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疫病退散を祈って十句観音経を唱和

十句觀音経 觀世音 南無佛 與佛有因 與佛有縁 佛法僧縁 常樂我淨 朝念觀世音 暮念觀世音 念念從心起 念念不離心  十句観音経は南宋の頃に作られた衆生を救う観音菩薩を称える短いお経です。巨大な脅威に対してやるべき努力をやり尽くして、時間が余って不安な人もいるかも知れません。そんな時に短いお経を繰り返し唱えたり写経すると落ち着くものです。お試しください。  言いたいことは山程ありますが私ももう腹をくくりました。やれることをやるしかありません。是非もなしです。その上で、一人でも多くの人が助かるように、そして亡くなった人には冥福を、ともに祈ります。  それではまた、合掌。

四諦八正道、その4

 四諦八正道、その4は道諦です。これは先の苦諦でこの世の一切は苦だと受けとめ、その苦を滅するためには煩悩を滅すれば良いということが集諦と滅諦で示され、では具体的にどのようにすれば煩悩を滅して悟りをひらけるのか(涅槃に入れるのか)を示したものです。八つの正しい道、八正道を修めることでそれは実現されるとされます。順にみていきましょう。  一つ目は正見です。物事を極端によらずに中立の視点で、この世の一切は苦であること観て、縁起の法を観て、この世は無常で我というものは存在しないと観れば、世間一般の喜びや貪りもただ空しいものにすぎず執着を離れた智慧のあるものの見方ができるようになります。正見は一つ目の八正道ですが、実はこれがゴールです。続く七つは最終的にこれを補強するものとなります。  二つ目は正思惟です。正しく物を見る事は欲望にとらわれてた偏った立場にあっては出来ません。貪りや渇望や性欲から離れなくてはなりません。また怒りをもってもいけません。暴力を振るうなどもってのほかです。こういう事から離れた正しい考え方をしなくてはいけません。  三つ目は正語です。嘘や誰かを仲違いせせようとする言葉や荒い言葉遣いや無駄に飾り立てた言葉を避ける事です。人は言葉につられて考えや物の見方が変わるものです。言葉づかい一つで他人を傷つけることもあり注意が必要です。  四つ目は正業です。これは悪いことをしないという意味です。生き物を殺したり、物を盗んだり、性行為をすることは禁止されます。  五つ目は正命です。正しいなりわいで生きていく事です。出家僧としては物乞い(托鉢・乞食行)をして生き、しかも必要以上に貰わない事です。なお、在家信者はこうした托鉢をする僧に布施をすることで功徳を積むことが出来ます。  六つ目は正精進です。六波羅蜜でも出てきましたが正しい努力です。善い事をして悪いことをせず、既に起きている悪を絶ち、既に起きている善を育てる努力です。  七つ目は正念です。これはまず肉体とは汚れたものであると観て、この世の一切は苦であると観て、心が無常であることを観て、この世のいかなる物事も自分自身と呼べるものはないと観て、これらに注意をしつつ、これらを取り巻く内外の環境に気づいた瞑想状態を指します。瞑想しながら評価を加えずに現在の状態、例えばただ肉体が呼吸をしていることに

外出の自粛について。

 新型コロナウイルス感染症の拡大もいよいよ本格化してきており、外出の自粛が各自治体から要求されています。自分の身を守るためにも、家族を守るためにも、社会のためにも必要以外の外出は控えましょう。  自粛をお願いしても一定数は従わないの人がいるので、国から命令した方が良いのではないかと思いますし、経済的な対策も急がないといけませんが遺憾ながら政府の対応は遅く不十分という印象を抱かざるをえません。事態はかなり切迫しており大変心配です。  さて、政府に多少文句を言ってしまったからではありませんが、本日は鎌倉幕府に度々忠告をしていた日蓮上人にあやかって、そのお言葉を一つ。 「御酒盛り、夜は一向に止め給え。只、女房と酒うち飲んでなで御不足あるべき。」  これは、有名な日蓮宗信徒の四条金吾にあてた、上人からの注意です。命を狙われていた金吾に夜の酒宴の参加をやめるように勧め、自宅で妻と酒を飲んで何の不足があるかと諭されました。  危険をおかして遊びに出かける事なく、家で家族を大切にしましょう。  それではまた、合掌。

四諦八正道、その3

 四諦八正道の3回目、集諦と滅諦です。前回、お話したように初期仏教ではこの世のすべて苦です。それからどうやって逃れるのかが次の問題となります。大雑把に言うと集諦では苦の原因を探りそれが煩悩(無知・無明)であることを解き明かし、滅諦では原因である煩悩を消せば苦も消えるという事実の述べています。お釈迦様は原因があれば結果があるという因縁・縁起について悟ったとされていますが、集諦と滅諦はこの縁起の法に基づいて組み立てられた話です。  さて、ではその縁起について解説しましょう。仏教では一般的に十二支縁起と呼ばれる、十二の要素が次々原因と結果として繋がり、無明から老死に至る苦を形成するという考え方があります。実のところお釈迦様が悟った縁起の法が本当に十二の要素に分類されていたのか、もう少し少なかったのかは分かっていませんが、今回は十二支縁起の話をします。  十二支縁起自体が有名な話なのでご存じの方も多いかとは思いますが、この縁起の法の解説を聞いた時に、話し手によって解釈が必ずしも一定しないとか、あるいはつながりがよくわからないとかいうことはよくあると思います。実際に解釈の幅は広いです。話の前に先に構成要素を書き出して行きましょう。漢字の仏教用語で書かれてもわかりにくいですが、まずは名称ですのでご容赦を、あとでそれぞれ解説を加えます。以下の通りです。 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死、 無明があるから行があり、行があるから識があり、、、とつながっていって生があるから老死があるとなり、無明がなければ行がなく、、、老死も無い、となります。  ここでまず気になるのは最後の生と老死です。これをいま私達が生まれて結果として老いて死ぬ状態の事だと考えてしまうと、生まれる以前の事に干渉不能な私達は、生以前の原因を滅することが出来ず苦もまた消えません。実際に、生まれた以上は老死は避けがたいわけですからね。ではどう解釈すべきなのか、仏教はもともと輪廻転生の考え方がありますので、この生と死は来世の話と考えて、老死のあとはまた無明につながり十二の要素がぐるぐる回って輪廻転生して苦しみ続けるという解釈もあります。この場合は無明は過去世のものですが、ぐるぐる回っている状態ですので、現世の生老死は過去世からみた来世ですし、現世の無明は来世からみたら前世の事で、来世

