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本覚思想と如来蔵思想

 大半の日本仏教では、人は誰しも仏となる素質(仏性)を持っているという発想がその根底にあります。これを如来蔵思想と呼びます。大乗仏教の成立と同時期に生まれた考え方で、大乗仏教の殆どが支持しています。大乗仏教以前にも一部に似たような発想はありましたが、ここでは大雑把に大乗仏教前後で分けて考えます。  ではまず、大乗仏教以前はどうだったかと言うと、基本的に仏となって苦しみから脱する事が出来るのは出家したお坊さんの中でも特に優れた人のみです。在家信者などその他の人は功徳を積んで来世で頑張れという事になります。仏となるのは徹頭徹尾修行の結果として縁起の連鎖を断ち切るからであって、仏性がはじめから衆生に備わっているとは見ません。もちろん、輪廻転生を前提とした世界観があるので、無限回数の試行でいずれは悟れるでしょうが大乗仏教とは随分視点が違います。  これは、有名な梵天勧請のお話からも明らかです。梵天勧請の話を簡単にまとめると、お釈迦様が悟りを開いたあと、その教えを一般の人たちに説こうとはしませんでした。話しても分かるわけが無いと考えたからです。そこで、インドの最高神である梵天が、お釈迦様の教えを理解出来る人間も僅かには存在するだろうからと必死にお釈迦様を説得した結果、仏教が伝道されたというお話です。  この梵天勧請のお話が事実かどうかはおいておくとして、広く仏教で信じられてきた話であり、少なくとも大乗仏教以前の仏教では全ての衆生に等しく仏性を認めていなかったと思われます。  大乗仏教では、広く衆生を救うことを目的としており、如来蔵思想も受け入れられていきます。この発想は初期仏教と比して悟りのハードルが異常に上がっていた部派仏教に対して、ハードルを再び下げる効果をもたらしました。一方で人間に固定的な仏性を認めることは仏教の根幹でもある諸法無我(実体としての自分という存在は無いという思想)の否定にもつながる恐れがあり、色々とアクロバティックな解釈でこれを回避しようとしていますが、詳しくは話が長くなるのでいずれ華厳経か涅槃経の解説の時にでもお話しします。また上座部仏教による大乗仏教非仏説論はこの辺の流れにもよります。  次に如来蔵思想と並べて語られる事が多い本覚思想ですが、これは主に天台宗で語られる如来蔵思想をさらに推し進めた「お前はもう悟ってる」的な発想となります。煩悩も悟りの縁

夏有涼風

  以前に紹介した公案集の「無門関」ですが、無門関は48の公案の例を集めたもので、それぞれの話の後に無門慧開禅師の感想が書かれ最後に詩で話をまとめた形式となっています。この無門関の19番目の話が、これも以前お話した禅語の平常心是道の元ネタとなっています。この話の最後の詩が次のものです。  春有百花 秋有月 夏有涼風 冬有雪  若無閑事挂心頭 便是人間好時節  現代語訳は、「春に多くの花があり、秋には月がある。夏には涼しい風があり、冬には雪がある。もし心が無駄なことにこだわらなければ、人はいつでも良い時を過ごせる。」となります。  この詩の中の、花を菩提心、月を仏法などと解釈することも可能ですが、今回注目したいのは「夏有涼風」です。この場合、各季節の良いことをあげているのだから涼風で良いのですが、夏が熱くてキツイから涼しい風がいい感じになる訳で、このギャップに詩情が感じられれます。  道元禅師の有名な詩である「春は花 夏ほとゝきす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」とは夏だけ違う形ですが、ホトトギスの声を聞くのも一休み感があります。  何かしら良いことを探す姿勢はポリアンナか!というツッコミもおきそうですが、災害などに巻き込まれた場合などを別にして、世の中の座して考え込むようなタイプの悩みは見方しだいで大概は解決できるのもまた事実でしょう。  皆様に良いことがありますように。

言論の自由

  言論の自由は大切です。しかし、それは脅迫や侮辱やデマの拡散まで含めて認め、全面的に無秩序状態にすることではありません。一定の法的な強制力がはたらくのはやむを得ないことでしょう。  しかし、世の中にはこの強制力が拡大しまくった国もあります。ほとんどの独裁国では政権への批判的言論は発言者の命の危険すら生じさせます。また、国が直接手を下さなくても、恐怖に支配された国民の手で異分子が私刑を受ける事も多々あります。  こうした私刑は単に独裁国の内部にとどまらず、独裁国と商売をしている自由主義国の企業でも独裁者の顔色を伺い、その被雇用者の言論を統制しようとする事があります。もちろん、その被雇用者はそれに抵抗することも出来ますが、自由主義ではあっても資本主義国において一労働者と企業の力の差は歴然であり企業の圧力に耐えられる労働者はほとんどいません。  こうして多くの企業が独裁国の意向を汲むようになると、自由主義の国でも独裁国に逆らいにくい風潮が生まれます。だから自由を愛する市民はそうした企業を断じて許してはなりません。こういう時にこそ言論の自由は活かされるべきです。思い切り苦情を届けましょう。  南無八幡大菩薩

妙覚道了

 今日は小田原に近い神奈川県南足柄市の曹洞宗寺院、大雄山最乗寺で道了尊大祭が行われる予定でしたが、今年はコロナ禍で中止でした。道了尊大祭は通常1月5月9月の27〜28日で行われています。ここで祀られる道了尊こと妙覚道了は室町時代初期の曹洞宗の僧にして修験者で天狗様です。  最乗寺が応永元年(1394年)に了庵慧明により開創したときに近江の三井寺にした弟子の妙覚道了が神通力を使い天狗に姿を変えて手伝いに駆けつけ谷を埋めたり怪力で岩を持ち上げたりと活躍したと伝えられます。周囲の土木工事などでも活躍しましたが、師の了庵慧明が応永18年(1411年)3月に没すると寺を守護するために天狗に化身し山の中へと消え、寺の守護神となったとされます。  妙覚道了は曹洞宗通幻派の僧と言うことになるのでしょうが、三井寺出身で修験者でもあり密教に通じていたのも確かでしょう。最後に天狗になるときは五つの請願を立てています。その内容は、色んな徳目(三宝や四恩など)に敬意を持ち正しい心で道了を念ずる者には利益をもたらすと誓ったもので、直接的に寺を守ると言うよりは衆生を守ると誓っている様に見えます。もちろん、直接的にお寺も守るのでしょうが、お寺に縁のある人を守るのは寺を守る事に繋がり、実際に道了尊として信仰をあつめ現代に続いています。  5つの誓願のなかで、両親や年長者を敬い平等の心をもって道了尊を念じる者には人々の悪病を消滅させる利益を得られるとありますので、コロナ禍の現在ひとつ宜しくお願いします。

