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無性有情

 現代に伝わる日本の仏教の多くでは人はみな仏性があり成仏できる可能性を秘めているとされますが、南都仏教の一つ法相宗の伝統的な解釈では人や生き物は五種類に分類され、その中には仏性を持たず何度転生を繰り返そうが永遠に成仏できない無性有情と呼ばれる生物が存在するとされます。こうした考えが法華経の一乗思想と対立したことで、日本天台宗の祖である最澄と法相宗の徳一が行った三一権実諍論は有名です。その後、何度かこうした論争があり、結局日本の仏教界では誰でも等しく成仏できるとする一乗説が主流となっていきました。  個人的には一乗説バンザイで結構なのですが、果たして無性有情なる存在がなぜ想定されたのかには興味があります。  この無性有情をありとする法相宗が拠り所とする思想は瑜伽行唯識学派の流れを汲むものです。これは法相宗独自のものではなく、中観派とならんで大乗仏教思想の根幹をなすものですが、これが無性有情という発想に関係していそうですのでちょっと考えてみましょう。  ところで、中観派の説明は空や縁起の思想を重んじる般若心経のアレですよと言えば、ああアレねと伝わりやすいのですが、唯識の方はなかなかに複雑です。学者さんやお坊さんから怒られそうですが、アウトラインの理解だけでも3年はかかるとの定説がある唯識を極めて単純にまとめてみます。まず、人は外界を認識して情報としてそれを統合・判断することでその記憶は最深部の意識に蓄積されると考えます。この最深部の意識の中にこそ仏性があるのです。しかし、人は五感から得た情報にあれやこれやと自分勝手な判断を加え自己へのとらわれで歪めてしまい、仏性が眠る最深部の意識を汚してしまうのです。だから、瞑想によって余計な判断を省き、五感から得たこの世の情報を直接的に最深部の意識につなげれば悟りが開け、仏性に従って衆生を救い始めるという思想です。  この思想を前提とすると、無性有情にはこの最深部の意識の中にそもそも仏性が存在しないと考えているのです。もしかしたら、これは昔々あまりにも素養が無い信者に絶望した僧侶が言い伝えたものなのかも知れません。しかし、誰かの最深部の意識の中に仏性が無いなどと外から他人が判断できるものなのでしょうか?もう一つの可能性としては、徹底的に瞑想して修行しても、自分の内に仏性のかけらも見出すことが出来なかった僧侶の絶望の叫びが伝わったものな

Mr.ポテトヘッド

 映画トイ・ストーリーでも有名な玩具「Mr.ポテトヘッド」が性的中立性を守る為に名前からMrを外す事になったそうだ。姉妹品のMrs.ポテトヘッドもおそらく同様の扱いとなるだろう。  昨今ではジェンダーという言葉は社会的・文化的に制定された性とされることが多いが、元々は生物学的な性別も意味する。混ぜると話が混乱するので今回はジェンダーの定義を前者のものとする。リベラル的な思想では社会的な性差はあってはならないものとされるので、今回のMr外し問題も、このジェンダー・ニュートラルの思想を表したものだと言え、実際に販売元のハズブロもそのように言っている。  科学技術の発展に伴い生物学的な性差によるジェンダーの役割分担は昔ほどの意味を持たなくなっているのは事実であり、ジェンダーによる不平等感をなるべくなくそうというのは同意できる。  しかし、だ。80年来の歴史をもつある意味伝統的な玩具で、多くのアメリカ人の思い出の中に確固たる地位を築いているMr.ポテトヘッドからMr.の敬称を奪い取ることがジェンダー・ニュートラルなのかと言われれば疑問がある。  確かに、ジェンダー問題対策として敬称のMr.やMrs.やMiss.を廃してMs.に統一しようとする動きもあるし、HeやSheが性差別的だとして三人称は単数でもTheyを使おうとする運動もある。これを是とするならばMr.ポテトヘッドからMr.を奪うのは正しいことだ。だが、果たして生物学的な性差に対してつける敬称や代名詞はジェンダー問題なのだろうか?性同一性障害の人だっているだからと言う意見もあるけれど、何か新たに代名詞や敬称を作った方が早くないだろうか?  日本でもファミリーマートのお惣菜商品である「お母さん食堂」がジェンダー差別を助長するとして叩かれた事があった。これは、専業主婦が女性の自立を阻害する極悪な奴隷制度だとして叩く風潮から出たものかも知れない。専業主婦には経済的な自立が無く隷属的な立場になりがちだという指摘はその通りではあるが、専業主婦ないし専業主夫がいてうまく行っているご家庭も多いわけでシステムとして絶対悪だとするのは同意しかねる。特に仕事が尋常でなく多忙な人には、配偶者は専業主婦なり主夫であって欲しいとする考えがあっても道義的な問題があるとは思えない。もちろん、夫婦ともものすごく多忙な共働きをしてお金を稼いで家事や子

プラセボとノセボとワクチンなどなど

 日本でもようやく新型コロナウイルスのワクチン接種も開始されましたが、巷ではいわゆるワクチン陰謀論的な話もしばしば聞かれます。一方で、 フードファディズム の回でも紹介したような、何とかという食品が免疫力を高めてウイルスに効くとか、比較的容易に入手可能な何とかという薬が実はコロナに効くんだなとどいう与太話も時々みかけます。今日はこういう現象に関わるプラセボ効果とノセボ効果についてお話します。  プラセボ効果については有名ですが、簡単に言うとニセの薬でも飲めば効いた気がするというものです。もちろんニセの薬では癌などは治りませんが、不眠症などには存外に効果を発揮します。  こうした思い込みから表れる効果を排除するために、新しい薬が発売される前の治験では、薬とニセの薬を患者にも医者にも分からないように無作為に割り振ってその効果を判定します。そして、ニセの薬よりも統計的に意味のあるほど効果があった薬が販売を認められるのです。ただ、命に関わるような病気では治験であってもニセの薬を投与するのに倫理的な問題点もあり、先発の既に効果があると分かっている薬との比較もよく行われます。極端に効果に差が出た場合は試験の途中で中止となる場合もあります。  前記の様に睡眠薬などは意外とニセの薬でも効果があり、現在も販売されている某睡眠薬の治験において、治療開始前は眠るまでに平均で約77分かかっていた患者さんたちが、その薬を飲むと2週間後には眠るまで平均で約57分と改善したのですが、ニセの薬を飲んだ人たちも平均で約60分まで短縮しており一定の効果をみとめています。この効果自体は医療的にも利用は可能なのですが、同時にニセの薬を使った詐欺行為でその被害者が熱烈に詐欺師やニセの薬を支持する場合があるという奇妙な現象を生み出す原因ともなっています。  一方のノセボ効果とは本来はニセの薬で有害な事象が出る事を言いますが、処方された薬に対する恐怖や不安から気分が悪くなってみたり、たまたま別の原因で起きた有害事象を薬のせいだと思いこんだりする場合にも使われる用語です。先に説明した治験で人に無害なはずのニセの薬を飲んでも下痢や吐き気など生じる事があります。また臨床での体験例として、前の主治医と喧嘩して病院をかわってきたとある病気の患者さまに、検査日程の都合上一旦はメーカーが違うだけの前と同じ睡眠薬も含む処方をし

