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8月, 2020の投稿を表示しています

般若心経の密教的解釈(空海の般若心経秘鍵)

  空海が般若心経を密教経典として解説した書に般若心経秘鍵があります。この中で空海は、般若心経の内にこれまでの仏教の教えの全てが含まれるとし究極の真理たる密教の優位性を暗示しています。それに関する考察は後にして、まずは、知っている人からは端折りすぎだと怒られそうですが、般若心経秘鍵の要点を物凄く簡略化して説明します。  般若心経秘鍵の前に一般的な般若心経の内容を一言でいうと、観音菩薩があらゆる事象を空だとみて全ての苦から解放された事の解説です。空海はまず、般若心経の冒頭に出てくる観音菩薩の事を、全ての仏教修行者とみなしています。修行者がそれぞれの道にしたがって仏となりうるとしているのです。修行の完成までにどれほどの時間がかかるのかは各修行者の性質とそれにあった教えにより違いますが、密教では現世で仏となれるのに対して、他の教えでは無限とも思えるほどの長い時間がかかると説いています。そして各種の仏教の教えが般若心経の中に含まれているとして5つの教えをあげています。般若心経中で最も有名な文言である「色即是空 空即是色」は、物質は相互の縁によりなりたつ実体が無い空であるという意味です。華厳経にも究極的に事(色)と理(空)の区別をなくす教えがあり、事と理が不可分であるのは金の獅子像も金であり波も水であるようなものだとのたとえもあります。空海はこの部分の文言を華厳宗とその代表的尊格である普賢菩薩の教えを意味すると解釈しています。また、同じく有名な「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は一切の物事はその本質において存在せず、言語化された概念も関連性の中にしか成立し得ないという空の思想の根幹です。この文言のオリジナルは中観派のバイブルと言える「中論」の八不として知られます。空海はこの部分を般若=智慧の象徴である文殊菩薩の教えと解釈しています。なお空海が生きた当時に中論や空の思想を最も重要視したのは三論宗となります。続く「無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」の部分は全ては心により作り出されるとする唯識思想の表れで弥勒菩薩の教えとみています。空海の生きた時代では法相宗の教えにあたります。さらに続く「無無明亦無無明尽」「無老死亦無老死尽」「無苦集滅道」などの般若心経の文言は、一般的には初期仏教の教えの否定とみられますが、空海はそれが初期仏教の教えの境地と考えています。すなわち、初期

良寛さんの詩 その1

  子供好きとして知られる良寛さんは有名な割には色々な謎があり古今多くの研究者が挑んでいる曹洞宗の禅僧です。その後半生は特定の宗派にとらわれないフリースタイルの仏教者として衆生と共にあり、墓所も浄土真宗の寺にあります。また、多くの和歌や漢詩や俳句や書を残しており文化人としても有名です。良寛さんは大悟の後は寺に入らず、生涯を市井で乞食行をして過ごしました。そんな良寛さんに、長岡藩の第9代当主で江戸幕府老中もつとめた牧野忠精から長岡に寺を造り招聘したいと提案がありましたが、良寛さんは断っています。今日は、この申し出を断った時の良寛さんの俳句をご紹介します。  たくほどは風がもてくる落葉かな  自分の煮炊きに必要な燃料は風が運んでくる落葉でこと足りるという意味です。婉曲に藩主の申し出を断ったのです。  地元の人から愛され支えられいた良寛さんも決して楽な生活は送っていませんでした。寺の住職におさまれば生活の心配は減ったはずですが、それを断り人々の間で清貧な生活を送る事を優先させたのです。良寛さんは大きな説法会などもすることはなく、自身の生活態度や詩歌や会話などで人々を教化しました。今でも多くのファンがいますが、一般にも子供と遊ぶお坊さんとして知られており、少なくとも子供を大事にというメッセージは確実に伝わっています。元々有名な僧ですが、何かにつけ自己責任論の元で弱者が切り捨てられがちな昨今、見直すべき先人の一人であると確信しています。

自我偈

 自我偈は法華経の中の偈文(仏教の詩)で天台宗や日蓮宗で特に重要視されています。自我偈の内容は、お釈迦様は実は死んでおらず永遠の存在として法を説いているというものです。しかし、迷いの中にある人達にはお釈迦様が死んだと思わせ、仏を求める心を掻き立てているのです。そうして、まっすぐで柔らかな信仰心を持つ時に仏とあうことが出来るのです。お釈迦様が永久にみんなのそばにいるこの世は実は浄土なのです。  法華経の信者はこのような教えもあり、現世が正しい仏国土であるように社会活動に深く関与しやすい傾向があります。一方で、お釈迦様が悟りを開いて初めての説法にあった様に、この世は苦しみに満ちています。その中で仏の常住を信じ、仏を見て、この世を仏国土とするには、重ね重ねその事を確認しつつ精進する必要があり自我偈が日々お勤めされるのです。  天台宗の一隅を照らす運動も、一人一人がそれぞれの環境や立場で精進することが社会全体を良くすると言う発想で出来ています。  大変な時代ですが、世界が浄土のように平和になるように祈ります。

ワクチン陰謀論

 新型コロナウイルスのワクチン開発競争が進む中、様々な陰謀論が出ています。少し考えれば嘘だと分かることでも、例えばワクチンを開発した国や、調達の外交交渉にあたった政治家が嫌いな人はその国や個人を批判したいが為に荒唐無稽な陰謀論を信じて拡散する傾向があるように見えます。放っておいても良いのかも知れませんが、多少なりとも反論しておかないと、嘘のほうが事実のような風潮が出てきかねません。今日はよくある陰謀論について反論していきます。  まず、製薬会社が儲けるために新型コロナウイルスを広めたという陰謀論です。つまり、ワクチンや治療薬は既に開発済みで、営利目的で新型のウイルスをばらまいたとする説です。その場合は当然、関係者は既にワクチン接種済みで薬も常備している設定です。しかし、ワクチンや薬は大規模な臨床試験をしないと有効性の確認が出来ません。つまり、密かに保有する恐ろしいウイルスへの確実な対抗手段は閉鎖された少人数の集団では開発不能です。  次、ビル・ゲイツがワクチンにマイクロチップを仕込んで世界征服を企んでいるという陰謀論です。反論の必要が無いくらい馬鹿馬鹿しい話ですが、一応反論すると、目視できない大きさのマイクロチップなんてありません。注射する時に手動で仕込むんだと言う人は、ビル・ゲイツが世界中の医者や看護師を買収できるほどのお金持ちでは無い事を知るべきです。  次、アメリカの陰謀でワクチンではなく他国の市民に被害を与える毒物を準備しているといいう説。今までも他のワクチンで同じことが言われてきましたが、アメリカ製のワクチンを使用して何らかの壊滅的被害が出た前例はありません。また、これほど大規模に毒物を用意するなら、関係者が多すぎて隠蔽不能なのは自明です。  最後、それでも副作用が起きるから反対という意見。これは価値観の問題なので個人的に嫌だと言う分には問題ありません。ただ、副作用の問題を誇張して言うのはやめていただきたいです。確かに、ワクチン接種により生じた自己免疫性の疾患で重篤な後遺症を残す例もあり、個別の話としては悲惨です。そうなる可能性がわずかでもあるならばワクチン接種に反対だとする人がいてもそれは止められるべきではありません。しかし、あたかも接種すればみんなそうなるかのような言い方をされたり、ワクチンは実は効果がないというデマがセットで語られる事が多いのも事実で

