理想の浄土を想定し、いま自分たちが生きている場を汚れた穢土とみなすことに対する反論として用いられる場合も目立ちます。  浄土教のこの世を穢土と見なす思想は、仏教の基本原則の一つである一切皆苦を分かりやすく説いていますが、曲解すればこの世をどうでもいいものと軽視してしまう危険性もはらんでいます。執着を離れるのと侮蔑するのは別物です。穢土に対して浄土を想定することも、それにより現世の諸行無常、諸法無我を強調し、浄土こそが涅槃寂静であると示す訳ですから、実のところ浄土教は仏教の基本を分かりやすく噛み砕いたものだと言えます。しかし、往々にして日蓮宗の批判にあるような現実軽視に陥りがちな傾向があるのも否めません。  逆に 「 一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」との現実重視の考えも執着すれば、現世での物質や権力にとらわれる危険もあります。何事も中道が大事だといえるでしょう。  日蓮宗ではこの世を仏国土とみなしていますが、現実を生きる我々にはそうは見えません。そう見えないのは我々の修行たりず偏見でこの世を見ているからだとして信者は日々修行しています。この世が一切皆苦なのは仏が信者に与えた修行の機会という認識を新たにするために 「 一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」との言葉を 自分に言い聞かせ、苦しい仕事も修行のうちとして頑張るのですが、くれぐれも過労死にはご注意ください。ブラック企業などに唯々諾々と従うのは寧ろ悪行であり、ホワイト化させることが修行になると思います

習近平の共同富裕

 このところ、中国の習近平国家主席が主張している共同富裕とは富裕層の財産の再分配を半ば強制するものだ。自由主義諸国では税金による再分配や富裕層の慈善活動などにより再分配がなされるが、前者は法の調整が必要で、後者はあくまでも富豪の自由意志でされるものだ。  もちろん中国にも税金による再分配システムは存在するし、習近平の唱える共同富裕は建前上は独裁者の単なる希望に過ぎない。だが、独裁者に睨まれれば商売のみならず一族の生存から危うくなる中国で習近平の意向への忖度は事実上の義務といえる。自由主義諸国で同じことをすれば、企業が海外へ流出するだけだが、独裁国ではそれも出来ない。  そして、習近平の命令でお金持ちが財産を吐き出し貧困層が救われれば、助かった人々の目には習近平は救世主にもうつるだろう。これは独裁者にとっては実にうまい手だ。そもそも、極端な格差はそれを生み出した政治の失敗なのだが、それに対する弱者の恨みは富裕層に引き受けさせ、本来は責任を取るべき為政者は感謝される。税制をいじっても同様の効果は見込めるが、演出としては独裁者の鶴の一声で決まった方が劇的だ。  また、様々な競争に勝利した富裕層をあまりいじめれば技術革新などが遅れるのではとの懸念も囁かれるが、中国の貧困から中流の人口は余裕で10億人を超える。彼らが大富豪とまでは行かなくても少しいい暮らしがしたいとして学び働けば国家全体の技術の進歩が今よりも遅れる事はそうそう無いだろう。格差の是正は人材の有効活用に繋がり国力増強にも寄与する。  つまり、習近平の共同富裕政策は、自身の独裁を維持し、力をつけてきた富裕層の力を削ぎ、かつ国力を増すという、独裁者にとっては良いアイデアといえる。一方で、弾圧されている諸民族や周辺国にとっては脅威だ。もっとも、習近平も敵は多いのでこの策が実際にうまくいくかは分からないが、一部の右翼が大言壮語するほどに習近平は弱くない。本気で戦う気があるのなら、敵についての冷静な分析を怠らぬ事だ。

