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浄土真宗本願寺派の不祥事

 このところ浄土真宗本願寺派の不祥事が目立つ。全国の幼稚園の団体での本願寺派住職よる6億円以上の巨額横領事件、本願寺派と懇意にしている芸能人やアナウンサーなどによるロシアの侵略擁護発言、直近では本願寺派の若手僧侶の動画が炎上した。  動画に関しては真宗の教義に照らしてもその発言内容はいかがなものかと思い質問したのだが、本人がそういう意図ではなかったと言っており、本願寺派の僧侶や門信徒もあまり問題視していない。現在は動画内のふざけた行為(本人はその意図はないと釈明)が主に他宗派から糾弾されている形だ。この炎上の一因として考えられるのは、本人は後で反省したような事を言っているが、当初の批判にはかなり挑戦的攻撃的に反論していたのも火に油を注ぐ形となったように見受けられる。  また、不祥事ではないが、教義面においても2018年に発表された自力の行を認めるかのような門首のお言葉にも動揺が広がった。この教義解釈の変更は他宗派への歩み寄りのようにも見えるが、軸がぶれている感は否めない。若手僧侶に影響がなかったと言えば嘘になるだろう。  では本願寺派はどうしようもないダメ宗派かというと一概にそうとも言えない。少なくとも浄土真宗も浄土教の基本的なフォーマットは保っており、他宗派の一部の人から言われる浄土真宗は仏教にあらずとの批判は正しくないと考える。むしろ浄土を絶対視し、それ以外のこの世を徹底的に穢らわしいと見る発想は、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、を他宗派よりも強く念じているようにすらみえる。戒律が存在しないのも叩かれる材料ではあるが、御恩報謝の思いで仏を念じていけば、自ら意図せずに戒を守るように成長する。常に強く仏を念じながら人を殺したり嘘をついたり物を盗もうとする人はいないし、心も穏やかになろう。問題はそれを実践できている僧侶や門徒が少ない事だが、理念的には浄土真宗本願寺派は仏教の一宗派としていいだろう。伝統ある宗派だけにその良さが活かせてないのは残念だ。  本願寺派の僧侶にも色んな人がおり、もちろんいい人が多いのだが、顔見知りなだけでも結構な変わり者(失礼)も散見される。過去には本願寺派系の病院で他宗派の患者を精神的に追い込んで本願寺派に改宗される僧侶がいたがあれは本当にダメだ(今もやっているのかは知らないけど)。西本願寺の本体が所属僧侶の個人的信条に介入することは

宗教と政治

 しばらくブログを休んでいたが、暗殺された安倍元首相の四十九日法要も終わったこともあり、今日は安倍元首相暗殺事件も含めて宗教と政治の問題を考えてみたい。  さて、まず政治家が何かしらの宗教的倫理を政治に反映させようとすること自体は必ずしも悪い事ではない。例えば、殺すな盗むな嘘をつくなというような、伝統宗教に概ね共通するルールは現代社会においても通用するし、宗教の教え通りの政治はいけないとして、殺し奪い騙すような政治を実施するのは社会の安定を脅かすことになる。信者を騙し奪い人々を死に追いやる反社会的な価値観を持つカルトが政治に関わってはいけないのは自明だ。  また、政党が宗教色を帯びることも自体も国にもよるが問題ではない。例えばドイツにキリスト教民主同盟があるように、ヨーロッパではキリスト教の価値観を基礎に持つ政党も多い。イスラム圏で選挙がある国でもイスラムの理念を掲げる政党は多い。また、今後どうなるかはわからないが、アメリカ大統領の宣誓も聖書を用い神に誓うし、イギリスの行政権は建前上は英国国教会の長たる王の物だ。日本でも首相や内閣総理大臣や最高裁判所長官は形だけだが天皇陛下が任命している。世界の祝祭日も現地で優勢な宗教に由来するものも多い。政教分離を採用している国において特定の教団を優遇したり弾圧したりすることが無いようにするのは当然だが、各地の文化や社会正義と調和した伝統宗派の教えが政治に反映されても問題ないし、完全に排除するのも難しいだろう。  さて、安倍首相の暗殺はカルト教団である統一教会を恨む者による犯行だったと言われる。犯人がカルト教団そのものを狙わずにカルトの支援を受けていた政治家を狙った動機が何なのか明らかにされていないが、社会に与えたインパクトは巨大なものになった。もし犯人が安倍元首相ではなく、教団の信者を何人か殺したとしてもこれほど世間は騒がなかっただろう。  一方で、この問題に関するマスコミの報道には疑問がある。そもそも、統一教会が主に保守系の政治家に取り入っているという不愉快な事実は、多少政治に関心がある人間には以前からの常識であり、マスコミがまるで今はじめて知った驚愕の事実かのように報道するのはわざとらしいと言わざるを得ない。また、安倍元首相の暗殺のせいでカルト教団が人々から脅迫を受けて可哀想だと言わんばかりの報道をする局まである。確かに統一