延命十句観音経は心の鏡

 延命十句観音経は小生が中学生の頃、始めて暗唱できた思い出深いお経です。しかし、その頃は自分のおかれた苦境や社会の不条理に対してなんとかしてくれと願いながらの読経だった事をおぼえています。要は現世利益の祈祷でした。観音菩薩のお経なので助けを求めるのは別に悪いわけではありませんが、お経の意味を考えると違った見方が出来ます。  ただ、延命十句観音経はある程度は多義的な解釈が可能であり、意味を考えると言っても各人によって捉え方には差があります。以下に延命十句観音経の全文とその現代語訳(案)をお示しします。 延命十句觀音経  觀世音 (かんぜおん)  南無佛 (なむぶつ)  與佛有因 (よぶつういん)  與佛有縁 (よぶつうえん)  佛法僧縁 (ぶっぽうそうえん)  常樂我淨 (じょうらくがじょう)  朝念觀世音 (ちょうねんかんぜおん)  暮念觀世音 (ぼうねんかんぜおん)  念念從心起 (ねんねんじゅうしんき)  念念不離心 (ねんねんふりしん)  現代語訳私案「観音様、私は仏に帰依します。仏様から悟りに至る因と縁を与えられ、仏と法と仲間たちの縁によって成仏することが出来ます。朝も夕も観音様を念じます。この念は心から起き離れることはありません。」  上記の様に考えると、このお経は観音様とともに菩薩の道を歩ませていただくという感謝の意味合いが強いように思えます。  さて、先述のようにこのお経は色んな解釈が可能です。例えば、上記の訳では佛(仏)を、悟るべき真理そのものである法身仏と想定していますが、釈迦如来や大日如来や阿弥陀如来などの個別のイメージを持つ仏様を思い浮かべる人も多いでしょう。  また、観音様は如来になれるのに、この世の全ての生き物を救うためにあえて菩薩にとどまっている方なので、お経の中の仏を観音様とみることも可能かと思います。その場合、帰依するのは観音様であり、因も縁も悟りも観音様とともにあり、この経を受持する者も全ての生き物を救うという決意表明となります。  延命十句観音経はそれぞれ読経する人の心の状態によって、祈祷だったり、感謝だったり、誓願だったりするのです。  なお、延命十句観音経の延命は臨済宗の高僧として有名な白隠禅師が江戸時代にこのお経を普及させた際につけたもので、十句観音経とだけ呼ぶ人もいます。十句観音経は南朝宋の時代の成立とも言われます。150

ブログ開設記念日

 このブログも本日から2年目に入ります。今日はこの1年を振り返って個人的に印象的だったブログ記事を3つピックアップしてみたいと思います。それぞれリンクも貼っておきますので興味をもっていただけれた場合はぜひ御覧ください。  まず、はじめに良寛さんの辞世における不可解な点を考察してみた「良寛さんの辞世を公案的に読む」 https://www.angodo.com/2020/09/blog-post_10.html です。良寛さんの苦悩の人生とその辞世は、ビハーラ的な医療を考える上でも意義深いかと思います。その考察が甘く恥ずかしいところですが、「形見とて何残すらむ春は花、夏ほととぎす、秋はもみぢ葉」は仏教詩の定形から考えるとやはり破格だと思われます。小生はこの歌を、今生で仏道を成就し得ずに死ぬけれどその先の救いへの想いを詠んだ歌とみました。小生が調べ得た範囲では同様の考察は無かったので、この説に対して先達のご意見を聞きたいと思っています。どなたか心当たりがいらっしゃったらご指摘いただけると幸いです。良寛さんの歌についてはブログトップページの上の検索バーから「良寛さんの歌」と入れるとシリーズ1〜6が出てきます(上記リンクはタイトルが違いますがその2として数えています。)。良寛さんの歌に興味を持たれた方はあわせて御覧ください。  2つ目は「不思議の国のアリス症候群」 https://www.angodo.com/2020/08/blog-post_7.html です。主に偏頭痛に伴って生じることがある、自分の体やその他の物が著しく大きく感じたり小さく感じたりするなどの異常な感覚を起こす症候群です。他人には訊きにくい奇妙な症状に関しては本人はその不安感を一人で抱えている場合もあり、また医者でも知らない人の方が多いかと思うので周知する意味で書いてみました。これとは別に盲となっている視野などに持続的な幻覚を生じるシャルル・ボネ症候群というものもありますが、これも患者側から申告されることは稀で大体はこちらから聞かないと答えてくれません。  3つ目は「ユマニチュード」 https://www.angodo.com/2020/02/blog-post_28.html です。リンク先が冗長な文章になってしまっているのが残念ですが要点をまとめると、ユマニチュードとは認知症患者に対するケアの技

ブログ開始からまる1年

 このブログは去年の2月24日に開始したので、本日でまる一年が経過することになります。去年は閏年だったので366日間あり、その間に書いたブログは367本なので平均で1日1本以上は書いた事になります。ここまで続けてこられたのもブログを読んでいただいた皆様のおかげです。誠にありがとうございます。  当初は一般病院でビハーラ的(仏教的)な医療を実施するためのアイデアを提供する目的で開設された当ブログですが、おりからの新型コロナウイルス感染症の拡大やアメリカ大統領選挙に伴うありえない規模での陰謀論の勃興があり、本題以外の話が多くなったと感じています。  思い返せばこの一年間、決して少なくない数の知人友人が陰謀論に狂っていきました。人は恐怖の前にいとも簡単に荒唐無稽な陰謀論を信じてしまうものだと思い知らされました。そういう人々を救うことが出来ない自分の無力さはなんとも嘆かわしいことです。  また、以前に書いた文章を見直しますと拙い物が多くこれまた嘆かわしいことです。ですが、書くことで自分の勉強になった面も多く、少しずつでも道を進むのが大切だと信じ、日々精進して参りたいと思います。  衆生無辺誓願度  煩悩無尽誓願断  法門無量誓願学  仏道無上誓願成