「私たちのちかい」闘争

 今日は世界遺産としても有名な西本願寺の近年の方針転換について解説します。予め断っておきますが、ここでは方針転換の良し悪しは論じません。それによって生じた問題には言及しますが、どちらかに与することもしません。これはあくまで浄土真宗本願寺派の門信徒内の問題だからです。むしろこうした問題を知らない外野やこれから入信するかも知れない人への解説だとご理解下さい。  まず前提となる方針転換前の浄土真宗の基本的な考えについてまとめます。我々は凡夫です。八正道や六波羅蜜などの行を修めても悟れません。阿弥陀如来の救いを一心に信じて、死後は、阿弥陀如来の本願力により浄土に生まれ仏となり、現世に帰って人々を救済します。皆が仏になるので信心に恵まれた人は死別してもまたお浄土で逢うことが出来ます。信者はその救いに感謝しながら生きていくのです。過ちが多い凡夫であっても阿弥陀如来の救いにあずかる日々を過ごすことで自然に悪いことから遠ざかるようにはなりますが、自分の力を過信し思い上がって悟りを目指す修行をしてはなりません。南無阿弥陀仏という念仏も阿弥陀如来への感謝が自然にあふれてくるもので修行の呪文ではないのです。  では、方針転換後はどのようになったのでしょうか?阿弥陀如来の絶対他力に救われる基本的なフォーマットは変わりませんが、人々 に対して阿弥陀如来のように利他の行いに努め、煩悩を滅し、慈悲の心をもち、それらに精進することを勧めるようになりました。これはあくまでも悟りを目指した自力の修行とは違い、阿弥陀如来への感謝からそう励みましょうという努力目標として掲げられたものです。ただ、近年では阿弥陀如来の救いを基本としながらも、子供向けの出版物や大人向けの法話などで自力の行である六波羅蜜や八正道の実践を説く真宗僧侶もおります。  新方針も別に悪いことは言っていないのですが、浄土教、特に浄土真宗は凡夫や悪人のどうしても救いがたい衆生を救うために作られた宗教でもあります。つまり、利己的で煩悩だらけで慈悲の心もなく精進する気力も無いような人が、自らのダメさ加減に慚愧の心をもって一心に南無阿弥陀仏と念仏申し上げるわけですから、努力目標とは言え教団の方針として善行を打ち出されるとそれが出来ない多くの門信徒が萎縮してしまう恐れもあります。一方で、親鸞聖人の時代から阿弥陀如来が救ってくれるからと開き直って悪行

彼岸明け

  今年の秋のお彼岸も今日で彼岸明けです。お彼岸は春秋の年2回ありますが、秋のお彼岸は彼岸花も咲いており、季節的にも懐かしい故人を思い出すのに向いています。  お彼岸のご先祖様感謝週間であると同時に六波羅蜜強化週間とする宗派も多いです。個人的には墓参は普通に参りました。六波羅蜜の方も布施も持戒も忍辱も精進も日頃よりはいくらかマシだったと思います。禅定と智慧はダメですね。お彼岸最終日ですし今日はちょっと座ってみます。  お彼岸はご先祖様達のことを思い出し、我が身を省みて、次の世代に伝統をつないでいく貴重な機会です。子や孫がいる人は、お彼岸に自身の両親や曽祖父母の話などを伝えてあげるのも良いかもしれません。偉大な先祖でもそうでない先祖でも、ご先祖様達がいなければ今の自分は無い訳です。彼らが経験した人生の成功や失敗を追体験することで、今後の人生のヒントになることもあるでしょう。直接の親兄弟には難しくても、遠いご先祖様の話なら心にわだかまり無く善いことは参考にし悪いことは許すことが出来ます。近いご先祖様でもまあまあ可能でしょう。それが親兄弟や友人にも出来るようになる為の訓練にもなります。  こうした伝統がより良い未来につながるように祈ります。合掌。

古墳と仏教

  古墳と言うと仏教公伝以前の古代の王の墓というイメージが強く、有名な前方後円墳は大和政権関係者の墳墓で権力の象徴でもありました。5世紀以前の日本では肉体と霊魂を分けて考えてはいなかったとされており、死んだ王は肉体ごと神として祀られていました。しかし、肉体の無常を説く仏教が伝わると状況は変わっていきます。6世紀、第29代天皇の欽明天皇の時に仏教が伝わったとされますが、天皇の前方後円墳は第30代の敏達天皇が最後です。その後も東国では前方後円墳などの古墳が作られましたが、大化二年(646年)には古墳の築造を天皇の一族のみとする薄葬令が出され、天皇陵も7日で建造出来るものに縮小されました。さらにその後、律令制を完成させた女帝として有名な第41代天皇の持統天皇は死後火葬され、本人の古墳は作られることなく、夫の天武天皇の八角墳に分類される野口王墓に合葬されました。その孫で第42代天皇の文武天皇が慶雲4年(707年)に没し築造された八角墳が最後の古墳とされています(諸説あり)。  古代のロマンに溢れる古墳文化が消え去ったのは主として政治体制の変化により古墳建造にかかる社会的リソースを他のものに振り分けるようになったからではありますが、仏教の影響も大きかったものと思われます。まさに諸行無常ですね。

弁才天

 今日は60日に一度の己巳(つちのとみ)の日で弁天様の縁日でもあり、弁天様のお話をと思ったのですが、あまりにもバリエーションが多すぎるので、今回は琵琶湖の竹生島の弁天様を軸にお話をいたします。  個人的には平家物語の印象が強い竹生島ですが古来聖地とされてきた由緒ある島です。社伝によると、神亀元年(724年)聖武天皇に天照大神より弁才天の聖地である竹生島に寺院を建立せよとのお告げが降り、行基に堂塔を開基させたとあります。竹生島は観音様の聖地でもあり西国三十三所の一つに数えられます。竹生島ではその始まりから神仏習合していたと言えます。  弁天様は元々はサラスヴァティという川の名前を冠した水の女神で、川の流れの連想から音楽や弁論にも優れているとされ日本でも水辺に祀られていることが多いです。インドの時代から既に言葉の神や讃歌の神との習合が生じはじめその守備範囲を広げていきます。これが漢語に訳される際には弁才天となり、しかも色んなご利益が付加されていた事ともあり、日本では弁才天ではなく弁財天とされる事もあります。こうした経緯から日本に渡った弁天様は、稲荷大神の宇迦之御魂命から派生した神とも言われる宇賀神と合わさっていきます。竹生島の弁天様の頭の上には人面の蛇がいますが、この人面蛇が宇賀神です。この形の弁天像も意外と多いです。こうして弁天様は弁舌、芸事、財産、良縁、護法などなど多種多様なご利益を担当するようになります。こうして強力な福の神となった弁天様は七福神の紅一点に数えられるようになるのです。また鬼退治で有名な鈴鹿御前は竹生島の弁才天の化身との伝説もあります。元々、仏教との結びつきが強かった弁天様ですが明治の神仏分離後は、神道にも仏教にも独立系の宗教にも別れてさらにそのバリエーションを広げていくのです。  オンソラソバテイエイソワカ  

