投稿

2月, 2020の投稿を表示しています

介護に役立つ仏教の言葉1

「ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。」(ダンマパダ(法句経)第十七章二二八:岩波文庫「ブッダの真理のことば、感興のことば」中村元:訳)  患者様の家族なども含めた介護を提供する人は様々なストレスに晒されます。その中で思い通りにならずに、あるいは過労からついイライラする事もあるでしょう。その結果、他人に対して当たったり、怒りを表出させなくてもそのような感情を持つ自分に自己嫌悪を抱く事もあるかも知れません。そんな時は冒頭の言葉を思い出してください。この世に完全無欠の人間なんていません。自らの過ちに気づき改善しようとすることが尊いのです。  それではまた、合掌。 「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。」(ダンマパダ(法句経)第五章六三:岩波文庫「ブッダの真理のことば、感興のことば」中村元:訳)

ユマニチュード(人間らしくある為の介護)

 主に認知機能障害がある人への介護技術の一つにユマニチュードと呼ばれるものがあります。患者様の介護を「見る」「話す」「触れる」「立つ」事に留意して行う物です。これは単に認知症の患者様だけにではなく、各種疾病やそれに対する投薬などにより認知機能が障害されている患者様にも適応可能であると思われます。また、当サイトは基本的に終末期医療を中心に扱っていますが、認知症に関してもその生命予後(余命)は、診断からおよそ3〜7年くらいの事が多く回復も困難であり広義の終末期として心のこもったケアが必要だと考えます。    さて、では実際のユマニチュードはどういうものでしょうか?今回の話でユマニチュードの全てを語ることは出来ませんが、簡単に要約していきます。その前に断っておきたいのですが、ユマニチュードは一般的には認知機能障害がある患者様へのケアを目指しており、寝たきりによる患者様への不利益を防ぐために患者様が立つ事を重要視しています。ユマニチュードの開発者達は「人間は死ぬまで立って生きることができる」と提唱していますが、これは別に怪我や疾病で立てない人間を死んだも同然の状態と見捨てる発言ではありません。認知機能の低下が無いこれらの患者様はそもそもユマニチュードの適応とはならないだろうし、認知機能障害に合併した何らかの理由で立てない患者様へはそのレベルに応じて使える技術を使う事になります。また、 一部マスコミなどではユマニチュードが万能の凄い技術かのように言われていますが、当然無効な事もあります。ただ、認知症の患者様のうちのいくらかでも、この技術によって良い療養生活が送られるのなら試してみる価値は十分にあります。      前置きが長くなりましたが、5分で分かった気になれるユマニチュードのまとめビハーラ風をはじめたいと思います。    まずはじめに患者様のケアのレベルを考える事からユマニチュードは始まります。それは、1.回復を目指すレベル、2.現在の機能を保つレベル、3.最期まで寄り添うレベルの三つです。ユマニチュードでは誤ったレベルのケアは有害であると考えます。例えば肺炎を起こした認知症の患者様が入院したものの治療を拒むため、抵抗できないようにベッドに縛り付けて肺炎の治療をして、一週間後に肺炎は治ったけど全身の筋力が弱り寝たきりにな

本の紹介1「仏教聖典」

 本の紹介です。これはシリーズ化しようと思っています。その記念すべき第1回目は「仏教聖典」です。                仏教の聖典と言うべき経は多くありますが、今回の「仏教聖典」は皆さまホテルなどで恐らく一度は目にしたことがあるであろうオレンジ色の表紙のアレです。本や電子書籍などでも購入できますが、実は出版元の仏教伝道協会の公式サイトから pdf データを無料でダウンロードできます。しかも日本語版だけではなく各国語版があるので、外国語の勉強にも役立ちます。        内容は法句経に始まり、皆さんおなじみの法華経や浄土三部経等々、各種経典の一部の現代語訳が、お釈迦様の生涯、教え、修行、僧や信者について順を追って編集されています。いろいろな教えが混在してますので、根本経典を持つ宗派の信者から見るとおかしく感じる面もあるかもしれませんが、日本仏教の精神をコンパクトにまとめた良書だと思います。            それではまた、合掌。              仏教伝道協会のサイトはこちら         http://www.bdk.or.jp/               「仏教聖典」ダウンロードサイトはこちら         http://www.bdk.or.jp/read/buddhist-scriptures.html      

患者様の意識がない場合や高度の認知症がある場合などの話とACP

  今、仮に己の死期が迫っているとしてその時どうしようかと想像すれば、皆様は色々と思うところがあると思います。しかし、医療現場において終末期の患者様が必ずしも色々と考え思いを巡らせる事が出来る訳ではありません。例えば脳卒中だとか認知症の進行などで、患者様の意識が無いとか物事を判断できない状態にある場合です。この様な時に、治療や生活の意志決定をするのは親しい御家族様になるのが一般的です。            さて、この場合に意思決定を委ねられた人はどう考えて物事を決断するでしょうか?患者様が元気だった頃の事を思い出し、本人ならどういう判断をしたかと考えるかもしれないし、本人の意思が分からない以上は全力で治療や延命をしようと思う人もいるかも知れません。ただ、いずれにしても、患者様からみてその判断が正しかったかどうかは分かりようもなく、決断を下す御家族様には心理的負担が生じる事が多いです。          将来こうした事態を避けるために、まずは自分の判断力が十分にある時から、自分の意思が表明できなくなった場合に後を託すであろう人達に、自分が生き死にに関してどの様な価値観を持っているのかを共有しておくと、御家族様の負担をいくらか減らしえます。人によってはその様な話をすること自体が負担になる場合もあるので人それぞれではありますが、可能であれば御家族様や医療・介護スタッフなどとそういう話をしておくのも良いでしょう。          医療業界ではこの様な話し合いを ACP( Advance Care Planning) と言います。日本語では予め治療介護の計画を練るといったところでしょう。基本的には ACP の時点で何かを決定すると言うよりは、色んな想定をしておくことで本人の価値観を家族や医療スタッフが共有する為に行われる物です。終末期に際して医療スタッフは医療の心配ばかりしがちですが、本人からすると、何をしておきたいとか何を伝えておきたいとかどういう人と過ごしたいとかの方が気になる場合もあるのです。患者様のそういう要望を踏まえた上で、医療や介護の選択をするのが重要になります。事前に話し合っておくことで、その後の意思決定の役に立つでしょう。              本人の意思が分からない場合、その治療や介

