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10月, 2021の投稿を表示しています

当位即妙

 機転が利いている事に対して使われる当意即妙という言葉は、日蓮遺文に書かれた当位即妙が元となったと言われます。発音が同じだけで意味は変わってしまっていますが、表記も本来は意でなく位だったので、昔の人のシャレ心だったのかも知れません。本日は当位即妙の方の話です。  当位即妙は、法華経の方便品第二にある「是法住法位 世間相常住」(法華経は真如であり、この世界もまた常に法とともにあります)を受けて日蓮遺文に「法華経の心は、当位即妙不改本位と申して、罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」と書かれているのが由来となっています。要は、罪業を持った凡夫も仏であり、そのまま仏道を成就しうると説いているのです。当位即妙の発想は悩める人達をすぐに救う当意即妙な答えですね。    

選挙に行こう

 選挙に行きましょう。明日は衆議院総選挙と最高裁裁判官国民審査の日です。小生の住む選挙区も控えめに言って政治家としての資質に欠けるとしか言いようのない候補者しか出ていませんが、その内の誰かを選ぶしか無いです。どうしても選べなければ白票でもいいので行くべきです。投票率が上昇すれば、各政党の組織票を支える人達以外の国民の声も政治家は無視しづらくなります。裁判官審査は事実上罷免は不可能という著しい制度上の欠陥がありますが、投票に行く前に広報をチェックしておきましょう。罷免されなくてもX印が多ければ、おかしな意見を出した裁判官も多少は反省するかもしれません。  そもそも、組織票を投じる予定の人はほぼ全員投票に行くでしょうから、選挙に行こうと呼びかける対象は、選挙に行かなさそうな人達です。あなたの投票した人が選挙でも負けても票数は民意の現れであり、その数が多ければ多いほど勝者もそれを無視できなくなります。また、先述のように投票率の向上は一部のコアな支持者以外にも利益をもたらします。選挙に行かない無関心層が増えれば増えるほど、少数の組織票で日本の行末は決定されてしまいます。  組織票と言っても多種多様で、各党の党員・党友、労働組合、宗教団体、職種別の利権団体などがあります。それぞれかなり意見も違うので少数の組織票が世の中を決することは無いとの意見もあるでしょうが、自由な個々人を説得して回るよりは容易に達成できます。また、組織票と言うと与党となりうる大政党にばかり目が行きますが、非現実的でバカみたいなことしか言わない泡沫政党が長く存続出来るのは少数でも狂信的な組織票が存在するからです。国会議員は強い権限を持っています。少数でも狂信的な団体が議員を操っているのは国にとって有害です。投票率が上がれば、そうした危険人物を国会から退場させる事も可能です。  選挙に行きましょう。

右翼による皇族バッシングの特徴

 皇族バッシングと言うと左翼の専売特許かのように思われがちだがそうでもない。不敬罪があった戦中・戦前においてもハト派の昭和天皇に対するタカ派からの批判はあった程だ。  ただ、もちろん日頃の皇室、皇族への攻撃は左翼が中心だ。左翼の多くは天皇家そのものの廃絶を画策しており、皇族方を模した人形を死刑にしたり、ポルノ画像と合成するなどの脅迫・名誉毀損などを繰り返し、直接命を狙ったり危害を加えようとした事件もあった。日本国憲法を無視して天皇家を廃しようとする勢力の多くが護憲を叫ぶのはなんともおかしな話だ。日本国憲法では天皇は日本の象徴であり、伊勢系の神道の理念からしても天皇と日本は同一とみなせる。左翼こそが改憲を訴えるべきではないだろうか?  一方で、皇室を擁護する立場にあると思われがちな右翼も戦中の天皇批判の一部にもあるように皇族をバッシングすることがある。近年に至っては皇族バッシングの勢力としての右翼は左翼をうわまらんばかりの勢いだ。右翼の皇室バッシングにはある種の特徴がある。それは平民の血を引く女性皇族が主な攻撃対象であり、その中で最も目立ち立場の弱い女性が叩かれる。だから、一時は苛烈な勢いで叩かれた女性皇族がその後、同じ人達によって崇め奉られたり、一度は礼賛しておいてから特に証拠もなく徹底的に叩くなどの怪現象まで起きる。要は理念も筋も無い弱いものイジメだ。しかも、攻撃対象が変わっても途切れなく叩かれ続けられる特徴もある。過去を振り返ってみよう。  まずは戦争の記憶も鮮明だった1958年、現上皇陛下が皇太子時代に正田美智子さんとの婚約が発表されるや、平民が将来の皇后になるのかとして、主に右翼勢力による常軌を逸したバッシングが行われた。また平民が気に入らない右翼勢力だけでなく、左翼勢力からも美智子様がブルジョアの出であることが攻撃の材料とされたが、驚くべきことに右翼勢力もこれに乗っかり母方の祖父の会社が起こした公害と美智子様を無理やり関連付けて叩く者までいた。こうして今では国母とまで仰がれる美智子様も上皇陛下との成婚後30年以上に渡り、罵詈雑言と誹謗中傷を浴びせかけられ続け心労から声が出なくなることまであった。そんな中でも美智子様は公務をこなされていき、徐々に国民の支持を得ていった。また、1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災などでは、陛下とともに被災地を見

百万塔

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 百万塔は、藤原仲麻呂の乱の後に、称徳天皇の発願により鎮護国家と滅罪の為に造られた百万基の小塔で、その中には無垢浄光第陀羅尼経の陀羅尼が銅版によって印刷され収められています。この陀羅尼の大半は西暦767〜769年にかけて印刷されており現存する制作年が明らかな世界最古の印刷物としても有名です。  称徳天皇と言えば、愛人の僧侶である道鏡に帝位を明け渡そうした愚行で知られますが、この無駄に多い百万塔の制作もむべなるかなというところです。  百万塔は、21cm強の三重の小塔十万基に十基の七重塔と一基の十三重塔がつけられた状態を一組として、十の大寺院に十万基づつ収められました。各寺院は小塔を収める泰安殿を作り小塔院や万塔院と呼ばれましたが、時代を経るごとに焼失などしていき現存するものは法隆寺由来の四万六千基ほどと言われます。現在でも法隆寺の大宝蔵院の順路の最後の方で百万塔の一部を見ることが出来ます。また奈良にある真言律宗の小塔院は元興寺の小塔院跡です。  過去には小塔が民間に譲渡される事もあり、その圧倒的な数からか勅願の品なのに割とぞんざいな扱いを受けています。勅願の品とは言っても奈良の大仏や各地の国分寺と比べるとインパクトにも実用性にも欠いており、有り体に言って数が多すぎなのでそんなものでしょう。とはいえ百万塔は約1300年の時を経て今に伝わる貴重な文化財ではあります。時々ネットでも売ってますが真贋定かでなく手を出さない方が無難でしょう。  

