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世界禁煙デー

 5月31日は世界禁煙デーです。喫煙は癌のみならず、閉塞性肺疾患や血管障害など多彩な健康被害を引き起こします。昨今はコロナ禍で在宅の機会が増えたために受動喫煙が増加しており、多くの非喫煙者が理不尽な被害にあっています。高齢者など余命もそう長くないニコチン中毒患者がタバコを吸いたいというのを止めるのは人道的にいかがなものかとは思いますが、若い非喫煙者層への被害を看過も出来ません。  タバコの販売は国家公認とはいえ、無辜の市民を様々な手を使いニコチン中毒にして依存症患者からお金を巻き上げるビジネスモデルであり、反社会組織の麻薬取引と同じです。国民の命を税金に変えている収益を得ている分なお悪質です。しかも、平均寿命が50歳程度だった昔ならそれで国家的な収益も出ますが、平均寿命が伸びた現在では、依存症患者や受動喫煙の被害を受けた人達の若死にや疾病による経済活動の低下は税収の機会損失と医療費負担増をもたらすのですから、結果として国も損をします。  国家として色んな事情でタバコを違法に出来ないのであれば、せめて国家の収益に見合うだけタバコに対して重税を課すべきです。重税を課せば、タバコの消費量が減り、健康被害も減ります。喫煙の被害により失われる金銭よりタバコ税の収入が多くなるまでは増税し続けるべきです。また、受動喫煙に関しては刑法の整備も期待したいところです。  ニコチン中毒の依存症患者もある種の被害者であり可哀想ではあります。その多くは禁断症状でいつもイライラしており凶暴です。その症状を取るためにタバコを吸い続け、タバコ会社にお金を搾り取られ続けるのです。非喫煙者の家族にも大迷惑です。また、タバコはしばしば家屋や山林の火事の原因となり医療的な健康被害以外にも多大な被害を社会に与えます。  日本では本日5月31日から6月6日までを禁煙週間ともしており、一人でも多くの人が禁煙してくれる様に頑張っていきたいと思います。

山に登る

 山の上に立ち、眼下に自分の住む街を一望に見下ろす時、さまざまな個人的社会的問題もふと俯瞰的に見ることができるような気がします。眼前に問題が広がる平時とは違う感覚です。昔から西行はじめ多くの仏教者や詩人はよく山に登りインスピレーションを得ていました。お寺にしてもお布施を得るためなら都市の郊外が有利ですが、修行用の寺院である比叡山や高野山や永平寺は山の中です。自分と世界を見つめ直すには山は良いものです。現代でも半ば文明の外側にある山中では、警察も消防も救急もすぐには来てくれません。そんな社会から離れた環境で命をかけて自然と対峙する非日常的体験により感覚が研ぎ澄まされるのです。  最近では気楽なレジャー感覚で山に登る人も多いのでそういう感覚も薄れてきているのかもしれませんが、現実的に近所の低山でも自然を舐めては事故の元です。単独で山に行くときは必ず入山届を出すか、知人にいつ下山予定なのかを告げて不測の事態に備えましょう。  さて、そんな危険な山に登らなくても瞑想をする時に自分の視点を果てしなく遠く広くしたり果てしなく近く小さくしたりとする視点の移動をさせる技術は古今東西によくあります。密教でも自分を宇宙そのものの仏である大日如来と一致させる瞑想をしますが、こうした全世界、全宇宙にまでに自分の視点を動かす瞑想では、山の上から街を見下ろすよりもはるかに高いところから自分の日頃の世界を見下ろしています。もちろん、こうした瞑想では現実に観測される宇宙とは別のものが観られるわけで、世界中にある古い宇宙の予想図は人間の多様なイマジネーションの産物です。しかし、先人達が我々の銀河系とアンドロメダ銀河の衝突を予測できなくても、ブラックホールの内側を言い当てられなくても瑣末な問題です。最も大切なのは自分の所属する社会を外から見ることです。  極論すれば人の命がかかっていない殆どの問題は、自分の命をかけて悩むに値しません。たまには心の山に登って自分を見下ろしてみるのも良いでしょう。

仏の真似

 昨日の擬態の話の最後に仏や菩薩の真似が衆生を救うと書きましたが、そもそも仏教自体が仏の真似です。お釈迦様は修行の結果、真理を発見しました。その後お釈迦様は、凡人には理解出来ないであろう真理を発表するかどうか迷っていたところを梵天に真理を理解出来る人もいるだろうからと懇願されて布教を決意されたと伝えられます。最初の布教の相手はかつての苦行の仲間であり、一定の素養を持った人を対象に説かれています。お釈迦様初の説法は縁起の法と四諦八正道だったと言われます。これは真理の理論とそれを確認するための実践方法です。つまり、真似をしてみないと分からない内容となります。教えを受けた修行者は仏の真似をして教えを理解したのです。  実際のお釈迦様がなぜ布教を決意したのかは分かりませんが、後世にお釈迦様は全ての生き物を救おうとする志で布教をされたと信じられるようになった事は、大乗仏教以降の利他の思想に大きく影響したと言えます。縁起や無常観の考えを元に空や唯識の思想を体系化し、様々な瞑想方法が編み出されました。お釈迦様は真理を作ったのではなく発見されたものであるから、確実な真理から演繹されたものもお釈迦様の教えと同じと見なされたのも特に大乗仏教が多様化した原因の一つと言えます。このダイナミズムが、時代や社会や環境にマッチした教えを熟成します。現代の温帯地方に古代の熱帯地方の教えや常識がそのまま適応されないのも、まさにこのゆえです。また、こうした多様な教えが発展したのは全ての人を救うという目的から生じる寛容性のおかげでもあります。その意味も分からず今となっては内容も確かでない古代インドの方法以外は間違っていると言う人は仏教で最も避けるべき執着に陥っているのです。仏教の伝播において、人は先人を真似て同時に創意工夫を加えて、時代や地域にちょうどよいように進化してきました。  これは現代の大乗仏教でも変わりなく、信徒は今ここに仏様がいらっしゃったならするであろうことをしようと努力します。たとえ真似事でも仏様のような人が増えるのは善いことですので、みなさんも積極的に真似ていきましょう。

ベイツ型擬態と人間の真似。

 ベイツ型擬態とは、有毒の生物に似た毒々しい警告色の模様を持つ無毒の生物が捕食者から狙われにくくなることです。このベイツ擬態が発見された時代はようやく進化論が出始めた頃であり、無毒の生物が身を守る擬態のために警告色を獲得したかのような説明がされる事がありますが、進化論的にはたまたま警告色を獲得した無毒の生物が捕食者に狙われにくくなったと言うべきでしょう。  ある生物の進化は、その生き物がそう願ったからでも工夫したからでもなく膨大な偶然と時間の産物です。しかし、人間的な視点では、あたかも無毒の生物が意志を持って有毒の生物の見た目を真似ることによって危機を回避しているように錯覚して、(生物が意図的に)擬態していると言う人もいるわけです。結果として擬態しているのは否定しませんが、決して意図的ではなく進化の結果です。  一方、人間は生物として何かに擬態してはいませんが、狩猟や戦争あるいは商取引などにおいて自分の意志をもって様々なカモフラージュをします。これは進化では無く自然や状況を観察して考え出した結果です。また、誰かすごいことを成し遂げた人がいたら、多くの人がその人の真似をします。実際にそれが有効かどうかは実のところわからないのですが、そうした多様な真似を繰り返してきた結果、人間社会の環境に適応して実際に効果があった真似は生き残り体系化されていきます。科学だけでなく武術や宗教や哲学に至るまで、何らかの思考や思想の体系は、生物ではなくミームの進化の結果生じたものと言えます。仏教は特に変異や分岐に富む体系であり進化論的にみても興味はつきません。  進化という一点で考えると、ベイツ型擬態で救われる虫などがいるように、仏や菩薩の真似をすることで救われる衆生もいるのだと思います。