明日の診療に役立つ日本仏教の簡単なまとめ

  仏教者にも気持ちよく療養生活を送って頂くのが、安居堂の目的の一つです。そこで、今日は特に仏教に興味のない医療・介護者の人たちが、熱心な仏教者の診療をするにあたり参考になるように日本仏教各宗派の簡単な教えをまとめてみました。実際の介護にあたっては、患者様の考えを傾聴するのが第一ですが、相手の宗派につき簡単にでも知っていると理解の助けになります。また、今回は簡単にまとめる為に、伝統宗派でも信者数が少ないものは省いています。各宗派の教えはこんなに単純ではないとのお叱りを受けるかも知れませんが、教義よりも信者の気持ちや考えの方を優先した解説にしてみました。ご容赦ください。  それでは信者数が多い順に解説してまいります。  まずは浄土教系です。浄土宗とか浄土真宗が有名です。浄土教系の基本は、まず自分たちが救い難いダメ人間だと自覚することに始まります。何が正しいのか何をすれば良いのかを知っていてもなお、それを行う事が出来ない。そんなダメな人類を救うと誓って悟りを開いたのが阿弥陀如来という仏様なのです。この阿弥陀如来の誓いを信じて仏様を念じる人は死後に成仏できるとされており、常にこの救いに感謝しながら自分を見つめ直しつつ生きるのです。これは絶えず仏様と自分とを比較する事にもなり、自分の過ちに気付きやすくなる効果もあります。  次は真言宗系です。真言宗系の基本は世界の全ては大日如来という仏様の表れであるとみることにあります。あなたも私も山も川も星も風も大日如来なのです。こう考えると自分の中にも全宇宙が存在することになり、人間は生きながらにして仏様に成れるとされます。開祖の空海もこの世で仏様となった人間として崇められています。また、現世利益の追求も必ずしも悪とはみなさず良い方向に転換できるとの考えもあり、加持祈祷の類が日本の仏教では最も盛んなのも特徴です。このような教えや修行法を密教として従来の仏教である顕教の上位にあるとしています。確かに他宗派では否定されがちな人間らしさや煩悩を活用しようとしており違いはあります。そのためか信者さんにも豪快な方が多い印象があります。  日蓮宗系です。日蓮宗系の基本は法華経こと妙法蓮華経です。一心に法華経を奉じており法華経原理主義と言っても過言ではありません。その肝となる思想は、お釈迦様は実は死んでおらず永遠の存在であり、法華経の信者は世界を救う

国際平和デー

 9月21日は国際平和デーです。1982年以来、国連総会が開会される9月の第3火曜日が国際平和デーとされていましたが、2001年から9月21日に固定となっています。  この日は世界の停戦と非暴力の日とされ全ての国と人々にこの日の停戦が呼びかけられています。残念ながらこれで何かの効果が発揮されたという話はありませんが、この記念日を口実に多くのデモなどの社会活動は行われます。  個人レベルではデモなんてする必要はありませんけど、せっかくの国際平和デーなので、戦いを避けるために、今日なにか怒るような状況になった時に少しだけ落ち着いて国際平和デーのことを思い出してみてください。ちょうど秋のお彼岸の時期ですし忍辱の修行です。  また今年の国際平和デーは敬老の日と同日でもあり高齢の家族や友人がいる方はお祝いするのも平和的でいいですね。  世界が平和であるように祈念いたします。

動物愛護週間

 日本では動物愛護週間は9月20日からの1週間で動物の愛護及び管理に関する法律で定められています。この法律の目的は、動物虐待の禁止などによる動物愛護と、動物による人やその財産への被害を防ぐ動物管理の2つです。  要は生き物を傷つけないようにとの理念を再確認する週間で、時期も秋のお彼岸にほぼ重なることもあり、仏教者としても動物愛護につとめたいところです。  昔から残酷な事をする人は後を絶ちませんが、異常な性癖による残虐行為ばかりでなく、お金儲けの為に行う人も多いものです。例えば、最近では規制も厳しくなっていますが、動画配信サービスなどでワザと過激な事をして再生回数を稼ぎ広告収入を稼ぐという人もいます。  こういう人たちは、なぜ動物虐待をしてはいけないのか論理的に説明してみろなどとよく言います。彼らが納得できる回答が無いと動物虐待は許容されるべきだとの結論にしたい訳です。それは困るので非宗教的に可能な限り反論しておきます。  歴史的にその適応範囲は変わっても人や生き物を大切にする思想は長く社会に残ってきた考え方であり、要はミームとして長く適者生存してきたのです。だから、いつの時代もそれに同意しない人たちは一定数いましたが主流派になることはありませんでした。また一般論として社会の多数派は異端を排除し、社会の安定化を図ります。よって極論すれば動物愛護週間も含めた動物愛護運動やそれを支持する法律は、社会安定のための仕組みであり、動物虐待を支持する人は排除・隔離・弾圧を受けやすくなるのです。だから、動物愛護の気持ちがこれっぽっちも無い人でも、動物愛護的に活動したほうがお得な事になります。  非宗教的に損得で相手を説得するなら上記の様になりますが、宗教的に考えた場合、生き物を慈しむ思いが無い人でも利他の行いを続けていけばやがて慈悲の心が芽生えます。本来は子供の頃に人はそういう教育を受けるのですが、そうでなかった大人もそこそこいるのです。以前から言っている様に、社会が歴史的に築き上げてきた常識と呼ばれる範疇の倫理的規則に論理や理由づけなんて不要です。善いから善い、悪いから悪いで十分なのです。

彼岸入り

  今日は秋の彼岸入りです。秋分の日(今年は9月22日)を中日として前後3日の計7日を、祖先と仏縁に感謝する日本独自の仏教行事です。  中日を除くお彼岸の残り6日を、大乗仏教の修行の基本とも言える六波羅蜜になぞらえ、特に仏道修行に勤める期間として重視する地域もあります。  六波羅蜜は日頃から行うものですが、ついついおろそかになりがちです。お彼岸の期間はご先祖様に感謝しつつ、他者へ施し、悪いことをせず、怒らず、努力し、心を落ち着けて、智慧のある生活を送るように特に心がけたいものです。