仏教の伝統

  以前、 常識を壊すな! と言う投稿をしましたが、常識の様に人間が長い時間をかけて作り上げてきた習慣を伝統と呼びます。仏教は伝播した時代や地域の文化に応じて発展して来た歴史がありますので、各地に郷土色豊かな仏教の伝統があります。今日は伝統はなるべく大切にしましょうというお話です。  このブログでも時に伝統行事を紹介しています。例えば最近のブログ記事で紹介した地蔵盆の成立は江戸時代です。普通のお盆でも原型は大陸の六朝時代の頃の成立で、日本では推古天皇の時代が始まりです。インドのお釈迦様が言い出した行事で無いことは明白ですが、これらは仏教行事です。  伝統に対する批判は大きく分けて二つで、一つは今の時代に合わなくなったとするもの、もう一つはその伝統が更に昔の時代の伝統と合っていないとするもので、そのいずれも攻撃的な場合が多いです。  今の時代に合わなくなったという意見は、伝統を壊すことで利益があるか伝統を維持することで不利益がある人により唱えられます。伝統には有る種の義務感を伴いますので、それに反対するには実は伝統の方が悪いんだという論法が好まれることより攻撃的になりやすいのです。  今の伝統がより昔の伝統とは違うと言う意見は、その人の考えに合わない伝統の非正統性を主張したい場合に使われます。伝統の良し悪しと言うよりは、否定する事を前提とした批判なので攻撃的なのです。例えば、ある種の仏教原理主義的な人達の意見では、原始仏教の伝統で無いものは全て邪教の伝統とされます。しかし、お釈迦様の教説に従うなら、全ては縁起の中にあり諸行は無常なのです。伝統も環境の影響を受け徐々に変化するのは仕方がないのです。固定した永遠不変の伝統なんて無いのが真理の表れなのです。また、そもそもお釈迦様の時代の伝統は正確には不明ですので比べる事が出来ません。  だから、何かの伝統を変えようと意気込む人に注意して欲しいのは、伝統に対して攻撃的になってはその伝統を大切にする人との間に摩擦を生じることになるので、冷静に折衷案や妥協案をだして欲しいことです。何かしら伝統を守りにくい事態が生じた時に、その伝統の元の意図をくずさぬ形で多少の工夫を加える事だって可能なはずです。元の意図も含めて何が何でも不要だと思う場合でも、棲み分けを図ることは出来ます。伝統を守る方も冷静さを保って、双方の智慧の出し合いで問題が解

とりこ信仰

 とりこ信仰とは鎌倉時代頃から日本の複数地域に伝わる、子供の養育に関する信仰で、初子や体の弱い子を、神仏の弟子や養子として扱うものです。地域ごとに呼び名は違いますが、新潟では戦後も曹洞宗の寺院で子供をお地蔵さまの弟子とする風習が残っていました。  新潟の曹洞宗と言えばまっ先に思い出されるのは子供大好きの良寛さんですが、良寛さんの子供に対する敬意に近い慈しみは、こうした文化があった土地柄にも影響されているのかも知れません。  とりこ信仰では、子供が成長するまでの一定期間は子は神仏の弟子や養子であり、育てるのは実の親でも子の頭を叩いたり罵倒することなどが禁止されます。もちろん、神仏の縁者で無くても一般論として子供を叩いたり罵倒したりしてはいけませんが、現代と比べて幼児死亡率も高くはるかに過酷な環境にあった昔にあって、弱い子供を特に大切にしようとする大人の誓いがそこには見えます。  子供達の親や師として扱われる神仏には、先述の地蔵菩薩以外に、観音菩薩、鬼子母神、浅間神社や各地の神さまの他、呑龍様など多様です。  このうち呑竜様は戦国時代から江戸時代初期に活躍した実在の浄土宗の僧侶です。呑龍上人は徳川家康の祖霊の為に作られた大光院の住職でしたが、ある子供が病の母の為に禁を犯して鶴を狩ってしまい、その子をかばって罰せられてしまいます。後に赦免されますが、大光院では貧しい家の子らを呑龍上人の弟子という名目で引き取って養育したと伝えられています。当時の貧しい家では育てられぬ赤子を殺す例も多く、呑龍上人は子の命を救い親も子殺しの罪から救った偉人です。  現在ではとりこ信仰が残っている地域もほとんどありませんが、子供を大切にする気持ちは受け継いでいきたいものです。  それではまた、合掌。   

道場

  道場と言えば剣道とか柔道とかラーメンとか野球とかの修行場のように思えますが、元々はお釈迦様が悟りを開かれた菩提樹の下の座の事です。転じて仏道の修行をする場所の意味として使われていました。剣道とかの武道場が道場と呼ばれるようになったのは明治期以降のことですが、単なる技術の学習ではなく精神性も合わせて伝える場合に道や道場という言葉が使われているのです。  さて、禅語には「直心是道場」「平常心是道場」「歩歩是道場」など道場にまつわるものが多いです。この禅語の場合、道場とは素直な心を保つこと、乱れない心を保つこと、言動の一つ一つです。こうした日常の活動全てが仏道修行であるとの実に大乗仏教らしい発想です。  嘘、大げさ、紛らわしい、JAROに通報したくなる情報が氾濫する昨今、素直な心でリテラシーを高め、怒らない平常心をもって騙されないようにし、コツコツと努力してデマに対応するのもまた仏道修行と言えます。  人生とは道場と思って頑張って参りましょう。合掌。  

地蔵盆

  本日は地蔵盆です。毎月24日は地蔵菩薩の縁日ですが、お盆に近い旧暦7月24日を特に地蔵盆としたお祭りで、江戸時代初期に京都で始まったと言われます。現代では月遅れの新暦8月24日前後に行われる事が多く、子供を守るお地蔵様にちなんで子供のためのお祭りとなっています。  今年はコロナ禍の影響で、子供たちも夏休みが短くなり遊びに出かける機会も減ってしまいました。いろんな夏のイベントの中止もありましたが、地蔵盆は比較的小規模で感染管理がしやすいこともあってか、報道によると感染対策を行ったうえで実施したり、中には初開催する地域も見た範囲では2つ紹介されていました。また、お地蔵さまにもマスク着用して頂くなどの遊び心もある地域もありました。しかし、やはり今年は地蔵盆は中止となる所も多く、また少子化などの影響もあり一般的に年々減少傾向にもあります。  さて、地蔵盆では輪になった参加者がを念仏を唱えながら数珠を回す風習もあります。地蔵菩薩のお祭りに南無阿弥陀仏と唱えるとは違和感がある人もいるかも知れませんが、平安時代の今昔物語には地蔵菩薩を信仰して極楽往生する話があり、地蔵菩薩霊験記という書には阿弥陀如来と地蔵菩薩は同体であるとする話もあります。地蔵盆は単に子供が楽しむ場ではなく、子どもたちの健やかな成長を祈る行事でもあるのです。  お地蔵様は仏がいないこの世に再び仏が現れるまで、世界を導くようにお釈迦様から託されたと言われます。大変な時代ですがお地蔵様の御加護で子供たちの未来が明るい事を祈ります。  南無地蔵大菩薩 唵訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶

