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アンパンマンと菩薩行

 明日、5月1日でアニメのアンパンマンが1500回を迎えるとのこと、おめでとうございます。自分が子供の頃はまだアニメ化されておらず、今とは違う絵柄の絵本が主流でしたが、ひもじい思いをしている人を助けるというコンセプトは今と変わっていません。  作者のやなせたかし氏はアンパンマンの他にも童謡の「手のひらを太陽に」の作詞でも知られています。みみずだってオケラだってアメンボだってみんなみんな生きているんだ友達なんだ、という歌詞などは、一切の命に対する同朋意識の現れにも思えます。ご実家は真言宗だったようですので、もしかしたら仏教の影響もあるのかも知れません。  実際にどの程度、仏教の影響があったのかは分かりませんが、アンパンマンは常に困っている人を助け、文字通り自らの身体を削って空腹の人を助け、貪りの心を持たず、悪に対して屈すること無く、しかも相手が悪であっても殺生はせず、怒りに取り憑かれることもなく、驕ることも無く、極端な行いを避ける智慧を持っています。その結果、日頃はアンパンマンに助けられている人たちも、アンパンマンが窮地に陥った時に助けに来ます。あの世界は菩薩行の世界のようにも見えます。  一部に、アンパンマンが暴力的だという批判もありますが、アンパンマンは悪いことをするバイキンマンにあっても、「やめるんだバイキンマン」などと、まず悪いことをやめる様に警告を発するか相手が使用している凶器を破壊するなどします。説得が失敗した場合に「許さないぞ」と最終的な警告を行い、それでも襲いかかって来た場合にアンパンチを使用するのです。しかも、バイキンマンは多少は痛い目にあいますが、死にませんしすぐに回復する程度の攻撃です。これを暴力的だと言うのなら、悪者に立ち向かわずにいるのが善いのかという話にもなります。  既に作者は亡くなっていますが、今後も良い作品が生まれるように願います。合掌。

PCR検査の小話

 知っている人は知っている話ですがPCR検査の有用性に関して少々。  質問です。とあるPCR検査で、とあるウイルス感染者を正しく感染者だと判定できる確率が70%、感染していない人を感染していないと正しく見抜ける確率が99%のものがあったとします。とある町の人口の1%の人が感染者であった時に、この町の住人全員にこのPCR検査を行ったら、検査で陽性とされた人のうち実際の感染者は何%になるでしょうか?  答えは41%です。6割くらいは感染者では無いのに陽性が出たことになります。  質問その2です。ではこの町の人口の50%が感染者であった場合に、この町の住人全員にPCR検査をしたら、陽性とされた人のうち実際の感染者は何%になるでしょうか?  答えは99%です。陽性がでればほとんど感染者だとみなしてよい事になります。  つまり、感染の拡大がわずかな時に症状のない人も含めて広くPCR検査を行っても陽性的中率が低いのです。この場合では症状や経過で対象者を絞り込んで検査しないと感染の連鎖を追うクラスター対策に支障を来しかねません。逆に感染者が拡大してしまって、クラスターのリンクも追いにくい状態になっていれば、陽性的中率は上昇しているので、検査数を増やした方がよい事になります。ただし同時期に50%も感染している人(回復者は含まない)がいる状況はあまり現実的ではありません。もちろん全員を隔離して何度も検査すれば封じ込めも可能でしょうが、物理的に現実味がありません。  検査実施の是非は状況によって変わるのです。  ※ 上記計算の途中経過も書いておきます。  人口の1%が感染者の場合、検査で陽性となる感染者は人口の0.7%で、検査で陽性となる健常者は0.99%です。感染の有無を問わず陽性となったのは人口の1.69%ですので、陽性になった人のうち実際の感染者の割合は0.7/1.69で約41.42%で、小数点以下一桁を四捨五入して41%です。  人口の50%が感染者の場合、同じく検査で陽性となる感染者は人口の35%で、検査で陽性となる健常者は人口の0.5%ですので、陽性となった人のうち実際の感染者の割合は35/35.5で約98.59%で、小数点以下一桁を四捨五入して99%です。

今こそ慈悲です。

 慈悲は仏教の根幹の一つです。慈は人々に楽を与え、悲は人々の苦を除く事です。慈悲は元々は仏や僧から衆生(人々)に施されるものですが、大乗仏教においては在家の信者も仏を目指す菩薩として生きていますので、全ての人々がお互いに楽を与え苦を除く助け合いの社会が実現されます。  仏教では全てのものは移ろいゆき、全ての自我は関係性の中にしか存在せず確固たる自分と言うものは存在しないと説かれます。全ての他人や環境などが自分に影響を及ぼし、自分もまた世界に影響を与えて存在しているのです。その全ての要素が仏になれると考えられており、世界は仏で満たされていることになります。密教では世界全体が大日如来の現れと見ていますし、他の大乗仏教諸宗派でも類似の思想がみられ、世界はみな仲間だとも言えます。  特に日本風の仏教では、先祖への敬意も相まって仲間意識が強いです。例えば、日本独自の仏教行事にお彼岸がありますね。皆さんもお彼岸に墓参りにいくこともあるかと思います。この行事は、仏教伝来前より日本にあった風習が仏教に取り込まれたものと考えられています。よく日本社会は巨大なムラ社会だと言われていますが、こまった時はお互い様といった、日本人みな家族的な発想は、伝来思想である仏教にも取り込まれて独特な発展を遂げてきました。  しかし、近現代になって仏教や神道の信仰が廃れたことにより、この基本的な日本人の思想は形を変えてしまい、その結果として今の同調圧力の強い社会が出来ていると言えます。はたして、日本の伝統宗教が衰退した影響で消えたものは何でしょうか?それこそ仏教的な慈悲の心であり、神道的な家族愛の心です。この愛と慈悲が無ければ日本風の社会は単に他罰的な相互監視の社会でありディストピアとすら言えます。  過酷な環境にある現在だからこそ、社会に慈悲の心が取り戻されるように精進して参りましょう。南無佛。

