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4月, 2022の投稿を表示しています

核戦争の危機

 プーチンの戦争と核恫喝があるにも関わらず、世間はあまり危機感を持っていない。米ソ冷戦時代を知る世代でも核戦争の危機を感じている者は稀だ。常識的に考えれば、核戦争のリスクまでおかしてロシアが核兵器を使う可能性はさほど高くは無いのだろうが、プーチンは理性的な予測をことごとく裏切ってきた。ロシアの核兵器不使用論に安心できるほどの根拠はない。  プーチンが核兵器を使うか否かは心配してもどうしようもないことではある。しかし、あまりにも無関心で脳天気なのもいかがなものか?少し警戒しておいた方がいい。逆に、危機感を感じている者の中ではプーチンの恫喝に屈するべきだというような唾棄すべきファシストも目立つ。  もし核兵器が使用されても、報復攻撃があるかどうかは分からない。報復攻撃があっても局地的な核戦争で済むかも知れない。だが、仮に全面核戦争となっても人類が完全に滅亡することも無いだろう。  自然災害も多い日本だし、防災グッズや非常食など今一度確認しておくくらいは危機感をもって欲しいところだ。

社会活動の目標は成就しないが努力は続けなければならない

 社会貢献を目的とする活動は、それぞれ何らかの理想像というものがある。だが、社会がかくあるようにと努力をしても、所詮は諸行無常であり理想の社会が達成される日は来ない。ならば、社会活動は無駄なのかというとそうでもない。世の中の酷さがこの程度で済んでいるのは、この世を良くしようとする人達が一定数いるからであって、人々が抵抗しなければあっという間に不正と暴力が支配する地獄に成り果てる。その意味において、武力と経済とをある程度コントロールしうる権力者が国民によって選ばれる民主主義制度が機能している国は比較的安全だ。しかし、それも国民の倫理観が崩れてしまえば同じことだ。  弱者から奪い取るのを是とする考えの人は意外と多い。実際には彼らの大半も奪われる側の人間にも関わらずだ。自分より立場の弱いものから奪えると思うからこその発想だが本当に得をするのはごく一部に過ぎない。貪りの心に目が曇れば自分が被害者であることも分から無いばかりか、非道なる加害者にもなってしまう。  社会的弱者からより苛烈に取り立てるために陰謀論も利用される。この世に悪をばら撒く弱者のふりをした恐ろしい勢力を倒せばこの世が良くなるという荒唐無稽な妄想を信じて、昔から多くの弱者達が差別・搾取されてきた。この構造は今でも変わらない。特にネット上では社会のマジョリティが弱者を圧倒的に強力な悪とみなして正義の戦いを挑むのだが、単なる弱い者いじめだ。  菩薩たらんとする者は、このような収奪を許してはならない。迎合して弱者叩きをするなどもっての外だ。社会は理想の状態にはできなくてもそれを目指す努力が続けられなければ維持できない。

無添加の表示

 先日、消費者庁から発表された「食品添加物の不使用表示に関するガイドライン」では今まで野放しだった誤解を招く表示に規制がかけられる事になりました。  一部の自然派などと呼ばれる人たちが食に関して天然や生を好み人工や化学や合成を嫌う傾向はもはや病的とも言えます。現在、日本で流通している食品添加物は決められた通りに使う分には安全です。むしろ加工食品に保存料が使われていない方が健康には有害であると言えるでしょう。食中毒をなめたら死にます。細菌やカビや毒物など天然素材にも危険がいっぱいです。清潔に生産され安全性が確認された食品添加物を毛嫌いする意味が分かりません。また、食品添加物にも灰汁などの天然素材はあります。  自然派の誤った知識が広められた事により、無添加!合成(化学・人工)なんとか不使用!と煽り文句を商品につければ売れる現象が起きました。しかし、自然派が直接扱っている不衛生で危険な食品以外では実は食品添加物が全く使われていない加工食品は稀です。つまり、日頃スーパーマーケットなどで見かける無添加!無使用!などの表示はほとんど嘘っぱちの詐欺なのです。  今回のガイドラインは主にこうした不当表示を廃し、食品添加物に植え付けられた誤った印象を解消する狙いがあります。例えば、無添加!とだけ書かれていれば、騙されている消費者から見たら危険な薬品が添加されていない安心な食品に見えますが、何が添加されていないのか書かれていません。これまでは、元々使う予定のない添加物が添加されていなければ無添加と書けてしまいましたが、今回のガイドラインでは規制され何が無添加なのか書かなくてはなりません。また、保存料不使用!と書きながら類似薬品の日持向上剤を添加するような紛らわしい表示も禁止されます。他にも、そもそも使ってはならない薬品を使ってませんとわざわざ強調して書く事を禁じるなど、様々な詐欺的表示が規制されるようになりました。  こうした詐欺も、食品添加物が危険だという誤ったデマが広く流布されているから起きるのです。正しい科学知識を広めていくことが、被害者を減らすためには必要と言えるでしょう。

アファーマティブ・アクション

 某ウヨク作家のマンガで表現の自由を規制する悪人が使う技の名前の一つが「アファーマティブ・アクション」だった。これは割と冗談ではない話で、彼らが言う「表現の自由」とは実は表現の自由ではなく強者による弱者の圧殺であることを物語っている。  アファーマティブ・アクションとは何か?直訳すれば肯定的処置となるが、差別の解消を目指して被差別層に様々な便宜をはかることだ。例えば性別や人種などに対して社会の構造的な差別がある場合、被差別集団は十分な教育が受けられなかったり経済的に苦しい立場にある為に、社会において力を持てずに構造的差別が再生産され被差別集団は不当な弱者であり続けてしまう。こうした構造を覆すには機会が均等なだけでは元からの条件が悪い被差別層には不利であり平等とは言えない。だから、機会ではなく結果が平等になるようにするのがアファーマティブ・アクションだ。例えば黒人差別が根強いアメリカの大学入試においては、受験者が黒人であるだけで点数が加算され合格しやすいようになる。こうして社会で力をもつ黒人が増えれば構造的な差別は徐々に解消されていくことが期待される。アメリカでは現在でも黒人への差別は続いているが、アファーマティブ・アクションが始まった1960年代と比べると大きく改善している。構造的な差別が解消されてくれば、不利益を被る側の不満が強くなりアファーマティブ・アクションは緩和される社会的圧力が生じる。実際に、カリフォルニア州では黒人に対する受験での加点は終了している。  これに対して日本では、女性の受験者を減点して差別を推進する医科大もあった。就職や昇進に関しても不透明な基準で女性が不利益を被る例も多い。まず機会が均等になるだけでも日本では進歩だと言えよう。こんな状況だ。冒頭のマンガでもあったが、日本では右派に限らずにアファーマティブ・アクションには否定的な人が多い。彼らがこれを否定する根拠の一つに、アファーマティブ・アクションを行うことは最良の結果につながらないというものがある。  例えば、入試における女性差別では女性受験者の点数が減点されていた訳だが、女性だからといって減点するなという意見まではそこまで反対する人はいない。一部の差別主義者は女性の減点は当然であるとまで言っていたがまあ少数派だ。現在は女性に対する減点はほぼ解消され、令和3年度の医学部受験では男女の合格率