念仏禅

 念仏禅とは念仏と禅がハイブリッドされた行です。他力の念仏と自力の禅をまぜるとは無茶な組み合わせのように見えますが、念仏禅における念仏は必ずしも他力的ではありません。日本での念仏禅は臨済宗の白隠の批判を受けほとんど残っていません。現在に残っているのは黄檗宗の禅浄双修です。一方で、黄檗宗が日本に伝わる江戸時代より前でも、念仏禅の発想はありました。今日はそんな一風変わった念仏禅の話です。  まずは日本の念仏禅についてです。これは昨日のブログで紹介した一遍上人も含まれます。遊行のうちに自他の分別の超えあらゆるものが如来になるのはある意味で禅的な考えでしょう。また、曹洞宗の僧で子供好きで有名な良寛さんは念仏もされていました。ただこれは何でもアリの良寛さん的な雑炊宗によるもので特に禅と念仏を結びつけたものでは無いです。さらに、日本で最も有名な僧だと思われる臨済宗の一休さんも、浄土は心により作り出され阿弥陀如来も自分の内にあると「阿弥陀裸物語」で説いています。また、伊達藩に招聘された臨済宗の雲居希膺も当地に念仏禅を伝え、それを108の道歌にまとめた「往生要歌」を残しています。その中で雲居は、阿弥陀如来を悟れば浄土は遥か西方では無くここにあるとわかるとしています。このように念仏とはいっても、いずれも阿弥陀如来の絶対他力にまかせる浄土教の思想とは一線を画しているのがおわかりいただけるかと思います。  次は現代に残る黄檗宗の禅浄双修です。基本発想としては上記の一休禅師のものとほぼ同じです。念仏禅の歴史をみてみると、はじめは宋の時代から永明延寿の影響で広がったとされています。永明は、禅の修行では10人のうち9人までもが道を誤るが、念仏は全ての人を往生させる、両方を修めると現世では人師となり来世では仏となる、両方しないのは良くないと言っています。彼の意見だと10名中9名が道を誤る禅に念仏を足すだけで、劇的な効果が生まれる訳ですが、これは禅で悟ったと思う者の多くは単なる傲慢に過ぎず、その点で徹底的に自己の非完全性を突きつける浄土教の教えはブレーキとなりえますので、確かに相乗効果は見込めるかも知れません。その後、元の時代になるとチベット密教が国教となったため、危機的立場となった漢人の伝統仏教は結束を強くし融合が進んで行きます。さらに元が倒れ漢人王朝の明になるのですが、明の王が儒教と道教と仏教

一遍上人忌

  明日は時宗の開祖一遍上人の御命日にです。寺を持たず旅をしながら教えを広める遊行生活を送った上人は正応2年8月23日(1289年9月9日)、旅の中に50年の人生を閉じました。今日は一遍上人の教えについて見てまいります。  一遍上人の時宗は踊り念仏で有名な浄土教の流れの宗派ですが、その教えは浄土教の枠内におさまらない独特な物があります。一般的な法然と親鸞の流れに属する浄土教の教えでは愚かな凡夫である我々は自分の努力(自力)では悟りを開くことができず阿弥陀如来の本願力(他力)によって救われると考え、阿弥陀如来への信心が重要視されます。しかし、一遍の時宗においては阿弥陀如来への信心の有無は問題視されないのです。そればかりか、有無、自他、長短、大小、善悪、愛憎、生死などの全ての分別も消滅して全てが阿弥陀仏となるという発想なのです。言うなればあなたも私も山も獣も虫も鳥も魚も空も海も宇宙もみんなが阿弥陀仏なのです。こうしてあらゆる物を飲み込んだ南無阿弥陀仏が一遍上人の念仏となります。これはもう踊るしかなかったのでしょう。ロックだぜw  こうした自由な発想をもつ一遍上人ですが、全てを捨てて諸国を行脚したのには単に踊って喜び布教する為だった訳ではありません。一遍上人の言葉に、家族を持つ在家でありつつもそれに執着しないで往生する念仏者が一番素晴らしく、次が家族を持たない在家で住居や衣食に執着せず往生する念仏者が良く、最後に何にでも執着してしまう最悪な凡夫はすべてを捨てて念仏し往生するしかないとするものがあります。一遍上人が家族も財産も捨てて遊行したのは自らを最悪の凡夫とみなしており、家族や財産に執着しては愛憎や自他などの分別にとらわれては全てが阿弥陀仏である世界が見えなくなるからなのでしょう。少なくとも一遍上人を慕う人が増えて以降は、やろうと思えば寺を構え我こそは最上の念仏者と言って家族を持ち贅沢三昧な生活を過ごすことも可能だったはずですが、彼は死ぬまで苦しい遊行の旅を続けました。やっぱりロックだぜ。  また時宗では「南無阿弥陀仏 决定往生六十万人」と書かれた札を配る風習がありますが、最後の六十万人は六十万人しか救わないという意味ではなく「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華」の各句の頭文字をとって作ったと言われています。この句の現代語訳は、「南無阿弥陀仏

安居堂の今後の予定

 早いものでこのブログが開設されてもうすぐ半年になります。こうして活動を続けて来られたのも皆様のおかげと感謝いたしております。今日はこれまでの経過の振り返りと今後の展望についてお話します。  まず、安居堂は次のような問題をどうにかしたいと思って生まれました。日本の伝統仏教の信者がその人生を良く全うしようとした時、多くの人にに立ちはだかる壁があります。その壁をどうにか壁でなくすことは出来ないものか、そう考えたのです。さて、その壁とは何でしょうか?それは病院や施設です。朝夕の勤行や祈りを欠かさぬ信心深い仏教者も、病院に入院してそれをしようとすると、特に大部屋では軋轢の原因となる場合も少なくありません。世の中にはお経などを聞いただけで不吉だと感じる人の方が多いのです。熱心な信者さんが感謝の意で合掌しただけで、まだ死んでないとお怒りになる人もいます。  もちろん、価値観の相違がありますので、仏教を批判する人が悪い訳ではありません。また、逆境にあって己を磨くもまた仏道との考えもあるでしょうが、病んで弱っている仏教者が生きている限り仏道にそって生きられるような環境を整えるのは悪いことでは無いはずです。私達の究極的目標はこの環境を整える事です。  現在、日本には仏教に根ざした医療や介護を提供するビハーラと呼ばれる施設が沢山あります。素晴らしい施設も多いのですが、中には弱って入院・入所した患者様を強制的に自分たちの宗派に改宗させる恐ろしい施設もあります。そこで、私達は各自が何宗であろうとも、広く融和的でお互いを認めるような仕組みを構築できればと考えています。  具体的には一般施設でも出来るようなアイデアや知識の提供が主となります。このブログでも六波羅蜜の医療への応用などの記事を書いていましたが、ややとりとめも無くなっていますので、現在、まとめを作成中です。数ヶ月以内に何らかの形で発表できる様に計画しています。また、今後もし十分な資本が確保できれば独自施設の展開も検討しています。そういう訳もございまして。当ブログも収益化することとなりました。広告が表示されてもお布施とお思い寛大にみていただけば幸いです。なお、表示は自動となっておりますので、広告内容と安居堂は一切関係ございません。  今後とも宜しくお願い申し上げます。それではまた、合掌。