コラボラトゥールを狩る気持ち

 第二次世界大戦末期、連合国によりフランスが解放されるとナチス・ドイツ占領下のフランスでドイツ側に協力した人たち「コラボラトゥール」に対する暴行や殺害などのリンチが横行した。ドイツ人の愛人だったとされる女性が丸坊主に髪を刈られ晒し者にされている有名な写真を見たことがある人も多いだろう。しかし、ドイツの占領下のフランスで全くナチスに協力しなかったフランス人が如何ほどいたのかは甚だ疑問だ。フランスのワイン業界もナチスから利益を得ておきながら、あたかも抵抗したような伝説を吹聴するなど自分らの身を守るのに必死だった。  どんな悪逆な政権に支配されようとも、そこの住民の生活や経済活動が終わる訳ではないのだから、何かしら政権との経済的な交流が発生するのはやむを得ない話だ。コラボラトゥールを狩るフランス市民の多くも幾ばくかコラボラトゥールであったに違いない。だが、より確実にコラボラトゥールである人間を叩いておかないと自分の身も危うい状況だ。叩く側にいる時は少なくとも安全だから、暴力は加速していく。  もちろん、祖国フランスを奪い、自分たちの命を危険にさらし、民族の誇りを傷つけたナチスに対して報復したいと思うのは、善し悪しは別として自然な感情ではある。積極的にナチスに協力しレジスタンスの殺害に加担した者などは、ナチスが敗れた以上は処罰を免れ得ないだろう。だが、それは裁判によるべきであり、間違いなくクロであっても、私刑により処断されてはいけない。  なぜ、今コラボラトゥールの話をしているのかと言うと新型コロナウイルス感染症に関する陰謀論の事だ。コロナの流行は、まだ終息したとは言えないが、ワクチンや治療薬の開発もあり、いずれはコントロール可能になる目処も立ってきた。少なからぬ犠牲が出たが人類の勝ちはもはや確実と言って良いだろう。この終戦後、ウイルスやワクチンに関する非科学的なデマを吹聴した人達は恐らく大衆の私刑の標的となる。騙されて死んた患者の遺族らの気持ちを考えると、私刑を容認したくもなるが、やはり言論による抗議に留めるべきだろう。  また、今後も同じことが無いように法的な整備も必要だ。例えば町中で毒ガスを噴霧すればテロであり殺人であり刑事罰の対象だが、一定の割合で信じる人が発生する致死的なミームをネットや言論空間にばらまいても刑事罰の対象にはならない。言論の自由は大切だが、民族憎悪

兎角

 実在しないウサギの角についてあれこれ議論しても無益であるように、誤った分別や執着は無駄です。  実在しない陰謀や悪の秘密結社についていくら考え対策をしても、実社会においては無意味なだけでなく有害です。コロナやワクチンの陰謀論で、ワクチンを推進する医者を脅迫する人達がいたのを見れば納得できるでしょう。  ただし、いろんな非実在を想像してみるのは楽しいものです。そうした妄想が小説となって世に流通すれば、娯楽産業となります。それで気分が良くなる人もいれば儲ける人もいるし、ハマりすぎて他に必要だった時間を浪費する人もいるでしょうし、そこから深い考えを得る人もいるでしょう。  また、学術的な問題でも未知の領域に対して仮説をたてるには想像力が必要とされ、実在が確認されていないけど実在するかも知れないモノを仮定しその性質を推測しそれを確認するための手段を考え実験するのは大切な能力です。  実在しないものに執着するのは無駄ですが、無根拠な盲信さえなければ発想の自由さはあった方が良いでしょう。

ご先祖様と三十三回忌

 正月に各家庭を訪れる歳神様は、故人の霊が長いこと祀られてご先祖様と一体となった神であるとの説がある。  日本の仏教で年忌が概ね三十三回忌で終わるのは、こうした仏教伝来以前からの祖霊が一定期間祀られると神になるという思想との習合だといえる。  神道では傑出した人物を神として祀る事はあるが、大半の一般人は個別に神として祀られることはなく、祖霊の一つとして祀られ長い時間が経過すると、その家のご先祖様に統合され神として扱われることになる。  故人が長く祀られると、お参りする側で故人と直接の面識がある人は徐々に減っていく。三十二年はまだ故人を覚えている人がいるうちに祀り上げるという意味では理にかなっている期間と言えるだろう。  ちなみに、仏教が残っていた頃のインドでは一部の宗派で七日ごと七回、四十九日までの追善供養を行っていた。これが漢土に渡ると十人の王様が死者を裁くという現地の思想と習合しインドの七回に加え百箇日と翌年の一周忌さらに二年目の三回忌が加わり合計して十回の仏事が行われるようになった。日本ではさらに七回忌と十三回忌と三十三回忌が足され合計十三回の仏事が営まれるようになり、各仏事を担当する十三の仏への信仰も成立している。  こうした習合はあるが、日本古来の神としてのご先祖様は成仏してどこか遠いところに行くことはなく、ご近所にとどまっているのが普通だ。ただ、日本の仏教宗派でも浄土真宗は成仏した故人はこの世に戻ってきて人々を念仏の道に導くとされており、祖先が自分たちを見守っているとの考えは受け継がれているよう思える。  こうした、先祖にあたる神仏を拝むのは圧倒的に強い親からの恵みを期待するという面もあるだろうが、自身が死んだ後に残る家族が心配で、彼らを守る神仏でありたいと願う人の気持の表れでもあるだろう。

