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お斎

 お斎(とき)は現代では法事の後に僧侶や参列者に振る舞われる食事の事で、古代インド仏教の昼食に由来します。漢語訳された時に朝食を粥(しゅく)、昼食を斎(さい)と呼ぶようになりました。古代の仏教では午後は食事を摂ってはいけなかったので、食すべき時という解釈から、日本では斎を「さい」ではなく「とき」というようになったと伝えられます。  お斎は精進料理であることが多いですが、昔ながらの伝統的なものの他に、その技術を応用して洋風に仕上げたりデザートを作ったりと日々進化しており多様性に富んでいます。宗派によっては一般の非精進料理を供与しても良いようですが、事前にお坊さんに確認しておくのがよいでしょう。  また、お斎は料理の技巧もさることながら、法事の後の会食であり故人を偲んだり仏縁を楽しむ意味合いが大きいとも言えます。とはいえコロナ禍の昨今、お斎の機会も随分と減っているでしょう。コロナ禍が過ぎ去ったあとにこうした文化が消えてしまわないようにしたいものです。  

陰謀論被害者の死を笑うな

 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、いわゆるコロナ陰謀論の信奉者にもコロナに感染したり中には死亡したりする人が出てきています。そんな人々に対して、自業自得だとかザマアミロなどと言う批判がしばしば見聞きされます。なるほど、彼らの無知による行動で公衆衛生や延いては自分とその仲間の命も危険に晒されていた訳ですから、そう言いたくなる気持ちはわかります。しかし、死んだ彼らも被害者なのです。一部の迷惑系YouTuberなどは別としても、感染を危険なものと知りつつわざと広めようとする悪い人間はそうそういません。陰謀論の信奉者は、コロナなんて嘘だワクチンは悪の秘密結社が配る毒だ等と信じ込み、自分や仲間達を守ろうとして、誤った知識に基づく破滅的行動をとっている訳であり、彼らの中では善いことをしているつもりなのです。  だから、生前の彼らが言った妄想やデマは社会の為にも否定し訂正するべきですが、彼らの死そのものは悼み冥福を祈るのが良いと思います。  真に責められるべきは、コロナの危険性を知りつつ、また社会が危機に直面した時に一定数の人々は安易で都合の良い物語を信じ込みやすいという事実も知った上で、そういう人達や社会の人々の命を危険に晒してでも、受けの良さそうなデマを吹聴しそこから莫大な収益を得ようとする詐欺師達です。  一部の医師や政治家も新型コロナウイルスに関するデマを吹聴して回って、不安に取り憑かれた人や知的弱者を騙し続けています。新聞社もコロナだけでなく様々なデマ本やデマ記事が載った雑誌の広告を平気で出しており、お金さえ儲かれば詐欺の片棒を担ぐことに何の躊躇も感じていない様です。非難し打倒すべきはこうした詐欺師達であるのを忘れてはなりません。

宇宙の広さと人の儚さ

 以前、 器世間 の回で話したように仏教の先人たちが想像した宇宙はそれ自体が輪廻転生すると考えていた。サイクリック宇宙論にも似たこの考え方が本当に正しいのかどうかは別として、仏教徒にとってこの世はずっと変化し続けるもので諸行無常だという考えは今に息づいている。また、器世間の広さに関しては直径2.7×10の46乗光年と想定していたと思われ、現代科学が想定する観測可能な宇宙の直径である930億光年よりはだいぶん広いが、表現に指数タワーを要する観測不可能な範囲も含めた宇宙の広さの推測値から比べると無に等しいレベルで狭い。この辺は巨大数の研究が未発達だった古代の想像力の限界だろうが、現代科学をもっても観測不能な領域の宇宙の広さは推測の域を出ないだろう。ともあれ通常の人間の感覚では無限に近い広さの世界を古代の仏教徒も想定し、同時に自らの小ささも実感してきたと言える。果てしなく広い宇宙からみると、地球や社会は微塵にもならない小さなものだ。実際に宇宙規模の力の前には人類など次の瞬間に絶滅してもおかしくはない。  地球上にあるどんなに確固としたように見えるものでも実はものすごく儚い。そんな中で無駄に争うことなく穏やかに過ごせるようにしたいものだ。だが、人の世は常に無駄な争いに満ちている。  一部の人は自分の愚かさに気づかずに誤った事を信じ、それを根拠に他人に怒りをもって襲いかかり、目先の小さい利益を貪る。そんなことで儚い地球の更に儚い人間の命を虚しく消費する。なんとも哀れだし、無駄な争いを引き起こす元ともなっている。もちろん、人が愚かなのは仕方がない。人は全知でも全能でもないからだ。だが、それから怒りと貪りを排すれば、話し合う余裕も出てくるだろう。  たまには星を見て自分の小ささを思い知り、自分は一体何をやっているのだろうと振り返ることも大切だと思う。

アシッドアタック

 アシッドアタックとは南アジア地方で多い犯罪で、被害者の顔面を酸で焼き肉体的な障害と精神的な打撃を与えることを企図した犯罪であり、その被害者の約八割は女性です。アシッドの名前の通り塩酸や硫酸や硝酸などの強酸が用いられることが多く、強アルカリは基本的に使用されないようです。強酸の方が入手が容易であるためとも言われますが、寧ろ強アルカリの方が身近な素材で合成可能だと思いますので、犯人がイメージだけで出来合いの強酸を使うのでは無いかと思います。  アシッドアタックは殺害や傷害よりも顔を焼いて当人に精神的打撃を与え、周囲への見せしめにすることが目的です。飛び道具とは違い近距離から攻撃する必要がありますが、その際に自分に酸がかかる事を避ける必要もあるので、身長が低く攻撃が外れても犯人の脅威となるような反撃をされる可能性が少ない女性が主に狙われることになります。  犯人の動機としては女性差別に基づく暴力や歪んだ価値観による懲罰によるものが多いです。また、武器の所持につき厳しい制限があるイギリスなどでは、通常の武器より比較的容易に入手可能な強酸が犯罪に利用されているとの説もあります。  さて、詳細な情報は当局が取調べ中ですが、日本でも先日アシッドアタックが発生しました。武器所持の制限に関しては日本も厳しい方であり、今後は毒劇物を使った犯罪の増加にも十分に警戒する必要があるといえるでしょう。また、犯罪の陰湿性からみて現行法で可能な量刑も軽すぎると思われ法の整備もお願いしたいところです。

ギャンブル依存症(嗜癖)