約束

 約束は守るべきです。実際に約束は守られる事の方が多いですが、人間は約束なんて守って当然と思っているせいか、約束が破られた件ばかり印象強く記憶に残るものです。また、経済や社会情勢が不安定だと守られなくなる約束も増加傾向にはなります。  鎌倉時代に方々へ喧嘩を売っては処罰されていた日蓮上人が流刑先の佐渡の地で書いた開目抄にこうあります。  つたなき者のならいは約束せし事をまことの時はわするるなるべし   現代語訳:愚か者は約束しても肝心な時には忘れてしまうのが常だ  これは苦難や逆境にめげて信仰を捨てる弟子がいることを嘆いた文章となっています。この文の約束が日蓮上人と弟子との約束の事なのか、お釈迦様と地涌の菩薩との約束なのか疑問もありますが、ともかく人間は困難な局面では昔から約束を破りやすいものなのです。  様々な評価はあるものの、何度ひどいめにあっても自説を曲げずその生涯を法華経に捧げた日蓮上人は間違いなくGrit(やりぬく力)の巨人です。困難にあい弟子の離反もある状況でもくじけずに、逆に離反者の方を「あーあ、約束破っちゃったよ、愚かだなー」なんて言ってしまう根性は見上げたものです。  そんな根性の巨人では無い我々凡夫としては、約束は自分が守ればよろしい。他人が約束を守ってくれた時はありがたいと感謝するくらいでちょうど良いくらいの気構えで、日々生活した方が精神衛生上よろしいでしょう。  

弱者は悪か?

 強者への恐怖から悪事をなす弱者は果たして悪か?  例えば他国を侵略し域内の人権を蹂躙する海外の独裁国があったとして、それはその国内のみならず国外でも逆らうものには嫌がらせをするような国だったとしよう。ある日、その国の悪事に関して苦言を呈したある会社員が、その独裁国を恐れ忖度した自身が所属する会社により懲罰を受けたとしたら、悪いのは独裁国だろうか、それともその会社だろうか?考えてみよう。  人間は概ね弱者を守る様に教育されて成長するが、成長した大人がそれを守っているかと言うと怪しいものだ。その理由の一つとして強者にひるむなと積極的には教えていない事がある。問題が生じたら話し合いで解決するように教えても強者の横暴に対して決して屈するなとは教えない。強者への抵抗は命を危険にさらすのだから、命を大切にする教育を行う以上、当然と言えば当然ではある。ただ、圧倒的な強者と話し合いをしたとして、その結果どうなるのか?不平等な妥協を強いられるのがオチだ。  さて、とある弱者が強者からいじめられていたとして、周りの人間は果たして止めるだろうか?強者に抵抗したら自分も攻撃対象になるかも知れないから見てみぬふりをしたり攻撃に加担して身の安全を確保する人も多いことだろう。そういう人が多ければ強者に抵抗するような異分子は積極的に社会のシステムから排除される。強者にひるまない文化が無いと容易にいじめや独裁が起きる。  また、人の強い弱いは相対的な尺度に過ぎない。ある弱者はさらに弱い人からみたら強者であるし、ある強者もより強い人からみたら弱者である。だから、いじめられている弱者が別の場所では強者として振る舞い更に弱い者をいじめる構図は社会ではしばしばみられる。学校などの閉鎖された社会では、その役割は固定されがちだが、大人社会のそれは極めて巨大なものになる。中央で指導的立場にある者が少数でも末端が恐れるのはその組織全体だ。その組織の最外殻は、新たな弱者を求めてうごめく、組織は層状に膨らみ、中央以外のどのレベルで切っても、より内側の層全体の恐怖に負けてその外側に恐怖を振りまく人がいる。さらに複雑なことには、恐怖の源泉である中央の指導者層は組織の外にも多数存在しており、それぞれが恐怖を重力として弱者を自分の組織に引き入れようと動いている。いくらかでも強いものは組織の中央側に移動するから、力関係で先に揺

最澄・伝教大師誕生会

  本日8月18日は伝教大師最澄の誕生日です。神護景雲元年8月18日は西暦だと767年9月15日ですが、伝教大師誕生会は最澄生誕の地である坂本に立つ生源寺で8月17〜18日にかけて行われています。また766年のお生まれとの説もあります。最澄は超有名人なのでいまさなら何かのエピソードを語ってもだいたい皆様ご存知のものばかりでしょうが、比較的マイナーなお話を一つ。  最澄が生まれる前、現在の滋賀県である近江国の豪族であった最澄の父親は子宝祈願で比叡山にこもり祈りをささげたところ最澄を授かったと伝えられます。比叡山はこの当時から大山咋神の鎮座する霊場として崇められてきました。この最澄と縁が深い比叡山がやがて日本天台宗の中心となり、仏教と習合した山王神道が形成されます。日吉神社を中心に山王信仰は天台宗の拡大と共に日本中に広がります。各地の日吉神社、日枝神社、山王神社はほぼ天台宗との関係があった神社です。江戸時代になると天台宗の怪僧として名高い天海が山王神道から山王一実神道を作り出して、家康の東照大権現の神号授与につながっていきます。  最澄の父が比叡山(日枝山)で祈ったために後々の世までドミノ倒し的な影響を与えたのには歴史のロマンを感じずにはいられません。  南無宗祖根本伝教大師福聚金剛

バイオレンス臨済録

  このブログでも何度か紹介している臨済宗の祖である臨済義玄のワイルドすぎる生き様は弟子により臨済録としてまとめられています。この書の中で臨済は、とにかくよく殴り、よく怒鳴り、よく暴れます。現代でも臨済宗の僧侶は癖が強く開祖の気合は脈々と受け継がれているようです。今日はそんな臨済録を簡単にご紹介します。  臨済録の大体の流れは、まず、臨済の師である黄檗との話、次に大悟を果たした臨済がさらに怪僧の普化のもとで経験を積む話、独立後の臨済や弟子との逸話、臨済の仏教講義の記録、様々な僧との対話となります。  臨済録は唐末の混乱期に河北地方の俗語で語られた内容が伝聞としてまとめられており、いくらかのバリエーションがあり、当時の文化などが分からないと意味不明の言い回しもあるのでただでさえ難解な話がますます難解となっています。その中で比較的文章の意味がわかりやすく、臨済録から最も引用されるのは臨済の講義をまとめた「示衆」の部分です。逆にこれ以外の部分が理解出来なくても、ああ何かまた臨済と愉快な仲間たちが暴力的に言語や固定概念を破壊しているなあ程度の認識で臨済宗以外の在家仏教徒なら問題ないです。  さて一般に引用が多い「示衆」で繰り返し説かれているのは、自分の外側に影響されて悟りを求める愚です。だからと言って内側にのみそれを求めるのも否定しています。正しい見解を持つことを重要視し、あらゆるこだわりを否定しています。大乗仏教で菩薩行の基本となる六波羅蜜すらも否定します、仏へのこだわりも魔だと断じてすらいます。  有名な「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱することを得ん。」との臨済録の言葉は決して殺人を推奨しているのではなく、どれほど立派でどれほど親しい人でもその影響も排除した見地に立たねば正しく物事を見ることは出来ないという意味です。仏や親は自分の外にあるものばかりではなく、自分の内部にあるそれも含みます。大乗仏教では全ての人に仏の要素があると言うのは前提ですが、それに拘るのも否定しています。臨済録では人の内なる仏とは人の心が清浄な状態とも説いています。仏の状態を貪り執着していたのでは清浄とは言えないのです。  臨済の過激な言説は続き「五無間の業を造って、はじめて解脱を得ん」と言います

PCR陽性と感染は違うのか?

