釈尊在世の頃は人は次々に悟りを開いていた話
釈尊在世の頃は、その弟子は次々に悟りを開いていた。その後、時代が降るにつれて悟りはどんどんと不可能なものになっていった。これは、人間の資質が劣化していったからだと言われることが多いが、現実的には高々数千年の間に人類がそんな劣化することはない。お釈迦様の入滅後、人々が悟りを開けなくなったのは部派仏教の人達が悟りへのハードルを果てしなく高くしていったからだと考えるのが妥当だろう。
大乗仏教のある意味でのインスタントさは、不必要に権威化してしまった仏教への反動であり、計らずもそれが原点復帰に近い教えを生み出したといえる。だが、もちろん大乗仏教こそ原始仏教だなどというつもりは毛頭ない。両者は基本的な思想を共有しつつも明らかに別物だろう。
しかし、大乗仏教を非難する人の多くは、原始仏教と違うから大乗仏教は邪道だとか仏教ではないと言う。そこで問いたいのだが、そもそも原始仏教とはなんぞやと言う話だ。
大乗仏教を批判する人が用いる原始仏教という言葉は、どれもこれも批判者が考えた最強仏教に過ぎない。それもそのはずで、原始仏教は後世の文字化された経典からその姿を類推するしかないものだからだ。原始仏教にも縁起の思想はあったであろうが、それは大乗仏教にも当然存在する。おおよそ仏教の根幹たる思想は大乗仏教にも継承されている。では原始仏教支持者が大乗仏教を批判する根拠は何か?彼ら個々人の考える俺様の原始仏教と大乗仏教が違うからだという以外にない。
そんな個人的思想への執着で、大乗仏教は簡単に成仏し衆生を救うという詐欺だと言われても困るし、彼らが言うほど簡単でもない。道林禅師ではないが、三歳児に分かることが八十の老人にも実践しがたいものだ。自利利他を基本とする大乗仏教に比べれば、自利のみを説く俺様の原始仏教の方がよほど簡単だと思う。だいたい簡単だと悪いという発想がおかしい。実際に釈尊在世の折には人々は速やかに悟っていたのだから、原始仏教こそ簡単でなければ困る。そして、簡単に悟れるのならばそれは素晴らしいことだ。
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