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持戒は苦痛か?

 持戒は仏教の基本的修行である三学の筆頭です。在家の大乗仏教徒であれば、五戒がそれにあたります。即ち、殺さない、盗まない、嘘をつかない、不道徳な姦淫をしない、飲酒をしない、の五つです。こうした禁止事項を守ることは、何でもかんでも自由にしたい人間にとっては苦痛であるかも知れません。究極的にはこの世の一切は苦痛であるとするのも仏教の根本的な考え方なので、たしかに持戒も苦痛なのかも知れません。  しかし、これらの戒を守る時に苦痛に感じるのは何故でしょうか?例えば、殺してやりたい人がいても殺さずにおくのは苦痛でしょうし、盗みたい物があるのに盗まずにおくのも苦痛でしょう、嘘をつきたいのに嘘をつかないのも苦痛だし、浮気をしたいのにしないのも苦痛で、お酒を飲みたいのに飲まないのも苦痛です。逆に言えば、殺したくも盗みたくも嘘をつきたくも浮気をしたくもお酒を飲みたくも無い時は、戒を守るのは苦痛ではありません。  つまり、戒を守るのに苦痛が多いのは自分の心に煩悩が多い状態であることになります。日々、持戒しているとその苦痛の度合で自分の煩悩の程度が図れるというものです。だから持戒が苦しくて苦しくてたまらない人こそ、その苦から逃れるために煩悩を抑えると良いのです。欲望のままに戒を破り続ければ、欲望はさらなる欲望を生みそれらが生み出す苦もとどまることを知りません。  自らの怒りや貪りにより苦痛が生まれる時は、戒の理念に反する事をしているかしようとしているものです。心の動きに注意を払い戒を守って参りましょう。

看脚下

  看脚下とは足もとに注意せよと言う意味でお寺の玄関などで木の板に書かれた 看脚下の言葉を 時々目にします。  履物をきれいに揃えるように促したり、段差でつまづかないように注意したりする気配りであると同時に、看脚下は自省せよいう意味も内包されており、玄関を出入りする度にその事も思い出す仕掛けでもあります。  昔、禅僧の一行が夜道を歩いていた時に、持っていた灯が消えてしまい真っ暗になりました。ここぞとばかりに禅の師からこの暗闇の中をどうするかとの問いが出されます。もちろん、この質問は禅問答として有名な看話禅であり、 暗闇の中の道というお題にどういう仏法的な真理を見出すかが重要になります。お弟子さんたちは次々とそれっぽい答えをしますが禅師は納得しません。最後のお弟子さんが「暗くて危ないから足もとに気をつけましょう!」と答えたのを聞き、師匠は満足したと言われます。  暗い道で足もとに注意を払うのは当然なわけですが、看話禅の公案として質問されると、師に褒められる回答をしようと欲をかいて、物事の本質を見ずに難しく考えてしまい簡単な事も分からなくなるものです。こうした煩悩から生まれる妄想から離れ自分の内外の状態に正しく注意を向けるのは仏教の八正道の一つ正念でもあります。人生は暗闇の中の道にも似ており、常に正念場なのです。

仏飯

 宗派によって差はあるが、日本の伝統仏教で仏壇に仏飯を盛る器は概ね足の高いものが使われる。盛られる仏飯の形にもバリエーションはあるが山型に盛る事が多い。これは山ではなく蓮の蕾を模しているとの説もあるが、奈良時代の頃の仏飯器はボウル状のもので蓋がついており、米を山型に盛るようになったのは後世のことだろう。当初の仏飯器は托鉢の鉢が原型であると思われる。  さて、そもそも仏飯は仏様に捧げられているものだ。これは仏壇に捧げられる仏飯でも本来同じことではあるが、宗派の教学が否定しても多くの日本人は仏壇に祖霊の存在を見ており、仏飯も本尊のみならず成仏して仏となった祖先に捧げられていると言える。  昔の仏飯器は前述の様に鉢のような形であり、それを日本の伝統的な食器である高坏を低くしたような台と組み合わせて使われていた。時代を追うごとに台の足は高くなっていき、徐々に鉢と台は一体化していって現在のような仏飯器となった。その方が持ちやすいからなのかも知れないが、神仏習合の歴史を考えるとちょっとした柱状の物を立てて祖霊に捧げるという意図があるようにも思える。そうすると仏飯の形も神道の盛り塩などにみられる山型の形状として祖霊の依代に見立てた可能性もある。また、仏飯器の足が急速に伸びたのは江戸期であり、寺請制度により庶民の家庭にも仏壇が祀られるようになった時期と重なる。儀式を正確に受け継ぐ努力をしている寺院よりも庶民の祭祀の方がより習合文化が生まれやすくなるのは間違いない。仏飯もお下がりとして家人らが食する事が多く、これは神道でいうところの直会と同じ事だ。これらの説が本当に正しいのかは断言出来ないが、明治維新までは神仏習合が当たり前であった事を考慮すればいくらかの影響があったと考えるのが自然だろう。

社会制度と不正行為

 生活保護や障害者年金の話をすると決まって不正受給が起こるからと制度そのものを否定したがる人が現れるが、これらの社会保障制度は必要不可欠なものだ。  人は誰しも大怪我や大病を患う事もあれば、やむを得ない理由で職を失う事も起き得る。そんな時に公的補償があると信じているから後顧の憂い無く日々働くことが出来るのだ。  こうした社会保障制度を不正利用する人は確かに存在し、そうされない為の対策も必要だが、不正利用する人がいるから制度自体を無くせと言ったり制度の適応を厳格にして門戸を狭めるべきだと言ったりする人は、その弊害も考えるべきだ。  そもそも、遺憾ではあるがこの世に不正利用が全く無い社会制度というものは恐らく存在しないだろう。不正を防ぐ手立てを講じた上で予測される不正利用の損害は織り込んで制度設計すべき話で、制度そのものを使いづらくしたり廃止するのは、その制度や法の理念を脅かすものだと言える。富の再分配を直接実行しているこれらの制度は倫理的に見ても維持されるべきだ。  また実利的な話では貯蓄する余裕に乏しい層への経済支援はそのまま市場をしげきし景気にも良い。逆に締め付ければ不景気が加速する。不景気で支援が必要な人が増えている時こそ寧ろばらまくべきだ。

