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2月, 2022の投稿を表示しています

プーチンの核恫喝

 プーチンが核兵器の使用をほのめかしている。相互の核兵器使用の抑止ではなく、現状変更の脅しに核兵器を用いるなど控えめに言って常軌を逸している。今現在侵略しているウクライナに対してだけでなくNATO加盟国にも核による恫喝を行うのだからマトモではない。今回使用される恐れがあるのは戦術レベルの核兵器とはいえ、かかる暴挙は容認できない。  こうした時に、命が一番大事なのだからプーチンの恫喝どおりに言うことをきくべきだなどという人は必ず出てくる。だが、そんな狂った要求をしてくる人間が支配する世の中で粛清に怯えながら奴隷のように生き死にするのは、当座の命が助かった代償として果たして適切だろうか?要求を飲んだあとに民族浄化されるくらいなら抵抗した方が良いのではないだろうか?抵抗としても戦いたくないのなら少なくとも不服従の姿勢はとるべきだ。明らかな悪をのさばらせてはならない。  もちろん対話も必要だが、ロシアから見た対話なんて核兵器使用のカードをちらつかせながらの脅迫に過ぎない。言うことを聞かなければ殺すというスタンスに何ら変わりはない。近日ベラルーシ国境でウクライナとロシアの対話が行われる予定だ。もし、ウクライナが理不尽な要求を飲めば、ロシアは核恫喝をどんどん活用するようになるだろう。ウクライナが屈せずにすむためにも、平和を愛する諸国民は積極的にウクライナを支援すべきだ。世界はファシストどもに負けてはならない。

職業差別反対

 ウクライナのゼレンスキー大統領の元職がコメディアンだとして、馬鹿にする差別主義者が散見されるが、コメディアンで何が悪いのか?実に馬鹿馬鹿しい話だ。少なくとも今のところは彼は立派な大統領だ。敬意に値する。もし元職を批判するなら国民を監視し場合によっては暗殺までする秘密警察出身のプーチンをこそ批判すべきだ。秘密警察や反社会組織のような人道に反する職業でもない限りは、職業全体を差別してはいけない。  軍人も日本では差別されがちな職業だが、彼らは平和を守る尊い仕事をしている。世界的には軍人は尊敬される事が多い。世界の中で日本ほど軍人が蔑まれる国も珍しいだろう。今現在、侵略行為を働いているロシア兵も軍人だが彼らは独裁者プーチンの命令を受けているのであり個々人にその責任は無い。独裁制がいけないのは軍が平和維持という本来の目的とは真逆の機能をもつこともその理由の一つだ。  他に職業差別といえば遊女に対するものなどが根強いがこの是否はどうだろうか?仏教の話で言えば、お釈迦様の弟子に元遊女がいたのは有名な話だ。仏教では遊女出身だからと言って差別されることはない。戒律もあるので遊女のまま出家することは出来ないものの、これは他の職業でも同じ事だ。なお、お釈迦様在世の頃の人気の遊女はかなりの財産を築いており僧侶の集まりであるサンガに土地の寄進も出来た事を考えると、社会的な地位も低くはなかったのは間違いない。  日本の仏教と遊女にまつわる話では、法然上人が流刑先に向かっている途中で遊女を教化したものがある。この遊女達は阿弥陀仏のお救いにあうが、この話では法然上人も遊女達も遊女の仕事を賎業だとみなしており、少なくともこの頃には遊女に対する社会的な差別は存在したと思われる。同時期の話である平家物語でも、白拍子が有力武士の寵愛を受ける話が見受けられるが遊女と同じく社会的立場は弱いものだった。  現代の日本を含め、売春行為が違法の国々では売春婦は違法な存在であり差別というよりは公的な取り締まりの対象だ。しかし、合法な範囲の性風俗産業や接待を伴う飲食業の従業員である、いわゆる夜職で働く女性達にも根強い差別が残っている。これは夜職自体を賎業と考える人達による差別の他、この手の職業を女性差別や搾取の象徴と考える人達からも迫害を受ける場合があり構造は複雑だ。前者は論外だとして、後者の立場でも夜職の従業員を

有名医師の「反戦」慎重論に異を唱える

 コロナ禍において日々正しい医療情報の提供に従事するネット上の有名人は多い。そんな彼らの中の決して少なく無い一部の人たちが、今回の戦争に対して口を挟まないと明言している。戦争反対とさえも言わないのだ。  彼らの理屈はこうだ。戦争や政治の専門家で無い自分達は、この戦争に関して一体何が正しいのか分からない。だから迂闊に意見を表明すべきではないというものだ。これは一見すると正しいことのようにも思える。  だが、ならば彼らが日々必死になって伝えている正しい医療情報と、誤った陰謀論の修正も同じことが言えないだろうか?彼らの意見は医療者などの専門家以外の人はワクチンや手洗いやマスク着用などに関しての正誤が分からないから判断保留しこれらの感染防御対策を行わないのを是とすると言うのと同じだ。  確かに、戦争開始前から真偽不明の怪しい情報は行き交っている。こうした煽りに反応しないのは大切なことだ。だが今回、ロシアが軍事力をもってウクライナの主権と領土を侵し現状の変更をしようとしたのは間違いない。明らかな国連憲章違反だ。この暴挙に対してすらどちらが正しいのか分からないと言うのならば、彼らは侵略戦争すら条件によっては是認されるという思想を持っていることになる。  もし彼らに、そんな意図が無いのならばせめて「戦争反対」とは言うべきだ。逆にもし彼らえが侵略戦争万歳のマッチョ主義であるならば、あくまでも僕ちゃんは中立ですのなどと言う詐欺行為はやめて堂々とファシズムを賛美すれば良いのだ。