至道

 今日は私のネット上の仏教ネームでも使用している至道についてお話しします。漢文の読み下しだと「道二至ル」となりますから迷ったあげくにようやく仏道にたどり着いて、さあこれから精進しようという雰囲気もしますが、実は至道という言葉は悟りそのものや最高の教えを示しており、名前とするには恐れ多い言葉です。ただ、こうした宗教上の名前はそうありたいとの祈りとして掲げる意味もあり、ネット上の仮名としてでもそれにより引き締まる身もあるということで改名せず放置しています。恥ずかしい限りですが、第六天魔王を名乗るよりはマシだと信じて精進してまいります。実社会では実名で活動していますのでご容赦をば。  さて、至道とはなんぞやということは、しばらく前のブログの 言語道断の回 で紹介した「信心銘」に詳しく説かれています。その内容を要約すると、至道は自我にとらわれた好き嫌いなどの分別を離れ物事をありのまま見ることができればおのずと明らかになると説かれています。禅の入門書らしい教えです。信心銘では冒頭から至道とは難しく無いと断じておりますが、道理が示されていても実践は難しいものです。  簡単なはずの事がなかなか出来ないというのは仏教の本質でもあるように思えます。唐の時代の高名な詩人である白居易が道林禅師に仏教の真髄を尋ねたとき、禅師が「善いことをして悪いことをしないことだ」と返事をしたところ、「そんなことは三歳児にもわかる」と言った白居易に禅師は「三歳児に分かることが八十の老人にも実践しがたい」と指摘された話が思い出されます。道が分かっていても進んでいかなければ意味をなさないのが仏道なのでしょう。  道はまだまだ遠いですが、いつか成仏したいものです。

仏教の転生観

 時々、本来の仏教では転生を否定していたなどという言説を見かけますが少なくとも文献的には間違っており、大乗仏教以前の古い仏典でも輪廻転生は前提となっています。お釈迦様はこの世の全てを苦とみなし、その原因を煩悩だと突き止め、煩悩を滅した結果として安らぎを得られるとしており、この安らぎの状態が悟りです。そして悟りを開くと、もう再び転生して苦しみの世に生まれる事はなくなるというのが仏教の考えです。お釈迦様の時代には人は転生するという考えが常識であり、この世の全てが苦であるとする以上はそこに転生してきては苦から脱せたことにはならず、悟り=転生の終了、つまり輪廻からの解脱だとなるわけです。  人は輪廻転生するの常識だった仏教が成立した時代のインドの宗教はバラモン教を主としていました。その教えではこの世界の神的存在であるブラフマンと同じものが人々の内にもあるとされ、それを真我(アートマン)と呼びました。バラモン教の悟りや解脱はブラフマンとアートマンが一体である事を理解・体感する事でした。バラモン教ではこのアートマンが輪廻転生の主体だとされていました。お釈迦様の教えでは、この世の全てはうつろいいき確固たる我は無いとしますのでバラモン教の言うアートマンは否定されます。しかし、だとすると仏教における輪廻の主体は何なのかという問題が生じ、後の仏教諸派の多くでは人の行為にともなう業が引き継がれるのだとしています。大乗仏教の輪廻観も概ねこれを基本としており、お釈迦様の否定した方のアートマンを肯定しているのではありません。  大乗非仏説論でよく指摘される主張に、お釈迦様は確固たる我は存在せず全ては移ろう関係性の中に成立するのみだと言っているのに、大乗仏教では各人に仏性があるとして、それに目覚めて成仏すれば仏としての我が永遠に安楽で清らかな状態であり続けるとしているから大乗仏教はお釈迦様の教えではないとするものがあります。しかし、前述の通り、大乗仏教の言う仏性は経典の文字として我(アートマン)があてられる場合があってもバラモン教のアートマンとは別物です。語弊を恐れずに言うと仏性の本質とは縁起の法のように大乗で無い仏教でも不変の法則とされる物で、それが世界の全てに適応されると言っているに過ぎないのです。  密教では世界の法則の象徴である大日如来と自己の合一を目指すので、これをバラモン教と同じだと

菩提心と若者

 菩提心は大乗仏教で菩薩として悟りを求める心のことで、悟りという自利と一切の生き物を救おうとする利他の心が含意されます。仏教の開祖であるお釈迦様はこの世の一切を苦とみなしてその苦を滅する為に修行をはじめました。この基本は自分も含めた一切の生き物の苦を除こうとする菩薩とその意志である菩提心にも引き継がれています。  さて、菩薩が取り除くべき苦なのですが、逆に苦を感じるから人は菩薩になるとも言えます。何が起きてもそれを苦と感じない状態では人は苦を取り除こうとはしません。  幼児がお菓子がないと泣きわめく様に、少年がかけっこに負けて大泣きするように、青年が人間関係に悩むように、中年が仕事に疲弊する様に、老人が病と老いを諦めるように、人間は年齢とともにその苦しみも変化していきます。しかし、年齢に関わらずに、このままでは苦が尽きることはないと気づいた時に、人は菩薩になりうるのです。  報道によると苦しい世情の影響もあってか、子供の自死が増えていると伝えられています。関わりのある世界が狭い若者の方が少しの事で絶望を感じるものです。老人にとっては些細な事でも若者は絶望し死んでしまいます。老人は若者の苦に敏感になり悲劇が起きないように留意するべきです。特に、この世の苦をよく知っている菩薩なら相手の苦に思いやりの心が持てるはずです。  とりあえず、怪しい兆候を見かけたらまず物理的に救いましょう。生き残りさえすれば心は後でも救えます。絶望に死んでしまう人がなるべく減るように祈ります。

フードファディズム

 フードファディズムとは、特定の食材にものすごい健康効果があると信じたり、逆にものすごく有害だと信じたりすることで、往々にして極端な行動として現れ家庭や社会に問題を引き起こしている。  テレビの健康番組などで何某を食べると痩せるとかと言ってたからと、それを大量に偏食して肥満や生活習慣病を悪化させるような例は枚挙に暇がない。  また、逆に何某は体に有害だとして極端な制限を行う人達もいる。これに関しても、エビデンスがあるものは皆無であり、様々な健康被害の報告もみられ問題だ。  特に世間でよく食べられている何某を食べると癌になるとか言う話は殆ど信じなくて良い。昔と比較して癌が増えているのは、何某の消費量が上がったからだとする意見やグラフもよくみるが、癌の増加はおおむね平均寿命の延長によるものであり、この論法では叩かれている食材が何であれ、それの消費が増えるのと時期を同じくして寿命は大きく伸びているはずだ。もし、その食材が有害だと言うのなら、その食材の摂取以外の条件がほとんど同じの集団で長期的に有害な事象が起きていないか観察して統計的な有意差が出るか調べなければならない。証拠になっていない証拠しか提示出来ないエセ科学を根拠とする健康法は検証せずに否定していい。提唱している人が詐欺師的なのは明白だからだ。もし実は正しいのだとしたら遠からぬうちにちゃんとした証拠が出るから信じるのはそのあとでいい。  そもそも論として、少しずつ変化はするものの何十年何百年単位で食されて大きな健康被害も起こさなかった各地の伝統的な食事が、昨日や今日誰かが考えた栄養法と比べて安全性の上で劣る可能性は皆無だ。食事の過剰な摂取や、極端に偏った食事が体に良くないのは古代からの歴史を見ても明らかであり、各地の伝統食は歴史的知識の集成でもある。だがもちろん例外もあり、昔の日本食は現代人には塩分過多ではあろう。しかし、昔の人はそんなに大量には食べずに肉体労働にともなう発汗での塩分の喪失は現代人よりも多く、また、保存技術が未発達な時代では塩漬けの保存は食中毒の防止にも寄与していたと思われ、塩濃い食事もその時代には適合していたはずだ。時代に合わないものに関しては時代毎に調整すればよいのだ。何も極端な事をする必要はない。  とにかく極端な食事を勧めてくる人間は警戒するようにした方がいいだろう。何とかを食べれば癌や難病

