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浄土真宗本願寺派の不祥事

 このところ浄土真宗本願寺派の不祥事が目立つ。全国の幼稚園の団体での本願寺派住職よる6億円以上の巨額横領事件、本願寺派と懇意にしている芸能人やアナウンサーなどによるロシアの侵略擁護発言、直近では本願寺派の若手僧侶の動画が炎上した。  動画に関しては真宗の教義に照らしてもその発言内容はいかがなものかと思い質問したのだが、本人がそういう意図ではなかったと言っており、本願寺派の僧侶や門信徒もあまり問題視していない。現在は動画内のふざけた行為(本人はその意図はないと釈明)が主に他宗派から糾弾されている形だ。この炎上の一因として考えられるのは、本人は後で反省したような事を言っているが、当初の批判にはかなり挑戦的攻撃的に反論していたのも火に油を注ぐ形となったように見受けられる。  また、不祥事ではないが、教義面においても2018年に発表された自力の行を認めるかのような門首のお言葉にも動揺が広がった。この教義解釈の変更は他宗派への歩み寄りのようにも見えるが、軸がぶれている感は否めない。若手僧侶に影響がなかったと言えば嘘になるだろう。  では本願寺派はどうしようもないダメ宗派かというと一概にそうとも言えない。少なくとも浄土真宗も浄土教の基本的なフォーマットは保っており、他宗派の一部の人から言われる浄土真宗は仏教にあらずとの批判は正しくないと考える。むしろ浄土を絶対視し、それ以外のこの世を徹底的に穢らわしいと見る発想は、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、を他宗派よりも強く念じているようにすらみえる。戒律が存在しないのも叩かれる材料ではあるが、御恩報謝の思いで仏を念じていけば、自ら意図せずに戒を守るように成長する。常に強く仏を念じながら人を殺したり嘘をついたり物を盗もうとする人はいないし、心も穏やかになろう。問題はそれを実践できている僧侶や門徒が少ない事だが、理念的には浄土真宗本願寺派は仏教の一宗派としていいだろう。伝統ある宗派だけにその良さが活かせてないのは残念だ。  本願寺派の僧侶にも色んな人がおり、もちろんいい人が多いのだが、顔見知りなだけでも結構な変わり者(失礼)も散見される。過去には本願寺派系の病院で他宗派の患者を精神的に追い込んで本願寺派に改宗される僧侶がいたがあれは本当にダメだ(今もやっているのかは知らないけど)。西本願寺の本体が所属僧侶の個人的信条に介入することは

たすけたまへ、たのむ

 部派仏教であれ大乗仏教であれ密教であれ、一般的に仏教は自分が修行して悟りを目指すのが基本であるが、浄土真宗では自力の修行を否定し阿弥陀如来の絶対他力にまかせる事を旨としている。自力を頼みとしないために慢心が抑えられる利点はあるが、作法や言葉の面で一般の仏教との乖離はあり、しばしば誤解の元となっている。  例えば、一般に神仏に向かって「たすけたまへ」「たのむ」と言えば何かしらの祈願をしていることになるが、浄土真宗の場合は違う。自分の望みを神仏に求めたのでは絶対他力にならない。真宗門徒の「たすけたまへ」は阿弥陀如来が一切衆生を助けるといっているのだから、「ああ、なら助けなさいませ」というような許諾のニュアンスであり、「たのむ」のはお願いしているのではなく阿弥陀如来の本願力をたのみ(頼り)にしているという帰依の表明となる。  現実的にいって阿弥陀如来に帰依していようがいまいが、世の中が自分の思い通りになることは無く、その本願力をたのみにするとは死後に浄土に生まれ仏になるとの確信であり、究極的なナンクルナイサーであると同時に自分の不甲斐なさを日々恥じ入るのだ。それゆえ自然に善いことをするようになる傾向はある。  だが、こういう発想なので浄土真宗的視点では祈願や祈祷は、他力をたのめない信仰心の低い行為だということになる。内輪でそう思うのは良いのだが、それを根拠に他宗派を攻撃するのはやめていただきたいものだ。