 報道で伝えられている様に日本国内でギャンブル依存症が疑われる人は2.2%にも及ぶとの調査結果が厚生労働省から発表された。これは2017年の日本医療研究開発機構の発表した0.8%を大きく上回り、調査方法に差があったとしても看過できない由々しき事態だ。  人は不安や緊張からの逃避で何らかの物質や行動に依存することがあり、社会情勢の悪化もこうした依存症の増加に寄与した可能性は否めない。今回の調査でも依存が疑われる人にはうつや不安傾向が強かったという。  依存は環境や生活習慣などのストレスだけでなく、物理的な障害でも起こりうる。例えば何らかの疾病や外傷で理性の脳とも言われる前頭前野が障害された場合も起こりうるし、パーキンソン病の治療などでドパミン作動性の神経を刺激することにより報酬系に異常が生じて起きる医原性の物もある。そういう事例もあるが、依存症患者の大半はそれ以外では健康な人だ。パッと見では区別はつかないし、知らないうちに自分や家族が陥らないとも限らない。  世の中には多種多様な依存症があるが、なかんずくギャンブル依存症については日本国内の津々浦々いたるところに、行政と癒着した違法の賭博場が大手を振って経営を行なっている。これが、依存症患者に悪影響を与えているのは自明であり、実際に上記の2.2%の依存症疑いの人が最も多くのお金を騙し取られたのはパチンコ・パチスロであったという。  パチンコ・パチスロは患者の依存してしまう病気に漬け込んでお金を搾り取り経済的に困窮させる。経済的に困窮した一部の患者はパチンコ・パチスロにお金を使うためには犯罪行為もいとわなくなり治安の悪化も招く。患者の治療も大事ではあるが、こうした病気に漬け込み人々を破滅に導くことで暴利を得ているパチンコ・パチスロは全力で破却すべき反社会組織だ。幸いにしてこうした反社の活動を容認している行政組織は、選挙の結果しだいで変えることが出来る。少しずつでもパチンコ・パチスロを滅ぼす決意を持った政治家を議会に送り、いずれは行政を動かしたい。  また依存症に陥るかもしれない個々人も、仏教徒らしく貪りから離れる修行だと思ってギャンブルから遠ざかるようにしたいものだ。逆にどうしても利益を貪りたいのならギャンブルは明らかに損得で考えるとマイナス要因でありやらない方が良いに決まっている。もし、みんながギャンブルにお金を使わな

コロナとお寺

 コロナ禍のせいで一部の例外を除けばどこもかしこも不景気だ。特に観光業や飲食業や歌舞音曲などの芸事を生業にしている人は大変だろう。報道などではこれらの業種の人が行政への怨嗟の声をあげているのをよく見聞きする。一方、仏教寺院でも、この不景気の煽りを受けて収入がおよそ半減しているそうだ。いわゆる密を避けるために参拝客が減り、葬儀も小規模になりがちであり、なんといっても檀家の景気が悪ければ普通にお布施は減るものだ。しかも、お寺は飲食業などと違い持続化給付金の対象外だ。お寺に給付金を払うと政教分離の理念に反するというのが理由らしい。他業種の労働者と違い仏僧の多くはこうした苦境に対して、政治や社会を責めたりしない。貪りや怒りを避けるのは仏教の基本であるからだろうが、内心は思うところもあるのだろうと推察する。  ただでさえ経済的に青息吐息なお寺が多い日本の仏教界で、収入が半減すればもう存続の危機だ。しかも、一部の疫学者の予測ではコロナ禍は数年は続くと見られている。このままでは廃寺の増加は避けられまい。経済的に余力のある人はちょっと色をつけてご自身の所属するお寺にお布施をしてあげて欲しい。観光名所となっているような副業を手広くしている大寺院でも、文化財の維持には莫大な費用がかかるので、推しのお寺があれば授与品や祈願のネット申し込みなどを利用するのも良いと思う。  どんなにネットが発展しても地域の寺院は日本の仏教文化の担い手であり、なんとか守っていきたいものだ。

理想的な社会

 理想的な社会は実現可能でしょうか?少なくとも日蓮宗の信者はそれを目指しているのだろうと思います。ですが、恐らく人類滅亡のその日まで完全無欠の理想社会は実現しません。ならば、どうせ無理だと諦めてしまえば良いのかというとそんな事はなく、よりマシな社会を目指すのは大切です。その努力なしには社会はとことんまで腐ります。社会の秩序や治安が保たれているのは、それを維持しようとする多くの人々の努力があるからです。差別や偏見を是とする暴力的な人達がいくら増えようが力を増そうが、それに対する抵抗をやめてはならないのです。また、抵抗はしてもその人達を敵視してはいけません。彼らも可哀想な人達なのです。刑法に従って彼らが裁かれる時も、その更生や冥福を祈るようにしたいものです。

お血脈

 落語のお血脈は善光寺の御印文頂戴を題材にしたコメディです。御印文は善光寺如来と同じ閻浮檀金で出来ている宝印で、牛王宝印、牛王噞印、往生決定の三つです。これらの宝印は如来の分身とされます。これを頭に押してもらうと極楽浄土への往生が約束されると伝えられています。現代でも1月7〜15日と前立本尊の御開帳の際に善光寺で僧侶が参拝客にこの印を押す行事があります。  落語のお血脈のあらすじは、善光寺の御印文頂戴の為に地獄に落ちる人がいなくなり、困った閻魔大王が地獄にいた大盗人の石川五右衛門に命じて善光寺の御印文を盗み出そうとします。善光寺に忍び込み首尾よく御印文を手にした五右衛門ですがコレさえあれば大願成就と御印文を押しいただいてしまいそのまま極楽往生してしまうというオチです。  さて、落語では御印文のことをお血脈と呼んでいますが、善光寺でお血脈というと善光寺を管理するお寺の一つである天台宗の大勧進で授与される融通念仏の系譜のことです。融通念仏宗は天台の僧侶であった良忍が平安時代後期にワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンのラグビーのような精神で作り上げた浄土教系の宗派です。一人の念仏はみんなのために、みんなの念仏は一人のために、一つの念仏の行はすべての念仏の行に通じ、全ての念仏の行は今自分が唱えている念仏につながるというような感じで、ハーモニーの力で全ての人を極楽に往生させるぜという感じの宗旨です。善光寺大勧進ではこれの系譜を受けつでいるとの考えから、江戸時代の1783年の浅間山大噴火で被災し絶望に打ちひしがれる人達に、この系譜を書いた紙をお血脈として配って彼らの極楽往生を約束したのでした。  苦境の中、孤独に頑張っているように感じても広い世界には心を同じくする人がいますし、自分の努力もまた無駄にはならないのです。