毘盧遮那仏の小話

 昔、ある和尚さんに質問をする人がいました。   「毘盧遮那仏とはどのような仏様でしょうか?」  和尚さんは答えて言います。  「頭には灰をかぶり顔は泥だらけや」  「なんでやねん!」と質問者がツッコミを入れると和尚さんはこう答えました。  「ワシの何が悪いんや?」  毘盧遮那仏は華厳経の教主であり、宇宙の真理そのものとして大日如来と同一視される仏様です。盧遮那仏と毘が付かない語もあり、華厳経を漢訳した際のバリエーションとされていますが、宇宙の真理を示す仏を毘盧遮那仏、通常のキャラクターづけされた仏を盧遮那仏、それがこの世に人間として表れた姿が釈迦如来とする見方もあります。要は、世界にあまねく仏さまであり、この世に生きるもの全てに仏の性質が元から備わっているとする如来蔵思想を体現した仏であるとも言えます。有名な奈良の大仏も盧遮那仏です。  さて、最初の和尚さんと質問者の話ですが、つまり和尚さんは自分も毘盧遮那仏の一部であるぞと言っているのです。気づいていないだけで実はそこら中が毘盧遮那仏な訳です。この話は禅問答のものですが、この発想が密教の即身成仏の元となっていくのです。

百丈野狐

 今日は有名な公案集の無門関にある百丈野狐です。これは臨済宗開祖であるバイオレンスな臨済義玄の師であるこれまたバイオレンスな黄檗希運のそのまた師である百丈懐海のお話となります。  百丈和尚がお坊さんたちに説法をする時に、いつも後ろで話を聞いている老人がいました。ある日の説法で、お坊さんたちが退出してもその老人だけが残っていたので百丈和尚が何者かと訪ねたところ、この老人は人間では無く化けた野狐だと答え身の上を語ります。老人はお釈迦様の前の仏様の時代(大昔)に、ここにあった寺で住職をしていましたが、ある日ひとりの修行者から「十分に修行を積んだ者も因果の法則にしばられますか?」と尋ねられ、因果の法則にしばられないと返答したところ、この間違った答えのために野狐の身となり500回の転生を繰り返した言うのです。  因果とは原因と結果の事でお釈迦様が説いた根本的な教えです。この世の苦しみの原因をたどっていくと煩悩にいきつき、煩悩を滅した結果として苦しみを消すことが出来るという考えで、この世の全ては原因と結果の複雑な関係とつながりにより成り立っているとされます。ならば、修行を完成させて原因と結果の関係から解き放たれた存在になれば因果にしばられない自由の身になれそうな気もしますが、それは違っていたというのです。話の続きを見ましょう。  そこで、野狐の老人は百丈和尚に訪ねます「修行を十分に積んだものでも因果の法則にしばられるのでしょうか?」と、百丈和尚は答えて「因果の法則をごまかさない」と言うとその言葉を聞いた野狐は悟りを開き百丈和尚に礼拝します。抜け殻となった野狐を百丈和尚がお弔いしました。  因果の法則から逃れようとこだわるのではなく、因果の法則をあるがままに受け入れた時に野狐は悟ったのです。受け入れてみれば500回の転生も苦ではなく風流の中にあったとわかったのでした。  ところで、野狐をとむらった後、弟子の黄檗が師の百丈にこの野狐が間違わなかったらどうなっていたのか尋ねます。百丈が教えてやるから近くに来る様に言うと、近づいた黄檗は百丈を殴りつけます。殴られた百丈はここにも達磨大師がいたと喜びます。この暴力行為にどういう意味があったのかは色んな解釈がありますが、前段の話を読んで分かったような気になるなとの百丈と黄檗からの喝のようにも思えます。百丈野狐の話は次の偈文でしめられています

プチ活動家入門

 世の中は様々な社会問題で満ち溢れています。それに対してSNSで吠えてみるなどという行為は数が増えれば一定の効果がありますが、少数だとそれほどでもありません。組織的に水増しすれば逆にバッシングの対象にもなります。デモ活動も同志諸君との親睦を図る意味はありますが、日々行われる多くのデモはほとんど人の記憶に残ること無く終わっていきます。では、社会問題の解決をはかるうえで、最も効果的な方法は何でしょうか?ズバリ政治を動かす事です。  まず、実例を提示します。以前、私が某地方の公立病院に勤務していた時の話です。その地域に深刻な公衆衛生上の懸念が発生しました。私は即座にその問題を扱う役場に事態の改善を要求しましたが、全く受け付けてもらえませんでした。そこで、ちょうど面識のある国会議員に陳情したところ、翌日にはその役人より対策をこうじた旨の連絡が入りました。  一般論として、社会的な問題が起きた時、まずは担当の行政機関に意見をいいましょう。残念ながらこれがうまくいくのは少数です。行政の現場がもつ裁量は意外と小さく、また役人は決まっている以外の事をするのを基本的には好みません。しかし、ここでちゃんと行政に訴えかけたという事実が大切です。また、万一この段階でうまく行けばお手軽です。  さて、行政に相談して事態が改善しなかった場合に、行政が動いてくれなかったと政治家への陳情を行うのですが、人を選ぶ必要があります。まず、原則として事前に相談した行政機関が国に属するものなのか、都道府県に属するものなのか、市区町村に属するものなのかにより、陳情する先はそれぞれ、国会議員なのか都道府県議会議員なのか市区町村議会議員なのか違ってきます。議員の種類が決まったら、個別の議員の政策や信条が、陳情する内容と合致するかどうか考えて陳情先の議員を決定しましょう。ただ、陳情の内容によってははじめから総当りでも構いません。また、行政機関へのプレッシャーとしては野党よりも与党の方が上ですが、ぶっちゃけコレは前の二つの条件ほどには気にしなくていいです。陳情の内容が正当なものであれば、野党の議員に陳情しても与党へのプレッシャーが生じ、結果として行政を動かしうるからです。与野党にこだわるよりは話を聞いてくれそうな議員を優先させましょう。陳情する人がその議員の選挙区の住民だと効果が増します。ただ選挙区が違っても、あまり