経済活動の再開について考える

 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い自粛が呼びかけられている経済活動はいつどのように再開されていくのか考えてみました。  基本的には、経済活動の再開により増加する感染症による死者数と、経済活動の停滞による死者数のどちらがより多いかの「予測」によって経済活動の再開は段階的になされるはずです。経済活動の停滞による死者には、自死や餓死、治安の悪化に伴う犯罪に伴う死亡、インフラの障害による通常なら死ななかったであろう死者の増加などなどが含まれます。    しかし、この予測を正確に出来る人間はこの世に存在せず、経済活動再開の判断は慎重にならざるを得ません。つまり、未知の感染症について安全に余裕をもった判断をする以上は、経済的な被害に関しては最適解よりも大きくなる傾向はあるのです。  更に、問題を複雑にしているのは、日本の経済活動の停止はあくまでも自粛であり強制力を持っていない事です。つまり、経済活動を行おうと思えば出来るのですが、それはあくまでも自己責任です。行政は要請すれども責任は取らない立場です。個人や会社が個別に経済活動を停止させずにいて、もし何か問題が生じた場合は、法ではなく社会的な制裁が発生するであろうことを予見したうえで、行政は自粛要請をしています。  実際に、自粛要請があっても経営を続けてクラスターを発生させた事業主は社会から猛烈なバッシングを受けます。みんなの命がかかっているのだから当然です。しかし、行政が活動停止を命令し、その間の補償を行えていれば、そもそも発生しなかった問題でもあります。政府もいくらかの補償はしていますが、たえきれずに倒産する企業も増えています。  こうした命令ができるように法律を改正するのも一つの手ではありますが、今からやっても手遅れ感が強いですし、社会や政治の情勢をみるに、この手の法改正が問題のない内容ですぐに成立する可能性はありません。少なくとも現在の問題に関しては社会の同調圧力に期待した施政を行うしか無いのでしょう。  これらの状況を考えると、経済活動の再開は段階的で、感染者数の推移を見ながら何度かの自粛要請と規制の緩和を繰り返す形になっていくと予測します。初回の緩和は来月か再来月には行われると思いますが、最終的に全部解除になるまでには年単位の時間がかかるとみています。この予測は外れるかも知れませんが、現時

八大人覚

 日本に曹洞宗を広めた道元禅師の絶筆である「正法眼蔵」のなかで道元禅師が最後に書かれた巻が「八大人覚」です。  八大人覚は、元々はお釈迦様がお亡くなりになる前に説かれたとされる遺教経にある出家僧が覚知すべき八つの教えです。正法眼蔵の八大人覚の巻はこれの解説で、道元禅師も自らの死を覚悟して書かれたのかもしれません。  その八大人覚は以下の八つを指します。小欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論、です。  八大人覚のそれぞれ意味を簡単に説明します。はじめの小欲と知足は小欲知足として有名な言葉ですね。欲を少なくして満足することを知るという意味です。楽寂静は一人で静かな場所にいることを願うという意味です。勤精進は、善い事をするように勤める事です。不忘念は、正しい仏法を心に念じ続ける事です。修禅定は、仏法の中にあって心が乱れない事です。修智慧は、偏らないものの見方が出来る悟りの智慧で、全ての仏教者が目指すところです。不戯論は、執着や偏見に基づく無駄な議論を避けるとの意味です。  これは出家僧向きに説かれた教えですが、欲を少なくして満足し、一人静かに善行を修め、仏法の中にあり心を乱さず智慧を持って、無駄な争いを避ける、この生き方は、厳しい世にあって在家も大いに参考にすべきものがあります。  穏やかに生きていける事を願って、合掌。

十悪と十善

 前回、四悪の話をしましたが、四悪は十悪の四番目から七番目の口による悪でした。今回はその元となる十悪とそれから作られた十善についてお話します。  十悪は体と口と心が生み出す十の悪行で、一番目から三番目までが身業(体により生み出される悪)で、生き物を殺す殺生、物を盗む偸盗、よこしまな性行為である邪淫があてられます。以前に六波羅蜜の回で紹介した 五戒 のうちの三つと同じですね。  四番目から七番目は前回の 四悪 でお話しした、うそやいつわりの「妄語(もうご)」、誠のない飾り立てた言葉の「綺語(きご)」、ののしる言葉を発する「悪口(あっく)」、人を仲違いさせるための「両舌(りょうぜつ)」、を指します。これらは口業とよばれる口が生み出す悪です。前回は妄語と悪口に焦点をあてましたが、今回は残りの二つを見ていきましょう。  綺語はどこが悪いのでしょうか?言葉を飾り立てて相手にいい気分になってもらうのは一見よい事のようにも思えます。ですが、飾り立てている内容が嘘なら妄語になりますし、過剰に飾り立てた言葉は相手の慢心を招き、その人の為にもなりません。また、そもそも飾り立てる動機にやましいことはないでしょうか?綺語の多くは権力者などに対して用いられ見返りを期待するものです。それを発する人の貪りの心の現れではないか、よくよく用心しなければなりません。  両舌はどうでしょうか?仏教はその発祥のころから、悟りを開いた仏と、仏が説いた法と、それを奉じる仲間である僧を、三宝として大切にしてきました。初期仏教で僧といえばもちろん出家僧の事で、大乗仏教でも一般には僧侶の事ですが、後者では悟りをひらく主体はむしろ在家信者であり、仏教を奉じる仲間の和も大切にしてきました。人の仲たがいを誘い和を乱す言葉はまさに言語道断なのです。  八番目から十番目は、心が生み出す悪であり意業とよばれます。むさぼりの心である貪欲、怒りの心である瞋恚、智慧のない愚かさの邪見(愚痴)、の三つです。数ある煩悩のなかでこの三つは三毒とも呼ばれる、煩悩の根源です。仏教者は煩悩を滅して悟りの智慧を目指して日々生きているのです。今風のロールプレイングゲーム風に言うなら倒すべき煩悩軍団の大ボスが貪欲と瞋恚で、ラスボスが邪見ということになります。まさに悪ですね。  さて、これが十悪なのですが、では仏教が勧め

四悪

 仏教では、体や口や心が生み出す特に悪い十の行いを十悪とよんでおり、その四番目から七番目までが口から出る悪で、この四つを四悪(しあく)といいます。    その四つとは、うそやいつわりの「妄語(もうご)」、誠のない飾り立てた言葉の「綺語(きご)」、ののしる言葉を発する「悪口(あっく)」、人を仲違いさせるための「両舌(りょうぜつ)」、を指します。  新型コロナウイルス感染症の拡大による緊急事態の状況で、多くの悪口や妄語が飛びかっており、疲れてしまっている人も多いでしょう。  今回は、はびこる悪口や妄語への対処法を考えていきます。  誰かをののしる悪口をつかう人はその相手が悪いと思ってののしっています。ですが、相手がもし本当に悪いとして、ののしれば相手が反省して正しくなることがあるでしょうか?ののしりは相手の敵意をかきたてるだけです。もし悪い人がいるのなら何が悪い思われるのかを指摘してあげるのが良い方法です。もし相手に悪いことをしているつもりがなければ、当然反論されるでしょう。よくよく聞くと相手の方が正しいことがあるかも知れませんし、お互いに改善するべき点が見つかるかも知れません。相手も悪いと思っていた場合も、いきなりののしれば反省する気も消えます。冷静に説得する方が事態の改善には有用です。そのことを悪口をつかう人に教えてあげると、悪口が不毛な事に気づいてもらえるかも知れません。ただ、周囲にあまりにも悪口があふれて心が折れそうな時には、少し悪口の主から距離をとるのも一つの手です。自分の身を守るのも大切な事です。  妄語はどうでしょうか?妄語の場合も何らかの悪意をもって嘘の情報を流す人もいますが、自分では本当の事だと思っている嘘を悪意なく広げてしまう場合もあります。後者の場合は道義的な責任を問えるかに疑問もありますが、嘘の情報が信じられたら人命に関わることも起きえます。自分が流布する情報が本当かどうかはしっかり吟味する必要があります。SNSで情報を拡散したりイイネを押したりする前に、その情報が本当かどうか考える時間を少しでも設けると妄語の連鎖を一部ですが断つことが出来ます。  冷静に極端を離れた智慧を持つことが四悪の害から自分を守るのです。  まだまだ先は長いですが、精進して参りましょう。合掌。