羊の歩み

 大般涅槃経第三十八に如牽牛羊詣於屠所とあります。「牛や羊が引かれて屠殺所に行くように」という意味です。この言葉が元となり、人の死は避けられず、しかも刻々と寿命は減っていっていることの例えとして羊の歩みという言葉があり、日本の古典文学でもしばしば羊は登場します。  人は、仕事をしていても、遊んでいても、寝ていても、とどまること無く死の瞬間は近づいてきています。貴重な時間をなるべく有意義に使いたいものです。  ところで、魏志倭人伝によると元々は日本に羊はいなかったそうです。その後、少数は輸入されたりもしましたが、飛鳥時代や奈良時代の日本人にとって羊は大変めずらしい動物でした。しかも、平安時代以降はヤギと混同される事が多くなっていきます。十二支にも入っており先述のように古典にも引用され言葉としては人々に馴染み深い羊も、大昔の日本人には龍や虎のような何かよく知らない生き物だったのです。  昔の日本人が羊の歩みの話に人生の儚さを感じていた際に、頭に浮かべる動物は時代や人によって様々であったと思われ、色んな羊たちが人々の命を見送っていったことでしょう。そう考えると儚いながらもちょっと楽しいですね。

光明本尊

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 光明本尊は浄土真宗仏光寺派などの寺院の一部で本尊や曼荼羅の様に用いられる絵図だ。かなりのバリエーションがあるが、基本は中央に「南无不可思議光如来」の九字名号が配置され、向かって左に「南無阿弥陀仏」の六字名号、向かって右に「歸命盡十方無碍光如来」の十字名号が配置され、左右の名号と共に、左側に描かれた阿弥陀如来と海外の祖師達、右に描かれた釈迦如来と聖徳太子を始めとした日本の祖師達が、中央の九字名号の光の文字から放たれた48条の光におさめとられる絵図となっている。(写真は石川県の指定文化財となっている光明本尊)  光明本尊は浄土真宗高田派妙源寺に伝わる国の重要文化財指定の物が原型となったと言われるが、妙源寺の光明本尊は親鸞聖人在世の時代に高田派第二世真仏上人が描いたとされる三幅の軸で中央が淡い光条を持つ九字名号、左右に海外と日本の祖師方の軸を架ける形となっており、その後の光明本尊とはいささか趣を事にする。光明本尊は当初は光明本と呼ばれ、鎌倉時代後期から室町時代にかけて多く作られたものの、その後はあまり用いられなくなった。応仁の乱の影響で主な絵師が光明本尊の制作を続けられなくなったためとも言われる。応仁の乱の頃からの浄土真宗の主流となる本願寺でも光明本尊を用いていない。そもそも浄土真宗は阿弥陀如来一尊を本尊とするので釈迦如来も図示されている光明本尊は使いにくかったのかも知れない。  光明本尊の理念としては阿弥陀如来の名号を中央に据え、釈迦如来や龍樹菩薩や聖徳太子らへ脈々と受け継がれる仏法の血脈が今の私達に届いているのを視覚的に訴えかける効果があり布教には役立ったのかと思われる。これらの本尊はもちろん礼拝の対象だが、歴史や美術的な視点からも貴重な文化財と言える。

イデオロギーによる陰謀論の嗜好性

 世に陰謀論の種は尽きない。一つ一つ反論している各分野の専門家の努力は陰謀論を滅ぼすというのが目的であれば恐らく無駄だろうが、騙される人を減らすことには貢献していると思われる。終わりが無い作業に取り組む根性は並大抵のことではない。まったく頭が下がる。  ところで正確な統計調査をした訳ではないが、陰謀論にはイデオロギーによる嗜好があるように見える。右派の陰謀論者にはコロナのデマを流したりとか地球温暖化は嘘だとか言う人が多く、左派の陰謀論者には放射能や農薬に関するデマを吹聴したり世界中の天災をアメリカ軍の秘密兵器の仕業だなどと言ったりする。こうしたイデオロギーと陰謀論の組み合わせが一致しない人も当然いるが、ランダムに振り分けられたとは思えないくらいに偏っている。本日はこうした傾向はなぜ生まれるのか考えることで、陰謀論を排除する一助としたい。  まず、左派が放射能を極端に嫌う陰謀論に取り憑かれやすい理由だがおよそ二つに大別される。一つは実は放射能を嫌いじゃない人達だ。つまりイデオロギー的に嫌いな国の原子力行政を妨害したいが為のエセ活動家だ。実際にそんなのがいるのかという疑問をお持ちの人もいるだろうが、この手の人から中国の核兵器は帝国主義を砕く正義の核兵器だとの話を聞かされた事がある小生がみるに存外に多い。彼らは中国が引き起こした放射能汚染に関しては決して非難しないから分かりやすい。もう一つが普通に汚染を気にしている人達だが、左派独特のバイアスとして原子力を扱う国家や企業に強い不信感を持っている。両者とも極端に薄い放射能だろうがどんなに低線量だろうが、恐ろしい被害がでるかの様に吹聴するのが特徴だ。逆に右派の中には科学的には致死的な線量でも逆に健康になるなどと言う人がいるのは対象的だ。日本の右派の放射能好きは核武装をしたいが故に放射能の危険性を過小評価したいというバイアスがはたらいたものだろう。  左派陰謀論者の農薬嫌いも放射能嫌いと同様だ。農薬の発達により、病害虫による作物や人間への被害が軽減し収穫量も増えた。農薬にはまさに科学の勝利といっても良い歴史があるのだが、その発展の過程では中毒などによる残念な事故も起きてきた。こうした経験から安全対策は様々に施され今でも進歩を続けている。ただ、左派の陰謀論者は無害なレベルまで農薬が除去されていても、残留農薬による健康被害がどうのこ