他者を助けてこそ大乗

 例えば目の前に大人から殴る蹴るの暴力を受けている子供がいたとする。放っておけば死ぬかも知れない。こういう状況に行き当たったら四の五の言わずに助けるか警察と救急に連絡するかやめるように諭すなどが人として正しい判断だ。  目の前に大人から殴る蹴るの暴力を受けている子供がいたとしても、いやいや実はこの大人にも何か事情があるのかも知れないし、実はこの子は大悪人なのかも知れないから放っておくのが中立で冷静で知的な判断などと言う人間は本当は賢くない。愚かだ。さらには、この子の親が悪人だから仕方がないとか、この子は差別されるべき民族だから仕方ないとか、バカバカしいことを言う人までいる。  百歩譲って仮にその子が不良で親が悪人で異民族であってもそれがどうした?それが理不尽に殺されそうになっている者を見捨てる理由になるか?慈悲の心はどこへ行った?方丈に籠もり俗世の苦しみを見てみぬふりをすることが仏道か?  仏教の諸宗派は日頃から平和をと言っているのだから、戦争のような惨事がおきれば宗門として公式声明の一つくらいあってもいいのではないか?私は戦争に反対する。

戦争が始まった

 戦争が始まった。ロシア軍がウクライナに全面的侵攻を開始した。実際には8年前から始まっていたといえばそうだが、今回のロシア軍の暴挙を正確に予測していたのは少数派であり世界は驚愕している。  今回のロシアの侵略は明らかに国連憲章に違反しており容認できないが、ロシアは国連安保理の常任理事国であり拒否権を持つ。国連としては有効な対抗処置は取れないだろう。だからといってもし世界がウクライナを見捨てれば、ウクライナと同様の憂き目にあう国が次々と生まれることだろう。では、欧米が全力でロシアを抑えに行った場合はどうか?欧米が介入すれうばロシアは核兵器の使用もほのめかしておりこちらも危険な状態だ。  このような状態で政治判断が難しいのは分かる。分かるが、本日この第一報を聞いた日本の岸田首相はロシアへの制裁に関して明言を避けた。これは明らかに侵略者に利する行為であり情けない限りだ。制裁内容を同盟国と詰めるのは当然としても、制裁を実施する旨をすぐに断言すべきだったのだ。そうでないと、日本は脅しに屈する国だという認識を世界に与える。そもそも法と正義を守る以上の国益があるだろうか?  日本人がウクライナのために出来ることは政府や政治家に陳情する程度しかないが、SNSなどでのつぶやきも無駄ではない。なぜならば、一部の政治家やジャーナリストや文化人などはロシアのデタラメな主張を再生産しプーチン独裁政権の印象改善を図っている。これを放置すれば、日本の有権者の一部もファシズムに同調し日本の国政に影響を与えかねない。  ただ、親プーチンの言論人で驚くベきは、近年のロシアがどんな行動をとってきたか、それを理解した上でプーチンを支持しているという事実だ。ウクライナ東部の傀儡政権樹立も、クリミア併合も、その後も軍事的恫喝も、そうした無茶な行動を全て知った上で「それはアメリカ悪いから仕方ない」というのだ。仮にプーチンの言い分が全て正しくても無理がある。もはや彼らは我々の知る倫理観の外におり、ロシア軍の恐ろしさを超える底しれぬ不気味さがある。彼らの宣伝を放置するのは危険だ。自由と民主主義を愛する反ファシズムの市民は彼ら帝国主義者の走狗に抵抗しなければならない。我々の子や孫に戦乱で苦しむ世界を渡さないためにも今こそが鍔際だと思う。

独裁者が陰謀論者だった場合

 ロシア軍によるウクライナへの侵略を正当化するために昨日行われたプーチンの演説内容を一言でまとめると、ウクライナなんて国は本来は存在せずアメリカの軍事拠点として利用されているからロシアは被害者だという感じの捏造話だった。これ自体も問題だが、プーチンが国内向けのポーズでは無く本気でそれを信じているのなら問題は更に深刻だ。世界を滅ぼしうる戦力が一人の陰謀論者の手に握られていることになるからだ。  どんなに非道な独裁者であっても言葉が通じるのであれば交渉の余地はある。だが陰謀論者との交渉は通常の言語や思考では困難だ。  ユダヤ陰謀論を信じていたヒトラーが何をしたかを思いだすべきだ。しかも現代のロシアの軍事力は第三帝国のそれを遥かに凌駕する。  トランプ前アメリカ大統領も大概だったが民主国であるアメリカには何重もの独裁防止の仕組みがあり、破局的な失敗は犯さずに済んだ。だが独裁国であるロシアではプーチンの気まぐれで何が起こるか分からない。  ウクライナ問題は決して対岸の火事では無い。日本にも親露工作をする政治家や文化人がいる。彼らは自覚の有無に関わらず帝国主義者の走狗だ。日本が戦後に築き上げてきた自由と民主主義をそんなファシストどもに蹂躙させてはいけない。