誰がどの政党や候補者を支持しようがそれ自体が非難されてはならない

 選挙が近くなってくると、個人や団体がどこそこの政党や候補者を支持するというような発表がなされることがある。それに対して、個人や団体が特定の政党を支持した事自体を問題視して、その個人や団体を非難して叩く風潮もあるが、これはよろしくない。自分と意見が合わないのであれば、その意見の相違に関して議論なりなんなりすれば良いのであって、自分と価値観が違う人が自分とは違う党を支持するのは当然だからだ。例えば、共産主義者は概ね共産党に投票するだろうし、ヘイトスピーチですら表現の自由だとするいわゆる表現の自由戦士は自民党に投票する傾向にあるだろう。  表現の自由戦士に対してガチで言論弾圧をしそうな共産党に投票しないのは酷いとか言われても、戦士諸君だって困るだろう。虎党が巨人を応援しないのは酷いと言われるくらいに意味不明だ。個人的には共産主義者も表現の自由戦士も逆のベクトルで行き過ぎだと考えているので、彼らに言いたい文句は多々あるが、彼らの投票行動自体を否定するのはもはや人権問題だ。  今回の選挙にも、日頃から私が規制すべきだと主張している陰謀論を掲げて選挙活動をしている政党や個人が散見される。私はそんな候補者が全員落選するように願っているが、可哀想にも陰謀論に取り憑かれてしまった人が彼らに投票するのは自由だ。選挙戦が始まる前に、致死的なデマを流した人は逮捕しておくべきだったのだとも思うが、候補者となった以上は選挙活動を阻害するべきではない。大した支持も集まらないだろうから良いが、日本の法律は甘い。凶器や毒物で一人でも殺せば逮捕されるのに、人命を奪う明らかな誤情報を金銭目的などで流布させて大量殺人をはたらいてもほとんど逮捕もされないのはおかしい。もっとも、エキセントリックな泡沫政党が存在するおかげで、それを支持するような犯罪予備軍があぶり出されたのは不幸中の幸いだ。当局には頑張って情報収集にあたって欲しい。

非実在キャラ

 近年、日本で表現の自由を守れと声高に叫ぶ人達の中には、ロリコンやペドフィリアの漫画やアニメやゲームを市販する自由を守れという集団もいる。彼らが得意満面にいうのは、彼らが好むコンテンツには人間の被害者がいないということだ。絵に描かれた幼い女の子が強姦されたり手足を切断されたり内臓を引きずり出されても、実際には誰も被害にあっていない。彼らは、絵の中の女の子が苦しむのを見て性的に興奮して射精する自由を主張する。こうしてガス抜きをした結果、実際の女児に被害が及ばないのだから良いことづくめだとも言う。だが、非実在キャラをどんなにしようが構わないという考えが必ずしも正しくないのは少しシチュエーションを変えれば明白なことだ。  例えば、非実在の黒人キャラクターを非実在の白人至上主義組織がリンチにかけて木につるして喜ぶというストーリーのレイシストを対象にした漫画があったとしよう。そんなものの市販が許されるか?否だ。こう言うと社会派の映画などでは黒人や有色人種が酷い目にあう作品なんていくらでもあると反論する人もいるが、そうした作品は差別を支持していない。そうした残虐行為に反対する文脈で描かれている。幼女を性的に肉体的に精神的に虐待して死に至らしめる欲望を持つ一部の人たちが、その欲望に忠実な描写を楽しむための漫画を市販させろと言うのが公序良俗に反するのは明白だ。  もし、黒人を虐殺するのを楽しむ目的で作られた漫画が流通し、レイシストたちが黒人の目の前で笑いながらその漫画を読んでいたらこれはもう脅迫と同じだ。ロリコン漫画を電車などの公衆の場でデュフデュフ言いながら読んでいる人たちも同じようなものだ。  だが恐ろしいことに、こうした特殊性癖をもつ集団は表現の文脈と言うものが分かっていない。少し前にオタクのインフルエンサーが、フェミニストたちは萌え絵の作品は批判するのに、女性を蔑視する表現が盛り込まれている進撃の巨人を批判しないのはダブル・スタンダードだとの文句を言っていた。進撃の巨人を読んだ人間なら当然理解していると思うが、女性蔑視やヘイトクライムはこの作品中で一貫して批判的に描かれている。この差異が一部のオタクたちには理解できないのだ。彼らが注目しているのは自分が好む表現の有無一点だ。作品の主張がなんであろうと、この手のオタクたちは自らの嗜虐趣味を満足させる表現があれば何でもいいのだ。

