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イード・アル=アドハー

 イード・アル=アドハーはイスラム教の祝祭です。イスラム暦の12月10日より4日間行われ、我々が使っているグレゴリオ暦だと今年は7月30日夕から8月3日夕までとなります。ちなみにイスラム暦は完全太陰暦で閏月を挟まないので、毎年約11日ずれていきます。  この祝祭は聖書で、アブラハムが神に試されて自分の子を神の生贄にしようとした時、その寸前で神に止められて、代わりに羊を捧げたという話が元となっています。この期間、羊などが礼拝所に持ちよられ、貧しい人のために振るまわれて、残り物は家族や友人との祝いの食事として与えられます。こうして、イスラム社会の慈善と結束が強くなるのです。  新型コロナウイルス感染症の影響で今年のイード・アル=アドハーは人数の制限を設けているところもあるようですが、苦しい時もお互いに助け合う文化は見習うべきところがあります。  日本国は世界的に見てもかなり優秀な社会保障制度がありますが、それを支える国民といえば昨今では弱者を憎み切り捨てようとする人達が増えなにやらギスギスしています。宗教的・非宗教的なものを問わず社会的倫理を信じる心は大切なのだと思います。善悪とは極論すれば人間が代々受け継いできた社会的な常識に依存しており、有る種の信心だと言えます。自分の不利益になる事を全て拒絶し強いものだけが他を支配し奪い取る体制は、なぜ駄目なのかではなく、常識的に駄目だから駄目なのだと自信を持って言って良いのです。歴史的にみても、富や力が過度に集中しすぎている国は、そうでない国と比べて短期的に強いことはあっても(人の寿命と比べたら長い場合が多いですが)持続はしていません。  長い間つづいてきた国で少しずつ形を変えながらでも大切にされてきた伝統は、長い時間をかけて鍛えられてきた生き残りの知恵が内包されているのです。社会や文化には新しい考え方も必要ですが、伝統を無駄な害悪としてどんどん捨ててしまうのは思慮が浅いと言わざるを得ません。イスラム教がうらやましく思えるそんな日でした。

今日の法句経(110)

 今日、自分が思う所を法句経の一詩とともに考えてみます。  人もし生くること百年ならんも  つつしむところなく、こころ静けさをえざるは  戒めをまもり思いしずかなるひとの一日生くるにもおよばざるなり  (110)  百年間つつしみなくイライラしながら生きても、決まり事を守り心静かに生きる人の一日分の価値も無いという意味です。  身につまされる詩です。心しずかでないのは怒ったり貪ったりするからです。座禅や瞑想で短いあいだ心を落ち着かせるのは可能ですが、生活の中で心を乱さないようにするのは至難のわざです。油断していると百年なんてあっという間に過ぎ去ります。精進してまいりましょう。

安楽死を考える

 先日からALS患者の殺人事件について世間で色々と言われています。報道でもあるように少なくともあの事件に関しては法的には明確に殺人であり安楽死とは言えません。今日は安楽死について考えてみます。  医師が積極的に患者を殺害する安楽死が法的に許容される4つの要件は一般的に、患者の肉体的苦痛が耐え難く、避けられぬ死期が迫っており、他に代替となる手段がなく、患者の意思表示が明示されていることとされています。しかしながら、実際に積極的な安楽死が実施されることはほぼありません。第一にこれらの条件を満たしたと医師が思っていても殺人として刑事事件になるリスクは大きいですし、また肉体的な苦痛の除去する方法が死の他に無いなんて状況はそうそう発生しません。ここで注意すべきは基本的には肉体的な苦痛の除去が安楽死の主眼となっている点です。心身の苦痛を除くとされる場合もありますが、肉体的苦痛が無く精神的苦痛の除去の為になされる殺人や自殺は安楽死ではありません。  他方で消極的な安楽死は医療現場で日常的にみられます。経験的にもっとも多いのが、本人に意識が無く致死的な状況で延命処置を行っても短期間での死亡が確実な場合に、家族にそれらの情報を提供して人工呼吸器の使用や気管切開などを見合わせる希望が出される場合です。また、少数ですが口からの栄養摂取が不可能になった場合に、鼻から胃に栄養を入れる管を入れたり、胃に穴を開けて栄養の取り入れ口を作ったりする処置をしない意思を示される患者様もいます。医療者として気をつけるべきは、延命処置を実施しないのはあくまでも患者様や本人の意識の回復が望めない場合はその御家族からの希望によらなければならないという事です。本人も家族も延命を希望されているのに医師がそれを意図的に実行しなければ殺人罪に問われる可能性があります。  今回の事件のように、ALSで人工呼吸器を使用しない意思表示をされる患者様でも、呼吸苦が生じた段階で苦痛に対しての処置を行っていけば自然に眠ったような最期を迎えることは概ね可能であり、これも消極的安楽死と言えます。もちろん、それまでの精神的なケアが不十分ではいけません。呼吸の苦しさに対する処置をしても血液中の酸素の低下や二酸化炭素の上昇による意識の混濁は避けられません。そうなる前に、自分の人生に対して何らかの納得が得られていないと行く人も見送る人も心残り

破地獄偈

 華厳経の唯心偈の最後の部分を由来とする破地獄偈として知られる偈文があります。地蔵菩薩が地獄に落ちゆく人にその苦を除くために授けて解脱を得させたという言い伝えもあります。内容は以下の通りです。  若人欲了知 (にゃくにんよくりょうち)  三世一切仏 (さんぜいっさいぶ)  応観法界性 (おうかんほうかいしょう)  一切唯心造 (いっさいゆいしんぞう) 現代語訳:もし過去・現在・未来のすべての世界のすべての仏を知ろうと思えば、世界の真実をよく観察するべきだ。全ては心が作り出したものである。  元ネタとなった華厳経はこの世の全てに仏の元があり世界そのものが仏の現れであると言う考えがあり、同時に個人からみたこの世の全ては心によって作られたものとする考えもあります。だから、人の心を覆う煩悩を払い清浄な心を観れば真理である仏の法はおのずと分かると言えます。この破地獄偈もそう言う前提で読むと意味が分かり易いかも知れません。  実際に地獄のような状況にある時に、おちついて自分の心を見つめると何か良い考えが浮かんでくるかも知れません。もちろん、物理的に危険が迫っているときは瞑想なんてせずに速やかに逃げましょう。      

御霊信仰と災厄

 日本には古く御霊信仰というものがあり、天災や疫病などの災厄が非業の死を遂げた人の霊の仕業として、その霊を祀って災厄を鎮めようとするものだ。崇徳天皇や菅原道真や平将門などのそうそうたるメンバーがこれにあたる。当初はその怒りをおさめようとして祀っていたはずだが、後には普通に神として祀られているのも興味深い。  現代では何か災厄が起きた時に、霊のしわざだとしてそれを祀ることはもちろん無いが、こういう宗教的な素地が負けた方に対する同情心が強い日本文化を涵養したのだろう。平家物語にしても最終的に勝利を修めた源頼朝は話の主体ではなく、滅んだ平家一門や非業の最期を遂げた源義経がより目立っている。  ただ、敗者への思いやりに富んでいたはずの日本の文化も最近ではそうでもない。災厄続きで人心に余裕が無くなっているのも一因だと思う。御霊信仰では無くても、災厄時には人心を落ち着かせるための何かが必要だ。政策的には減税とか補償制度の拡充とかしようもあるしそれを実行する時にメッセージを乗せるがの重要となるのだが、どちらも今ひとつと言わざるを得ないのは残念だ。今は個人で出来る個々の心のもち方を見直すことからはじめていきたい。