中立とは

 例えば、強盗が家に押し入り金目の物を全て出せと言ったとする。その時に駆けつけた警察が強盗を捕まえずに、双方の言い分の中間をとって被害者に金目の物の半分を強盗へ差し出すように勧めたらこれは中立だろうか?  例えば、レイシストがある民族を皆殺しにしろと主張していたとする。もちろんその民族は一人だってヘイトクライムによる被害者を出したくはない。そこで仲裁に入った第三者が、その民族の半数を殺すことで決着しましょうと提案すればそれは中立だろうか?  例えば、ソ連時代からずっと東欧諸国をいじめ抜いてきたロシアが、圧倒的な武力を国境に展開してウクライナを恫喝している現在。平和の使者を気取ったジャーナリストはウクライナが身を護るためにNATOに入ろうとしたのがロシアの恐怖心を煽ったのだからロシアだけを責めるのはおかしいと言う。彼らは本気でこれが中立的だと思っているのだろうか?  日本共産党ですらロシアの軍事的威嚇を非難しているというのに、嘆かわしくも一部の仏教関係者はロシアの軍事行動をアメリカが悪いからだと責任転嫁している。どこをどう解釈すればロシア軍の行動を正当化出来るのか理解に苦しむ。仏子たるもの侵略軍を支持するなんてあってはならない。

左派リベラルのロシア擁護論に驚く

 ここ数日、左派の政党や個人により次々とロシアの侵略行為はアメリカが悪いせいだとする論評が発表されている。武力を持って他国の主権を脅かし恫喝する覇権主義的独裁国に肩入れするのが、日頃は自由や民主主義や人権の擁護に熱心な方々だというのは驚きだ。恐らくアメリカが嫌いだから、ロシアの味方をするという単純な構図なのだろうが、その為にリベラルがファシズムを支援するとは笑えない冗談だ。  だいたい、アメリカの強大な軍事力を背景とした外交的な圧力が実際にウクライナにかけられている軍事的圧力や信略戦争よりも非道で強権的独裁国であるロシアの方に理ありとするのであれば、彼らが日々批判し反省している大東亜戦争だって日本は何も悪く無いことなってしまう。先日も書いたが、1世紀前だって国際的に戦争は違法であったのだ。大日本帝国にも言い分はあろうが宣戦布告し開戦したのはどう考えても問題であり、これに関してリベラル勢力が日本が悪かったと言うのは彼らの思想から見ても妥当性がある。故に今ロシア側の主張をそのまま垂れ流すようなリベラルは己の思想に対する背信行為を働いていると言っていい。  この局面でロシアを全面擁護するリベラルは既にリベラルではない。唾棄すべきファシストだ。ロシアを擁護する極右の方がまだ思想的一貫性がある。単にアメリカや日本が嫌いだという憎悪により行動しているのならば思想的には矛盾はないがそんな動機が許されるほど世間はヘイトクライムに寛容では無いし、それもリベラルでは無いと覚えておいてほしいものだ。

兵戈無用

 大無量寿経に兵戈無用という文言があり、武器がいらないとか戦争が無いという意味でしばしば引用されます。この兵戈無用が大無量寿経に出てくるのは「佛所遊履 國邑丘聚 靡不蒙化 天下和順 日月淸明 風雨以時 災厲不起 國豐民安 兵戈無用」の部分で、仏が赴かれるところは人々が教化され平和が訪れるという感じの意味です。要は人々が思いやりの心を持てば武器や戦争は無用になるということになります。  強力な武器と軍隊を持つ思いやりの心のない独裁者が暴れまわっている状況では、武器がなくなることはないのです。武器を無くし、戦争をなくそうというのであれば、これらの無慈悲な独裁者の心を変えなければなりません。  兵戈無用の言葉が使われる時、往々にして暴力で思いのままに世界を動かそうとする人物は批判されず、その脅威に怯える善良な市民に対して彼らを守る武器や兵士を排除すれば良いなどという指摘がなされます。ですが、大無量寿経にあるように、兵戈無用の前提は「國邑丘聚 靡不蒙化」即ち全ての国や地域で人々が道理に沿った知恵に目覚めていることなのですから、兵戈無用をめざすのであれば、まずは暴力と貪欲と怒りに取り憑かれている人を感化せしめる事が重要であり、今から殺されそうになっている人に武装解除を要求することではないはずです。

戦争前夜

 ロシアのウクライナ侵攻が目前に迫っている。軍事的に圧倒的優位にたつロシアが、ウクライナ軍がロシアに攻めてきたなどと言ってまわっているけれども、かつてナチスドイツが宣伝したポーランド軍がドイツのラジオ局を攻撃したからポーランドに侵攻したという話と同レベルで誰も信じていないだろう。ロシアとしては国内向けに、これはあくまでも自衛権の行使であり戦争を仕掛けた訳ではないという物語が必要なのだとは思うがかなり無茶な話だ。  今この瞬間にも戦争回避のために努力をしている人々に敬意を表したい。しかし、近日中に開戦する可能性は強く、そうなってもせめて一般市民への被害が少なくて済むように祈る。また、武力により軍事大国が好き放題にやらかす前例を作ってはならない。  戦争がはじまったら、日本政府はロシアに制裁をするだろうか?日本には国会議員にもマスコミにもロシアの正義を主張し戦争を是とする人達がある程度いる。彼らに流されて日本政府がロシアを支持するような事があれば、日本の信用は地に落ちるだろう。決して独裁者に妥協してはいけない。

戦争に反対する

 ウクライナにロシア軍が侵攻しそうだとの情報が流れてしばらく経つが、この問題に関する日本国内の報道を見ると、決して少なくない人達がロシアの主張そのままに侵略の正当性を唱えるのには驚かされる。  湾岸戦争の昔は開戦避けがたしとの意見を述べた評論家が、あたかも戦争を望んだかのようにバッシングされる一幕もあった。戦争になるという単なる予測すら平和的でないと叩かれていた昔とくらべ、侵略する側の正義を公に強弁し、それを支持する人々がそこそこいるという事実には隔世の感がある。  また、北方領土問題もあるのだからロシアを刺激せずに言うことを聞けばいいのだとする人もいるが、77年も唯々諾々とロシアの主張を受け入れてきた結果、北方領土は帰ってきたのかと逆に問いたい。暴論や暴挙には抵抗すべきなのだ。  なんにしても、ロシアの侵略を絶賛する論調には同意しかねる。戦争反対だ。