千葉真一さんを追悼しつつ思うこと

 千葉真一さんが新型コロナウイルス感染症でおなくなりになりました。謹んで哀悼の意を表します。  さて、千葉真一さんは残念ながらワクチン接種をしていなかったのですが、この報道の第一報ではワクチン接種の有無について伝えられなかったことから、怪しい方面の某有名人などはツイッターで「ワクチンについての報道が無かったのはワクチンを接種している証左だ、もし接種していないのならここぞとばかりにマスコミは騒ぎ立てていたハズだ」という趣旨の発言を早々にして恥をかかれたようです。この後、すぐにワクチン未接種だったことが分かりツイートは削除されていました。この人だけではなく、同様の事をいう人はネット上に散見されましたが、ワクチンやコロナのいわゆる陰謀論を支持する人に多かったように見えます。人の死を自分の妄想を拡げるためのダシに使わないでもらいたいです。  一方で、千葉真一さんがなぜワクチンを接種していなかったのかについてはこの文章を書いている時点では確認できていません。しかし、こちらも色々な憶測が飛び交っています。別に個人がどのような推測をしようと勝手ですが、あまり決めつけたような事をいうべきではないと思います。まずは故人の冥福を祈りましょう。もし憶測で言われている様々なことのどれかが事実だと判明すれば、それはそれで対策が必要となることもあるでしょうが、今の時点で言えることは何もありません。  とはいえ、もしワクチンを接種していてくれたのならという想いはあります。ワクチンを接種出来ない状態にある人は極めて稀であり、通常はワクチンを接種する方向でうごいて頂いて結構です。ご心配な方は各自治体の窓口にお問い合わせ下さい。宜しくお願い申し上げます。

一般病床の減少

 医療者ならば常識の範疇に入る話かと思うが、現在の日本ではコロナ対策により、一般の病床が急速に減少している。新型コロナウイルス感染症以外の病気に対しても病院はその対応能力を落としている。連日の報道では、どちらかと言うとコロナ病床の逼迫度や不足の話が多いので、本日は一般病棟の話をしたい。  まず、なぜコロナ対策で一般の病床が減るのかだが、もちろん物理的なベッドが消失した訳ではない。一般の病床をコロナ用の病床に転用するから減少するのだ。ただ、これはコロナ病床が1つ増えたら一般病床が1つ減る事を意味しない。小生が勤務する病院ではコロナ病床を1つ増やすと、一般病床が10床消滅する。  なぜか。病院によって違いはあるが、多くの病院では一般病床7つに対して看護師1人が対応にあたっている。対してコロナの病床1つには1〜2名の看護師を必要とする。これは新型コロナウイルス感染症の患者自体が注意深い観察を要する上に、厳重な感染対策下で行われる介護や診療には準備や後始末にも時間がかかるので大量の人員を必要とするからだ。つまり、1つのコロナ病床を運用するのに必要な1〜2名の看護師を確保するには7〜14の一般病床を潰さなければならないことになる。  つまり、看護師を補充できれば一般病床の減少にはブレーキをかけうるが、現場で十分に働ける人材は降って湧いたりしない。相応の教育期間が必要であり、また雇うにしても財源も無限ではない。逆に、看護師1人あたりの病床数を増やせば当然ながら看護の質は低下するし事故の発生率も増えるだろうし何より看護師が疲弊して倒れればますます人手不足に拍車がかかる。要は、新型コロナウイルス感染症が拡大する以上は一般病床の減少もまた不可避だと言える。  今後も状況が悪化すればあらゆる病気や怪我に対して医療の供給が極度に不足する恐れがある。このため小生もいつもにも増して、余計な怪我などしないように安全運転をこころがけ、水害などの災害が予測される時は帰宅も含めて無理な移動は控え、体調管理に気を使うようにしている。今後も当面は注意して行きたい。

病状説明

 日常の診療において、患者様やそのご家族様に対して、いくら懇切丁寧に説明しても、後日、全然説明を受けていないとクレームがつくことがある。これはどの業種でも同じだと思うが、相手が説明の内容を理解していなければ説明を受けていないのと同じだから起こる現象だ。  なるべく分かりやすく説明して、理解したかを確認し、相手が分かったと言ったとしても、最後に「何か他に質問はありませんか?」と尋ねた時に今しがた説明した事を質問される事もある。  いや、そんな事態になるのはお前の説明が悪いからだろうというご批判もあるかと思うが、遺憾ながら体感で20〜30人に1人くらいは、著しく理解力に乏しい人がいる。認知機能にいくらかの問題がある人だって少なくはない。  そういう人達に対しては、どこが悪くてどのくらい死にそうなのかなど、最低限理解して欲しい事を伝えた上で、後は医療者も御家族様とともに頑張っているという心情面での理解・共感を得るのが重要だ。説明を理解いただけない方からは、こちらの目つきが悪いとか話し方が冷たいとかと言われることが多い。これは、相手が理解してくれないことでこちらの苛立ちが表情や声色に出ている可能性もあるが、何を言われているかの分からないという相手方の恐怖や不安が説明者に投影されている側面もあるだろう。このような理由で、理解力に乏しい方からは感情面での不満が生じやすいので、医療者に敵意は無いと実感いただく必要がある。共感的な接し方をとるように留意したい。  また、患者様がよく理解していないと、例えば何らかの検査を行った時に、モルモットにされたなどと言ってお怒りになられる事がある。体に侵襲を伴う検査や大学や研究機関に依頼する検査を行う場合は重々用心が必要だ。  コロナ禍において、入院患者への面会はどの病院でもほぼ禁止されていると思うが、患者様に御家族様が直接会って話せない現状は、御家族様への病状説明の理解度にやはり負の影響がある。用心したいものだ。

腕枕(わんちん)

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 うでまくら、では無く腕枕(わんちん)の話です。小学校の書道で教わる懸腕法で字を書くならば右腕を机や紙につけずに筆を垂直に持って書くので、縦書きの文字を右の行から順に書いていっても紙や手が汚れることはありません。また、細かい字を書く時は左手を机につけて右前腕遠位部の枕とする枕腕法を用い右手のブレを少なくした状態で書きます。  写経の字は細かいので懸腕法では書きづらく、かといって枕腕法でも上の方の字を書く時は紙と左手を汚しがちです。そこで登場するのが腕枕です。写真の様に写経用紙をまたぐ低い橋のような台です。縦向きでも横向きにも使えます。これで墨汁が乾く前に紙や手を汚すこと無く次の行に進めます。  字が下手な凡夫には写経のマストアイテムと言っても過言では無いでしょう。オススメです。