老少不定の実際を簡易生命表で見る。

 人の命は若くても老いていてもいつ消えるか分からないとする老少不定という言葉は、現代では浄土真宗の白骨の御文章でもっとも有名かと思いますが、平家物語の「老少不定の世の中は石火の光に異ならず」や妙行心要集の「念念亡身 歩歩近死 況老少不定 旦暮難知 年過半人 残日為幾」などでも知られます。寿命が伸び、若年者の死亡率が下がっている現代において忘れられがちな事ですが、常に老少不定を思い日々を大切にしたいものです。今日は、史上もっとも死から縁遠くなっている現代日本の年齢別の死亡率をみて、老少不定を思ってみたいと考えます。  厚労省が発表している令和元年版の簡易生命表によりますと、0歳児の年間死亡率は男子で0.199%でありおよそ0歳男子の500人に1人は1歳になること無く死にます。意外と多いものです。女子では0.178%で男性よりもやや少なく、生まれたての頃から女性の方が強いようです。死亡率が最低になるのは男子で10歳の0.007%で1万人に1人も死なない事になりますが、日本には50万人ほどの10歳男子がいるので確率的には年間で35名ほど死にます。女子は9歳と10歳で0.005%とやはり男子より強いです。以後、死亡率は徐々に上がってきますが緩やかであり年間の死亡率が0.1%つまり1000人に1人を超えるのは男性で41歳の0.101%、女性では47歳の0.110%です。こうして死亡率がほぼ0%から0.1%上がるのに男で31年、女で38年を要した訳ですが、年間の死亡率が更に0.1%増えて0歳児の死亡率を超えるのが、男性で48歳の0.200%でありわずか7年で倍の死亡率になります。また、この年齢だと男性はおよそ女性の倍ほど死にやすいことなります。やはり女性は強いです。女性の年間死亡率が0.2%を超すの55歳で男よりも強いですがやはり8年で死亡率が倍になります。この頃から友人や同年代の知人の訃報をよくきくようになり寂しい物です。人間は歳を取ると加速度的に死にやすくなるので、若い頃は気にして無かった死を強く感じだすのもこのくらいの年齢からでしょう。0.1%ずつのプロットをとると気が滅入るので次に1%を超えるのはいつでしょうか?男性は65歳の1.030%です。年金がようやくもらえると思った男の100人に1人はその年の内に死にます。女性の年間死亡率が1%を超えるのは74歳の1.026%で

サンクコストと仏教

 サンクコストとは経済学で回収不能な投資や労力の事を指す用語です。サンクコストにこだわって失敗した実例として、超音速旅客機コンコルドがあります。コンコルドは開発途中で採算に合わないと分かっていながら、英仏両政府はそれまでにかけたコストを惜しんで事業を強行して被害を拡大させたのです。この事件から、類似のケースにおける心理的要素からの判断ミスはコンコルドの誤謬とまで呼ばれます。  しかし、コンコルドに関して言えば、あの美しい機体と素晴らしい性能はロマンの塊です。また、コストを度外視した国家の威信とか技術力の誇示とかの狙いもあったのでしょう。そう考えると一概に誤謬とまで言えるかどうかは分かりませんが、少なくとも商業的には大失敗でした。  この残念なケースから私達が得られる教訓は、今から行う事に関しての意思決定に、回収不能なサンクコストを影響させてはならないということです。考慮すべきはあくまでも現在の状況のみです。商業的な失敗を最小限に抑えるのならば、今後の採算が合わないと分かった時点で、それまでにいくら莫大な金額をコンコルドの開発につぎ込んでいたとしても事業は中止するべきだったということになります。  似たような考えは南伝仏教の一夜賢者経にも説かれています。もう変更することが出来ない過去を追ったり、明日はもう死んでいるかもしれないのに未来を色々夢想すること無く、今をよく観察し動じることなくやるべきことをやるようにという内容です。経済学や商売では先を色々と予測し様々な戦略を立てることが肝心ですが、仏道修行においては先の保証なんて無いのですから今まさに悟ってやるくらいの勢いで現在に集中しているのです。この辺は目的が違うので構わないかと思いますが、いずれも既に変更出来ない過去に執着するのは有害な訳です。過去の経験から学ぶことも多いものの、過去自体は変えられません。今の状態をよくみて時間を大事に行動して参りましょう。

梁の武帝

 梁の武帝といえば達磨大師の「無功徳」の話で有名で、功徳を期待しての善行が批判されたり、仏教への帰依の深さを演出するための極端な出費で国庫を傾かせたり、自分が仏教に通じているとの慢心から他人を見下して諫言を聞き入れなかったなどと伝えられ、割と散々な言われようです。  しかし、梁の武帝が仏教に傾倒したおかけで、南朝梁と交流があった東アジア地域に仏教が広がったと見ることもでき、その功績はもう少し評価されてもいいような気もします。武帝は自身も仏道修行に励んでおり、それへのおべっかだったとしても近隣諸国からは皇帝菩薩とも呼ばれていました。ちなみに初めて盂蘭盆会の法要を開いたのも武帝だとする伝説があります。彼がいなければ、お盆に親族が寄り集まる風習も、それにより生まれた数多くの思い出も無かったかも知れません。  さて、その後いろいろあって、武帝は反乱軍に捕らえられて食事も与えられず飢え死にするという悲惨な最期を遂げます。結果として失敗した人間には冷たい評価が下るのは歴史の常ですので、後世の悪評は多少値引いてみてあげたくなります。

稲荷神拝歌より

 稲荷神拝歌の一つに  生き生きて御霊の幸(みたまのさち)を身に受けて  この世の幸に働きまつる  という歌があります。これは神道の歌ですが、身に受けた幸を我が物だけとはせずに、この世に幸をもたらすために働くという考えは、仏教の菩薩行に通じるものがあります。  仏教と神道の類似点と言えば、一部の神道でとなえられている様な人は神の命を引き継いで生きているから心身についた穢れを払い清めるのが重要だとする考えも、仏教の如来蔵思想に類似します。逆に、日本独自の仏教行事であるお彼岸は祖霊を祀る日本独自の宗教儀礼が仏教に取り込まれたものでもあります。神仏習合の時代も千年以上は続いていたのですから、今でもそこかしこに類似点は見出されます。  神仏分離後の稲荷神も未だに絶えること無く多くのお寺で護法の神として祀られています。境内に稲荷神社があったり、お寺の施設内に稲荷神をまつる神棚がある古刹も散見されます。命を支える食物の神というのも日本人へのウケが良い理由の一つでしょう。  世知辛い世ですが、小生も幸い生きています。稲荷神拝歌ではありませんが、命ある御縁に感謝し人々の命が守られ社会が安寧であるように祈り働きたいと思います。