断末魔

  割と有名な話なのですが、断末魔という言葉は仏教というか古代インドのサンスクリット語に由来します。  古代インドの医学によると人の体には10〜120個あるとも言われるマルマンという急所があり、それを断つと激しい痛みが引き起こされ必ず死ぬとされていました。  このマルマンの漢語訳が末魔で、末魔ヲ断ツ、で断末魔です。北斗神拳はインド由来に違いありません。(北斗神拳は後漢の時代の仏教徒が開発したとの設定らしいのであながち嘘じゃないかもw)  こうした語源から、現代の日本では人が死ぬときの苦しみを断末魔というようになっています。では、人が死ぬときの苦しみとは何でしょうか?語源からみた場合は死ぬ前の物理的、肉体的な苦しみのことでしょう。でも、涅槃経にもあるように、死ぬ間際のお釈迦様すら病気による苦痛みは感じていました。仏教により老いや病の苦から逃れうるというのは肉体的な疼痛が無くなるのではなく、それによる心的な苦痛が無くなるという意味なのです。とは言え、現在の様な鎮痛も出来ない昔に、最期まで説法を続けたお釈迦様はやはりすごい人だったと言えます。  お釈迦様と違う凡夫としては肉体的な痛みもさることながら、自分が死んだ後の家族の心配や、やり残した事への無念さなどの心的苦痛は尽きません。死ぬ前に言っておきたい事も尽きることはありませんが、時間は無情に過ぎていきます。仏教に限らず、世界の伝統宗教はこの根源的な苦痛に対する何らかの救済を用意しており、そのことが何百年何千年と教えが受け継がれた理由の一つでもあるのでしょう。しかし、これらの宗教の信者もそうでない人も、最後の最後では死は個人の問題となります。だから心の持ちようが大切となるのです。  死に臨む全ての人の心が安らかでありますように、南無三宝。

西行の歌、山家集より#1

  西行は平安時代末期に活躍した有名な僧であり歌人です。元々は藤原氏の流れを組む武士で、23歳の時に友人の死をきっかけに出家したと伝えられます。歌の内容は僧侶なのに恋や郷愁を詠み上げたものも多いのですが、これは理論に偏重せず現実の人間の心をよく見ているとも言えます。自然を題材にした歌も多く、今日は西行の歌集「山家集」から自然の情景を仏教に絡めた歌を一首ご紹介します。  月澄めば谷にぞ雲は沈むめる  峯吹き払ふ風に敷かれて  峯を吹く風に雲が押し下げられて澄んだ月が見える情景を歌っています。谷に雲が沈み月が澄んで見えるのですから自身の視点は雲よりも高い所にあります。これは単に雄大な自然の情景を詠んだわけではなく、仏教修行を表現していると思われます。一般に月は仏法をさし、雲は煩悩をさします。それを見る自身も山中におり、修行の身を意味していると解釈できます。この歌の情景は、修行の風により煩悩の雲を下げて澄み切った月の仏法に照らされた西行の悟りに近づく視点があります。風で雲を消し去ってしまわず谷に残っているのは、自分が凡夫であるとの西行の謙虚さの表れのように思えます。  歌の解釈には幅や異論はありましょうが、歌人として有名な僧が作った歌は、何らのか仏教的な視点が潜んでいないか想像してみるのもなかなか楽しいものです。  それではまた。合掌。

お寺の動画配信

  コロナ禍以降、Youtubeなどでのお寺の法要動画やLive配信が増えてきた感があります。以前からこのような動画は散見されましたが、昨今の増加傾向は主に感染防止で参拝できない人用だと思われます。仏教の布教や説法の効果はありますが、コロナ前の動画とは違いあまり参拝客の増加につながることは無いでしょう。  外出自粛が長引く昨今、どの寺社も経営が苦しいです。参拝客の減少は大きな打撃となっています。個人的には、まず自分が檀家をやっているお寺が潰れないかが心配です。こうしたネット配信をするお寺は大きな古刹が多いとはいえそれだけ人や建物の維持に関する経費もかかりやはり苦しいことでしょう。  こうした動画では広告がついているのを見たことがありません。内容にそぐわない広告がつけば理解を妨げる恐れもあるからかも知れません。ただ、見ている方からすれば広告はこちらの懐を痛めずに対象に収益をもたらせる便利な存在で、あってもいいのではと思います。ならばせめてLive時の投げ銭機能が有効化されているのかと言えば、これもありません。こうした場合の投げ銭はお布施と同じなので、視聴者の為にも有効にして欲しいものです。授与品の郵送や事情を説明してからの銀行振込なども可能ですが、画面の前で数回ボタンを押せば完結する投げ銭とはハードルの高さがものすごく違います。  ともあれ、皆様も出来る範囲で構わないので家のお墓のあるお寺には少しお布施をしてあげてください。お寺の為にもなりますし、布施により執着の心が減ればご自分の功徳にもなりましょう。南無佛。

比叡山焼き討ち

  元亀2年9月12日(1571年9月30日)は織田信長により比叡山が焼き討ちにされた日です。僧侶以外にも比叡山側に避難していた周辺住民も犠牲になりました。いたましいことです。同じく信長に攻められた石山本願寺や長島願証寺では長期に渡る激戦が繰り広げられましたが、数千の僧兵がいたと言われる比叡山は1日で焼き尽くされほぼ一方的な殺戮でした。比叡山は戦国時代にあって浅井・朝倉家などの特定勢力に肩入れしながら、その敵である織田家から攻撃される訳がないとの無根拠な慢心があり防衛の準備が出来ていなかったのです。思い込みによる危険の過小評価がいかに恐ろしいかを今に伝えています。  もっとも、信長としては比叡山の力を削ぎ坂本などの要衝を抑えるのが目的であり、実は伝えられるほどの死傷者はいなかったとする説もありますが、いずれにしても少なからぬ命が失われ、比叡山の再建が始まるのは焼き討ちの13年も後になります。当時の天台座主である覚恕が唯々諾々と信長に屈していれば良かったのかと言えばそれも違う気がしますが、責任ある者の決断は時に多くの人の命に関わります。危険には過大評価も過小評価も有害です。仏教らしく中道の精神で状況を分析、対策を講じるのが良いでしょう。  今日は延暦寺でも鎮魂の法要が行われたそうです。昔の事件ですので犠牲者が全て成仏している事を祈って、合掌。  

照千一隅

  天台宗の「一隅を照らす運動」は、社会の一隅で道心を持ってその場を照らす生活をする人たちこそが国の宝だと解釈されています。伝教大師最澄が書いた山家学生式の原文でこの部分は「照千一隅」と読めますが、最澄は「于」を「千」と見えるように書くことも多かった事もあり上記の意味となる「照于一隅」と読むのが天台宗の統一見解となっています。この統一見解は昭和49年の決定ですが、最澄の死後は概ねこの読み方をされていました。  一方で、いやいやどう見ても「千」でしょと言う人もいます。そもそも、この部分の文章は、春秋時代に魏王が斉の威王に宝物の自慢話をしていた所、威王が自分には一隅を守り千里を照らす有能な家臣がいてそれこそが国の宝だと答えたのが元ネタとみられ、「照千一隅」の方が正しいという意見です。最澄の山家学生式も嵯峨天皇に国に役立つ人材育成のために比叡山の独立を訴えかける目的で作られたもので、国を照らす宝を育てるんだとの意気込みを見せたのだと思われます。  この一隅が千里を照らす「照千一隅」の考えは、禅宗などから見れば他を照らす前に自分を顧みよとなるでしょうし、浄土教的に見れば僧侶による過大な救済なんて驕りだとみなされるかも知れません。しかし、天台宗は日本でこそ総合仏教の代名詞ですが、その根幹は法華経思想に支えられています。最澄の思惑としては、僧侶たちにより世界を仏国土に導こうとしたと解釈するのが妥当でしょう。  とはいえ、「照于一隅」の考え方でも地に足をつけた一般人の道心をもった正しい生活の一つ一つが集まれば、やがて千里を照らすでしょうし、またその各一隅が千里を照らす事を目指して精進しても責められはしますまい。  ぱーっと明るく参りましょう。