今日の法句経(174)

 今日、自分が思う所を法句経の一詩とともに考えてみます。  第十三章 世の中 より  この世の中は暗黒である。  ここではっきりと理を見分ける人は少ない。  網からのがれた鳥のように、天に至る人は少ない。  (174)  この世のことわりを正しく見分けられる人は少ないと言う詩です。  今の世の中を見渡すと、流言飛語が飛び交い、大した根拠もなくそれを信じる人が多く見られます。社会不安のあらわれでしょう。ただし、この詩で気をつけるべきは明らかに誤っている人をみて嘆くことではなく、そもそも物事を正しく見られる人は少ないという理を知ることです。自分が正しいと思っていることに対しても常に検証する姿勢が大切なのです。

ジョーズとコロナ

 ジョーズは1975年公開のスピルバーグ監督の映画です。有名な映画なのでご存知の方が多いかと思いますが、簡単にあらすじをお話しますと、巨大なホホジロサメの襲撃を受ける田舎町で危険を過小評価し海水浴場の観光収入のために海開きをしようとする市長と、サメの危険を理解し海開きを中止させようとする警察署長との攻防を軸に話が進みます。まだ見ていない人のために最後のオチは書きませんが、後半でついに巨大サメはあらわれパニックとなります。今日は表題の通り、昨今のコロナ問題とこのジョーズを対比させて考えてみます。  現在、新型コロナウイルス感染症が再び拡大傾向にあるなか、政府と旅行代理店のコロナなんて大したことは無いとの意見により、観光活性化策がとられています。これがさらなる感染拡大を招かぬことを祈るのみです。さて、映画ジョーズではホホジロザメの危険を軽視した市長の判断は誤りだった訳ですが、逆にもし、ホホジロザメが何らかの理由で街を襲わなかったら危険を指摘し海開きに反対していた警察署長は市長や地元の経済人から吊るし上げられていた事でしょう。一方、映画通りの結果でも市長にそんな巨大なサメが来るなんて予見出来たかといえば難しく、続編でも市長のままですので責任はとらずに済んだようです。同じことはコロナ騒動にも言えます。権力と経済力に寄り添った発言をする人は感染防御的には安全とはかぎりませんが社会的には安全です。この感染症での死亡率は今のところ世界平均で4%程度です。仮に人類全てが感染し社会のシステムに深刻な障害が生じたら関連死も含めて膨大な死者数に及ぶと思われますが、これで人類が滅ぶことはまずありえません。その程度!の被害なら大したことではないから経済を動かせと考える人達にとっては、もう今後おきるであろうどんな被害も大したことではありません。しかも、そう考える人は決して少なくは無く、危険に警鐘をならす我々は彼らから見たら吊し上げ対象に決定です。  人の生死を数字や確率でしか理解しないと、人の命を軽く考えてしまいます。そうなると人命は政治的経済的目標を達成するためのコストとしかみなされなくなり消費されていきます。本来は人命を守るために政治や経済の目標は設定されるべきであり本末転倒です。ジョーズの劇中では終盤に市長も反省しますが、それは危険を直接経験した事にもよります。市長は別に悪人でもなんでも

ALS患者の殺人事件、その2

 ALS殺人事件の続報です。昨日のブログでは被害者は人工呼吸器をつけた状態の患者様では無いかと推測していましたが、その後、人工呼吸器をつける前(つける意思がない)患者様だったと報道されました。昨日いったように、このような場合に精神的肉体的な苦痛を除く目的で治療をしその結果として呼吸に障害が起きても殺人とはみなされませんが、今回は殺害目的で投薬しており明らかな殺人です。被害者から殺害の依頼があったのも事実の様です。被害者は発症から7年目になる経過が長い患者様で、その心身の苦痛をネット上に吐露したところを犯人に見つかって狙われたと伝えられています。  犯人の過去の言動では、高齢者への医療は社会資源の無駄だとか、寝たきりの高齢者を殺すように示唆するなどの異常な物がみられており、今回の殺人に関しても善意の安楽死幇助などではなく、彼らの視点で寝たきりで社会資源を浪費する病人を排除することに目的があった可能性もあります。  ALSの患者様が人工呼吸器をつけるか否かは個々人の価値観の問題ですが、どちらを選択しても悩みは生じるものです。そういう弱った人を見つけて己の歪んだ理念の元に殺害するのは断じて許しがたい行為です。司法の適切な判断を願います。  一方で、人工呼吸器をつけない選択をして亡くなった患者様の家族や主治医に対して、殺人者などとの罵詈雑言を加える心無い人達もいます。これも正直いかがなものかと思います。そういうひどいことを言う人は、患者は生きていたかったはずで介護を許さない家族や社会に死を強要されたと主張しますが、人工呼吸器の管理を伴う介護も今日では本人が希望すれば普通に可能で、そのことは十分に説明されます。見当違いも甚だしい批判です。こうした問題は自分の価値観だけが正しいと信じることから生じるもので、今回の殺人医師の考え方と本質はなんら変わりありません。  このようにALSにまつわる問題は大変複雑です。ALSの診断は、上位下位の運動ニューロンが障害されて他の疾患が否定される場合につけられますので、実のところ疾患として単一の物ではありません。このため、発症からわずか数ヶ月で急速に進行して亡くなる方もいれば、ホーキング博士のように呼吸筋が麻痺することなく何十年も生きる例もあります。ただこの世で最も恐ろしい難病の一つであるALSはその研究も盛んです。やがて、治療法が確立されれば

ALS患者の殺人事件

 本日の報道で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者様を安楽死したとして医師二人が逮捕されていた。ALSは脳脊髄と末梢神経の運動神経のみが選択的に障害され徐々に動けなくなっていく、意識も感覚もハッキリしたまま徐々に筋力が失われていく病気だが、眼球運動は保たれる事が多い。報道によるとこの医師らは元々、病院で家族らから死んでほしいと願われている患者を密かに殺害するようにほのめかす電子書籍も上梓しているといい、ネット上の書き込みでも老人医療をお金の無駄遣いと切り捨てていたという。この事件も主治医ではなかったことから、更に余罪がある可能性もある。殺害された患者様は全身が動かず、声も出せず、機械(僅かに動く部分にスイッチをつけパソコンなどの入力を補助する機械がある)でパソコンの操作は出来る状態だったという。死んだ本人の意思の確認も未だ取れておらず今回の事件も果たして本当に安楽死だったのか弱者を社会的害悪とみなしての殺人事件だったのかわからない。  さて、いくつかの報道を確認したのだが、この患者様が人工呼吸器をつけている状態であったのかどうかは分かっていない(注)。ALSの生死を語る上で、この機械が患者様に取り付けられているのかどうかは重要な問題だ。有名人のALS患者では先日お亡くなりになった天才物理学者のホーキング博士が有名だが、彼のように人工呼吸器をつけずに長期生存する例は極めて稀だ。一般的には発症後数年で呼吸する筋も麻痺する。ここで患者様に突きつけられる大きな問題が、呼吸筋が麻痺して息が出来なくなった時に人工呼吸器を使うかどうかだ。日本の法律では人工呼吸器を使用しないと死亡が確実な患者様がつけている人工呼吸器を外したり機能を停止させれば殺人罪になる。だが今から人工呼吸器をつけないと近い将来死亡することが確実な患者様が人工呼吸器をつけるか否かは患者自身の意思で決定可能だ。  人工呼吸器を使用しないと決断した患者様の呼吸状態が悪化し本人が苦しくなってきた時に苦痛を除去する薬を投与して、例えその影響でいくらか呼吸に悪影響を及ぼす副作用が生じても基本的には罪に問われない。だが、人工呼吸器をつけたあとでいくら患者様に懇願されても死期を早める可能性がある処置は不可能となる。世間に出版されているALSの書籍などは、人工呼吸器をつけた患者様がいかに素晴らしい人生を送っているかを紹介する物が