穢土成仏

 悲華経に穢土成仏の話がある。昔々、阿弥陀如来と釈迦如来が成仏する前のいくつもあった前世で、後に阿弥陀如来になる人が王様だった世界があり、その家臣に後に釈迦如来になる人がいた。当時の世界観では世界は時間が経つほどに汚れていくとの考えがあったが、当時はまださほど汚れが進んではおらず、お釈迦様の前世である家臣の子が成仏し宝蔵如来となった。これに感化され王様も悟りを得ようと、環境の良い仏様の浄土での成仏を願った。その王子たちもまた浄土での成仏を願うようになった。一方、家臣の他の子らは浄土ではなく汚れた現世である穢土での成仏を願った。穢土で成仏すればそこで苦しむ人々の助けになるが、環境は悪く修行は大変だ。大臣の子らは、まだ汚れがさほど進んでない状態の穢土での成仏を希望した。最後にただ一人、お釈迦様の前世である家臣は、苦しむ人々の救済の為に後々の濁りきった世界での成仏を誓われ、宝蔵如来はお釈迦様の大きな慈悲の心を讃えた。そんな話だ。  劣悪な環境である穢土での成仏は難しい。穢土で苦しむ人を救うためにあえてその難しい行に挑まれ達成したお釈迦様は偉大だ。もっとも、法華経に準拠すれば、お釈迦様はずっと昔から仏であり人間の姿は方便に過ぎないのだが、いずれにしてもお釈迦様の成仏は多くの人々を勇気づけた。  現実世界でも、苦境に打ち勝って大成した人の存在は、多くの苦しむ人の希望となる。だが、その裏には苦境に潰され散っていった膨大な数の人々がいるのを忘れてはいけない。個々人が苦境に負けないタフさを身につけるのは良いが、既に苦境から脱した力がある者は人々が妄想に囚われることなく正しく学べる環境を整えるべきだ。初めから良い環境で良い教育を受けた人達も、苦しむ人たちへの慈悲を忘れてはいけない。  

大きな主語としての仏教

 一部の仏教関係者が「仏教では〜」という場合にそれが特定宗派に特有の考え方やお作法であることも多い。こうした言説は、他宗派の人からの反感を買いやすいが、各宗派とも仏教には違いはない。これは、何某宗何某派の仏教解釈を、仏教全体ではという意味に解釈するから起きる問題だと言える。その辺は不本意であっても内向きと外向きの言葉遣いは変えた方が誤解が少なくて済むだろう。  さて、では仏教ではという大きな主語を用いても許される範囲はどこまでだろうか?諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印については仏教ではと言っても問題あるまい。一切皆苦を足した四法印は、大乗仏教の常楽我浄との矛盾を指摘する意見があるものの、一般論としての一切皆苦は否定出来ないと思われる。だから、仏教ではとの主語の利用は四法印まではセーフだ。また、初転法輪で説かれたとされる四諦八正道も仏教ではと言ってよい。大乗仏教で最も有名なお経である般若心経では「無苦集滅道」との文言があり、四諦を無とみなすが、空は四諦に含まれる縁起の思想から演繹であり根本が異なる訳ではない。  では、大乗仏教の根幹である空や唯識はどうか?部派仏教からは否定されるだろう。しかし、日本で仏教ではといえば基本的に大乗仏教の事であり、日本ローカルの集まりで前後の文脈から大乗の話だと判っていれば、仏教ではと言っても良い。  それ以外の宗派的な話は、外向きには何々宗ではと注釈を入れた方が気遣いが出来ていると思う。

持続可能な菩薩行

 捨身飼虎では無いが菩薩行は身命を投げ打つのが本来的姿だとされる。まるで葉隠の説く武士道のようだ。  葉隠においてとにかく自分が死ぬ選択をすることは、命惜しさになすべき判断を誤らない為だ。誰しも生き残りたいから自分に利のある選択に何かしらの口実をつけて選んでしまいがちとなる。  ただ、武士道で命をかける局面は基本的に主君の為のみであるのに対して、菩薩は一切衆生を救うのだから死ぬべき場所はいくらでもある。もし、虎を助けるために我が身を餌にして与えるのを是とするならば、発心した菩薩は一日も生き延びれはしないだろう。  釈尊は苦行を禁止し中道を説いたのではないかという意見もあろうが、釈尊自身も悟りを開いた時の瞑想は悟りを開くまでこの場を立たないと誓ってのものであり命懸けであった。法華経にも有名な不惜身命の文言がある。命をかける事自体は悪くないが、だからと言って葉隠レベルで死のうとしていては大乗仏教を伝える者はいなくなるだろう。この状態で大乗仏教が滅びなかったのは、人が死にそうになっているのを放置する菩薩がいなかったからだろう。無茶をして死にそうになっている菩薩は仲間の菩薩が必ず助ける。僧伽が仏と法と並んで尊ばれるのは、そういう意味もあるのかも知れない。  つまり、菩薩行が持続可能な状態で修められる為には仲間の存在が大事だということだ。しかし、もし仲間がそばにいないのなら、まず自分が死なない様に努力すべきだ。仮に会ったことが無くても、あなたの幸せと生存を望む菩薩はいるのだから、その願いを無にするべきではない。程よく食べ、程よく休み、気力と体力を充実させておいた方が人助けも捗るというものだ。