五葷が禁じられている理由・アップデート

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 禅宗などのお寺の前にはよく不許葷酒入山門と刻まれた石塔がある。ニンニクなどの臭いのきつい植物や酒は境内に持ってきてはならないとの意味だ。  以前このブログでニンニクなどを禁じた禁葷食について触れたときに、これらが禁止される理由として独特の臭気の他に、強壮作用がある(結果として淫欲を起こすなどの弊害がある)ことを挙げたが、実は歴史学的な視点では強壮作用云々は後付けの理由らしい。  五世紀前半に活躍した曇無讖の訳の「大般涅槃経」では五葷を食さないことで体が臭くなくなれば神や人から褒められるという内容があるものの、強壮作用に関する記述はない。五葷を禁じる戒が書かれている「梵網経」について六世紀に活躍した天台大師智顗が解説した「菩薩戒義疏」でも五葷が禁じられる理由は臭みが教えを妨げるからであった。五葷が惹起する淫欲や興奮が言及されるようになったのは、その後の文献にしか見られないという。  また、上記の大乗版「大般涅槃経」では肉食による体臭が菩薩としての布教の妨げになるとある。衛生状態が今より遥かに劣悪だった時代において食事の内容による体臭の変化はかなり深刻だったのかも知れない。  伝統的に禁じられている事をあえて犯す必要もないが、五葷禁止の理由が臭いだけなら品種改良や防臭技術の発達でクリア出来そうだ。出家でない小生はニンニクやニラを食べても怒られないだろう、きっと。

八風

 八風は愛着したり憎悪することで修行者の障害となる利衰毀誉称譏苦楽の八つのことです。このうち、利誉称楽を四順、衰毀譏苦を四違ともいいます。四順の利はもうけ、誉はほめたて、称はほめしらせ、楽は楽しみで、四順は普通の人なら喜びそうなことです。四違の衰はおとろえ、毀はそしり、譏はとがめ、苦は苦しみで、四違は普通の人なら嫌がりそうなことです。  この八風にあっても心を動揺させないことが賢人であるという内容が日蓮の手紙にも見られることから日蓮宗では特に重視されている考え方です。  これは日常生活でも言えることです。例えば商売をしていたとして、少し儲けた時に全ては自分がすごいからだと思い上がり足もとをすくわれたり、少し損失を出したからと絶望してチャンスを逃したりと、人は成功や失敗よって心が動揺するものです。それにより生じるバイアスを断つことができればなるほど賢人と言っても良いでしょう。

涅槃会

 新旧の暦の問題もありますが、本日新暦2月15日を涅槃会としているお寺が多いかと思います。涅槃会の意義は各宗派でいささかの違いもあります。しかし、お釈迦様の命日に際しその遺徳を偲ぶ報恩の気持ちは同じでしょう。  さて、お釈迦様は遺言として何を残したのかは、複数の涅槃経や法華経などにより様々です。  例えば法華経では、お釈迦様がお亡くなりになったのは方便であって、お釈迦様は久遠の昔から仏陀であり、この世こそがその仏国土であるとされています。この影響で、日蓮宗の信者は自らがこの世を仏国土たらしめるために働く菩薩であるという認識があるので、涅槃会は菩薩としての意気を新たにする日でもあります。また翌日が日蓮聖人の誕生日なので2日連続での大きな行事となります。  また、禅宗系はお釈迦様の遺言として遺教経を重視しています。遺教経の内容は 過去の記事 を参照いただくことにして、この遺言を一言でまとめると「修行をガンバレ」です。だから、気持ちを新たに修行に励もうと誓う日でもあります。部派仏教の涅槃経に近い感じの遺言だと言えます。  浄土教系は阿弥陀如来が中心ですが、お釈迦様は生前に阿弥陀如来に頼むように自ら率先して衆生に説いたとされています。阿弥陀如来が招く方に正しく行くように指導してくれたのですから、お釈迦様は浄土教系諸派でも尊重されています。基本的には浄土宗系寺院では涅槃会を行いますし、真宗系でも涅槃会を行うお寺はあります。涅槃会は念仏の縁に改めて感謝する日でもあります。  真言宗では涅槃会は常楽会と呼ばれます。諸行無常と一切皆苦の世界からお釈迦様が離れ常で楽な涅槃に達したので常楽会です。ネーミングからして密教としての目標を分かりやすく掲げており、日々の修行の励みとなる日でしょう。  これら四宗融合を旨とする天台宗も土台は法華経なので、皆が一隅を照らし良い世の中にしていく決意を新たにする日でもあるでしょう。  全体的にはお釈迦様の遺言に従って修行頑張ろう記念日のような感じの涅槃会です。精進して参りましょう。