言語道断

 言語道断は現代ではとんでもないことの意味で使われていますが、元々は仏典などで言葉では言い表せないとの意味で使われていました。維摩経などにも出ている言葉ですが、個人的には禅宗四部録の一つ信心銘の最後の文である「信心不二 不二信心 言語道断 非去今来」が印象深いです。  信心銘は禅宗の詩らしく、真実は言葉では無く心で伝えるとの不立文字の考えから最後は言語道断な訳です。信心銘の内容は、龍樹の中論の様に二項対立を否定する内容が続き、ついには信と心も同じであると結んでいます。  さて、信心銘の信と心は何を意味しているのでしょうか?言語道断なのだからおとなしく座禅してろとのツッコミもあるでしょうが、少し考えてみましょう。信心と言った場合、通常は信じる心ですがこれでは信ははじめから心に内包されており改めて同じものだと言うのには違和感があります。信心が心を信じる意味であれば、信と心は信じる者と信じられる心の能動と受動に分けられ、聖と俗の二項対立に還元できます。この場合、心とは個々人の中の修行で見出すべき仏性で、その仏性を信じるのも修行者となります。そうだとすると、信心不二とは仏性と修行者が同じだと言っていることとなります。  信とは任せる帰命するとの意味もあり、信心とは南無自分の中の仏性というようなニュアンスにも解釈出来ます。信心不二なのですから、南無佛という言葉は佛も南無も同じだと言うことになります。南無=仏なのです。  これらを総合すると信心銘の最後の文は、「禅により自分の中の仏性を見つめ、この仏性に任せることで南無も仏も同じだと感じるのが仏道修行の要点で、それは体験でしか理解出来ない。これは過去、現在、未来でも関係なく変わらぬ真理だ。」という風に解釈できます。

衆縁和合

 涅槃経でも説かれる衆縁和合とは、この世は様々な縁が合わさって成り立っているということです。例えば自分というものも様々な縁によりかりそめに成立しているに過ぎません。この考え方では直前の自分と今の自分とでは同じものでは無く、直前の考えや知覚や行動や周囲の環境などの縁により現在の自分があり、現在の考えや知覚や行動や周囲の環境などの縁で直後の自分が生じ、次々に生滅を繰り返しているのです。そして、自分が存在もまた縁となり他へと影響を及ぼします。自分が地球の裏側にいる人にも影響を及ぼし、逆に影響を及ぼされもするのです。また、遠い過去の人の縁も今に連なり自分に影響を及ぼしますし、自分も未来へ縁をつなぎます。これは何かすごい本を出版したとかでなくても、今日おこなった僅かな善いことや悪いことだって先々の世界へ影響するのです。  仏教の前提となっている全ては移ろい行くという諸行無常も、全てのものは因縁により生じた実体の無いものとする諸法無我も、この世が衆縁和合により成り立っていることと表裏一体です。仏教の悟りとは原因と結果の連なりを観て、苦の根本原因が煩悩にあると理解し、煩悩から生じる原因と結果の連鎖を断ち切って苦をなくす事が基本です。これは縁起とか因縁とかと呼ばれますが、衆縁和合の世界では個々の因縁のつながりも複雑に関係しあっています。だから、何かの結果が複数の原因からなることも、なにかの原因が様々なところへ影響を及ぼすこともあり、その結果があらたな原因となってこの世は網の目のような縁が広がっていることになります。自分が何かをなしえたと思っても、それは膨大な縁の繋がりの結果そうなったのであって思い上がってはいけないのです。  衆縁和合の世界は無常であり移ろいいきますが、原因が結果をつくる連なりは変わる事がありません。不変の仏性とはそこにあるのです。古来、仏道において正念と正定が重視されたのは縁起を正しく観なければ仏性の存在も分からないからでしょう。南無佛、南無法、南無僧。

涅槃経

 昨日、2月15日はお釈迦様がお亡くなられ涅槃に入った日とされています。2500年ほど前の事で正確では無いでしょうが、2月15日の他に旧暦2月15日や月遅れの3月15日などで涅槃会の法要が営まれます。  お釈迦様の最後の旅と説法をまとめた涅槃経は複数のバリエーションがありますが大きく分けると大乗仏教版とそれ以前のものになります。大乗仏教版は天台宗による五時八教の教相判釈の影響から法華経との関係において語られる事が多く、全ての衆生に仏性がある事や仏の永続性が説かれています。  日本の仏教では伝統的に大乗仏教の涅槃経が受持されてきましたが、近年では大乗仏教以前の涅槃経の方が世間により広く知られています。有名な自灯明・法灯明も以前の涅槃経の言葉です。この風潮は学者や一般の仏教者だけでなく、伝統宗派でも法話などでよく古い涅槃経の話を用いています。この古い涅槃経の内容は、お釈迦様が最後の旅の中でした説法と、死に臨んで全ては無常なのだから修行に励むようにと説かれた事、死後の弟子や信者たちの様子や遺体の扱いの説明がなされています。  古い涅槃経も良いお経ですが、その信奉者らが内容の違う大乗仏教の涅槃経を偽物の取るに足らない物と言いがちなのは悲しい事です。  大乗仏教は、お釈迦様は誰でも仏となりうる道を示したにも関わらず、部派仏教で人は仏にはなれないとする教学が広まった為に、そのアンチテーゼとして、また原点回帰を目指して成立しました。皆が仏性を持っている事を前提とする考えは、主にシルクロードから東の北部アジアに広がった大乗仏教の根幹であり、人が本来的に持つ善をどうやって発露させるかに先人達は心を砕いてきました。こうした思想の潮流が、この地域の文化や民族性に強く影響してきたのです。こうした歴史的背景を無視して自らの源流となる教えをやれ偽物よと悪しざまに罵るのは御先祖様に唾を吐くような行為です。  一日過ぎてしまいましたが、涅槃会を祈念してお釈迦様をはじめ仏法を受持して来られた多くの先人に感謝申し上げます。