新型コロナウイルス弱毒化説を考える

 イタリアの病院からの報告で新型コロナウイルスの毒性が弱くなっているのではないかとの意見が出ている。あくまでも印象レベルの話だが、実際に弱毒化している可能性もいくらかはある。また、同時にそう断言できるほどの根拠も無い。今日はこの件について考える。  ウイルスは変異し続けるものなので今後の変化は予測出来ないが、ある時点で同種だが毒性の強いウイルスと弱いウイルスがあったとして、重症化した患者には毒性の強いタイプのウイルスが感染した割合が高いので、より重症度の高い患者から優先的に入院し社会から隔離されると、市中に残るウイルスは弱毒なものの割合が増える事になる。  入院した患者が最終的に回復したにしても死亡したにしても、その患者が持っていた強毒性のウイルスは、不幸な医療関係者に感染しなければ、さらなる拡散を起こさずに消える事となる。  こうして治療法が無くても病院や隔離施設の機能が十全に機能していれば、徐々にウイルスは弱毒化していく可能性はある。  ただし、この仮説を過信するのは危険だ。先述のようにウイルスは変異するので、新たに毒性の強いウイルスがあらわれる事もある。また、元々の毒性の差が少なければ弱毒化の速度も遅く、弱毒化の程度も大したことは無いはずだ。さらに前提として強弱2種類しか想定していないが、実際のウイルスにはもっと多様性があり季節や気候を含む環境や感染する人間などの条件よりその悪性度も異なるかも知れない。  また、もし実際に重症になる人の割合が下がっていても、それはウイルスの弱毒化によるものなのかは断言出来ない。特にイタリアでは高齢者や持病があり重症化しやすかった人の相当数は既に死亡するか治って完全では無いまでも免疫が出来ており、残った人達の感染で重症化する割合が減るのは当然と言える。  つまり、ウイルスが安全になったと断言出来る証拠は今のところ無い。まだよく分からないのに安全だと信じて警戒を解くのはリスクが高い。石橋は叩いて渡るべきだ、特に重大な結果を招く恐れがある時は。ただ逆に、十分な根拠があれば過度の警戒をすべきではなく、今後とも状況の把握に務めるべきだろう。  人は往々にして自分に都合のいい情報をなんだかんだと理由をつけて信じたがる。情報の取捨選択をするにあたりバイアスから逃れられる人間なんていないが、それを知っているだけでもバイアスの影響を少なくは出来

命の選択が気軽に行われすぎる

 コロナ無害論者の一部はこう言う、この病気は若者にはほぼ無害だから自粛なんてとんでもない。また、こうも言う日本人にはほぼ無害だから、自粛なんてとんでもない。  若者に害が生じる可能性が低いのはその通りだ。日本人というかアジア人に感染しにくいのもその可能性はある。しかし、もしそうだとしても、それで老人や非アジア人の死は仕方ないと切り捨てて良いものなのか?  確かに自粛に伴う経済的打撃は甚大だし早急な対策が必要なのも間違いない。だが、その対策は以前のように夜の街で遊んだり、狭い空間で人が集まって大声を出すような物以外でも良いはずだ。それが若者だけの集まりでも、その結果として感染が急速に拡大すれば接触者の追跡が困難になり封じ込められなくなる。  失業には公的補償もある。さらには生活保護など抵抗する手段がある。だが、今度の感染症は未だに治療法が確立しておらず重症化や死亡する可能性が高い老人には特に危険だ。  直接的に手を下さなければ、自分の行動で人が死んでも気にしないのか?自分にとって利益のない老人や外国人の命はどうでも良いのか?自分のおじいちゃんやおばあちゃんの命は、外国人の友人の命は大切ではないのか?  新型コロナウイルスはまだまだ未知の部分が多い。もしかしたら何も対策をしなくても大きな被害が生じない可能性も全く無いわけではない。だがそれは希望的観測であり根拠に乏しい。特に根拠はないけど、自分は多分大丈夫だから老人と外国人の命は気にしなくても良いという理屈はあまりにも恐ろしい。  いや、そこまで確信を持っている人は少数派で、多くは無自覚なだけだろう。そう信じたい。

陰謀論の見極め

 昨日書いたように陰謀論のほとんど全ては嘘です。ただ稀に陰謀論が本当だった事例もあり慎重な判断が求められます。今日は、陰謀論を見極める方法をお話しします。  陰謀論に騙され無いようにするにはまず陰謀論を知らなくてはいけません。世の中には様々な陰謀論がありそれぞれの説に熱心な信奉者もいます。何故か?陰謀論には人を惹きつける類型があるからです。  私が提唱する陰謀論が成立する要件は主に3つです。  1つ目は大きな事件がある事です。これは一つでも複数でも構いませんが不正な内容である必要があります。誰かが密かに大きな慈善事業を行っていたのが露見してもただの良い話です。  2つ目はその事件の全てをコントロールする強大な悪役の存在です。警察やマスコミはそれに気づいていないかその悪役の味方です。  3つ目はこの陰謀に気がつく有能な市民はあなただとする語り手の存在です。自分達を脅かす悪者から社会を友人を家族を守るのはあなたなのです!!語り手は様々な証拠を次々に提示してそう信じさせます。こういう話を信じてしまった人は新たな語り手となってさらに被害者を増やしていくのです。  この要件がそろってそれを信じてしまうと実は楽しくワクワクする人も多いのです。ある程度の知性と強い正義感をもつ人ほどそうです。  考えてでもみてください。誰にも気づかれずに自分達を脅かしている悪くて強い××団や○○人や△△民族を、正義の志をもつ精鋭の仲間で倒そうとしているのです。圧倒的に強い敵を倒すには様々な作戦が必要です。時には正義の名のもとに非合法な活動をするのも、効率的に自分達の思想を広げるのも知的な刺激があります。友達や家族に恐ろしい陰謀を告げて一笑にふされたとしても、それでも自分達は彼らを守るんだというヒロイズムがかきたてられるのです。実に燃えるシチュエーションじゃないですか。  それでは陰謀論の類型が分かったところで、陰謀論がなぜおかしいのかを説明します。まず第一に、そんなに恐ろしく強大な組織があったとして、それに抵抗する人達が騒ぐのを放っておくでしょうか?この疑問への反論としては、放置して自分たちの活動を馬鹿馬鹿しいと思わせることで陰謀が発覚しないようにしているのだというものがよくありますが、例えば実際の独裁国で政府の批判をしようものなら速攻で物理的に消されます。圧倒的な力を持つ者が社会の印象操作などす