カルトの新戦略

 カルトの「新」戦略というほどは新しい話でもないが、オウム真理教やそれより以前のカルト教団の「古い」戦略では、敵対者に対してはしばしばそれと分かる形での脅迫や暴力行為が行われてきた。それをみて恐怖する人達をも黙らせようという魂胆だ。しかし、現代の「新」戦略ではあからさまな暴力行為や集団的な示威行為はほとんど行われない。その代わりに何かしらの権限をもつ少数の人間を、買収するか敵対した場合の被害をほのめかすことで社会的な実利を得ている。  先日カルトを批判した漫画が突然の打ち切りと公開の停止の処分となったが、それに至るまでにほとんどカルト教団からの宣伝は無かった。静かに突然、漫画の編集部が折れたのだ。  また、保守系の社会活動家にもカルトは根深く浸透している。自前の雑誌やメディアに有名な論客や政治家を登場させ、カルトの望む事を言わせる。雇われた彼ら自身は信者では無くても、宣伝効果は高い。  小生が関わってきた東トルキスタン(ウイグル)の問題に関してもカルトの浸透は著しい。ウイグル人を対象とした臓器売買目的の共産党による組織的大量殺人が暴かれた件に関しては、某カルト教団の調査能力による所は大きくその功績は無視できない。だが、彼らは先のアメリカ大統領選挙に際してトランプ候補を支持するデマの宣伝機関と化していたし、コロナウイルスに関する陰謀論も散々吹聴していた。また、教団の名前を伏せて人権問題についての集会を開いておいて、参加者との仲を良くしたところでやおら布教を始めるという古典的だが有効な手段を用いていた。ウイグル問題に積極的に関わるカルト教団は日本では主に2つあり、末端までかなり広範囲が汚染されている。こうした事実により、一般人が積極的には活動に参加しづらい雰囲気があるのは残念だ。嘘だと思われる方は、ウイグル問題に積極的な保守系の論客のTwitterなどを確認してみるといい。その大半がカルト教団と同じく新型コロナウイルスやトランプ前米大統領に関する陰謀論を主張をしているのが分かるだろう。もちろん単に陰謀論を信じている可能性はあるが、日本国民の大半がバイデン大統領が正当だと思い、新型コロナウイルスのワクチン接種をして感染対策をする中で彼らの思想の偏りは明らかに不自然だ。  ちなみにカルトがターゲットとするのは基本的に保守派だ。カルト側からみても宗教を否定する共産主義は相性が

酔っ払うと本性が出るのか?あるいは理性と仏性の話

 酔って不祥事をしてしまう人はまあまあいる。そして、日頃は真面目そうにしておいてアレが奴の本性だったのか!などと批判を受けがちだ。まあ、人間としての知性による抑制が外れ本能に忠実になるのを本性だと言えばそうなのかも知れないが、果たしてそれを人の本性として良いのだろうか?  そもそも本能むき出しの状態が人間の本性だと言うのなら、大体の人間の本性は非倫理的であるに違いない。逆に、本能的な欲求を理性でコントールして考え行動を取捨選択する、その総体が本性であるとするならば、酒に酔った状態は本性ではない病的な状態で、シラフの状態が本性を取り戻した状態だ。  お酒だけでなく、病気や薬物や異常な環境に暴露された事によるストレスなどで、人間の認知は容易に歪む。その状態をその人間の本性だとして、その全人格を否定されたらいささか可哀想だろう。  さて、大乗仏教では人間は仏としての本性である仏性をもっているとされる。人はこの仏性が煩悩に覆われた状態で生きているから、間違いを犯すのだ。酔っぱらいの行動をみて、その人間の本性だと批判されるむき出しの本能は、仏教で言うところの煩悩と概ね同義だろう。仏教に不飲酒戒があるのもこうした理由かと思われる。  ところで、仏教の悟りは煩悩を滅した状態であるから、酔った時に顕在化する本能が煩悩と同義ならば、本能の無い状態では仏性が残ることになる。むき出しの本能が消滅したとしても理性は残るはずだが、では理性こそが仏性なのかという疑問が生まれる。理性も仏性と同様に人間に元から備わっているとされてはいるが、理性は教育により磨かれるものであり、仏性は余計な物を捨てた結果として現れるものだ。また、理性は人間にしか無いが、仏性は(宗派にもよるが)全ての生物や場合によっては非生物にも備わっているとされる。理性と仏性は似て否なるものだろう。  その辺は理性とは哲学的な発想であり、仏性とは宗教的信仰であるからそれでも良い。そもそも、生物学的に考えれば哲学が天賦の物とする理性だって後天的な訓練がなければならず、人はそれを取得しうる可能性を保有しているに過ぎない。また、人間と理性が不可分ならば、病気など何らかの事情で理性を取得し得なかった人間は人間で無いのかという疑念すら生じかねない。その点でいうと、仏性という考えは万人に優しくて良いと思う。

性格診断の誤謬

 世の中には様々な性格診断なるものがある。自動車の免許取得や更新時の運転適性検査などある程度の性格の傾向を指摘して実生活に役立てる目的のものもあるが、星占いや血液型などデタラメなものが大半を占める。  こうした性格診断にどの程度の妥当性があるのかは、それぞれの方法によって大きな差があるが、気をつけるべきは、これらの判定があくまでも検査した時点での個人の性格の傾向を指摘しているに過ぎないということだ。本来は診断と言うべきものではない。  誰かに対して、この人はこういう性格だと決めつけてしまうと実際のその人は見えなくなってしまう。日頃は社交的な人でも静かに過ごしたい時もあるだろうし、引きこもり状態の人でもハジけたい事だってあるだろう。諸行は無常だ。気分だって変動する。  しっかり修行している僧侶が頼もしく見えるのは、そうした性格のブレが小さく落ち着いているからでもあるが、彼らとて子供の頃はそれなりにワガママであったことだろう。自分の性格を何らかの類型にあてはめ変わらないと信じてしまうと、現実の欲求や変化と型の乖離から余計な悩みを抱えることになる。  あなたも私も誰でも、無数にいる人間のその性格をたかだか数種類の型にはめられてたまるものか。世界は偏見を捨てればいくらでも多様だ。