行動制限と臨終の場

 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、様々な場所で社会的な行動制限が始まっています。  病院も例外ではなく、新型肺炎でない一般の入院患者様への面会も一律に制限をしている所が多いです。こうした中でも人は色んな理由でお亡くなりになります。大切な家族や友人の最期を十分に看取ることが出来ない事は、先立つ人にも残される人にも辛いことです。  今では人が死ぬ場所のほとんどが病院ですが、昔は自宅で死ぬ人の方が圧倒的に多かったです。しかし、徐々に病院で死ぬ人が増加していって自宅で死ぬ人の数を上回ったのは1976年の事でした。つまり、いま高齢で死期に差し掛かっている人が若かった頃は、死とは自宅で迎えるのが通常だったのです。  実際に、帰宅すれば命が危ない状態でも多くのご老人は家に帰りたがります。家で死ぬのが常識だった記憶がある高齢者と、病院で死ぬのが常識である若年から中年の人では、その感じ方も違うことでしょう。  核家族化が進み、福祉関連の予算も制限がかかる昨今、自宅で最期を迎えたい人達の希望をかなえるのはなかなかに難しいものがあります。しかし、今回のような状態をみると、人間の最後の願いはなるべくかなえたいと考えさせられます。  もちろん、伝染病の患者様は遺憾ながら隔離が必要です。日頃から家族や友人を大切にするのも忘れてはいけません。  それではまた、合掌。

四諦八正道、その2

 四諦八正道のその2です。今回は、その1でお話しした代表的な大乗仏教の経典である般若経が否定した四諦、すなわち苦諦、集諦、滅諦、道諦のうちの苦諦について説明します。  苦諦は簡単に言うと、この世の一切が苦しみであると言う初期仏教における真理です。仏教が向き合ってきた生まれ老い病んで死ぬ、生老病死の四つの苦しみ(四苦)と、好きな人や物と必ず別れなければいけない苦しみ(愛別離苦)、嫌いな人や物と接しなければならない苦しみ(怨憎会苦)、欲しい物が手に入れられず(求不得苦)、肉体と心を持つ事による避けられない苦しみ(五蘊盛苦)、この四つも併せて四苦八苦とされるのは有名なところです。  これは苦しみの種類を単に分類した物では無く、この世の全てが苦であることを説いているのです。以前、仏教の定義を説明した時にお話した三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)がありましたが、それにこの世界は苦しみしかないという見解(一切皆苦)を足したものを四法印とすることがあるほど、この考え方は仏教において一般的なのです。  この苦に対して仏教はどのように立ち向かい克服するのでしょうか?それは残りの集諦、滅諦、道諦まで話さなくてはなりませんが、極めて簡単に言うと、これらの苦の原因は無知や怒りや貪りなどの煩悩にありこれを滅すれば苦もまた消えると言う考え方です。  さて、では日本の仏教を見た場合、この一切皆苦の考え方は浸透しているでしょうか?一部の人には定着していると思いますが、一般的な在家信者にこういった発想はあまりないように見受けられます。  上記の八苦の一つ愛別離苦について考えてみましょう。確かに、愛している人と別れるのは辛いものです。夫婦や親子や友人などケンカ別れすることもあるでしょうが、どんなに良い関係でもいつか死に別れる事は避けられません。死を前にして、それを嘆き悲しみ泣き叫ぶ人もいることでしょう。ですが、多くの日本文化を継承している人達は、どのように死ぬのが理想と考えているでしょうか?もちろん、価値観は多様であり一概には言えまえんが、愛すべき人達に礼をいって穏やかに最期を迎えたいと希望される人が多いように思えます。  この和風な別れの風景では苦は前面に無く、むしろ縁のあった人達との和の完成であり優しさに満ちています。また、実際には内面に苦はあっても、日本の伝統的文化的

世界の混乱に対して思う。

 いま、新型コロナウイルス感染症の拡大により、世界各地で医療崩壊がおこっています。日本は今の所はまだ持ちこたえていますが、今後も感染爆発が起きない保証はありません。持病を抱える患者様たちの間にも不安が強まっています。  医療面でなく経済面でも世界的な大混乱を来しており、これよる死者も含めた被害も悲しい事です。  また、想像したく無いことですが、歴史を振り返れば政治経済の混乱が戦争につながることも少なくはありません。  こんな時だからこそ、仏教者として菩薩行にはげんでまいりましょう。  世界が慈悲で満たされますように、南無佛。合掌。

四諦八正道、その1

 今回は、お釈迦様が悟りを開いて後に初めてした説法された四諦八正道です。今回は本題では無く、ちょっとした仏教史の振り返りにとどめます。  今日では、仏伝や歴史の研究からは、お釈迦様は縁起の法を悟り、この四諦八正道の教えを説いたとされています。「今日では」とただし書きを入れたのは、少なくとも日本でそのように考えられ、また、この教えが重要視されだしたのは明治以降の我が国の仏教史から見るとごく最近の事だからです。  四諦八正道は大変素晴らしい教えで学ぶべきものですが、日本で長年軽視されて来たのには理由があります。現在の日本仏教の主たる宗派の大半は比叡山の天台宗をその母体としています。その天台宗は隋に確立した宗派でしたが、漢訳された仏典の内容に一貫性が無いことに疑問を感じ天台宗の実質的な開祖である智顗により、種々の仏典がいかなる順番で説かれたのかを整理する作業が行われました。結果、四諦八正道を含む初期仏教に近い諸経典は、はじめにお釈迦様が悟った内容を人々に説いたところ難解すぎて理解されなかった為に、レベルを落とした教えとして説いたものだとされました。比叡山に学んだ僧が打ち立てた各宗派でも、初期仏教に近い諸経典が低レベルの教えだとの考え方は半ば常識とされていたのです。天台宗を母体としない真言宗系は密教をその他の仏教である顕教より上位と考えていますので言わずもがなです。より古い時代の南都六宗でも基本的には初期仏教を改革する形で生まれてきた大乗仏教でした。    初期の大乗仏教の経典に般若経がありますが、日本でも有名な般若心経の中に「無苦集滅道」という文言が出てきます。この苦集滅道こそが四諦八正道の四諦なのです。つまり大乗仏教は既存の仏教の構造を否定して生まれてきたとも言えます。なぜ否定したのかは、また般若経の解説をする時にお話しますが、こうした背景もあり大乗仏教が主流の国である日本では四諦八正道は軽視され、代わりに先日からお話していた六波羅蜜の修行が重要視されていました。  この事の良し悪しはおいておくにしても、日本仏教の文化はおおむね四諦八正道とは縁遠いところで発達してきていたのですが、明治期以降に入ってきた西洋の仏教研究の知見は、四諦八正道などが書いてある上座部仏教の仏典を正とし大乗仏教を邪とするようなものでしたので、廃仏毀釈の混乱や西洋の学問を学んだ影響を