反政府バイアスと反野党バイアス

 個人的に記憶にある範囲で、手放しで称賛できる政府が日本に存在したことはない。いくらかは良い政府があった時も何かしらの問題は存在した。だが、それこそが正常な状態であり、完全に無謬な政府が実在するとしたらオカシイのはそう感じる自分の認識の方だとみてほぼ間違いないだろう。  一方で、世の中には政府の主張や行動が全て誤っているとのバイアスを強固に持つ人もいる。物事は是々非々で考えられるべきなのだが、このバイアスに取り憑かれている人は、政府が常に間違った判断をするとの認識を持っており、その全てに反対する。これは政府の無謬を信じるのと同じレベルで困ったバイアスだ。  こうした反政府バイアスとでも呼べる現象は、政権の支持率が低下するに従いその力を増していく。選挙で選ばれ多数を取った政党が間接的に作ったはずの政権の支持率が極度に低下するのは多くの失政を繰り返した結果であると言える。そんな政権は信用するに値しないというのはある程度は正しいのだが、政権が何をしても盲目的に否定するのは流石にバイアスと言ってよいだろう。  例えばオリンピックの賛成反対について、状況を考えてオリンピックは行うべきで無かったから政府を批判するのは良いが、政府に反対だからオリンピックにも反対するという思考はおかしく、逆に状況を考えてオリンピックを行うべきだと考える人が政府を支持するのは良いが、政府を支持するからオリンピックも支持すると言うのは本末転倒だ。  コロナ対策にしても、少なくとも私は政府の対応は良くなかったと考えているからこの件について総合的には政府を支持しないが、では政府の対策が完全にダメだったかというとそうでもない。少なくともワクチン接種を推進しようとはしている点などは一定の評価が出来る。このような一つの問題に関してだけでも、全てが正しいことも全てが間違っているということはない。いけない点は指摘して改善を促し、良い点は伸ばす様に支援するのは当然だ。  こうした問題は政府や与党だけではなく、野党に対しても言える。野党が言うことは無条件に全てダメだとする考えを持つ人も結構な数存在する。  特定政党をカルト的に支持していると、支持政党のミスには目をつぶりがちになり、対抗する政党が良いことをしててもそれを妨害しようとするようになる。別にどこの党員であってもそれ自体は非難すべきことではないが、こうしたバイア

口中の斧

 あまり強い言葉を使ってはいけないのは弱く見えるからではなく、無用な争いを招くからです。自分が荒々しい言葉を使わないようにこころがけるだけでなく、他者からの脅迫や恫喝にも平常心を保つようにこころがけたいところです。  南伝仏典のスッタニパータの第657偈に次のような物があります。  人が生まれときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を切り割くのである。  言葉は容易に自分や他人のことを傷つけるものだから、口は慎むべきなのだと言えます。ところで、スッタニパータにはこの偈文の前フリとして修行僧コーカーリヤの話があります。  コーカーリヤは舎利弗尊者と目連尊者が邪心を持っていると疑念を持ちお釈迦様にそのことを告発します。お釈迦様はそのようなことを無いからそんな事を言ってはならないと三度たしなめますが、コーカーリヤはお釈迦様の言う事をききませんでした。そうするとコーカーリヤは皮膚病を患い絶命して地獄に落ちたという話です。  さて、この話でコーカーリヤは無実の罪を舎利弗尊者と目連尊者にきせようとした訳ですが、それが悪意であったのか事実誤認であったのかまでは明らかでなく、また、告発時も舎利弗と目連に邪念があり悪い欲求にとらわれていると言っただけで、そんなに強い言葉や罵りの言葉を用いてはいません。この程度で地獄におとされたらたまらないなと言うのが正直な印象ですが、この話では正しい人を悪く言うなという事を強調したかったのだと思われます。続く658偈ではそしるべき人を誉めて誉めるべき人をそしる事を、659偈では聖者への悪意を、それぞれ戒めています。  思えば今年は、アメリカ大統領選や新型コロナウイルスやオリンピックなどの諸問題に対して意見の違う人を激しく罵る人が多く見られます。その中には、科学的倫理的に妥当性のある意見を発信する人に対して、荒唐無稽な妄想を持って彼らが悪いことをしていると罵ったり暴力に訴えたりする人達もいます。口の中の斧はやがて陰謀論者たちを傷つけることでしょう。また、正しい側もあまり相手を激しく罵るのはやめた方がいいように思います。少なくとも私にはコーカーリヤが苦しんで死んで地獄におちる程の事をしたとは思えません。事実を正しく認識出来ない弱者をあまり苛烈に責めるのは可哀想です。悪事は止めなければなりませんが、何が正しいかを理解で

被害妄想

 例えば公共の場でたまたま小指でスマホを操作する人を見かけたとしよう。その人は元から小指で操作する人なのかも知れないし、ちょうど他の指が汚れていたのかも知れない。だが、その行為を自分に対する侮辱だと確信する人がいたらそれは被害妄想の可能性が強い。  こういう妄想は病的なもの以外に、洗脳によっても惹起せしめる事が可能だ。洗脳は国家による場合もあるが、特定の人種や民族や国民等に対するヘイトに基づく被害妄想は必ずしも組織的な扇動によらずに集団の個々の構成員が持つ疑心暗鬼がエコーチェンバー的に増幅されて起きることもある。  こうした妄想に取り憑かれると、何とか人や何某民族が組織的に自分達を狙っていると考え、日常にある全く無関係なものも自分達を狙う悪意のサインだと解釈し、その無意味なサインに激怒して実際にヘイト行為を実施したりもする。危険だ。  そして、こうしたヘイトにさらされた側も対抗するかのように妄想を育てていき、報復が報復を招くのだ。理不尽ないいがかりに屈服も隷属もする必要は無く反論はすべきだが、同じような妄想でし返すと無益な争いは終わらない。  妄想とそれによる戦いを終わらせるには、忍辱と持戒と精進が重要となる。

再チャレンジ

 例えば何らかの罪を犯し逮捕されて裁判で実刑判決を受け懲役刑を勤め上げて出所したとしても、社会の目は前科者には冷たい。人が人として生きていくには社会性が大切になってくるが、社会から爪弾きにされた前科者は生きづらくそれ故に再犯もしやすい。また、刑事罰とならなくても過去の不祥事が暴かれ仕事を失う人もいるだろう。そうした人達をリスクを取ってまで雇用する人は少ないし、起業しても顧客や取引先からも警戒されて上手く行きづらい。悪事をはたらいた者に対する社会の圧力は相当に強い。  こうした悪人への社会の冷たさは、犯罪行為の抑止力となっている面もあるが、悪人をより悪い方向に追いやる効果もある。だから、犯罪者の更生を促すのは彼らの過激化を抑え社会の安全を守るためにも必要だといえる。罪を償えば再チャレンジ出来るのは良いことだ。  だが、再チャレンジにも格差はある。地位の高い者やお金持ちの人達は、何か悪いことをしても罪を償うどころか、そもそも悪くないといった擁護論が勃興し反省の機会すら与えられない。立場上の責任はとっても実質的には大した被害は受けないし擁護した人への見返りもあるだろう。まれに実刑を受けた場合でも出所すれば普通に生活出来る。かたや、貧乏人が何かすれば擁護する人はほとんど無く、生活が困難なレベルにまで社会から排除される。要は再チャレンジとは貧乏人の為の言葉だといえる。貧乏人が行なった、自己の社会生活の基盤が破壊されるレベルの不祥事や犯罪は、地位が高いお金持ちには日常生活にちょっとしたトラブルが起きた程度の事だからだ。再びチャレンジする必要が無い。  それゆえに、立場が強い者には己を律する心が強く求められる。極端な不公平感が社会に蔓延すれば、階級の分断と衝突を生むのは自然であり、それは歴史的に見ていつも悲劇を招いてきた。強い者が自己の利益にのみ執着すれば社会は破綻することもある。各地に伝わる帝王学が王者に公平さを要求するのは、倫理的宗教的観点のみならず自分を支える国民を痛めつけて分断が進めば王自身の身も危ういからだ。王にとって国民の幸せが自分の幸せである状態の時に王国は栄える。これは民主化しても同じであり、為政者が国民をないがしろにすれば、(選挙ででも革命ででも)打倒された為政者には再チャレンジの機会はそうそう与えられないだろう。