てんかんと交通事故

 時々、報道で騒がれるように、てんかんの患者が治療を怠った状態で重大な事故を起こすことがある。それにより真面目に治療していているてんかん患者まで社会的にバッシングを受けがちなのは問題だ。一方、心筋梗塞や狭心症の患者が治療せずに暴飲暴食や喫煙を続けて突然死した結果なにかしらの事故が起きても、特に病気が悪いようには報道されないし、虚血性心疾患の患者がいわれなきバッシングを受ける事もない。こうした事実はてんかんに対する社会的偏見が根強い事も物語っている。  さて、先日発表された報告(※)によると2014年にいわゆる自動車運転処罰法が改正・厳罰化されたが、その後もてんかん発作による交通事故は減少していないという。また、てんかん発作により事故を起こした患者の65.4%が非合法的に免許を取得・更新していたと報告されていた。  本文では様々な検討がされていたが、さしあたり上記の事実だけでも、深刻な事態だと言える。ただ同時に、もし非合法的に免許を取得・更新したてんかん患者を事前に取り締まれていれば、こうした事故は1/3程度に減らせていたことになる。  てんかん患者が何故に嘘をついてまで免許を不法に更新するのかは明白で、合法的に免許を維持するには発作後すくなくとも2年間は治療を受けていても免許が失効することにある。真面目に治療をうけても治療がうまくいかなければ免許は戻ってこない。仕事に自動車の運転が必要な人にとっては死活問題だ。当たり前だが、日常生活にも不便な頻度で強い発作を起こす人は危険だとの自覚も強く違法行為をしてまで免許取得や更新をしようとする人は多くない。違法に免許を取得・更新するのは、自分なら大丈夫だろうとのバイアスを持った、発作の頻度が比較的頻繁では無い患者たちが主となる。  現在の法律では、最後の発作から2年を経過して、治療などにより当面の再発の見込みが無いと判断されればてんかん患者も運転できる事になっている。2年の観察期間が妥当かどうかは別として、治療をしていても一定の期間をあけなければ、治療の効果判定には苦慮する。例えば、毎日毎日発作を起こしていた人が、治療を開始した途端に発作が起きなくなれば治療の効果があった可能性は高いが、元々半年に1度くらいの頻度でしか発作が起きない人に治療を行って1年ほど発作がなくてもそれはたまたまかも知れない。だから、患者は通院で経過を観察

横暴な老人

 現実世界でもネットなどの目撃情報でも散見される横暴な老人達は、旧世代の非常識さを糾弾する為のツールとしてもしばしば使われる。すぐ暴力に訴える、列に割り込む、痴漢行為を平気で行う、道路で尿や痰を平気で出す、などなど枚挙にいとまがない。  確かに昔の常識は現代の常識とは非なる物だ。横暴な老人は昔の価値観に固執した困った人なのかも知れない。しかし、巷に多数跋扈するモンスター老人の中には、少なからず心や脳を病んでいる患者が混じっている。  年齢を重ねると脳卒中や外傷や変性疾患や一部の薬物など様々な原因によって、脳の機能が障害され、衝動や感情が抑えにくくなる脱抑制という状態になる事がある。そうなると嫌な相手にはすぐ暴力をふるい欲しい物は奪い、わがまま勝手になってしまう。  元々そういう性格の人であるならば不思議は無いが、歳をとってからおかしくなった人は一度は検査を受けた方が良いだろう。治療で未然に防げるトラブルは防いだ方がいい。そうした努力で無駄な世代間対立が避けられれば、副次的にも良いことだ。

知の暴力、その2

  以前も知の暴力について書いた が、圧倒的な知識や知能の格差は暴力的な収奪を生む。時には命すら奪われる。  もし、あなたがボクシングのヘビー級チャンピオンとどちらかが戦えなくなるまで殴り合いをしなければならなくなったとしたら、ほとんどの人は何かしらこちらが有利になるルールの適応やハンデを要求することだろう。適正なレギュレーションがなければ負けるのは目に見えているからだ。  表現や言論の自由も無制限にこれを許せば、同様の事が起きる。全てを自由にしたら、知的に優秀な人は知的弱者から徹底的に収奪するのが残念ながら世の常だ。だから、暴力的な言論や表現の自由を制限するために、詐欺罪や侮辱罪や脅迫罪やヘイトスピーチ解消法などがある。そもそも、殺人や傷害や暴行が刑法違反になっているのも広義には表現の自由を阻んでいるが、これに異を唱えるのは犯罪者くらいだろう。  日本だけでなく、全ての国において無制限の表現の自由を認めている国なんて存在しない。表現の自由とは公共の益を考えた上での制限された自由であり、社会の秩序と治安を守るためにはそうしなければならない。無制限の表現・言論の自由などあってはならない。それはもはや自由ではなく弱肉強食の混沌だ。  知は暴力でもあるのだから、教育が大切なのだ。広く十分な教育を施すことは知的格差の縮小に寄与する。しかしながら、いくら教育をしても理解に乏しい人間は存在する。なんでもかんでも自由にしてしまえば、彼ら弱者は搾取される一方だ。日本では古くから読み書きそろばんを重んじられていたのは、そういう事が出来ないと騙され奪われるからだ。実際に、そういう能力に欠ける者は奪われ続けてきたのだ。  最初のボクシングの話だが、もしチャンピオンの立場ならば自分に有利な自由な殴り合いを希望するだろう。知的に優秀な者がとかく自由だ自由だと言うのはそれが自分にとって有利だからに他ならない。弱者や虐げられた者への慈悲の心が少しは欲しいところだ。  だが、今現在において知的に優秀な人よりも圧倒的に多く表現の自由だという人々は遺憾ながらヘイトスピーチ愛好家だ。彼らは知的に劣っており説得も困難だろう。だからこそ、公的な強制力が必要とされるのは言うまでもない。  今、私達が謳歌している制限された言論や表現の自由は、公的な暴力装置に守られているから決まった範囲内で自由なのだ。そうでなけ