タリバンあるいはイスラム教原理主義の視点

 日本にいてもイスラム教徒の人達と触れ合う機会はあるだろう。トルコ系、アラブ系、ペルシア系、南〜東南アジア諸国の人達などなど、世界には多くのイスラム教徒がいる。その中でも日本に在住しているイスラム教徒を見てそれがイスラム教徒の平均的な姿だと思ったら大間違いだ。いわゆるイスラム教原理主義者からみた日本は悪と混沌のるつぼであり、攻撃目的以外では訪れようとも思わないだろう。だから日本に住んでいるイスラム教徒の大半はそういう日本の文化に一定の理解と妥協を示す穏健な人達だし、そんな彼らは原理主義者からみたら日和見の裏切り者だとも言える。もちろん日本にもいつかテロを起こすことを狙って潜伏している原理主義者もいるだろうが少数だろう。また原理主義者は原理主義者と呼ばれる事を嫌う、なぜならば、イスラムの教えは一つであり絶対であって原理主義とそれ以外に別れてはならないものだからだ。ともあれ、日本にいて触れ合えるイスラム教徒をみてタリバンやアルカイダやISも同じだろうと考えると大きな誤解を生むことになるのは間違いない。  小生は、以前某人権団体の役員を務めていた関係でイスラム教徒とのつきあいも多かったが、日本在住のイスラム教徒と海外のイスラム教徒を比べると居住地の文化の影響を受けるせいか、やはり日本の方が穏健派である事が多かった。原理主義者との交流は無かったが、一口にイスラム教徒と言っても千差万別であるのは覚えておいてほしい。今回はいわゆるイスラム教原理主義者たちはどういう価値観をもっているのかを異教徒の日本人として理解出来る範囲で解説していきたい。  まず、多くの日本人が理解していないのは、イスラム教は政教一致が原則だということだ。現在、多くのイスラム教圏の国で政教分離がなされているが、本来の教義に従うのなら邪道だ。イスラム教徒はウンマと呼ばれる信仰をともにする共同体に所属しており、神の啓示であるクルアーンと預言者ムハンマドの言行録であるハディースを法源としたシャリーアと呼ばれる法により支配される。これは神の定めた法であり、人間が作った法律より上位であることはもちろん、人間が人間を縛る法律をつくりそれを尊重することは神以外の権威を認めることになり許されない。同性愛や姦通が死罪になるのは理屈ではなく神がそう定めたからであり異論を差し挟む余地は無い。神が下した絶対の法を前に、人間ごときがそ

終戦の日とお盆

 終戦の日と新暦のお盆が同じ8月15日なのは偶然ではありますが、遠い異邦で戦死した戦没者の御霊に思いを致す時に、家族のもとに御霊が帰ってくるこの日は感慨深いものがあります。  戦後も76年となり当時を覚えている人もどんどん少なくなってきています。確かな記憶として当時を思い出せるのは今現在90歳くらいから高齢者でしょうが、その歳で十全な認知機能を保っている人は更に少なくなっています。あと10年もすれば、直接の戦争体験を聞ける事もなくなるでしょう。戦争は実感の無い、遠い昔の物語になりつつあります。  そして、物語には色々な解釈があるもので、違う物語を信じる右翼と左翼は今日も靖国神社前にて慰霊そっちのけで戦っていることでしょう。戦没者に静かな祈りを捧げる事が出来る日は一体いつ来るのでしょうか?  軍民問わず全ての戦争犠牲者がお盆で帰ってきているならば、今の日本を見てなんと嘆かれることかと思うと、我が身の力不足を嘆くばかりです。

ご先祖様

 日本の伝統仏教では基本的にご先祖様を大事にします。漢土から伝わった盂蘭盆会がお盆として独自の発展をとげたのもこの影響でしょう。  仏教的にはこの世の全ては原因や縁が積み重ねとみられます。元々祖霊崇拝の文化があった日本では自分が生じた因縁である代々の先祖に思いを馳せて、現在のお盆のような習合が起きたのだと思われます。  お盆は仏教的な真理を日本の文化や生活に当てはめて続く心温まる行事です。コロナや水害でここ2年ほどは十分に行事も出来ませんが、気持ちは持ち続けて、災禍がさったらまたこの文化が続くように願っています。

お盆ですが

 7月15日や旧暦7月15日にお盆行事を行う一部地域以外では概ね月遅れの8月13から15日までがお盆です。今年は西日本で豪雨災害の発生が懸念されるお盆となってしまいました。皆様の安全をお祈り申し上げます。  災害時は身を守る事が第一です。状況に応じて柔軟にお盆行事の予定変更や中止をお願いします。ご先祖様への感謝は避難先でも出来ますので形式にこだわらないようにしましょう。自分たちを祀るために子孫が怪我をしたり死んだりしたらご先祖様たちも悲しむというものです。しっかり生き残るのが孝行です。  またコロナ禍の今、避難所でもなるべく喋らない事が求められます。ご先祖様の感謝や仏様へのお祈りは心の中でいたしましょう。

人の好き嫌いで批判の程度を変えたらいけない。

 国や自治体や組織の責任者あるいは有名人などは何かと批判にさらされやすい。無名な者が何かやらかしても批判してくるのは直接の知り合いくらいだから、有名人の問題に対して批判者が多くなるのは仕方ないだろう。無名な他人がどんな批判を受けているのかはわざわざ調べでもしない限り知りようもない。職場や家庭の身近な批判の数々も極論すればローカル・ルールであり、どの程度からが批判対象となるのかは、個々人の常識や経験に左右される。そんな中で、有名人の不祥事が発覚すると起きるSNS上などでの批判大会は、他の人々の批判の基準がどのような傾向にあるのかを知る貴重な機会でもある。  そんな観察をしていると気づくのは、批判の基準がどんな悪いことが行われたかによらず、誰がやったかによって批判の程度は大きく変わるということだ。ある人にとって嫌いな人間がちょっとでも何かした時は苛烈に攻め立て、逆に好きな人がちょっとしたことで責め立てられていると擁護に回ったりする。これはいけない。例えば弱者をいたぶって楽しんだと自慢話をする人でも近い立場にある人からは擁護されたりする。悪いことをしたのが自分の親兄弟や友人であったとしても、それは悪いことだと指摘するべきだ。逆に遠路はるばる訪れた客がトイレなどで少し遅刻した時、それをやったのが評判の悪い人だと罵詈雑言を浴びせられがちだが、この時に激しく批判する人はもし仲のいい人が同じ事情で1分遅刻しても同じ様に責め立てるのかはなはだ疑問だ。  人は気に入らない人には何かと理由をつけては批判の名を借りて叩きたくなるし、好きな人には何かと理由をつけてかばいたくなる。こうした怒りや貪りは判断を歪める。誰がやったかではなっく何が行われたかによって批判は行われるべきだ。自分が嫌いな人を批判する時は自分の好きな人が同じことをした場合の事を想像し、自分が好きな人を批判する時は自分の嫌いな人が同じことをした場合の事を想像して、どちらも同じ批判でなければ、それは行為に対してではなく「誰が」やったかに依存した批判だと言える。  だが、完全に「誰が」から自由になれる人間もいないだろう。だから日頃の行いは大切だとも言える。毎日毎日悪いことばかりしている人が警戒を受けるのは自然なことだからだ。用心していきたい。