恩知らずと知恩

 人は恩を仇で返された時に相手のことを恩知らずな奴だと非難しがちですが、そもそも恩返しされる事を期待して何かをしてはいけません。こちらが与えた何かしらの物や行為に対して恩を感じるかどうかはあくまでも受け手の問題です。  しかしながら、我が身を振り返ってみると自分が生きていく上で存在する外からの支えの多さに対して、適切な恩を感じているかと言えば怪しいものです。大半の事は当たり前のこととして感謝もせずに享受しているのが現実です。  仏教で知恩や報恩と言えば多くは仏様や宗祖に対するものです。こうしたものはわざわざ気に留めて知らなければ恩にも感じないので殊更に強調される訳です。同様に、自分が生きているだけで、色んなものに支えられているのだと注目しその恩を知るのは心穏やかに過ごす為に大切なことです。人は油断すると悪いことばかりに目が行きがちですが、それでも人の世がなりたっているのは、その悪を凌駕する支え合いと恩に世界が満ちているからでもあります。  恩を知れば世の中そう捨てたものでもありません。

公共哲学

 公共哲学は、その言葉を使う人によっていささか意味合いが異なることも多い。だが大雑把に言うと、公共に関する問題への取り組みは、利益や効率の追求のみならず、正義や倫理的な理念を基本としてなされるべきだという考えだ。  しかるに近年の日本の、いや世界の政治家のうちこうした公共哲学を持っている人間がいかほどいるか?皆無だ。自分らの支持者の利益を最大限にする為に血道を上げる者が大半であり、それ以外は理念なき反対をする為に軸のない妨害を繰り返す者たちだ。  もっとも、利益や効率化はその恩恵を受ける人達にとっては正義であり倫理的ですらあるだろう。その意味では世の政治家はそういう哲学を持っていると言えなくも無い。ただ、何らかの政策の実施は、それで得をする人と損をする人が必ず発生する。損得だけで物を考えても、得をする方が多数派ならば、その政策方針を堅持すれば選挙にも勝てるという寸法にはなるが、それは敗者の切り捨てとなり、社会の分断が加速される。  選挙における利益誘導は実に有効だ。実際に受益する選挙民だけでなく、そうでない人も利益にありつけるように勝ちそうな方の主張に己を合わせようとするので、国民の多くが実際には納得はしていなくても、いわゆる地滑り的な勝利をおさめる政党も出てくる。  民主主義国における国会議員は国民によって選ばれる。国民が自分の利益にしか興味がなければ公共哲学を持たない政治家ばかりになるのは自然な事だ。そして、人間は公共よりは自分の利益を優先するのが普通だ。だが、各自の利益追求を先鋭化すれば分断と対立も先鋭化する。悲惨な争いを避ける為の妥協点を公共とだとする発想に行き着けば、利益追求の中にも正義や倫理が入り込む余地も生まれるだろう。  選挙も近いが候補者も選挙民も少しだけ公共哲学について考えてほしい。

苦行の様な過重労働で成功した話を迂闊に信じてはいけない。

 世の中には苦境から努力して成功をおさめた人の話が溢れている。下積み時代の狂ったような労働時間、限界を迎え朦朧とする中での天啓のようなひらめき、文字通り血を吐きながら体重と健康を損なって掴み取った勝利などなど、こうして成功した人は確実に存在する。それはそれで良いのだが、忘れてはいけないのは、同じような努力をしてしまった人の大半は成功できなかったのであり、最悪の場合は再起不能となったり死んでしまった人もいるということだ。  苦労して成功した人の自慢話はありがたく拝聴させてもらうとして、そんな無茶苦茶なことをすれば成功する確率が上がるのかというとそんなことはない。人間は、十分に健康維持に配慮した快適な環境の方が作業効率が上がるのは明らかだからだ。  だから、もし若い頃にすごい苦労をして成功した人がいたとしても、その苦労を若者に強要すべきではない。むしろ、若い世代に福利厚生が行き届いた環境を提供してあげるべきだ。良い環境には良い人材が集まるものだ。  自分の限界を知るために一度は無茶をした方が良いという意見もあるが、人は疲労が蓄積し限界に近づくほどエラーを起こす。管理された訓練でならいざしらず、現実の仕事で限界に近づくのはリスク管理上許してはならない。

トロフィーハンティング

 巨大な生物や珍しい生き物を狩って記念撮影したり、その剥製をインテリアとして飾るトロフィーハンティングは動物愛護活動が盛んになった半世紀ほど前から徐々に批判されるようになってきて、今では反感を持つ人の方が多くなっている。1977年に連載が開始されたマンガ銀河鉄道999で主人公鉄郎の母が機械伯爵にトロフィーハンティングされた残虐な描写もこうした時代の流れに沿うものだと言える。それより前の世界ではスポーツや娯楽としての狩猟の存在は自然なことだった。  狩猟を害獣狩りや食料の調達ではなく、あくまでもスポーツやレジャーとして楽しむ人達も古くからいた。有史以前からあったとされる鷹狩りも当初は狩猟目的で開発された技術だったと思われるが、中世以後は娯楽色が強くなっていった。近代では狐を馬で追い回して猟犬に食い殺させるイギリスの狐狩りも軍事訓練を兼ねた娯楽であった。日本武士の騎射の訓練とスポーツをあわせた犬追物では特殊な矢を使うことで犬は射殺されることは無かったものの、これは動物愛護精神というよりは犬の再利用という現実的な利便性による面も大きかったと思われ、現代のバス釣りおけるキャッチ・アンド・リリースに通じるものがある。たまには死ぬけど概ね殺さない程度に動物を痛めつけるのは動物愛護的で優しいということにはならないだろう。なお、日本ではブラックバスは特定外来生物に指定されてはいるものの、これが禁止するのは飼養や運搬や保管や輸入であり、キャッチ・アンド・リリース自体は一部の自治体によってのみ制限されている。  こう言うと通常の釣りでの魚拓や記念撮影はどうなんだという指摘もある。確かに昔から大魚を釣った時は魚拓を取ったりもしていたが、これは結局は食すので、生活に必要な範囲での漁でたまたま大物を捕ったのを記念に記録しただけであり、バス釣りのようにスポーツだった訳ではない。大物を釣った時の記念撮影も魚拓と同様にトロフィーハンティングだとして批判される必要はない。だが、そうは言っても一部ヴィーガンなどの動物愛護過激派からは苦情も出るだろう。もっとも魚類に関してはトロフィーハンティングとして批判される事は少なく、主な批判対象はやはり感情移入しやすい哺乳類が狩られた場合だ。  こうしたトロフィーハンティングへの批判は、時代による動物愛護精神の隆興により出てきたものだ。だが歴史的には、狩猟技術の優

その争い今必要ですか?