過去の言動に対する責任

 オリンピック関係者の過去の不祥事が次々に暴かれている。中には明らかにオリンピックに関係したがゆえに探し出された物もあるが、不適切なものは不適切だ。類似の事件は海外の芸能人でもあり、子供の頃に言った人種差別発言が問題視され謝罪した例もある。だが、ある程度の年齢の人間なら、過去に何も不適切な言動が無い人間なんていないだろう。そして苦い思い出は既に取り返しがつかないからこそより苦くなるものだ。そうした過去が思い当たらない人は記憶力が悪いか嘘つきかのどちらかだと思う。  しかし、そうとはいえ、障害者を縛り上げて暴行し排泄物を食わせて自慰を強要するなどの凶悪なことまでやった人は極めて少数だろうし、もしやっていてもそれを公に自慢気に話すような倒錯者は更に少数だと思われる。また、本人に差別の意図が無くても悲惨な事件や事故を笑いのネタにするのは不謹慎だ。自分の家族や友人が死んだ事件を茶化されたら誰しも不快だろう。そのネタが居酒屋の酔漢がしていた下卑た話ではなく、何らかの記憶媒体に残される場合は言い逃れ出来ない。脛に傷を持たない人はいないとはいえ、程度の問題は重要だ。五十歩と百歩に差は無くても、一歩と万歩を同列に語ってはいけない。  こうした、過去の不祥事が露見した有名人たちを可哀想だと擁護する意見がマスコミや芸能界では驚くほど多い。これは彼ら自身にも色々と心当たりがあるからなのかも知れない。容易に過去の検索が可能となった現代の新しい問題だ。  また、今回の五輪はこれだけでなく様々な不祥事や失言があったが、多くは余計な言い訳や自分は悪くないかのような反論を試み更に炎上した。鎮火可能そうな謝罪コメントはまだ1回しか見ていない。中々に大変だ。しかしこれは他人事ではない。全人類にとって今後の世の中では謝罪スキルが重要になってくるだろう。もちろん内心が一番大事だが表面に出るのは言葉や態度であり、これを失敗すると内心でどんなに謝罪しても炎上が止むことは無いだろう。  このような社会になったからでなくても、日頃から行動と発言を慎み、心に怒りや貪りの煩悩を少なくするようにして、日々を積み重ねていれば自覚のない不祥事以外はだいたい防ぎうる。また、過去に悪いことをした自覚があるのなら懺悔して繰り返さないようにしたいものだ。過去の逃れ得ない罪を社会から糾弾されたならば、誠意ある謝罪以外に何も出来ること

 柱は日本において神を数える助数詞として使われます。記紀神話ではオノゴロ島を国の柱として沢山の神々を生んだとされ、柱は神聖視されていたと言えます。伊勢神宮の正殿には柱そのものが神聖なものとみなされている心御柱があり、柱の上に三種の神器の一つ八咫鏡が収められています。また出雲大社の心御柱が由来となったかは定かではないですが、家の中心の柱や一家の中心人物を指して大黒柱と呼ばれる様に、柱を重要視する習慣が日本には根付いていると言えます。諏訪大社の御柱祭もその目的は御柱を神木として立てることにあるのでやはり柱は神聖視されていると言って良いでしょう。  仏教でも善光寺御開帳の時の回向柱は、前立本尊の指と糸で繋がれており、この柱に触れることで善光寺の前立本尊に触ったのと同じ御利益があるとされています。仏教関係の柱は日本以外にもインドのアショーカ王が仏教にまつわる沢山の柱を立てていますが、記念碑的な意味合いが強く、日本の様に柱自体を特に神聖なものとしていたかは明らかではありません。日蓮著の「開目抄」の中の三大誓願では自身が日本の柱、眼目、大船になることを誓っており、柱が一番最初にあげられています。この誓願は法華経を広げるにあたって立てられたもので柱を立てるのは物事を始めるというニュアンスが含まれているかも知れません。日本では現代でも建物を造り始める時に立柱式を行うことがありますが、呪術的な意味で柱を立てる儀式は縄文や弥生時代にまで遡るといいます。何らかの祈りの焦点や共同体の中心として柱を立てていたようです。日本人が柱と言うときは単に物を支える棒状の素材ではなく何かしら精神的な意味をもたせている場合が多いのです。  最近、流行った某漫画でも組織のリーダー格の剣士が柱と呼ばれていましたが、こうした文化の影響でしょう。建築物や一家から大黒柱が消えても、日本語のニュアンスは後世に伝わっているようで、ちょっとうれしくあります。

五輪

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 一般に五輪というとオリンピックですが、仏教で五輪というと宮本武蔵の五輪書で有名な方の五輪すなわち地水火風空の五つのことで、これらが全ての物質を構成しているとする古代インドの元素論です。古代ヨーロッパにも同様の発想はあり、何かしらの文化交流の結果かも知れません。なお、五輪は元素論ですので空は大乗仏教の空ではなく他の四元素が存在する場(空間)を指します。  この五輪を象徴する塔が五輪塔として知られており、当初は仏の供養として作られました。下から地を象徴する立方体と、水を象徴する球体、火を象徴する四角錐、風を象徴する半球、空を象徴する宝珠形の石材を積んで作られています。こうした五輪塔は伝説ではインドから伝わった事になっていますが、実際には日本で誕生したと考えられています。密教的には、この五輪塔を印を組んで座する修行者に見立てて成仏を意味するものと解釈されています。五輪塔やそれを模した卒塔婆(板塔婆)が死者の成仏を祈る追善供養に使われるようになったのはこうした影響があります。今でも多くのお寺で年忌法要などの際に追善供養の為に卒塔婆が用いられていますが、浄土真宗系のお寺ではその教義上(門信徒は死後すぐに成仏するので)追善供養を必要とせずそのための卒塔婆を立てる風習もありません。  写真は京都市伏見区にある円通山大黒寺にある宝暦治水事件で非業の死を遂げた薩摩藩家老の平田靱負の墓として立つ五輪塔です。

大曼荼羅と観心本尊抄

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 日蓮宗の大曼荼羅は中央に特徴的な字体で「南無妙法蓮華経」の文字が踊り、周辺に多くの仏や菩薩や神の名前が散りばめられた独特なもので、他宗派の人にも印象深いご本尊です。  これは日蓮聖人の主著の一つ「観心本尊抄」に説かれている内容と関連があります。観心本尊抄とは、天台宗で悟りを開くための禅定として必要とされる摩訶止観の一念三千の瞑想を末法の人間にも適応できる様に信者に解説した手紙です。一念三千は全世界が心で心が全世界であるとする考えで、その全世界と同じである自己の心を観ることが観心です。  「観心本尊抄」の内容を要約すると一念三千の観心を実践出来ない末法の世の劣った人々を哀れんでお釈迦様が妙法蓮華経の五文字の中に一念三千の宝を包んで送り届けてくれたのだとするものです。よって南無妙法蓮華経を受持する者は、一念三千の観心を得るのです。  そして、この観心のために書かれたのが冒頭にお話しした大曼荼羅で、観心の本尊とされます。日蓮聖人が一念三千の観念世界を図顕されたものです。何よりも注目すべきは中央に書かれた南無妙法蓮華経であり教主であるお釈迦様すらその脇士となっています。日蓮宗では南無妙法蓮華経はお釈迦様をも作りだした仏種そのものということになります。特徴的な髭文字は南無妙法蓮華経の法以外の六文字が線を伸ばしており、万物が法の光に照らされている状態を示しています。大曼荼羅の中の諸尊の文字も似たような書体で書かれています。お釈迦様や法華経に出てくる多宝如来や地涌の菩薩(※1)などの名前の他に天照大神や八幡大菩薩の名前も入っています。  日蓮宗の信者がこの大曼荼羅に南無妙法蓮華経のお題目を唱えることで観心の修行になっているのです。  さて、この大曼荼羅の特殊な字体の南無妙法蓮華経は髭題目と呼ばれ、御首題という他宗でいうところの御朱印となる日蓮宗独自のものにも使われています。各寺院で書体に色んなバリエーションがあるのでなかなかに面白いですが注意が必要です。御首題は日蓮宗寺院専用の御首題帳にしか頂けない事が多いです。御首題とは別に御朱印を用意しているところもありますので、両方とも頂きたい場合は各寺院の取り決めに従ってお願いしてみてください。また日蓮宗には他宗を排撃する四箇格言(※2)の影響もあり、また、以前は日蓮宗の信徒以外に布施の授受を行わないとしていた事もあり、他宗派の人の参拝