ビュリダンのロバ

 ビュリダンのロバという話がある。力学の基礎を築いたことで知られる哲学者のビュリダンは意志は理性が良いと認めない限り決定出来ないとしていた。これに反論するために、ビュリダンのような考えを持つロバの前に2つの同じ質と量の干し草の束を置いたら双方に対して等しい欲求を持つロバはどちらも選べずに餓死してしまうとした例え話だ。理性ではどちらの干し草も同じであり優劣を決められないからだ。これは割と知られた話だが出典が明らかでないことでも有名だ。  さて、この話には矛盾がある。もしロバが理性的な判断を下したならばどちらとも食するだろうからだ。そうすると意志は理性により決定されたことになる。左右に等価な食事を置かれた時にどちらも選べずに餓死にしてしまうのは愚かさのせいだと言える。一般的に、ロバとは愚か者の比喩で使われる代表的な動物だ。  しかし、人生にはビュリダンのロバに似た状況が発生しうる。それは何らかの選択を迫られた時に、どの選択肢が良いのか理性では判断がつかない時だ。ビュリダンのロバと違い、人生の選択では一つを選ぶともう一つは選べなくなるから悩ましい。そのような場合はどちらも選べずに迷っていると選択する権利から失われてしまう。例えば就職先や結婚などでどちらを選ぶのかを委ねられている場合などがそうだ。決断には時間制限がある。「両方とも!」などと答えれば殆どの場合その両方とも失うことになるだろう。  そうして、多くの人はどちらが良かったのか分からない選択をした後になって、違う選択をした方が良かったのではないかと思ってしまうものだ。これは人が本質的に貪欲だから生じることだ。そんな試せないことで悩むよりも、選択した事をより良くすることに注力すべきだ。どうしようもない事で悩むのは時間と労力の無駄でしか無い。

引導

 浄土真宗以外の伝統宗派での葬儀にはだいたい死者に引導を渡す儀式が行われます。元々、引導は道教で言うところの気を体内に引き入れる事を意味したり、一般の漢語で手引するという意味がありましたが、仏教では衆生を仏教に導くとの意味になりました。現代では葬式で死者を仏界に導き成仏していただく儀式の事です。ただ、死後も追善供養はするので基本的に故人は成仏までは行かずに菩薩となり働いていることになります。仏に対して供養は出来ますが、仏に追善(生者が善行を積みその功徳を死者に振り向けること)をする必要はないからです。また、故人が菩薩になれずに地獄や餓鬼や畜生界などに転生したとしても苦しまずに済むように追善供養はある訳です。ちなみに浄土真宗で引導も追善供養もしないのは、門徒は死後即極楽浄土に生まれ成仏すると考えられているからです。  大乗仏教の特徴の一つに信徒が仏になろうとする事があります。浄土真宗の死後は即成仏するという発想と同様に、他の伝統宗派の引導を渡して追善供養をするという行為も故人を成仏させるという目的でなされます。なお、密教系の宗派では生存中の即身成仏を目指していますが、実際に即身成仏する信者は通常は存在せず、その葬儀では引導を渡して火葬の前に即身成仏させようとします。  生前が良い人も悪い人も一律に仏になってくださいと導く引導の風習は優しさで出来ています。仏教以外で引導を渡すと言うと、人を諦めさせたり解任などの処分を下したりする時に使われますが、そういう局面で引導を渡す時にも本来の引導の持つ優しさをもって行いたいものです。

ナガサキ

 8月9日は長崎原爆忌だ。8月6日のブログにも書いたけど長崎の平和記念式典やその周辺はまあまあ大人しい。広島ほど怒号は響かないし、右翼の街宣車もこころもちボリュームを落としている(マジで)。交通の便も悪く、谷間の街で大量の人が集まりにくい事もあるのだろうが、原爆忌とは祈りの日であるべきだと思うので、個人的には長崎の原爆忌の方がよいと思う。こちらにもコロナ禍で今年も参列は避けるが、今年も静かに犠牲者の冥福が祈られるだろう。  さて、そんな長崎ではあるが長崎市内で平和関連の展示を行う小さな博物館がある。知人の話では以前そこで原爆投下をアジア解放の希望だと礼賛する展示があった。流石に酷いと思い抗議したところ、会場を貸しているだけだとのことだった。ならばと、その知人は中国が東トルキスタンを占領して行なった核実験についての展示を申し入れたところ、なんと認められたというのだ。だが、開催が決まり準備も万端となったところで突然に博物館側から中止の命令を受けた。理由はその当時は流行っていたニコニコ動画の知人も関わるチャンネルの動画で一般ユーザーが書き込んだコメントが被爆者を馬鹿にするものだったからというものだった。知人とは全く関係のないどこの誰が書いたかもわからないコメントを理由に展示そのものが中止になるという不可解な決定には、おそらく博物館の偉い人かあるいは中国の意向がはたらいたものと思われる。その展示会は結局、近所のホテルを借りて2日間だけ実施されたのだが、期間は大幅に短縮されたし、観光客もよく訪れるその博物館の方がインパクトがあったのは違いない。残念なことだ。他にも同じ知人の話で、某新聞社が主催する核問題の展示で中国に関する質問をしたところスタッフから「中国の核兵器はアメリカなどの帝国主義に対抗する正義の核だ」との返事をもらった事もあるそうだ。全部が全部とまでは言わないが、平和を標榜して展示や活動を行なっている集団には隠れたファシストやレイシストが多いのは残念な事実だ。  8月6日に五輪のサッカーチーム監督だった長崎出身の森保一監督は「平和であるからこそ、スポーツの祭典ができる。平和であるからこそ、大好きなことができる。平和をかみしめて、五輪を最後まで臨みたい」と言っていた。五輪開催の是非はとりあえずおいておくとしても、長崎出身の監督が広島原爆忌の日に出したコメントは、ヒロシマ