理論と実践

口に誦するも身に行わざらば、当に何に喩うる所を得べき。 譬えば重病人に空しく薬の力を談ずるが如し。 (菩提行経 五・一〇九)  菩提行経にある上記の文言は、経典などを読んでもその内容を実践しなければ、病人に薬を与えずに治療法を知識として教えるようなものだというたとえです。  仏教の教えを受けなくても社会的通念や常識として何をすべきで何をすべきでないのかは多くの人は理解しているものです。ですが、刑法に触れないまでも善いことのみをして悪いことをせずに済む人は稀です。  野球で飛んできた球をバットで打てばいいと分かっていても、ちゃんとヒットさせるには練習が必要です。正しいことをちゃんと出来るように練習することが大乗仏教の修行です。完全に出来たら仏様なので、上手く出来なくてもめげずに頑張るしかないのです。

釈尊在世の頃は人は次々に悟りを開いていた話

 釈尊在世の頃は、その弟子は次々に悟りを開いていた。その後、時代が降るにつれて悟りはどんどんと不可能なものになっていった。これは、人間の資質が劣化していったからだと言われることが多いが、現実的には高々数千年の間に人類がそんな劣化することはない。お釈迦様の入滅後、人々が悟りを開けなくなったのは部派仏教の人達が悟りへのハードルを果てしなく高くしていったからだと考えるのが妥当だろう。  大乗仏教のある意味でのインスタントさは、不必要に権威化してしまった仏教への反動であり、計らずもそれが原点復帰に近い教えを生み出したといえる。だが、もちろん大乗仏教こそ原始仏教だなどというつもりは毛頭ない。両者は基本的な思想を共有しつつも明らかに別物だろう。  しかし、大乗仏教を非難する人の多くは、原始仏教と違うから大乗仏教は邪道だとか仏教ではないと言う。そこで問いたいのだが、そもそも原始仏教とはなんぞやと言う話だ。  大乗仏教を批判する人が用いる原始仏教という言葉は、どれもこれも批判者が考えた最強仏教に過ぎない。それもそのはずで、原始仏教は後世の文字化された経典からその姿を類推するしかないものだからだ。原始仏教にも縁起の思想はあったであろうが、それは大乗仏教にも当然存在する。おおよそ仏教の根幹たる思想は大乗仏教にも継承されている。では原始仏教支持者が大乗仏教を批判する根拠は何か?彼ら個々人の考える俺様の原始仏教と大乗仏教が違うからだという以外にない。  そんな個人的思想への執着で、大乗仏教は簡単に成仏し衆生を救うという詐欺だと言われても困るし、彼らが言うほど簡単でもない。道林禅師ではないが、三歳児に分かることが八十の老人にも実践しがたいものだ。自利利他を基本とする大乗仏教に比べれば、自利のみを説く俺様の原始仏教の方がよほど簡単だと思う。だいたい簡単だと悪いという発想がおかしい。実際に釈尊在世の折には人々は速やかに悟っていたのだから、原始仏教こそ簡単でなければ困る。そして、簡単に悟れるのならばそれは素晴らしいことだ。

仏の慈悲は届いている

 大乗仏教の利他と慈悲の思想は、代々受け継がれており、昔から一切衆生を救おうとする僧侶が存在し続けている。だから、誰かが酷い絶望の淵に沈んでいても、その人を助けようとする意思はこの世界に存在している。  仏教を宗教ではなく科学や哲学だと言う人もいるが、仏教は宗教だ。修行の果てに悟りを開いた仏が、人々を救うために慈悲をあまねく世界に届けているという確信は、論理ではなく信心に他ならない。だが仏の慈悲を信じられない人でも、仏の意志を継ぐ僧侶や在家は目に見えるはずだ。 光雲無礙如虚空 一切の有礙にさはりなし 光澤かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ  親鸞聖人の浄土和讃にあるこの歌は阿弥陀如来の慈悲の光は何物にも妨げられず全ての生き物に届いていることを述べて、その計り知れない仏に帰依する事を勧めている。  阿弥陀如来が気に入らなければ釈迦牟尼仏でも薬師如来でも近所のお寺の和尚さんでも結構だ。全ての生き物が安らかであるようにとの願いはこの世に存在する。物理的な助けは無くても、その想いがあることは間違いない。どんな惨めな状況の人間にも、どんな残虐な人間にでも、仏の慈悲は届いている。