中道

 今回は中道の話です。極端な事は避けましょうという意味で仏教の基本の一つです。  お釈迦様は出家するまで王子であり悩みながらも快楽にかたよった生活をし、出家後は凄まじい苦行を行いました。どちらの極端もさけて瞑想をしたことによって悟りを開けたのです。琴の弦は張りすぎても緩めすぎても良い音が鳴らないというたとえで極端をさけるように諭した話は有名です。  仏教では少欲知足といって、欲を少なくして満足する事を知る、という姿勢が重要視されますが、欲を滅ぼし尽くす無欲では無いことが重要です。滅すべき煩悩の一つに貪り(貪欲)がありますが、過剰な欲望が問題なのであって、必要な範囲での欲求は煩悩ではありません。長期間の絶食や不眠など命に関わる苦行のようなことは推奨されません。  お釈迦様が生きていた頃に、王様達がこの世で一番の楽しみは何かについて、美しいもの、音楽、良い香り、美味しい料理、触り心地の良いものをあげて言い合いをしましたが結論が出ず、お釈迦様に答えを聞きに行ったというお話が伝わっています。その時の答えが王たちがあげたどれでも無く「適度の欲」でした。  人は油断すると頑張りすぎたり怠けすぎたりするものです。自分がいま何をしているのかに注意を怠らないようにしましょう。  それではまた、合掌。

お彼岸

 今回はお彼岸の話です。今年は3月20日を中日とした1週間です。皆様はお墓参りは済みましたか?  お彼岸は日本独自の仏教行事で、春分と秋分の日の前後にお墓参りなどをして祖先に感謝します。世界各地で春分秋分を祝う風習はあるので、仏教と日本土着の風習が合わさって出来たものとも言われています。春分・秋分の日はちょうど真西に日が沈むので、西方にあるとされる阿弥陀如来の極楽浄土に関連付けられたとする説もありますが、浄土教系以外の宗派にもこの風習はありますし真偽は分かりません。  お彼岸は日本独自の習慣ではありますが、仏教の思想も内包します。仏教では縁起(因縁)の考えを大切にします。これは、原因があるから結果があり、原因が無ければ結果も無いとする考え方です。仏教で煩悩を滅しようとするのは煩悩が苦しみの原因であり煩悩が無ければ苦しみもないと言う図式が成り立つからです。縁起の法に従えば、ご先祖様がいるから自分たちがいて、ご先祖様がいなければ自分たちもいなかった訳です。  親や曾祖父母などと仲が良ければよいことですが、もしかしたら仲が良くない人もいるかと思います。しかし、相手がどんな人でもその人がいなかったら自分も無かったのは事実です。親からの暴力行為などに対しては、まず自分の命を守り警察へ連絡すべきですが、慈悲や寛容の心も忘れないようにしたいものです。特にもう亡くなった人であるのなら、許してあげるのも仏道にかなうものです。  お墓参りの際に、懐かしく思い出される人はそのご縁に感謝し、そうでない人もそれなりに思い出して忍辱の修行をする縁を頂いたと思い出しましょう。  それではまた、合掌。

ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その5

 ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、初めの布施は別のタイトルだったので「六」波羅蜜ですが5回目の今回が最終回です。前回までの布施、持戒、忍辱、精進、禅定に続き今回は智慧です。  智慧とは一言でいうと煩悩を滅した安らぎの状態です。これまでの五つの波羅蜜を行った結果、智慧をたもてる時間が増していき、その智慧がこれまでの五つの波羅蜜の実施をより良いものにして、より良い五つの波羅蜜がさらに智慧波羅蜜に磨きをかけるのです。そうして退くことのない智慧の完成を目指すのです。先の五つの波羅蜜がうまくできれば結果として医療だけでなく生活のすべてに活きてくることでしょう。  また、六波羅蜜は大乗仏教で選ばれた修行の項目であり、上座部仏教には他の波羅蜜もあります。こういう違いもあって六波羅蜜の場合の最後の波羅蜜である智慧は、通常は大乗仏教の根幹ともいえる般若波羅蜜です。般若心経で有名なあの般若波羅蜜です。もともと般若という言葉自体が智慧を意味する言葉です。  この話をまとめるにあたり、般若に関する簡単なまとめもしておきたいと思います。大乗仏教の成立以前の仏教は、出家の僧が救われ在家はその支援をすることによって功徳を積んで来世で良い機会を得られるようにするという二層構造がありました。大乗仏教は在家やすべての衆生にも救いの範囲を広げようし、またその発想自体が釈迦の真意であるとの考えで行われた仏教の改革運動の結果生まれました。この大乗仏教の最初期にまとめられた経典群が般若心経も含まれる般若経です。既存の仏教でも物事は因と縁によって成り立ち無常・無我であるとの考えはあったのですが、般若経で説かれる空はそれをとらえる物質たる体のみならず、感覚や精神活動も含めてすべてに確たる実態は無いと結論付けました。お釈迦様がとかれた悟りに至る道すらも確たる存在ではないとしています。これは悟ろう悟ろうとして必死に修行に執着するのもいけないということです。様々な存在を否定する一方で存在が全くないと決めつけることも否定しています。こうして極端な考えから離れ執着をすてることを中道といい2世紀ごろインドの竜樹という僧によりまとめられ、のちに中観派と呼ばれることになります。この中観派が日本に伝わった大乗仏教諸派のオリジナルというべき存在で、祖師の竜樹は八宗の祖ともたたえられています。  最後の智慧波羅蜜は般若波

新型コロナウイルスの話、その2

 新型コロナウイルスの話、その2です。とは言っても今回は医療の話ではありません。今回の感染症の拡大で、経済的な冷え込みも著しく、海外では国民に当座の生活資金を配る国も散見されます。景気の急速な悪化は生活困窮者にとって命に係わる問題です。行政には慈悲の心をもった対応をお願いします。多くの人の生活が破綻すれば単にその人たちが困るだけでなく、感染症が落ち着いた後の経済復興にも支障を来し行政にとっても良くないはずです。皆様も世間に向けての意見の表明や陳情など、これも菩薩行だと思って可能でしたら行ってください。  それではまた、合掌。

命の重さに差はあるか?