良寛さんの辞世を公案的に読む

 良寛さんの辞世と伝えられるものは複数ありますが、今回は以下の歌を辞世として、その謎を公案風に好き勝手に解釈してみました。  形見とて何残すらむ春は花、夏ほととぎす、秋はもみぢ葉  現代語訳では「形見になにをのこそうか、春は花、夏はほととぎす、秋は紅葉」となります。さて、皆さんこれを見ると冬はどうした!と言いたくなりますよね?実はこの歌には元ネタがあって、そちらには冬が含まれています。道元禅師の傘松道詠集より本来面目と題された有名な歌です。  春は花 夏ほとゝきす 秋は月  冬雪さえて冷しかりけり  題名の本来面目は本来の自分(仏性)というニュアンスで、六祖壇経の中にある善悪を超えた本性を問う公案の文言です。つまりこれに続く道元の和歌も単に四季の美しさを詠んだ歌ではありません。それぞれに暗喩が込められていますが、特に秋の月は仏法そのものを表し、冬の雪は達磨大師から第二祖慧可への伝法を示すとの説もあります。そうすると、冬の雪を中心とする下の句は悟りを示す冷しかりけりの完成と解釈できます。  つまり、良寛さんの辞世には道元禅師の説く仏法と悟りが欠落していることになるのです。春と夏までは道元禅師と同じですが、秋の紅葉でターニングポイントを迎えています。これはどういう意味でしょうか?その謎を解く鍵が次の句になります。この句は良寛さんが最後に詠んだ句とされますが、貞心尼が伝えるところでは良寛さんのオリジナルでは無いそうです。  うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ  この句は人生の良い面も悪い面も見せて散っていく感慨を述べたと言われます。良寛さんの辞世で秋が紅葉になっていたのは、道元禅師の冬に到達出来ずに散る自身になぞらえた物だったのかも知れません。  良寛さんは曹洞宗の禅僧ですが、晩年は浄土真宗の信徒である木村家に滞在していた事もあり、浄土教にも理解を示していたと言われ、墓も浄土真宗の寺に祀られています。そう考えると、秋に散った紅葉は死後、極楽浄土で冬を迎え真の悟りを得たのかも知れません。辞世にも最後に詠んだ句にも、ある種の清々しさが溢れており、悟りへのこだわりもすてて堂々と生ききった事を示す素晴らしい歌だと思います。  以上より、もし、良寛さんの冬抜きの辞世が後世の人に問われた公案だとしたら、私はこう答えます「人生、これでいいのだ」と。

仏教に興味がない医療者による仏教に熱心な入院患者への対応法を考える

 もしあなたが病院の医療スタッフで、担当の入院患者の一人が朝夕に読経され同室の患者様たちが気味悪がっていたとします。どの様に対応すれば良いでしょうか?これが正解だ!という対応は無いのですが、一つの案を提示します。本日はそれについて考えていきたいと思います。  なお、前提としてあなたには仏教の知識が特に無いものとします。知識があれば、唱えているお経の内容や飾っている仏様や文字などから、うまい対策が思いつくこともありますが、今回はそういうのは無いものとします。また、読経の声量は通常の生活で発する音と同じ程度の騒音では無いレベルとします。  さて、病棟スタッフの会議では、その患者様に大部屋での読経をやめてもらう事となり、あなたは業務上の命令によりその説得に向かいました。  まず、患者様を別室に案内しましょう。大部屋で他人が聞いている状況では、お互いに言いたいことも言いにくいですし、相手のしたい行動の制限をお願いするにあたり、他人が周りにいてはその患者様に恥ずかしい思いをさせるかも知れないからです。  ですが、一方で医療スタッフに呼びされた患者様は何事かと緊張するものです。相手を怖がらせない為の丁寧な対応を心がけましょう。また、もちろんその患者様は読経を良いことだと思ってやっていますので、他の患者様に迷惑だからヤメロなどと言ってはいけません。苦情があった事は伝えますが誰からと特定されるような事を言ってもいけません。その上で、この問題に関する患者様の意見を傾聴するところから始めましょう。  この傾聴の事を、決して少なくない医療者がクレーマーを黙らせる為のテクニックだと勘違いしていますが、違います。相手に寄り添う心が無い傾聴は傾聴とは言いません。表情や態度も相手を安心させるものでなくてはなりません。相手の言っていることを単にオウム返しにするのもダメです。相手の言った内容を繰り返す技術は、相手が言ったことをこちらがちゃんと聞いていると示して安心してもらうのが主な目的なのです。また、こちらの理解の助けにもなります。思いやりの心がないオウム返しは相手の気分を害するだけです。とにかく相手の意見をちゃんと聞き、最終的に同意するかどうかは別としてしっかり理解するのが大切です。  相手の言い分が理解できたならば、解決策を探る必要があります。強権的に相手の行動を制限してもいいことはありません。

行基伝説その2

  行基伝説その1 からの続き  さて、行基が行った工事は治水だけでは有りません。当時、労役や兵役や納税のための庶民の移動は全て自腹で移動中に死んでしまうことも多く、行基はこういった人を救うための布施屋と呼ばれる救護・宿泊施設も作りました。また近畿地方を中心に多く寺院を作り、布教して困っている人を助けたのです。こうして助けられた人たちが故郷に帰った時に行基の話を広げていったのは間違い無いでしょう。  こうした噂が広がった影響もあるのでしょうか?行基が全国を布教して回ったという言い伝えもあります。しかし、行基の活動範囲は近畿とその周辺部です。行基が作った日本地図であるとする行基図も贋作とみていいでしょう。ただ、この言い伝えが日本全国に行基開基と伝えられる寺社が乱立する遠因にはなっていると言えます。  聖武天皇が国分寺を造る詔を発した時の日本で最も有名な僧は行基であり、総国分寺とされた東大寺の大仏の建立の責任者的立場に行基が抜擢され大僧正になったのも、行基を慕う民衆の労働力を期待されてとの見方もあります。仏教を軸とした国造り(※)が進む中で、行基の名声はさらに高まっていったのです。  日本中にある近畿周辺以外の行基伝説はほぼ後世の創作であると見て間違い有りません。また、行基の師である道昭は西遊記でも有名なかの玄奘三蔵から直接教えを受けており、行基は玄奘三蔵の孫弟子にあたる事になります。道昭の死後、行基は修行の山ごもりをしてから本格的な民衆への布教を開始しました。こうした法統や謎の多い修行期間などが、更に人々の想像を掻き立てたのでしょう。  歴史的に行基伝説の殆どが作り話であったとしても、宗教的には行基の仏教を広げ民を救いたいとの気持ちが形を変えて日本の津々浦々にまで届いたのだと見ることも出来ます。寺社の社伝や縁起を見ながら、古人の気持ちに想いをはせてみるのもいいものです。  それではまた、合掌。南無行基菩薩。 (※)聖武天皇からの仏教偏重の流れが聖武天皇の娘である孝謙天皇、重祚して称徳天皇の時の悪名高い道鏡事件につながり、後の仏教史にも大きな影響を与えるのですが、それはまた別の機会にお話します。