お盆休みの前のお願い。

 地域によって差はありますが、そろそろお盆の季節です。既に小生の居住地にも予想外に多くの帰省者がみられています。いまのところ政府の人流抑止の呼びかけに大きな効果は無かったようです。コロナ禍が続く中、残念ながら今年も帰省は控えていただきたいところです。お墓参り出来ないのは落ち着かないでしょうが、各ご家庭のお仏壇に手を合わせて下さい。また、既に帰省された場合は極力他者との接触を避けるようにお願いします。  人間の移動と接触が感染を拡大されるのは自明です。世間のワクチン接種率もまだ低くウイルス自体も変異型の感染が急拡大している現状では、例えワクチン接種済みの人であってもなるべく移動や他者との接触を控えマスクの着用や手洗いの励行など基本的な感染対策を続行すべきです。  また、今後しばらくは新型コロナウイルス感染症の患者増加に伴い、各地の医療機関はその能力を落とします。地方の病院でも既にコロナ対策に人員やベッドを割いており、通常の病床は減少しています。手術の延期も多いです。このため、コロナ以外の通常の病気や怪我でもこれまでと同じような対応は出来ません。怪我の予防や日頃の体調管理などにも十分な注意をお願いします。  何卒よろしくおねがいします。

他人の目

 人間は他人が見ていると悪いことをしづらくなるものです。その他人が自分の仲間で悪者ならばともに悪事を働くこともあるかも知れませんが、見ている人が立派な人であるほど悪事は働きにくくなります。仮に心理的な抵抗を除いて見ている立派な人を倒して悪事を為そうとしても、周囲の人は立派な人の味方をするでしょうし、そもそも立派な人が十分に強ければ倒せません。また逆に、自分のことを立派な人物だと慕う者や期待している者たちから見られていると思わずカッコつけて良いところを見せようとしてしまいがちです。  本来は他人の目のあるなしに関わらず、善いことをして悪を断つのが仏教徒の努めですが、他人に自分のことを良く見せようとする煩悩はなかなか消えるものではありません。これは究極的には自分に対する執着であり、不変の我という存在は無いと観ることが出来ていないから起こる心でしょう。  だから自分をカッコよく見せる意味は本質的には無いのですが、日々仏様に祈る中で、仏と共にいると感じている人は、常にとても立派でとても強い他者の目にさらされていることになります。なかなか悪いことは出来ませんね。

ヒロシマ

 広島を「広島」や「廣島」ではなく「ヒロシマ」という表記をする場合、原爆や政治的な意味がその文字に内包されている。基本的に「ヒロシマ」は早急な核廃絶を目指す勢力が使っていると考えて良い。早急な核廃絶が果たして平和に資するかどうかは異論もあるが、少なくとも「ヒロシマ」という文字を使う人達はそうであると信じている。  まあ実際にどうなのかは核が廃絶された世界とそうでない世界を多数用意して比較出来ないのでなんとも言えないが、残念ながら広島原爆の日の慰霊の黙祷を捧げるべき8時15分に、珍妙な奇声を張り上げて大騒ぎするのはこの「ヒロシマ」という文字を使う人達の方だ。  流石に慰霊碑の前の席ではやらないが、平和公園辺縁部の8時15分は地獄と言うに相応しい惨状だ。慰霊碑の前でもこの馬鹿騒ぎは多少は聞こえてくる。正直迷惑だ。ちなみに8月9日の長崎でも騒ぐ人はいるようだが慰霊式典が小高い丘の上でされる為か会場にまで声は届かない。  新型コロナウイルス感染の流行もあり去年も今年も広島に参ってはいないが、伝聞によると今年も騒がしかったようだ。直接行った時はいずれも酷かった。慰霊碑前だとそうでも無いが、8時15分に公園の端の方で黙祷しようとしても、「ヒロシマ」表記の集団がマイクなどを使って大音響の罵声で騒ぎ出すので、とても慰霊の雰囲気ではない。控えめに言って最悪だ。大音響すぎて音も割れており正確に何を言っているかは聞き取れないが、大体は原爆犠牲者の慰霊とは直接関係のない日本政府に対する罵詈雑言であるようだ。  いや別に政府が気に入らないのは自由だ。俺も気に入らねえ。だが、慰霊の黙祷を捧げる時くらいはおとなしく祈ろうよ。黙祷の時間にイデオロギー色の強いプロパガンダを行なっても逆に市民の反感をかうと早く気づくべきだ。

身勝手

 世の中、他人の身勝手な行動ばかりが目に付きますが、自分の行動も他人には身勝手に見えている事もあるでしょう。自分が自身の都合や利益のみを優先させて他人に迷惑をかける事をしていないかは常々自省したいところです。  ですが、迷惑をかけあうのはお互い様だから、他人の身勝手な行為は黙認すべきかというと違います。例えば、流通する商品を買い占めて値段を釣り上げて売りさばこうとする人を黙認するのは、そうした犯罪行為に加担することを意味します。他人の身勝手にはしっかりと抵抗しないと、身勝手な行いは助長されその人の悪い思い違いをも育ててしまうのです。  身勝手な行為をする人などいない、全ては価値観の相違であり、正義と正義の対立に過ぎないと極端に相対的な視点から、全ての言論や行為を肯定する人もおります。このような極論を言う人たちにレイシストが多いのは、彼らが暴力的な恫喝という表現の自由を駆使して、社会的弱者から権利を奪い取りたいがためです。彼らはこうしたヘイトを認めないのは多様性を否定する不寛容だとまで言います。しかし、彼らは忘れています。寛容な社会を維持するためには社会は不寛容に不寛容であらねばならないのです。  そもそも人間が社会生活を送る以上は維持すべき最低限の秩序と言うものが存在します。少なくとも世俗法で平時における私的な殺人と傷害と窃盗を禁止していない国は存在しないでしょう。こうした身勝手な犯罪の自由を認めてはならないのです。

対機説法

 お釈迦様が悟りを開いたあと、自分が悟った内容を人に説くのはやめておこうと思われました。一般の人間には難しく理解できないと考えたからです。それを知った梵天がお釈迦様に法を説くようにお願いしたのが有名な梵天勧請です。梵天は、人々の中にもお釈迦様の教えを理解出来る者もいて彼らは教えを聞かなければ退歩するが教えを受ければ悟りを開けると言ってお釈迦様を説得します。この説得を受けてお釈迦様は「耳ある者どもに不死の門は開かれた」と仰って伝道をする事になります。また、お釈迦様は自分の教えが人を害すると思って教えを説くまいと思っていたと付け加えています。  この話を曲解して釈迦様は一切衆生を救うつもりは無く、優秀な者だけを救おうとしたと言う人もおりますが、お釈迦様の弟子の中で最も愚かだった周利槃特はお釈迦様の指導で一心に掃除をすることで悟りを開きました。お釈迦様は人々の能力や性質を観てその人にあった教えを授けてきたのです。特に大乗仏教が成立して以降は一切衆生の救済は菩薩行における必須の誓願にもなっています。  妄想を信じ込み世間に害をなす人達に対して説得を試みる時に分かりやすく説明する能力は極めて重要です。お釈迦様でも無ければその人の性質を見極めた上手い言葉を用いるのは困難でしょうが、コロナ陰謀論が渦巻く昨今も多くの人達が貴重な時間を潰して間違った風説に立ち向かっています。本当に頭が下がります。しかし、仏ならざる彼らの精神がその作業のためにすり減らないかも気がかりです。心身ともに皆様の健康をお祈り申し上げます。