菩薩の目標

 菩薩行に励む者は一見すると到達不能そうな目標を達成するために日々精進している。全ての生き物を救い、全ての煩悩を断ち、全ての教えを学び、仏道を成就される。冷静に理性的に考えれば明らかに到達不能な目標だ。だが、菩薩たらんとする者はその目標に一切の妥協も加えない。結果が出ないと絶望もしない。何度失敗しようが精進をやめない。  仏と同等でありながらあえて菩薩の位にとどまり人々の救済を続ける観音菩薩は、仏教者の理想像であり、自らもかくありたいと願う存在であり、絶対の信頼を寄せる帰依の対象でもある。  偉大な宗教家は、後の世で観音菩薩の化身であるとみなされることもある。聖徳太子は救世観音菩薩とされていて信仰の対象だし、親鸞聖人の妻である恵信尼は夫が観音菩薩だったという夢を見たとも伝わっている。  観音菩薩だけでなく、日蓮聖人は上行菩薩であったと信じられているし、聖人自身もその自覚を持っていたという。  このような高名な菩薩やその化身でなくても、大乗仏教の信者も菩薩の末席にいるといえる。偉大な先輩たちに恥じぬように心がけたいものだ。

花まつり

 今年も花まつりがやって参りました。歴史学的に正しい人たちからは批判されるかも知れませんが、日本ではお釈迦様の誕生日は4月8日だった説が主流ですので普通にお祝いしていただいて結構です。メリー花まつり!  花まつりではお釈迦様が誕生した時の姿を模した仏像に甘茶をかける風習がありますが、これはお釈迦様の誕生を龍王が祝して甘露の雨を降らせたという伝説に由来します。  この甘茶はアジサイ科の植物であるアマチャの葉から作られるもので、独特の風味と甘さがあります。甘茶は基本的には安全ですが、厚生労働省は濃く煮出すと中毒の可能性があるとして薄めに作るように勧めています。味的にも薄めの方が美味しいと思いますので、無理して濃く作る必要はないでしょう。なお、似た名前のアマチャヅルとは別物です。また、名前に茶は含まれますが、先述の通り原材料は茶では無くノンカフェインです。余談ですが、小生は甘茶じゃなく普通の抹茶を大量に飲んで(恐らくカフェイン中毒で)気分が悪くなったことがあります。何でも飲みすぎ食べ過ぎは良くないです。  日常では飲む機会の少ない甘茶ですが、お釈迦様に想いを馳せつつ時には味わうのも良いですね。喫甘茶去。

家内安全の祈願

 よくある般若心経の写経のお手本には、最後に為の文字の下に願文を書くようになっているものが多い。  小生が初めて写経をした時に、ある種の修行として書いたお経に個人的な願い事を書くのは気が引けたので「世界平和」と書いた記憶がある。以後、大体の願文は世界平和だ。  しかし、写経でも加持祈祷でも良いのだが、別に個人的な願い事をするのは悪くない。まさか神仏に「強盗成功」とか「詐欺繁盛」を願う人はいまい。「病気平癒」だろうが「安産祈願」だろうが「心願成就」だろうが「家内安全」だろうが何かしら人が安らかな気分になれるよう祈るのは良いことだし「世界平和」よりも劣る願いでもない。  例えば、願文として最も無難なものの一つである「家内安全」は家族個々人の安寧やその関係性が良好であるようにと祈っている訳だが、自分の身内だけが良ければいいという貪欲ではなく、限定的な慈悲の心の発露とみるべきだろう。身内に感じやすい慈悲の心を体感出来てこそ、一切衆生に対する慈悲の心にも実感を持つことが出来る。逆に自分の親しい者にも慈悲の心を持てないようでは他人に対する慈悲を持つのは困難だ。  一方で、世の中には家族仲が悪い家庭もあるだろう。お互いに憎しみ合い殺し合っている一族で、もし「家内安全」を願うのならばそれは素晴らしいことだ。なかなかマネできることではない。               もちろん写経や加持祈祷をしたからと言って実際に何かしら超自然的な奇跡が起こることはない。だが、神仏に祈願した事をおろそかにはすまい。家内安全を祈ったからには、暴力やハラスメントを家族に向かって行いづらくなる。心理的にブレーキがかかるからだ。「大学合格」や「商売繁盛」を祈願した人間は、遊び呆けにくくはなるだろう。神仏に助力をお願いして自分が怠ける訳にはいかないからだ。  とは言え、世の中は努力ではどうにもならないことが多い。祈願の大半は失敗に終わる。だが人は、それをあえて願わずにはいられないから、今日も祈願するのだろう。そして祈願したものであれば、例えば「家内安全」が一日間達成された夜に、この成果は自分の努力のおかげだと驕り高ぶること無く「家内安全」を叶えてくれた神仏に感謝することになる。非科学的だろうがなんだろうが、ちょっと良さげな目標は祈願するべきだ。  加持祈祷をオカルト的だと批判する人達もいるが、祈願は呪いや魔術