殯(もがり)

 殯(もがり)は死者をお客様として身辺に安置する古代日本の風習で、後に仏教と習合していわゆる御通夜になったとの説もある。  具体的には、古代の皇族や貴族が死んだ時に建物をたてて遺体を収め、その前で歌舞音曲をもって霊を慰め、酒食を饗してあの世への旅立ちに際しての力としてもらうようにしたものだ。そうして死者を弔いながら一定期間(長い場合は3年)は埋葬せずにいた。確実に死亡を確認するだけならばもう少し短くても良いはずであり、宗教的あるいは政治的な意味もあったと思われる。  この風習は仏教伝来以前からあり、仏教伝来後は徐々に廃れていったが、殯は形を変えて現代まで天皇家には受け継がれている。仏教ではお釈迦様の死後7日間に渡り在家信者の供養が続き、その後に葬儀が執り行われ仏弟子の大迦葉の到着をまって火葬されたとの伝承がある。この言い伝えと殯が習合したのが御通夜だとも言われる。ちなみに単に通夜といえば徹夜で勤行などを行う意味で必ずしも葬儀に関連した言葉ではない。  殯や御通夜だけでなく世界各地でも死者を弔い供養し送り出す儀式は存在する。文化や言語は違っても同じ人間なのだと思わせる事実だ。葬儀など世界中の人々は共通点も多いのだからもう少し仲良くして欲しいものだ。きな臭い地域も多いが戦争にならないように祈る。

陰謀論者は精神疾患か?

 もしあなたがある日突然、絶大な力を持つ悪の秘密結社から自分たちの世界が攻撃を受けていると気づいて、そんな特別なことに気づいた自分の事を運命に選ばれた戦士だと信じて、実はその秘密結社の手下である有名人や有名企業に対して戦いを挑もうと決心したのなら、それは精神を病んでいると考えるべきだ。被害妄想や誇大妄想などが特徴的なパラノイアと呼ばれる状態だ。分類によっては統合失調症の下位分類だったりパーソナリティ障害の一つともされる。こうした妄想に取り憑かれ行動してしまうと日常生活に支障をきたすから、通常なら治療が必要な状態だ。  ところが今、巷にはこうしたパラノイアに似た症状をもつ人々で溢れている。陰謀論者だ。彼らはイルミナティーだとかディープステイトとかと呼ばれる非実在の秘密結社が世界を操っていると信じている。新型コロナウイルスもその悪の秘密結社によって作られた兵器だったりデマだったりして、秘密結社が人類を支配するために製薬会社に作らせた怪しいマイクロチップが入ったワクチンを全人類に接種させようとしているなどと本気で信じている。  詐欺師達は陰謀論を煽り、動画再生の広告収入やデマ本を売った利益で儲けようとしている。陰謀論者は詐欺師に騙された可哀想な人だとの考えも可能だが、果たして本当に騙されただけなのかは疑問だ。  そもそも、そういった陰謀論は今日の詐欺師が一から考えてその信奉者を増やしたものではない。例えば、陰謀論で頻繁に登場する世界を支配する悪の秘密結社イルミナティーについては、同名の団体が18世紀に実在している。もっとも実在したイルミナティーは知的階級のフリーメーソン趣味的な集いに過ぎず既に滅んでいる。その後継を名乗るいくつかの魔術結社は現在にも続いているが、政治的に大した実力はない。だが、イルミナティーの名は、その後も世界を牛耳る闇の組織として語り継がれていく。つまりは、イルミナティーというファンタジーは200年以上の歴史を持つ伝統ある陰謀論であり、ディープステイトもその焼き直しだ。古くから存在する都市伝説的陰謀論は、時代に応じて変形しており、断じて今日の詐欺師が作り上げたものではない。歴代の詐欺師は、すでにそのような陰謀論を信じている人からうまいことお金を巻き上げているだけだ。  馬鹿馬鹿しい陰謀論など一時の流行だと思われる人も多いだろうが、イルミナティの話は長年に

思無邪

 思無邪は論語の為政第二に見られる言葉で「思い邪(よこしま)無し」と読み下す。これは孔子が詩経について述べたもので、詩経にある三百もの詩を一言でまとめると思無邪だとした。  このように思無邪の元ネタは論語と詩経に由来するが、茶席では禅語としても扱われる。また、幕末に活躍した島津斉彬の座右の銘としても知られている。  思無邪の無邪が何を意味するかは、立場によって差はあるかと思う。孔子としては儒教的な仁や徳を実践する心が無邪であったろうし、禅語の場合は煩悩や執着や分別などが無い状態だろうし、島津斉彬はなすべき事を怖じけずに遂行することだったと思われる。  邪が無ければ、残るのは正か、それとも邪と表裏一体の分別である正も無いのか?後者ならば中道や空の思想に通じるものがある。世の中では正誤と正邪を混同する人も多いが、なるべく心に邪が無いようにしたいものだ。

25年前

 25年前  サッカーをしたい若者が  地域のお祭をしたい若者が  国からそれを禁止された  サッカー場も破壊され  人々は神に祈った  そしたら祈った罪で逮捕された  そりゃあねえよと  抗議のデモ行進をしたら  殺された  あるものは銃で撃たれ  あるものは氷漬けにされ  あるものは犬に喰われた  無辜の市民を殺した奴らは  今日は北京で運動会を楽しんでいる  グルジャの傷はまだ癒えない