感染拡大と選挙

 新型コロナウイルス感染症がまた拡大しています。私の勤める病院でも徐々に一般診療に制限がかかって来ています。東京と違い逼迫の度合いはまだ少ないですが、地方都市はそもそも医療資源が貧弱なので戦々恐々です。  この期に及んでもコロナはただの風邪だとか死者数が少ないから問題がないとか言う人もおりますが、その人達がどう考えていても感染が拡大すれば医療の質は低下します。感染防止へのご協力をお願い申し上げます。  バラツキはあるかと思いますが、多くの地域では今月の感染者はまだ増加すると思われます。基本的に籠城するつもりでお過ごし下さい。皆様のご無事をお祈り申し上げます。  この国難に対しての政府の財政出動は恐ろしく低く、経済的にやむを得ず自粛出来ない人達も多いです。そういう人達は、コロナはただの風邪とかいう話を信じやすくなります。誰しも自分の行動が公衆衛生に害をなすと信じたくありませんから当然です。政府が金をばら撒けば陰謀論も少なくなるのは間違いありません。ただ、現在の感染状況やそれに対する政府の動きなどを見ても疫病の早期沈静化はあまり期待できません。今年は選挙もあるし何からの前進があることを願います。  ただし、選挙の時に選ぶのは政党ではありません。候補者をみて、この危機を理解していそうな方に投票をお願いします。与党だろうが野党だろうがいい政治家も悪い政治家もいます。各政党にしっかりした人が増えれば、全体として状況は改善します。看板だけで判断し中身を見ないと痛い目にあうでしょう。盲目的な組織票なんぞ百害あって一利なし。この時期はいろんなカルト集団が跳梁跋扈しますが自灯明法灯明の心で無視して参りましょう。

オリンピック選手の確信犯

 オリンピック憲章は、スポーツを通じて相互理解を深め世界平和を目指す目的があり、対立を避けるという発想から、競技会場で選手が政治や宗教や人種などに関する宣伝活動を禁じている。  しかし、オリンピックで注目を浴びる選手が、その注目を利用して何からの政治的アピールをすることは時々おきる。これらは選手がオリンピックのルールは理解したうえで、自分たちの信条の方が優先されると信じて起こす確信犯だ。  1968年のメキシコシティ五輪では200m走の金メダリストのトミー・スミス(米)と銅メダリストのジョン・カーロス(米)が黒人差別に講義して表彰台で拳を突き上げた。IOCはこれらの抗議活動を、オリンピック精神に対する計画的で暴力的な違反だとして、米国選手団としての彼らの資格を剥奪し選手村から追放している。アメリカ国内からもロサンゼルス・タイムズは彼らがナチス風の敬礼をしたなどといいがかりをつけ侮辱した。  2016年のリオデジャネイロ五輪のマラソン競技で銀メダルを取得したエチオピアのフェイサ・リレサ選手は政府による自民族虐殺に抗議を示すポーズをゴール直前に示した。ところが1968年とはうって変わって、IOCが行なった処分は軽い口頭注意だけだった。事実上の無罪放免だ。時代は変わってきたようだ。  そして、今回の東京五輪では事実上これらの抗議活動は黙認されている。女子サッカーの日本イギリス戦では双方のチームが片膝をついて黒人差別への抗議の意思を示した。彼女らは処分を受けてない。  昨日は女子砲丸投げの銀メダリストで黒人のレーベン・サンダーズ(米)が表彰台で抑圧した人々との連帯を示すポーズを取った。1968年の再来だ。今のところは彼女にも処分は下っていない。  こうした流れは別に良いことなのだが、今や確信犯の方が多数派だ。時代にあった新しく明確な基準を設けておかないといけない。ルールが空文化すれば、そのうちに人々が許容出来るものばかりではなく、領土問題とか宗教対立を取り上げる選手も出てきかねない。IOCにはお金儲け以外にも注意を払っていただきたいものだ。  

一子地

 一子地は全ての衆生を自分のひとり子のように慈悲をもって平等に見る心です。大乗仏教の涅槃経では次のように一子地が仏性であると説かれています。 佛性者名一子地 何以故  以一子地因縁故 菩薩則於一切衆生得平等心  一切衆生必定當得一子地故  是故説言一切衆生悉有佛性 一子地者即是佛性 (大般涅槃経32)  現代語訳では、「仏性は一子地と同じだ。なぜか。一子地を因縁として大乗仏教の修行者たる菩薩は全ての生き物を平等に観る心を得る。そして全ての生き物は必ず一子地に至る事ができるので、全ての生き物に仏性があると言える。一子地はすなわち仏性だ。」となります。  この一子地を得た者は退転することなく必ず悟りに至る位に達したとされます。菩薩の修行段階を示す十地のうち初地(歓喜地)と同じです。菩薩は初地において空の理や仏法を正しく理解したりしますが、初地で最も大事なのは全ての衆生を救う願を立てる事です。一切衆生を救う願い無しに大乗仏教の菩薩は存在し得ないのです。しかも、全ての衆生を平等に想わなければならないのです。自分の子供に対しても、デマを流して私腹を肥やす人にも、殺人鬼にも、聖人君子のような人にも、平等な慈悲を持つのですからまさに至難と言えます。  一子地の位に達するのは至難ではありますが、それを経た仏や諸菩薩の慈悲は平等に私達にも届いていることになり、ありがたいことです。

風鐸

 風のある時にお寺などでガランガランと鳴る風鐸(ふうたく)は、お堂や塔の四隅の軒に吊るされた青銅製の魔除けの鈴です。元々は漢土で占いの道具として使われていたものが、遣唐使により日本に伝えられたと言われます。浄土宗の開祖法然上人により風鈴(ふうれい)と呼ばれるようになり、江戸時代にガラス製の風鈴(ふうりん)が誕生し明治時代にかけて庶民に広がっていきました。近年では風鈴の涼し気な音も近所迷惑扱いでトラブルの元になることもあり、魔を払う効果は失われているのかも知れません。