御詠歌のはなし

 御詠歌と言われる、独特の節をつけて歌われる仏教に関する和歌があります。いわゆる霊場と呼ばれるお寺などと関連付けられた歌が多いです。実際の歌われ方は「御詠歌」で動画検索をすれば、いくつも出てきますので試しに聞かれてみてください。  さて、そんな御詠歌ですが、今日は因幡堂平等寺の薬師如来の御詠歌の一つと言われている次の歌を紹介します。  南無薬師  (なむやくし)  諸病悉除の (しょべうしつじょの)  願なれば  (がんなれば)  頼まぬ人も (たのまぬひとも)  平等にして (びようどうにして)  下の句最後の平等は平等寺にかけたものでしょう。この歌は上の句最後の願なればの意味を「(信者の)願が成れば」なのか「(仏の)願だから」と取るのかによって意味が異なりますが、個人的には後者を採用して、以下のように現代語訳してみました。 現代語訳(意訳): 全ての病を除く願を立てられて、全ての人を等しく救う薬師如来に帰依します。  疫病の鎮静を祈って、南無薬師如来。

緊急事態にいかす六波羅蜜

 以前、介護や終末期医療に活かす視点での六波羅蜜(大乗仏教の修行項目)の解説をした事がありましたが、今回は、現在の緊急事態に活かす六波羅蜜としてまとめなおしてみました。  六波羅蜜は布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。順に見ていきましょう。  まず、布施です。他人に物や精神的な施しを行う事ですが、緊急事態下においては上手く助け合いを行う為に活かせます。布施は施す人と送られるものと施される人の三つが清らかである必要があります。例えば昨今不足しがちなマスクをどこかに寄付する場合の話を考えてみましょう。  マスクを寄付する人が清らかであるというのは、これを寄付することで例えば選挙の票につなげようとか、自分の名声をあげようとかという貪りの心があれば清らかではありません。困っている人のための慈悲の心が第一です。慢心が生まれないように気をつけましょう。  送られるマスクが清らかとは、例えば盗品や、汚染され廃棄されたマスクを洗浄し新品と偽って用意したものなどは清らかと言えません。  マスクを施される人が清らかとはどういうことでしょか?この場合、例えばマスクをもらう人が、不当な高値で転売しようとしている業者では清らかとは言えません。  布施を行う時にはこういう事に気をつけましょう。また、単に物を送るだけでなく優しい言葉を送ることや、自主隔離で買い物にいけない人の買い出しを手伝い、玄関先に届けることなども布施です。大乗仏教はそれまでの仏教より利他や慈悲の心を強調しているのが特徴です。出来る範囲で良いので困っている人の役に立つことをするようにこころがけましょう。  次に、持戒です。在家信者には通常、人を殺さない、物を盗まない、邪な性行為を行わない、嘘をつかない、お酒を飲まない、の五つの戒(五戒)が適応されます。お酒以外は何を当たり前の事をと思われる方も多いでしょうが、今回、全世界での経済的な混乱がおきており、今後も多くの倒産や失業者が生まれます。こうした不況の影響で生きていくだけで精一杯になった人達がこれらをまもって生きるのは実は大変な事です。また、このご時世では多くのデマや嘘の情報が飛び交っており、注意せずにその嘘を他の人に知らせると、期せずして嘘を広げ、その結果だれかが死ぬような事になる恐れもあります。あたりまえの五戒を守るために自分の行動に注意を払う

感染者いじめを憂う

 新型コロナウイルス感染症患者やその家族に対する地域住民によるいじめが起きているとの報道があります。また、地域でのそういう噂も耳にする事も多く、残念ながら事実のようです。  このような事は決して看過出来ません。例えば自宅待機中の感染の疑いがある人や感染者の濃厚接触者に出歩かれて困るとしても暴力や嫌がらせで外出を防げるでしょうか?生活に必要な物資なしに自主隔離は出来ません。まずは、接触しない方法で、外出を控えるようにように伝えれば良いのであるし、同じく接触しないように食料などを支援する方法だってあります。自治体に支援を要請することも可能です。感染者は入院されているので不在の家を襲ってなんとなりましょうか?入院していた患者が退院できたのなら祝ってあげれば良いのです。亡くなられたのなら祈ってあげてもらいたいものです。現状では、もはや誰が感染していてもおかしくない状況であり、いじめの加害者が感染していない事を誰が保証してくれるのでしょうか?今回の感染症は無症状や軽症者からの感染もあるので、全員が自分も感染しているかも知れないとの心構えで行動が必要なのです。  また、もし不適切な行動をして感染を拡大させた感染者がいたとして、その被害者や被害者の縁者が復讐の目的で感染者の家族が住む家に投石や張り紙をしたとして何になるでしょうか?一瞬は溜飲が下がるかも知れませんが不毛です。復讐はさらなる復讐をまねきとどまることがありません。  こうした行為はこれまでも犯罪者の家庭にもよく行われますが、リンチを行うのもまた犯罪行為であるのを忘れてはなりません。そもそも感染者が感染したことは犯罪ではありませんし、本人やその家族に管理責任が問えるケースは極めてまれでしょう。責任が問えるケースであっても私的制裁は犯罪です。法に触れる行為があったならば、法に訴えればよいのです。冷静に智慧のある行動が求められます。