感謝の言葉

 布施とは自らの執着を捨てる修行である。お金なり物なり笑顔なり優しい言葉なり労働力なり、それらを送った相手からの見返りや感謝を期待したのならば布施ではない。  もし、商売や打算で何かを相手にしてあげたのなら、その行為が有効だったかどうかが主たる問題だ。相手が礼を言ってくれればありがたいことだが、礼を言われなかったとしてもどうという事はない。  もし、もしだ。もしかして相手に礼を言わせるために何かをしてやったのなら、相手が礼を言わなかったことに対して「なんで礼の一言もねぇんだよゴルァ!」と詰め寄って、礼を言わせるという目的を達成する方法論もありうるのだろうと推察するが、そんな無理やり礼を言わせる行為になんの意味があるのだろうか?礼を言われたくて何かをしたのに礼を言われなかったのなら、相手を無礼となじるのではなく自らの不徳を恥じるべきだろう。相手が礼を言うに値しないと判断しているのに恫喝して礼を言わせても反感と不信を招くだけだ。  みなさん、読んでくれてありがとう。

昭和天皇

 4月1日に公開されたウクライナの対露戦支援の呼びかけ動画に、先の大戦のファシストの象徴として、ヒトラー、ムソリーニに加え昭和天皇の写真が使われていた。これに対し日本国内から反発がおき、外務省からもウクライナ政府に対し正式に抗議したところ、昨日、当該部分の写真は前二者のみとなりウクライナ政府が謝罪するという事があった。  ウクライナは戦時中はソ連に属しており連合国からの歴史的視点では、昭和天皇は紛うことなき大日本帝国の最高責任者であるのだから、こういう動画が作られても不思議はない。だが、日本側の立場とすれば、戦後に臣下の者達が文字通り命を捨てて陛下への責任追求を回避させたのであり、そのナラティブをひっくり返されては困る。この考えに日本国民の全員が賛同している訳では無いが、戦後からほぼずっと昭和天皇に戦争責任なしとする政党が政権与党をつとめてきたのであり多数派だと言えるだろう。日本政府がウクライナ政府に抗議したのは妥当だ。  昭和天皇がファシストの首魁のように扱われた事に不満をもった日本人は多かったが、ざっと見たところは高齢者と若者で怒りのベクトルがちょっと違ったように思われる。若者は人間としての昭和天皇に失礼だろうというものが目立つが、高齢者が問題にしているのは主に国体だ。  日本国憲法においても天皇は日本国の象徴だが、これは国体思想の現代語訳としては分かりやすい。つまり天皇にケチをつけるのは日本にケチをつけるのと同じであり、天皇=日本なのだ。  国体は使う人によって意味が変わると言っても過言ではない漠然とした概念だが、共通している考えは、日本というのは天の神の子孫である天皇が中心となって大家族のような国を形成しているというものだ。だから天皇なしに日本は成り立たないというのが基本的思想だ。  宗教的に見た場合も、天皇陛下は皇祖神と一体化した神であり、しろしめすべき国土日本をその神性の中に取り込んでおり日本そのものでもある。だから、もし今、日本国民の誰かが死んでも、明日も日本は日本であり続けるが、もし天皇陛下と天皇になりうる皇族が何らかの理由で全滅すれば、その瞬間に日本は滅びる。仮にそうなっても、国土と国民がいれば実務上も国号上も日本は残るだろうが、それは正確には日本ではなく日本によく似た別の何かという解釈だ。  人間宣言はしたものの昭和天皇は国体の中心概念たる現人神

現実と虚構の区別

 世の中には現実と虚構の区別がつかない人が決して少なくない。映画やドラマの役の演技をみて、それを演じた俳優も同じだと思ったり、お笑い芸人たちが日頃から舞台のノリで生活していたりと思ってしまう人達だ。また、明らかな作り話である陰謀論を盲信して社会の秩序を脅かす輩も多い。  そういう現実と虚構の区別がつかない人達から人生を破壊された人も多い。リアリティーショーと称する他人の生活をのぞき見する体のテレビ番組に出演していた女性のプロレスラーが虚構と現実の区別がつかない視聴者からの嫌がらせで自殺に追い込まれた事件は記憶に新しい。加害者側でも例えば荒唐無稽な反ワクチン陰謀論を信じて犯罪行為にはしり逮捕され社会的信用も失う者がいるが、彼らとて誰かに騙されたのであり被害者でもある。  リアリティーショーや陰謀論を説く書籍などのデタラメをあたかも真実であるように誤認させ人命や他人の名誉を傷つけたり社会の脅威となる情報を、儲かるからと売り続ける企業には然るべき行政処置が可能となるような法の制定が望まれる。  また、こうした危険な情報を、広告費欲しさに掲載し続ける新聞社や出版社は特に酷い。これら新聞各社は紙面では正義を説きながら、広告欄では危険なデマや人権蹂躙やレイシズムや性的搾取を讃える。新聞社は昔から利益のためなら何でもする倫理なき組織であり、仮に日本が独裁国となれば独裁者を礼賛する記事で溢れかえる事だろう。  現実と虚構の区別がつかない人間はそこかしこにおり、彼らの盲信は多くの悲劇を生み出す。彼らを守るためにある程度のレギュレーションは必要だろう。特に彼らを騙し利益を得ようとする詐欺師たちには厳罰を求めたい。

子供への暴力

 大人による子供への暴力は実子や養子への物が大半だ。そして、これらは隠蔽を図られる。転んで怪我をしただとか、目を話したスキに熱い風呂に転落したとか、言い訳は様々だ。  だが、世の中には子供への暴力を良いことだとしてわざわざ自ら記録をとって公開するものまでいる。近日、世間を騒がせている映画撮影時のメイキング画像では、リアルさを出すためにとプロデューサーらが子役を何発も殴り、結果としてよい表情が撮れたという自慢話をしている。つまり、この監督は子役に恐怖や緊張のリアリティがある表情を作らせるために殴ったのを悪いことだと思っていないのだ。  映画界をはじめ、中高の部活では指導と称する暴力は今でも行われている。熊本の高校でもサッカー部コーチによる生徒への殴る蹴るの暴行が動画撮影され告発されたが、その後、驚くべきことに学校制作による加害者擁護の動画が公開された。そこでは生徒らが並ばされて、日常的な暴力は無いとか、自分たちがコーチを馬鹿にしたのが悪かったのだという風に言わされている。  さらには、中学生女児を妊娠させた政治家までおり、しかも、その政治家は子供を妊娠させるのは悪いことではないとまで言い切っている。  これらは明らかに日本も1994年に批准している「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」に反する。子供には、育つ権利、暴力や性的搾取から守られる権利、意見を表す権利などがあり、当然これらの権利は守らねばならない。人道的にはもちろんだが条約を批准しておいて無視はありえない。    日本ではしつけと称する子供への暴力や性的搾取が目立つ。日本が子供の人権侵害に対して国際的な非難を浴びた時に、何が悪いと居直る人も多いが、一度くらいは子どもの権利条約を読んでほしいものだ。 以下、外務省の「児童の権利に関する条約(全文)」のリンク https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html

アースデイ

 今日はアースデイです。ですが、世間はあまり盛り上がっていません。今日も今日とて大半の人は環境問題には無関心だし、少数の温暖化を否定する陰謀論者も跋扈しています。  戦争などの即時的に命に関わるリスクが目の前にある時、地球温暖化等の問題が後回しになるはやむを得ないでしょうが、出来る範囲での努力は続けるべきです。  人間が地球環境を守ろうと言う時は、結局のところ人類に都合の良い環境を守ろうと言っているだけだとの批判や、人類が自らの行為で環境を破壊し滅びようともそれもまた自然だという意見もありますが、人類が人類の生存を考えるのは当然です。  人類が地球で生活している以上は、地球の環境問題は人類の生存と切っても切り離せない問題です。生物多様性や持続可能性の維持することは、霊長よと思い上がった人間が動植物を保護してあげて彼らの生存環境に配慮してあげる慈善活動ではなく、人類の生存の為なのです。  とはいえ自然や生き物が好きな人の一部は、自分の利益とは無関係にでもそれらを守ろうとするでしょうし、それはそれで良いことですが、人類よりも環境を優先される思想は環境保護の為ならば殺人や傷害をも肯定する環境テロリストを生む原因ともなり注意が必要です。  まずは、家族や友人のためと思ったほうが環境保護活動にも気合が入ると言うものでしょう。あまり盛り上がっていないアースデイですが、誰かの環境問題を考える切っ掛けになればそれはそれで良いことだと思います。