 唐突ですが家族や友人の命と、見ず知らずの人の命、あなたにとってどちらが大事でしょうか?ほとんどの人が家族や友人の命と答えるかと思います。見ず知らずの人と違い、家族や友人には愛情があるからと当然だ思う人も多いでしょう。それ自体は社会一般の通念としては別に間違っていません。ただ、仏教の思想としては、近しい人への盲目的な愛情は慈悲とは異なる執着であり苦しみを生み出す原因に他なりません。仏教的立場での先の質問に対する答えは、実際にそう思えるかはおいておくとして、どちらも等しく大切であるとするべきところです。また、多くの大乗仏教諸派では慈悲の対象はこの世に生きるもの全てであるので、自分の命も蚊や蝿の命も等しく大切である事になります。  ではもし、目の前に殺人鬼がいて自分を襲ってきたとしたらどうでしょうか?殺す事なく制圧するなり逃げるなり出来れば良いのですが、相手を殺さなければ自分が死ぬという状況で相手を殺す事は許されるでしょうか?また、殺人鬼の標的が自分では無くたまたま近くにいた小さな子供達だった場合はどうでしょうか?殺人鬼を殺すという結果が同じでもこの二つの事例の間で殺人に対する罪の重さに差はあるでしょうか?仏教の律に従えば殺意をもって殺害すれば罪になります。つまり前者も後者も有罪です。前提条件で否定しているので問題の設定が意地悪でしたが、どうにか制圧するなり逃げるなりするのが良いと言う事になります。伝統的な仏教では、殺人鬼の命も自分の命も子供達の命も等しく軽重は無いのです。数も問題になっていません。なお、殺意がなく制圧しようとした結果、不幸にも殺人鬼が死んでしまった場合は殺人としては仏教上の罪(波羅夷罪)には問われません。  原理原則としては上記の通りですが、かつて仏教集団を騙っていたオウム真理教がテロを起こした際に主張していた、生きていても悪業しか積まない衆生を殺す事によって救うとか、より大切な命を守る為に殺すとか言った理屈は、残念ながらオウム真理教のオリジナルではなく、昔の仏教でもそういう風に主張する人がおり、それを口実に彼らはテロを行ったのです。どの命がより価値が高いかなどというのは、人間の勝手な解釈でどうとでもなり、これでは恣意的な殺人が合法化されてしまいます。  では、死刑についてはどうでしょうか?波羅夷罪に該当するかどうかでは、死刑執行の命令を下

サンユッタ・ニカーヤより

怒りよ捨てよ。 慢心を除き去れ。 いかなる束縛をも超越せよ。 名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 中村元 訳 禅語で有名な本来無一物は唐代の禅僧慧能の逸話によるものですが、さらに元ネタはこれなのかも知れませんね。いろいろと追い込まれてしまって、落ち着きたいときに思い出すとよい句です。 それではまた、合掌。

ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その4

 ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その4です。前回までの布施、持戒、忍辱、精進に続き禅定です。禅定を簡単に言うと煩悩を滅して精神を集中される事です。お釈迦様が悟りを開いたのも禅定によってでした。それを目指そうと言うのですから大変そうですね。  ところで私は今、ビハーラ医療に活かす六波羅蜜として禅定を解説していますが、そもそも禅定をするにあたり、なにかに役立てようなどと考える事自体がよろしくありません。煩悩を滅しようとしているのだからそういう下心があっては出来ないのです。じゃあ、禅定は医療には役に立たないのかと言うとそんな事は無く、役立てようとして役立つものでは無いですが、結果として役に立ちます。説明していきましょう。  禅定とは一般的に皆様がご存知の座禅の様にじっと座って精神を集中するものなのですが、突き詰めれば日常生活の行住坐臥の全てが禅の修行となるのです。余計な事を考えずに仕事に集中する状態が禅定の修行の結果自然に出てくるようになります。これは集中しよう気負うと出来なくなってしまいます。まずは、1日のうちでいくらかでも時間をとって禅定の修行をしてみるのが良いでしょう。やってみると分かると思いますが、始めのうちはわずか10秒でも余計な事を考えずに精神を集中するのは難しい事です。  では、具体的にはどうすれば良いのでしょうか?伝統的には禅定の深さは八つに分類されています。出家した人の為の禅定の技術や思想は大変むずかしいものがあります。これは追々解説するとして、今回は日本仏教の主な宗派での禅定の方法の違いを簡単に説明します。実践にあたっては、ご自分の宗派の修行方法をとられるのがよいと思います。下記の説明より所属のお寺にたずねられた方が正確なので、ぜひご検討ください  まずは臨済宗や黄檗宗や曹洞宗などのいわゆる禅宗(まとめられると怒る人もいるのでご注意を)ですが、基本的には見性成仏といって、自分の中の仏に目覚めるとでも言えばよいでしょうか、精神を集中し雑念を払い無心になることで得られる境地です。姿勢をただし呼吸やその回数に集中するのが有名な方法の一つです。椅子でも出来ますので休憩時間にちょこっと禅ということも出来て便利です。  一方で、真言宗のそれは、さまざまなイメージを展開させて世界そのものである大日如来との合一を目指した即身成仏、つまり生きたまま仏

「100日後に死ぬワニ」を仏教的視点から読んでみた。

 今回は巷で話題のWeb連載マンガ「100日後に死ぬワニ」の話です。  この漫画をご存じの方も多いかと思いますが、簡単に説明しておきます。話自体は擬人化されたワニの日常を描く四コマ漫画なのですが、このワニくんは連載開始から100日後に死ぬことが決まっているのです。当のワニくんはそれを知らずに日常生活が続いていきます。読者にはそれが分かっており毎日投稿される漫画のタイトルは何日目であり各回の漫画の最後に死まであと何日か書かれてあります。漫画は作者のきくちゆうき氏のTwitterに毎日更新されておりこれを書いている時点では残りあと4日です。興味のある方は次のURLから原作を御覧ください。 https://twitter.com/yuukikikuchi  仏教は生老病死に向き合う教えですが、私たちが日々生きる中で死に想いがめぐることはそんなに多くないのが現状です。作中のワニくんもまだ若いので、死をあまり身近に感じてはいないように見えます。実際には若くても死んでしまう事は普通にあり、世の無常を感じます。  源信の観心略要集に、世の人の愚かな事には寿命の長短が定まらぬ中で永遠の命を望みこだわる、と説かれています。(原文:世人之愚也。於老少不定之境成千秋万歳之執。)この文中の老少不定は四字熟語としても使われていますね。人間いつ死ぬか分からない、老少不定で有ることを知れば、より時間や人を大切に出来るようになります。時間を浪費したり無題に人と争っていられるほど人の命は長くないのです。  さて、このワニくんの生き方はどうでしょうか?彼は、色んな事で悩んだり楽しんだりしながら充実した日々を送っているようみえます。それ故に、読者しか知りえないもうすぐ死んでしまうという事実はより悲しく感じられるのです。では、もしこのワニくんが毎日毎日なにもせず朝起きてボーッとして準備されたご飯を食べて寝るだけの生活を送っていたとしたらどうでしょうか?本人(本ワニ?)は気にしなくても、その死が近いことを知っている読者は悲しくなるよりも、何か焦りにも近い気分になる人も多いかもしれません。  ダンマパダ(法句経)八章百十二に次の句があります「怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。」(中村元訳 ブッダの真理のことば感興のことば。岩波文庫)。