 無量寿経の後半、人々の愚かさを嘆く以下の部分があります。  然世人薄俗 共諍不急之事 於此劇悪 極苦之中 勤身営務 以自給済  現代語訳では「ところが世の人は愚かにも(悟りを目指さずに)、不急のことで争い、この悪と苦しみの中で働いてどうにか生きている。」となります。  今日もニュースを見れば、世界中で理不尽な怒りで容易に他人を傷つけたり殺したりする事件が後を絶ちません。ちょっと考えが違っただけで怒り狂って多くの人を爆殺することに一体何の意味があるのか分かりません。どうせ100年も待たずにみんな死ぬのだから少し落ち着くべきです。短い人生でも怒らずにいたらその間に善い事も出来たでしょうに、残念です。  下らないことで怒らずに、心穏やかに過ごしたいものです。

長春包囲戦終結の日に兵糧攻めを考える

 1948年10月19日は長春包囲戦が終結した日です。中華民国の長春を攻める共産党の人民解放軍が行った約5ヶ月に及ぶ兵糧攻めにより30万人を越す民間人の餓死者が出ました。改めて犠牲者の冥福をお祈りします。  さて、長春包囲戦のように第二次世界大戦以降も存外に兵糧攻めは発生しており、1967〜1970年のビアフラ戦争では都市だけでなくビアフラ共和国全体が包囲され物資の流通が滞った為に大規模な飢餓状態が発生しました。今世紀に入ってからも中央アフリカやシリアの内戦で局地的な兵糧攻めは多用されています。  兵糧攻めは非戦闘員に多大な被害をもたらす非人道的な作戦です。兵糧攻めを受けた時に真っ先に被害を被るのは社会的弱者からとなります。少ない食料が均等に配分されることは通常ありません。最後まで食事にありつけるのは組織的暴力を行使しうる勢力です。長春包囲戦でも少ない食料は国民党軍が独占し口減らしで市民を追い出すという暴挙も見られました。もちろん共産党が追い出された市民を救助するはずも無く、両軍が対峙する中で民間人が飢え死にしていったのです。  そんな非人道的な兵糧攻めですが、攻め手側からすると兵力の損耗を防ぎつつ勝てるので使われやすいのです。ただ、その実施には敵を包囲し物資を遮断して内部からの突破や脱出を防ぎ、外部の敵援軍を警戒せねばならず、相当に有利な状態で無いと出来ませんし、それを支える補給も大変なものになります。また、守る側も敵の兵力をその地点に拘束出来るメリットはあります。  諸問題はありますが、兵糧攻めは決して昔話では無く実際に今でも使われています。食料問題はそのまま安全保障問題であるのを忘れてはなりません。

父母未生以前

 昨日、沢庵和尚の話をした流れで、本日は沢庵和尚が武士に説いた法話集「太阿記」からお話をして参ります。  表題の父母未生以前は一般の禅語です。自分はもちろんまだ両親も生まれていない時の意味で、それから凡俗、善悪、有無などの概念的把握を拒否する悟りの本体を示す言葉として使われます。私達が自分だ我だと思っているモノは様々な概念的把握の上に成り立つ無常で本体のない思い込みでしかないのです。  さて、そんな父母未生以前ですが、太阿記の中で兵法者について語ったところでも見られます。現代語訳では「兵法者とは勝ち負けにこだわらず、強い弱いにこだわらず、動かずして勝つものだ。人間的な偏見にとらわれた敵の自我からでは、こちらの真の我を見ることは出来ない。また、こちらの真の我は敵の自我による兵法を見ない。これは敵を見ないと言っているのではなく、見て見ないようにするのが良い(不動智と同じこと)ということだ。さて、ここでいう真の我とは天地が分かれるより前、父母未生以前の我だ。この我は自分にも鳥獣などの動物や草木などの生き物の一切にある我だ。これはすなわち仏性のことだ。だからこの真の我は影も形も生も死もない。肉眼で見えるものではなく、悟った人のみ見ることができる。それを見たひとを見性成仏(仏性を見ることで悟る)の人という。」となります。  要は武道の心を悟りへとつなげている訳です。スポーツ競技などでも勝ち負けや強弱への執着からくる不安感や焦りは競技そのものへの集中力を欠かせるものであり、心を自由にしてこだわらないのは重要なことです。兵法だけでなく、日々の仕事や学業にも同じ事は言えそうです。

剣術と不動

 有名な沢庵和尚はこれまた有名な徳川家兵法指南であった柳生宗矩と親交がありました。こうした縁もあり和尚から宗矩に送られた言葉をまとめたとされるのが「不動智神妙録」です。その中の法話で面白いのが、物に心を止めずに自由に動き続けることを不動智と呼んでいることです。心が何かにとらわれるとそこに分別が生まれてしまい、自由に動けなくなる。こうした心が止まった状態は不動とは言わないのです。例え話として、10人に斬りかかられた時にその中の1人にのみ注意を払って心を止めれば他の刃は避けられないが、心を自由にすれば対応出来るとあります。もっとも斬りかかられるのが天下の剣豪柳生宗矩ではなく凡人ならば10人が刀をもって襲ってきた時点でどのみち助からないと思っておいた方が良いでしょうが、言わんとしているところは理解できます。スリは、被害者が財布以外の何かに注意を向けている時を狙うものです。  スポーツのフェイントも何か真の目的以外に選手の注意をそらすことで成り立っています。つい引っかかって心がそちらに捕らわれると、出し抜かれてしまうのです。  個別のスポーツや武術以外にも、軍事や政治や日常生活においても余計な物に執着して本質を見誤る事は多々あり、用心してまいりたいところです。

留守神

 旧暦10月の別名は神無月で、日本中の神様が出雲大社に出向くため、出雲以外の地域に神様がいなくなるとしてこの名前がつきました。  しかし、お留守番をして地域を守る神様もおります。恵比寿さんこと蛭子命もそうした留守神の一柱で、留守番中の恵比寿さんを祀る恵比寿講が日本各地で10月下旬や11月下旬に行われます。  他にもかまどの神さまも留守神とされます。かまど神は家の守り神としての性格が強く、神無月でも各家庭にとどまっている印象が強かったのでしょう。  他の有名所ではお諏訪様こと建御名方命も諏訪にとどまるとされています。建御名方命は国譲り神話で天つ国からきた武御雷命に敗れて諏訪から出ないと誓っているからかも知れませんが、建御名方命が出雲に参った時に巨大すぎる蛇に身を変じており扱いに困ったから参集しなくてよいことにしたとの言い伝えもあります。鎮西大社諏訪神社の秋の例大祭である長崎くんちも10月に行われます。  また金毘羅様も留守神ですが、金毘羅様は元々インドの仏教を守る護法神クンビーラであり、明治の廃仏毀釈の影響で金毘羅様が実は大物主命だったとされるまでは、日本の神々の系譜にあった訳では無いので自然な流れでしょう。  神様だけでなく世の中には留守を守ってくれている人がいます。帰るべき場所が守られているから存分に働くことが出来ると言うものです。感謝。