戦争と日本仏教

 日蓮宗や浄土真宗が有名だが先の大戦で日本の仏教諸宗派はその教義や教学に変更を加えてまで戦争遂行に協力した。戦後はその反省に立ち日本仏教の伝統宗派は一貫して戦争反対の立場をとるようになった。今回のロシアによるウクライナ侵略においても、殆どの伝統宗派は戦争反対の意志を表明している。  だが、それでも少し気になる事がある。今回のロシアの侵略ほど責任の所在がはっきりしている事はそうそうない。それにも関わらず、いわゆるどっちもどっち論を用い、ロシアの侵略を容認するかのような発言をする仏教者も散見される。開戦前はさらに酷く、ロシアの軍事的恫喝をまるで正義の義挙であるかのように言う者までいた。  侵略に抵抗するのもまた戦争行為で良くないなどと言う仏教者は、石山合戦や護法一揆で戦った先人をどう思っているのだろうか?侵略や理不尽な暴力に晒された時に、弱者を守らずただ悪人の好き放題に虐殺と略奪をさせることのどこに善があると言えるのか?そんな無作為は単に侵略者を手助けしているだけではないのか?侵略者を防ぎ弱者を守る為に戦って死んだ兵士に、お前は戦争行為をした極悪人だなどと本気で言うつもりなのか?  もちろん個々人のレベルでは侵略軍の兵士にも防衛側の兵士にも善い人も悪い人もいるだろう。だが、それがどうした?善人も悪人も救うのが宗教だろうが、ならば救ってみせろ。どうして、今まさに侵略が行われている時に侵略軍を支援する?そりゃあ侵略側にだってどんな妄想だろうがこじつけだろうが何かしら大義名分というものはある。それを聞いて侵略された側に譲歩を迫るのは、中立ではなく侵略の支援だ。もしあなたの家に押し入った強盗殺人犯に次々と家族が殺されていく中、突然したり顔で現れたお坊さんが「この強盗にだって言い分はあります。貧乏だったのです。警察を呼んだり抵抗したりしないでお金を分けてあげてください」とあなたに言ったらどう思う?その程度の想像力すらないのか?嘆かわしい。  また、ロシア国民の中には経済制裁で死んでしまう人もいるから制裁するべきではないと言う意見もある。死ぬのはプーチンでは無く弱者だというものだ。確かに弱者から犠牲になるであろう。では経済制裁をせずにロシアが侵略を続ければより多くのウクライナ人が死ぬ事になるのは良いのか?という問いに彼らは何と答えるだろう。説得でと言うかも知れないが、外交交渉も説得

謝ったら負け?

 自らの罪を懺悔し謝罪してきた人に対して怒り許さ無いのは、大乗仏教の十重禁戒の瞋心不受悔戒(不瞋不受謝戒)に反する。この戒に反した者は菩薩の地位を失う重罪となる。  日本は一応大乗系の仏教国であり、その信徒は菩薩たるべきなのだが、その自覚がある者はごく少数だ。謝罪を受け入れず怒り攻撃の手を緩めない事例は社会の至る所で見られる。  特に最近では己の非を認めた相手に対し、そうれ奴は自分で悪だと認めたぞ徹底的に叩けとばかりにネットリンチや現実での嫌がらせがなされる例もしばしば見られる。叩く方は自分らが正義のつもりでやっているのだろうが、この袋叩きのせいで死んでしまう人まで出ており悲しいことだ。  世間はそんな状態だ。謝ればどんな目にあわされるか分かった物じゃない。こうした恐怖から、決して謝ろうとしない風潮も生まれている。無理筋でも開き直れば一定の支持者は集まるが、謝った途端に孤立無援となり吊し上げられてしまう可能性が強いからだ。  もちろん、謝罪とは口ばかりで自己正当化に終始し逆に他者を攻撃するような演説は謝罪では無い。また、しでかしたことの程度によっては菩薩は許しても世俗の刑法によって裁かれるだろう。  だが、この世に過ちに犯さぬ人はいない。謝罪と許しはお互い様の精神で成り立っている。既に謝罪すべき人がいなくなっている場合、人は神仏に赦しを乞うのだ。謝ったら負けなどという発想は精神の貧困さの表れだ。  