コロナ時代と飲酒

 世界各地で新型コロナウイルス感染症によるロックダウンや在宅勤務化が行われてきたが、そのストレスからかアルコール乱用の問題が報告されている。アメリカで行われた調査では在宅勤務の労働者の32%が仕事中に飲酒していたという。イギリスでもロックダウン開始となった2020年3月のアルコール飲料売上は前月比で31.4%増加したと伝えられる。  一方で、ロックダウンもなく在宅勤務化も進んでいない日本では酒類の売上はコロナ禍当初は激しく落ち込み、時間経過とともに徐々に回復しつつある。日本では外飲みがしにくくなった時に、わざわざ酒を買ってまで自宅で飲もうという人が少なかったのだろう。白人と比べて下戸が多い日本では酒宴も付き合いや仕事という意味が大きく、そういう場では遺憾ながら飲まれずに廃棄されるものも多かった。コロナ禍前の経産省の報告でも日本の酒類消費の主役は外食産業であり、酒類の売上の不振は外食産業の不振と関係が強いと言えるだろう。日本ではコロナ禍のストレスからお酒に溺れる人は欧米よりは少なさそうだが、それでも元々のアルコール依存症の人の症状が増悪したり、新たな依存症患者が発生する可能性はあると思われ、警戒が必要だろう。  また、コロナ禍のストレスに伴うと思われる虐待事件は世界的に増加しており、飲酒がこれに加われば暴力に対する抑制が薄れて危険だ。  仏教徒には不飲酒戒があり、お酒は飲まない方が良いのだが、虐待や犯罪防止の面からも少なくとも楽しくないお酒は飲んではならない。楽しくても程々にした方がいい。気分が落ち込みイライラして怒りに満ちたままお酒を飲んでも何も良いことは無い。

タリバンの東トルキスタンへの浸透はありうるか?

 中国政府がアフガニスタンを制圧したタリバンへの懐柔を進めている。これは、中国が軍事侵攻し支配下においているイスラム圏の新疆ウイグル自治区こと東トルキスタンへのタリバンの浸透を避ける為だと言われている。今回はタリバンが東トルキスタンに浸透、進出することはありうるかについて考えてみる。  結論から言うと可能性は薄いと思う。だが、タリバンでもそれ以外でも何らかの原理主義組織が中国への攻撃を行う事はあるだろう。  その根拠だが、東トルキスタンのウイグル人を主とする民族の文化では歌舞音曲が大事にされており民族衣装もきらびやかだ。タリバンなどのいわゆる原理主義組織からみた場合、これは大変不真面目というか反イスラム的だとの判断をされかねない。実際に、タリバン占領後のアフガニスタンでは音楽や芸事をする有名人が殺害されたりしている。そんな状況で、中国政府が反米的な立場でタリバンに近寄れば、原理主義的には正しくないウイグル人たちを助ける動機はタリバンには少ないと思われる。これに対しては、原理主義的視点でみれば多少不真面目でもイスラム教徒のウイグル人を虐殺する中国政府は、タリバンにとって敵なのではないかという意見もあるだろう。しかし、政治的に考えてタリバンも全方位に喧嘩を売るのは得策ではなく、要は中国からの利益を得る為にウイグル人を見捨てうる口実があれば容易にそれに乗るだろうと考えられ、実際にそうなりつつある。  しかし、これはなんだかんだで国を統治する必要があるタリバンならそうだろうという事であり、そんなもの関係ないガチの原理主義者は中国を攻撃してもおかしくない。中国としては、そのような強硬な原理主義者をタリバンによって抑えようとする意図もあるだろう。また、文化的にみて原理主義から遠いと思われるウイグル人の中にも、中国政府からの弾圧や虐殺を受けて原理主義に鞍替えする人が出ていても不思議ではない。  そもそも、イスラム教は特に中央アジアや東南アジアではかなり地域文化を取り入れた形に変容していた。これは特に異常でな話ではなく、あらゆる世界的宗教は伝播とともに地域の特色や時代の影響を受けて変わっていき多様性が増していくのが普通だ。しかし、イスラム教に関しては預言者の直接の言行がしっかり記録されているので、他よりも多様性は生じにくいはずだ。それでも多様性が生じた理由は、イスラム教を布教してき

人間ならそんな酷い事は出来ないという誤謬

 映画やマンガなどの登場人物やあるいは現実にでも、酷いことをした誰かを批判する際に「あんた人間じゃねえ!」と言う場合がありますが、これは間違っています。  批判する人の論理の形式としては、人間は酷いことをしないという前提があり、酷いことをするのは人間ではないというものです。しかし、人間は存外に酷いことをするものですから、この場合は前提が間違っているのです。  極悪非道の犯罪者に対してそう言いたくなる気持ちはわかりますが、人間じゃないとの否定は往々にして、人間じゃないモノに対して何をしても構わないという意味が含まれており、しばしば、犯罪行為の言い訳として利用されます。  また、この構文は主語を大きく曖昧にすることにより容易にヘイトにつながります。例えば、某民族のある個人が酷いことをした時に、某民族は酷い奴らだ、だから人間じゃない、人間でないから迫害しても構わない、という風な感じです。主語が某民族ではなく、例えば特定の人種でも職種であっても応用出来ますし、何なら元となる酷いことをした個人なんて存在しなくても捏造された酷い話が流布されているだけで十分です。  昔、とあるSFでロボット三原則の為に殺人が出来ないロボットに対して、人間とはなんぞやという認識を誤らせる事によって殺人を可能とする話がありましたが、人間だって相手を人間でないと否定すれば、どんな酷いことも平気でやってのける様になります。怖いなあ。