仏教と女性差別

 現代でも仏教は女性差別的であるとの批判は時々ありますが、はたしてそうでしょうか?今回は、それについて考えてみましょう。  確かに、お釈迦様の生きた時代でも、女性の出家者には男性の出家者よりも多くの規則が適応されていましたが、女性だからと言って悟りを開けぬとはみなされていませんでした。お釈迦様の死後は女性は成仏出来ないなどと言う差別的な考えが徐々に主流となっていきましたが、日本でも主流の大乗仏教はその考えを否定しています。   聖徳太子 のお話をした時に書いたように、日本の仏教伝来時に太子が解説した、すなわち重要視していたのは大乗仏教の経典である法華経、維摩経、勝鬘経であり、いずれも女性の成仏を説いています。法華経は仏法の理解に優れた龍の女性が男性に変じてみせると言うくだりがあり、変成男子と言われます。これは結局男にならねば成仏できぬのでは無いかとの批判もありますが、維摩経でも天女がお釈迦様のお弟子の舎利弗らを女性に変えて男女差別的なこだわりがおかしな事だと諭す場面があります。つまり、簡単に男女の性別を交換するようなこれらのお話は、女性差別と言うよりも、差別的思想への執着を批判したものと取れます。勝鬘経でも、このお経の主人公とも言うべき勝鬘という女性は、お釈迦様から将来に如来(仏)になることを予言されています。日本の仏教はその伝来の時点で女性差別は排されていたのです。  一方、浄土教系仏教の聖典である無量寿経では、女性は死後に女性でなくなり成仏可能とする理屈をとっており、しばしば批判の対象となりますが、現代ではこれも変成男子の理屈として受容されている場合が多いです。基本的には前述の経典と同様に、大乗仏典が成立した際に優勢だった女性差別への反感から生まれた一種の方便と解釈できます。  日本では、仏教伝来の頃、聖徳太子の時代の天皇陛下は有名な女帝である第三十三代天皇の推古天皇でしたし、既に女性差別が著しい社会では無かったものと思われます。飛鳥時代には他にも女帝が多く、大化の改新の際は第三十五代天皇は女帝の皇極天皇で、後に再度即位し第三十七代の斉明天皇となりましたし、第四十一代天皇は女流歌人としても有名で律令制度を完成させた持統天皇です。また平安時代の途中までは土地や建物を女性が相続する例も普通にあることでした。仏教伝来前の話でも日本の主神は女神の天照大神

ジャータカ、転生したらお釈迦様だった件

 仏教にまつわる話にジャータカと呼ばれるお釈迦様の前世の物語があり、いくつも語りつがれています。  仏教が成立した頃のインドでは輪廻転生は世間一般の常識でした。仏教は悟りを開いて苦しみから解放されるのが目的ですが、悟りを開けないと転生を繰り返し、なんども苦しい生老病死が続くとされていたのです。  この考え方は仏教伝来により日本にも定着しています。現代でも死に別れることを今生の別れともいいますが、今生とは今の生であって、前世の生や来世の生が前提となっているのです。仏教的にはどんな虫や動物や悪い人も過去の世で親兄弟や友人だったかも知れず慈悲の心を持つように勧められているのを聞いたことがある人も多いかと思います。昔話だけでなく今でも漫画やアニメなどで転生するお話は作られていますが、それも日本に転生という考え方が根付いていたからだとも言えます。転生物の元祖はジャータカなのかも知れませんね。  歴史的に考えるとお釈迦様自身が、俺の前世はこんなカッコイイ奴だったんだぜと自慢気にお弟子様達に語っとは考えにくく、後世の人達が、こんなに素晴らしいお釈迦様は前世で余程の功徳を積んで来たに違いないと、次々と物語を作っていったのだと思われます。飢えた子をもつ母虎に自分の身を食べさせる菩薩の話や、修行者の供物として自分の身を捧げ火に飛び込むウサギの話(月にウサギの絵が描いてある理由の昔話)、など自己犠牲の話が有名ですが、多種多様な話があります。  こんな話もあります。昔、六本の牙を持つ象の王様がいたのですが、お妃の象の一頭が大変に嫉妬深く色んな誤解から王様を恨むようになり、転生して復讐するために自ら餓死してしまいます。そして人間へ転生した象のお妃は、今度は人間の王妃となって象の王様の象牙を取るように王をそそのかします。王に遣わされた狩人によって倒された象の王様は死ぬ前に、転生した王妃が自分の象牙を欲していると知り、自ら象牙を切って狩人に捧げたのでした。その象牙を届けられた王妃は、念願だったはずの象の王が死が悲しくなり、その悲しみのあまりそのまま死んでしまいました。  この話では象の王様がお釈迦様の前世です。お釈迦様スゴイ!と言いたいところですが、どうしてもお妃の象の愛の重さと悲しさに目がいってしまいます。私達も愛や憎しみで取り返しのつかないことをしないようにしたいものです

怨親平等

 怨親平等という言葉があります。過去現在因果経と言う経に怨親悉平等とあるのが由来とされており、要は自分を怨みに思う人も、自分を親しく思う人も、平等に慈悲の心をもつべきであると言う意味です。  日本では武士が活躍した時代にこの精神に基づき敵も味方も分け隔てなく、戦死者を供養するのはよくあることでした。  あなたは、自分を怨みに思う人に慈悲の心を持てるでしょうか?かりに持てたとしてもその慈悲の心は自分に親しくしてくれる人と同等でしょうか?  たとえば教職にある人が、自分を嫌っている生徒と自分を好きな生徒を担当していたとして、それが学校の評価に影響を及ぼすようなことはあってはいけません。嫌っている生徒の評価を不当に低くし、好きな生徒の評価を過剰にする。どちらもいけない事です。  医療従事者でも同じです。日頃からスタッフに暴言をはき暴れる患者様と、いつも穏やかで挨拶やお礼を言ってくれる患者様がいたとして、それを理由に不当な差別をしてはいけません。慈悲の心が肝要です。  分かっていても無意識にそういう差別は起こりえます。だから怨親平等という言葉として意識に刻み、過ちを少なくするのに役立てましょう。  それではまた、合掌。

狂雲集より

食縁食籍聊茶湯 竹縛菊籬梅補墻 人間世諦尽餓死 地獄遠離安樂長 食籍  一休宗純禅師の漢詩集である「狂雲集」から食籍です。書き下し文は以下の通りです。 食縁、食籍、聊か茶湯、竹は菊籬を縛り、梅は墻を補う。 人間の世諦、尽く餓死、地獄遠離して、安楽長し。  現代語(柳田聖山訳 中公クラシックス「狂雲集」)では以下のようになっています。 食いつないで、どうにか生きていく、食いぶちと、多少の茶と薬は(すべて身辺に与えられていて)、竹垣にまといつく菊や、築地の代わりをする梅でまかなわれる。俗世の論理というものは、共食いによる餓死にゆきつくが、(自分の食いぶちに気付けば)地獄を免れて、いつまでも安楽でいられる。  一休が生きていた時代、努力しても餓死を免れ得ない人も多かったかとも思いますが、分け合えば助かった命が、奪い合いにより消えていった例の方が多かったのかも知れません。    現代でも、奪い合いの結果おきる悲劇はあとをたたず、なんとも悲しい事です。少しづつでも変えていきたいですね。  それではまた、合掌。