悟迹の休歇なるあり

 禅宗では仏法は言葉で伝えることが出来ないとする不立文字という考え方をしており、それゆえに座禅の実践による心の伝承が重要視されます。日本の曹洞宗の祖である道元禅師の代表的著作である正法眼蔵はそんな禅宗にあって、文字で禅を伝えようとした作品と言えます。文字で表された禅と言えば難解で一見すると意味不明ないわゆる禅問答である公案集が思い浮かびますが、正法眼蔵は具体的で実践的な内容です。しかも、かなりの大著で未完です。道元禅師がいかに言葉を尽くそうとしていたかが偲ばれます。  悟迹の休歇なるありは、正法眼蔵の第一現成公按に出てくる言葉です。この文の悟迹とは悟りの跡のことで、休歇は休むことです。悟りを開いた時に悟りを開いた痕跡をみて悟ったのだと思えばそれはもう悟りではありません。自己の認識で物事を理解しようとするのが間違いで自己を縁起のなかの空だと観て自分自身がなくなり、自分とはこんな存在だという思い込みも全てが脱落したときが悟りであるから、悟りは継続的な禅そのものとなります。だから生活の全てが禅の修行である必要があるのです。  不立文字の禅をあえて文字化する道元禅師の試みは僧侶の教育の効率化に寄与しました。悟迹の休歇なるありという結果に執着せずに行動に集中する姿勢は現代のスポーツにも通じるところがあります。鎌倉時代、禅は武家を中心に広がっていきましたが、高度な鍛錬を要求される武士にも親和性が高かったのでしょう。  19世紀末イギリスの高名な(悪名高い?)某魔術師も、結果ばかりを求める欲望から解放され妥協されること無い目標に向かう純粋な意志こそ完全なのだと言っていましたが似ているものがあります。日々精進して行きたものです。

足るを知らず

 人間は歳をとってくるとだんだん欲が少なくなる場合が多いです。あれもこれもと望んでも全てが思い通りにはならないことを長い経験の中で思い知らされているからです。だんだんと諦めてくるのです。小生も買ったけど読んでいない本を全部読破する野望はもう諦めました。  死の間際になって、まだまだアレもしたいコレもしたいと言っても詮無いことです。歳を取ると諦めるものが多くなりがちですが、逆に言うと若いとまだまだやりたいことが多いのが普通です。その無念さを思うと若い人の死はいたたまれないものがあります。  仏教では貪りや怒りを嫌って足るを知れとはいいますが、希望や野望に燃える若者や、遊びたい盛りの年端も行かぬ子供らにそんなことを言っても納得できる人は少数でしょう。また、幼い子を残して死ぬ親に後のことは心配するなと言っても無理でしょう。高齢者も欲は減っても何かしら思い残すことはあるでしょう。  現実的には死を前に足るを知ることが出来ない人の方が多く、その時が来たら好むと好まざるとに関わらず後事は誰かに任せて祈るしかありません。ただ、死ぬ間際にそういう思いを巡らせることができればまだいいですが、不慮の事故や睡眠時の心臓発作などで何も考える間もなく死んでしまうこともあります。だから定期的に死を思う習慣は必要なのだと思います。  朝晩にお仏壇に手を合わせる時に、ご先祖様とともにその死を思えば今を生きる私達も時間を大切に出来ることでしょう。

仏教系教育機関の不祥事

 江戸時代は読み書き計算を教える寺子屋が日本の教育水準を上げるのに役立ちました。寺子屋が一般化する前でも、浄土宗の呑龍上人は貧しい子を自分の弟子という名目にしてお寺で養い餓死から救い教育も施すなど、寺院は子供の心身の教育に重要な役割を果たしてきました。明治維新後も、寺子屋をそのまま活用して学校にする例もありました。日本の仏教諸宗派も徐々に仏教系の幼稚園や小中高大学などの整備をしていきました。小生も曹洞宗系の幼稚園を卒園しておりますが、幼児の頃から仏教の精神に触れられたことは貴重な経験となりました。  しかし、昨今では仏教系の教育機関での横領事件やパワハラなどがしばしば聞かれるようになりました。嘆かわしことです。尤も、昔は露見しなかっただけの可能性はあるので一概に昔の方が良かったとは言えませんが、表に出た悪を断ち善を育てるのは仏教徒としてなすべき精進です。  特に幼稚園児や小学生の児童にとって、表ではありがたい教えを説く先生たちが裏で酷いことをしていると知れば受けるショックもより大きいことでしょう。教育関係者は気を引き締めてかかって欲しいです。また、不祥事は隠蔽せずに適切に処理するように願います。

中元

 お中元の季節です。お中元は年の前半の感謝を込めてお世話になった人に贈り物をする日本の風習です。しかし、元々は道教の神様の誕生日です。三国志でも有名な道教系宗派の五斗米道の天と地と水の神である、上元天官、中元地官、下元水官の三官大帝が元になっています。五斗米道ではこの神様たちに罪を懺悔することで病気が治癒すると考えられていました。  この内、中元地官の誕生日が7月15日です。中元地官は漢土の伝説の皇帝である堯舜の舜の方で、地獄の王ともみなされていました。これに同じく漢土で始まった盂蘭盆会ことお盆の仏教行事が結びつきました。また、日本では盆礼と言ってお盆の時期に贈答品をやり取りする風習があったのが習合して現在のようなお中元の風習になっていたと言われています。  この為、今でも7月15日頃がお中元の時期となっていますが、旧暦に近い月遅れの8月15日を中元のシーズンと考える地方も多いです。お引越しの際などには注意しましょう。  お中元にも悠久の歴史があるのです。しかし、主人公の中元地官は忘れられがちですので、お中元のシーズンに中元の神さまの誕生日をお祝いし、自分の罪を懺悔するのも良いかも知れません。ちなみに上元天官の誕生日は1月15日、下元水官の誕生日は10月15日です。