PCRの検査件数に関する陰謀論に物申す。

 案外に信じてしまう人が多いようなので新型コロナウイルスのPCR検査に関する陰謀論について物申す。  さる5月8日より新型コロナウイルスのPCR検査を実施するにあたり、37.5℃以上の発熱が4日以上続かなければなければならないという条件を撤廃する通達が厚労省よりあった。これにより目安はあるものの医師の裁量で検査出来るようになりPCR検査数は増えていった。  この状況を陰謀論者は、小池東京都都知事が検査数を増やして以前の検査方法では捉えられなかった症状のない感染者を数えることで、危機感を煽って自分に有利な政局を作っていると言う批判をする。しかし、前述のように検査実施の基準を緩和したのは国であり都知事の権限ではない。さらに言うならば、現場の医療機関としては症状がなくてもリスクのある接触者などは検査したい訳で、なにか行政からの指示がなくても検査は増えるのだ。  さて、こうして近日は東京を中心に全国的に再び感染者数は増えている。これに対しても陰謀論者は、検査数が増えたから感染者が見つかっているだけで、危機感を煽る誰それの陰謀がどうのこうのと言うのだ。これは少しだけ正しいが、それから導かれる結論は大きく間違っている。もし初回の感染者数のピーク時に現在と同じ規模で検査をしていたら、もっと多くの感染者が見つかっていたはずで、現在の数字と単純に比較しても意味はないというのはその通りだ。確かに現在の状況は前回のピーク時ほどはまだ危険ではない。だが、注目すべきは感染者数だけではない。むしろ検査したうちの何人が陽性で感染者だと判断されたのかと言うことだ。5月の中旬以降は検査数は伸びてきているが、陽性率の伸びは検査数の伸びより大きい。つまり、感染は拡大傾向にあると類推出来る。単純に検査数が増えただけでは説明がつかない増加であり、現在の結果を冷静にみるならば、感染が拡大しているから警戒すべき状態だとの判断をするべきであって、誰かの陰謀なんだから安心だと油断することではない。

価値観と空

 世の中には多様な価値観があります。前回話題にした痛みのコントロール一つとっても、私は根性論で痛みに立ち向かうことを間違っていると言いましたが、根性論をよしとする価値観を持つ人もいるわけです。今回はそんな価値観の相違を般若心経でもお馴染みの空の考え方でみてみましょう。  仏教で四句と呼ばれる存在に関する考察では、物事は「有」、「無」、「有であり無」、「有でなく無でもない」、の四つに分類されます。この四句の四つ目の「有でなく無でもない」との見解が、空を重んじる大乗仏教の立場からすれば正解なはずですが空も空と見て、これらの四つ全てを絶対的な真理ではないと否定するのを是としています。世俗の価値観と宗教的価値観が異なる時に、世俗側を全否定することなしに問題の解決を目指す大乗仏教らしい考え方です。  これは単に宗教と世俗との価値観の相違や対立のみでなく、専門家と一般人とのそれとにも言えることです。世の中は多種多様な専門分野がありますが、例えば今回の新型コロナウイルスの蔓延、少し前の話では福島の原発事故の時など、専門家と一般人の意見には大きな隔たりがあった事がありました。こんな時に、一般人を無知蒙昧な愚民どもよと切り捨てる専門家様もおりますが、たとえ正しいことを言っていてもそんな態度で相手を説得できると思っているのなら専門家様の方が愚かと言えましょう。正しい意見を言っているのだから、従わない方が悪いと言う発想は象牙の塔に住む学者様にありがちな話です。結果として状況が正しい方向に動けばそれも無駄ではないのですが、礼儀正しく通常の手続きを踏んで介入した方がより早く解決することの方が多いものです。  人は誰しも何らかの専門性を持って社会と接しています。専門家にありがちな独善に陥らぬように気をつけて参りたいものです。  

痛み

 たまに報道で見かけるが、ガンの終末期の麻薬による鎮痛で意識が朦朧となったとして医師が家族から糾弾される事がある。鎮痛による強い眠気や精神症状などの副作用が出現した場合は、処方の減量や変更などの対策は行われる。しかし、それにより耐え難い痛みが患者様に起きるもまた問題だ。痛みだけ取り除く薬が出来ればいいのにと切に思う。  肉体的な痛みに対して薬に頼るななどと言う人もいるが、そういう精神論は間違っている。これまでの人生で何らかの耐え難い痛みを経験した事がある人なら分かるかと思うが、激しい痛みの中では精神的にも参るし肉体的な動作はもちろん思考する力も衰える。肉体的な痛みに苦しんでいる人には容易に理解出来る事も、そうでない人からはあまり理解されない。  涅槃経にもあるようにお釈迦様ですら、その死の前は肉体的苦痛があった。彼の場合はそれが精神的苦痛につながらず最後まで説法をするのだが、もし、お釈迦様を死に至らしめた病気が消化管の感染症ではなく、脳炎だったならそうは行かなかっただろうし、当時その状態まで生存できたかには疑問も有るがガンの骨転移で激痛がある状態ならばどうだったろうか?  死に際して最後まできれいに覚醒した状態で痛みもなく、家族や友人と会話して見送られるのが理想的ではある。だが、理想通りに生きられるとは限らない。そういう理想的ではない状態にいる人の身体的な痛みや心の苦しみに気を配れるようにしたいものだ。また、終末期の痛みではなくても、種々の慢性疼痛に苦しむ人にも同様だ。

庚申信仰

 今日は60日に1回の庚申の日です。四天王寺の庚申堂などでも有名な庚申信仰ですがいったいどのようなものでしょうか?  その前に、そもそも庚申とは何かをお話ししておきます。阪神タイガースや高校野球で有名な甲子園球場は皆様ご存知のことかと思いますが、甲子園の甲子とは球場が開場した大正13年が甲子の年だったから甲子園と命名されたのです。漢字文化圏で古くから使われてきた干支と呼ばれる時間や方位や角度を示す数詞があり、それは甲子に始まり60番目の癸亥で終わります。戊辰戦争の戊辰や壬申の乱の壬申もこの干支の一つです。また60歳で還暦とされるのは干支の年が60年で1周するからです。もちろん干支の日も60日周期です。庚申はこの干支の57番目にあたります。干支はおなじみの十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)と十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)の組み合わせで出来ています。干支の漢字二文字の頭が十干、二文字目が十二支で、順に並べると10と12の最小公倍数の60で一巡する訳です。  さて話がそれましたが、道教ではこの庚申の日の夜に、人の体に住んでいる三尸という三種類の虫が天帝(道教の神)に人の悪事を報告しに行くとされていました。この三尸は人が眠っていないとその体から抜け出せないともされていたので、庚申の日の夜にみんなで徹夜をして神を祀り飲み食いする庚申待という風習が古来からあったと伝えられます。平安時代の有名な随筆である枕草子にもこの庚申待の様子が描かれています。  元々は道教の行事だったのですが、仏教や神道にも習合されていきます。三尸を抑える庚申尊として仏教では青面金剛明王が神道では猿田彦神があてられています。また、庚申の申は十二支の申(猿)なので猿も祀られる場合が多く、青面金剛明王とともに見ざる聞かざる言わざるの三猿を祀るお堂も多いです。日本で始めに庚申尊が出現したと伝えられるのは冒頭にご紹介した四天王寺の庚申堂です。大宝元年(701年)1月7日の庚申の日に、疫病に苦しむ多くの人を救おうと祈っていた豪範僧都の元へ帝釈天の使いとして青面金剛童子が現れ除災無病の霊験を示したと言われます。虫をやっつけるだけじゃなかったんですね。  現代の疫病はまだまだ続くようですが、早く落ち着くように祈ります。体に悪いので徹夜はしないでくださいね。それではまた、合掌。