香港返還25周年

 7月1日に香港の中国への返還25周年を迎える。その前日の6月30日に習近平が香港に入り、香港が完全に独裁国の一部となったのを世界に見せつけた。香港の自由と民主主義と人権が、どのように蹂躙されていったかを忘れてはならない。油断すれば日本も同じ目に遭う。  ロシア、中国、ミャンマー、北朝鮮などの独裁国と、欧米や日本などの自由主義諸国との対立はもはや避けようもない。今後ふたたび冷戦の時代となるのか、戦火を交えることになるのかは分からないが、ここまで価値観が違えば妥協はあり得ないし、あってはならない。独裁者に譲歩して得られる短期間の平和などまやかしに過ぎない。独裁者のご機嫌を伺うお土産を用意する必要は微塵もない。  日本国内にも、奴隷の鎖と引き換えに生存を許されることを平和と呼ぶようなファシストどもがウヨウヨいるが、次の選挙ではこうした輩を当選させてはならない。香港ではもはや自由な選挙は無い。彼らの無念と我が国の危機を思えば棄権など出来ないはずだ。  最近のファシストは口先では平和を唱えるが、実のところ独裁者の走狗となれと言っているだけだ。騙されてはいけない。日本を香港の様にしたくないのなら投票場に行って民意を見せつけてやるしかない。

たすけたまへ、たのむ

 部派仏教であれ大乗仏教であれ密教であれ、一般的に仏教は自分が修行して悟りを目指すのが基本であるが、浄土真宗では自力の修行を否定し阿弥陀如来の絶対他力にまかせる事を旨としている。自力を頼みとしないために慢心が抑えられる利点はあるが、作法や言葉の面で一般の仏教との乖離はあり、しばしば誤解の元となっている。  例えば、一般に神仏に向かって「たすけたまへ」「たのむ」と言えば何かしらの祈願をしていることになるが、浄土真宗の場合は違う。自分の望みを神仏に求めたのでは絶対他力にならない。真宗門徒の「たすけたまへ」は阿弥陀如来が一切衆生を助けるといっているのだから、「ああ、なら助けなさいませ」というような許諾のニュアンスであり、「たのむ」のはお願いしているのではなく阿弥陀如来の本願力をたのみ(頼り)にしているという帰依の表明となる。  現実的にいって阿弥陀如来に帰依していようがいまいが、世の中が自分の思い通りになることは無く、その本願力をたのみにするとは死後に浄土に生まれ仏になるとの確信であり、究極的なナンクルナイサーであると同時に自分の不甲斐なさを日々恥じ入るのだ。それゆえ自然に善いことをするようになる傾向はある。  だが、こういう発想なので浄土真宗的視点では祈願や祈祷は、他力をたのめない信仰心の低い行為だということになる。内輪でそう思うのは良いのだが、それを根拠に他宗派を攻撃するのはやめていただきたいものだ。

結婚式の加害性

 人の幸せを喜び、不幸を悲しむのは、慈悲を重んじる大乗仏教的では当然のことだ。  ここ数日、結婚式の加害性なる言葉がネット界隈を賑わせているが、他人の幸せを妬み、他人の不幸を望むのは、我に執着した煩悩の表れだと言える。  日本では結婚式の時だけキリスト教の唯一神に祝福を受ける夫婦が多いが、唯一なる神の祝福を受け神に誓った夫婦は、神の愛を地上に顕現させる使命を負っている。要は、神が望むような愛にあふれる家庭を築く義務が発生するのだ。最近では人前式なる結婚式の形態も増えてきたが、基本的に結婚式は誓約をともなう儀式であり、単に男女がつきあっているのとは違う拘束力が発生する。この儀式はあくまでも内向きの話であり、参列者は見届人というわけだから、結婚式それ自体に他者に対する攻撃性は無い。結婚式に加害されたと思う人がいるのであれば、それは受け手側の妄想だ。  そもそも結婚式の加害性などと言っているが、加害性が生まれる余地があるとすれば披露宴の方では無いだろうか?演出次第によっては新郎新婦や親族や出席者の一部が嫌な思いをすることもあるだろう。しかし、世間的な常識の範囲内での披露宴で幸せそうな新郎新婦を見たせいで惨めな自分が更に惨めになったから結婚式には加害性があるなどと言うのは、結婚式ではなくそんな惨めな思考しか出来ない受け手が自分自身を加害しているに過ぎない。実に可哀想だ。  この話題に関してネット界隈ではミソジニスト達が、披露宴は女性が周囲を攻撃し優位に立つためにやっているなどという色々とこじらせた意見を言っている。一体どれだけの酷い人生を歩めばそういう発想に至るのだろうか?悲しいことだ。