自灯明・法灯明

 自灯明・法灯明はあまりにも有名なお釈迦様の遺言です。自分と仏法を拠り所として修行に励むようにという意味です。仏教では生活の全てが修行ですから、自分の頭でちゃんと検証された事実をよりどころとして生きろも読めます。  例えば何かの行動を選ばなくてはならない時に、偉い人がそうした方がいいよと言ったとしても、自分の頭で情報や事実を分析して結論を出すべきなのです。誰か偉い人が言ったからとかそうしたという言い訳はしてはいけません。判断に必要な時間がどうしても足り無くて権威者の言うことを信じたのなら、結果がどうあれその権威者を信じるに足るとみた自分の決定にこそ責任はあります。  昔と違い様々な知識が恐ろしい勢いで明らかにされている現代では、全ての学術分野が専門化されてしまい、その全てを一人の人間が理解することは不可能です。それ故に人を見る目は重要となります。また、物事が専門化されたとはいえ、ある程度の要約はプレゼンテーションされていますから、こうした情報を正しく冷静に読み解く技術も必要となります。少なくとも科学的な話をしている場でバイアスが強すぎる煽りが入った文章は警戒すべきです。感情的な煽りに乗らず偏見を除き中立的に観るという姿勢は仏教徒なら守りたい基本です。  とはいえ、専門性の高い話に関しては誰かの説明内容を全て実験して検証するのは困難であり、利害関係の異なる多数の研究者が追試や調査を行い問題ないとしたのであれば、信じるに足るとみて問題ないでしょう。陰謀論者が言うような、世界中の科学者が一致団結して口裏をあわせ悪いことを企んでいるという可能性は無視していいレベルに皆無です。  こうした判断の上に、何かしらの権威者の意見を信じるのは別に構わないのですが、それは必ず実在の権威者であるべきですし、定期的に信じるに足るのか検証されるべきでもあります。  もし、自分に都合のいいことを勧める架空の権威者を妄想してしまえば、あとはひたすらに迷いの道に突入するだけです。例えば、二・二六事件は皇道派と呼ばれる軍人らが中心となっておこされたクーデター未遂事件ですが、彼らは昭和天皇の周囲にいる君側の奸が政治をダメにしておりこれらを除けば理想的な社会になると考えていました。この時に事件を起こした首謀者らが思い描いた天皇陛下は実際の陛下とは乖離した単なる妄想です。自分らの妄想する権威者が自分たちを

仏身

 仏教上の大罪とされる五逆罪の中に仏身を傷つけて出血されることがあります。他の五逆罪の内の三つは、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(仏教の聖者)を殺すことであり、殺人罪と傷害罪が同列に語られているのは、仏と尊属・聖者と一般の衆生の命の重さに差があるのかと言う問題があります。出家者限定の最重罪である波羅夷の中には殺人も含まれており、こちらは殺される対象で罪が変わることはありません。  それはさておき、仏身を傷つけ出血させうるのは仏が肉体をもってこの世にいる時だけです。お釈迦様が入滅して以後は実行不可能な罪です。傷をつけて出血するのは肉体を持つ身だけだからです。肉体を持つお釈迦様がいなくなって以降の仏教教団では、お釈迦様の肉体を色身あるいは生身と呼び、お釈迦様が残した教えが集約された概念も法身として仏の身と考えました。  つまりお釈迦様在世の頃は仏身といえば人間としてのお釈迦様だけだった訳ですが、入滅後は肉体とは別に仏法も法身という仏身だと考え、二身説が出てきたことになります。その後、法身は真理そのものと考えられ、何らかの固有名詞を持つ我々が普通に認知する仏は報身という色身とは別の存在が考えられました。大乗仏教から表れた多くの如来たち、例えば阿弥陀如来や薬師如来も現世に肉体を持っていないので色身としては考えられないからです。報身の報は、修行の結果その業の「報い」として仏陀の特性を備えた身ということです。そして、人間のお釈迦様のように肉体を持ってこの世に現れれば応身と呼ばれるようになりました。応身の応は衆生の願いに「応じて」この世に出現した身ということです。現代でも多くの大乗仏教宗派では仏身は、法身と報身と応身の三身と考えられています。密教系では全ては真理そのものである法身から表れた身で、その法身こそ大日如来だと考えています。

一念三千

 天台宗の瞑想教本的な「摩訶止観」で、心がすべてでありすべてが心であるという趣旨のことが説かれている。天台の流れを汲む日蓮宗が重要視していることでも有名な一念三千の考え方だ。  この一念三千の考え方を前提に、自身の心を観察することが天台風の瞑想の基本で、心を観ることで世界をみることになる。この心は移ろい行く実体のない空であり、同時に仮の存在であり、空と仮は真理を別の側面から観ているだけだからどちらにも偏らず中道として観ることも出来る。これら空、仮、中はそれぞれが真実であり一つであると観る一心三観で一念三千の世界をとらえる訳だ。  この一念三千は心がすべてですべてが心であるとはいえ、心によって全ての世界が作られたわけでもなければ心が全ての世界を含むわけでもなく、心が世界の全存在であり全存在が心であると考えており唯識論に通じるところがある。  さて一念三千の世界の三千の内訳は次の様になっている。まず、仏教で生き物が輪廻転生を繰り返すとされる六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、天界)と、その上に聖者の世界である四聖(声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界)のあわせて十界がある。この十界のそれぞれの中に更に十界があるとされている。つまり、仏界の中には仏界にとどまらず仏界のなかの地獄界や仏界の中の人間界もあることになる。仏も地獄の罪人や人間に対して慈悲の心をもっており無縁ではないからだ。人間も怒りや貪りに満ちた地獄や餓鬼のような状態であることもあれば、慈悲深い菩薩のような状態だってあるので、人間界の中の地獄界や、人間界の中の菩薩界だってある。十界がそれぞれ十界をもつのでこれで百の世界(法界)があることになる。これを十界互具という。この各々の世界に対して、それぞれ三つの世間が加わる。各世界の心身は般若心経でもおなじみの色受想行識の五蘊(物質と感受から認識までの心作用)で出来ているとされるから、身体の存在する五蘊世間が存在し(※)、それぞれの人が関わり合う衆生世間もあり、その環境となる国土世間が存在する。なお、十界の内の四聖に現れる国土世間が浄土となる。最後に法華経で説かれる世界の真実のありようである諸法実相を示す十如是がさらに加わる。十如是は、相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等で、それぞれの意味は、相が外から分かる特徴、性が性質のことで仏性、体は心身そのもので、作

仏像に拝まれる人

 20世紀の仏教ブームの火付け役で臨済禅のみならず日本仏教界の泰斗であった故松原泰道禅師が、ある日のことお寺に参詣に来た子供から質問を受けます。そのお寺の観音様は合掌されているお姿だったのですが、観音様にお参りした子供は自分の方を向いて合掌されている観音様は何を拝んでいるのだろうと疑問に思ったそうです。この質問に対して禅師は、その子供の中に観音様から拝まれる心があるのだと説明しました。  祈っている形状の仏像は、たしかに参拝した人の方をみて拝んでいるように見えます。松原泰道禅師の言うように考えれば、参拝した人は自分が拝まれているという認識をもって、それに恥じぬように精進しようという心がおきることでしょう。一方で、例えば観光化した古刹などでは美術品を見るようにこうした仏像を眺めるだけだったり、足早に通り過ぎるだけの人もいますが、そんな人達もこうした仏像は拝んでいる形となっています。前を通り過ぎるだけの人にもその中に仏心をみて敬意を示す仏や菩薩がいるのです。その姿から学ぶことは多いです。  世の中はとんでもないことを言ったりしたりする人が多くいます。そんな相手についつい怒りたくなることもありますが、観音菩薩のように相手の中にあるはずの仏心に敬意をもって望みたいと思います。