一休さんと浄土教

 一休さんとして知られる一休宗純は皇族の血を引く臨済宗の高僧として、またその破天荒な生き様が有名ですが、一時、浄土宗に改宗したことがあります。一休さんの漢詩集である狂雲集には法然聖人を称える歌も記されており、また、浄土真宗の蓮如上人と交流があったとの言い伝えもあり、禅僧でありながら浄土教とも縁が深い方です。  日本の仏教の中で最も個人による修行を重視するのは禅宗系の諸宗派であり、対して浄土教系の諸宗派は阿弥陀如来の他力を頼みとするのが基本ですので、悟りに至る行動のベクトルは真逆です。  一休さんが生きた時代では、信者層も禅宗は比較的社会的地位が高い人が多く、浄土教は庶民にも幅広い信徒がいたと言われます。  一休さんは飲酒、肉食、女犯などを平気で行う破戒僧であり、寺や山野にはあまりこもらず概ね民衆の中で活動をしていたので、その生き様を考えると、一見、禅宗よりも浄土教との方が親和性が高いようにも思えます。ただ、浄土教では自分が凡夫であることを恥じ阿弥陀如来の救いに感謝するのが通常ですが、一休さんは自身の凡夫性を一切恥じておらず、むしろ彼流の悟りへと昇華しており、そのかぶきぶりは、やはり臨済宗の禅僧にふさわしいのかと思います。  一休さんの改宗には謎も多いのですが、臨済宗の教えを放棄したわけではなく人間関係によるものだったとも言われています。その場合、果たしてここまで系統が異なる宗派間の改宗は教学的にありうるのかと少し考えてみました。  まず、浄土教の基本は阿弥陀如来の本願力による他力なのは前述の通りです。浄土教的な視点では自力は否定されますから、禅は自力の極みとも言えるダメな行為のように見えます。ですが、禅僧が座禅をする時に、自力で悟るぞ悟るぞ悟るぞ悟ってやるぞぉおおお等と血眼になっているかと言うとそんな事はなく、そういう気負いなしに自分を我を捨てている訳です。では浄土教で一般的な念仏はどうでしょう?これは悟りのために自力の心で唱える呪文のようなものではなく、既に自分を救ってくださっている阿弥陀如来に感謝、報恩するための念仏であるとされます。そういう気持ちで一心に一向に念仏し続ける時に意識は集中しある種の禅定とも言える精神状態になることもあり、実は、禅と念仏は真逆のようで類似点もあるのかと考えられます。教学上、お互いの教義を尊重した改宗もありです。

緊急事態の長期化に備えて

 新型コロナウイルス感染症の流行にともなう緊急事態は、残念ながら長引きそうです。ワクチンの生産が十分にできるのも来年のことと思われますし、ワクチンに効果があったとしても、効果があったとわかるのは更に後のことになりますので、実際には終息しても、それを私達がすぐに知ることは出来ず、人々が安心して活動できる様になるのには時間がかかります。また、新たな感染症を警戒して、以前のような活動は再開されずに社会の構造から変わってしまう可能性もあります。  つまり、現在のような状況が長引くことにより、多くの業種で数年間はまともに利益が上がらないことになりますので、倒産や失業も増加すると思われます。  僅かですがタジキスタンなど独裁国の一部では、ウイルスを完全に無視して日常の経済活動を続けていますが、世界の大半が行動制限を設けている以上は、旅行業などへの影響は避けられません。また、中国やブラジルなどは感染の危険性より経済的打撃を重視して、経済活動を再開させつつありますが、感染の第二派、第三波も心配されます。人命を重視する先進国でも、経済的な混乱やそれにともなう治安の悪化などでも死者や生活困窮者は増えるので程度の差は大きいものの経済対策を実施しています。各国の行動はさまざまですが、どの国も病気と経済の両面の打撃を防げていません。  いずれにしても、経済が停滞し、治安が悪化し、社会に不信がはびこる時代が到来する恐れが強いのです。  そんな時こそ、人間どうしの心をつなぐ思いやりが重要となります。医療も、経済対策も重要ですが、人の心が荒廃してはいけません。昨日の 勝鬘経 の話でも紹介したように、互いに助け合う心が大切となります。  仏教者としては、医療面の改善や経済対策の充実などを求めて活動するのも人々を救う菩薩行として大切ですが、その際に意見が合わない人や心が折れた仲間の気持ちもわかる努力をして、思いやりや慈悲の心を忘れず、冷静に怒らず貪らず状況の改善に進んでいきましょう。  きびしい時代こそ人の和を守ってまいりましょう。南無佛。

勝鬘経にみる親切のしかた

 このご時世、困っている人は大変多いです。いま余裕がある人はもちろん、いま困っている人もお互いの助け合いが求められています。今回は、聖徳太子の解説の回でも、紹介した優れた女性の仏教者を描いた勝鬘経から、人を助ける時の心構えを紹介します。  勝鬘経は正式には「勝鬘師子吼一乗大方便方廣経」といい、勝鬘夫人が雄弁に説いた大乗仏教の悟りに導くための広大な教え、という意味です。勝鬘はシリーマーラーと言う人の名前を漢語に訳したもので優れた花飾りという意味です。この物語(お経)の中で、コーサラ国の王女でアヨーディヤー国に王妃として嫁いだ勝鬘夫人(シリーマーラー)が、仏の教えを理解し、お釈迦様から勝鬘夫人が未来に悟りを開いて仏になると予言を受けたあと、十の誓いをたて自らの戒めとしました。今回、ご紹介するのはその七番目です。 世尊  我從今日乃至菩提 不自爲己行四攝法 爲一切衆生故 以不愛染心無厭足心無礙心攝受衆生 現代語訳:お釈迦様、私は今日より悟りをひらくまで、自分のために四攝法を行わず、全ての人のために、執着や飽きや滞りの心を持たずに人々を受け入れ助けます。  この節のなかの四攝法が今回のポイントとなります。四攝法は人々を助け摂めて守る四つの態度、方法の事で、布施、愛語、利行、同事の四つです。仲間をまとめるための方法としても知られます。一つずつ解説していきます。  まず、布施です。物や精神的な施しを相手に与えることです。布施は自分の執着を捨てるための行でもあります。こんなにしてあげたという思い上がりの心があれば布施にはなりません。  次に愛語です。優しい言葉をかける事ですね。もし何かを人に施しても、その際に発せられる言葉が酷いものだったなら上手くいきません。また、優しい言葉を使うことにより、自分の気持も優しくなるものです。心にゆとりが無いときほど優しい言葉を使うようにこころがけましょう。  三つめは利行です。人の為になることを行う事です。物や言葉だけでなく実際の行動も大切です。行動が伴う親切は相手に与える安心感が違います。  四つめは、同事です。平等に事を同じくすることです。お互いに協力して努力することでもあります。助けるだけでもない、助けられるだけでもない、一緒に働くことが良い結果を生むのです。  勝鬘夫人