対人論法

 対人論法とは、例えば何かの議論をしている時に、相手の論に対しての疑問を突きつけるのではなく、論者の個人的な問題をあげつらう事により、そんな人格的にひどい奴の事なんて信用できないとする論法で、人格攻撃による論点ずらしの手法です。  これは議論に勝つために相手のスキャンダルや過去の暗部を暴いて叩くという、古典的ですが聴衆を煽って味方につけるのには有効な手段として使われ続けています。何らの権威や権力を持つ人に対して、日頃を聖人面をしていた誰それが実は裏ではこんな悪いことをしてましたという図式は大変わかりやすいものです。しかも、高齢になるほど過去を探られて何もやましい事が無い人は少なくなりますので、民主国で新大統領などが誕生した際には敵対するマスコミなどが必ずと言っていいほど対人論法を用います。  対人論法は議論によって相手を容易に打ち負かせる場合はあまり用いられません。逆に議論で圧倒的に不利な場合も人格攻撃で逆転できるものではなく使われにくいです。議論では決着つかない場合で、しかも支持者の数も近い場合に使われやすいと言えます。また、調べても醜聞が出ない人間には無効ですが、一瞬でも勢力バランスを崩せば良いだけならばデマや捏造の罪で対人論法がしかけられる場合があります。  しかし、わざわざ問題点を暴き出さなくても、日頃から素行が悪ければ、その人があるとき正しいことを言ったとしても、周囲から「悪人のお前が言うのなら嘘に決まっている」などとされる事もしばしばです。論ではなく人を見て決めつけているという点では、これも対人論法の一種と言えます。  仏教徒としては、相手がどんな人であろうとも偏見をもって判断するのは避けなければなりませんが、やはりいつも真面目な正直者が言っていることと、いつも嘘や悪口ばかり言っている人の意見が食い違えば、前者を信じてしまいがちです。対人論法は基本的に人格攻撃であり間違っていますが、多くの人からあんな奴は信用出来ないと言われる人には何らかの問題があることが多く、日頃の言動は慎みたいものです。

随方毘尼

 随方毘尼は、仏教の行動規範である律は地域の気候や風土に応じて変更しても構わないという意味です。随方毘尼という言葉は日本では某カルト教団により多用されていますが、少なくとも唐代の文献では見られる一般的な仏教用語です。戒律はよくひとくくりにされますが、随方毘尼で変更を認めるのは律の方です。戒とは修行する上での規則を守ろうとする自律的な決心であるのに対して、律は僧侶達が集団で生活する上での規則であり、他律的なものです。しかし、その律を自律的に守るところに意味があるから戒律はセットで語られる訳です。  さて、インドの気候や風土を元に作れた律が、インドと違い冬の寒さが厳しい漢土の北方や朝鮮半島や日本でも全く同様に適応されるかというとそうもいきません。インドの律では頂いた食物を翌日に食べる事は禁じられています。要は備蓄出来ないのです。そうなると生き延びるには頻繁な布施が必要となりますが、雪が深く数ヶ月移動も困難になる地域では確実に死にます。他にも、個人が庵の寄進を受ける時には教団に許可をもらう必要がありますが、仏教教団がローカルな存在だったころはいざしらず、東アジアからインドに許可をもらいに行くのは昔では現実的ではなく、現代ではすでに教団が消滅していますので不可能です。また、古代インドでも仏教教団の拡大に伴い組織運営上の必要から蓄財を認める一派なども現れ徐々に律は変化していきました。律は人間の集団の規則であって仏法を追求する上で何がベストな規則なのかも時代や場所によって変わって当然です。世俗の物事は諸行無常の教えの通り変遷していくものですので、律の変更は妥当だと思われますが、やりすぎると秩序の崩壊を招きます。何事も中道が大切なのです。また仏法が東進するほどに律は甘くなっていき、日本は最も戒律がゆるい仏教国です。歴史的には律宗や真言律宗などによって時々、戒律の復興運動も起きますがあまり広がりませんでした。成文化された規則よりもその場の空気感や情緒を重視する日本人にはゆるい戒律の方が馴染んだのでしょう。とは言え、基本的に守るべきルールを無視する言い訳として随方毘尼を使うのはいけません。  ともあれ、真に守るべき根本を見失わずに、それを伝える組織を維持するための社会的なルールは適宜変更を加えるのがよろしいでしょう。ユダヤ系のカバラの教えにも一つの凝り固まったルールが世界を滅ぼさない