地下鉄サリン事件と仏教

 1995年3月20日は仏教系のカルト教団であるオウム真理教が東京の地下鉄で毒ガスサリンを用いたテロを起こした日です。犠牲となった皆様のご冥福をお祈り申し上げます。  さて、既に27年前となるこの事件、今の若者は狂信的なカルト教団による凶行として理解しているかと思いますが、実は一連の事件がオウムの仕業だと発覚する前までは実際に家族や友人が洗脳されて被害を受けた人やそれを助けようと活動する人達以外に、その異常性はあまり認知されていませんでした。一般人からは空中浮遊の芸をする面白い人達という認識でしたし、一部の仏教者や学者からは、オウム真理教の出家制度や厳しく修行に打ち込む姿勢をみてオウムは立派だと持ち上げ、日本古来の仏教を叩く材料としてもいました。  小生は事件前に知人がオウム真理教に入信して大変な思いをしたこともありオウムに対しては初めから否定的でしたが、存外に人は騙されるものだと恐怖したことを覚えています。オウム真理教の教義は、仏教的にはありえないと否定されがちです。確かに仏教の共通項において殺人が是認されることなどありえないのですが、仏教はかなり幅が広い教えでオウム真理教がその教義のベースとした密教では、呪殺と称した殺人は歴史上しばしば行われてきました。近年でも左翼思想の仏僧が政敵を呪殺することを標榜して活動していたりもします。  また、呪殺など殺人の許容だけでなくもっと深刻な問題があります。仏教の影響を受けた昭和のテロ組織である血盟団が唱えた一殺多生は、一人を殺すことで多くの人が救われるのならばその殺人は認められるべきだという思想です。オウム真理教で言う所のポアも、生かしておいても悪業を積むだけの人間をこれ以上の罪を犯す前に殺してやるのは慈悲であるとの思想であり、類似点が見られます。こうした考えは容易に大量殺人に繋がります。  一殺多生はトロッコ問題のような部分はありますが、このような考えを元に殺人が行われる場合は、本当に一殺により多生が得られるかも分からない事が多いです。組織の都合により、殺人の被害者をありえない極悪人に仕立て上げている事がほとんどだからです。こうした発想はキリスト教圏にもあり、妊娠中絶を行う医師が未来に殺されるであろう胎児を救うとの名目で殺される事があります。そして、その一殺のターゲットは個人だけではなく、民族や国にも拡大して解釈されがちで

金剛般若経

 金剛般若経は初期の大乗経典で、内容的には「空」を説きながら「空」の文言は登場していません。このことから金剛般若経は「空」の概念が出来上がりつつあった西暦150〜200年頃に成立したと思われます。以下に簡単に解説していきます。  この経典は釈迦と弟子の須菩提の問答を軸に話が進みます。序盤から自己と他者の区分や分別を否定しており、初学者には難しい内容となっています。すなわち、菩薩が全ての生き物を救おうとして、実際に救っても実は誰も救っていないとされます。なぜかと言うと、救うということは救う自己と救われる様々な他者が存在することになり、そのような無常である自他の概念に執着するような者は菩薩では無いという理屈です。  次に五感や思想によった布施をしてはいけないと説かれています。布施とは本来は執着を捨てる為の修行ですからこういう話になるのです。(布施は募金や投資とは違うのです。「自分」がこんな「善いこと」をしました皆さん見てくださーい!と強調するような布施は布施ではなく宣伝です。)  さらに仏に備わると伝えられる身体的特徴が全て虚妄だと断じ、分類された特徴を特徴ではないと見ることで物事をありのままに捉える事が出来ると、分別が虚妄を生むことを指摘しています。続けて須菩提が、後の世の正しい教えが衰退したあとにこの経典の説く内容を理解する人がいるだろうかと心配したのに対して、お釈迦様が正しく理解できる人はいると告げます。その理由として、これらの優れた人は繰り返された転生で積んだ功徳の結果、全てのことに対する執着を離れているかだと説明されます。仏法でさえもそれが役目を果たした後は捨てるようにと執着を離れることを強調しています。  次に仏法が言葉では説明できないものである事が説いてから、この教えから四行詩だけでも取り出し人々に説明するのは、ものすごく功徳があると続けています。この流れは一見矛盾するように見えますが、仏法そのものは言葉で表現できなくても、それを伝えるために言葉の否定に執着するのは現実的ではありません。この後、この経では有名な四句否定の原型を見るかのような例えが続きます。仏法は仏法ではないという話にはじまり、仏に至るまでの修行者の階位をたとえに、その位にある修行者が自分がその位にあると思うことはないという話がされていきます。自我や物事に執着した心を起こしてはいけないという