 日本の書道や茶道や華道や香道や各種の武道には型や決まり事が多くあります。初心者には一見無駄に思えるその所作も、型を守り修練していく事でその意味が分かってくるものです。  一般社会も似たようなもので、挨拶や食事のマナーや交通ルールなど様々な型が存在しています。それぞれの型は社会が円滑ですごしやすくするために必要なものです。  型にはめるという言葉は、学校教育で児童生徒らの個性や独創性を封じる事の批判としてよく使われます。例えば現代の倫理観に合わない校則を改正せずに無理矢理守らせたりするのは問題です。しかし、夜の校舎の窓ガラスを壊してまわれる自由がないのを学校による子供たちへの支配だとするような意見は控えめに言ってもアホでしょう。  絵画や音楽はある程度の基礎が出来ていないと個性を発揮することも出来ません。千利休が説いたと言われる守破離という考えは、まず型を守り練習を重ねその意義を十分に理解し、その理解があるから型を改良することもでき、やがては型から自由になれるけど、その自由はもとの型の目的や心にかなったものでなければならない、というものです。活人剣の修行をつんだ結果として殺人剣の技が磨かれるのは守破離では無いのです。  こうした考えが分からないと全ての型やルールを自由を阻害する悪しき風習ととらえる誤解が生じるのです。

バレンタインデー

 2月14日はバレンタインデーです。日本では例年チョコレートの売上が上がるシーズンでもありますが、コロナ禍もあり売上も冷え込んでいる様です。  キリスト教では愛で結ばれ神から祝福を受けた男女は家庭を築きますが、それは神から与えられた使命でもあり神聖なものとされます。バレンタインデーの元ネタとなった聖ウァレンティヌスもローマ皇帝から禁止されていた兵士の結婚式を執り行ったため処刑されたという伝説もあります。  一方で、我らが仏教では妻子に対する愛情すら究極的には執着に過ぎないわけで、色恋は蔑視される傾向が強く、仏式の結婚式が出来たのも明治になってからです。仏式結婚式は明治時代に日蓮宗の在家集団から始まったとされます。そう言われてみれば、代表的な日本仏教の諸宗派の始祖の言動でも日蓮上人の夫婦に関する物は多いように思えます。日蓮上人には以下のような話もあります。  あるとき、亡き母の回向の為に病身の妻をおいて日蓮上人のいる身延山に参った信者がいましたが、日蓮上人は供養の品の礼状を留守を守る信者の妻にしたため、信者がこうして参拝できたのも妻のおかげだとか、亡くなった信者の母を懸命に看病してくれたことを信者が感謝しているなどと伝え、矢が飛ぶのは弓の力で、雲が流れるのは龍の力で、夫が働けるのは妻のおかげだと言って労をねぎらっています。  また、命を狙われていた別の信者に夜の酒宴に出来かけるのを禁じて、自分の妻と酒を酌み交わすのに何の不満があるのか?とたしなめたりもしています。  また、別の女性信者に宛てた手紙でも、夫婦とは柱と桁、体と足、羽と身のようなもので仲良く協力することが大事だと説いています。  日蓮上人はかなり筆まめであり、在家信者への手紙も多く残されています。法華経が男女平等を訴えていることもあり、家庭に関するものも多いのかも知れません。  ともあれ、仏教徒でもバレンタインデーを口実に配偶者に感謝して構いますまい。皆様、よい一日を。

二入四行

 禅宗の祖である達磨大師が説いたと言われる二入四行は、禅的な視点で多様な仏道への入り方を理入と行入の二種類に分類したものです。理入は禅の理屈と効果を説いており、行入は仏道修行を四種に分類し四行とした物です。四行は日常の生活にも利用出来る心の持ちようを説いているようにも読めますが、瞑想の際の心の安定を得るのに役立つものです。そもそも禅の考え方では生活の全てが修行です。座禅をしていようが、歩いていようが、会話していようが、ご飯をたべていようが全ては禅の修行なのです。文字ではなく心で教えを伝える事を旨とする禅の歴史で残っている文章は、いわゆる禅問答のように一見すると訳のわからない物が多いのですが、二入四行は少なくとも文字の上では理解出来る話となっています。なお、伝統的に伝わる四行と、昭和10年に敦煌から発掘された二入四行論とではいささかの違いがありますが、今回は後者に準拠してお話します。  まず、理入とは、聖も凡も生きているもの全てが同一の真性(仏性)がそなわっているのに、煩悩に覆われその真の姿をあらわせていないと知ることです。だから、妄想を捨てて文字に頼らずに心を落ち着かせていれば、意識は真理と一致として迷いから解放されるとする考え方でもあります。文字の上では理解できますが、最後は禅を体験するしかないのです。  行入は四つの修行法である四行についての解説です。四行とは報怨行、随縁行、無所求行、称法行の四つです。以下に説明と感想を述べてまいります。  第一の報怨行は、苦しい目にあった時にこうした苦しい思いをするのは自分の行いや宿業が影響したものであり、苦しいからと言って他を恨んだりせずに受け入れるという行です。六波羅蜜で言うと忍辱と同じようなものです。さて、宿業とは生まれ変わる前や更にその前の行いが現世に影響を及ぼすという考え方で、昔は難病になった者は前世でとんでもない事をしたからだと差別の対象となったりしていました。この影響か近年では宿業に言及のある仏典は無かった事にされたり、法話などでも語られることは少ないです。しかし、この報怨行は病気や天災で理不尽な苦境に立った時に自分が他を恨んだりしない効果の方が重要視されていたと捉えるべきで、他者を差別するためにあるのではありません。また、もし宿業で他人が苦しんでいても差別して良い訳がありません。なお、科学的な知見では宿業はあり