シルクロードと仏教

 シルクロードは東アジアと地中海地域を結ぶ歴史的な交易路です。主に中央アジアのそれが思い出されるのは1980年代に放送されたNHKの番組による所が大きいかと思われます。この番組では今に残る仏教遺跡やウイグル人の優しい文化などの紹介があり、一大シルクロードブームがわき起こりました。懐かしい話です。  大乗仏教は、インドからガンダーラ経由でこのシルクロードにのり東アジアに伝わり、海を渡って6世紀なかばに日本にたどりつきました。この交通路が無ければ、日本に伝わる仏教は今のものとは違っていたかも知れません。  日本への仏教伝来の100年以上前の西暦400年前後にはシルクロードの天山南道に位置し現在のウイグルのクチャにあった亀茲国のクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)により多くの経典が漢語訳されました。この鳩摩羅什は経、律、論の三蔵に通じたいわゆる三蔵法師の初代と言われています。日本人にも馴染み深いものでは仏説阿弥陀経が鳩摩羅什の訳です。今でもお経の大半が漢語で書かれているのはこうした漢語経典が輸入された事によります。  鳩摩羅什も三蔵法師だった訳ですが、今日、三蔵法師と言えば西遊記で有名な玄奘です。彼もこのシルクロードを通ってインドへ留学しました。唐の国禁を破っての厳しい旅路が脚色されて後に西遊記となったのです。帰国した玄奘は膨大な量の経典を漢語訳しました。最も有名なのは般若心経でしょう。この玄奘の漢語訳経典を新訳、それより古く鳩摩羅什まで訳を旧訳、更に古いものを古訳と呼ばれる程に決定的な量と質の経典が漢語訳されました。  このようにシルクロードと仏教は縁が深いのです。さて、そんなシルクロードで先日、中国がまた核実験を行ったのではないかとの疑惑が一部報道で伝えられています。ウイグルでは1996年まで中国が核実験を行っていました。また、近年では現代版のシルクロードとも言える一帯一路構想による中国政府とウイグル人との摩擦があり、苛烈な弾圧が行われていると報道されているのはご存知の方も多いでしょう。かつて交易と仏教伝来の道であったシルクロードが、暴力と血で汚されていくのはなんとも悲しいことです。  あらゆる暴力の停止を祈って、合掌。

緊急事態宣言の拡大について思う

 報道によると政府は緊急事態宣言を全国に広げるとのことです。それに伴う経済対策も国民一律の給付金に変更になりそうだとも伝えられています。今回の新型コロナウイルスに対する政府の反応は、当初から今に至るまで一貫して遅く被害の拡大を招きましたが、世論の沸騰に押される形でようやく少しずつ動き出しています。  行政の度重なる不手際や、立法府の意味のない空転など、政治家に対して言いたい文句が山程ある人も多いかと思いますが、日本には選挙がありますので、圧倒的多数の国民の要望は政府も国会も無視し難いものがあります。  国民一人一人の力は弱くても、みんなが声をあげることで政治も変わり、助かる人も増えます。冷静に智慧をもって、一人一人が声を上げる事は自分を救くばかりでなく、他の人々も救い仏道に沿うものと言えます。  政府も動き出しましたが、まだまだ不十分なのは明らかです。減税や緊急事態宣言に伴う倒産の防止のためのもっと思い切った経済対策が望まれます。これからも頑張って声をあげていきましょう。  ところで、最近は聞かなくなりましたが、ちょっと昔までピンチの時によく言われていた言葉の「南無三」は南無三宝の略です。三宝とは仏と仏の教えである法とそれを奉じる仲間たちである僧の三つを指します。仏教では仏や法と並んで仲間を大切にするのです。今回の危機に対して声を上げて挑む仲間も同じく大切にしたいものです。お互いを思いやり乗り切っていきましょう。  より良い世界を目指して、南無三宝。  

いったいどこからが医療崩壊なのか?

 今日の報道では、日本医師会の会見で医療崩壊が起きる可能性が強いと訴えたと、伝えられています。はたして現在、まだ医療崩壊は起きていないのでしょうか?  医療崩壊に関して明確な定義があるわけではありませんが、東京では受け入れ先が見つからず方々の病院を探し回る救急患者もでてきています。通常ならば受けられたはずの医療が極めて受けにくい状態になっています。一部の報道ではこれを、たらい回しだとか受け入れ拒否だとかと否定的な報じ方をしていますが、東京の病院が急に不親切になったわけでは決して無く、患者の増加が病院の能力を超えている為に起きている事態です。個人的意見では、医療崩壊は今月始め頃からもう起きていると思っています。イタリアやニューヨークとは程度の差があるだけです。  先週、緊急事態宣言は出ましたが、その後、国会の新型コロナウイルス感染症対策の審議は遅々として進んでいません。感染の拡大を食い止めるには経済対策が十分でなければいけません。そうでなくては無理をして働きに出る人も減りません。結果として感染の拡大も止まりません。  医療・福祉の現場や地方自治体と比べて、国会や内閣の緊張感は薄すぎます。今後、国会議員に感染者が多発してくれば、政治は混乱し今より更にひどいことになります。代議士の先生方にはもっと急いで頂きたいものです。  南無佛。

写経用の短いお経

  前々回 、少し写経のおすすめをしましたが、一般的に写経に最もよく使われているお経はおそらく般若心経でしょう。では、写経初心者の方が実際に般若心経を写経した場合、意外と長く集中力が続かないと感じる方が多いかと思います。  そこで今回は初心者でも写経しやすいお経などを紹介していきます。なお、お経の読みは宗派で違いもあるので各自所属宗派のものもご確認ください。訳もバリエーションがあり、あくまでも一例とご理解ください。 1.開経偈  無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)  百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)  我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)  願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)  現代語訳:この上なく深く妙なる仏法は、(何度も転生を繰り返した結果の)永遠とも思える時間を過ごしても出会うことは難しい、だが今わたしはこの法を知り受け取ることが出来た、ぜひ仏の真実の教えを理解させていただきたい。  経典を読む前に唱えられる偈文(詩)ですが、単なるお勤めの始めにある定型句ではありません。開経偈は、どんなに修行や徳をつんだ高僧や在家信者であっても、ぜひ仏の真実の教えを理解させていただきたいと唱える事になります。つまり、日頃から仏教の教えに従っている自分が何か偉くなったような思い上がりをお勤めの前にただす効果もあるのです。謙虚さと、ありがたい教えに出会えた喜びを再確認させて頂く偈文なのです。 2.四弘誓願  衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)  煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)  法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)  仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)  現代語訳:果てしなくいる衆生を全て救う事を誓う、尽きることのない煩悩を全て断ち切る事を誓う、限りない仏法を全て学ぶことを誓う、この上ない悟りを必ず成し遂げる事を誓う、  これは大乗仏教の菩薩道に入る人がはじめに立てる四つの誓いです。上記は禅宗系のものです。語感的に好きなのでこちらを採用しましたが、他の宗派のも概ね同じ意味です。 3.懺悔文  我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)  皆由無始貪瞋癡(かいゆむしとんじんち)  従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)  