ミャンマー軍に対して強硬姿勢に出ると孤立して中国に接近するから甘やかそうという愚論に喝

 主に一部右翼の理屈ですが、現在ミャンマーで暴虐の限りを尽くしている軍に対して世界が強硬姿勢で制裁を加えれば、孤立したミャンマーは中国との連携を深めてしまう、だからミャンマー軍の暴虐には目をつぶり国民の弾圧や虐殺に加勢しようというものがあります。言うまでもなくこの世にこれ以上の愚論があるか疑わしいレベルで狂った話です。しかし、残念な事に、自由主義諸国の多くがミャンマー軍に制裁を加える中、日本政府はミャンマー軍を支援し続けており、多かれ少なかれ上記の理屈に基づく行動かと思われます。また、一部の日本企業もミャンマー軍とのビジネスを続けており、ミャンマー国民だけでなく世界からも呆れられています。  何が間違っているのか改めて説明するのも馬鹿馬鹿しいですが、まず初めに政治的な面から誤りを指摘します。現代の世界は米中の冷戦というか自由主義諸国と独裁制諸国との冷戦状態だと言えます。つまり、自由主義諸国からの支援を望めないミャンマー軍は地理的に見ても中国を頼らざるを得ない状態であり、日本がミャンマー軍を支援しようがしまいがミャンマー軍の中国への傾倒は避けられません。そんな、中で日本がミャンマー軍にくみすれば、日本は独裁国チームの味方だと見なされかねません。再びアメリカ相手に戦うつもりでも無いのなら、即刻ミャンマー軍への制裁を発動すべきです。ただ、日本の現政権は中国に対しても極めて融和的であり、実際に独裁国チームに入りたがっている可能性も否定できず恐ろしい事です。  経済面から見ても誤っています。SDGsやESGやSRIは単なる理想論ではありません。世界規模での環境の改善や格差の是正は短期的な利益ではなく中長期的な経済の安定的発展には欠かせないものです。SDGsなどは環境問題や格差を無視しがちな独裁国を牽制するための経済界からの圧力という面が強いのです。一時的な利益に目がくらみ独裁国との濃い関係を続ける企業には制裁は下されます。実際に、中国の民族浄化政策を否定するかのような談話を発表していたユニクロで有名なファーストリテイリングが先日アメリカから制裁対象とされました。独裁国との関係を続けるならば自由主義諸国との対立は今後避けられません。冷戦の勝負がついた時に負け組であれば回復不能な打撃を受ける事でしょう。また、もし勝つのが独裁国側だったとしたら、多少のおこぼれにあずかれても待つのは

ミャンマー国民民主連盟解党

 軍のクーデターにより混乱が続くミャンマーで、クーデター前の選挙で大勝した国民民主連盟(NLD)が軍により解党されることとなりました。ミャンマーを軍事独裁国家にする気がありありと見て取れます。  NLDを率いるアウン・サン・スー・チーも権力を握っている時は、ロヒンギャ虐殺を行ったりと随分と酷いものでした。彼女もNLDもいずれはこの虐殺に対して裁きを受けるべきですが、NLDが積極的に虐殺を指導したと言うよりは軍の虐殺を止めなかったものとも言われます。今回、軍事独裁政権が確立すればスー・チー政権時代よりも状況は悪化し、ロヒンギャだけでなく他の多くの民族や民主主義者が虐殺の憂き目にあうのは間違いありません。こうした大量の殺人を止めるためには、ミャンマーの軍事独裁化を防ぐしかないのです。  その為に日本国内で平和的手段を用いて何が出来るのか?差し当たり、ミャンマー軍が関与していそうな宝石類は購入しない事です。ルビーや翡翠やラピスなど購入の前に産地を確認し、ミャンマー産だったり産地不明なものは買わないでください。木材や食材なども産地は確認しましょう。また、ミャンマー軍に協力的な企業の商品は買わないようにしましょう。  残念なことに日本政府も一部の日本企業も世界の潮流に遅れ、未だにミャンマー軍と経済的な連携を保っています。クーデター前のミャンマー国民へのアンケートでは日本に好印象を持つ人は7割を超えていたものが今や4割ほどに低下しており、ミャンマー人の失望が見て取れます。政府や企業に対してミャンマー軍に協力しないように圧力をかけるのも有効な手立てだと思われます。

七不退法

 観無量寿経でもおなじみの阿闍世王がヴァッジ族を征服しようとした時に、お釈迦様に使いを出してその是非を問うたとする話が南伝の方の涅槃経にあります。この時、お釈迦様は王の使いには返答せず、弟子の阿難尊者にヴァッジ族が組織を衰亡に向かわせない七つの法(七不退法)を守っているかを尋ねて、阿闍世王に侵略を断念させたと言われています。  この七不退法は、2500年ほど前のインドでは正しいと考えられていたものです。果たして現代に通用するかは別として、お釈迦様在世のころの世間の価値観をみる上で興味深いです。その七つの法とは、 1.多くの人が会議をよくすること 2.協力して問題に対処すること 3.古くからの決まりを守ること 4.年長者を敬うこと 5.女子供に思いやりをもつこと 6.聖域を大切にして布施にはげむこと 7.尊敬される修行者を快く受け入れること  の七つとなります。現代の日本の価値観だと、大多数の人がそうだと言ってくれる法は1と2だけになりそうです。3と4は改革を阻害するとされるでしょうし、5はパターナリズムとの批判は避けられないでしょう。6についてはそうあるべきだと思ってくれる人も多いでしょうが、現実問題として多くの寺社が朽ちていっています。7は修行者自体が珍しいですが、雲水さんはだいたい怪しがられています。また、現実として守られている項目は日本国としてみれば一つも無いように思えます。価値観は時代とともに変わるので致し方ない面もありますが、お釈迦様の予言どおりに日本が衰亡しないよう祈ります。