昔は良かったり悪かったり

 昔は素晴らしかった、今の世は堕落しているなどと批判されるときの「昔」は本当の昔ではなく過度に美化あるいは捏造された昔でしかない。アプリオリ的に万事が理想的な世の中なんて過去に一度も存在したことはない。いつの世も良い面もあれば悪い面もある。だから現在だろうが、特定の時代の過去だろうが、その全てを否定したりあるいは全てを肯定するような言説は間違っている。あくまでも個別の事柄について考え批評するべきだ。  だが物凄く長期に渡り続いて来た昔の伝統や思想は、その長い期間の社会や人々に共通して受け入れられる要素があるから途絶えずに続いてきた訳で、何かしら見るべきところがある。  昔は素晴らしかったと言われがちなのは、実際の昔では無く、昔から延々と生き残ってきたすごい物事が昔の全体像だと錯覚されやすい為でもあるだろう。  こういう錯覚を放置すると、古い物ほど良いというマウント合戦が発生する。仏教の場合だと、僕が考える一番古い仏教はこういうものだったから、その後の伝統や宗派は間違っているとか言い出す輩までいる。理屈では無く古い物こそ絶対正義だと思ってしまっているからどうやって元祖を詐称するかにこだわり本質を見失うのだ。  実際に僕が考えた原始仏教系の意見をいくらか見れば分かると思うが、みな言ってることがバラバラだ。要は自分が考えた思想にハクをつけるために原始仏教の看板を掲げているに過ぎない。もっともこうしたマウント合戦は大昔からあり、如是我聞と言われても真に仏説だったかはあまり信用ならない。だが、これならお釈迦様も説いたに違いないと言う経典が仏説として生き残って来たのだから、現代において僕が考えた原始仏教を説かれる諸氏は後世に残るような素晴らしい思想を編み出すよう精進して欲しいものだ。

秘事法門

 秘事法門は浄土真宗系の異端の総称のようなもので、古くは真宗の開祖親鸞聖人に義絶された実子善鸞の教えも含まれる。果たして善鸞の教えが今でも残っているのかは分からないが、近年見られる浄土真宗系の新興のカルト教団などとは違い、かなり古い歴史を持ち現代まで秘密裏に教義が伝えてきた集団もある。  親鸞聖人の曾孫で本願寺第三代門主にあたる覚如上人も、阿弥陀如来ではなく宗教指導者を帰依の対象とする知識帰命を行う「夜中の法門」と呼ばれるものがあると改邪鈔の中で指摘している。浄土真宗中興の祖の第八代蓮如上人もその御文章でいくつかの秘事法門を批判しており、なかには自己と仏を一体と捉え仏を拝まない不拝秘事というものもあった。この不拝秘事は見方によっては密教の即身成仏のような考え方でもあり、潜伏している間に他宗派や他宗教の色んな要素を取り込んでいったとみられる。  こうして潜伏して伝えられた秘事法門は一般の僧侶を敵視し、伝承する俗人の宗教指導者に帰依し礼拝するもので、弾圧の対象でもあった為かその組織は小規模の物だったが、方々に分裂して広く伝承されていった。戦後の昭和時代にもたまにこうした集団の報告はあった。秘事法門は個々にかつ秘密裏に伝承されるものであるから、一つの秘事法門が調べられても全国にどれほどの集団がいるのかは分からない。だが、伝承の形態を考えると地縁の薄くなった現代では恐らく減少し続けていると思われる。  潜伏状態で伝承された教えにどのようなバリエーションが生じているのか学問的に気になるが、恐らく今後も明らかになることなく徐々に滅びていくのだろう。諸行無常。

手灯

 手灯とは掌中の油に浸した灯心に火をともす苦行で、法華経の薬王菩薩本事品二十三にある悟りを求めるならば手足の指の一つでも灯明として仏塔を供養せよと勧められている事に由来します。この勧めの前には喜見菩薩が自分の身を灯明として師の浄明徳如来と法華経を供養した話も描かれています。末法思想が広がった平安中期以降では、実際に指を灯火にしたり、さらには焼身する往生行をする人もいたと伝えられます。  数年前にチベットでの民族弾圧に抗議して焼身自殺する人が多くいましたが、自らを灯火として仏を供養し、苦しむ祖国の人々に自由と平和が訪れるように祈願した例もあったようです。  苦しい世情の中では極端な事をする人は増えるものです。なんとも悲しい話ですが、そもそもお釈迦様は苦行を否定しています。命は大切にしましょう。

世に争いの種はつきまじ

 人間が二人以上いれば、その意見が完全に一致する事は無い。ましてや多くの人で構成される社会ではなおさらだ。もし、全ての国民が同じ考え方をする国があれば、それは独裁国でそう言わされているだけだろう。  意見が違えばそこに対立が生まれる。平和的な話し合いで妥協点を探れるうちはまだ良いが、決定的に違う意見や価値観や目標も持つ複数の勢力どうしでは争いを避けるのは難しくなってくる。  徹底的な寛容を訴えたところで、寛容な社会の実現のためには、他に不寛容な勢力に対して不寛容にならざるを得ない。  遺憾ながら争いはある方が普通の状態といえる。ならば、その争いがより悲惨で無いようにしようとする努力が大切だ。そのためにはどうすればよいだろうか?  一般的に争うことが少ない価値観が近い者どうしが仲間となるのだが、その中では多少の利害関係の違いがあってもお互いに譲り合って平和が維持される。貪らずに譲り合うのは気持ちが良いだけではなくお互いの益にもなる。また、仲間どうしでは滅多なことでは怒らない。日頃から譲り合いをしている仲間には話し合いが通じると思っているからだ。これが、日頃から敵対して話が通じないと思っている相手だと人は容易に怒る。そして怒りのぶつけあいは争いを拡大させる。相手に対する無知が話を通じにくくさせ更に敵意を強くする。利益の相反があっても相手の立場を理解すればいくらかは対応の仕方もあると言うものだ。  争いをなるべく小さくするには、相手の事をよく理解し、無駄に敵を作らず、仲間を大切にすることが肝要だ。仏教が初期の段階から仲間(サンガ)を大事にしてきたのは、仲間の集団を維持することで貪りや怒りや無知が解消されやすくなると分かっていたからなのかも知れない。