他人の正義を理解しても共感する必要は無い

 色んな争いごとが起きた時に一部の識者から賢しげに説かれるのは、戦いは両方とも自分が正義だと思ってやっている、というものだ。これは相手側の正義にも耳を傾けて争いを止めようという文脈で使われることが多く、つまり、世間的に悪とみなされる人や集団に対して寛容な態度の人がよく使う論法だ。  もちろん、揉め事の交渉において相手の言い分を吟味するのは必要不可欠であり、相手方が何を正義と思ってやっているのかを理解することは大切だ。だが、それに共感や同意を示すかどうかは全くの別問題だ。  例えば、某陰謀論集団のように、この世は謎の宇宙人や超常的な存在から支配されていて人々は洗脳されているという誤った妄想に取り憑かれた人々がいる。彼らは自分達の仲間を目覚めた人とかと言って他者へ危害を加える。これが彼らの正義だ。この場合に必要なのは、彼らの正義の内容を理解し対策を打つことであり、うんうんそうだね悪い宇宙人が陰謀を巡らせている可能性も否定できないよねと寄り添い、じゃあ目覚めてない人の半分を殺すことで手打ちにしましょうと妥協案を出すことではない。これは、何某民族なんて本当は存在しないという妄想の元に侵略戦争を仕掛ける独裁者や、自分が気持ちよく映画を作るためにスタッフに対するあらゆる暴力や性的搾取は認められるという監督の正義でも同じことで、彼らの個人的正義はあくまでもそれがもたらす社会的脅威への対抗策を考え実行するために理解されるべきもので、共感する必要はないし同意してはならない。  一方で、お腹を空かせた孤児が店先から食べ物を盗んで周囲の大人たちから殴る蹴るの暴行を加えられるような場合は、孤児の生きる残りたいという正義に対して理解と共感を示すべきだし、大人たちの窃盗は許さないという正義は過剰であると嗜めるべきだ。再発防止として然るべき施設に保護してもらうなどの対応が妥当だろう。しかし、この場合それが可能なのは十分な食糧がある場合の話であり、飢饉で多くの人が餓死しそうな状態ではそうもいかないだろう。人が倫理的でいられるためには社会が豊かで安定していなくてはならない。そのためにも、極端で社会の安定を脅かすような個人的正義はその考えを理解した上で、対策せねばならない。

吉野家の生娘シャブ漬け戦略について

 牛丼の吉野家の伊東正明常務が解任された。早稲田大学で行われた社会人向けの講義で「生娘をシャブ(覚醒剤)漬けにする(経営)戦略」を説いた事が原因だ。若い娘を覚醒剤中毒にして性風俗店で強制労働させるのはヤクザ映画などでおなじみの手法であり、その行為を自社の戦略名にしたのだから解任も当然だろう。ここは吉野家の迅速な判断を評価したい。  さて、伊東氏が語ったところの生娘シャブ漬け戦略とは、ロクな物を食べたことが無い上京したての田舎娘が男から美味しいものを奢ってもらうようになる前に吉野家を利用してもらい、リピーターになってもらおうというものだ。この戦略の要点は主に2つあり、一つは牛丼店を利用することが少ない女性をターゲットとしたこと、もう一つは他の美味しいものを食べたら牛丼なんて食べなくなるから先手を打って行こうとするものだ。つまり、伊東元常務は、自社の製品を通常なら食べられない不味いもので何かしら中毒性を持たせないと売れない商品だと認識していたことになる。  また、伊東氏は田舎娘はロクな物を食べたことがないとの認識だが、費用対効果の面では東京より田舎の方が美味しいものは食べられる。また、女性が男性に奢ってもらってしか美味しいものを食べられないというのも酷い偏見だ。顧客拡大のターゲットを女性にしようというのはさほど的外れでは無いが、その方法や前提が全くもって無茶苦茶だ。  だから解任されました。で、一段落する話かと思っていたら、意外なことにネット上ではこの「生娘シャブ漬け戦略」を支持する人が散見された。  擁護論者曰く、表現方法が「少し」おかしかっただけでこんなに叩かれるなんて可哀そう、だとか、表現はおかしいが内容はその通りであり言葉狩りだなどという意見がみられた。ちょっと本気で何を言っているのか分からない。  だが、こちらが相手の言っていることが分からない時、恐らく相手もこちらが何を言っているのか分かってはいまい。説得や話し合いも大事だが、時間がかかる。もし、生娘シャブ漬けが許容可能な表現であったり田舎や女性への強い偏見を常識と考える人達が社会の中枢や権力を握れば被害はより拡大する。その意味では、危険思想の持ち主を素早く排除した吉野家は評価すべきであり、間違っても不買運動などしてはいけない。

表現の不自由展と表現の自由戦士

 2016年、日本国内で異民族への憎悪犯罪を助長するデモなどがあまりにもひどすぎるので、いわゆるヘイトスピーチ規制法が制定された。しかし、驚くべきことにヘイトスピーチも表現の自由だなどという抗議がおきて、罰則の無い骨抜きの法律となってしまった。  2019年、あいちトリエンナーレで「表現の不自由展・その後」が始まった時、その内容をみた世間はこの展示に猛批判を行った。この展示会はかつて展示を断られた芸術作品をあつめ、改めて展示する企画だった。こうした展示拒否が表現の自由に反するものだとして、表現の自由の大切さを世に問う為に開かれた展示会だ。しかし、その内容は日本国憲法でも日本の象徴と定められている天皇陛下(昭和天皇)の写真を焼き足蹴にする動画などであり、日本人に対するヘイトクライムと言っても過言ではない内容だった。市民からの猛烈な抗議を受けたこの展示会は期間を短縮して中止となった。先のヘイトスピーチ規制法は日本人へのヘイトクライムは対象外ではあるが、法が制定された理念からして展示会の中止は妥当だろう。  元より日本では表現の自由は無制限では無い。侮辱や殺人は刑法でその表現の自由を規制されている。法と秩序と治安を守るために一定の規制は当然だ。    しかし、無制限の表現の自由を求める表現の自由戦士とも呼ばれる過激派が世間に跋扈している。人種や民族や性別に対する差別はもちろん性的搾取や人命に関わるデマや誤情報も一切の規制を加えてはならないとして、それに反対する人達に攻撃や嫌がらせを続けるフーリガン達だ。どうやら、過激な表現の規制を訴えることは表現の自由には含まれないらしい。彼らは18世紀に活躍したフランスの哲学者ヴォルテールが言ったとも伝えられる 「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を金科玉条かの如く仰いでいるが、ヴォルテールはユダヤ人差別主義者でありこのセリフは昔から差別主義者が自分の説を封じられないために使う言い逃れに過ぎないのかも知れない。もっとも、この言葉自体ヴォルテールのものではないとする説も有力だ。  この表現の自由戦士らが声高に表現の自由を叫ぶのは主にマンガやアニメでの性的表現に規制がかかろうとする時だ。これは実に明白であり、カルト宗教を告発するマンガがその宗教団体の圧力で潰された時に彼らはほとんど動いてい

