憲法記念日
憲法記念日と言えば改憲派と護憲派のバトルが風物詩だが、この世に永遠不滅なものなんてないのだから、いずれは改憲されるだろう。別に改憲されるのは良い。時代が変わればルールも変わるのは有史以来続いていることだ。だが、どう変わるかは重要だ。
実のところ、現行の日本国憲法は国際連盟の理念をほぼ丸パクリしただけあってなかなかに良い内容だ。憲法の第一条で国体思想も保持されており保守派も納得だろう。無理に変えるべきところも見当たらない。ただ、戦後この憲法の、特に第九条の解釈は無茶苦茶であり、誤解がないように書き直すことは検討した方がいい。
国際連盟から国際連合に至るまで、戦争の禁止とは侵略の禁止のことだ。自衛権は一切否定されていない。GHQが作り日本の国会が了承した(させられた)日本国憲法でもこれは踏襲される。これを日本の教育界ではあたかも自衛のための戦闘行為も違憲であるかのように教えてきた。今でもそう勘違いしている人が多いだろう。この誤解の元凶は、朝鮮戦争の際に当時の首相であった吉田茂が憲法九条を盾に集団的自衛権の行使を拒否したことだ。だが、当時まだまだ敗戦の傷が癒えない日本からの出兵は現実的には難しかったであろうと思われ、ある意味で吉田は九条を利用して日本を守ったとも言える。歴史的功罪はなんとも判定しづらい。
戦後日本の九条思想に基づく徹底的な争いの忌避は日本以外にも被害をもたらしている。これまで日本は周辺国で縁も深い中国やミャンマーやインドネシアや南北朝鮮で政府による住民虐殺があった時に、民衆を助けずに圧政を敷く独裁的な政権に融和的に接してきた。争いを避けるためだ。なるほど虐殺は一方的な殺戮であり戦いではない。他国との緊張を避けるために無辜の市民を虐殺する政府を支援するのは憲法九条の狂った解釈のもとでは正しいのだろう。現在でもロシアの侵略に屈するようにと呼びかける九条信奉者は多い。
日本国憲法九条の誤った解釈とそれから派生する他国の軍事政権や独裁制への賛美は恐ろしい矛盾を抱えている。暴力で人々を支配しようする者に抵抗するのは争いで良くないのなら、日本に軍事独裁政権が誕生した時もそれに抵抗するのも良くないということになる。暴力に対して抵抗しない人間はその暴力を認めており、彼らが信じる九条の暴力絶対反対の精神に反する。彼らの信じる九条と現実の九条が違う。間違った理屈を盲信するから矛盾が生じるのだ。
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