台風10号

 台風10号が過ぎ去ってこの文を書いている時点でその被害は、行方不明者4名、重軽傷者39名と報道されています。行方不明者の早期発見と怪我をされた方の快復を祈ります。  今回の台風は大型で大変強い勢力を保ったまま日本に近づくと予測されていた事もあり、行政や報道による周知活動が徹底され、いつもよりも厳重な対策が取られていました。それでも、人的な被害は防ぎきれませんでしたし、農作物や建物や自動車などにも被害は出ています。  当初予測された程ではなかったものの台風10号は大きく強い台風でしたので、もし今回のような比較的しっかりとした準備をしていなければ、より多くの被害が出ていたかも知れません。今後ともみんなの努力で被害をなるべく少なくするようにしていきましょう。  ただ、どんなに頑張っても被害を無くす事は出来ません。天災は人の予測を超えてくるのが常です。被災された人の行動を叩く人もいますが、悪口を言う前にまずは助けあいましょう。  天災に関して、良寛さんは次のように言っています。「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」圧倒的な自然の力を前にした人間の無力さを認め受け入れる考えが示されています。災害時の行動を検証し、より良い対策を練り上げるのは重要です。ただ、どんなに努力しても完全は無いのです。人間がこれさえすれば天災がなくなるという事はありません。また、これさえすれば大丈夫という考えは慢心を生み被害を拡大させる恐れすらあります。気をつけてまいりましょう。

行基伝説その1

 行基は各地に伝説がある僧として有名です。有名なところでは、古い寺社を行基が開基したとする話が日本中にあります。行基が訪れていないであろう地域にまで数多くの伝説が残っています。その大半は作り話だと思われますが、それだけ人々に慕われていた証拠でしょう。同様の現象は真言宗の開祖空海にもあり空海が掘った井戸や水にまつわる伝説は膨大で日本中にあります。他にも民の為に尽くした僧侶は多いのですがこうした伝説の数ではこの二人が群を抜いています。  伝説の多い行基と空海の共通点はやはり治水事業でしょう。技術的にはより年代が遅い空海の方に分がありますが、行基は僧が民に教えを説くのを禁じられていた時代に禁を破って民衆とともに生きており歴史的意義が強いです。そんな時代にあって行基は溜池や排水用の溝、橋や港湾の整備にも尽力したのです。空海の溜池などの事業は有名ですので割愛しますが、やはりインパクトが強いです。治水はインフラとして整ってしまえばその恩恵を日常として受け、ありがたみを忘れがちです。しかし、治水工事が行われていない地域ではほんの少しの雨や日照りがたちまち人に被害を与えます。大雨や台風で治水の効果がもたなくても、壊滅的打撃が生じるまでの時間を稼ぎ避難を助ける事は出来ます。先人達の努力を受け継ぎ発展させていきたいものです。(つづく)

朱子と親鸞

  朱子学で有名な朱子こと朱熹と浄土真宗の開祖の親鸞は、前者が西暦1130年生まれ1200年没で、後者が1173年生まれ1263年没であり、生きた国は違っても生きた時代は重なっています。ただの偶然なのですが、実はこの二人は若い時に似た詩歌を詠んでいます。  まずは朱熹が18歳の時に作ったと言われる漢詩です。  勿謂今日不学而有来日  勿謂今年不学而有来年  日月逝矣歳不我延  嗚呼老矣是誰之愆  現代語訳では、「今日学ばずに明日があるなんて言うな、今年学ばずに来年があるなんて言うな、月日は過ぎてしまったが寿命は一緒にのびてはくれない、ああ、老いてしまったと言うのは一体誰の過ちでだ」となります。  続いて、9歳の親鸞が自分の得度(出家の儀式)を翌日に延期しようとした慈円(後の天台座主)に対して詠んだ抗議の和歌です。  明日ありと思う心の仇桜  夜半に嵐の吹かぬものかは  現代語訳では、「明日があると思う心は散りやすい桜のようなもの、夜に嵐が吹いて桜を散らしてしまうかも知れないのに」となり、つまり婉曲にさっさと得度を受けさせろと言っているのです。慈円は親鸞の到着時間が遅かったので明日にしようと提案していたのですが、この歌に感動して当日中に親鸞を得度させたと言われます。通常なら生意気なと怒られそうなものですが、慈円はさすが百人一首に載るほどの僧ですので、歌の心がわかっています。この歌を9歳の子が作ったのもすごいですが、真に恐るべきは子供がここまでの切迫感をもって道に望んでいることです。  親鸞の切迫感も朱熹の切迫感も命の短さに対して学ぶべきことが多すぎるとの実感から生まれたと言えます。しかし、その結果導き出された物が、朱熹の場合は膨大な量の知の積み重ねと再編だったのに対して、親鸞は人間の不完全性を徹底的に見つめて仏教的な諦めに達するという正反対のベクトルを持つ教えだったのは興味深いところです。  朱熹は不遇な最期を遂げましたが、その業績は後の世界に大きな影響を与えました。親鸞は、苦難の人生ではあったものの概ね良い最期を迎え、日本仏教に大きな変化をもたらしました。両者とも道を極めた人生だったと言えます。彼らの残した思想は賛否両論あるがゆえに、人々にさらなる思索と刺激を現代に至るまで営々と与え続けています。人生の短さに無頓着だと時間はあっという間に過ぎ去ってしまいます。別に歴