不景気のはなし

 新型肺炎の影響もありいま日本は急激な不景気に陥っています。安居堂は仏教と医療のサイトであるので、経済の話はあまり関係が無いように思えるかも知れませんが、不況に陥ると色んな原因で死ぬ人が増えます。経済を支えることは人命を救う事にも繋がるのです。    仏教は欲を少なくして貪らずにちょうどよいくらいで満足する事を良しとしますが、社会全体が極貧に甘んじる事は好ましくありません。医療や福祉や治安維持などの社会保障を支えきれないほどに国が貧しくなれば、人は簡単に死ぬようになり犯罪がふえ餓死する人もでます。仏教はそうなればそうなったで受け止め得る考え方ではあるものの、積極的に人が多く死ぬ状況に社会を放置するのは道義的に認められるものでは無いでしょう。  しかし、お金は貪欲の呼び水となるので注意が必要です。現代社会において命を守るのにお金はあった方がよいですが、何でもかんでもと貪ると、本来は命を守るはずのお金のために人の命が失われるというあべこべの現象すら起きてしまいます。お金がありすぎてもなさすぎてもそれを理由に命を落とすことがないように気をつけましょう。いま大変な状況にある人はまず落ち着きましょう。永遠に続く疫病が無いように不景気も好景気も永続はしません。大変なときこそ何がいちばん大切なのかを考えてください。お金はただの道具であることを忘れないでください。  それではまた、合掌。

ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その3

 ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その3です。前回までの布施、持戒、忍辱につづき今回は精進です。精進とは努力するということです。何を努力するのかお話していきましょう。  お釈迦様が悟りを開いてから初めての説法で四諦八正道という教えを説かれました。この中で説かれた苦を滅するための八つの方法のうちの一つに正精進があります。これは、善いことをして悪い事をしないように、また、すでに起きた悪い事をなくすように、すでに起きた善いことはそれを強めるように努力する事です。簡単なように見えますが実はそうでもない。 ユマニチュードのお話 の時も書きましたが、正しいことをして間違ったことをしないのは実は大変難しい事なのです。  七仏通誡偈という偈(詩)があります。一休さんの書でも有名ですが以下のものです。  諸悪莫作(諸々の悪は行わず)  衆善奉行(諸々の善を行い)  自浄其意(自らの心を清くする)  是諸仏教(これが諸仏の教えである)  これはお釈迦様を含めて過去にいた七人の仏様に共通した教えとされています。六波羅蜜の精進も基本的に同じであり悪いことを努力してもそれは精進ではありません。  医療現場でおこりがちな事ですが、度を越えて忙しくなるとどうしても個々の仕事のクオリティーは低下してしまいます。こんな時にはどうすれば良いでしょうか?過労死するまで奮励努力すれば良いのでしょうか?その努力は正しい精進でしょうか?違いますね。仕事の質を下げずに持続的に働けるような工夫をするのが正しい精進です。では、その工夫も限界な場合はどうでしょうか?結論から言うと持続可能なレベルで妥協するしかありません。サービスを提供する側の労働者が全滅してしまえば、受益者も程なく全滅してしまいます。一部に善い事を選択すれば一部は悪くなることもあるのです。正しい精進をするのも難しいですね。ですが、こうして悩み考える過程にも意味はあります。少しずつ精進して参りましょう。  それではまた、合掌。

ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その2

 ビハーラ医療に活かす六波羅蜜の二回目です。  これまでにお話した布施と持戒に続き、三つ目の忍辱(にんにく)についてお話します。これは苦難に耐え忍ぶ事です。主に怒りのコントロールが重要になります。また、なんでもかんでも耐え忍べばいいと言うものでもありません。順にお話していきましょう。  まずは怒りのコントロールです。以前にお話したように、怒りは代表的な煩悩の一つで仏教者たるもの滅ぼすべきものです。仏教はあらゆる物事には原因があるという縁起の思想を持っています。怒りや貪りの場合は、物事のへの執着が怒りや貪りを生む原因となります。確かに、自分にとってどうでも良いものがどうなっても怒りなどわいてはきません。だから怒りを感じたならば、まず本当にそれは怒らなければならない事なのかを考えてみると良いでしょう。少し考える時間を設けるは大切です。間髪入れずに、怒りのままにそれを言葉にしては、自分の怒りをより固くして、相手の怒りを呼び起こす原因となるでしょう。暴力にうったえるのももちろんいけません。  とは言っても次のような場合はどうでしょうか?例えば、子供が急に車道に飛び出そうとしたので腕を掴んで引き戻しなんてことをするんだと怒ったとしましょう。これは子供を危険から救ったという行為自体は正しい。腕を掴んで引き戻すのも暴力的ではありますがやむを得ないでしょう。では怒ることに関してはどうでしょうか?本来は子供を心配したり子供になぜ車道に飛び出すのがいけないのかを説明しさとすべき話です。怒るのは子供は自分の考えどおりに動くべきだと言う思い込みや執着がある為です。子供は大人の思い通りに動きませんし、何が危険で何が安全なのかまだよく理解できないのです。強く叱り導くのは構いませんが、世の虐待事件をみてもその建て前はしつけです。言うことを聞かない子供に対して思い通りにならない子供に対して怒りを爆発させ大人がしつけを口実に暴力をふるい怪我をさせたり命を奪うことはあってはならないのです。  次になんでもかんでも耐え忍べばいいと言うものではない事の説明です。耐え忍ばなくていい事例とは、自分が耐えることで、他人に害を及ぼす場合です。例えば、独裁者がいたとして、あなたが無実の人を処刑するように命じられたとしましょう。無実の人を殺すなんてとても嫌な事です。だけど、忍辱して独裁者の命令に従った