お盆

 今日は7月15日なのでお盆(盂蘭盆会)の話です。  明治時代の改暦まで、お盆は旧暦の7月15日でした。新暦の7月15日はまだ農業も忙しい地域が多く、梅雨時で屋外行事にも不向きであり、また新暦と旧暦とでは1ヶ月~1ヶ月半ほどズレますので月遅れの8月15日をお盆とする地方が多いです。一方で東京などあまりこうした事情とは関係の無い地域では新暦7月15日をお盆とすることもあり、以前と同じく旧暦7月15日におこなう地方もあります。  お盆の起源は正確には不明ですが、六朝時代の梁の武帝が大同4年(538年)に盂蘭盆斎を設けたとされ、当時の庶民にも浸透していたと伝えられます。目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母を救うために安居明けの僧侶を供養した話で有名な盂蘭盆経もこの時代の成立と言われており、仏教固有の風習では無く道教と習合した行事でした。この風習は道教色が強くなりつつも現代の中華圏にも中元節として残っており、日本のお中元の由来ともなっています。  日本では推古天皇14年(606年)に「是年より初めて寺ごとに四月八日と七月十五日に設斎する」と日本書紀あり恐らく灌仏会と盂蘭盆会のことだと思われます。これが日本初のお盆でしょう。正式に盂蘭盆会との名称で記録が残るのは斉明天皇3年(657年)のことです。以後、日本風の祖霊信仰と結びつき現代に伝わっているのです。  浄土真宗以外の日本の伝統宗派では、お盆はその月の13日に祖先の霊が今を生きる子孫の元に帰ってきて歓迎を受け15日に冥界に戻っていくと言う考えがスタンダードです。ちなみに浄土真宗では死者は仏となっていつも私達を見守っているという教義で、お盆に祖霊が帰ってくるとはしていませんが、故人を偲び仏に感謝する日とされています。  ともあれ、日本の仏教でお盆は祖先に思いをいたす日です。さて、良くしてくれた故人をしのび感謝するのは大事ですが、仲が悪かった故人はどうでしょうか?善い人に感謝するのはいいことですが容易いことです。逆に自分に酷い事をしたとんでもない悪人を許す心を持つのは至難のわざです。仏教では怒りの心は滅すべき煩悩の代表の一つです。どんな仇敵も死んでしまったらあなたを攻撃できません。嫌いだった故人の事を思い出す時、それは怒りを消し許す心をつちかう機会となります。お盆は、優しかった故人を懐かしく思い出し先祖に感謝するとともに、自分の煩悩を

日本仏教と死

 もともと仏教そのものが生老病死の問題を解決する教えですが、日本の仏教と言えば特に死を強くイメージされる方が多いかと思います。これは日本では仏教寺院が葬儀やお墓の管理など死に関する文化を担い、逆にめでたいことやお祭りは神道など他宗教が担ってきたことも原因かと思います。もちろん慶事を仏式で祝い、葬儀などを神式で行う事もありますが少数派です。他の仏教国はめでたいことも悲しいことも仏教とともにあるので、死は仏教の重要な要素ではあっても日本のように僧侶が死神扱いされる事も無いのです。  とは言え伝統的に日本仏教が死を強調してきたのも事実です。人の命は儚くすぐに終わります。明日も明後日もあると信じて今日の精進をおこたる事があってはならないからです。いくつか例をあげてみましょう。  浄土真宗の蓮如上人の有名な御文章白骨の章には「されば人間の儚き事は老少不定のさかいなれば誰の人も早く後生の一大事を心にかけて」とあります。たとえ若くて健康そうに見える人でも死は次の瞬間に訪れるかも知れないのです。だから、今を大切にしなくてはならないのです。真宗の場合は死して仏になる後生の一大事を心にかけることが今生の安心につながる訳ですね。  一方、今生の修行を重視する禅ではどうでしょうか?曹洞宗が明治期に在家布教の為に編纂した修証義の冒頭部にはこうあります。  生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり  生死の中に仏あれば生死なし  但生死即ち涅槃と心得て  生死として厭うべきもなく  涅槃として欣うべきもなし  是時初めて生死を離るる分あり  唯一大事因縁と究尽すべし  生と死を正しく理解し、その中に仏性を見出すことで生き死にや涅槃への執着を離れる事が悟りにつながるという意の文章です。この文に引き続き、人に生まれ仏法に触れる事が出来る可能性は極めて低いが自分たちは人に生まれ仏法にあう事が出来ている、悟るための最高の条件にあるのだから、この命を無駄にしてはならないという意味の文が続きます。  また、日蓮上人が信徒に送った手紙である妙法尼御前御返事には「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とありやはり限り有る人生を大事に使うようにとの意が読み取れます。  東京などではお盆の最中の時期です。今はなき家族や祖先を想いながら自分の命も大切にしていきたいものです。

国交省のGo Toトラベル事業

 本日は国交省のGo Toトラベル事業についてです。国内の観光産業の窮状はよくわかります。それを救おうとする理念もわかります。でも、それは今すぐ観光客を増やすことで実施しなければならない事なのでしょうか?  まずは、この事業の概要をまとめておきましょう。  事業の開始は7月22日となっていますが、利用の手続きが煩雑ですので、実際に利用するのならば7月27日以降に準備が整った旅行代理店などから始まるとされる業者のサービス提供をまった方が無難です。補助される金額は旅行代金の50%で宿泊費以外の交通費も含まれますが適応されるのはセット販売の場合のみです。宿泊のみ予約して交通手段を別途予約してしまうと交通費分は旅行代金に含まれなくなります。また、直接的な補助は旅行代金の35%となり残りの15%は現地で使用するクーポン券です。その地域共通クーポンの本格的な実施も9月1日以降となる予定です。クーポンの用途も限定されており、行政機関への支払い、光熱費や賃料への支払い、遊技場や性風俗店での使用、金券の購入等には使用出来ず譲渡も禁止です。この事業をいつまで続けるのかは決まっていませんが、国交省が開示している資料の絵からは1年ほどはつづけるつもりかと思われます。  個人的には、新型コロナウイルス感染症がいまだ落ち着かない現状で、人の移動を増やそうとするこの事業には反対です。感染拡大のリスク上昇は明らかです。もし何かしら避けられない事情で宿泊を伴う移動が必要となればもったいないので利用しますが、医療系の学会もほとんどオンライン化されている昨今では親子や兄弟の葬儀などでもない限り使用機会もなさそうな気がします。安全な地域なら良いでは無いかとの意見もありましょうが、今現在まだ安全だと断言できる地域はありません。この事業の結果として感染が拡大すれば、観光業の復活もさらに遅れることになります。政府におかれましては、観光業への補助金を増やすなどもっと別の方法での支援を行っていただけるように希望します。