コロンブス・デー

 1492年10月12日にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」したことを祝うコロンブス・デーは現在では10月の第二月曜日となっており、2021年は10月11日だ。コロンブス・デーは連邦政府公式の祝日だが、実際に休みとなるかは州によりまちまちとなっている。  さて、このコロンブス・デーはアメリカの先住民からはすこぶる不評であり、毎年反対運動が起きている。コロンブスは2度目のアメリカ航海でアメリカ原住民の虐殺を行い、白人による新大陸の植民地化の礎を築いたことがその理由だろう。  アメリカ先住民や有色人種に人権など存在しなかったころのアメリカ白人の視点では、コロブスは危険な航海を乗り越えて見事に新大陸を発見し世界を拡大させたヒーローだ。それが500年近く続いてきたのだ。2001年開園の東京ディズニーシーにも普通にコロンブス像がある程度には、アメリカ人の中にコロンブスは偉い人という感性はあった。  歴史とは勝者の歴史であるとはよく言われる事実だ。500年前の白人社会では勝利者であり倫理的に何も問題無かったヒーローでも、そのヒーローから虐げられた人々の子孫が人権を獲得すると、それはそのヒーローが築いた世界の敗北な訳だから、新たな勝者によって新たな歴史が作られる。  類似の例もあげておこう。南北戦争で敗れた南部がその名誉を回復するのには相当の時間がかかった。その後、南部に南軍将軍像が多く建ったのは、南部が立ち直って北部と同じアメリカ人として宥和し敗者ではなくなったからだ。だが近年、南北戦争時代の白人のスキーム自体が崩壊したことにより、南軍将軍らの像は大量破壊された。  これも歴史の流れよと言えばそれまでだが、当時の白人達は、非道極まる悪鬼羅刹を崇める悪魔的人種だったという風な解釈は間違っている。当時の白人達がその英雄を尊重したのは、英雄がが酷いことをしたからではない。あくまでもその勇敢さや知略や郷土愛などをたたえていたのだ。  現代の価値観からみて昔の人間に瑕疵があった場合に批判し考察するのは良いし、時代に応じてシステムを変えるのも自然な事だ。だが、歴史を理由にその子孫らが先天的に非道徳的であるかのように叩くのは間違っていると強弁しておく。

許由と巣父

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 西本願寺の国宝の唐門が先日、予定より早く修復完了した事を記念して、本日は唐門にも彫られている許由と巣父の話をします。なお写真の許由と巣父は修復前の2017年のものです。  許由と巣父は日本画の題材としても良く用いられています。許由は聖帝とも言われる堯から禅譲を申し入れられたものの断ります。許由は汚らわしい政治の話を聞いて耳が汚れたと潁川で耳を洗います。そこに牛を連れて現れた巣父が許由に何をしているのかを尋ねます。事の顛末を聞いた巣父は潁川が汚れてしまったので連れてきた牛に水を飲ませられなくなったという話です。  無為自然を尊ぶ老荘思想から見たら政治や帝位はこれほどまでに汚らわしいものなのです。許由が堯からの禅譲を断る話は莊子にも書かれています。  また、漢魏叢書の高士伝では、許由は先に事の顛末を巣父に話します。話を聞いた巣父は許由が隠遁生活をせず社会にその才をひけらかすからそのような事になるのだと批判します。それを恥じた許由が耳を洗い目を拭き二度と巣父に会うことは無かったと伝えられます。  これらの言い伝えはもちろん仏教のものでは無く道教のものです。実はこの唐門がなぜ西本願寺にあるのかはハッキリしておらず、聚楽第や豊国神社あるいは伏見城からの移築との説もあります。     許由     巣父

ウイグルのアトラス織

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 ウイグルこと東トルキスタンの名産品の一つにアトラスという絹織物がある。アトラスとは絞り染めの意味だとされるが染められるのは絹糸の段階であり、製法としては絣だと言える。  シルクロードはその名の通り絹の交易で栄えた路だが、なかでもウイグル南部の街ホータンは古くから絹の生産が盛んで、その起源は1世紀頃までに遡るという。高名な玄奘三蔵もホータンを訪れており、漢土からホータンに養蚕が伝わったという蚕種西漸の話を残している。1901年この蚕種西漸の場面を描いたと思われる板絵がホータンのダンダン・ウィリク遺跡から英国の考古学者スタインにより発見され大英博物館に所蔵されている。ホータンの絹製品は質がよく、絹製品の元祖である漢土に輸出されるまで発展した。  アトラスには独特の柄があるが、7世紀頃に日本に伝わった仏教の幡(広東平絹幡)にもこれに類似した柄の絹が使われており、以前から同様の柄だったのかも知れない。ホータン王国は紀元前3世紀にインドから来たアショーカ王の子がその礎を作ったという伝説もあり、その後11世紀まで仏教の盛んな地域であったので、漢土に輸出されたアトラスが日本に伝わった可能性もあるだろう。ホータンは宝石の玉の産地としても知られており、シルクロードにあって交易が盛んだった。  さて、そんな歴史をもつアトラスだが、中国のウイグル人弾圧によりその文化の命脈も断たれようとしている。亡命ウイグル人たちにより食事、服飾、音楽、舞踊などの文化や言語を保つ努力がなされているが、異国でのこれらの活動は困難を極める。ぜひ助けてあげてほしい。 アトラス 広東平絹幡

夜景がきれいな街

 夜景がきれいだとして有名な街はいくつもあるが、その多くは一様では無い変化に満ちた光で溢れている。住宅街や歓楽街や工場や街灯や信号などの性格の違う光に溢れ、ランドマークとなる道路や橋や建造物さらに海や山のアクセントと調和してきらめく美を出現させる。  しかしながら、人口減少の進む街では、夜景の光も少しずつ減って、歯がかけたように闇のかたまりが散在して往年の輝きが失われていく。  また、行政の方針でも夜景は変わる。独裁国に占領され弾圧を受ける街の灯りは寂しげだ。  真っ暗な山野にポツンと灯る民家の光も中々に趣があるものだが、長く見慣れた街の光がどんどん寂しくなっていくさまは改めてここが諸行無常の世であると思い出させてくれる。