森発言擁護論の問題点

 まさかとは思ったが、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(TOCOG)の森会長が女性差別発言で辞任を発表した問題で予想以上に森氏の擁護論が出ている。森氏の発言の何が悪かったのか分からない日本人がこんなにも多いのは衝撃的だ。今回は森発言擁護論の問題点につき検討していきたい。  まず、擁護論の内容について確認しておく。ここで言う擁護論の要旨は、森氏は他の人の意見として女性は話が長く出しゃばりだと言っただけで、森氏自身はTOCOGの女性理事は立派だと言っているのに、部分的に切り取られて不当に叩かれているとするものだ。擁護論者は森氏はTOCOGの女性理事を称賛しており、この発言を女性の実力を認める発言だと言いたいようだ。  だがこの意見は根本的に間違っている。森氏は他人の口を借りる形で一般的女性が無能だと言って、それと対比する形でTOCOGの女性理事はすごいと褒めている。女性が無能であることを前提に話をしているのは、女性の欠員が出た場合に次の理事にも女性を選ぶのを嫌がっている姿勢からも明らかだ。森氏は理事の4割を女性にするようにとの文科省のから勧告も気に入らないようだが別に男祭りをするのでは無いのだし、オリンピックの性格を考えれば女性理事の割合の最低ラインとして4割という数字は妥当であろう。要は森氏は女性が一般的に無能である言っている事になり、これが世界中からの非難につながっているのだ。TOCOGの女性理事が有能かどうかは関係ない。  個人的経験の範囲内でも会議の席で森氏が指摘するような女性限定で無駄な話が長いという現象には遭遇したこともない。そもそも論では、森氏がいた政界では会議の前には根回しが完了している場合が多いのだろうが、実社会では会議とは人が集まって議論するためにあるのだから皆して大いに話すべきだ。  また、森氏擁護論者の中には女性理事の割合が4割以上と決まっている事を男性差別であるとする意見も多いようだ。だが、なんだかんだで男社会の日本において女性に発言の機会を保障するのは社会正義上必要不可欠だ。これは決して男性差別ではありえない。  また別の擁護意見として、森氏の生きた時代の価値観では男尊女卑は当然で今の価値観と違うという理由で叩くのは可哀想だとするものもある。だが、それは明らかにオリンピック憲章第1章2-8「男女平等の原則を実践するため、あら

仏教的な人生の短さについて

 暴君ネロの幼少期の家庭教師であったことで知られるストア派哲学者セネカの有名な手紙「人生の短さについて」は、簡単に言うと仕事や遊興に忙殺される事は他人から自分の貴重な時間を奪われることに他ならず、そんなことより哲学しようぜ!といった感じの内容だ。一切皆苦だからと出家したお釈迦様の発想に通じるものもある。在家ではなかなか実践するのは困難だが、多忙でありすぎると人生で何がより大切なことなのかを見失いがちとなる。人生に適度のゆとりは必要だろう。  また、セネカの「人生の短さについて」では、労働や怠惰や遊興を不要なものとみなしているが、大乗仏教的な視点ではこうした日々の生活の中にも仏を見いだせるはずであり全てを投げ出し隠遁せずとも少しずつ精進していきたいものだ。  たとえ労働せずとも生きていける資産家の子に生まれ人生の全てを思索と学習に捧げられたとしても、やはり人生は短いと思う。そうした経験があった方が死に臨むに際し覚悟は決まりやすくとも、哲学にも仏道にも人間のうちに完成は無いのだから人生が十分に長くなることも無いだろう。仏道は続ける事が肝要であり、それは職場や家庭の生活を大切にしながらでも可能な事だ。ただある人が、哲学的な事を全く考えず生きるためだけに生き続けて、気がついたら死の直前であったのならば、その人の主観的な人生の長さは無に近い短さとなるだろう。  人に与えられた時間は短く貴重だと忘れぬようにしたい。  

ストレスチェック

 職場でストレスチェックをうけました。ストレスチェックは労働者のメンタルヘルス対策として厚労省が平成27年12月より制度化しており、毎年受けるように通知は来ていましたが、面倒くさいので毎回無視してきました。しかし、これは(労働者50人以上の事業場では)義務だとのことで、今回は職場からの圧力に屈しはじめてストレスチェックされてみました。  その結果!小生のストレス状況はやや高めな状態との判定でした。是非もなし。  ストレスチェックを義務化し、メンタルヘルスの異常に対する早期介入を目指す国の姿勢は評価出来ます。しかし、事業者が罰せられるのはストレスチェックの報告を怠った時のみです。つまり、ストレスチェックを実施しなかった事を報告すれば処罰されないのです。また、事業場の労働者を50人未満にして分散させれば報告の義務すら発生せず、制度としてはザルです。  この現状に対して罰則強化なども期待したいところですけど、例えば就職活動の参考に出来るようにストレスチェックの実施状況や個人情報が同定出来ないような各社の統計情報の発表を義務化した方が、実施率の上昇や結果に対しての企業の対応の改善に寄与するのでは無いかとも思います。  日本から、いや世界からブラック企業が絶滅するように祈ります。  なお、ストレスチェックについて詳しくは下記リンクの厚労省のページからどうぞ。   https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei12/index.html

地球温暖化と脱炭素社会と現実逃避

 世界中で地球温暖化対策として脱炭素社会を目指す動きが出てきている。アメリカと中国の二大国は電気自動車の開発でも数歩先んじており、新時代の権益確保の為に邁進している。  そんななか我が日本はと言えば、Youtuberなどに多く見られる妄想を吹聴して金儲けをしている人達ばかりでなく、一般人レベルでも地球温暖化なんて嘘だなどと言って、現在の技術や社会制度にしがみつこうと必死になっている人が目立つ。このままでは世界のパラダイムシフトについていけなくなる恐れがある。  何の努力もせずにそのままでいい目にあえるとする耳に心地よい虚言のみを信じて、世界の現実に対して眼を閉じ耳を塞いで、自分の妄想だけを声を大にして語るのは危険だ。バイオ燃料の大量供給が可能となれば内燃機関は生き残る可能性もあるが、効率は火力発電所の方が良く電気自動車が増えるのは避けがたいだろう。  地球温暖化や脱炭素社会の到来を否定する現実逃避はこの問題だけにとどまらない。  新型コロナウイルスが流行れば、ただの風邪だと言い  地球温暖化が進行しているのに、そんなのは嘘だと強弁して  支持する政治家が選挙で負けたら、謎の秘密結社のせいにして  日本が大変な事になっても、すごい強国だと思い込み  圧倒的に強い中国を無根拠に見下し  世界に対して眼を閉じ耳を塞ぎ口だけを開けて妄言を吐き散らかし  怖いことや不愉快な事は無いと信じて  自分は絶対に安全だと妄想する  それを否定する者を敵と認定して暴れる  そんな日本人が多すぎる。  気持ちのいい悪夢から目覚めて現実と戦え。