唯識無境の無境

 大乗仏教で言われる「唯識無境」はこの世界は識のみで成り立っており外界に存在する物はないという意味だ。つまり心が世界全体であると言っている訳だが、これはしばしば誤解を招いている。特に、この世は「自分」の妄想に過ぎないとする誤解が最も多い。唯識論では「自分」というものも妄想に過ぎないのだからこれはおかしい。唯識では考えても故に我ありとはならないのだ。また、この世は思い込みで成り立っているので世界を好き勝手に改変できるという誤解もあるが、世界が識のみで成り立っていても別に学校で習った物理法則が突然変わったりはしない。こうした誤解を放置すると、他者なんて自分の妄想だから殺そうが奪おうがどうということはないとする極論にまで行き着くので危険だ。ちょっとその誤解をといてみよう。  唯識論では個々人が認識する物は全て心が作り出すと考える。違う人も同じ物や世界を見ているのは共通する種子と呼ばれる因子が無意識の中から育って意識されるからだという。この個々の心から出た共通認識はその後も共通であり続ける。例えばAさんが花瓶を壊した時に、花瓶を割ったAさんにとっては花瓶は割れており、それを見ているBさんや後でそれを見ることになるCさんにとって花瓶は割れていないなんてことは起きない。皆がその花瓶を壊れていると認識するのはそれぞれの人の種子に働きかける増上縁と呼ばれる縁があるからだとされる。認識の元となる種子は無意識の中で自己増殖したり、意識下の経験から無意識に還元されたりして、結局のところは全世界の事象は種子として各人の無意識に溜め込まれていることになる。この考え方はいかにも宗教的であり、科学的に分別された考え方では自己の精神の中に森羅万象が収まっているとは考えにくい。だが、科学的視点をもってしても人は認識の外には出られないことには違いない。  唯識無境の無境に注目してみると良い。境が無いのだ。識の限界が世界の果てだ。当然だが、我々が観測あるいは想像できる全ての事象は我々の識を超えては存在しない。未だ発見されていない未知の事実があったとしても、技術の発展で認識できる範囲が増えたとしても、識が捉えうるものしか我々は知り得ない。しかも、いかに科学的に誤解のないような記述でそれらを表現したとしても、言語は記述したい事象そのものにはなりえない。我々はどこまでもバイアスから逃れられない。先人が唯識論に

頓死

 ついさっきまで元気だった人が突然に死んでしまうことがある。それは次の瞬間の私かもしれない。この絶対的な真理の前に人間は無力だ。  人生は短い、怒りや貪りや無知に起因する争いに巻き込まれることなく心穏やかに過ごしたいというのは大半の人が望むところであろう。  病気や災害や事故や戦争で突然に亡くなってしまった人を見聞きするにつけ、安穏たる日々の大切さが身に染みる。  歴史上、多くの求道者は心の平安を望んで山奥などの一人で過ごせる場所に籠もってきた。そのまま、そこで死んだ人も多かったことだろう。  だが、そこで得た知見を広めて他者も救おうとする者は再び里に降りてくる。一人でなら死ぬまで心穏やかに過ごせただろうに、わざわざ煩悩にまみれた俗世へ戻ろうというのだ。並大抵の利他や慈悲の心では出来ない。  もちろん、一人で修行して得られたと思った成果は修行者自身の単なる思い込みや慢心である方が多かったはずだ。だが、いずれにしても彼らは人を救うために自らの利益を捨てて帰ってきた。菩薩と呼ぶにふさわしい。  チベット密教で観音菩薩への信仰心は四つに分類されている。そのうちの一つは「もし自分が観音菩薩の徳を持っていれば無数の衆生が救えるのに」と思うことで求道信仰心と呼ばれる。利他と慈悲は大乗仏教の基本だ。  簡単に人がバタバタと死んでいく場所でも、心ある人々は助けあい利他と慈悲の心に溢れている。仏教国で無くてもみられるこの現象は、やはり人間には仏性があるのだと思わせてくれる。  死者に冥福が、生者に慈悲が、世界に平和があるように祈る。

上座部仏教に社会性はあるか?