無料食堂

 数日前に、困った人を助けるために無料で食事を提供もする個人の店で、明らかに困窮しているわけではなさそうな人が大量にタダの弁当を要求し、店側もそれに応じているとの報道があった。世間の反応は不正利用する人に対する怒りに満ちていた。  店主の貧困に苦しむ人を助けようとする想いが、悪い人たちの貪欲の標的にされたわけであり世間の怒りは一定の理解もできる。だが、不正利用する人も心は貧困であるとはいえる。タダ飯を食わせてやる義理は無いが、彼らも心の貧しさに関しては救済の対象ではあるだろう。  店側は人を疑いたくはないとして不正対策の実施には消極的だ。また、貧困の判断に一定の基準を設けてその証明を求めるなどの不正対策を講じれば、利用へのハードルは上がってしまい本来の対象者も利用しづらくなるのは自明だ。  しかし遺憾ながら、不正対策が無い善意は踏みにじられるのが普通であり、不正利用者に対して怒り狂う人達は社会の善意を信用しすぎのように思う。それに、不正利用者は憐れむべき対象であり、怒りをぶつける対象では無い。  だが、不正利用を放置しその数が多くなれば、本来の目的である困窮者を救う効率は当然低下する。本来、行政が公的に困窮者へ十分な社会保障を施していれば、個人の店がこうした行為をせずとも済む話ではある。公的権力による福祉は不正利用を少なくさせるという点において個人の慈善事業より明らかに有利だ。効率のみを重視するのであれば、個人的努力よりも行政に働きかけたり寄付したりする方が有効だろう。一方、行政の手が届きにくい弱者に気軽に利用してほしいという理念を優先させて不正対策を行わない場合は、一定量の不正の発生は許容せざるを得ない。  もし、こうした善意の施しを仏教者が行う場合は布施行としての性格を帯びることになる。ここで少し、この無料食堂の行為を布施行として考えてみたい。布施行を行う時は、施した相手が施された物や心に対していかに酷い扱いをしようが、施主は気に留めてはならない。それは自分が手放したものであり、布施とともに自分の執着も捨てる目的があるからだ。ただ、例えば人殺しを計画している人に武器を施すのは布施ではなく犯罪の幇助であるように、布施を施す人や内容は選ぶ必要はある。また、布施はする方が誰にどこまでするのかを決めることができる。布施はあくまでも志だからだ。無料食堂の事業を布施だと考え

ヒューマンエラー

 新型コロナウイルスワクチンの大規模な接種が始まってから、間違えて使用期限切れのワクチンを使っただとか、誤って生理食塩水を注射しただとか、無駄な廃棄が発生しただとか、色々と問題が起きています。  しかし、これらのミスはある程度は想定の範囲内であり、ちゃんとエラーとして報告されるのはむしろ良いことです。今回の様に国民の大半にワクチンを接種しようとするような大規模な作業の場合、人間のミスによる失敗は必ず起きます。大切なのは、そのミスがどのような過程で生じたかを調べて、そのミスを起きにくくする対策を練ることです。決してミスをした人を社会的に吊し上げて個人に責任を取らせて、ミスが起きやすい素地を放置してはなりません。  今回の件だけではなく、多くの職場に作業マニュアルが存在するのは、それまでに生じた失敗の経験から、ミスを少なくするべくルールが作られたからです。そして、新たなミスは報告され検討されないと、次のマニュアルに反映できず、せっかくの経験が無駄になります。職場でミスが生じた時に、あくまでも個人的な責任よとミスの当事者を責めて懲罰を与えて、その恐怖から他の職員の注意を喚起するような方法では、ミスを生じやすくする作業方法の改善が出来ないばかりではなく、懲罰を恐れた職員は自分のミスを報告しなくなり、結果として組織全体の進歩を大きく阻害します。  マスコミは、こうしたミスをすごい勢いで叩きますが、マスコミにも日々生じているであろうミスはほぼ報告されません。ミスを糾弾し当事者を吊るし上げる企業文化がミスを隠蔽する体質を生むのです。

観経曼荼羅

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 観経曼荼羅は、観無量寿経に説かれる極楽浄土の様子を描いた変相図と呼ばれる絵像です。大化の改新の中心人物である藤原鎌足の玄孫の中将姫が當麻寺で一晩で織り上げたと言われる當麻曼荼羅が有名です。この當麻曼荼羅は當麻寺の本尊ともなっています。  さて、観無量寿経と言うと、どうしようも無い人間でも阿弥陀仏の名を唱えるだけで救われるという部分が注目されがちですが、経典の大部分は極楽浄土を瞑想で体感するための手引き書です。観経曼荼羅は極楽浄土のヴィジョンを絵画化したもので瞑想の補助として役立つものなのです。  では、極楽浄土を観じる瞑想にはいかなる効果があるのかというと、観無量寿経によれば仏は衆生の心に入り込んでいるから、その様子を念ずる時にその心がそのまま仏になるとされています。また、この瞑想は自分の脳でVRを構築するようなものであり恐ろしく集中力を要します。この極度の精神集中の結果として得られる禅定もあるかと思われます。  観無量寿経に説かれ観経曼荼羅に描かれた情景も、その元は昔の修行者が瞑想中に得たヴィジョンなはずであり、観経曼荼羅を見ると営々とつながってきた仏教の歴史を感じずにはいられません。

苦空無常無我

 苦空無常無我は有名な観無量寿経や無量義経などにも出てくる文言で、この世の有様を示す言葉です。この文言には大乗仏教の根幹である空が含まれていますので、大乗以前の経典には出てきませんが、原型となったのは初期仏典のダンマパダ(法句経)にも説かれる三相の考えかと思われます。  ダンマパダの277〜279には、全てのものは無常であり苦であり全ての事柄に我というものは存在せず、これらを明らかな智慧をもって観れば苦しみから遠ざかり清くあることが出来ると説かれています。この世は苦と無常と無我の三相から出来ている訳です。  仏教の基本要件である四法印は一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静です。この前の三つである三相を観た結果、涅槃寂静に至る事になります。  空の概念は、大乗仏教以前の仏教の縁起の思想を言い換えて重視した考えであり、三相を内包するかと思いますが、あえて三相に空を入れて苦空無常無我とした理由は、語呂の良さ以外にも、苦空無常無我の語順にすることで、この世に満ちる苦だって縁起によって成り立つかりそめの存在でありその中に自分はいないという印象を与える文言に仕上がっているようにも思えます。

つまらない映画

 最近はつまらない映画を観る事が減りました。映画界のレベルが上ったからではありません。映画自体を見る機会が減ったし、見ても評判が良い映画を選ぶようになったからです。  若い頃は誰も知らないような映画を友人らと観ては、うわーツマラネーとか言い合っていたものです。思えばこうして観た映画で隠れた名作を発掘出来たことは無く、今となってはタイトルも思い出せません。結果として時間の無駄だったわけですが、無限に時間があると思っている若い頃は映画そのものよりも宝探しのような行為の方がむしろ楽しかった事を覚えています。  老いてきて自分に残されている時間がどんどん短くなっていくと、時間の価値もどんどんと上がっていき、分の悪い宝探しはしなくなります。世の老人が堅実な事を愛するのは概ねそういう理由なのだろうと思います。  とはいえ、つまらない映画を観るよりもマシな事に貴重な時間を消費出来ているのかは疑問です。たまにはつまらない映画をみて、ああつまらなかったと笑える心の余裕は欲しいです。