新型コロナウイルス感染症についての日本内科学会の講演会・シンポジウムのまとめ

 2020年4月12日に日本内科学会メンバー向けにLive配信された講演会とシンポジウムのまとめですが、サーバーが落ちたようで当日は見られませんでした。内容もあくまでも個人的なまとめで網羅的ではありませんが参考にしてもらえれば幸いです。 第一部 基調講演 1.疫学と今後の動向  鈴木基(国立感染症研究所 感染症疫学センター長)  20〜50歳代の感染者が68%を占める。男性の感染リスクが高い(全体の6割)。男性、60歳以上、慢性疾患(糖尿病、高血圧、高脂血症、がん、心血管疾患)が重症化に関係している。無症候病原体保有者の半数はその後発症し、一部は重症化する(6%ほど人工呼吸器管理となる)。症状の無い感染者もしっかり観察する必要がある。発症から診断確定までの期間は短縮傾向にあるが、症例数の増加に伴い、一部地域では延長傾向を認める(日本平均で6.3日、東京で8.37日、秋田は2.88日)。 2.クラスター対策  押谷仁(東北大学大学院医学系研究科 教授)  感染者のうち多くの人は誰にも感染させないが、一部に1人から多くの人に感染させる例がある。クラスターを見つけて二次感染を防げれば感染の封じ込めは可能だが、COVID−19では多くの感染者が無症候・軽症であり全ての感染連鎖を見つける事はほぼ不可能。軽症者が多い青壮年層のクラスターではそれを覚知できずにより大きな感染拡大になる可能性がある。接触機会を減らすのが大事。  日本の対策の三本柱として、クラスターの早期発見・早期対応、患者の早期診断・重症者への集中治療の充実と医療提供体制の確保、市民の行動変容、がある。クラスター対策の基本としては、地域別に、まず全ての地域で三密を避け、クラスターを早期に発見する。感染が拡大した地域ではより三密を避ける為の対策を徹底し、外出の自粛を呼びかけ、クラスター対策の主体は医療機関や高齢者施設へシフトする。さらに感染拡大が続く場合、もしくは医療体制が維持できないと考えられた場合、特措法による緊急事態宣言を行い、外出の自粛要請・施設の使用制限などより積極的な対策を行う。  どのような条件でクラスターは形成されるのかは、いわゆる三密や、換気量が増大するような活動、大声を出す、歌う、一対複数の密接した接触があり、また多くは咳・くしゃみが無く通常の飛沫感染では無い。上気道のウイル

葬儀や法事や仏事の中止などについて

 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、各ご家庭の葬儀や法事、各地のお祭りや仏事や宗教行事も次々と中止や規模が縮小されています。  無理に大人数が参列しても、参加者の身を危険にさらし、ウイルスを持ち帰ればその縁者にも危険が及びます。自分や他人に害を及ぼすかもしれないと分かっていながらこれを行うのは仏道に反します。残念ですが家でおとなしくしておきましょう。  とはいえ、本来あるべき儀礼が無いのはなにか落ち着きません。そんな時は、ネット上で情報発信をする宗派も多く、所属宗派のサイトを訪れても良いでしょうし、自宅でのお勤めを増やされても良いでしょう。写経や、昨日ご紹介した ヘタ仏画 などもいいです。  葬儀が中止や近い家族のみの密葬になって参列できなかった親族や友人は故人を想いながら、仏様や宗祖の記念日や定例の法話や座禅会などの集まりが中止になったらその意義を想いながら、お祈りしましょう。  また、今回の感染症の拡大は未だ、終息の目処も立たず、一旦落ち着いたあとも流行の再燃が懸念されています。思いの外ながくこのような状態になるかもしれません。一般の仕事ではテレワークやリモートワークと言われるインターネットなどを使った在宅での仕事も進められていますが、各宗派も在宅でも信者が活動できるように、インターネットの活用をもっと積極的にしても良いかもしれません。ネットに慣れていない人向けには昔ながらの郵便やラジオ放送の活用を強化するなど何かしらの対策が欲しいところです。  それではまた、合掌。

ヘタ仏画の勧め

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 (コロナ騒ぎなどで)気が滅入った時に、下手でも良いので仏画を描いてみると、心が落ち着いたりします。座禅をしたり写経をしたりする人もいるでしょうが、仏画は仏画で味があるものです。仏像にはそれぞれ特徴があり、その特徴を考えながら絵を描くと直感的な理解が得られます。  今回、ヘタで恐縮ですが画像をアップしている薬師如来像について見てみましょう。まず一番の特徴は左手に持たれている薬壺です。病を治す薬が入った壺です。仏像では時々壺がなくなった像もありますが何かを持っていたであろう手の形があります。また、右手は施無畏印という手掌をこちらに向けている形は説法を聞く人のおそれを取り除く印とされます。  この像から読み取れる薬師如来とは単に病の治療にあたるだけでなく、それに伴う恐れを除く仏でもあるのです。このセットが大切なのです。仏には遠く及ばなくても、医療者も、病を単に物理的に治すのではなく、心の通った診療を心がけたいものです。  ちなみに簡単な仏像の見分け方を説明しておきますと、成仏した如来は菩薩以下と違って身なりが質素なので、如来像とその他の仏像とは見分けが付きます。ただし大日如来は派手ですし、地蔵菩薩は質素など例外はあります。よくパンチパーマみたいと言われる螺髪があるのも如来の特徴です。眉間にある白毫と言われる巻毛は如来だけではなく菩薩にもあります。明王と天には基本的に白毫がありません。また全般的に明王くらいまでは耳たぶが長い像が多いようです。あとは、手の印形や持ち物や服装や乗り物などでそれぞれの仏像はだいたい見分けることが出来ます。また、よくみられる蓮の形の台座は、仏の智慧や悟りを象徴しています。  ともあれ、下手でも良いので仏画を描いてみると新たな発見があるかも知れません。もちろん絵が上手な人は上手に描いてもらって結構ですよ。  それではまた、合掌。

医療のギルド的制度は昔話じゃなく今も悪影響を及ぼしている

 今でこそそうでもないし、地域による差は大きいが、ちょっと昔の医者の教育は徒弟制度の感がとても強かった。現在40代なかば以上の年齢ならばまだその影響があった医者だろう。当時は暴言・暴力・過重労働は当たり前で、簡単に言うと悪い意味での体育会系文化である。大昔の話だが、私が研修医の頃に1週間の労働時間が125時間に達したことがあった。また、馬鹿げた話だが、入浴や睡眠も上級医の許可を取るように言う医者もいた。そういう研修医時代を過ごしてきたが、とりあえず、それでも過労死しない丈夫な体に産んでくれた両親に感謝したい。あと、実は体育会系の文化は看護師の方が強かったりもする。  つまり現在の病院を管理する立場にいる中高年の医者や看護師たちは、こういう文化で育ってきた人間だと言うことだ。その中の一部の人達は、無茶な命令だって自分が若い頃はやっていたという意識の為か、何も悪びれることもなくやってしまう。現場をあまり見ることがない大病院の院長レベルに、こういう思想の人間がいた場合は悲劇だ。下からの建設的な意見は遮断され、組織としての安全管理は悲劇的な状態となる。新型コロナウイルスは気合では防げない。  そういうトップがいる病院では、感染防御は現場の個々人の医療者任せとなる。安全を確保するために決められたルールが、トップの政治的配慮や思いつきでどんどん犯されるからだ。  既に、爆発的な感染拡大が起きている都市部の病院だけでなく、いまだ感染者数が少ない地方の病院も決して油断してはならない。十分な準備をしておかないと、患者数の急増はもう目の前に迫っている。ひどい病院に勤務の方は衝突を恐れずに改革を可能な限り実施しましょう。それが患者とスタッフと自分の命を守ります。責任者の方は現場の声を聞く耳をもってください。  私を含む医療者諸君の無事を祈って、合掌。    