たまには明るい展望を

 今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミックのみならず、デマで人を騙して金を稼ごうとする輩は、世間が不安に満ちている時によく現れる。人間は往々にして自分に都合の良い話を信じる傾向が強い。それゆえに多くの人に不都合な環境では、貴重な都合の良い話を供給する人に騙される被害者が増える。被害者は救うべき対象であると同時にデマに騙され社会に害をなす脅威でもある。実に困ったものだ。やはり、デマを煽り商売のネタにしている人達をどうにかするしかないが、歴史を振り返れば彼らはずっと存在し続けてきた。今後も絶滅することは無いだろう。  だから、デマをふりまく人達の殲滅に注力するよりは、冷静に物事を判断できる人を増やした方が効率的だ。正しい情報や考え方を繰り返し人々に伝え、公衆衛生や社会の治安に寄与する地道な活動を続けることで、デマに騙される人も減るだろう。  実際に妄想を垂れ流し暴力行為に及ぶ人もいるが、度が過ぎた人間は警察に逮捕されるし、デマに操られている人は声が大きいから数も多く見えるだけで大した数ではない。社会の大多数は実は理知的なのだと言える。オリンピックも無観客の方針となったのは、政治家が次の選挙を恐れて国民の多数派の意見に屈した証でもある。飲食観光業については経済的な補償が不十分で改善の余地が大きいが、一部で言われている様にみんなが感染のリスクを軽視している訳ではなく、生活がかかっているのでやむにやまれず可能な限りの感染対策を実施して経営している方が多い。そもそも、コロナ自体を嘘だと信じているのなら店を開けるに際して感染対策などするまい。  まだまだ困難な状態が続くだろうけど日本はデマなんかに負けはしない。

軽々しく

 影響力のある人間は軽々しく他人の憎悪を煽るべきではない。重々しかろうが影響力が無かろうが煽ってはいけないが、影響力のある人間が煽る憎悪は本人が意図しない効果を発揮する可能性が高い。言葉は慎むべきだ。  何かの計画が潰えた時に、その責任者が責任を取らず他の誰かが悪かったかのように言って自分は悪くないと声高に主張するのは醜悪だ。そしてそれを信じた支持者が過激な行動をとっても、そんなつもりじゃ無かったと言い逃れするのだ。多くの支持者がテロ行為を含む過激な行動をとれば、今後その集団が何かするときに迂闊に批判も出来なくなる。そして、これらは支持者が勝手にやったことだとして責任者は永遠に責任を取るつもりはない。美味しいところだけ持っていく事ができる。責任者がそれを狙ったのかどうかは知りようもないが、疑われも仕方ないだろう。  こうした暴力行為を用いれば多くの市民を恐怖で黙らせる事が出来るだろうが、いずれ社会から反撃を受ける。少数の暴力主義者が勝利を収めることは殆どないし、勝っても長続きはしない。責任者が煽り狂信者が暴力行為に走ったせいで、当初の計画に参加していた人の内の非暴力的な普通の人まで社会から断罪されることだろう。その過剰な反撃は新たな恨みを生み報復の連鎖は止まることを知らない。  こうした恐ろしい事態の発端となりうる影響力が強い人間は発言する前にその内容を慎重に吟味すべきだ。影響力が強い人間は往々にして、自分の影響力なんて大したことないと謙遜するが、そんなのは自分の発言で何かが起きた時に責任を取らずに済ませるための予防線に過ぎない。世の中の弱い人間は権威の言葉を口実にどんな過激な行動も取りうる。殺人も自殺も窃盗も何もかも、責任が自分に無いと言う簡単な言い訳があるだけで人はいとも簡単に犯罪に手を染める。アメリカの議会占拠事件を見れば明らかだ。責任をトランプ前大統領やQアノンに転嫁できれば、ロクな証拠が無くても人は過激な行動に出る。そして、トランプ前大統領もQアノンもその責任を取らない。  恐ろしいことだ。

大食

 サンユッタニカーヤに王様の大食を戒める話が出てきます。食糧事情が良くなかった昔でも王侯貴族や富豪の中には食べすぎで健康を害する人がいたようです。さて、この話で無事にダイエットに成功したコーサラ国王パセーナディは、釈尊が現世の利と来世の利で自分をあわれんでくれたと感謝しています。現世の利とは食事療法で健康を取り戻したことで、来世の利とは貪欲の煩悩を制御することで苦を弱める因を得たことを指すと思われます。  今日の日本では飢餓よりも食べすぎで健康を害する人の方が多いですが、経済的社会的事情から本当に餓死する人も稀にいます。気の毒なことです。一方で、十分な食料がありながら精神を病んだ結果として食事を拒否する拒食症こと神経性食思不振症も命の危険がある深刻な病気です。この状態は貪りが無いのではなく、異常なヤセの状態を良しとする妄執を貪っている煩悩に満ちた状態であり、同時に自身の身体を傷つけ命を危険に晒すという罪を犯しています。さらに自分の妄想を邪魔する物には激しい怒りで報いるというなんとも恐ろしい病気です。  何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。苦行でやせ衰えた釈尊もスジャータから乳粥をもらい体力を回復し瞑想に挑めたからこそ悟りを開けたのです。栄養は適度に摂りましょう。    

探湯(くかたち)

 中世ヨーロッパの魔女裁判で、被疑者の手足をしばり水の中に放り込んで浮かべば有罪と判断され処刑、沈めば無罪として助けられる事になっているが大体は溺れ死んでいるという悪名高い神明裁判の例がある。古代日本にも似たようなものはあった。探湯(くかたち)だ。  探湯は被疑者に身の潔白を宣言させてから煮えたぎる湯の中に手を入れさせ、被疑者の主張通り無罪ならば火傷を負わないとするものだ。五代の天皇に仕えた忠臣として名高い武内宿禰が弟の甘美内宿禰の讒言により応神天皇から誅殺されそうになった時に探湯による裁判で無罪が証明されたとの伝説がある。  もちろん、普通に煮えたぎるお湯に手を漬ければ火傷を負う訳で武内宿禰の件はそういう事があったと口裏を合わせたか、何らかのトリックを用いたものだろう。  応神天皇は讒言にのせられて自分の祖父、叔父、両親にも仕えた忠臣を殺そうとしてしまっていた。また、応神天皇の母である神功皇后にも助力し三韓征伐を戦った壱岐氏の祖である真根子は武内宿禰の外戚でもあり容姿が似ていた事から、応神天皇のよこした使いに対し自身が武内宿禰であると偽って自刃し本物の武内宿禰が弁明に行く時間を稼いだ。既に国境を守る有力な氏族の者が命を落とす一大事だ。応神天皇も単に間違ってましたごめんなさいとは言いづらく、劇的な演出を要していたのは間違いない。探湯なら神の力による判断なのだからちょうど良かったと言える。実際に応神天皇に対し武内宿禰がどんな弁明をしたのかは分からないが、とにかく武内宿禰は探湯を行うも火傷をすることなく無罪となった。  一方、応神天皇を謀った甘美内宿禰は同じく探湯で火傷を負い有罪が確定した。甘美内宿禰は兄の武内宿禰に殺されそうになるが、応神天皇の命令で救われ武内宿禰の妻の実家である紀伊国造家の奴隷となった。なお武内宿禰とこの妻の子である紀角が名門紀家の祖であるとされる。  口封じするならば甘美内宿禰は処刑した方が良かったはずだが生かしておいたのは応神天皇こと八幡大菩薩の慈悲の現れだろうか?探湯にしても致命傷とまではならないだろうから、はじめから手心が加えられていた感もある。  ともあれ、探湯は普通に行えば確実に火傷を負い有罪とされてしまう。それを無罪とする演出には政治的意図を感じざるを得ない。また、相手を問答無用で有罪する場合にも使えるだろう。無罪となった例が存在すると