観光寺院

 檀家の布施で成り立つ一般のお寺と違い観光客からの収入も大きな財源となっている観光化された寺院は基本的にどの宗教、どの宗派の人でも参拝可能だ。もちろん観光地では無いお寺にわざわざ他宗派の人がお参りに行くこともあまりないが、それでも秘仏の開帳や寺宝の展示や有名人の墓参などで他宗派の人が訪れることもあるだろう。これらには参拝や学術研究の他に観光的な要素もいくらかはある。もちろん檀家や関係者以外の参拝や立ち入りを禁じている寺院もあるが知りうる範囲では少数派だ。  こうした形態の差はあるが、今回のコロナ禍では観光化された寺院ほど収入減が著しいのは間違いない。観光化されているような大きな寺院では建物や寺宝の維持管理やそれを支える人材の確保に莫大な費用を要する場合が多いので今回のコロナ禍の影響が心配される。これまで長いところでは1400年以上もの間、色んな壁を乗り越えお寺に伝わる事物を受け継ぎ、人々がお参りしたくなるような魅力を維持し続けてきた歴史的な代々の努力は並大抵のものではない。その偉業に対し純粋に敬意を表し、今回も乗り越えられるように微力ながら協力したいものだ。    寺院の観光化には否定的な意見を持つ人もいるようだが、観光だって立派な仏縁だ。観光先のお寺にはどんどんお布施をして自分の家の菩提寺に何もしないのは問題だが、観光でわざわざお寺巡りするような人は、きっと自分の家のお寺も大事にすると思う。特定の対象にしか礼拝出来ない宗派以外はあまり気にしなくて良いのではないだろうか。

消費者庁の鬼退治

 このところ消費者庁が頑張っている。大幸薬品の空間除菌を謳う詐欺商品クレベリンに対して景品表示法の伴う措置命令を下した。また、首にかけるだけでウイルスを取り除くとの優良誤認で詐欺商品を売りさばいていたイトーヨーカドーにも再発防止命令が下された。民衆を騙し人命を危険に晒す非道な行為は、たとえ大企業が相手であっても敢然と立ち向かう。事なかれ主義の多い日本の役所にしては実によくやっている。  また、このような詐欺商品は口コミを装った偽装宣伝により販売を伸ばす傾向にあり、アフィリエイトという広告システムが悪用される事が多い。消費者庁はこのアフィリエイト事業にも悪用を防止すべく介入を始めている。  節分の時期と重なり、まるで消費者庁が本気を出して鬼退治を開始したかのようだ。いいぞもっとやれ。

懲戒権の削除だけでは不十分

 昨日、民法から親権者の子供に対する懲戒権を削除し体罰を禁止する項目を追加するという案が、法制審議会の親子法制部会から出された。  これは良いことだ。今後は民事裁判で被害者が有利になるかも知れない。だが、民法を改正しても虐待防止にはあまり効果を見込めない。現在、実際に虐待をする側の大人は、民法上の子供への懲戒権を盾に虐待している訳ではないからだ。  虐待を防ぐためには、まず子供を物理的に守る強制力が必要だ。現在、この強制力は児童福祉法により担保されているが、その執行機関たる児童相談所に十分な人的資源や予算が割かれているかは疑問だ。児相の職員は児童を虐待するような異常で暴力的な人物と対峙しなければならない。警察のサポートもあるとはいえ、危険な上に多忙で給与も大したことはない。予算と人員の補充を望みたいところだ。  また現状は、保護した子供をしっかり守り抜けているかにも疑問がある。親が反省したと言っているからといって虐待をするような人間のもとにたやすく子供を返すべきではない。子供が望めば成人まで公的に衣食住と教育が保証される環境を提供しなければ、しぶしぶ親元に帰ることを選ぶ児童もいるだろう。  さらに、虐待加害者は精神的に病んでいる場合が多いので、子供を守ると同時に加害者側へ適切な治療を提供する体制も必要だ。悪質な物に関しては厳しく処罰する刑法の改正も望まれる。  被虐待児童の保護という観点では昔よりだいぶん改善されてはいるが、未だに虐待加害者に対する法整備は不十分だと言わざるを得ない。今後も改善を期待したい。

対中非難決議

 本日、中国の名指しを避けて表現がかなり弱まってはいるものの事実上の対中非難決議が衆議院で採択された。あれだけの虐殺や人権蹂躙がされているのに、これまで対中非難の国会決議が成立しなかったのは情けないし、ようやく成立したと思えばなんとも中途半端な内容で実に嘆かわしい。去年、この決議案が流れた時は公明党が悪者にされた。全会一致でなければ決議出来ないから、唯一反対した公明党が悪いという理屈だ。公明党が悪いのは否定しないが、この理屈は間違っている。そもそも国会決議は全会一致は必須ではない。出席者の過半数で決議出来るので過去には総議席の半分未満で決議された例もある。去年は実は単独で国会決議が可能な自民党が日和ったのが最も悪い。今回だってれいわ新選組は反対しており全会一致ではなかった。また今回の決議文の内容が極めて弱いものとなったのは公明党がそう主張し、自民党がそれを唯々諾々と受け入れたからに他ならない。国会の先生には中国共産党の金と暴力に屈して服従するのが大好きな方々がたくさんおられるようだ。  国会決議をしたこと自体は一定の評価は出来る。しかし、その内容をみれば分かるように今の日本の国会には中国へ立ち向かう根性は無い。この国会決議には中国の名前がなかったが、台湾の名前もなかった。台湾有事が起きればどう対応する気だろうか?鄭成功の二の舞を演じさせるつもりか?そろそろ腹をくくり旗幟を鮮明にすべきだ。