持続可能な菩薩行
捨身飼虎では無いが菩薩行は身命を投げ打つのが本来的姿だとされる。まるで葉隠の説く武士道のようだ。
葉隠においてとにかく自分が死ぬ選択をすることは、命惜しさになすべき判断を誤らない為だ。誰しも生き残りたいから自分に利のある選択に何かしらの口実をつけて選んでしまいがちとなる。
ただ、武士道で命をかける局面は基本的に主君の為のみであるのに対して、菩薩は一切衆生を救うのだから死ぬべき場所はいくらでもある。もし、虎を助けるために我が身を餌にして与えるのを是とするならば、発心した菩薩は一日も生き延びれはしないだろう。
釈尊は苦行を禁止し中道を説いたのではないかという意見もあろうが、釈尊自身も悟りを開いた時の瞑想は悟りを開くまでこの場を立たないと誓ってのものであり命懸けであった。法華経にも有名な不惜身命の文言がある。命をかける事自体は悪くないが、だからと言って葉隠レベルで死のうとしていては大乗仏教を伝える者はいなくなるだろう。この状態で大乗仏教が滅びなかったのは、人が死にそうになっているのを放置する菩薩がいなかったからだろう。無茶をして死にそうになっている菩薩は仲間の菩薩が必ず助ける。僧伽が仏と法と並んで尊ばれるのは、そういう意味もあるのかも知れない。
つまり、菩薩行が持続可能な状態で修められる為には仲間の存在が大事だということだ。しかし、もし仲間がそばにいないのなら、まず自分が死なない様に努力すべきだ。仮に会ったことが無くても、あなたの幸せと生存を望む菩薩はいるのだから、その願いを無にするべきではない。程よく食べ、程よく休み、気力と体力を充実させておいた方が人助けも捗るというものだ。
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