龍神と三熱の苦

 三熱の苦とは、仏教において竜が受けるとされる三つの苦を指す。有名な源信の往生要集の中にも「竜衆は三熱の苦を受けて昼夜に休むことなし」とある。さて、その三つの苦とは、熱風や熱砂で身を焼かれること、悪風により住居や衣服が奪われること、金翅鳥に食われることの三つだ。金翅鳥はガルダのことで、翼間長が336万里(※)にもなると言う伝説の大鳥で口から火を吹き龍を食うとされ、一部では梵天の化身ともされる。元々の三熱の苦は畜生界で龍や蛇が受ける苦難とされていたが、日本では龍神にもその影響があると考えられていた。  仏教で最も有名な龍神と言えば護法の神である八大龍王であろうが、仏道修行に勤める龍王は三熱の苦を受けないと伝えられている。しかし、仏教の修行をしない龍王については三熱の苦を受けるとされており、これらの非法行の龍王は人々が善い行いをしないと五穀を実らせなくするなどの災いをもたらすとされる。真言宗の龍王講式という降雨祈願の術式では、僧侶の祈祷によって龍神の三熱の苦を取り除くことの返礼として降雨をお願いする形式をとっている。人の、もとい神の足元を見るとは中々いい度胸だとも思うが、非法行の龍王にとってこれが仏縁となれば善いことだろう。  水を司るとされる龍神への祈りは干魃のときの雨乞いの儀式が多く伝わっている。逆に水害時の止雨の祈りに大掛かりな儀式がされたとは寡聞にして知らない。これは干魃は日照りが続き困っても儀式の準備は出来るが、水害については特に天気予報が未発達だった昔においては突然起きるものであるから儀式の準備をする間が無かったからだと思われる。水害時には、差し当たり龍神に限らず被災者自身の信仰する神仏であったり避難先の寺社の神仏に止雨を祈ることが多かったようだ。古い寺社は長年の間に起きた様々な災害にあっても残って来たのだから、地域のより安全な場所に建っている可能性が高く避難場所としてはうってつけだ。長年の水害に耐えてきた寺社の主に祈りたくなる気持ちはよく分かる。また、観音経の影響もあって水難にあっても助けてくれるとされる観音菩薩に祈る人も多い。  実際のところ、祈ったところで雨が降ったり止んだりする訳では無いが、物理的に出来る対策をしつくした時は不安でイライラしがちであり、祈ることによって精神を安定させる効果はあるだろうし、落ち着けば良いアイデアが浮かぶかも知れず、また極

ウルムチ事件と日本

 2009年7月5日は中国当局らによるウイグル人虐殺事件であるウルムチ事件がおきた日です。正確な犠牲者数は不明ですが数千名のウイグル人が命を落としたとの説もあります。この事件の前年の2008年には北京オリンピックに向けて中国当局によるチベット人虐殺事件が起きていた事もあり世界が中国に注目している中の事件でした。これに対して世界中の人権活動家のみならず多くの一般人も中国政府の暴虐に対して抗議の声を上げました。日本でも多くの市民団体が抗議活動をしましたが、ウイグルの状況はその後も悪化の一途をたどっています。  有名な事件なので仔細の説明は省きますが、この事件以後あきらかに中国によるウイグル人の民族浄化政策は加速しており歴史のターニングポイントなる事件でした。  ウルムチ事件に対して2009年の時点では日本でも多くの人権意識の高い人達が抗議活動を行いましたが、当の在日ウイグル人の抗議参加者はごく少数でした。その他の多くは故郷に残して来た家族に累が及ぶのを恐れて沈黙を保っていました。活動するウイグル人が少数であったこともあり、当時はそれを利用しようと怪しげなカルト教団や右翼や一部左翼がそれぞれの思惑で介入し大変でしたし、ウイグル人の中でも変な人はいましたし、しばしば内輪もめもありました。しかし、その後12年で中国の占領下のウイグル文化はほぼ破壊し尽くされ、家族の安否も分からぬ人が増えました。もはや失うものが無くなった在日ウイグル人たちは行動しはじめており、その結果として活動は以前よりも健全化しているように思えます。  中国の占領下で、ウイグル人は母国語の教育を禁止され中国語を使わされて、大半の男は強制収容所に送られ、女性は漢人との結婚を進められ、伝統文化の数々は禁止され中華風の文化を強要されて、ウイグル人の子供は中国人として教育されています。21世紀の今、ナチスドイツですらなし得なかった民族浄化が完成しようとしています。  こうした非道を避難する国会決議が先の国会で出されるはずでしたが、与党公明党ただ一党の反対により潰えました。自民党も本気でやる気がなかったようですが、明確に決議案に反対したのは公明党のみでした。選挙民はこのことを忘れてはいけないと思います。

廻向と安らかな社会

 仏教の基本は縁起です。何事にも原因があるとする考えです。だから、善いことをすると善い結果を生み、悪いことをすると悪い結果を招くことになります。そして、この世の全ては究極的には苦しみであり、苦しみの原因は怒りや貪りや愚かさの煩悩であるから、これらの煩悩を消滅させたら苦しみも生まれなくなるという思想です。  ところが、自分が善いことをすれば自分に善い結果が生じるから善いことをして、自分が悪いことをすれば自分に悪い結果が生じるから悪いことをしない、という考えでは煩悩を滅することは出来ません。自分に善い結果が起きるようにと貪る心が自分に良い行動を取らせているだけだからです。このため、自分が行った善い行いの結果から生じる善い結果を自分以外に振り向けて自分への執着を捨てようとする考えが生まれます。この自分の善行の功徳を何かに振り向けることを廻向といいます。死者の冥福を祈る追善供養もこの考えから行われます。  自分の善行の功徳を、自分の利益でなく悟りの為に振り向けることを菩提廻向、他の人達を救うために振り向けることを衆生廻向、自他の区別や廻向というこだわりから脱して仏の理にかなった善行を積んでいくことを実際廻向といいます。原因と結果が一対であるならば功徳を他に振り向けることがそもそも可能かどうかという疑問もあるでしょうが、廻向の精神は我執の心や物事をありのままに見ずに分別してしまう心から離れる考え方でもあります。自利と利他が同義となった人にとって自分が積んだ善行で他人が幸せになることは自分の幸せでもあり、やがて自他の分別にこだわらずに善行を積むようになるのです。こうして我執が無くなると功徳は世界全体に及ぶことになるから廻向は可能と言えるでしょう。  とはいえ、廻向ではどうしても自分の功徳を振り向けるとの意識が強くなりがちで注意が必要です。この対策として例えば浄土教では如来からの廻向が私達に届いていることが強調されます。他者の功徳が自分に廻向されているとの意識を持って感謝するのは大切です。多くの人がその善行の功徳を差別なく振り向けているのだと考えると、自分にも多くの人や仏の功徳が廻向されている事になります。それは、どの人から見ても同じであり、皆が廻向の精神を発揮すればお互いが助け合う安らかな社会が実現することでしょう。