日本の社会活動とレイシズム

 社会活動は良かれと思ってやっている人たちが大半であろうが、中には偽装したレイシズムも存在する。悪事をやらかしてしまった国家に対する抗議活動においては、しばしば当該国民に対する民族差別が生まれる。  例えば、プーチンの戦争に関してもロシアに対する抗議とか義憤などと理由をつけて、在日ロシア人が迫害されたり、ロシアの曲の演奏会が中止になったり、ロシア語の案内表示が取り外されたりなど、本来標的にすべきでは無い人や物が攻撃されている。ロシアに対する報復感情が行き過ぎたのだろうが、レイシストが乗っかって騒いでる場合もあるだろう。  同様の事は、対アメリカでも、対中国でも、対南北朝鮮でも、その他あらゆる国や地域の問題で生じる。その国の問題点に抗議するのと、その国の人を差別するという結論が先にあって何かしら問題を探すのは、実際にとる行動が似ていても全く別物だ。  しかし、日本国内において、この被害にもっともさらされているのは実は日本人かも知れない。他国と同様に日本にも多くの社会的な矛盾や理不尽が存在しており、それらをただすのはよいことだ。だが、日本に問題があるのは日本人が劣等民族だからだという結論に導こうとして、社会問題の解決を目指すのではなく問題を日本人を攻撃する材料とする人もいる。著しくは捏造された偽の情報が日本人へのヘイトに利用された場合もあるので油断ならない。  そして彼らの存在は思わぬ二次被害を生む。日本をより良くしようと社会活動を続ける人たちまでも、こうしたレイシストだとの誤解を世間から受けるのだ。こうした誤解は極右集団が社会活動家への攻撃を正当化する口実としても利用される。  トランプ前大統領支持者の一部に見られる陰謀論史観をそのまま支持する日本の極右には特にこの傾向がある。彼ら陰謀論者は、地球温暖化対策を訴える活動家には日本に被害を与えるために嘘をついているなどと言い、ジェンダー問題や性犯罪対策を扱えば少子化を推進するとか本能の否定だとか言って性犯罪を擁護するし、ヘイトスピーチ対策をとれば表現の自由を侵害したと騒ぐのだ。そして、日本や世界を良くしようとして活動する人達に反日なる謎のラベリングをするのだ。  結局の所、愛国を叫ぶ極右が日本の改革を阻害し続け、結果として日本人へのヘイトを煽るレイシスト達の手助けをしているのは笑えない冗談だ。

太陽光発電パネルと奴隷労働

 アメリカでは既にウイグル人の強制労働で作られた中国産の太陽光発電用の素材は輸入禁止となっている。人権を考慮すれば当然の処置だ。EUも中国との投資協定を凍結するなどの制裁を課している。今のところ日本は何もしていない。  人権意識に乏しい日本政府と経済界は当然のようにウイグル人の奴隷労働を利用して中国から格安の太陽光発電パネルの輸入を続けている。日本人の倫理観の荒廃が嘆かれる。  どのみち、今の時点で太陽光発電は効率的ではない。実用レベルに至るにはまだ数年の余裕はあるだろう。人権蹂躙に加担して安い品物を買うよりは独自開発に注力すべきだ。  電気の生産が自然任せとなる再生可能エネルギーは、需要とのマッチングが難しい。余った電力で一度水素を生成させて、電力の欠乏時に水素を燃料とした発電に使うなどの需給を調整する仕組みや施設を作っておかないと役に立たないと言って良い。しかし、エネルギーの供給は喫緊の課題であり、どのみち再生可能エネルギーの利用拡大は間に合わない。地球温暖化の問題も考えれば当面は二酸化炭素の排出がない原発の利用を増やすのが妥当だろう。もちろん、原発にも問題はあり、新規の発電技術の研究開発は続けるべきだ。その内の一つとして、燃料輸入の影響を受けにくい再生可能エネルギーも大切だ。だが、それを理由に人権を蹂躙して緊急に中国からパネルを購入しても無意味ばかりではなく有害だ。  法と正義を守ることは国家の信用に関わり、安全保障にも寄与する。国際法と正義を無視し、中国の奴隷制度と独裁ファシズム政権を支持する日本政府と経済界は一体何を考えているのだろうか?  

お気持ち

 小生が若い頃と比べて「お気持ち」という言葉の意味はだいぶん変わっており、昨今ではヤクザのように、自分が嫌な思いをしたとして相手に無理難題をふっかけることを「お気持ち」と呼ぶ場合も多いようだ。  大きな価値観の相違がある集団が同じ社会にいるとき、必然的に対立が生じる。対立は、戦いと妥協を重ね共存できる状態で安定するか、片方が滅び去るかして安定する。そして、安定しているように見える社会でも、対立は常に生まれ続けるので、社会から争いが消えることはない。  もし、ある社会問題に関してのマジョリティが圧倒的に強く変化が起きない状態であれば、対立も起きないのだが、そうした状態では実は多くの抑圧された人間が苦しんでいるのが常だ。そしてマジョリティの力が弱まった時、かつて抑圧される弱者だった人々の不満が表面化して争いが生じる。  社会の常識は結構めまぐるしく変わり、いつの世でもその変化について行けなかった者は古臭い人間として叩かれる。その時代時代の社会常識に挑むそれまでの弱者たちは自分達の気持ちも分かってくれよと訴えるのであるから、旧体制を守ろうとする者たちから見ていわゆる「お気持ち」の形になるは当然であり、何か不満を訴えている人がいる時に「お気持ち」であると感じたのであれば、まずその訴えている気持ちが本当に理不尽な物なのかどうかは慎重に吟味しなくてはならない。  痴漢の問題もそうだ。昭和時代でも問題にはなっていたが、当時は今と比べて痴漢に対する法的社会的な対処は極めて軽かった。高齢者の中には挨拶のように痴漢行為をする人がいるが、恐らく彼らは何が悪いのかを理解していない。圧倒的な男社会だった昔は、痴漢行為を含めて女性からの性的搾取は事実上容認されていた。しかし、ここ30年ほどで、その常識は失われ、今や痴漢の犯人は法的に取り締まられるのはもちろん社会的にも抹殺される。今でも女性の約半数は痴漢被害の経験があるという。ざっと見積もって人口の25%ほどが被害者だし、その家族も入れれば恐らく被害者の方が人口的には多い。社会の常識が変わった今、彼女らが痴漢を是とする人たちに抵抗するのは決して「お気持ち」ではない。逆だ、既にマジョリティは入れ替わっている。今でも痴漢を賛美する人間は早めに考え直した方がいい。