緊急事態宣言と経済対策

 新型コロナウイルス感染症に対する緊急事態宣言がなされ、病床の確保の面では大きな前進があったといえるが、外出禁止に関しては単なる自粛要請であり強制力はない。  今回の感染爆発の影響を受けて会社が倒産して従業員が失業したり、給与や収入が大幅に下がった人も多い。彼らに十分な資金援助をしなければ、生活の為に外に出て働き、感染が広がっていく事になる。  素早い資金投入が望まれるがこの件に関して国会の審議は緊急事態宣言後ほとんど進んでいない。また、外国人には支給すべきで無いとの意見を持つ議員もいるが、平時のバラマキならいざ知らず、緊急事態において人々が動き回らずに済むようにする為の施策であるので、給付金の対象から外国人を除外するのは、感染拡大を遅くする為には有害だと言える。  救済対象も様々な審査でふるいにかけられたごく少数となるのではと懸念が広がっている。そんな手間をかけているヒマはない。日本に住む人間に対する審査を排した一律の給付が最も素早く資金を提供できる方法だ。また、消費税の廃止も即効性がある。事は一刻を争う。この時点で審議が進んでいないとかあり得ないが、それが起きるの日本の国会だ。  投下される金額もいろいろ言われているが、返済の必要がなくすぐに使えるものとなると10兆円あるかどうかも疑わしく、未曾有の事態に対するものとしては不足していると言わざるを得ない。増額されるように祈る。  緊急事態宣言は出ても状況は極めて悪い。行政や議員へ困っている人達の想いを届けてその行動を変えさせないと、個人レベルの対策ではどうしようもない。  現状を変えるべく私も頑張って参ります。合掌。

花まつり

 本日四月八日はお釈迦様の誕生日と伝えられており、仏教行事の灌仏会や降誕会として知られていますが、日本では花まつりとして知られています。お釈迦様の誕生仏像に甘茶をかけた経験のある方も多いことでしょう。  さて、お釈迦様誕生の際の逸話と言えば、生まれてすぐに七歩あるいて天上天下唯我独尊とおっしゃったという話が有名です。七歩あるくのは六道輪廻をこえ解脱に至る意味とされ、天上天下唯我独尊は自分が偉いという意味では無く、命の尊さを宣言されたものと言われています。  これはもちろん後日に作られた話です。お釈迦様の在世の頃の輪廻思想が六つに分類されていたのかどうかは疑問視されていますし、仏教の基本理念として我を否定しているのに唯我独尊はやはり違和感があります。生物学的にも当然無理です。誕生日自体も四月八日以外に様々な日付が伝えられています。  ただ、そんな逸話が後世に盛られるほどにお釈迦様は人々の崇敬を集めて来たのです。お釈迦様なくしては我々も仏教に出会う事は無かったでしょう。お釈迦様の誕生日を心を込めてお祝いしたい所です。  日本では花まつりと呼ばれることが多いこの日ですが、これは明治時代に浄土真宗の僧侶が提唱した名前だと言われます。四月はちょうど桜の季節ですので、そのまま名前が定着していったのでしょう。  新型コロナウイルス流行の折、皆で集まってのお祝いはしづらいですが、各自お仏壇などに合掌してお祝いしましょう。  それではまた、合掌。

油断している医療者

 昨日の時点で慶応大学病院の研修医18名が新型コロナウイルスに感染しました。この警戒すべき時期である3月26日に40名もの集団で会食をおこなったとされ、彼らの自覚のなさに驚いております。  ただ残念な事に彼らが極めて稀な存在と言うわけでは無く、小生の卑近にも信じられないような行為をする医者が見受けられます。  それに警鐘を鳴らしても組織の腰は重く焦燥感はつのるばかりです。愚かな事をする人に対して怒っても、相手は言うことを聞きません。落ち着いてさとしましょう。緊急を要する事態では一喝するのもやむを得ませんが、相手に何が愚かな事だったのかを分かってもらえないと、また過ちを繰り返します。  もちろん、ほとんどの医療従事者は警戒を強めて対応しています。しかし、一部の愚かな人の行為で容易に医療機関にいる患者様や職員に感染が拡大します。警戒していても感染が広がるときは広がりますが、わざわざ確率をあげにいくのは論外です。  彼らの多くにみられるのは、自分だけは大丈夫だという無根拠な自信です。そんなのは単なる妄想です。はやく目覚めて欲しいものです。  今は緊急事態です。地震や台風や火事の様に目に見えなくてもすぐそこに危険はあるのです。十分な警戒をお願いします。  みなさんと周りの人達が無事であるように祈ります。  南無観世音菩薩

明日、緊急事態宣言

 報道であるように、明日、新型コロナウイルス感染症に関しての緊急事態宣言が東京、神奈川、千葉、埼玉、大阪、兵庫、福岡、に出される事となりました。遅くはありましたが、一歩前進です。軽症患者収容施設や必要物品の徴発が出来るようになるのは大きいです。国民の間で高まった声が政府を動かしたと言えます。微力ながら当サイトの よびかけ にご協力頂いた皆様ありがとうございました。  しかし、指定された七都府県以外の道府県も十分に危険な状態であり、油断すること無く厳重な警戒が必要です。緊急事態宣言の対象にならなかったからといって自治体や個人が対策を怠ることがあれば、確実に悲劇を招きます。  また、緊急事態宣言とは言っても外国のように人の移動に関して罰則や強制が伴うわけでは無く、言い換えれば、政府は人の移動に関しての責任は取りません。可能な限り経済活動も維持するようですので感染拡大防止効果も限定的でしょう。感染拡大を最小限に食い止められるか否かは国民個々人の努力にかかっているのです。  また、緊急事態宣言が出て、人との接触がへり、感染の拡大が鈍化しても、潜伏期間などの問題から感染爆発はまだまだ続きます。大変なのはこれからですが、一人ひとりが精進していく以外に道はありません。自分の命と他人の命の為にみなさん頑張って参りましょう。  それではまた、合掌。