プロライフ派

 アメリカはテキサス州で人工妊娠中絶をほぼ全面的に禁止する法律が9月1日より発効している。胎児の心拍が確認された時点(おおよそ妊娠第6週)で医療的な緊急処置の要がある場合を除く全ての人工妊娠中絶が禁止された。強姦や近親相姦の結果での妊娠も例外ではない。また、中絶をした医師、患者の搬送をした運転手なども密告の対象となり、密告者には報奨金が支払われる。  医療上の緊急処置が必要な場合は例外とはあるが、逆に言えば緊急とはまだ言えないが今後の妊娠継続が母体に深刻な危険をもたらす可能性がある程度では人工妊娠中絶は認められなさそうだ。訴えられる危険を冒してまでギリギリの手術をする医師もそうそういないだろう。そうなると、中絶の需要に対しては、もぐりの医者的な人が不十分な設備の下で法外な報酬で供給される恐れもある。  胎児にも人権を認め保護すると言うこの法の理念は理解できる。しかし、例外の条件が厳し過ぎる。そもそも妊娠第6週では妊娠に気づかない場合も少なくは無いだろう。胎児の心拍が確認された後は、中絶せねば母体の命が危ない緊急の場合にしか中絶が認められておらず、事実上の人工妊娠中絶の完全禁止だと言っても過言ではない。  さて、この法律の成立を強力に支えたのがプロライフと呼ばれる一派で、主にキリスト教保守派から原理主義者に属する人たちにより構成される。中絶手術を行う医師をしばしば殺傷することでも知られている。狙撃や爆殺などの事例もあり、プロライフの中の過激派はもはやテロリストだと言っても良い。彼らの理論では受精卵の時点から全て人権を持っており中絶は殺人と同義である。医療機関へのテロ行為で何人かの人が死んでも、結果としてそれより多くの命を救えると言う理屈だ。こういう人達がアメリカの政財官には広く浸透している。  このプロライフの考え方は、産むか産まないかの選択に関して妊婦の権利を強く認めるプロチョイス派と呼ばれる人達からは反感を持たれている。ただ、どこまで中絶に関する裁量権を妊婦に持たせるのかは慎重に考える必要がある。堕胎できない言い換えれば、中絶が胎児の殺人とみなされ法的に禁止になる時期をどこで線引きするのか?妊娠第何週までか?あるいは、主要な器官が形成された時か?胎動が見られた時か?子宮から出ても生存可能な状態になってからか?それとも臍の緒が切れるその時までか?色々主張もあるだろう

我執や法執がなければ煩悩もないだろうけど

 唐の時代の高名な詩人である白居易が道林禅師に仏教の真髄を尋ねたとき、禅師が「善いことをして悪いことをしないことだ」と返事をしたところ、「そんなことは三歳児にもわかる」と言った白居易に禅師は「三歳児に分かることが八十の老人にも実践しがたい」と指摘された話は、小生の好きな仏教系の逸話の一つです。  同様に絶対不変の自分や物事など無いと分かっていても、それがあると誤った考えをつい信じてしまい、自分や物事に執着(我執・法執)して怒りや貪りを生じていくのは人間の常です。植木等が言っていたように分かっちゃいるけどやめられないのです。  世の中どうやれば良いのかが分かっていても、その通りに実行できることなんて本当にわずかです。その不出来さを嘆き結果に執着してしまうのも絶対不変の理想的な状態があると信じている事になり、広義には法執といえるかと思います。  なんにせよ、執着から生まれる怒りや貪りは容易に人の判断を狂わせより悪い事態を招く元となります。特に怒れる時はまず落ち着くべきです。自分に 喫茶去 !と呼びかけるのもいいかも知れません。