五蓋

 煩悩の中で最も有名なのは怒り、貪り、愚かさのいわゆる三毒です。こうした煩悩が全ての苦しみの原因だとして、原因を立つことで苦を滅しようとするのが仏教の実践の基本的な指針です。  この実践の過程で精神の集中は避けられない重要な行となります。瞑想だったり座禅だったり念仏だったり題目だったりしますが、大体の仏教宗派では何らかの精神の集中を要する修行があります。その精神集中の妨げとなる心の覆いとなる煩悩を五つに分類して五蓋と名付けられています。  五蓋は、貪欲、瞋恚、惛沈睡眠、掉挙悪作、疑、の五つです。貪欲は貪り、瞋恚は怒りのことで三毒のうち二つと同じです。何かに対してイライラしていたり、貪りの心があっては精神の集中は出来ません。さて、惛沈睡眠の惛は愚かさとかぼんやりする様を意味しその状態に沈むのですから気分の落ち込みややる気の無さを意味し、その状態で起きる眠気とまとめています。掉挙悪作は逆にあちこちに気が散って落ち着かない様です。精神集中にも中道の精神が大切なのです。最後の疑はそのまま疑いのことですが、疑いを取るといっても何でもかんでも盲信すれば良いという訳ではありません。精神を集中させている時に、こんな方法じゃダメだとか、そもそも精神を集中させて何になるとかいう、批判や疑念が浮かんで集中出来ないのが問題なのです。そういう検討や新たな工夫は別の機会にすればよいのであり、集中するべき時は集中するべきなのです。  五蓋が取れていないと十分に精神を集中することが出来ませんので仏道修行も進まないということになります。でもまあ過労で心が疲れて眠い時は寝た方が体にも心にもいいですよ。これらの五蓋は心身の調子を整えていれば随分と除きやすくなります。まずは健康管理が第一です。苦行している俺ってカッコいいなどという発想は身を滅ぼします。

狂雲集より3

 久しぶりに一休禅師の狂雲集より「迷悟」  無始無終我一心  不成佛性本来心  本来成佛々妄語  衆生本来迷道心  現代語訳は多義的な解釈が可能かと思うので難しいですが、「私の心は一つで始まりも終わりも無い、この本来の心は成仏することもない、人が本来仏性を持っているというのは仏陀の妄言にすぎない、人間とは迷いの中に生きるものだ」としてみます。この訳に従って少し解説を加えます。  仏教の基本の一つはこの世に確固たる我という存在は無いとする諸法無我ですが、この七言絶句は起句から一見するとこれを否定しにかかっているように思えます。我の心は一つであるとしているからです。またここで我の心がただ一つであることを強調するのは自分の中に仏としての真我があるという考えを否定しています。我にこだわる本来の心は成仏することも無いのです。さらに人が本来仏であるというのは仏陀の妄言だと切り捨てています。大乗仏教の基本として全ての人は仏性を持つとする如来蔵思想がありますが、自分の中に真我である仏は無いと繰り返しているのです。そして、人間とはそもそも迷う心を持っているものだして句を締めています。つまり、我を持っている以上は成仏も無いということになります。そのうえで、我の心は始まりも無ければ終わりも無いとしているところにこの句のトリックがあります。この句でいう我とは原因と結果の関連性の中に受け継がれているかりそめの存在だから始めも終わりも無いのです。自分の中に真の我である仏がいるのではなく、関連性と因果関係を観るところに仏性はあらわれるものです。さて、この時に仏や悟りを分別することなく、迷いに生きる我の心の範囲は世界と同じであり迷いの内に悟りがあるのです。  これが正解かどうかは分かりませんが、佛の妄語という挑発的な歌は当時のそして現代に至るまでの仏教者に対する一休禅師からの明らかなお誘いであり乗らない手は無いです。真我を想定しなくても仏性は現れるので如来蔵思想も妄言では無いと思いますが、確かに内に秘めた謎の自我が安易に物事を解決し人間を悟りに導くという誤解は危険だと思います。一応これを答案として答え合わせはあの世で一休禅師を探して受けたいと思います。

余ったワクチン

 新型コロナウイルスのワクチン接種で予定していた人の体調や諸事情でキャンセルになった場合に、とりあえず手近な人に接種するという行為がみられます。ワクチンは常温に戻してからの使用期限があるので破棄するくらいなら有効活用した方が良いのですが、一部には優先枠で無い人に対する接種を批判する声もでています。  先月下旬に鹿児島の離島でワクチンの接種が行われましたが、こうした余りが出る事態も想定しており余ったワクチンは無駄にすることなく船員たちに接種されています。この時は称賛の声も上がっていたはずです。  今年1月ごろのアメリカでも同様の状況はあり、高齢者などの優先接種会場で余って破棄される予定のワクチンは付近にいる人に接種されました。この破棄予定のワクチンを求めて会場に接種を希望する人があつまるという現象もみられましたが、特に批判されることもありませんでした。ワクチンを無駄にすることなくなるべく多くの人に接種させる事が何よりも大事だからです。  今月になって、こうした予定外の接種に批判が出てきたのは、優先枠外の行政や企業のエラい人が政治的な圧力をかけていち早い接種を行ったり行おうとしていた不正事件が発覚したため、破棄予定のワクチンを使用した市長や医療従事者の家族まであたかも不当に優遇されているかのように批判されはじめたからです。  確かに、わざとワクチンを余らせてコネのある人がいち早くワクチンを接種するという可能性もありますが、そんな少数の不正利用を恐れて余ったワクチンを全て破棄するのは非効率極まりありません。不正対策として、不自然なワクチン残余が出た会場は査察を入れるようにすれば不正も減らせる事でしょう。  二人の人間が溺れそうになっている時にどちらを助けるかという問題で、自分に近い距離の人からという回答をするのは仏教法話などで良く聞きますが、余っているワクチンを有効期限内にさしあたり近場の人に接種してもらうのも良いことです。それではどうしても受益者に偏りが出ると言うのであれば、ワクチン接種が開始され頃のアメリカのように会場の外で待つ人達に余ったワクチンを接種できるようなシステムを作るのも良いと思われ、行政には一考いただきたいところです。  世間もピリピリしており、とにかく何か口実を見つけては他人を批判する風潮があります。こんな時こそ慈悲の心を大切にしたいものです。

布薩(ウポーサタ)