サイレントマジョリティと沈黙の螺旋

 沈黙の螺旋とは、社会の中で多数派に意見に対して少数派は発言しにくい状態となり、多数派の意見はより強く少数派の意見はより弱くなっていく現象のことを指す。これに抵抗するために、多数派の意見にあえて疑問を投げかける姿勢が重視される。  しかし、沈黙の螺旋により言いたいことが言えなくなるのは必ずしも少数派ばかりではない。よく、軍事独裁政権の崩壊後にその国民が自分たちは脅されて仕方なく旧政権にしたがっていたんだという場面を目にする。これに対して外国からは、軍事政権下では積極的に独裁者に協力した大多数の国民は責任逃れのためにそんなことを言って無責任だとする批判がおきる。確かにそういう側面もあるだろうが、独裁者が武力を背景にこれこそが正しい意見だと強く宣伝してきて、個々の国民が他の国民はみんな独裁者にしたがっていると信じれば、実は独裁者を嫌がる国民がマジョリティだっとしても、彼らは自分は少数派だと思い込み、ニセの沈黙の螺旋現象がおきる。多数派である反独裁者の意見は社会の中でどんどん弱くなり、独裁者の意見を支持する人がどんどん増えることになる。  マジョリティが声を上げる時に、それが沈黙の螺旋を生み出し少数派を圧迫するかも知れないという配慮は必要だが、正しいマジョリティがサイレントマジョリティとなって沈黙すれば、少数のプロパガンダによりサイレントマジョリティはサイレントマイノリティと化すのだ。  だから、冷静に考えておかしいと思えば自分が自分のことをマイノリティだと思っていてもマジョリティだと思っていても声をあげるべきなのだ。どんなにおかしな意見が多数派のように思えても間違っているものは間違っている。空気なんか読んじゃいけない。

サブリミナルのコーラは無かった

 サブリミナル効果は今でもその実在を信じている人が多いが、実際は眉唾ものだ。  この伝説の発端となったのは、1956年、アメリカの映画館で「ポップコーンを食べろ」「コカ・コーラを飲め」というメッセージを客に認知出来ないようにわずか1/3000秒スクリーンに映しだしたところ売上が上昇したというデマだ。この嘘を広めることでこうした映像を映し出す装置を売って儲けようとしていたとの説もあるが、今となってはそれも本当だったのかどうか分からない。そもそも1/3000秒映画のコマとコマの間に映し出す技術は当時は無い。設定からして無理だし、実験の方法や条件も詳細は発表されておらず、もちろんこの実験の学会報告も論文も存在しない。この実験をやったと主張するヴィカリーはアメリカ連邦議会等からの要請で1/20秒のメッセージを5秒おきに映す実験を行ったが、やはり効果は無かった。この実験は単盲検もされておらず科学的な意味は無いが、多くの人が信じているポップコーンとコーラのサブリミナル効果を示す実験は無かったのだ。また、その後、リプトンのアイスティーのメッセージに効果がみられたとする報告もあったがBBCの再検では統計的に有意な差は無かった。他の実験でも明らかなサブリミナル効果を認めるものは存在しない。  だが、自分が知らないうちに誰かに操られているかも知れないとする人々の恐怖は強く、今でも世界の多くの国でサブリミナル映像は禁止されている。  実際に効果は無いと思われるが、TBSのようにサブリミナル映像を用いた報道番組を作って批判された実例もある。この場合おそろしいのは恐らく存在しないサブリミナル効果よりも、それを利用して視聴者の心を操ろうとする意思をもった報道関係者がいると言うことだ。

中立と中道

 中立と中道は混同されがちだが違う。対立する二者のどちらにも与しないのは中立だと言って良いが、必ずしも中道ではない。対立する二者の片方でも極端な意見の場合は、対立を放置し極端な意見を半ば容認するのは中道では無いからだ。  また、対立する二者の中間の意見を機械的に主張するのも中道では無い。対立する二者の意見の中間が極端ならば中道では無いからだ。たまたま、その中間点が中道的でもあっても、その意見が考えなしに機械的に導かれたのならば偶然に過ぎず、主体的に考えて中道だった訳では無い。  例えば、何某民族を皆殺しにしようと主張する極端な集団と、それに反対する集団の中間をとって、では何某民族の半分を殺しましょうと提案するのは、中道でも中立でも無い。  対立する二者の中間があたかも中立で中道だと思い込ませるような言説はしばしば聞かれる。過激な意見の持ち主は、両論併記だとか言論の自由だとかを盾にして、その極端な意見を社会にねじ込もうとするのだ。

制度への固執

 長く続いている既存の制度の多くは、長きに渡り有用であったから残ってきたといえる。長く続く制度はその理念と融合して伝統となることもある。しかし、理念と制度は元々は別のものだ。真に守るべきは理念であって制度の方ではない。理念が実現しやすい様に時代や地域によって制度は変えるべきであって、制度に固執して理念がないがしろにされる事があってはいけない。  理念がないがしろにされたまま制度に固執すれば、やがてその制度が本格的に環境に適応出来ずに執行困難になった際に、当初の理念とは全く違う形で新たな制度が出来てしまうこともある。  近年では労働問題がそうだ。昭和型のパターナリズム的な終身雇用と年功序列制度は、その裏にどんな人でも飢えや貧困にあえぐ事がないようにという理念があった。その後、終身雇用や年功序列が非効率的で競争力を阻害する元凶として槍玉に挙げられるようになったときに、元々の理念が失われていたから、競争至上の弱者切り捨てを容認する制度に変わっていった。  また、一見すると理不尽で不合理な学校の校則も、それが成立したのは、いわゆる学生運動が盛んな頃であり、この時代背景を考えるとなぜにかくも厳しい校則が出来たのか分かるだろう。当時、日本を恐怖のドン底に落としていた多発する共産テロに対して、学校が管理を厳しくしたのが現代の校則の雛形となっている。現代に残るこの校則の理念は子供や若者が暴力に怯えることなく安全に教育を受けるようにするというものだ。学生運動が終息したあとも、中学高校を中心に暴走族や不良グループなどの準反社組織が暴れた時代もあったが、社会の努力でそれらもほぼ壊滅した。平和な現代において昔の規則は過剰であり、子供が安全に学べる理念を現代に活かすような校則に変更すべきだろう。  仏教においても、大切なのは理念だ。その修業方法や生活様式が古代インドのものと違うから偽物だという人も、制度に執着し本質を見失っていると言えるだろう。