昨日の質問の解答案

  昨日の質問 の要点は、大量殺人者など自己や社会への深刻な脅威になると思われる人物に対して私的な殺人を行う事は許容されるかどうかという事です。  正解は法的にも倫理的にも殺人者を殺さずに警察に通報することなのは間違いないでしょう。自分が襲われた時の反撃ならば正当防衛の範疇になるでしょうが、先制して殺害するのは、もちろん違法ですし、私的殺害を検討する時点で倫理的にはアウトです。  しかしながら、世の中のみんながそう思ってくれるとは限りません。  例えばアメリカでは人工妊娠中絶をする産婦人科医が殺害されたりします。犯人の動機はその医者を生かしておけば多くの子供(胎児)が殺されるので、結果として自分は1人を殺すことで多くの命を救ったのだという理屈です。もちろん、様々な事情で堕胎せざるを得ない女性をサポートすることは一般的には殺人とは考えられませんが、この犯人にとっては殺された医師はまさに大量殺人鬼だったわけです。  また、オウム真理教で言うところポアは、このまま生かしておいても罪を重ねてしまう人をいち早く殺害することで罪をおかせない状態に導くという理屈で、あのテロリスト教団は殺人を重ねていったのです。そんな理屈なんてありえないと大半の人は思うでしょうが、教団の内部ではまかり通っており、彼らからみたら、殺された一般人は悪人であり死により救われた事になります。  では、このように相手のことをとんでもない悪人だと認識して殺人を犯す人は、ただ罪を犯しただけにとどまらず、それ以上の悪影響を社会に与えます。先の例で考えると、医師が中絶の手術をすると殺されるかもしれない環境では、自分の命を危険に晒してまで中絶手術をする医師は減るかも知れません。しかし、医師が減ったからといって中絶手術の需要が減るわけではありません。その結果、中絶にかかる費用は中絶手術をする医師が多くいる時よりは高騰するでしょう。その結果、女性が危険な妊娠継続をせざるを得なくなったり、強姦などによる子の出産を余儀なくされることもある訳です。また、オウム真理教のような先例があったせいか、近年では過激なことをいうカルト団体への公的なプレッシャーは増しましたが、民間からのプレッシャーはむしろ減っている感もあります。彼らの私的な暴力行使は市民の言論を萎縮させるのに十分な効果があったといえます。  さて、ここである国の厚生労働大

今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ていたとして

 問1.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。彼が目を覚ませばあなたも含めて大量の人が殺されると思われる時、彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?  問2.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。殺人鬼はなぜかこれまであなただけは襲いませんでした。さてそれでも、彼が目を覚ませば大量の人が殺されると思われる時、彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?  問3.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。あなたは彼が目を覚ませばあなたも含めて大量の人が殺されると確信している時、彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?  問4.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。彼が目を覚ませばあなたも含めて大量の人が殺されると思われるが、わずかながらに改心の説得に応じる可能性もある場合、彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?  問5.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。しかし大量殺人をしたのはもう半世紀も前で今では力のない老人です。再犯をする気配も見えません。彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?  問6.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。あなたは彼の犠牲者の遺児であり、彼は長年探し求めてきた親の仇です。彼が目を覚ましてもまた殺人を犯すかは分かりません。警察に通報して捕まえてもらえば死刑は免れないでしょう。いま彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?  問7.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。彼が目を覚ませばあなたも含めて大量の人が殺されると思われる時、彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?などと考えていたら殺人鬼が目を覚まして襲ってきました。反撃して運良く殺人鬼を殺せたとした場合、この殺人は正しいでしょうか?  問8.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。彼が目を覚ませばあなたも含めて大量の人が殺されると思われる時、彼の寝込みを襲って殺すのは正しいでしょうか?などと考えていたら殺人鬼が目を覚まし襲ってきて、あなたは反撃する間も無く殺されてしまいました。殺人鬼は他の人達も次々と殺していきます。さて、あなたが殺人鬼を殺さなかった事は正しかったのでしょうか?  問9.今、あなたの目の前に大量殺人鬼が寝ているとします。彼が目を覚ませばあなたも含めて大量の人が