アヤソフィア

 異文化や異なる宗教の融和の象徴とされていたトルコのイスタンブールにあるアヤソフィア(聖ソフィア)博物館が再びイスラム教の礼拝所(モスク)にされようとしてる件につき考えてみました。  アヤソフィアは元々は東ローマ帝国帝都コンスタンティノープル(現イスタンブール)に建つ正教会の大聖堂でしたが、1453年にオスマン艦隊の山越えで有名なコンスタンティノープル包囲戦で古代ローマからの伝統を紡いできた東ローマ帝国が滅びオスマン帝国に占領されると、アヤソフィアもモスクに改装されました。その後、第一次世界大戦でオスマン帝国が滅びると世俗化したトルコ共和国の初代大統領アタテュルクにより1935年にアヤソフィアはモスクから博物館へとなりました。こうしてモスクだった時は漆喰で塗りつぶされていた東ローマ帝国時代の貴重なモザイク画が再び日の目を見ることとなり1985年には世界遺産に指定されています。博物館となったアヤソフィアではその内部での宗教行事は禁止されていましたが、2020年5月にトルコのエルドアン大統領がコンスタンティノープル征服567周年記念式典をアヤソフィアを会場としてひらいてコーランを朗読し、7月10日にはアヤソフィアをモスクに戻す大統領令に署名しました。  アヤソフィアは博物館とはいえイスラム教にもキリスト教にも大切な歴史的建造物でした。今回のエルドアン大統領の決定はキリスト教徒やそもそも宗教を嫌う左派層からは批判を受けています。一方でイスラム教徒からは概ね支持されています。イスラム教では偶像は厳禁ですので熱心なイスラム教徒にとってはモスクであるアヤソフィアにキリスト教聖人らの絵がある状況は断じて許しがたい神への冒涜だったのです。トルコは世俗主義の共和国ですが住民のほとんどはイスラム教徒であり、また同時に民主主義国でもありますから、おそらくアヤソフィアのモスクへの転換は抵抗無く実施される事になるかと思われます。  今回の問題に対して各宗教の信者が良いとか悪いとか言うのは分かります。しかし、欧州の左派市民ら言う異なる宗教の調和や融合を壊すと言う批判はちょっと的外れかなと思います。異なる宗教は互いに協力し合う事はあっても融合をしてしまえば、それはもう別の宗教になってしまいます。左派の人は各宗教の歴史的文化的価値を持つ物を並べ美術品かのごとく展示して分かった気になる傾向があります

現世祈祷

 世情が厳しくなってくると神仏に頼んで加持祈祷をする人も増えます。それで不安な気分が落ち着くのならそれはそれでいいのですが、そういう祈祷に法外なお金を要求されたりしているならば詐欺です。みなさんも気をつけましょう。では、法外でなければ詐欺でないのかというのは難しい問題です。どんなに祈ってみたところで諸行は無常なのです。人は必ず死ぬし、滅さないものなどありません。本来、祈りによって変わるのは祈っている人の心なのです。祈りの結果、冷静になれれば問題を解決する良い知恵も湧いてくるものですし、もしダメでも腹がすわるのです。奇跡を信じるのもいいですが、祈りによって得られる本当の奇跡は自らの内に湧き上がるどんな困難に立ち向かう勇気と覚悟なのです。南無佛。

アビガンについて

【注意】これは2020年7月のブログ記事です。その後、アビガンが新型コロナウイルスに無効であることは確認されています。  藤田医科大より新型コロナウイルスに対する抗ウイルス薬アビガンの有効性が確認出来なかったとの発表がありました。それ自体は良いのですが、ネット上の反応をみると誤解している人も多いようなので補足しておきます。  今回は無症状や軽症の患者に対して、アビガンを内服した人36名と内服していない人33名の比較で、内服した方がウイルスの減少が早く解熱も早い傾向があったが、統計学的な有意差がなかったとの発表です。さらに検査の人数を増やせば効果が確認出来るかもしれませんが、少人数で明らかな差が出るほどの効果はなかったと言う話です。  例えばある病気に対して治療をしたら50%の人が助かり何もしなければ10%の人しか助からないとした場合、治療した人1000名と治療しない人1000名を観察すれば、治療した人たちは約500名が助かり治療しなかった人たちは約100名が助かることになります。もちろん、多少のブレはあるのでちょうど500名だったりちょうど100名だったりするわけではありません。では、治療した人1名と治療しなかった人1名を観察した場合はどうでしょうか?この時、両方とも助からない確率は45%です。たまたま両方助からなかったとしても、それで治療の効果を判定することは出来ません。  新型コロナウイルス感染症に関しては、年齢や状態により死亡する確率に差はありますが、だいたい0.2〜15%の間でものすごく高確率ではありません。仮に平均5%だとすると、30人を観察すれば1.5人ほどお亡くなりになります。もう30人に何らかの治療をしてそのうち0〜2人ほどがお亡くなりになっても治療の効果判定は困難な訳です。元々回復しやすい病気の効果判定には多くの検査数が必要となるのです。(回復しやすいとは言ってもこれだけ感染しやすいと十分な脅威です。コロナ無害とか言っている訳ではありません。)今回の細かい数字は確認出来ていませんが、効果が確認されなかったのは特に不思議ではありませんし、少なくとも投与していない群と比較して明らかな不利益(副作用や死亡率の上昇など)もなかったと発表されています。  一部の人達から藤田医大でのアビガン投与例の死亡率が他の地域での死亡率と比べて高いとの指摘が上がっています

利休百首より

 千利休は誰もが知る日本史上最大の茶人です。日本に喫茶の風習を広げたのは臨済宗を伝えた栄西禅師であり、以後も日本の茶の文化は禅を中心に仏教文化とも深い縁があります。わび茶の創始者とも言われる村田珠光は浄土宗の僧でしたが、臨済宗の一休禅師とも関係があったとされます。千利休の利休も在家仏教者の居士号で正親町天皇から賜ったものです。  さて、今回はそんな千利休が茶道の初心者にその精神、作法、心得を和歌で説いたものを百首集めた利休百首の中から最後の一首を紹介します。  規矩作法守りつくして破るとも  離るるとても本を忘るな  茶道の規則や作法をまずはしっかり覚えて守ることが大切ですが、茶道はお客様にお茶を飲んで頂くものです。気候や炭の具合の変化などの外的な影響もありえますので、当初の計画どおりに作法を守った結果として美味しいお茶が出来ないとなれば本末転倒です。本来の規則や作法の精神を守りつつ必要に応じてはこれを破るアレンジをした方が良いこともあるのです。  この短歌に出てくる、守、破、離、の三つの漢字をつなげて守破離という言葉ができました。守破離とは茶道をはじめ日本の芸能や武道の修行過程を示すものです。それは、「守」先人の教えを守った修行をして、「破」十分に訓練した結果として状況に応じた改良が可能となり、「離」ついには新たな境地を切り開くに至る、というものです。  この歌は基本の大切さと基本の積み重ねに裏打ちされた柔軟さの大切さを伝えているのです。仏道もまた然りです。基本的な教えは大切ですが、それにこだわり過ぎては失敗することもあります。例えば目の前で子供が暴漢に襲われそうになっていたら、仏教的に暴力はいけないという規則を守って動かないのではなく、即座に子供を助けましょう。

立正安国論

※注意:今回の内容は日蓮宗や浄土教系の信者の皆様には刺激が強い可能性がありますので、あらかじめご了承ください。仏教者らしく怒りを抑えて参りましょう。  本日は日蓮上人の立正安国論です。元寇を予言したとして有名な書で、書かれた当時は現在と同じように天災が相次いで起きていました。この状況を憂えた日蓮上人が鎌倉幕府に日本を守るための意見を申し上げたとして歴史の教科書にも載っているのでご存じの方も多いかと思います。  元々、法華経自体が全ての人の悟りとともに久遠の仏をいただく理想社会を目指そうとする方向性があり、それを信奉する日蓮上人が立正安国論を記すことで社会や国政を動かそうとしたのは自然な流れです。これが今日まで続く日蓮宗の積極的な俗世への介入の元になっているのは間違いありません。  そんな立正安国論のあらすじを紹介しますと、飢饉や天災が続くのは法華経の正しい教えが廃れて法然の念仏が優勢になったからであり、念仏を廃して法華経の正しい教えを広めないと次は他国から侵略を受けるだろうというものです。  念仏を唱えると自然災害が起きるなどと言うのは現代的な視点で見るとありえない話ですが、当時の日蓮上人としては念仏が流行して日蓮宗的に正しい法が廃れると神仏の加護を失い悪いことが起きるという理屈でそう申していた訳です。  こうした理由もあり立正安国論の中では法然上人とその著作である選択本願念仏集はすごい勢いでこき下ろされており、浄土教系の門信徒の方には精神衛生上よろしくないので読まないことをお勧めします。この書の中では念仏者は謗法の一闡提と蔑称され、前世のお釈迦様は正しい法を守るために一闡提を殺害したが罪とはならずむしろ正法を守った功徳となった事が説かれています。立正安国論は客人と僧の対談形式で書かれており、流石に僧侶を殺すのはいき過ぎではないかと問う客人に僧は、この話はあくまでも前世のお釈迦様の話だとして、現在いる念仏者を殺すことはせずに法然の系譜の僧に布施をせず、正しい法を守る僧を供養するように勧めています。  日蓮上人は建長五年(1253年)の立教開宗の直後も安房で念仏を批判する法話を行ったため強い反発を呼び鎌倉へ脱出せざるを得なくなっていました。立正安国論が書かれたのはこの脱出後に鎌倉で活動していた時代のものです。日蓮上人はもちろん鎌倉でも念仏への批判は続けたためにやはり念

多様性の許容はどこまでなされるべきか?