四面大菩薩

  通常、四面仏と言えば梵天の事が多いですが、本日お話する四面大菩薩は温泉神社に祀られている四面神の事で九州の島全体をご神体とする神(仏)の事です。古事記の国生みの話にあるように、九州(筑紫島)は一つの体に四つの面があるとされているのです。  長崎県は雲仙にある温泉神社(うんぜんじんじゃ)は奈良時代に行基菩薩によって開かれたとの伝説を持つ神社です。四面神は五柱の神の総称で、そのうちの四つは九州の筑紫(北部九州)、豊(現在の大分付近)、肥(現在の熊本付近)、熊曾(南部九州)の各土地自体が神とみなされています。平安時代に雲仙が修験道の道場となると、四面神はその中央を大日如来の垂迹とされ周囲の四柱の神を不空成就如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来に当てて信仰されるようになります。雲仙の山はかつては中央の山が四つの山に囲まれた形となっており密教の金剛界曼荼羅と同じ配置だったのです。こうして仏教と習合した四面神は四面大菩薩として崇敬されていました。鎌倉時代の元寇の際にも四面神が物理的に顕現してモンゴル軍と戦ったとする伝説もあり、九州の守り神だったのです。四面大菩薩は雲仙だけでなく、隣の諫早でも厚く信仰されており、現在の諫早神社はかつてあった真言宗の荘厳寺というお寺の中の四面宮とよばれる社が原型で、この寺では四面大菩薩も祀っていました。神仏習合が崩れた明治の廃仏毀釈後は、仏像としての四面大菩薩の多くは姿を消しその存在を知る人も徐々に減ってはいますが、今でも四面信仰は残っています。  九州に強い台風が近づいていますが、四面大菩薩の御加護がありますように。  南無四面大菩薩

台風を待つ心模様

 台風が連続しています。南西諸島や九州が台風の被害に遭いやすいのはいつも事ですが、特に今年は猛烈な勢いに成長するとみられる台風10号も迫っています。予想される進路近くにお住まいの方は台風の接近前に飛ばされやすいものを片付けたり、窓の補強をしたり、防災用具の確認などのご準備をしていただき、台風の接近時には頑丈な建物に避難して安全を確保してください。  さて天気予報がなかった昔とは違い、現代では台風の強さ大きさ進路は事前にある程度予測が出来ます。防災減災の準備もしやすくなっているのは間違い無いでしょう。予報の精度も以前より上がっている感があり、また、スマートフォンなどでほぼリアルタイムの天気情報が得られるようにもなりました。便利な世の中になったものです。  情報を活かして被害が減らせるのはもちろん良いことです。しかし、こう情報が分かってしまうと少しだけ困った問題もおきます。台風の予想進路が自分の居住地や故郷に直撃しそうだったのに実際の台風は直撃しなかった場合、もしそれで他の地域に甚大な被害が出ても、つい良かったと思ってしまった事は無いでしょうか?これは他人の不幸を喜んでいるのでは無く、自分やその仲間の無事を喜んでのことですが、被害者の心情を思えばもちろん口に出して良かったなどと言ってはいけません。倫理的に口に出して言えないような事を思ってしまうのは、気持ちが悪いものです。被害は出ないのが一番です。皆で防災・減災に努めましょう。  南無観世音菩薩  

旧盆

  今日は旧暦7月15日です。お盆を旧盆でする地域では本日がお盆の最終日となります。現在、お盆はほとんどの地域で8月15日ですが、沖縄では今でもちゃんと旧暦でお盆をしています。ただ、沖縄のお盆は先祖をお迎えし歓待してお見送りするという基本的なフォーマットは通常のお盆と同じですが、基本的に祖霊崇拝の意味が強く仏式と言えるかどうか微妙です。しかし、祖霊を送る時に冥界の金銭をもたせるのは大陸の道教や仏教の影響でしょうし、エイサーも念仏踊りが原型と言われます。様々な文化が交じるのは古来海上交通の要衝であった沖縄ならではと言えます。今年は台風の影響もあり大変だったでしょうが、先祖を敬う文化は脈々と受け継がれています。  私事ですが、小生は約40年前に数年間沖縄に住んでいました。初めて沖縄のお墓を見た時はその家のような形状と広さにお墓だとわからず、防空壕の入り口か何かかと思ってしまいました。先祖を祀ることに対する気合をひしひしと感じました。  たかだか、40年間ですが沖縄も結構変わってきています。ちんすこうは何だかクッキーのようなクセの無い味に変わり、サーターアンダギーもやや柔らかくなってきた印象があります。国際通りの車道は狭くなるし、玉泉洞ではコブラとマングースは死闘を演じなくなり、ひめゆりの塔の近くの米軍払い下げ品の店も無くなったようです(流石に空気読んだか?)。うるま市が出来たし、焼けたけど首里城も再建されたし、謎の竜柱も立ったし、モノレールも出来ました。色々なものが時代に合わせて変化していっても先祖を大切にする心はかの地に残っていると信じています。

西郷南洲翁手抄言志録より

  今回は仏教ではなく儒教の書ですが、幕末の儒家である佐藤一斎の書「言志四録」より百一条を西郷隆盛が抜粋して座右とした「手抄言志録」から仏道にも通じる言葉の紹介です  不知而知者 道心也 (知らずして知るものは道心なり)  知而不知者 人心也 (知って知らざるものは人心なり)  現代語訳だと「知識として分かっていなくても身につくものが正しい道理の心であり、知識として分かっているつもりなって勝手に決めつけているのが他人の気持ちだ。」という感じです。  道心については例えば、嘘をついたり盗んだり暴力を振るうのはいけない事だというのは、もしなぜそれがいけないのかを説明出来なくても直感的にいけないと分かるものです。また、何かの道を極めようとすると知識としての理解だけではなく、経験で体得するしかない事は必ずあるものです。  人心については例えば、「あなたの気持ちはよく分かる」などと言う人が本当にあなたの気持ちを分かっているかは怪しいものです。人は往々にして、他人の気持ちを分かったつもりになって自分の都合のいいように人の心情を勝手に決めつけてしまうものです。相手の事をおもいやるのは良いことですが、自分にとって都合の良い考えを相手に押し付けるのではなく、まず相手の話を良く聞く心の余裕を持たねばなりません。  この言葉を仏教的にみれば、禅宗や密教の系の宗派でも仏道は表面的な言葉だけでは理解出来ないしています。また、自分も含めて人の心を言語的に理解しようとすると必ず偏見が混じってしまうものです。座禅などで非言語的に知った、悟ったつもりになるのもそう認識してしまえば慢心に過ぎません。  西郷隆盛と言えば、歴史的には戊辰戦争や西南戦争で有名な武人ですが、思想家としても人気が高く学ぶべきところがたくさんあります。「手抄言志録」は西郷オリジナルの物ではありませんが西郷が厳選し座右としており、ある意味で西郷哲学のエッセンスとも言える書です。分量も少ないので興味があればぜひ一度通読してみてください。  それではまた、合掌。