政治家の病気や怪我

 政治家の健康問題は次の選挙の得票に直結する。高齢過ぎる候補者が不利なのもこのためだ。しかし、若くても病気や事故はいつ降りかかるか分かったものではない。それ故に、政治家は自分の理念を継ぐ後継者の育成に励むのが常だが、もし後継者に関して何の準備もしていない政治家が死んでもそれは政治の継続性の喪失を意味しない。その政治家を支持した選挙民は似たような政治家を支持するだろう。政治家の意志と言うものはその政治家個人の命をもって終わらず次の世代に伝わる。ただしこの件に関しては、政治家により育成される後継者の大半は血縁者や秘書などであり、後継者指名を受けていれば選挙では圧倒的に有利なので、それが民主主義的かという意味で問題があると言える。しかし、ともあれ政治的な継続性は本人の生き死にに関わらず保たれる。  また別に選挙を待たずとも、行政の長たる政治家が病や怪我に倒れてもバックアップするシステムはある。副首相や副知事や副市長や副区長や副町長や副村長はその為にいる。より末端の政治家や行政職員が倒れても代わりはいるし、何らかの事情で大きな欠員が出来ても議会が機能していれば新たに選出しあるいは人員の補充も可能だ。病弱な首長が次の選挙で勝てるかどうかは別問題として、だれかが倒れたくらいで機能しなくなるような行政や社会は制度的に欠陥がある。独裁制ではトップが倒れれば大混乱だろうが、幸いに日本は独裁国ではない。誰しも病気や怪我はするのだから、首長が倒れても治療に専念してもらって人々がその快癒を祈ることが出来るのがよい社会だ。  首長が病気や怪我をするとはけしからんなどという批判は日本を独裁国か何かと勘違いしているのではないだろうか?また、首長の政治的思想が気に入らないからと、病気の人に対して「そのまま死ね」とか言ってしまう人もいるが、これも嘆かわしい。たとえそれが悪逆非道な独裁者でもあっても、病気の快癒を祈るのが人として守るべき道徳というものだ。もっとも、独裁国では国民がこぞって言わされるのではあるけど、政治信条への批判と病気や怪我などは別に考えてもらいたいものだ。昔、某右派議員の選挙カーが交通事故を起こした時に、知人のSNSアカウントで「ちっ生きてたか」などとのコメントでみなさん盛り上がっていたので批判したところ右翼扱いを受けたこともあったが人の心の荒廃は実に恐ろしいことだ。

チェンバレン

 昨日、中国共産党結党100周年記念の日に際して日本の主要な政党が次々に祝辞を送る中、日本共産党、国民民主党、日本維新の会は祝辞を送らなかった。日本共産党と中国共産党は昔から仲が悪く去年1月には日本共産党の志位委員長が 「中国の党は、『社会主義』『共産党』を名乗っているが、その大国主義・覇権主義、人権侵害の行動は、『社会主義』とは無縁で、『共産党』の名に値しない」とまで言っており当然の対応だろう。国民民主党は概ね旧民主党右派勢力が母体であり、はじめから右派的である日本維新の会とあわせて共産党と距離を置くのはこちらも当然と言える。一方で、その他の主要政党はこぞって祝辞を送った。このうち中国共産党に融和的な左派の立憲民主党や社民党が祝辞を送るのはまあさもありなんと言ったところだが、少なくとも建前上は独裁制に反対し自由と民主主義の政党を標榜している自由民主党までが祝辞を送ったのは平和を愛する世界の諸国民への背信行為だと断言せざるを得ない。また中国を非難する国会決議をただ一党で反対し廃案に持ち込むことでウイグルや香港の人権蹂躙を許容する立場を鮮明とした 公明党もまた 「一つの政党で100年を迎えること自体、なかなかないことだ。なお一層、世界の平和と発展、安定のために力を尽くしていただきたい」とまで言う祝辞を送って中国共産党を礼賛していた。こんな政党が日本の政権を握っている事に恐怖を覚える。  これらの政党の国会での議席数をみても分かる通り、日本の政治家の大半は中国共産党に甘いと言える。そこで思い出されるのがチェンバレンだ。  ネヴィル・チェンバレンはイギリスの第60代首相で、第二次世界大戦前のドイツのヒトラー政権の領土拡張や各国への介入に融和的に対応し、ヒトラーの要求を次々に認めて戦争の回避に努めた。当時、チェンバレンは英国だけでなくアメリカなどでも平和の使者であるかのようにもてはやされた。もちろん チェンバレン自身も平和の為にとこうした宥和政策を行ったのだろうが、その結果としてナチスによって弾圧された人々の人権や命は犠牲となった。しかも、 チェンバレンのこれらの決定は結局のところドイツが英仏に対抗しうるまでに軍事力を増強する時間と環境を与えただけで、それは戦争の原因となり犠牲は途方もなく増えることになった。 イギリスにチェンバレンさえいなければ第二次世界大戦は起こらなかっ

ヘイトスピーチをする人達の言い分

 ヘイトスピーチをする人達がしばしば言うのは、彼らが叩いている相手も自分たちに対して酷いことをしているということだ。まあ、実際にどこの国民でも何民族でもその中に他を過剰に悪く言う人はいるので、その発言だけを切り取れば相手も悪いとの言い分は嘘とまでは言えない。しかし、だからと言って、なぜに相手と同じようにその国民や民族の全体を叩く必要があるのか?主語や目的語が大きすぎるのだ。また確かに、独裁国家などにおいては権力者の意向を汲んでその社会のほぼ全体が特定の外国を叩くこともある訳だが、それはその国民や民族が悪いと言うよりは体制の問題であり同じ土俵に乗っても意味がない。粛々と反論し、他国の国民までそうしたヘイトに乗らないように政治的文化的対応をするしかない。  ヘイトは基本的に主語と目的語が大きすぎるので、議論としては無理筋すぎる。なのでヘイトをヘイトで返しても状況の改善には役に立たない。やっている人達の溜飲が下がる程度の効果しかない。幼稚園児の喧嘩の方がなんぼかマシなくらいだ。何者かがヘイトを仕掛けて来たら、ヘイトで返すことはせずに理詰めで相手がヘイトスピーチをしている事を広くしらしめて、大義名分を確保してから交渉した方が良い。もちろん交渉相手はヘイトの活動家では無く、政府などになる。ヘイトを取り締まらない政府はその責任を問われるので、国の不手際は外交のカードとなる。ただ、ヘイトをする方も全く無関係な国や民族を突然悪く言うことは無く、取り締まりが甘いのであれば何かしらの意図はあるだろう。  こうしたヘイトは国家や組織の利害の不一致に原因がある場合が多い。とても関係が良好な二国間においてはお互いへのヘイトはほとんどない。だから対立する両陣営の利害の問題が解決すれば概ねヘイト問題も解消する。ヘイトはあくまでも煽りだと思っていい。逆に政治的に解決不能な対立を抱えている二国間においてはヘイトはとても発生しやすい。しかし、ヘイトスピーチが問題の解決に寄与しないのであれば、その蔓延は余計な犯罪を増やすのみなので、治安当局としてはこれを取り締まるのが妥当だ。独裁国においては民間を煽ってヘイトクライムを誘発させ、それを政治的に利用することもあるが、倫理的に邪道で許容できない。  こういう理由で、ヘイトスピーチをする人達の相手も悪いという言い分は、だから何?という程度の意見しか無い。なんと