  最近、「PCR陽性と感染は違うんだ!騙されるな!!コロナは無害なんだ!!!」などと妙な事を言う人が増えてきているので何事かと思ったら、一部のYoutuberなどが左様な事を言っており影響されたのだろう。結論から言うとこの論法には無理がある。多少複雑だが以下に説明する。  たしかにPCR陽性には偽陽性も含まれる訳でPCR陽性者全員が感染している訳ではない。しかしながら、感染していない人がPCR陽性になる確率は極めて低い。今回の新型コロナウイルスの検査に関してはキットの差もあるだろうが概ね特異度(感染していない人がPCRで陰性となる率)99%とも言われている。実際に先月、島根県の大学生1人がPCR陽性になったことを受け、やや大げさすぎる感もあるが、大学に通っていた学生と教職員全員593人のPCR検査が行われて全て陰性だった。仮に特異度99%なら偽陽性の期待値は6人程度だから、かなりいい結果だ。つまり、現状で有症状者や感染者との接触者をPCR検査して陽性ならば、感染していると言って実務上問題はない。  だが一方で市中の実際の感染率が著しく低い場合に症状や接触がない人まで全て検査すれば、偽陽性の数は真の陽性の数と比較して無視できないほど大きくなるので、PCR陽性が感染を意味しないと言う話は成り立つようになるので注意が必要だ。要は検査の方法によりPCR陽性者が感染とは限らないという言葉の重さは変わるということだ。また百歩譲って厳密な意味でPCR陽性者と感染者とは違うと認めたとしても、それが新型コロナウイルスが無害であることを保証しないし、同じ検査方針でPCR陽性者が増えていれば患者数増加のトレンドにあることは演繹できるだろう。  また、ウイルスではなく細菌の場合は人間と共生しているとか保菌しているだけの状態で、病原性を発揮していなければ感染とは言わない。よく院内感染で問題になるMRSAなども、それによる病気が起きずに人の体を環境として周囲と調和して繁殖している限りは感染とは言わない。この状態でMRSAがいる場所、例えば鼻腔から検体を採取し培養すると当然MRSAは陽性となる。この話を引き合いに出して、それ見たことか検査陽性は感染じゃないじゃ無いかと言う人がいる。そういう人にまず始めに言っておきたいのはウイルスと細菌は違うってことだ。細菌は、例えば古くなったお弁当とかで増殖す

終戦の日とお盆と通商破壊戦

 先月も書きましたがお盆は推古天皇の時代に遡る日本に根付いた仏教行事です。お盆は全国的には8月15日の地域が多く、ちょうど終戦の日と重なります。同日になったのは単なる偶然なのですが、祖霊が帰ってくると信じられているお盆は、遺骨や遺品も戻らぬ遠い戦地に倒れた多くの民間人や将兵の魂だけでも帰国できるようにとの思いが遺族の心に迫ります。  海外での日本人戦争犠牲者と言うと軍人・軍属や満洲などへの移民が取り上げられる事が多いですし、数的にはこれらが大半となります。しかし、これらの犠牲者の方々とは別に恐らく職種として最も死にやすかったであろうものがあります。民間の船員です。  島国であり海上輸送が生命線である我が国は先の大戦での民間船の被害は特に甚大で船員の損耗率は推定43%、約6万人に達したと言われています。海外で亡くなった日本の民間人は約30万人と言われますので実に20%は船員という事になります。  交戦状態にある敵国の交易路を遮断し経済を停滞させる事により継戦能力を奪う事を企図するいわゆる通商破壊戦において民間商船を無警告で撃沈することは、なんと国際法の解釈として必ずしも違法ではありません。いや違法だろうと思う方も多いでしょうし実際に違法だと言う人もいますが、多様な意見があり統一された見解はないのです。身もふたもないことを言ってしまうとアメリカが散々やったことなのでそういう判断になっているのです。勝者の戦争犯罪は問われないのが常なのです。もちろん現代の国家が同じことをすれば国際的な批判は免れないでしょうが、今日でも石油や貿易品などのほとんどは海を渡って取引されており、それを運ぶ船員はそのような潜在的危険にさらされているのです。各地の神社などには、撃沈された民間船の慰霊碑も建ってはいますが、軍人らのそれと比べれば目立たない物が多いです。もし見かけることがあれば手を合わせてあげてください。  あまり顧みられることのない彼らの魂が無事祖国に戻られていると信じ合掌。ありがとうございました。

不生禅

 江戸時代に臨済宗の盤珪禅師が説かれた不生禅は、面白い人物が多い臨済宗の中でも異彩を放つ禅の一派です。臨済宗中興の祖としても知られる白隠禅師は不生禅に否定的であったとも伝えられます。今日はそんな不生禅についてお話してまいります。  不生禅を簡単に説明すると、まず前提として、我々人類の一人一人に両親から頂いた仏の心が元から備わっており、それは自分が生まれた後に作られるものでは無く不生で不滅だと考えています。だから、人間はそのままの状態で既に生き仏なのです。そうすると、通常が仏の状態であり、たまたま仏の心を維持できていない状態が迷いであり凡夫の状態な訳ですから、普段の仏の心を維持するようにすれば、わざわざ悟りを目指す必要も無くなるのです。盤珪禅師は、臨済宗の根幹をなすと言っても過言ではない公案(禅問答)をかえって迷いの元になると断じてます。さらに座禅そのものについても、仏の心が落ち着き座るところが座禅なのだから常日頃のありようこそが座禅と言うべきであり、いわゆる座禅として座る時ばかりを重視しないとまで言ってしまっています。  こうした内容を一般人にわかりやすく平易な言葉で説いたことから、盤珪禅師に対する個人的な崇敬者は禅宗の信徒にとどまらず多種多様で、身分の上下に関わらずその数なんと5万人に達しました。超宗派的となった盤珪一派は自らを仏心宗や明眼宗とも呼んでいます。禅師は「我宗は自力にもあづからず、他力にも預からず、自力他力を超たが我宗でござる」と言ったと伝えられています。確かに自分で修行を積んで悟る道でも無く、外なる仏にすがって悟る道でもない、私達はそのまんまで仏であるとする考えは自力でも他力でもありません。  さて、臨済宗内では主流とはならなかった不生禅ですが盤珪禅師関連の寺院では今でもその遺徳が顕彰されています。また、江戸時代の倫理学の一派であった石門心学にも影響を及ぼしました。その心学も江戸末期には衰退しますが、後に仏教学者の鈴木大拙や中村元らに再評価された事もあり、マイナーながら知っている人は知っているポジションを占めています。  不生禅の発想ではあなたも私も生まれたその時からもう仏様なのです。仏の心が保てるように生きていきましょう。合掌。