 かつて出家僧達は新月と満月の日に集まり、自分達が戒律に反していないかを確認するために具足戒の項目を読み上げる布薩(ウポーサタ)という集会をしていました。初期仏教の経典であるサンユッタ・ニカーヤにもジャントゥという神の子がこの布薩の席にあらわれて、堕落した僧に苦言する話があります。  そもそもの戒律がゆるい日本ではあまりメジャーな集まりではありませんでしたが、主に禅宗や律宗などで行うお寺もあります。また、在家信者が各月の8日、14、15日、23日、29、30日の6日間(六斎日)だけでも8つの戒(八斎戒)を守って身を慎むことも布薩と呼ばれます。  日本の僧侶で具足戒を受けている人はごく少数でしょうし、在家信者も現代において六斎日に八斎戒の全てを守る人は殆どいないでしょうが、定期的に我が身を振り返る機会を設けておく事は良いことだと思います。  ちなみに八斎戒は1.殺さない、2.盗まない、3.性行為をしない、4.嘘をつかない、5.酒を飲まない、6.正午以降は食事をしない、7.歌舞音曲を鑑賞したり着飾ったり香水を用いたりしない、8.地面に敷いた狭い寝具を使って休む、の八つです。この内、前の5つは在家信者が日頃から守る義務のある五戒に似ていますが、性行為に関する規定が不道徳な性行為の禁止から性行為そのものの禁止と厳しくなっています。  そもそもの布薩は自分の行いが戒律に反してないかを省みる日なのですから、六斎日に八斎戒を守るようにとされたのは在家信者も定期的に慎まやかに過ごして自省せよとの意味が込められているのかと思われます。しかし、健康のために寝具はある程度の質は欲しいところですので、最後の項目を実際に守るのはお勧めしません。また、正午以降の食事摂取の禁止も、特に暑い時期や寒い時期は体によろしくないかと思われこれもお勧めしません。殺さないのと盗まないのと嘘をつかないのと不倫をしないのは日頃から守らなくてはならないことです。特定の日に自省する時間を設けるのなら、その日は酔い潰れたり遊び疲れてクタクタにならないようにするくらいが、現代的かも知れません。  多少ゆるくても定期的に自分の行いや考えを省みる機会を予定しておかないと、人は容易に堕落します。月末の10分程でも時間をとって反省し翌月の行動に活かす習慣も一種の布薩とよべると思います。良ければお試し下さい。

三階教

 かつて漢土の南北朝時代から栄え唐の玄宗皇帝の弾圧で滅び去った三階教と呼ばれる仏教宗派がある。三階とは衆生の能力を時代と場所ととも分類したもので一階が仏陀の教えに則った一乗の衆生、二階が仏滅後に伝わった三乗(声聞、縁覚、菩薩)の修行をする衆生、三階が救いがたい邪見の衆生となり、三階教がおこった時代は悪く世界も衆生も悪いとされ、もはや仏陀が説いた一乗や後の三乗の教えでは救われないと考えた。これは浄土教の正法・像法・末法の区分に類似している。こうした衆生を救うために、仏法僧への徹底的な帰依を行う普敬と、自己のあらゆる罪の懺悔を行う認悪が勧められた。  このうち普敬とは自分以外の全てを仏として崇める、法華経の常不軽菩薩のような発想であり、このような物のみかたを普仏普法と呼んだ。この実践にあたり信者から布施をつのり集まった金銭などを困窮した人に与える無尽蔵院というシステムが構築された。現代で言うところの募金活動である。こうして莫大な富を手にした三階教では不正行為もみられるようになり、強力になりすぎた無尽蔵院は玄宗皇帝によって三階教ごと叩き潰されたのである。  また三階教は、三階の分類と同類の末法思想を持つ浄土教とは宗論を戦わせたことも知られている。これは、浄土教が阿弥陀如来一尊を崇拝するのに対して、三階教はあまねく存在を仏として崇めていた事が主な論点だった。  また、三階教の認悪は徹底的に自分が悪である事をみつめるもので、これも自己の凡夫性を徹底的に見つめる浄土教と似ている。さらに自己の内に悪が出来上がるさまを観察することで普敬の障りとなる煩悩をコントロールするという禅の修行のような面もみられる。  なかなかに面白い教えだが、徹底した弾圧によりあまり資料が残っていないのが残念だ。

1212年

 茨木のり子の「知」という詩に「仏教の渡来は一二一二年と暗記して 日本の千二百年代をすっかり解ったようなつもり」との一文がある。はじめこれを目にした時はいや一体何を言っているのだ!?と驚いてその後の詩文の鑑賞などありはしなかった。後で知った事だがこれは皇紀1212年の事で西暦だと552年となる。現代では仏教公伝は西暦538年との説が有力だが、第二次世界大戦の敗戦までは仏教公伝は1212年と教えられていたのだ。  しかしながら、この詩は1971年発行の「人名詩集」に収録されており、もうとっくに皇紀での年号記憶の教育はされていない時代だ。茨木自身が子供の頃にそう習ったのは間違いなく昔に作った詩なのかも知れないが、端的に言って左派よりの茨木があえて皇紀を使ってそのまま発行した理由が気になって色々と想像してしまう。  私が知らないだけでどこかで種明かし済みの可能性もあるけど、こうして作者の意図に思いを巡らすのも何やら先人のイタズラに引っかかったような面白さを感じてしまう。正解かどうかは分からないがこの詩は解ったつもりになる事と伝える事の難しさが詠まれており、ワザと分かりにくくしたと勝手に納得している。詩自体を紹介したいのはやまやまだが、まだ著作権は生きているので避けた。

母の日とジェンダーとミーム

 今日は母の日です。アメリカの母の日が日本にも導入されて祝われているものです。5月第2日曜日の母の日は日米の他にも多くの国で祝われますが、中東では春分の日に母の日が祝われることも多く、他にも各国様々な日付の母の日があります。日本も昭和初期は地久節と言って皇后誕生日を母の日としたことがありました。天皇誕生日が天長節と呼ばれていたので天長地久をセットとしたアイデアだったのでしょうが一般には普及しませんでした。  母の日は世界様々ですが根底には母親の愛情への感謝があります。仏典でも母の子への愛情を仏の衆生への慈悲にたとえる表現がしばしばみられます。これをジェンダー的に問題視する向きもありますが、例え話として有史以来の人類の共通認識である母の愛は理解しやすいものです。しかしながら、仏典に説かれるような母の子への強い愛情を、そういうジェンダーに洗脳され役割を強要された結果だとする昨今の風潮は果たして今後も続いていくのかは気がかりです。それを見届けるには私の命は短いのも残念です。  こうしたジェンダー論を唱える人が主張するのは、母親としての愛情を持った女性が子を教育する時にジェンダー的洗脳を行い母と言う名のいびつな奴隷が再生産されるというものです。確かに、長い歴史の中で親からの子への考え方や心の伝承が行われ続けたという事実はあります。問題は、その伝承された母親像を憎むべきイデオロギーととらえるか、ありがたい愛情ととらえるかの違いです。同じ事でも視点によって感じ方は変わるものです。また、長い歴史の中で広範にその存在が指摘されている母性が生物的な性質でなく思想の類であったとしても、長きに渡り人類の生存に適した思想であった訳です。歴史的に母親の愛情なんてあるべきでないという思想も存在し続けたけど極めて少数派にとどまり続けたのは、その思想は母子間の伝達力が弱く、他の人へ口頭や文章で水平的に伝わるか突然変異的に出現するしかなかったからだと思われます。  さて現代は人類の歴史上もっとも水平方向への情報伝達能力が高まっている時代です。母性を否定する思想にとってはいまだかつて無い拡散と増殖のチャンスとなっています。ただ、この思想の持ち主はその考え方の特徴からして、そうでない人より子を作らないと思われるので思想(ミーム)の運び手としての人間の再生産力には劣ります。彼らの水平方向の思想拡散を受けつ