気にしない

 世の中なんだかんだと気になる事が多いが、道義的に恥ずかしい事をしないのが第一で、それ以外で図に当たらないのは残念だけど失敗も経験のうちと次に切り替えていくしかない。気にしても仕方がない。むしろ利益第一で人倫に背くようなことをしたり、他人のそれを見逃したりしないように留意したい。  何が正しく何が間違っているかは、状況が複雑になるほど単純には判断できなくなる。だから、何かが善いとか何かが悪いということを「絶対に」決めつけてはいけないと言う人は多い。だがこの論法は多くの場合、寛容さの美徳を示さずに明らかな悪を見逃す言い訳として使われる。  通り魔が人を襲っている時に犯人の心情や価値観に思い巡らす必要がないのと同じように、社会的弱者から搾取の限りを尽くす経済ヤクザがいたら労基に相談するべきだし、外国人や女性や特定集団を差別するような人はまず止めるべきで、こうした人達に刑罰や治療が必要かどうか思い巡らせるのは愚行を止めてあげてからでよい。  明らかに間違っている人に対する合法的な抗議は多様性を損なう事でもなければ正義のポリコレ棒で暴れる事でもない。そんな批判なんて気にしなくていい。  特に権力者が誤ちを犯した時、何が何でも権力者様は悪くないと庇い立てする人が出てくるが、そうした行為は権力者のためにもならない。人は相手が誰であろうと、明らかな間違いは間違いだと言えて、また、自分が間違えた時は他からの批判を聞ける心を持つべきだ。  自分が悪いことをしていないかさえ気にしていれば、あとのことは些末な問題だ。気にせずどっしりと構えていればいい。

普賢菩薩と遊女

 昨日が法華経普賢菩薩勧発品の話だったので引き続き普賢菩薩のお話をします。普賢菩薩は法華経の行者を守る以外に十羅刹女を眷属として従えるとも言われ、女性の成仏を説く法華経の性格もあってか女性からの信仰もあつい菩薩でした。  女性の中でも大変に過酷な環境にあった遊女にまつわる逸話もあります。白象に乗る遊女の日本画を見たことがある人も多いかと思いますが、この構図は遊女を普賢菩薩に見立てた能の江口の話を描いたものが多いです。  能の江口の更に元ネタとなった話は鎌倉時代から伝わるもので、天台宗の性空上人が遊女の長が普賢菩薩の化身であることを見破り、遊女は口外しないようにと言ってそのまま急死してしまうという物です。能の江口は話としてよくまとまっていますが、元ネタとなったこの話は幕切れが唐突で面白い作り話として練られた形跡もなく、遊女が菩薩の化身か否かは別として何らかの実話が脚色されたものかも知れません。歴史的に見て遊女は劣悪な労働環境に苦しむ人の代名詞みたいな存在です。彼女らの成仏を願う人々の心がこういう話を生んだような気もします。

梁塵秘抄より4

 後白河法皇選の梁塵秘抄には法華経二十八品歌として法華経についてまとめられた百十五首の歌が収載されており、本日は最終章の普賢品から一首をご紹介します。  草の庵の静けきに 持経法師の前にこそ 生々世々にも値ひがたき 普賢薩埵は見えたまえ  現代語では「山野の庵の静けさの中に、法華経を信じ保つ僧の前にこそ、何度転生してもまみえることが難しい普賢菩薩が現れる」となります。なお、普賢菩薩は法華経の中でその行者を守ると誓っている菩薩です。  現在でこそ法華経といえば日蓮宗で、彼らは世俗に積極的に法華経の思想を布教していくスタイルです。日蓮が晩年の活動拠点としていた身延山久遠寺などは山の中にありますが、社会への働きかけを重んじる日蓮宗全般のイメージとしては山野の静かな庵という感はあまりありません。しかし、後白河帝が生きたもちろん時代にはもちろん日蓮はまだ生まれてもおらず、天台宗の比叡山延暦寺が法華経の思想を伝える最大勢力でした。  当時の比叡山ですが、後白河天皇の五代前の七十二代天皇だった白河天皇は思い通りにならないものとして、鴨川の流れとサイコロの目と比叡山などの僧兵をあげています。後白河帝の時代にも比叡山はしばしば強訴と呼ばれる暴力を行使して自分達の政治的目的を達成しようとする行為に明け暮れていました。  こうした時代背景から考えると、上記の歌は法華経の心を詠んだという以外に比叡山におとなしくしておいてほしいとの後白河帝のお気持ちの表れかも知れません。

グルジャ事件

 今日はグルジャ事件から24年目の日です。あらためて犠牲となった人達に哀悼の意を表します。  1997年2月5日、ウイグル北部のグルジャ市で大規模なデモが起きました。中国当局は直ちにこれを鎮圧、デモの参加者の多くは-20℃にもなる極寒のスタジアムに集められ、そこで放水を受けて凍死していったと伝えられます。もはや治安維持のための逮捕などではなく単なる大量虐殺です。いたましいことです。  このデモは、ウイグル人たちの地域コミュニティであったマシュラップと呼ばれる集会や地元のサッカーリーグが当局により解散させられたこと、さらにこの地域の主たる宗教であるイスラム教の信者達への不当逮捕などに対する抗議でおきました。  元々は東トルキスタン共和国として独立していたウイグルでは、中国に占領された後もたびたび抗議デモが起きています。中国共産党はこれに対し苛烈な弾圧で臨んでおり、近年では強制収容所に数百万人とも言われるウイグル人を監禁し、漢人と結婚していないウイグル人女性に対し不妊手術を強要したり、ウイグル語の教育を事実上禁止したりとジェノサイド政策が進行しています。  シルクロードで有名なウイグルは、多くの仏教文化のふるさとでもあります。9世紀末ごろからイスラム化されて後も、仏教遺跡を含め様々な種類の遺物が残っており交通の要衝として栄えたウイグルの人たちの寛容性がしのばれます。  ウイグルに自由と平和が戻るように祈ります。