遺書の偽造

 お盆のシーズン到来です。先月ブログに書いた様に元々は旧暦7月15日の日本仏教の行事であるお盆は、現在では8月13〜15日に行われるのが主流です。このお盆の期間は終戦の日と重なることもあり、先の大戦で亡くなった人が偲ばれる時期でもあります。  さて、そんなお盆の時期に先の大戦にまつわる悲しいニュースが先日ありました。18歳で戦死した人間魚雷回天の乗組員の遺書として出回っている物が、偽造されたものだったのです。偽造された遺書が世に出たのは平成7年のことでだいぶん時間も経っていますが当時から、遺族には別の遺書が残っていること、実際の家族構成と違う内容が偽造遺書に書かれていたこと、回天の作戦運用の観点からも偽造遺書には矛盾があることなどより、回天の乗組員の生き残りから抗議を受けていました。しかし、偽造の犯人(故人)はこれをネタにした講演など詐欺行為を続けていたのです。この犯人は自らも回天乗組員の生き残りと主張していましたがこれも嘘でした。  死者は抗弁できないのをいい事に、ウケの良い遺書を捏造し金品を詐取する犯罪行為は断じて許しがたいです。また金銭目的のもの以外にも戦争にまつわる嘘は多く出回っています。朝日新聞が済州島での慰安婦に関する記事の捏造を認めて謝罪した事もありましたが、この捏造は金銭目的と言うよりは政治的な意図であったのは明らかです。戦争経験者は減る一方であり、当時を知る人なら当然見破られるような嘘でも、今後は徐々に見破りにくくなるのは間違いありません。明らかな一次資料を提示できない話は信じないのが無難でしょう。  特に、あなたが劇的で心を揺さぶるような戦時中の逸話を聞いたならば、それが美しすぎるものでも醜悪すぎるものでも、本当にそんな出来過ぎな物語があったのか、それを裏付ける証拠はあるのか少し考えてみるのが良いです。有名なストーリーで既に多くの人の検証を受けているものは概ね信用できますが、多くの人が支持していても衝撃の新事実が誰かの証言によって明らかになった!などとする物は冷静に検証するべきです。用心用心。  死者すら自らの欲望のために利用するとは人間の煩悩の深さには驚かされます。南無佛。

一二三四五

 道元禅師が仏法を学ぶために宋に渡った時、授戒の不備からすぐには寺院への入山が許されず、日本船で待機していました。その際、食材を買いに日本船に訪れた老いた典座(寺院の食事係)に対し、食事係などの雑務は若いものにさせて経を読んだり座禅をしてはどうかと勧めたところ、道元禅師はこの典座から文字も分かってなければ仏道をわきまえてもいないと指摘を受けました。本日お話する「一二三四五」は、道元禅師とこの典座が後日再会した際に文字とは何かとの道元禅師の問いに対して、老典座が答えたとされる言葉です。  この答えの後に、道元禅師は仏道をわきまえるとは何かと重ねて質問し、世界は何も包み隠されていないとの答えを得ます。禅宗では一般的に真の仏法は言葉では伝えられないとされています。座禅も含めて生活の全てが修行であり、世界の全てが真理の現れで、それを正しく見る悟りは修行と一体でもあるのです。典座の言葉も一般的にはこの文脈で理解されています。即ち、経典の勉強をしても経験を伴わない語義の理解だけでは修行にならないのです。「一二三四五」もこの流れでは単なる無意味な言葉ということになり、要は言葉にとらわれるなと解釈される事が多いのです。果たしてこの解釈は正しいのでしょうか?  確かに禅宗で重要視される考案や祖録などは、一読しただけでは何を言っているのか意味不明な物が多いです。有名なところでは、臨済が黄檗と殴り合って悟る話などは、話の内容では無く解釈が重要となります。一方で、老典座から厳しい教えを受けた道元禅師はどうでしょうか?彼の著作を読むと、実に理路整然としており、言語文章の持つ力を遺憾なく発揮しています。道元禅師は決して言葉を軽視していないことは明らかです。  実は、日本船を訪れた老典座は道元禅師に文字も仏道も分かっていないとの指摘をした直後にも道元禅師から文字とは仏道はわきまえるとは何かと問われており、そのように問いかける事が文字であり仏道をわきまえる事なのだと答えています。この流れで考えると後日、同じ質問に対して答えた「一二三四五」は単なる無意味な数詞の列では無いように思えます。  大乗仏教の祖である龍樹菩薩も、言語で解釈されたものは人の分別にとらわれているとしています。数も人間が何かを分類して数えるから成り立つ概念です。「一二三四五」という増加する数をどう解釈するかは多種多様にわたります。

常識を壊すな!

 常識はよく「壊せ」とか「疑え」とかと煽られる可哀想な概念です。また一方で常識はよくケンカの際にお互いを非常識だとする為の根拠として用いられます。改めて考えると常識とはなんでしょうか?一般的にはその社会で当たり前な価値観や知識を指します。つまり、社会ごとに常識は違うわけです。だから、特に知識に関しての常識では、日本の常識が外国では通用しない事もあるのです。そんな常識ですが本日おもにお話するのは価値観の方の常識です。価値観としての常識で、世界中のほとんどの国や社会で通用する常識があります。それは、平時において殺さない盗まない嘘をつかないの三つです。どこまでを平時ととらえるかはそれぞれの社会で大きな差がありますが、この三つは人類の常識と言って良いでしょう。  この常識はなぜ守られてきのか?おそらく、このルールを守っている社会組織の方が集団としての生き残りに有利だったからなのは間違いないでしょう。では、生き残りに不利ならばこの常識はくつがえるのでしょうか?先程、この三つのルールは「平時において」と断りましたが、戦時においては当然適応されなくなります。宗教に関して言えばキリスト教などの一神教では元から敵を倒すような表現がありますが、仏教は原則として殺生を否定しています。これは初期仏教において僧侶は出家し世俗とは別の世界にいたから可能だったのです。しかしながら仏教といえども世俗にあり軍事行動に関与した場合は何らかの形でこの三つのルールを破る言い訳を作り上げています。他の宗教も含めて罪は罪としたうえで許しを与えるというような方法がメジャーです。  さて、戦時のような例外は別として、平時におけるこの常識は疑ったり壊したりするべきものでしょうか?前述のようにこの三つのルールを守ることはその社会組織の生き残りに有利だったのですが、有利だからこれが常識になったのではなく、この常識をもった社会が結果として生き残ったのだと思われます。そうと言うのも、これまでも社会の発展と生き残りに有利だと思われる新常識を人類は作り上げてきましたがことごとく失敗しているからです。共産主義、国家社会主義、主体思想は名前こそ違うものの、国家を一つの有機体のごとくにみなし、全体の利益のために指導者が個々の国民を騙し、国民から盗み、国民を殺す事を許容するシステムです。社会の人がバラバラに動くよりも、統制された行動を