 人種や民族による差別はあってはなりませんが、国や地域による文化の差は必ずあります。そうした中で価値観が極端に違う人とどう接せるべきなのかを考えてみます。多様性はどこまで許容されるべきなのでしょうか?  知っている人は知っていると思いますが、名誉殺人と呼ばれる風習が中東から南アジアの一部地域にあります。名誉殺人とは、強姦も含めて婚外での性的交渉があった女性や自由恋愛をした女性、ひどい場合は家族以外の男性を見ただけで、その女性を一族の名誉を汚す存在として、一族の名誉を守るために血族の手によって殺害することです。この殺人の犯人は一族の名誉を守った英雄として褒め称えられます。  この風習は恐らく殆どの日本人には理解不能なことだと思いますが、この風習がある地域では、日本人的な発想をするほうが非道徳的で異常な訳です。  さて、ではこのような我々から見て明らかな非道が外国にあると知ったときに何をするべきでしょうか?外交的圧力や当該国の製品の不買運動、あるいは異文化への不干渉などいろいろな意見があるでしょう。  では次に実際の世界ではどのような対応がなされているかみてみましょう。実は名誉殺人の対して人権活動家等による個別の批判はされていますが、国家単位で具体的な効果を持つ行動はなされていません。  なぜでしょうか?実はどの国でも法的には名誉殺人はただの殺人であり違法です。要は個人的な犯罪であり国が口出しする事では無いとの判断です。  しかし、名誉殺人が行われている地域では不自然な自殺が多かったり警察が見てみぬふりをした例も報告されています。その地域の警察が本気で取り締まっていないのは明らかです。  世界中のほとんどの国では他国の人権状況よりも、その国との経済的結びつきの方が優先されます。他国の人権に口をはさむ時は、それに伴う政治的あるいは経済的利益がある場合です。強者にとって利用価値の無い弱者はいつも見捨てられるのです。  また互いに正義を振りかざせば、必ず衝突や争いが生じる訳で、それを避けるためにやはり弱者は見捨てられがちです。  でも、それで良いのでしょうか?多様性が大切とか、相手には相手の正義があると言うのは揉め事を避ける口実に過ぎないのでは無いでしょうか?現に理不尽に殺される弱者がいる時に、彼女らを見殺しにすることが道義的に正しいはずがありません。理屈をこねずに常識で考え

大雨

 7月4日から続く大雨で九州の広範囲に被害が出ています。既に多くの方が亡くなられており、衷心よりお悔やみ申し上げます。  ここ数年、大雨や台風による災害が頻発するのは地球温暖化と関係するのか否か?IPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)の第5次報告(2013〜2014年)では、大雨に関しては人間の活動が影響した可能性は中等度、熱帯低気圧については確信度が低いとなっていますが、温暖化自体は人間の活動の影響が確実視されています。第6次の報告は来年になる予定です。近年の災害が人間の活動によるのなら、人間の努力で被害を減少させることも可能かも知れません。調査の結果が待たれます。  二酸化炭素濃度と温度の上昇は適度であれば農作物の生産向上にも寄与し、産業革命以降の人口爆発は、単に技術的な進歩以外の要因もありそうに思えます。しかし、何事にも限度はあります。一度災害が起きると直接的な死者やけが人や二次的に病気にかかったり持病が悪化したりする人もでます。特に今年は避難所での新型コロナウイルス感染症の拡大も心配です。  人間の努力で減らせる災害があるのなら減らしたいものです。環境のような大きな問題以外にも、日頃の防災対策も大切です。しかし、残念なことに国の防災関係予算もここ10年では東日本大震災後に増額されていた平成25年度の約4兆9千億円をピークに減少傾向にあり令和2年度は2兆4千億円ほどとなっています。ちなみに事業仕分けでダムや治水工事の中止が相次いでいた平成22年度は約1兆3千億円と低額でそれ以下の低予算は昭和50年度までさかのぼらないとありません。逆に阪神大震災後の平成7年度は約7兆5千億円と高額であり、バブル崩壊後とは言えまだまだ国力のあった時代の日本がしのばれます。  世界規模でみても防災工事などが十分に出来ない貧困国は災害に弱いのは明らかであり、防災事業は無駄な訳がないと断言できます。景気の改善はそのまま防災の力につながるのです。一方で、これまでの経済の拡大は地球温暖化の原因になっていると思われ、温暖化対策をしつつの経済拡大ができるような努力が必要でしょう。日本の数十年に及ぶ政治経済の混乱は一体いつまで続くのでしょうか?私の世代の努力不足も原因でしょうから大きなことは言えませんが、できる範囲のことを少しずつ頑張って参ります。  それではまた、合掌。

賽の河原

 無駄な努力のことを賽の河原と言いますが、最近、若い人に対してこの言葉を使った所、意味が通じなかったので、ジェネレーションギャップと言うものを感じつつ、今日は賽の河原についてお話します。  賽の河原の語源となっているのは仏教にまつわる日本の民間伝承です。不幸にして亡くなった子供たちはその滅罪の為に三途の川の河原の石を積み上げ塔をつくらなくてはいけなくなります。ところが何度石の塔を作っても、それが完成する前に鬼たちが塔を打ち崩してしまい、子どもたちはいつまでも小さな手をすりむきながら、父母が恋しいと泣きながら石塔を作り続けるのです。そんな悲しいお話ですが、最後に子どもたちは地蔵菩薩に救われます。  この話は地蔵和讃として日本各地に色んなバリエーションで伝わっています。日本で地蔵菩薩が子供を守るとされているのはこの伝承の影響だと思われます。ところで、この賽の河原の言い伝えには、現代人には少しギョッとするような価値観の違いがあります。死んだ子どもたちが作っている石の塔は、自身の滅罪のためと説明しましたが、この子らにどんな罪があるのかと言うと、なんと親より先に死んだ罪なのです。いやそれはいくらなんでも可哀想すぎるだろうと思われるでしょうが、先の大戦で死地に赴いた若い兵士らの遺言でも、父母に先立つ不幸を謝罪する文言はある種の定型句であり、年齢順に死ぬのは割と最近までは倫理的義務感を伴うことだったのです。  ですが、これを昔のおかしな価値観の物語だと言ってしまうのも早計です。昔の人でも子が死んで悲しく無いはずはありません。この物語では子供の罪は早死して目上の者を悲しませた事にあるのですから、親が嘆き悲しめば死んだ子の罪は増々重くなるわけです。親が悲しみから立ち直るのは子供の供養にもなると言う事になります。その努力を続け子供の罪を減らし、ついに亡くなった子供も地蔵菩薩に救われます。不幸にして早死にした我が子が救われた事で両親もまた悲しみから救われるのです。賽の河原のお話は子供の死を悲しむ親族の立ち直りの過程をささえる物語だったのです。今で言うグリーフワークですね。そのように考えると、これも昔の日本人が作ったやさしい言い伝えだと言えます。それは決して無駄な努力ではなかったのです。