カルトに騙されないための用心

 日本で最も悪名高いカルトは間違いなく大量殺人に手を染めたオウム真理教でしょう。しかし、その後継団体は未だに法的に活動を禁止されることもなく勢力の拡大を狙っています。活動を禁じて地下に潜られるより公安や警察の監視下にあった方が安全だとの判断なのかも知れません。ただ、オウムに限らずカルト教団は表立った集団とは別に、カルトとは名乗らずに無難な良いことを言って被害者を徐々に仲間に引き込む別働隊的なものがあり用心すべきです。  この別働隊は、それと分かっていても公に指摘しづらいのが悩ましいところです。敵もさるもの、別働隊は基本的に無難なことしか言いません。裏でどこそこのカルトとつながっているのだろうと言っても、たまたま参加している個人がそうしただけだとの言い逃れも可能です。あまり言うとこちらが名誉毀損あつかいされかねません。また、伝統宗派なら安心だとの考えも危険で、こうしたカルトやその別働隊は伝統宗派の名前を騙る事がしばしばあります。自らを日蓮宗や浄土真宗や密教などと称するカルトは山程ありますので注意しましょう。  さて、そんなカルトですが、某国では問答無用で活動を禁止し、信者を逮捕し、その一部は殺害され移植用臓器を摘出されているとの疑惑があります。先進各国では何年も待つ臓器移植が某国では数週間で済みます。移植用の心臓が指定された日に用意できることすらあります。これには膨大な数の臓器収奪用の人間が必要となり、カルト信者だけではなく政治犯や占領地の異民族も含めて殺害されていると見られています。  いかに社会に有害なカルトとは言え、ここまでするのはカルト信者に人権を認めていないこととなり問題です。  ただし深入りは禁物です。小生は以前、この状況を流石に可哀想と思い、彼らの命を守るように支援活動をしたこともありましたが、彼らは違法な臓器移植に関して訴えるはずの集会で布教活動を行う暴挙に出ていました。そればかりではなく、先のアメリカ大統領選挙では陰謀論を吹聴してまわり、日本でも妄想に基づくデモを行って治安にも悪影響を与えています。所詮カルトはカルトなのだと思い知らされました。社会活動としてこの問題を扱う時はカルト信者とは行動を共にしない方が良いでしょう。  カルト信者にも人権はあります。それは間違いないのですが、彼らが社会の公益性を損なう場合は法に基づいて毅然と立ち向かうべきです。

七生報国と仏教

 仏教に語源を持つ長い時間を示す言葉として七生というものがあります。七生とは本来は七回生まれ変わるという意味です。親子の縁を切る勘当の時に七生に渡り勘当するというのは、今生だけでなく生まれ変わっても縁を持ちたくないという強い勘気の表れなのです。  七生報国も何度生まれ変わっても国の為に尽くすという意味で戦時中によく使われていた言葉です。その語源は鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した信心深い名将の楠木正成の逸話です。七回生まれ変わってもという意味から転じて永遠にというニュアンスで使われることも多い七生ですが、楠木正成の話では永遠にと言うよりはきっちり七回の転生という意味だったようです。  楠木正成は湊川の戦いで敗北し自決する前に、弟の正季に転生するならば九界(※)のうちどこが良いかを尋ねると正季は七回とも人間に生まれて朝敵を討つと答えたとされます。この事から七生滅賊という言葉が生まれ、近世になって七生報国に変わっていったといわれます。  部派仏教では修行の進展具合を八つの段階に分けており、その最初歩である預流向の状態でも七回転生すれば次は成仏出来るとされていました。もう一つ上の段階の預流果では地獄と畜生界と餓鬼界には転生しなくなると言われます。上記の話では、七回の転生を誓い転生先の候補に地獄も含まれている事から、正成兄弟が預流向ならばこの条件での転生は可能ということになります。しかし、彼らが預流向だと自覚してこのような発言をしたのでは無いと思われます。当時の日本の仏教では死後そのまま成仏するという考えは普通にあった訳ですから、信心深い彼らが七回転生するという数を区切ってきたのは、自分たちが人として転生可能な最大回数を願ったとみるべきでしょう。湊川の戦いから700年近く経過しており正成兄弟が成仏出来ている様に祈ります。  人間としては長い七生ですが、仏教の話でよく出てくる劫などと比べれば一瞬のような短時間です。人として存在する貴重な時間を大事にしていきたいものです。 (※)九界は有名な地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道に声聞、縁覚、菩薩の三界を加えたものです。これに仏界を足して十界とします。

節分

 今年は節分が124年ぶりに2月2日となったことで話題となっています。しかし、例によりコロナ禍により節分の豆撒きを中止した寺社も多い様です。  節分の日に豆を撒いて鬼を払うのは、本来は仏教の文化とは関係ありませんでしたが、壬生寺が京都御所の裏鬼門にあったことより、平安時代に白河天皇の発願で仏式の節分会が始まったとされます。現在、仏式の節分では鬼を煩悩に見立てて払う場合も多く見られます。節分は翌日が立春なのでいわば大晦日のような物です。お寺の節分会は大晦日の除夜の鐘的なものといえるかも知れません。なお、浄土真宗など一部宗派では節分を異教の文化として節分会も行いません。  細かい事はともかく、節分は小さな子供もノリが良い数少ない日本の伝統行事の一つであり、子供たちに楽しい思い出が残る様に祈っております。

ミャンマー

 高齢の人間にはビルマと言った方が通りが良いでしょうが、ビルマことミャンマーでまたクーデターが起きしました。  中国の世界戦略から見た時に、ミャンマーとパキスタンは対インドの重要な戦略拠点であり、ミャンマーが軍政に戻れば中国のさらなる浸透は避けがたいでしょう。  ミャンマー国内でも部族間の闘争再燃やロヒンギャ問題の解決が遅れるなどの悪影響が懸念されます。  そもそも、スーチー女史も上手く政治をコントロール出来ていたとは言い難いですが、軍政よりはマシな感はあったかと思います。  ミャンマーは仏教国ですが、特にロヒンギャ問題に関しては慈悲のかけらも見られず、上座部仏教の一部の僧侶が虐殺を煽動してもいました。  仏教者としても他人事ではありませんが日本はミャンマーの元宗主国でもあり、一定の責任はもつべきでしょう。ミャンマーはイギリスの植民地であったところを第二次世界大戦時に日本が大東亜解放の名目で占領して、のちに帝国陸軍最悪の敗北となるインパール作戦の舞台ともなった土地です。未だに回収されない邦人兵士の遺骨も多く眠っています。無視して良いはずがありません。  イギリスやフランスなど、第二次世界大戦前に広大な植民地経営をしていた列強国は、その後も旧植民地に強い影響力を残しています。これは、新たな搾取体制である側面はあるものの、旧植民地の発展にいくらかの責任を負っているとも言えます。最近では中国の人権蹂躙から香港市民を救おうとした英国の動きは、旧植民地民への責任を果たしたものです。その点、大日本帝国の旧植民地に対しての日本政府の姿勢は戦時の大義名分を考えると冷淡だと言わざるを得ません。こう言うと旧軍は欧米列強の植民地を解放したのであり、日本は植民地経営をしていないとする反論はしばしば聞かれますが、結局のところ戦中の日本の勢力圏においては満洲と汪兆銘政権とタイ王国以外は名目上でも独立した国は無く(※)、もし将来的に独立させる計画があったとしても一般論的にミャンマーが日本の植民地では無かったとするのは無理があると思われます。  戦後、日本の教育では植民地は悪とだけ教えています。それ自体は大きくは間違っていないのですが、植民地が独立したらハイおしまいではいけないのです。長年、各国の植民地支配を受けていた地域の人間は、当然ながら自国民が国を治めた経験に著しく欠いています。植民地化され