イスラム国という思想

 一時期に比べて話題に登らなくなっているイスラム国ですが、なかなかしぶといようです。アルジャジーラの報道ではアメリカ陸軍の分析として、内戦の続くリビアを例に上げ政府の力が衰えた国でイスラム国が力を取り戻す可能性を指摘しています。  この報道で懸念されているような強大な組織が出来なくても、イスラム国によるとされる小規模な襲撃は今でも世界各地で起きています。彼らをほぼ勝ち目のない戦いに導くものは何でしょうか?それは彼らが自分たちの正義を確信している事にあります。  誤解を恐れずに言えば、イスラムの教えを守るため、その共同体の秩序を守るカリフ制を復活させようとするイスラム国の活動は、イスラム教的には正義以外の何物でもありません。しかし、イスラム国はほとんどのイスラム教徒から支持されていません。国際化が進んだ現代ではイスラム教徒の知人がいる人も少なくないかと思います。私にも多くのイスラム教の友人がいますが、彼らは少なくとも表面的には決してイスラム国を支持していません。この矛盾がどこからくるのかというと教義解釈の相違です。  イスラム教の聖典クルアーンが無謬の預言者ムハンマドに下された神の真正な言葉であったとしても、それを読み解釈するのは人間なわけで時間が経てば同じ聖典を根拠とした違う考えが生まれてくるのは当然です。イスラム教は長い時間をかけて広範な地域に伝播していき、各地の文化と融合して中にはイスラム教では禁忌なはずの呪術的要素をもつものもありました。それでも昔は地域間の交流が少なかったので大きな問題もありませんでした。しかし情報化が進み、地方色豊かなイスラム教徒が本来正しいとされるイスラム教を容易に知るようになると、自分たちが間違っていたと思い込み新たに過激思想を信じやすくなる素地ができるのです。  同様な考え方の変遷は他の宗教や思想でも起きることです。時代や地域に適応してきて自分にも染み付いた伝統的な考え方が実は間違っていたと信じた時、大きな価値観の書き換えが可能となるのです。陰謀論を信じる人も同じです。これまで学校教育や報道などを通じて信じていた常識が、ネットで仕入れた真実の(必ずしも真実では無いがそう信じた)情報により否定され、過激な方向に向かいやすくなるのです。学校やマスコミの方が間違っている事例もありますが、確率的にはネットに流布される怪しい情報の方が間違ってい

長崎原爆忌

  8月9日、長崎原爆忌です。つつしんで犠牲者に哀悼の意を表します。  さて、8月6日のブログに書いたように広島では原爆投下の黙祷の時間に合わせて政治スローガンを絶叫する集団がおります。長崎にもいるようなのですが広島と比べて交通のアクセスが悪いために県外からの活動家の流入が少なく、また祈念式典会場が丘の上にあることから変な人達と分離しやすく、特に今年はコロナの影響で参加者も制限されて警備もしやすかったとみられ、報道でみる範囲では例年通り静かに祈りが捧げられていました。  そんな長崎市ですが、恐ろしいことに長崎市役所には過激派の中核派が一定数浸透していると見られ、近年でも中核派関連団体の構成員が祈念式典に招待され公式に演説したことがあります。中核派は彼ら流にアレンジされた共産主義に同調しない人を次々に殺害傷害してきたテロリスト集団です。そんな中核派を支持する行政機関が平和を語るなど悪い冗談にもなりません。とはいえ、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で過激派の構成員が演説する異常事態は少なく、今年も過激派による演説はありませんでした。長崎市の職員でも中核派は少数なのだと思われます。しかし油断してはいけません。広島では会場の周辺で騒いでいるだけの過激派たちが長崎では行政の内部を蝕んでいるのです。  広島でも長崎でも、原爆忌が純粋に平和を祈り死者を追悼する日となるように願います。

死にそうな人には優しくしましょう。

  死にそうな人には優しくしましょう。一見あたりまえのように思えることですが、終末期の医療にたずさわる人は特に気をつけましょう。日々の作業に忙殺されると形だけの心のこもっていない作業となりがちです。  暴力やセクハラなどを行ってくる患者様もいますが、ほぼ精神症状ですので然るべき治療で対応して人を恨むべきではありません。例外的な犯罪行為に対しては死にそうな人であっても法的手段を行使し悔い改める機会を提供してあげるべきです。犯罪に対して医療介護職員が泣き寝入りすることは優しさではありません。ただ、その場合も怒りや恨みの感情は避けるべきです。  死にそうな人にも程度があります。今まさに死ぬ見ず知らずの人に対して冷たくあたる人はまずいません。数日か数ヶ月かある程度の時間が残されている見ず知らずの人に対しても同様です。さらに考えれば今は健康そうにしている人でも次の瞬間はわかりません。人の命は無常なのです。だから通りすがりの見ず知らずの人に嫌がらせをする人もあまりいないでしょう。しかし、世の中には肌の色などの外見を理由に見ず知らずの人を攻撃する人もいます。こうしたレイシストと同じでは無くても、自分も何らかの偏見を持っていないか自省してみるのは大切です。  一方で、親族や知人などの間では今まさに死にそうな人に対してでもその恨みを晴らそうと攻撃してくる人もまれにいます。その人にとっては復讐の最後のチャンスなので必死です。親類縁者から激しい恨みをかっている人も、医療介護職員からは特に恨みはありません。優しくしてあげましょう。  我々もいずれ死にます。事故や急死でなければ、体力が衰え人の手を借りる時が来ます。そうなった時の事を想像して相手に対する思いやりを忘れないようにしたいものです。

不思議の国のアリス症候群

 不思議の国のアリス症候群というふざけた名前の症候群があるのをご存知だろうか?英語でもAlice in Wonderland syndromeで略してAIWSだ。その名の通り、自分の体の全体や一部が大きくなったり小さくなったりするように感じたり、見える物の大きさや距離や位置にも奇妙な変化がおきたように錯覚したり、空中浮揚しているような感覚が出たり、周りの時間と主観的な時間の流れの速さがずれて感じられたりすることを主な症状として、自分の心や体が別のところにもあるような感覚が生じることもある。患者はまさに、アリスが不思議の国に迷い込んだかのような体験をすることになる。  このAIWSは、いろんな病気が原因で起きる症候群だが、原因として最も多いのは片頭痛だ。不思議の国のアリスの作者であるルイス・キャロルも実は片頭痛を患っており、この有名な童話は作者自身が体験したAIWSを元に書かれたとされる説もあるほどだ。AIWSは片頭痛の中でも発作の前兆として視野障害、めまい、意識障害、喋りにくさなどのいわゆる脳幹性の前兆を伴う患者の約14%にみられるとも言われているが、実臨床の場ではほとんど見かける事はない。  この患者を見かけることが少ない理由は、このような奇妙な症状を正直に話したら余計な詮索を受けるのでは無いかとの心配で患者があまり話したがらないからとも言われる。実際に、違法薬物中毒を疑われたり、精神疾患を疑われたりして、不要な検査や治療を受ける人もいるので患者の不安はある意味で当然だと言える。精神疾患などは鑑別としては必要だが、片頭痛にともなうAIWSを知らない医者の方が多く、見落とされて誤診されたら悲劇だ。こうした症状を誰にも話せないまま不安を抱えて生きている人も多いのは間違いない。だが、患者の側がAIWSを知っていれば、主治医にそれを伝えて調べてもらうことも出来る。AIWSと診断がつけば、原因不明の異常な体験に伴う不安感は解消されるし、原疾患の治療で症状の改善も図れる。もし、これを読んでいる片頭痛の患者さんでAIWS様の症状があって不安な人は主治医に相談してみる事をお勧めする。

広島原爆忌

 本日、8月6日は広島原爆忌です。この日に広島の祈念式典周囲にいたことがある人なら分かると思いますが。多くの人が黙祷をする原爆が投下された8時15分に合わせて、一部政治活動家たちがマイクを使い原爆とは無関係な政治的主張を怒鳴り散らす光景はいつ見ても嫌になります。アレを宣伝のつもりでやっているなら逆効果なので即刻やめて頂きたい。今年は参列していませんが、新型コロナウイルスの流行期でもありいくらかは静かだったのでしょうか?  合掌。