聖職者のセクハラ・パワハラ

 日本の映画界での組織的なセクハラ・パワハラに対する告発に続いており、文芸界からも告発が出てきた。さて、日本の宗教界でも怪しい新興宗教にとどまらず、昔からキリスト教や神道や仏教の聖職者がたびたびセクハラ・パワハラで告発されてきた。告発可能な環境にあったのは隠蔽体質の業界よりはマシかも知れないが、ずっと体質が改善されていない事も意味する。もっとも、仏教の戒の内容を考えればこうした問題は2500年前も変わらずあったのだろう。放置すればセクハラやパワハラにはしる人を押し留めようとしてきたのが宗教であったのだとも言える。  そう考えると、長年の努力にも関わらず人類はセクハラ・パワハラを続けてきたことになる。しかし、その努力は無駄ではない。何もしなければ状況はもっと悪かったことだろう。実際に、セクハラとパワハラが完全には無くならなくても、近年の先進国では確実に少なくなっている。パワハラの極である奴隷制度や、セクハラの極である人身売買を伴う売春業が合法な地域は今や一部テロリストの支配する地域のみだ。先人の努力には感謝したい。  だから、先人の努力を無駄にしないためにも不断の努力が必要なのだ。セクハラ・パワハラに対して宗教界をはじめ各業界は、加害者が仲間だからと庇い立てすること無く公正に裁かれるように努力すべきだ。ロクな証拠もなく冤罪だと決めつけ被害者を嘘つき呼ばわりする人間があとを絶たないが、まずはしっかり調査すべきだ。もし冤罪だと言うのであれば、なおのこと堂々と調査に協力すればいいだけだ。不当に搾取される弱者を助けるのは菩薩道にもかなう。  セクハラ・パワハラを排除する流れが社会に起きている今、一気に社会を浄化し先人が果たしえなかった悲願を達成したいものだ。恐らく個別のセクハラやパワハラは無くならないだろうが、即時的にそれを取り締まる社会制度は構築可能だ。代々こうした社会の理不尽に挑んできた各宗教の聖職者こそ、率先して内部の膿を出し時代の先駆けとなって欲しい。

もしも社会福祉制度が無ければ

 ネットなどでよく見られる福祉不要論だが、とんでもない話だ。確かに過重な福祉は国庫を圧迫しうる。だが、弱者を助けることが無駄であり社会の負担だという意見は間違っている。社会福祉は単なる慈悲ではなく、安定した社会の維持の為には必要不可欠だ。  もし、社会福祉制度がなければ、老衰や怪我や病気で介護が必要となった場合に生活の質を保って生き残れるのはごく少数の富豪のみとなる。小金持ちでも生存は可能かも知れないが、国民の圧倒的多数である貧乏人は苦しみながら死ぬしかなくなる。そのような状況では、貯金をする余裕がある人は介護に備えお金を使わずに貯め込むようになって景気は減速する。また、経済的に余裕がない人は刹那的となり犯罪が増加するだろう。福祉は富の再分配の意味もある。そして、福祉制度が整っている安心感があるから国民は安心して働ける。要介護者は納税者の負担だから殺せなどという思想が支配的な国では社会も荒もう。実際に弱者を標的とした殺人事件がおきると福祉不要論に基づき、殺人犯を褒め称える人が出現するが彼らは非道徳的であるだけでなく、福祉がなくなることによる社会の負担を何も分かっていない。  先日、デイケアサービスで利用者に古典などを学校の授業風に教える取り組みが紹介されたところ、認知症の老人に無駄な税金をつぎ込んだとして烈火の如く怒る人達がいた。彼らは何か勘違いしているようだが、デイケアで経営者が学校風のサービスを提供しても介護保険で認められる単位数までしか公的資金は支出されない。あとは利用者の手出しであり、高額なサービスをわざと利用させて補助を多くもらうことは不可能だ。また、利用者の注意が一点に向く授業形式は安全管理の面でも優れている。もちろん、利用者の満足が第一であり人気を博しているのなら続けてよいだろう。そもそも認知症と言っても程度には大きな差があり、この取り組みに文句を言っている人らは、何も分からぬ寝たきりの重症の認知症患者を想起しているのかも知れないが、軽度の認知症なら人間らしい生活は可能であり福祉の精神からは生活の質をなるべく保つように努力すべきだろう。

オクラホマの中絶禁止法

 2022年4月12日、アメリカはオクラホマ州で前代未聞の中絶禁止法が可決された。それは妊娠の週数に関係なく、母体保護のため緊急を要する場合以外の全ての妊娠中絶を禁止するというものだ。この中絶禁止には強姦による妊娠も含まれる。母体に危険があっても緊急性がなければ中絶できないのなら、事実上完全な中絶禁止と同義だ。  これは週数の制限も撤廃されたという意味で、去年9月から施行されているテキサス州の中絶禁止法よりも徹底している。なお、避妊薬の使用までは認められている。罰則も中絶を行った医師に禁錮10年以下の懲役か10万ドル以下の罰金あるいはその両方が課せられる。これで中絶をしようとする医師はいまい。  つまりオクラホマ州では、健康状態から妊娠の継続に不安があっても、強姦の結果出来た子でも、経済的に出産が困難な場合でも中絶は認められない。中絶が合法な州の病院にいける金銭的余裕がある人間はまだ良いが、貧困層が中絶せざるを得ない場合は一般の医療にアクセス出来ずにリスクが高い非合法施設での手術や投薬を行うか、諦めて高リスクの出産をするしかなくなる。  このような非人道的法律が成立したのは、アメリカ南部を中心に広がるプロライフ派と呼ばれるキリスト教原理主義思想の影響が強く、反ワクチンなどの非科学的カルトとも親和性も高い。彼らがアメリカに政治に強い影響力を持ち始めているというのは由々しき事態だといえる。類似の中絶禁止法はテキサス、ミシシッピ、アリゾナ、アイダホ、そして今回のオクラホマで成立しており油断ならない情勢だ。

邦画界の暴力

 ここ2週間ほど邦画界の不祥事が次々と明るみに出ている。映画監督を頂点とした暴力と権力による職場の支配構造と、それを利用した女性への組織的な性的搾取と奴隷化が現代社会において当たり前のように行われていたという事実は驚愕に値する。  2017年に盛り上がった#MeToo運動は、日本にも波及したがこの時は、企業内のセクハラや個人の写真家などが糾弾されたものの、組織力が固い映画界は内部事情の隠蔽に成功した。  5年前でも、一般企業は実質的にどうかは別だがコンプライアンスの遵守が建前となっていたし、写真家など個人でやっている人は代わりがいたから比較的浄化しやすかったのだろう。しかし、高度に組織化されたムラ社会を形成している映画界では、内部の犯罪を暴露すれば明日から仕事が無くなるかも知れないし、直接的な暴力にさらされる恐れすらあった。  今、勇気をもってこの事を告発し始めた俳優やスタッフたちを世論が守らないと、映画業界はまた同じことを繰り返すだろうし、告発した被害者らは業界の裏切り者として攻撃されかねない。  ハラスメントが告発された時に、加害者を擁護し被害者を蔑む人達が大量に現れる。これはハラスメントは基本的に権力を持つ人が加害者であり、加害者が今後も安泰だと思う者がゴマをする為に加勢するから起きる現象だ。こういうゴマすり人間は逆に加害者の失脚が間違い無しとなると自分と加害者の関与を否定するために激しい攻撃を加害者に加える。大変に胸糞の悪い話だが、被害者を守るためにはゴマすり人間達に加害者は失脚するのだと信じてもらう必要がある。  こうしてハラスメント加害者が失脚すれば今後のハラスメントの予防にもつながるが、加害者が勝ってしまうと、これくらいのハラスメントは社会的に許容されるという悪い前例を作ってしまう。だから、決して今回の邦画界の暴虐は許してはならない。そうしなければ日本映画に明日は無い。

敵は全て鬼畜なのか?