 主に東南アジアで信仰されている上座部仏教の教えでは修行して仏の一歩手前までの悟りの段階に到れるのは僧侶だけとされている。そうでない一般人は僧侶に布施などをすることで功徳を積み来世に良い転生先を得られるようにするという教えだ。  こうした考え方のせいか、一部の上座部仏教の僧侶からは世俗を軽視しがちな発言が聞かれる。日本に滞在している上座部仏教の高僧も、宇宙開発は無用の下らないものだと言う者までいた。また、日本の上座部仏教の信者からもしばしば、日本の大乗仏教を偽物だ紛い物だと批判する声も聞かれる。  まあ、たしかに上座部仏教と日本の仏教は違う。上座部仏教のみを正しいと考えていれば大乗仏教は許しがたい偽物なのだろう。大乗仏教の立場からいえばこの批判は遍計所執性によるものだと思う。大乗仏教では僧も在家もともに救われる存在であり市井の生活もまた大切な修行だ。  数年前に、仏教国であるタイで多数のウイグル人難民が中国に強制送還される事があった。亡命をこころみたウイグル人らが中国当局に引き渡されれば殺されたり収監されたりする。この時、上座部仏教界からは大きな批判は起きなかった。また、ミャンマーでロヒンギャが一部の上座部仏教過激派により殺戮される事件もあった。この時も上座部仏教界からは大きな批判は出なかった。そんな上座部仏教の信者から偽物よ堕落よとの非難に晒されている日本仏教の諸宗派の殆どが、今回のプーチンの侵略戦争に対して戦争反対の意をあらわにしている。一方で、上座部仏教界は今回も目立った批判をしていない。  大乗かそれ以外かに関わらず、一切の生きとし生けるものの安寧を願うのが仏教の基本のはずだがどうしたことだろうか?これは、上座部仏教の教義上は現世で仏法に出会えずに苦しむのは前世からの宿業であり仕方がないという発想がある為だろう。人々の幸せを願いはするが、まあ来世でガンバレよという感じだ。こうした発想の違いはもはやどうしようもない。別段批判しようとも思わないが、上座部仏教に大乗仏教と同様の社会性を期待するのは間違っているだろう。

Tibet uprising day

 今年もチベット蜂起記念日がやってきました。63年前の今日、中国共産党の侵略を受けたチベットは、その後の30年で人口の20%に及ぶ120万名もの国民が共産党により虐殺されたと言われます。チベットは今なお中国の植民地とされたままです。仏教国だったチベットでは多くの寺院が破壊され、仏教の教えは共産党の指導下におかれ、逆らう人は投獄されたり殺されたりし続けています。  今日、ロシアがウクライナを侵略していますが、テレビでは侵略軍がウクライナに武装解除せよというのならウクライナは武装を放棄して歩み寄るべきだなどという知識人もおります。そういう人はチベットの事を思い出してほしいものです。元々、軍備らしい軍備も無かったチベットが軍事的に恫喝され侵略され破壊されていったことを思い出してください。  理不尽な侵略に対して武器を捨てても訪れるのは平和ではなく一方的な殺戮です。それを覚悟した上で殺されることを選ぶのも自由ですが、抵抗する衆生をまるで平和の敵であるかのように非難するのはあまりにも無責任と言うものです。自由と平和と国土と国民と朋友と家族を守り戦う勇者に慈悲を。  南無観世音菩薩。

各宗派の戦争反対声明

 プーチン戦争が始まってから日本仏教の諸宗派は戦争反対、暴力反対の声明を発表しています。人々を苦しみから救う仏教の心が示された事は、平和を愛する諸国民にも励ましとなっている事でしょう。以下に主な宗派の声明のリンクを貼っておきます。 天台宗 https://www.tendai.or.jp/oshirase/?msg-ukraine 曹洞宗 https://www.sotozen-net.or.jp/syumucyo/20220301_5.html 臨済宗妙心寺派 https://www.myoshinji.or.jp/hp/statement/1367 浄土宗 https://jodoshu.net/infomation/12906/ 真宗大谷派 https://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/19111504/ 日蓮宗 https://www.nichiren.or.jp/information/statement/20220225-5879/ 真言宗智山派 https://chisan.or.jp/news/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A3%B0%E6%98%8E  さて、そんな中にあって日本最大級の仏教宗派の一つは未だに沈黙したままです。そればかりか、その宗派と関係の深い芸能人の一部はプーチンの主張そのまま陰謀論を唱えています。つまり、ロシアとの約束を破りNATOが東へ拡大したためにロシアは自衛のために仕方なく立ち上がったのだというもので、その黒幕がアメリカでありウクライナの現政権はアメリカの野望の尖兵であるとする荒唐無稽なものです。この理屈はまず前提条件から間違っており、アメリカとロシアの間にNATOを東へ拡大させないという約束は存在しません。プーチンがそうあって欲しくないと思っていただけです。そもそも、NATOに参加するかどうかは各独立国とNATO参加国との間で話し合われる問題であり、それを大国間で決めてしまうのはナチスドイツとソ連の間で結ばれたポーランド分割の合意と同じ帝国主義者の発想です。そのような帝国主義的発想のロシアが、