新型コロナウイルスの話

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 今回は新型コロナウイルス感染症についてです。うちのブログの趣旨からはいくらか外れるかとも思いましたが、この問題でも人々の不安の根源は仏教とは切っても切り離せない病や死にまつわるものだと思い筆をとりました。皆様方の不安の解消にいくらかでもお役に立てればと思います。  これを書いている令和二年三月八日の時点で、日本国内の感染者数はまだ増加し続けています(下図は厚労省発表のデータをYahoo Japanがグラフ化したものです)。休校やイベントの中止など社会全体にも緊張や不安が漂っています。自分や家族や友人が新型肺炎で命を落とすような事がないか心配されている人も多いことでしょう。  方々で言われ尽くしている事ですが、まずはウイルスによる感染症に対する通常の対策を徹底する事が重要です。誰でも出来る手洗いが基本です。咳が出る時はマスクや肘などを使い拡散しないようにしてください。汚染された部分はなるべく触らないようにして着替え着替えた後も手を洗いましょう。あとは無理をせずしっかり休んで食べて体調管理に気を使ってください。また、家族や同居者に風邪などの症状がある場合は可能な範囲で接触を減らしタオルや食器なども別の物を使いましょう。  みんなが感染を防ぐ様に努力すれば、感染が広がる速度も緩みだんだん日本国内のウイルスの量も減ることが期待できます。自分の身をまもるこれらの行為は周囲の人達のためでもあるとの認識を持って行えば立派な菩薩行(慈悲を重んじる仏道修行)です。  さて、そうは言ってもどんな努力しても感染する時はしますし、それで死ぬ確率も決してゼロにはなりません。ほとんどの人がこの状況に対して大なり小なり不安をいだいていることと思います。私も自分が死んだらか家族がどうなるかと思うと心配です。しかし、こう思う時に自分のこころを見つめてみると分かることもあります。つまり、こういう不安がわきおこるのは、日頃から自分の死についてよく考えて来なかった証拠なのです。急に死の事を考えるから心配も強くなるのです。とは言え、私も仕事がら自分の死について全く考えこなかった訳ではありません。どちらかと言うと実感がなかったのです。長い人生で数度は死にかかったこともありましたが、思い返せばその時のような切迫感は日頃はありませんでした。まだまだ修行が足りませんね。  死は大体の場合におい

聖徳太子

 中高年の方ならば日本の高額紙幣の顔が聖徳太子であった事を覚えている人も多いでしょう。また、ご存知の方も多いと思いますが、聖徳太子は日本仏教の祖とも言われています。今回はそんな聖徳太子のお話です。  歴史上の聖徳太子像には色々な説がありますが、少なくとも四天王寺と法隆寺を開き、法華経の解説書を残し、憲法十七条を作り、歴史書を編纂し、隋との外交にあたったのは殆どの説で認められているところです。また、社会福祉にも尽力し、寺院や病院の設立のほか悲田院と呼ばれる身寄りのない老人や病人の為の施設も作ったと伝えられます。大乗仏典の解説も法華経の他に維摩経と勝鬘経の解説も残したとされ「三経義疏」として今に伝えられています。このうち法華経は、その目的がこの世を仏の理想世界にする事であり、維摩経は在家でも優れた仏教者になれることを説き、勝鬘経は女性の正当な権利を保証する教えです。これら仏典の精神は憲法十七条にもいきており、皆で仲良く良い国を作りましょうという太子の意志が感じられます。  これとは別に、信仰の対象としての聖徳太子も、その後の日本に大きな影響を与えてきました。聖徳太子は日本仏教の祖としての崇敬だけにとどまらず救世観音菩薩の化身であるとも信じられ信仰の対象でもあるのです。その信仰は様々な奇譚を生みました。救世観音が皇女の口に入り厩戸で生まれたのが聖徳太子だとする話や、多くの人の話を同時に聞き分けた話などは有名です。他にも天台宗第二祖の慧思の生まれ変わりだとか、善光寺如来と文通したとか、生まれ変わった禅宗の祖の菩提達磨と交流があったとか、四天王寺で交通安全の御守にもなっている太子の愛馬黒駒が空を駆けた伝説など枚挙に暇がありません。  浄土真宗の祖である親鸞も聖徳太子を敬愛していました。仏教の修行に行き詰まり比叡山を下山した親鸞は聖徳太子が建立した六角堂にこもり一切衆生を救う道を求め祈り続けました。親鸞がお堂にこもって九十五日目に、聖徳太子が夢の中に現れ浄土宗の開祖である法然の説法を聞くようにお告げを下されました。その後、法然の元で学んだ親鸞によって確立された独自の浄土教思想は浄土真宗として親鸞の死後も拡大し、戦国時代には一大勢力を形成して織田信長と死闘を演じたりするわけですが、聖徳太子の信仰が日本に無ければ、また違った歴史があったのかも知れませんね。

仙厓の禅画

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 江戸時代の博多で活躍した臨済宗の僧の仙厓は画家としての人気が高いですが、彼の絵には禅の教えが込められています。とは言え、疲れた時にぼーっと眺めると和みます。  ネットからの拾い物ですが今回はみなで癒やされましょう。布袋さんと大黒様と二匹の犬です、きゃんきゃん。

ビハーラ医療に活かす六波羅蜜、その1

 先日、 布施 の話をしましたが、これは大乗仏教の信者が悟りをひらくために行う六つの徳目である六波羅蜜という修行の一つにもなります。ちなみに、浄土真宗では悟りをひらく為に自分の力をもって行う修行は全部否定しています。しかし、阿弥陀如来の本願力にあえば自然にこういった良い行為をするようになるとしており、西本願寺が出版している子供向けの発行物にも六波羅蜜の説明は入っているくらいなので、真宗の門徒さんも自力で行わなければ問題ないでしょう。  さて、六波羅蜜を1回で全部説明するには長すぎますし、有名な話なのでご存じの方も多いでしょうから、ここでは持戒について説明した後、それをビハーラ医療にどう活かすかという視点から六波羅蜜を見ていきたいと思います。  六波羅蜜一つ目の布施は以前の記事「 介護に役立つ仏教の言葉2 」を見てもらうこととして、今回は二つ目の持戒の話をします。  持戒とは大乗仏教の禁止事項をまもることです。出家の僧には多くの戒がありますが、在家信者がまもるべき戒は一般的には次の五つになり五戒と呼ばれます。 1.殺さない 2.盗まない 3.よこしまな性行為をしない 4.嘘をつかない 5.お酒を飲まない  特別な斎日にはさらに厳しく出家の僧にならった八斎戒というものもあります。上記の戒の3がよこしまなものだけでなく性行為自体が禁止となり、さらに、午後に食事を取らない、音楽や舞を見聞きせず身を飾らない、寝具や座具を質素なものにするの三つが加わります。これは特別な日の戒なので、今回は五戒についてみていきましょう。  まず、殺さないです。これは自分が起こした事故で誰が死んでも殺した事にはなりません。普通に生きていれば十分にまもれる戒だと思われるかも知れませんが、実はこれが一番むずかしい話です。通常ではこの戒は、人間だけではなく虫や動物も殺してはいけない対象となっています。そうなると蚊や蝿やゴキブリも殺せなくなります。肉や魚を食べるのは自分が殺していなくても、自分で食材を購入した時点で対価を払って誰かに殺させた事になります。貰い物の肉でも誰かが自分の為に殺したものはダメで、余り物なら食して良いという決まりもありますが、その判断は難しいでしょう。では野菜や果物しか食べなければどうでしょうか?人間が栽培した作物が出来るまでは、畑を耕して地中の虫の一