 意見が対立した相手を評する場合、話を盛って批判する人がみられる。そんな酷いことを言う人はきっと他にこんな酷いこともしているに違いないとかならまだマシな方で、証拠もなしに他にこんな酷いことを言ったりしたりしていると断言するし、主語がデカイ。だいたいは意見が対立している他人全員がそうだと主張する。  そんな馬鹿な話は無い。誰かと一つの意見が自分と違えば、他の全ても自分の気に入らいない意見をもっているなんてことはありえない。  なぜ、こうしたことが起きるのか?結論から言うと怒りのままに相手を叩きたいからだ。相手に交渉の余地があっては思いっきり殴れない。だから敵は話の通じる人間ではなく鬼畜でなければならないのだ。  こうした問題は白黒がはっきりつく自然科学の分野においては起きにくい。もちろん、片方が科学の話をしているのに、もう片方が妄想を語っている場合はその限りではない。  例えば、反ワクチン陰謀論の人は、ワクチンの効果を正しく説明する医者に対して、こんな怖いワクチン接種を薦めるお前は悪の秘密結社の構成員で人を殺そうと企んでいるのだなどと意味不明の指摘をして全否定にかかる。  いわゆる表現の自由戦士と揶揄される人達も同様だ。レイシズムやミソジニーに基づく正視に耐えない恐ろしい著作物の流通に対しても一切の制限を加えてはならないとする彼らは、反対する者を画一的な悪魔に落とし込もうとする場合が多い。以前に販売されていた歴史学的に明らかに間違っているユダヤ陰謀論の本が出版社により自主回収された時も、言論の自由に反すると主張し、この弾圧こそ陰謀が存在する証拠だなどと馬鹿げた事を言っていた。同様の事例は枚挙にいとまがない。その妄想はもはや手に負えない。  一方で、軍事的侵略を受けた国の国民から見て敵が鬼畜に見えるのは、侵略自体が鬼畜的行為なのであながち間違いとも言えない。しかも、侵略国の指導者も相手こそが酷いことをしているのだというデマを侵略軍兵士に信じさせる。そうでないと人を殺せないからだ。こうして戦争は行き着く所まで終わらなくなる。戦火を交えぬ平時の争いも、戦争のような側面はあり、無理筋を通してきた方が無茶苦茶な理屈で相手を悪者にしたてて叩くのだ。

日本維新の会さすがにヤバい

 日本維新の会がおかしい。いや前からだろうとの総ツッコミはあろうが、流石に限度というものがある。鈴木宗男がひたすらにロシアのプロパガンダを再生産している時点で許し難いし、元党首がウクライナ人の犠牲者を侮辱する発言を繰り返しているのに党内から批判の声も上がらないのも非人道的すぎる。だが、今度のはあんまりだ。  日本維新の会総務会長柳ヶ瀬裕文が、反ワクチン陰謀論者の野中しんすけと宮沢孝幸と一緒にワクチン後遺症について語ったYoutube動画を配信している。しかも、政党からは何の処罰もない。信じれば人命が失われる誤情報を広める政党など存在してはならない。  他にも多数の維新の会の議員が似非科学や陰謀論に加担していると伝えられる。もはや政党としてのガバナンスは存在しない。  個人的には、政党ではなく政治家を見て投票しましょうという立場をとっていたが、この状況では維新の会所属の政治家というだけで信用するに値しないと言っても過言ではない。とにかく、ありとあらゆる選挙で維新の議席が一つでも減るように働きかけていきたい。

人語を話すヒグマ

 人気のない夜道を歩く女性に走って逃げられた事はある男性は多いだろう。殆どの場合、男性はただ歩いていただけで何もしていないしする気もない。そうした経験をした男性が、自分を犯罪者のように見るとはなんて失礼な女だなどと言う例もあるが、別に失礼でもなんでもなく当然の事だ。  確かに殆どの男性は人気のない夜道で女性が歩いていても何もするまい。だが少数は違う。平均的な体力差であれば、目撃者がいない状態で男性が女性を殴り倒し金品を奪ったり、著しくは誘拐、強姦、殺害することはたやすい。夜道で後ろに見知らぬ男性がいた時に、走って逃げる女性がいても別に責められるべき話ではない。  治安が良くなった現代ではそうでもないが、昔は女子が夜一人で出歩かないように教育されたものだ。なるほど安全確保のためには必要な処置だが、女性の自由は制限される事になる。  先日も、女性が一人で切り盛りする小さな店に、男性が居座りブツブツ独り言を呟きながら他の客に迷惑をかけた上に、店主が迷惑を指摘すると激昂してその後も嫌がらせを続けるという事件があった。このような事例は厳しく取り締まらないと、女性はおちおち起業も出来ない。この時も、この男性はあたかも自分が怖い人間であるかのように扱われたことに不満を表明していたが、普通に怖い。  騒ぎすぎだと言う男性は、自分の生活環境に突然、人語を話すヒグマが現れたと思えばいい。職場を唸り声を上げながら徘徊するヒグマに勇気を出してお引き取り願うあなたは、ヒグマから自分が何かするとでも思っているのかと恫喝され、その後もつけ狙われるのだ。弱者への配慮を失った強者は存在自体が既に暴力だ。知識の面でも体力の面でも強者には高い倫理性が要求される。弱者を恫喝し搾取をする自由は表現や言論の自由ではない。

花まつり

 今年も花まつりがやって参りました。歴史学的に正しい人たちからは批判されるかも知れませんが、日本ではお釈迦様の誕生日は4月8日だった説が主流ですので普通にお祝いしていただいて結構です。メリー花まつり!  花まつりではお釈迦様が誕生した時の姿を模した仏像に甘茶をかける風習がありますが、これはお釈迦様の誕生を龍王が祝して甘露の雨を降らせたという伝説に由来します。  この甘茶はアジサイ科の植物であるアマチャの葉から作られるもので、独特の風味と甘さがあります。甘茶は基本的には安全ですが、厚生労働省は濃く煮出すと中毒の可能性があるとして薄めに作るように勧めています。味的にも薄めの方が美味しいと思いますので、無理して濃く作る必要はないでしょう。なお、似た名前のアマチャヅルとは別物です。また、名前に茶は含まれますが、先述の通り原材料は茶では無くノンカフェインです。余談ですが、小生は甘茶じゃなく普通の抹茶を大量に飲んで(恐らくカフェイン中毒で)気分が悪くなったことがあります。何でも飲みすぎ食べ過ぎは良くないです。  日常では飲む機会の少ない甘茶ですが、お釈迦様に想いを馳せつつ時には味わうのも良いですね。喫甘茶去。

Aは批判するのにBを批判しないのはおかしいという文句

 Aは批判するのにBを批判しないのはおかしいという文句は、一見正しいように見えるがそうでもない場合が多い。  例えば、ロシア軍の残虐行為を批判する人に対してウクライナ軍だって残虐行為をしているのになぜそちらは批判しないのか?ダブルスタンダードだなどとする親露派の意見はよく目にするが、実のところ、大半の日本人はウクライナ軍側が酷いこと(捕虜を見世物にする、著しくは処刑する)をしたときはちゃんとウクライナに文句を言っているので、そもそもの前提が間違っている。圧倒的にロシア軍の残虐行為が多く大規模であるからそちらに対する批判の方が目立つだけだ。  また、風紀上問題がある図画を公に展示した時に集まる批判に対して、実際の性犯罪は批判せずに図画ばかりを批判するのは偏っているなどとも言われるが、世間的にみて実際の性犯罪の方が批判されているのは言うまでもない。こういう批判をしてくるのは概ね風紀上問題がある図画の作者やその愛好家であり、歪んでいるのは彼らの認知の方だ。性犯罪者に対する激しい批判により加害者は逮捕されたり社会的に活動できなくなることが多いので批判もそれで終わるが、図画の展示については意見の対立が長期化するので目立つというものあるだろう。だが、日頃は風紀を乱す図画に対して批判的である者が性犯罪をして反省もしない場合は、この批判は成り立つ。そんな時は犯罪者とその仲間に思い切り文句を言ってやるといい。しかし、この場合も多くの人は性犯罪者を批判しているのに、あたかも自分たち以外の大半の人が批判していないかのように一般論化するのはおかしい。  他には、日本の人権問題はすぐ指摘するのに外国の人権問題は無視するという批判も、前提から事実でない場合が多い。確かに少数の思想的な偏りを持つ人々は、彼らが影響を受けている特定の海外勢力だけには決して文句を言わないので、そうした人達にはこの批判も正当だが、大半の日本人は外国の人権問題に関しても心を痛めている。身近な問題の方が話題に登りやすく具体性を帯びている傾向はあるが、そこはやむを得ない話だ。そんな批判をされても殆どの人には逆効果だろう。  もし、Aは批判するのにBを批判しないのはおかしいという文句を言ってこられた場合は、少し我が身を振り返ってみて、それが言いがかりなら気にする必要は無い。