新型コロナウイルス第一波の時に発熱などの体調不良があっても62%の人は出勤していた話

 昨日の報道によると、日本での新型コロナウイルス流行第一波の時に発熱などの体調不良があっても62%の人は仕事に行っていたとされます。東京医大助教の町田征己先生の発表とのことでPubMedで原著を探しましたが、まだ見当たりませんでした。原著が出たら細かく確認しようかと思います。  それはさておき、日本人は働きすぎです。風邪の症状がある時に無理して出社すれば会社中に感染を拡大させる恐れもありますから出勤してはいけません。どうしても外せない仕事だとか言うのかもしれませんが、そもそも誰か一人が出勤できなかっただけで経営が成り立たなくなるような会社は組織として間違っています。それで潰れるような会社はしょせんその程度の会社なのです。とはいえ確かに、大量に感染者が出たら流石にどの会社も厳しくなります。今後は余力を持っていない会社は次々倒産していく事でしょう。企業の再編や合併が加速していくかも知れません。  社員をギリギリの条件で働かせていたいわゆるブラック企業が滅びるのはある意味で良いことです。しかし、その結果として失業者が増えて現代の制度的奴隷とも言える派遣労働者がますます増加し、彼らからピンハネする反社会的な人達の利権構造が更に強化される恐れもあります。  社会の不平等や不正義が極端に増大すれば激しい反動が生じ、ロクな結果を産まないのは歴史を見れば明らかです。健全で穏便な社会改革が進むことを祈ります。

イソジン

 大阪の吉村知事がイソジンうがい薬が新型コロナウイルス感染症に有効だと発表したことから、イソジンの売り切れが多発し、転売ヤーが暗躍し、製薬会社の株価があがるなど多方面に影響を及ぼしている。本日はこの件について考察したい。  今回の吉村知事の発表は軽症患者41名に1日4回のイソジンうがいを実施したところ、4日後の唾液を検体とするPCRの陽性率が9.5%まで低下し、対照としてうがいをしなかった軽症患者では40%が陽性だったというものだ。  新型コロナウイルス自体は別に口腔内や咽頭のみに感染するわけではなく、また、ウイルスは細胞内に侵入し感染するので、口腔や咽頭の表面のみを洗ったからと言って、病状が改善する可能性はかなり低い。唾液に含まれるウイルスが付着する口腔や咽頭を洗うことで、唾液中に含まれるウイルス量が低下しPCRの陽性率も下がるだろうことも予測される。その場合、うがい液は果たしてイソジンが最も良いのかには疑問もある。水や他のうがい薬や洗口液でも比較してみたいところだ。  ただ、感染者その人の病状経過にはあまり影響がなくても、唾液に含まれるウイルス量が減少すれば、その感染者から排出される飛沫に含まれるウイルス量も当然減少するわけで、他人に感染させる力を落とす効果は見込めるかも知れない。一方でうがいでどの程度の飛沫が発生するのかも気になるところだ。  ともあれ、断言してしまうのは時期尚早な気もする。個人的に知りたいのは、うがいが他人を感染されるリスクを実際に下げるかどうかだ。続報を待ちたい。

虫供養

 梅雨もあけ、虫が多い季節になりました。蚊や蝿などの害虫のたくさん人間の都合で死にます。そうでないと人間が死んだり生命の源である食料の生産量がさがったりするので仕方がありません。このため、日本各地で主に秋頃になると農作業で死んだ虫を供養する行事が行われますし、殺虫剤メーカーの業界団体も毎年1月に虫の慰霊祭を行っています。生きるために必要な殺生でも、正当化せずに懺悔する姿勢が実に日本仏教らしい風習です。  人間は生きているだけで何者かに被害を与えて生きているのです。食事ひとつにしても、それを作ってくれた人、食材となった動植物、その生産の過程で死んだ虫など、色んなものとの縁がつながっています。食事の時に手を合わせ感謝と祈りを捧げるいただきますの風習でもみられるように、世界の全てに感謝をする精神性が日本仏教にはあります。自分は人や自然を含めた世界との関係性の中にしか存在せず、世界への祈りは自分に対する祈りでもあります。  蚊は病気を媒介し世界で最も人を殺している虫でもあります。温暖化が進む昨今では日本国内でも熱帯地方の病気の増加が懸念されます。また、昔ながらの日本脳炎だって、養豚場が近くになくても近年は都市部近郊で増加傾向にある野生のイノシシから蚊が媒介して感染することがあります。こういう危険もありますので蚊は発見次第殺して構いませんが、時々は死んでいった蚊のために祈ってみてください。南無佛。

家貧未是貧 道貧愁殺人

 久々の禅語の紹介です。  家貧未是貧 (家貧にしていまだこれ貧ならず)  道貧愁殺人 (道貧にして人を愁殺す)  家計が貧しいだけではまだその家の人が貧しいとは言えない。人として生きる道が貧しいことがことが人を嘆き悲しませる。という意味になります。  とはいえ、金銭的貧困は人の心を蝕みます。不景気の時こそ心をしっかり保って犯罪などの悪い道に入らないように気をつけなければなりません。どうしようもない時は躊躇せず各地の福祉事務所に相談するべきです。困窮による犯罪では意外と公的な補助を利用する前に犯罪に走る人が多いそうですが、思い詰めるとそういう発想も浮かばなくなるのかも知れません。また、生活保護受給者を悪くいう心無い人もいますが、困っている人への社会保障を否定するのは心が貧しいと言わざるを得ず嘆かわしい事です。もちろん不正受給は犯罪ですので明らかな不正受給者がいれば通報すべきです。生活保護費の大半を飲酒やギャンブルにつぎ込む人もおり批判を受けていますが、それは依存症でありむしろ治療の対象です。彼らを生活保護から外しても問題の解決にはなりません。  お金が無いと困窮から人道も踏み外しやすくはなりますが、お金があっても案外簡単に人道は踏み外すものです。良いときも悪いときも用心が必要です。

典座

 禅宗系の仏教で特に曹洞宗ではお寺の料理担当の僧である典座(てんぞ)を大変重要視しています。道元禅師以前は、座禅やお経の研究ばかりがありがたがられ料理当番は雑務として蔑まれていたのですが、宋に留学した道元禅師が現地の典座に感銘を受けて帰国しその地位は正当に評価されるようなったのです。禅は行住坐臥の生活のすべてが修行とされます。心を込めて僧に食事を供養する喜びをもつことは大切な修行です。食事を供される僧がどんな人であろうと等しく敬意をもたねばなりません。また、用意できた食材の質や量にあれやこれやと言わず、あるものをあるがままに慈愛をもって扱い出来る限りの事をします。そうした積み重ねで大きな悟りの心も磨かれていくのです。  こうした典座の修行は出家した僧侶が対象ですが、その心意気は在家信者の仕事にも通じるものがあります。自分が担当する商品やサービスは顧客の幸せを願って誠心誠意に工夫を尽くすべきですし、無限にあるわけではない予算や人員をいかにやりくりするかは腕の見せどころです。一方で組織全体としての社会貢献を見据えつつ不当な労働搾取を防ぐ大局観を養わないと持続可能なみんなの幸せにはつながりません。  また、かつての典座が軽くみられていたように、会社組織の看板となる部署でない組織を支える裏方の仕事は現代においても軽視されがちです。社会全体にも道元禅師が行ったような改革が望まれます。