香港国家安全法

 6月30日に可決され7月1日より施行された香港国家安全法は、香港と名がついているが全世界の全住民を対象としており、また犯罪の内容も香港とは無関係のものも含まれ早い話が中国共産党の方針に逆らうのを罪としている。つまり、中華人民共和国が全世界をその法的支配下におくことを宣言した世界に類をみない実に独創的な法律だ。すでに香港では多くの人が逮捕されている。この法律が出来た以上、自由と民主主義を奉じる我々が逮捕されない理由は、我々が中国の権力が直達出来ない土地にいるからに過ぎない。  この世界史に残るであろう暴挙に対して、イギリスやオーストラリアや台湾は亡命者の受け入れを表明し、アメリカは制裁を発動させている。  一方で日本政府はと言えば、定形の遺憾の意を表明したくらいだ。与野党の国会議員有志からは抗議の声があがり中国も反応しているが、政府はまだ何もしていない。  中国共産党は、かつて仏教国のチベットを侵略し文化や宗教施設を破壊して人口の2割を殺戮した。イスラム教圏である東トルキスタンも侵略され、その主要民族のウイグル人は今や文字通りの民族浄化の危機に瀕している。中国国内のカトリック教会も共産党の管理下におかれており、共産党の同意のもとにバチカンは神父を赴任させる。共産党は自分たち以外の権威を認めない。  香港は陥落した。もし日本が占領されたら、その時だけ共産党が慈悲深くなるとは思わない方がいいだろう。香港国家安全法への抵抗は中国への内政干渉ではない。香港国家安全法が中国以外の国へ干渉しているのだから。まずは、ちゃんと抵抗してくれそうな政治家に次は投票したい。

正像末和讃より

 浄土真宗開祖の親鸞聖人の和讃集の一つ正像末和讃より抜粋です  無明煩悩しげくして  塵数のごとく遍満す  愛憎違順することは  高峰岳山にことならず  現代語(意訳)では、  無知や煩悩が激しく塵の様にこの世に満ちている  愛や憎しみに苦しみ楽しむことは行く手を阻む高い山のようだ  という感じです。  一般的に仏教は悟りを開く為に一生懸命に修行したり功徳を積んだりするものですが、親鸞聖人の発想はまるっきり逆で、煩悩に満ち溢れた人間がそんな努力をしてみても悟りなど開けはしないと言うのが前提です。こうして徹底的に自分が駄目なところを見つめて行く先に、阿弥陀如来の救いを求めるようになる訳です。  人によりこの信仰形態の好き嫌いはあるでしょうが、浄土真宗のこの基礎的な考え方は、驕り高ぶるリスクを減らす点においては他に類をみない強固さがあります。  自分が、怒りや貪りや様々な執着や偏ったものの見方に支配されていないか、時々はこの和讃を思い出し反省してみるのも良いでしょう。

東京でCOVID-19患者増加傾向

 国の緊急事態宣言が解除される少し前くらいから、主に右派の論客でコロナなんて風邪と同じだと主張したり、経済に打撃を与える大罪をおかしたとして専門家会議を口汚く罵る人が多く見られた。残念ながら彼らに科学的な説得は通用しない。一方で彼らは再生産数のデータを彼ら独自の解釈でコロナが無害である「科学的」証拠だとして提示していた。再生産数が減少に転じる前の各自治体の努力をまるっきり無視して、遅いとの批判が強かった国の緊急事態宣言をコロナ対策の起点として考えれば、なるほどそう言う解釈も可能かもしれないが、結論ありきの誤った解釈であり恣意的な世論誘導が目的だろう。緊急事態宣言程の経済抑制が結果として過剰ではなかったのかどうかは検証されるべきだが、無策でいいはずが無い。  また、接待を伴う飲食業ばかり叩かれているとの批判もあるが、実際に大きなクラスターが形成されている以上は一定の警戒もやむを得まい。当該職種に関わる感染者数は他の感染者数と比べて少ない等という反論は、一箇所からどれだけ多くの人数が感染したかの視点が欠けている。例えば2〜3名程度の家族内発症が多くあっても、それぞれ追跡や隔離は困難では無い。しかし、接待を伴う飲食業は一度に生じる感染者数が多く、しかも追跡困難な例も多く、見つかった実数以上にさらなる感染拡大を招く。家族が集合しないようにとの指示は難しいが、しばらく飲み歩くなというお願いは可能だ。この結果、遺憾ながら倒産したり失業したりする人には失業保険などの公的補助を利用してもらう事も出来る。  日本人は何故か感染しにくいファクターX論もある。実際にそうなのかも知れないが、それが何なのか分からない以上は、それに依存した施策は危険だ。  ともあれ、現に東京の感染者数が再び増加傾向を見せ始めた今、国でも東京都でもいいから、せめて接待を伴う飲食業業の一時停止くらいの対策はすぐに実施すべきだ。

法演の四戒

 宋代の臨済宗の高僧であった法演が、弟子の仏果に説いた住職の心得が法演の四戒です。その解釈にはいくらか幅がありますが味わい深い言葉です。その四戒は以下の四つです。 第一 勢い、使い尽くすべからず。 勢い、使い尽くさば、禍必ず至る。 第二 福、受け尽くすべからず。 福、受け尽くさば、縁必ず孤なり。 第三 規矩、行い尽くすべからず。 規矩、行い尽くさば、人必ずこれを繁とす。 第四 好語、説き尽くすべからず。 好語、説き尽くさば、人必ずこれを易んず。  さて、この法演の四戒の解釈ですが、本によってばらつきがあります。ここでは、法演が弟子の住職就任にあたり送った言葉で有ることを考えた上で、私が個人的にこれだろうと思う物を書いていきます。  まず、戒の第一ですが、権力乱用の禁止です。上に立つものが無茶な指示ばかり出していては組織を支える人の方がもちません。しかし、権力を振るう側はその事を往々にして忘れてしまいます。  戒の第二は、利益独占の禁止です。組織のトップに立つものは組織の利益分配にも大きな裁量権を持っています。それを利用して自分ばかりが利益を貪り、自分と組織を支えた人たちに還元しなければ、孤立してしまうでしょう。  戒の第三は、規則の機械的適用の禁止です。規則と言うものは基本的には守るべきものですが、犯罪だって情状酌量の余地が生じれば減刑されます。状況に応じて柔軟な運用をしないと反感を買う原因となるでしょう。例えば、出社中に事故に巻き込まれ人命救助にあたった結果、遅刻した社員を懲戒処分にするようなことはあってはなりません。  戒の第四は、言葉への偏重禁止です。これは禅宗の住職就任にあたっての注意なので、好語をお世辞などの意味ではなく、仏道修行での指導の言葉と解釈しました。仏道修行とは結局の所、理論や言葉だけでなく実践が重要なのです。あまり細々と解説して、教えを受けた側が分かったような気になってしまうのは逆に修行の妨げになるのです。人助け一つとっても、自分の頭の中でよいと思っていることでも、現場で実践すると相手には迷惑だったりすることもあるのです。教育者、指導者としては、部下にやらせてみるのが大切なのです。