法螺

 法螺貝は戦国時代を扱った時代劇の戦場で吹き鳴らされたりするので有名ですが、法華経や無量寿経にも仏の説法の例えとして法螺を吹くとの表現がされており、これらの経典が成立した時代の北部インド地方でも巻き貝を大きな音を出す道具として使っていた様です。法螺の螺は巻き貝の意味ですから、仏法と法螺は当時から関係が深かったのでしょう。  一般に法螺を吹くと言うと、話を大げさに盛ってでまかせを吹聴する意味になります。仏でもない人間が、自らを仏であるかのよう語ればなるほどホラを吹いたことになります。仏教の法具としての法螺貝は、今でも修験道や密教などの一部宗派で法螺貝を吹く音を魔除けなどに使っています。  法螺貝はチベット仏教でも笛のように使われています。また、ハワイでも法螺貝の楽器があり、フランスの古代遺跡でも笛としての法螺貝が見つかっています。恐らく文化が伝播したのではなく、各々で楽器のように使っていたのでしょう。昔々の世界各地でそれぞれの土地の人がふと巻き貝を吹いてみて「おお、大きな音がする!」と感動したのだろうなと思うとなんだか微笑ましいですね。

因果応報と公正世界仮説

 縁起の思想は仏教の基本で、物事には必ず原因があると考えます。この世は苦しみであり、その苦しみの根本の原因が煩悩であるから、煩悩を滅すれば苦しみも消えるという図式は初期仏教から変わらぬ構図です。    この世の中の原因と結果は必ずしも一対一ではなく多くの原因と結果が複雑に関係しあっています。また、なにかの原因も元は他のなにかの結果であり、今うまれた結果は新たな原因となっていきます。大昔の知らない人がどこかでした咳払い一つがドミノ倒しのようにして、現代の私達の生活に影響を及ぼしている可能性もありますが、そんな影響は山のようにあって一つ一つの力は微々たるものでしょう。ですが雨粒の一つ一つが集まって鉄砲水をもたらすことがあるように、小さな力の集積は巨大な力となるのです。一人の人間が煩悩を小さく出来ても差し当たりその一人の心が落ちつくだけですが、一人の精神の安定は周囲の人にも良い影響を与えます。みんなが煩悩を小さくすれば社会的には大きな影響が現れるでしょう。  よく善因善果、悪因悪果と言われるように、善い行いには良い報いが、悪い行いには悪い報いがあるとされます。  例えば、過度の飲酒により、脳や肝臓や膵臓を痛め死ぬ人もおります。この場合は飲酒が原因となって病気となったので悪因悪果と言えるでしょう。大量に喫煙して肺気腫を患い酸素吸入が必要な状態でもタバコをやめられずに火災になり死んだ人も悪因悪果です。しかし、飲酒や喫煙だって、それを原因として病気になりやすい人となりにくい人がおり、その報いは不公平極まりないものです。努力で病気になる確率を下げることはできますが絶対ではなく、聖人君子でも残虐非道の殺人鬼でも病気も怪我もしますし、いずれはみな等しく死にます。  逆に善いことをして気持ちが良くなるのは善因善果です。別に善いことをしたからと言ってお金持ちになったりすることは直接的にはありませんが、日頃から善行をしていると人間としての信用が増し仕事がしやすく成るという効果も善因善果と言えるでしょう。ですが、何か見返りを求めるような心で行った事は元より善行にはなりません。即物的な結果ではなく、煩悩を小さくすることで物事をなるべく中道に見ることが出来るようになるのが強いて言うなら善果ですが、結果ばかりを求める心も貪欲という煩悩です。  正義は必ず勝ち、悪は必ずその報いを受けるという誤った考

YouTubeの陰謀論規制

 YouTubeが根拠のない反ワクチンの陰謀論を規制するようにしたという。大変よい取り組みであり、多くの陰謀論書籍の広告が掲載されている新聞各社にも見習ってほしいものだ。  反ワクチンの陰謀論を吹聴してきたYouTuberはニセの情報を多くの人に信じさせる事により広告収入を得てきた詐欺師であり、それを信じた人たちの公衆衛生に反する行いにより多くの人が死んだり後遺症を残したり人間関係を破壊されたりしてきた。遅きに失した感はあるが、今回のYouTubeの姿勢を強く支持したい。  だが、一方でこの決定を、ワクチンに何らかの問題があっても批判できなくするものだと誤解する人もいる。これは断じて違う。もし、ワクチンに副作用を含めた何らかの深刻な問題があれば、製造販売は中止するべきであり、そのための検証は常に行われている。科学的に妥当な批判までが禁止されるのではない。今回の陰謀論は科学的証拠が無いデッチあげの嘘を吹聴し多くの人を騙し、事実でない信じれば危険な情報を、あたかも真実であるかの様に吹聴したのが問題なのだ。証拠はあるなどと言う陰謀論者もいるが、彼らが出す証拠は全てウソだ。調べたり考えたりする能力に劣るか、その努力を放棄する人たちを騙すために捏造されたニセの証拠に過ぎない。  また、言論の自由に反するとYouTubeを批判する人もいるが、これもおかしい。他人を傷つける明らかに嘘の情報は公衆衛生や治安に有害であり看過できない。当然ながら言論の自由の範疇には含まれない。こんなものが認められるのならルワンダ虐殺事件の際にラジオルワンダで流された異民族への敵愾心をあおる偽情報の類も禁止できなくなる。まあ、ざっとTwitterを見ただけでも、実際にいま言論の自由がといってYouTubeを批判している人の大半が日頃からヘイトスピーチをしている人なので、そういうことなのだろう。  今回の反ワクチン騒動だけではなく、近年の陰謀論はネットの発達も相まって社会的な脅威と言える。昔の陰謀論は一部マニアが冗談で作り上げた感もあり、オカルト雑誌にある社会を裏から操る闇の秘密結社的なヨタ話は面白い小説のようなものだった。しかし、昔から本気で信じてしまう人もいた。ユダヤ陰謀論を信じたヒトラーが何をしたかは世界中の人が知っているし、オウム真理教の信者がテロを起こしたのも終末論的な陰謀論を信じたからでもある