破僧

 破僧は仏教の中でも最も重い罪である五逆罪の一つで、僧の和合を破ることです。他の4つは母殺し、父殺し、阿羅漢殺し、仏身を傷つけることとなります。組織に仲間割れを起こすことが傷害や殺人レベルの重罪と見なされていた事になります。  ところが、何をもって破僧と言うかは紀元前3世紀頃に大きく変化したという説があります。それまでは、お釈迦様の教えと違う事を説くのが破僧とされていましたが、この時既にお釈迦様の入滅から300年ほど経過しており、縁起や無常などの基本的な考えは共通でも細かい分野において違う考えは当然出現するわけです。しかし、お釈迦様がいない以上は多様な意見のどれが正しいのかは決めようもありません。そこで、ともに行事を行っていれば破僧にはあたらないという考えが生まれ主流となっていったとされます。西遊記で有名な玄奘三蔵がインドに学んだ時も、大乗仏教をはじめ多様な部派が同じ学院内にあったとされ、意見の不一致を破僧とは見なしていなかったようです。  こういう姿勢は一見するといい加減なように思えますが、僧団や教団に限らず人間の意見なんて多様で当たり前なのです。それらが一定の社会性をもった集団であり続けるには、多様な意見に対する寛容性を持つと同時に、社会的秩序を保つための最低限の行動もともに出来ないという人達には何らかの処置が必要となるのです。仏教界においても、破僧など最重罪に対しての罰は教団からの追放です。  多様性や寛容さは大切ですが、実際に暴虐な行いをする者らに対しての寛容さなんて無用なのです。それに、暴力や威圧に屈して悪の尖兵となることは寛容さではありません。

狛犬

 狛犬と言えば神社の守護獣的な存在として馴染み深いですが、元々は古代メソポタミアなどで神前を守る一対のライオン像が起源と言われ、それがインドで仏前を守る獅子像となり、漢土に伝わり日本にも当初は獅子として伝わりました。日本にはライオンがいなかった為に犬と勘違いし朝鮮(高麗)経由で伝わったので高麗の犬がなまって狛犬となったとの説もありますが、古いお寺には獅子と有角の狛犬が一対となっているところも多く、少なくとも当初は獅子が何か分からなくても犬とは別物と見られていたと考えるべきでしょう。また、獅子と狛犬のペアでも狛犬のペアでもその口は、開けられた阿と閉じられた吽の形で対になっている事が多いです。阿吽はインドの聖典などに使用されるサンスクリットの語順表の始めと終わりの音で、この二つを合わせることで物事の始まりと終わりを示しており、やはり狛犬は仏教の影響からできたものと言えます。なお、日本語の五十音図もサンスクリット語の語順表から作られました。阿吽は「あ」と「ん」です。  神社の狛犬も多くは刺青の図案で有名な唐獅子牡丹の唐獅子様の姿をしており、やはり犬というよりは獅子なのでしょう。そう考えると、古代メソポタミアで神を守っていた一対の獅子像は、日本で犬扱いされたけど姿形は獅子であり今でも日本で神仏を守っている職務に忠実な神獣と言えます。お勤めご苦労様です。

音楽とジンクスと記憶とお経

 個人的な話で恐縮だが1987年にヒットしたSwing Out SisterのLPレコード"It's better to travel"をかけると嫌なことが起きるというジンクスが小生にはある。曲自体は好きだがこのレコードをかけると何かしら起きるので、もう30年以上このLPがターンテーブルに乗ることは無くなった。その後の時代がCDに変わりそれも廃れてデータ配信が主流の世の中になっても、新たに購入したり再生させることも無かった。無論、そんなジンクスは単なる偶然であると理解しているのだが、これらの音楽をかけて何かしらの凶事が起きるのを恐れていると言うよりは、これらの曲を聴くことで嫌な思い出もありありと再生されるのを避けているという面が大きい。  一方で、1970年10月ウィーンのゾフィエンザールで録音されたサー・ゲオルグ・ショルティ指揮のタンホイザー(パリ版)をかけると何かしら良いことが起きたという経験から、これまた個人的に縁起のいい曲として、ここ一番の勝負所やそうで無い場合でもよく聴く歌劇となっている。もちろん、これも単なる偶然であり、聴いたからと言って常に良いことが起きるわけでもなく思い返せば残念なこともあったが、曲とともに思い出される良い記憶が世の中なんとかなるという気持ちを呼び起こさせてくれる。  さて、世間一般ではお経は不吉で気持ち悪く縁起でもないと考える人も多いが、これも小生の音楽のジンクスと同様に、お経をお葬式の悲しい時にしか聴いていない事に由来するのかもしれない。お経を聴くと人生最悪の思い出が呼び起こされるというわけだ。逆に、今では少数派となったが、日常的にお勤めのあるご家庭では、良いことがあった日も悪いことがあった日もお経は人生とともにあるので特に悪いイメージもわかないだろうし、お経が人生の浮き沈みに関わらず心の支えになっていたのならありがたくも感じることだろう。  お経が気味悪がられない社会が来ますように。

こどもの日

 5月5日はこどもの日、端午の節句で男の子の日とされていましたが、男の子の節句とする風習は鎌倉時代頃から存在はしたものの確定したのは江戸時代で割と最近の話です。厄災を払う端午の節句自体は奈良時代に漢土より伝わったものですが、ずっと古くの日本では田の神様を迎える女子のお祭りであったとの説もあります。3月3日は桃の節句で女児の日とされるので、5月5日が祝日なのはバランスを取った気もしますし、昨今ではジェンダー問題もあり性別をつけない方がよいのかも知れません。子どもたちの健やかな成長を願います。  しかし、思えば昔の子供の扱いは悪かったです。かつては尊属殺人が極めて重罪だったことからも分かるように、親と子の命の重さの差は天と地ほどの開きがありました。近年、子供の虐待問題が報道を賑わせていますが、これはそういう事件が問題視されるようになっただけで、以前はしつけ中の不幸な事故として問題にすらならなかっただけです。1970年代の人気アニメのガンダムで、上官的立場のブライトから殴られた主人公のアムロが「親父にもぶたれたことないのに!」と言い、それに対して「殴られもせず一人前になった奴がどこにいるものか」とブライトが返答するシーンがありますが、当時これを観た人の多くはブライトさんの暴力に眉をひそめるのではなくアムロの甘ったれた身勝手さに失望したものです。それより古いアニメの巨人の星では父親の暴力は日常茶飯事であり、親や場合よっては先輩や上役が暴力で子供に言うことをきかせる行為はほんのちょっと前までは教育の範疇だったのです。それからすると子供の扱いは年々改善しており、長男以外は家の為にいつでも死ねるようにと教育された世代からすると隔世の感があります。なお念の為ですが、これは常識や法律の変遷であり昔の親に子供への愛情が無かった事は意味しませんし、逆に暴力を振るわないから今の親のほうが子供への愛情に満ちているということも意味しません。ただ、暴力を防ぐ常識や法体系の方が優れているのは言をまちません。暴力への歯止めが無いと、弱者たる子供は容易に被害者になるからです。  しかし、改善したとはいっても未だに子供の虐待は後を断ちません。こどもの日にあたり、全ての子供が暴力の恐怖にさらされることが無いように切に祈ります。