社会浄化の加速

 世の中にあふれる表現は、誰かにとって好ましいものでも他の誰かにとっては不快だ。同好の士が集まる閉ざされた環境では多少の事は問題ないだろうが、その表現が公的な場に出ると一気に紛争が起きる。一定の属性の集団が社会の圧倒的なマジョリティであれば、その嗜好が世の中にダダ漏れになっていても、それを良しとしないマイノリティの声はマジョリティがそれを認めない限り封殺される。だから、こうした好悪の対立が起きるのはある意味で、多様性を大切にしましょうという意見がマジョリティ化している証拠でもある。  しかし、噛み合わいない価値観の相手を攻撃しあいwhataboutismに陥ると、報復合戦となり社会の公なスペースで可能な表現の幅は著しく狭くなる。同時に、公には許容できない表現は増え地下に潜りセクト化する。いつでもどこでも本音で話す人間はいないように、建前で成り立つ社会が清く正しく美しくあるのは別に構わないし、それで平和が保たれるのならばそれは良いことだ。だが、それと引き換えに目に見えない部分の問題が拡大するのも、いつか大きな問題となり社会の表面に戻る恐れがあり困りものだ。  戦後日本の社会情勢の推移をみると、ほぼ一方通行性に浄化されており、その勢いは留まるところを知らず加速している。ある勢力が他の勢力の表現を規制すれば、当然ながら反撃もおきる訳でお互いにとって不快な表現を加速度的に奪っていくからだ。この勢いなら、そう遠からぬうちに、日本の社会からは不快な表現がほぼ根絶されるかもしれない。もちろん、途中でこの勢いは落ち着くかも知れないし、大きな揺り戻しがあるかも知れないが、傾向としては社会は浄化されていっている。  社会の浄化は息苦しい感もあるが、じゃあ昔みたいに犯罪が野放しだったころが良いのかと言われると違う。昭和の時代は、体罰や児童虐待や強姦は犯罪扱いにならない場合が多かったし、殺人事件も多かった。ヤクザの気に入らない家にはなぜかダンプカーが事故で突っ込んだりもしていた。企業や行政のコンプライアンスなんて言葉からして一般的では無かった。要するに割と地獄だった。治安は良いに越したことはない。喫煙者もパチンコ屋もだいぶん減った。個人的には随分と過ごしやすくなったと思う。  とはいえ過ぎたるは及ばざるが如しとも言う、社会情勢の変化には注意していきたい。

Books are burning.

 第二次世界大戦後の世界では、言論と表現の自由は特に大切にされてきた。これは、あの大戦争の発端が言論や表現を弾圧し世論を誘導したファシズム国家によって引き起こされたからだ。連合国側もやりはしたが程度の差は大きい。こうして、独裁者が恣意的に情報を統制するのが如何に危険かを身をもって体験したから徹底的にこれらの自由は尊重されてきた。それ以前でも、本を焼く者は次は人間を焼くようになるという19世紀に活躍した作家ハイネの言葉がある。この言葉は1992年にリリースされたイギリスのバンドXTCの曲”Books are burning.”でも用いられている。人間社会において、本は古くから知識と知恵の象徴であり、各国の支配者によりしばしば燃やされてきた。過去から現代に残る書物が凄いのは、様々な弾圧や、それぞれの時代の異なる評価に耐え、なお価値があるものとして生き残ってきたことにある。古代にだって今には伝わっていないつまらない本もあったはずだ。それらは書写されることなく消失していくし、何度焼かれてもその価値が認められた本は復活する。そうした歴史のフィルターによって淘汰されたものが古典なのだ。  しかし、最近では本を焼き人を焼くのは必ずしも権力者ではない。例えば、ここ3年で訪れた3つの世界的危機の黒幕たちもそれだ。一つはQアノンに代表されるようなネットの妄想的情報で動くテロ組織、一つはコロナ関係の陰謀論者、一つはロシアの侵略を支持するファシスト達、これらは世界に取り返しのつかない傷を与えたが、おかげで人類はその敵をはっきりと認識出来た。彼らは妄想を真実だと信じて、他の意見を暴力的に破壊しようとする。さらに、彼らが流す情報は、それを信じた人間やその人が所属する社会を危険に晒す。  昔は本を出版するのは大変だった。お金もかかるし、出版社から審査もされた。それが今では自費出版を扱う会社も増えたし電子書籍もある。また、情報を拡げるだけならSNSでも十分だ。少数の人間が大量に再生産する陰謀論は、多くの人のが支持する正論を情報量で圧倒することもあり危険だ。言論の自由も表現の自由も大切だが、無制限ではない。歴史的に焚書が否定されてきたが、それを実施した権力者の本を焼く自由や言論を弾圧し逆らうものを殺す自由など認められる筈がない。しかし、昨今ではレイシストや陰謀論者が、彼らが思うがままに他者を迫害でき

想像力の欠如と教育

 ウクライナを侵略したロシア軍が撤退した後の町や村で、多くの非戦闘員の市民が一様に後頭部を撃ち抜かれている。縛られた状態で撃たれた人もいた。この状況を見ても一部の日本人は戦闘に巻き込まれたのだから仕方ないとする人がいる。だが、ウクライナで死んだこれらの市民は決して戦闘に巻き込まれたのではない。単に市街戦に巻き込まれただけの市民が決まって後頭部ばかりを撃ち抜かれる訳がないし、わざわざ縛ってから撃たれるはずも無い。彼らはロシア軍の占領下で処刑されたのだ。明らかに戦時国際法に反している。  また、ウクライナから略奪されたスマートフォンや宝石類が多くベラルーシの市場に出回っていると言う話を聞いても、戦争だから仕方がないという日本人がいる。日頃から身につけて携帯していることが多いスマートフォンや、有事の際に持ち歩くことが多い宝石類が、略奪されたということは、空き巣に入ったのではなく直接人から奪った可能性が高いと言うことだ。奪われた側は果たして無事だろうか?  なんで、こんな簡単なことも想像できない日本人がいるのか?それは日本の教育に問題があるからだと思う。戦争はとにかく絶対悪であり悲惨であり語ることも考えることも許されないと言う風潮が日本の教育界では目立つ。だから侵略と自衛の区別もつかず、どっちもどっち論に行き着いてしまう。不幸にして戦争となっても最低限守るべき約束事があるのも知らないから、戦争だから仕方がないなどと言う無慈悲な言葉が出てくるのだ。  こうした日本独自の歪んだ戦争観は、世界中では日本だけが戦争を放棄した憲法を持つという神話に支えられているが、これも間違いだ。世界中の大半の国は戦争を放棄している。世界的な常識では戦争とは侵略者が始めることであり、戦争になるから自衛してはならないなどということはない。日本国憲法第九条の戦争の放棄は侵略の放棄であり自衛権を否定はしていない。元ネタとなった国際連盟の理念を考えれば当然だ。なお、国連憲章でも戦争は禁止されているが、これももちろん侵略の禁止であり自衛権は集団だろうが個別だろうが認められている。だから、日本国の戦争放棄も憲法第九条も、世界的にはごくありふれた普通のことであり、特別に日本が素晴らしいわけではない。世界中で日本だけが戦争を放棄したのだという妄想を根拠とした思い上がりで、左翼たちは諸外国を戦争を放棄していない蛮族よ