ビハーラ的視点でみる仏教

 仏教の発祥やその歴史等は既に多くの書物で紹介されていますので、詳しくは譲りますが、ここではビハーラ的な観点から簡単にそもそも仏教とは何かについてお話したいと思います。   仏教はお釈迦様が生老病死の四つの苦しみを克服しようとして、修行した結果、悟った真理を人々に説いたものです。仏教はそのはじめから死と向かい合う宗教なのです。 仏教は死を含むこの世の苦しみから解放されるための手段を説いた教えとも言えるでしょう。  一方で、お釈迦様がお亡くなりなった後、仏教は実に多くの宗派に分裂していきました。現代に伝わる各宗派に大きな違いがあるのは、仏教が時代や地域に応じて少しずつ変化して来た結果です。しかし、現在に伝わる仏教も死などの苦しみに対して解決手段を提示している事は変わっていません。  もちろん、ただそれだけでは他の宗教と区別がつきません。どこに仏教の定義はあるのでしょうか?西遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘の弟子である普光によると三法印に順ずるものが仏教であるとしています。この場合の三法印とは諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つです。一つずつ説明してまいります。     まず、諸行無常です。これは全ての物事は移ろいゆくと言う真理です。健康だった人が老い病み死んでいくのも諸行無常の現れだと言えます。人はこれに逆らおうとしますが永遠の命を保つ事は出来ません。死にゆく本人や家族や友人にとってとても悲しい事ですが、まず諸行無常を事実として捉える事で、残された時間を有意義に使う心の余裕を作ることが出来るかも知れません。    次に、諸法無我です。これは全ての物事は関係性の中に成り立っており他とは無関係な自分と言うものは存在しないと言う真理です。今、自分だと思っているものは家族や仲間たちや誰かが作った本や映画、今を生きている人や既に先立った人、いろんな人々や環境の影響の上に成り立っています。同時にこのかりそめの「私」も他の人達に影響を与えています。様々な存在は単独ではなく関係性の中にのみ存在しているのです。だから誰かの死はその人の全ての終わりではなく、その影響は残る人たちにつながっているのです。願わくば世界に良い影響がつながっていく様にしたいものです。    最後は涅槃寂静です。諸行無常で諸法無我であるこの世を正しく見ずに、自分が自分がと貪り

はじめまして。

 皆さんはじめまして。私はビハーラ活動を行う安居堂の至道と申します。本業は地方都市で内科医をしております。今回、ネット上で活動させていただくあたり、まず、ビハーラとは何か、そして安居堂が目指すものは何かについてお話したいと思います。                  現在の日本ではビハーラと言うと仏教的立場から運営される終末期医療施設を指すことが多いです。医療における終末期とは様々な解釈がありますが、一般的には治療困難で死期の近くなった患者様の身体的精神的な苦痛の緩和・解消を目指す医療や介護を指します。当サイトでも仏教的な終末期医療・ケアの事を指してビハーラという言葉を使っていきます。一方で、ビハーラとは元々はサンスクリット語で寺院・精舎や安住の場所を意味する言葉です。初期仏教の時代、僧は諸国を托鉢や布教をして巡っていましたが、雨季は建物のなかで修行に励んでいたとされます。この時代の僧侶にとってビハーラは厳しい環境から身を守り修行に専念できる安らぎの場であった事でしょう。日本や中国ではこのビハーラに籠っての修行を安居と呼んでいます。                     ご存じの方も多いかと思いますが、終末期ケアを行う施設として有名なものにホスピスがあります。このホスピスは元々はキリスト教の巡礼者の宿泊地として使われた教会の意味でした。この影響から終末期医療を扱うホスピスは当初はキリスト教関係の病院から始まっています。ビハーラは、 1985 年に仏教を背景とする終末期医療施設にビハーラと名付けることを、当時、仏教大学の研究員だった田宮仁氏によって提唱されたのが始まりとされています。田宮氏の思想としてのビハーラは単に終末期医療に留まることなく、それ以前の療養生活や日常生活にも及んでいます。仏教はお釈迦様が生老病死の苦を見てこれを克服しようとしたことから始まったと伝えられております。死の問題はいま臨終を迎えようとしている人だけの問題ではなく、生あるもの全ての問題でもあるのです。                      一方で、意外に思われる方も多いと思いますが、医療現場において終末期という言葉の意味するところは必ずしも一定しません。それもそのはずで、疾病の種類によって急速に悪化するものや、何年もかけてゆっくりと進行