宝誌和尚立像

 京都の西往寺所蔵で京都国立博物館に寄託されている宝誌和尚立像は、映画トータルリコールのように顔が左右に割れ中央部に真の顔が出現するという面白い構図となっています。この像は平安時代の木造で、蓮台に立ち、右に施無畏印、左手の薬壺を持っています。中の顔は(十一面)観音菩薩のものとされており、宝誌和尚が観音菩薩の化身であるとの伝説に由来します。  宝誌和尚は南朝宗〜斉〜梁の時代、5世紀から6世紀前半に漢土に実在した僧で、奇異な行動や予言などの神異で有名となり梁の武帝の尊崇を受けていました。日本でも宇治拾遺物語に、宝誌和尚の肖像を残そうと帝に遣わされた絵師の前で和尚は真の姿を示すと言って親指の爪で額の皮を割き中から金色に輝く菩薩の面相が表れたと伝えられ、西往寺所蔵の宝誌和尚立像のモデルとなる逸話が伝えられています。  宝誌和尚は何か仏教史に残るような事をした訳ではありませんが、その特異な行動が注目を集め、観音信仰と結びついたことにより今に残っているものと思われます。観音菩薩はさまざまな姿に変化していろんな立場の人を救うと伝えられており、ダライ・ラマ法皇や聖徳太子や親鸞上人など多くの人がその化身だとされています。もしかしたら、あなたの隣にいる人も観音菩薩かも知れませんね。

仏教者と詩

 言に寺と書いて詩という文字になる。漢字の成り立ちとしての詩は別にお寺とは関係しておらず、寺は発音を表す符号に過ぎない。また、元来の寺という言葉の意味は役所や外交使節の迎賓館のような性格の建物であり、寺が現在のお寺の意味になったのは、西域から旅をしてきた仏僧が白馬に乗り四十二章経を携え洛陽の寺に迎えられたことに起源があるとも言われる。この伝説は後漢初期の話であり、漢字の歴史を考えると詩という文字にお寺の意味は込められていない。  だが、古来より多くの偈文や和讃などの仏教詩が作られてきた。初期仏教の経典に至っては全て詩の形式をとっている。これは仏教の特性というよりは、強い想いを伝えるのに詩という形式が適していたのだと思われるのと、初期仏教においては経典は書字には残されず全て口伝であった為に覚えやすい形式とする必要があった為でもあるだろう。  このように仏教と詩の関係は深く、このブログでも幾つか仏教に関係する詩歌も紹介してきたが、こうした詩の鑑賞にはある程度は仏教の前提知識を要するものが多く、詩人の魂の咆哮たる一般の詩文とはいささかの違いがある。仏教詩には程度の差こそあれ、その教えを伝えようとする意思が込められており、そこには、市井の自由詩のようなあるいは流行歌にのせられた歌詞のような、感情から迸る執着や愛憎や貪りや怒りはない。良寛さんの歌の一部にあるような感情に富む歌ですら、それが仏教詩として読まれる時は裏の意味付けを考察されてしまう。禅問答などに見られる詩的で強い言葉も、実は計算ずくで弟子への教育のためのものであり、やはり一般の詩とは一線を画する。  だが、心に訴えかける勢いを持つ一般の詩文を感情的な煩悩の塊よと見下すのは仏教者として適切ではない。方丈に閉じこもり瞑想の世界に遊び他人の苦しみを知らない者にいかなる慈悲の心が持てようか?世間の詩歌にこもる想いを体感として理解出来ない者は人の苦を苦として感じないことになる。自分が苦を感じなければ、他人の苦には共感せずに知らぬ存ぜぬという態度は少なくとも大乗仏教的とは言えない。また、他人の苦など知らないとする聖者が果たして本当に苦を滅し尽くした聖者なのかは怪しいものだ。自分の煩悩に蓋をして見ないようにするだけでは煩悩は消えはしない。自分の煩悩を直視して苦悩する詩人の方がよほど誠実だと言えよう。

少欲知足とポリアンナ症候群

 少欲知足は仏教の基本の一つです。あれもこれもと貪らず、今あるものに感謝し満足することです。この精神があると布施や持戒や忍辱がはかどります。  ポリアンナ症候群とは医学用語ではなく、小説「少女ポリアンナ」「ポリアンナの青春」の主人公ポリアンナがどんなに苦しい目にあってもその中になにか良かった事を探して明るく振る舞うのになぞらえて、悲惨な状況を受け入れそれに満足する人やその状態を指すようになった言葉です。同じくポリアンナの小説に由来して、不快な事より楽しいことの方が記憶に残るというポリアンナ効果という言葉もあります。多くの人の思い出が美化されやすいのはこの影響かも知れませんが、逆に嫌なことばかり気にして覚えている人もいるので個体差は大きいのでしょう。日本では「愛少女ポリアンナ物語」というアニメもあったのでポリアンナの名前や「よかった探し」は知っている人も多いかと思います。しかし、ポリアンナ症候群は、例えばブラック企業での奴隷労働に幸せを見つけ過労死しそうないきおいで奉仕する洗脳された人などを揶揄して使われる事が多い言葉で、ポリアンナのイメージもすっかり悪くなりました。  さて、仏教の少欲知足はポリアンナ症候群のようにツライ現実から目を背けた弱者の現実逃避なのでしょうか?少欲知足だけに執着し実践するとそうかも知れませんが、仏教は体系的な思想です。仏教ではそもそも奴隷労働のような悪行やその助長は禁止されていますので、そのような事態には陥らずに済みます。どんな思想でも部分的に切り出してそれのみに執着すれば酷い結果になることもあります。中道の精神をもって精進しましょう。

仏法僧の三位一体

 維摩経の中に多くの菩薩がそれぞれが思う不二の法門に入る事を説明し、最後に維摩居士が沈黙でこれに答える有名なシーンがあります。この中で寂根菩薩は次のように説きました。  「仏とその教えとその教えを実践する僧はをそれぞれ別のように見えて一つだ。仏はその教えに表れ、教えは僧によって実現する。この仏法僧の三宝は全て因果を離れた不生不滅の無為としての特性を持ち何者も妨げない虚空と同じだ。世の一切のことも同じ様に捉える事ができる。この行にしたがうならば、それは相対的な差別を超え絶対的な平等を実現する法門に入ることが出来ると言える。」  仏も法も僧も無為の表れとする仏教界の三位一体のような考え方です。キリスト教の三位一体は、神たる父と、子たるイエス、そして信者の内に宿る聖霊が等しく神の表れであり、同時に、父は子ではなく、子は聖霊ではなく、聖霊は父ではないとされます。つまり、神=無為、父=仏、イエス=法、聖霊=僧、に置き換えると類似の図式となるのです。ただし、キリスト教では「である」と「でない」は明確に区分されていますが、仏教では「である」と「でない」の区分を究極的には避けるのが大きな違いです。つまり、仏は法であり法は僧であり僧は仏になりえて、全てが無為なのです。