ロシア軍の住民虐殺

 ウクライナが首都キーウ(キエフ)に迫っていたロシア軍を撃退しつつある。これによりウクライナが奪還した地域の惨状が明らかになってきている。  ロシアの占領から解放された街には何百もの市民の死体が放置されていた。その多くは後頭部を撃ち抜かれ、縛られてから撃たれた者もいた。これらは誤射や戦闘に巻き込まれたのではなく、非武装の市民をロシア軍が処刑した事を意味している。また、道路脇に裸の女性4-5名がまとめて焼かれていた例もあった。何らかの理由で彼女らの身元を隠す必要があったのか、それともロシア兵による強姦の証拠を隠滅しようとしたのかは分からないが酷い話だ。ソ連の頃から何も進歩していない。また、キーウ方面へのロシア軍による侵略の起点となった隣国ベラルーシでは、ウクライナからの略奪品による市が立っているともいう。ロシア軍の士気は低いと聞いていたが、軍規も存在しないらしい。    この現実を前にしても、親露派のファシストたちは、戦争とは男は殺され女は犯され財産は略奪されるものだ、アメリカだってやっていると主張してどっちもどっち論に持っていこうとしている。確かに、アメリカの占領下でも米兵による犯罪行為は発生するが、例外的な事例であり犯人は概ね裁かれている。納得出来ない判決もあるが、ロシア軍とでは比較にならない。どっちもどっち論者は、シリアやジョージアでのロシア軍の悪逆非道ぶりと、アメリカ軍のイラク進駐とを比較して欲しいものだ。  この戦争、ウクライナからロシア軍を撤退させたとしても、ロシアの独裁制は続く可能性が高いし、ロシア軍も解体されないだろう。プーチンの第三次世界大戦になってもいいのかという恫喝に世界が屈して手を緩めれば、後日さらなる悲劇が世界を襲うだろう。侵略者への妥協は敗北と同じだ。悪しき前例を作れば真似をする馬鹿な国も出てくるだろう。だから、戦争が終結してもロシアへの国際的な圧力は続けるべきだ。そうでないと、虐殺されたウクライナ市民も侵略に抵抗して死んだ兵士たちも浮かばれまい。

善意と悪意

 もし、恐ろしい流行病があって、それに対する特効薬が出来たとする。ところが、その特効薬は実は毒薬だと信じてしまった人が、皆に薬を飲まない様に勧めてその結果多くの人が死んだとしよう。その時、もし薬を飲まないように勧めた人がもし生き残っていれば自らの過ちを悔やむに違いない。これは善意による犯罪だ。  もし、恐ろしい流行病があって、それに対する特効薬が出来たとする。この薬は毒だと嘘を言いふらせば、それを信じてしまった多くの人が病気に苦しみながら死ぬと理解した上で、他人の苦しみを楽しむ為に嘘を拡める人がいて、その目論見通り多くの人が死んだとする。その時、この嘘つきは大喜びで笑うに違いない。これは悪意による犯罪だ。  結果は同じでも、物事の正誤が理解できなかっただけの人には救いがある。真に恐ろしいのは人が苦しむ様を嘲笑い場合によっては収益を得たくてわざと誤った情報を拡げようとする人だ。そして、もっと恐ろしいのは、そのような酷いことをした人が、前者なのか後者なのか見分けがつかない事だ。  犯人の知能に問題があっても倫理性に問題があっても結果が同じならば、ともに社会の脅威だが、知的に障害がある人間を裁くのは果たして正しいだろうか?知的に問題があるとは言っても落ち着いて教えれば分かる程度の人が大半だ。しかし、そう考えると更に問題が生じる。教えても分からないレベルの人間なら、その無能さを理由に裁いていいのかということだ。また、倫理性の問題があっても是正可能だと考えるべきではある。結局のところ、性善説の元に更生を促すしかないし、人権に配慮した刑法ではそれが正しい。刑法に抵触するしないに関わらず罪を犯した人は更生させて社会に復帰させるべきなのだろう。  こうした犯人への対応は政治的には正しいのだが問題もある。例えば、人権に配慮した日本の刑法では、幼女を襲うような異常者が何度子供を狙った性犯罪を犯しても社会復帰し小学校の教師を続けられるし、警戒のために犯人の個人情報を行政が地域住民に周知する努力もしない。これは本当に正しいことなのか?知識の不足による問題ならば質問によりその理解は測れるが、倫理的に反省し更生したかは自己申告であり他覚的に測ることは出来ない。犯罪者の人権を過剰に保護するのは、被害者の人権の蹂躙であり、社会にとっては恐怖だ。現在の目に余る医療詐欺の跋扈も含めて、やはり一線を超え

家内安全の祈願

 よくある般若心経の写経のお手本には、最後に為の文字の下に願文を書くようになっているものが多い。  小生が初めて写経をした時に、ある種の修行として書いたお経に個人的な願い事を書くのは気が引けたので「世界平和」と書いた記憶がある。以後、大体の願文は世界平和だ。  しかし、写経でも加持祈祷でも良いのだが、別に個人的な願い事をするのは悪くない。まさか神仏に「強盗成功」とか「詐欺繁盛」を願う人はいまい。「病気平癒」だろうが「安産祈願」だろうが「心願成就」だろうが「家内安全」だろうが何かしら人が安らかな気分になれるよう祈るのは良いことだし「世界平和」よりも劣る願いでもない。  例えば、願文として最も無難なものの一つである「家内安全」は家族個々人の安寧やその関係性が良好であるようにと祈っている訳だが、自分の身内だけが良ければいいという貪欲ではなく、限定的な慈悲の心の発露とみるべきだろう。身内に感じやすい慈悲の心を体感出来てこそ、一切衆生に対する慈悲の心にも実感を持つことが出来る。逆に自分の親しい者にも慈悲の心を持てないようでは他人に対する慈悲を持つのは困難だ。  一方で、世の中には家族仲が悪い家庭もあるだろう。お互いに憎しみ合い殺し合っている一族で、もし「家内安全」を願うのならばそれは素晴らしいことだ。なかなかマネできることではない。               もちろん写経や加持祈祷をしたからと言って実際に何かしら超自然的な奇跡が起こることはない。だが、神仏に祈願した事をおろそかにはすまい。家内安全を祈ったからには、暴力やハラスメントを家族に向かって行いづらくなる。心理的にブレーキがかかるからだ。「大学合格」や「商売繁盛」を祈願した人間は、遊び呆けにくくはなるだろう。神仏に助力をお願いして自分が怠ける訳にはいかないからだ。  とは言え、世の中は努力ではどうにもならないことが多い。祈願の大半は失敗に終わる。だが人は、それをあえて願わずにはいられないから、今日も祈願するのだろう。そして祈願したものであれば、例えば「家内安全」が一日間達成された夜に、この成果は自分の努力のおかげだと驕り高ぶること無く「家内安全」を叶えてくれた神仏に感謝することになる。非科学的だろうがなんだろうが、ちょっと良さげな目標は祈願するべきだ。  加持祈祷をオカルト的だと批判する人達もいるが、祈願は呪いや魔術