稲荷神と日本仏教の関係

 今日は旧暦の二月初午の日です。和銅四年 ( 西暦 711 年 ) 二月の初午の日に稲荷神が伏見のお山に降りたとされております。今では新暦二月の初午の日にお祭りされる事が多いですが、二月の初午の日は稲荷社のお祭りの日です。さて、そんな稲荷神ですが、実は日本仏教と強いつながりがあります。古いお寺に参ると境内に稲荷社があるところも多いので、目にしたことがある方も多いことでしょう。    稲荷神と仏教との関係で最も有名な話では京都は東寺の国宝にもなっている五重塔を弘法大師空海が建設中に稲荷山の木を伐採したため、時の天皇が祟られたと言うものです。以後、東寺と稲荷大社は関係を持つようになり、空海が稲荷神に仏教の護法神となってもらう様にお願いしたとされています。今でも伏見稲荷の還幸祭の時には稲荷大社の神輿が東寺に立ち寄っています。  また、曹洞宗の開祖である道元が南宋の国に留学した時に体調を悪くし、その際に治療してくれたのが稲荷神だったという伝説もあります。曹洞宗では他にもダキニ天を稲荷神として祀っている豊川稲荷こと愛知県の妙厳寺も有名です。  神祇不拝 ( 神様は拝まない ) として有名な浄土真宗の西本願寺も明治になるまでは伏見稲荷大社に初穂を供進していました。真宗の現生十益では護法善神が行者を護るとも解釈されており、日本の神々を軽んじてはいません。  とは言え、当の伏見稲荷大社はかつて神宮寺として境内にあった愛染寺とはあまり良好な関係ではありませんでした。江戸時代後期の国学者伴信友も、日本の神々を仏の仮の姿とする本地垂迹説に強烈な反感を持って最澄や空海を糾弾しています。そして、明治になり起きた廃仏毀釈により、日本中の神社から神宮寺は消滅しました。    この様に色々あったお寺と神社ですが、今でもお寺の境内に稲荷神やその他の神を祀る祠などが散見されます。これは仏教だからと言うよりもみんな仲良くしようと言う日本的な発想に由来しているのかも知れません。日本仏教の祖とも言える聖徳太子も、「和らかなるをもって貴しとなし、忤ふることなきを宗となす。」と言っており、和のこころを大切にしていきたいものです。  先祖から受け継いだ大切な事を、後に残る人達にも伝えていきましょう。  それではまた、合掌。

懺悔文

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋癡(かいゆむしとんじんち) 従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)  今回は多くの宗派で読まれる懺悔文(さんげもん)です。  自らの悪業を仏の前で懺悔する内容で、「私達が昔からつくってきた悪い業は、みな貪りと怒りと無知に由来しこの身と言葉と心によってつくられてきました。これら一切を私達は今、懺悔します。」と言う意味です。  死を前にしてこれまでの自らの行いに後悔の無い人はいません。いたら凄い。  昔やってしまって今ではどうしようも無い悪いことや、過去にもう少し良いことが出来たのではと言う思いは、歳を重ねるごとに増えていくものです。日頃は忘れているようなこれらのことも、自分の死について考えると、やたら心にひっかかってきます。  そんな時は懺悔文をお勤めするのも良いでしょう。仏様は必ず懴悔を聞いてくださいます。  念の為の補足ですが、浄土真宗では一般的には懺悔文はお勤めされません。しかし、徹底的に自分が凡夫であると叩き込まれて慚愧をもってお念仏もうしていますので、懴悔の心はしっかりあります。  懺悔文は短い文なので、気力や体力が落ちている時の写経にもおすすめです。よかったらお試しください。    それではまた、合掌。

平常心是道

 茶の湯が禅(主に臨済宗)の影響を受けているのはよく知られた話です。このため、茶席の掛け軸には時に禅にまつわる書がかけられています。  表題の平常心是道(びょうじょうしんこれどう)もそんな言葉の一つです。いずれ死を迎える私達にとって大切な言葉だと思い取り上げてみました。    この言葉は、南泉普願と言う僧が、仏道とは何であるかと尋ねられた時に答えたもので、日頃からの心のありかたこそが仏道であるという意味です。その心はどうすればつかめるのかと更に聞かれた南泉普願はつかもうとすればつかめなくなると返しました。仏道とは何か特別な心や状態では無く、朝起きてご飯を食べて働いて風呂に入って寝る、この繰り返しの全てに現れるもので、それを意識したり言葉にしようとすると嘘っぽくなるものです。何か良いことをする時も悪いことをしない時も、自分が凄くて偉いからそう出来たのだと思えばそれは傲慢です。自分というとらわれから抜け出せれば、あくまでも自然に気にすること無く仏道を進めることでしょう。なかなか難しいですね。  ただ、自分が今にも死にそうな状態になったとしても、どんな状況でも仏道を修める事が出来るのだという意味にも解釈でき、なんとも心強い言葉です。  

介護に役立つ仏教の言葉2

布施行  今回の介護に役立つ仏教の言葉は布施です。お布施という言葉は日常的には法事などの対価としてお寺やお坊さんに払うお金のことを意味してますが、布施の本義からすると間違っています。ここでは仏教者の行としての本来の布施のことをお話して参ります。布施の精神を介護にもですが人生に役立ててみましょう。  布施とは困っている人や尊敬すべき人など他の人に何かを施すことを言いますが、同時に自分の執着を捨て去るための行(修行)なのです。布施を行うにあたっては、布施を与える人と、受ける人と、布施される物の三つが清らかである必要があるとされます。これを三輪清浄と呼びます。  清らかであるとはどういうことでしょうか?まず、布施を行う人が布施を施した人に対して、自分はこんな良い施しをしてやったのだからと見返りを求める心を起こしてしまっては清らかとは言えません。むしろ、布施を受けてくれてありがたいという気持ちをもってこそ布施だと言えるのです。  布施を受ける側も清浄でなければなりません。例えばお坊さんが受け取ったお布施が少額だったからと言って、法事や葬儀で手を抜けばそれは清浄ではありません。ただ、このような扱いを受けたからといって布施をした施主が怒っては、布施は何かの対価ではなく執着を捨てる行なので、やはりこれも清浄ではありません。もちろん、今から強盗するから武器を布施するように言ってくるような人の犯罪を幇助してはいけません。  布施される物も清浄でなくてはなりません。布施行を行うために物を盗んでくるような事はあってはなりません。また、布施される物は必ずしもお金や品物である必要もありません。温かいまなざし、和やかな笑顔、優しい言葉、体を動かしたお手伝いやお世話、慈悲の心を持った思いやり、席を譲る、安らげる場所を与える、これらのことは無財の七施と呼ばれる立派な布施なのです。  こうした見返りを求めない布施が人から人へお互いにつながりあっていければ、貪りや怒りが人々から薄れていき世の中は良くなっていくことができます。  さて、こうした布施の精神を介護の現場にいかすにはどうすれば良いでしょうか?必死に介護に務める家族や介護士でも、悲観的になった患者様から否定的な言葉を受け無力感にさいなまれたり、逆に怒ってしまう事もあるでしょう。そうした時に布施の精神を思い出してくださ