医療者自身のACPのような準備

 以前、 ACP の話をいたしました。ACPは簡単に言うと自分の死生観を医療者や家族などと共有し、その後の介護の計画をねることです。これは特に、自分で意思決定が出来なくなった場合、代わりに意思決定をしてくれる人の負担の軽減につながります。通常ACPは何度も時間をかけてねりあげていくものです。  さて、伝染性の疾患が爆発的に増えた場合、医療者の感染リスクは一般の人達より上がります。多数の患者と接触するので当然です。患者があふれ医療資源が枯渇すれば十分な予防策もとれなくなります。現在、日本でも新型コロナウイルス感染の急速な拡大が起きていますが、私を含め医療者の皆さんも自分も感染する危険性が高いとの緊張感はあるでしょう。  職務上、自宅にこもるわけにいかず感染者との接触も避けがたい医療者は覚悟をきめておくべきです。今回の感染症は隔離対象です。隔離後もし急激に悪化した場合は、家族にお別れの挨拶も出来ずに死んでしまうこともあります。緊急事態ですので治療に関して本人の意向や価値観が活かされることも少ないです。よって通常の意味でのACPはあまり役立ちません。しかし、意思決定をするであろう家族には、自分が死ぬ前に伝えておきたい事を、死ぬ直前にあれこれ思い悩まずに済むように、すぐに伝えておきましょう。  自宅にこもることが出来る人は外出をせずに自分の命を守ってください。自宅にこもって感染の拡大が鈍化すれば他人や社会の為にもなります。籠城生活も立派な菩薩行です。  それでは、みなさまの無事を祈って、合掌。

直心是道場

 久々に禅語です。禅語というか、 聖徳太子 の回にもお話した維摩経に出てくる言葉で、真っ直ぐな心が道場であるという意味です。俗世から離れた特別な場所で瞑想しなくても、日々の生活で人の役に立ち、強い心をもって、かたよらない物の見かたをしていくことによって、俗世で生きているその心に悟りを目指す道場と呼べる物があるのです。  色々と大変ですが本日も生きて参りましょう。  それではまた、合掌。

引き続きお願いします。

  現在、新型コロナウイルス感染者は原則として全員が入院し、症状が改善したあと2回続けて検査で陰性であれば、退院が認められますが、 今朝の報道によると、この規制が緩和されるとのことです。軽症者で病院があふれて病院機能が麻痺する事態を避けるために有効活用してほしいとことです。  自治体が判断すれば軽症者の自宅待機も可能となりますが、十分に隔離が可能か心配な面もあります。またホテルを借り上げる場合も、協力いただく従業員や周辺住民への補償の問題も発生するかと思われます。多くの自治体では予算や人員の不足も深刻です。  この規制緩和は前進ではありますが、やはり国からの指示や予算の分配をおこない、これらの対策に不足する人員の雇用などが必要になってきます。  また、いくら軽症者の受け入れの充実をはかっても、患者数自体が指数関数的な増加が続けば医療崩壊は更に悪化します。    現状を変えるために、引き続き皆様のご協力をお願い申し上げます。

医療崩壊。

 当サイトでは政治にからむ話は極力さけてきましたが、緊急性がありますので、今回は医療崩壊が既におきはじめている日本についてお話します。  新型コロナウイルス感染症に関して、少なくとも先月の中頃からは、特に専門家でも無い一般の臨床医でもその多くは、なぜ緊急事態宣言が出ないのかとの声をあげていました。しかし、刻々と状況が悪化していっても一向に政府は動かず現在に至っています。  既に、東京などの医療機関では日常診療に支障が出ています。現在の患者数の増加率からみて、首都圏の病院機能の大幅な低下は不可避です。首都圏の医療崩壊後も対策が打たれずに、この勢いでの感染拡大が続けば日本全体の医療崩壊に進む恐れも十分にあります。    これに対する医療現場の努力には限界があり、この流れを食い止めるには行政の介入が不可欠です。軽症患者の隔離施設は行政の力で他施設の転用を行わなければ絶対的に足りません。病院に収容不能な患者があふれれば、死ぬのは新型肺炎の患者だけでなく、医療資源の枯渇により十分な治療が出来なくなった他の疾患の患者も死にます。  皆様にお願いがあります。SNSへの投稿や政治家への陳情など、なんでも良いから思いつく事を試してください。自分の為にも家族のためにも赤の他人の為にもなります。なにとぞ、宜しくお願い申し上げます。  

和泉式部と仏教

 和泉式部は恋多き女流歌人で、娘の小式部内侍とともに百人一首に選ばれるなど才能にあふれる女性として、紫式部や清少納言と並び称される、平安時代の超有名文化人です。  そんな彼女ですが晩年は不遇であり仏教への傾倒があったと伝えられています。今回は彼女の歌をいくつか紹介します。  まずは、おなじみ百人一首に選ばれているこの歌です。 「あらざらむ此よの外の思出に今ひとたびのあふ事もがな」  病気が重く死を覚悟した時に読まれた歌で、恋する人にもう一度あって死後の思い出にしたいという内容です。実はこの歌が読まれた時期や送られた相手は不明ですが、燃えるような渇愛です。もちろんこの様な煩悩は仏教的にはどうなのかと言う疑問も出るでしょうが、こういう感情も丸呑みにして悩める衆生を救ってきたのが日本の仏教だと言えます。  次は才気あふれる娘だった小式部内侍が夭逝してしまった時の母としての悲しみを詠んだこの歌です。 「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり」  死んでしまった小式部内侍は誰の事を思っているだろうか?きっと子供たちの事に違いない自分も娘がもっとも愛おしいから、という意味です。ここに書かれているように小式部内侍には子供たちがいました。小式部内侍の子の一人の静円は歌人の才もある僧侶となり、他の子である頼忍も高徳の僧の称号である阿闍梨を得ていました。小式部内侍の死後の和泉式部の晩年は不明ですが、孫たちに仏教教育を受けさせたのかも知れませんね。  三つ目は、悩める和泉式部が当時の天台宗高僧である性空に救いを求めて訪れますが居留守を使われてしまいその柱に書き残したと伝えられるこの歌です。 「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」  煩悩に迷っている自分を仏教の真理が導いてくれますようにとの意味です。この歌に感動した性空は居留守をやめて次の歌を返します。 「日は入りて月まだいでぬたそがれに掲げて照らす法の灯」 お釈迦様が入滅され、弥勒菩薩の成仏も遠い未来である現在を、仏法の灯で照らしましょうという意味です。和泉式部は性空から仏法を説かれ袈裟を与えられ、その袈裟を来て死んだとも言われます。戒名は誠心院専意法尼、誠心と専意とは色々考えさせられます。そんな和泉式部ですが、実は日本各地に墓所と伝えられる史跡があります。晩年は不遇