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大晦日

 皆様、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします。  実は今年は絵本を出す計画もあったのですが、諸事情で頓挫しました。いずれ機会があればまた挑戦したいと思います。  ブログの方も時勢柄コロナと陰謀論の話題が多かったように思います。なんとか穏やかな世になって欲しいものです。  生きている間は修行の身ですが、少しでも悪いことをせず善いことが出来ればいいなと思っております。  南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧

科学と仏教

 科学は言語で表現出来ない物は扱えない。人間の認識の外に何かしらの真理があっても、人間は五感で得た情報を統合して言語的に思考しそれを推測するしかない。人間は自己の認識の外に出ることは出来ない。  思考には言語が必要だ。非言語的思考もあるだろうが、論理的思考には言語は不可欠な存在だ。科学の限界はほぼ言語の限界に等しいと言える。言語に縛られない真理を扱うのは非科学的であり、概ね宗教の役割だ。宗教は科学の対極と思われがちだが、仏教は必ずしも科学とは対立しない。一部の部派仏教などは科学のことを無用なものと目の敵にしているがそれも歪んだ認知だ。  大乗仏教の唯識論では言語的な分別は妄想や執着に過ぎないとされる。人間が自己の認識の中に閉じ込められている存在である以上、言語で真理を正しく言い表すことが不可能だからだ。何者かに名前をつけて一般化すると認識は名前に引っ張られて正しく見ることが出来なくなる。例えば、何とか民族は敵だとか、坊主は丸儲けだとか、大学の先生は高慢だとか、そういう言語的な先入観に縛られると歪んだ認識しか出来なくなる。仏教の八正道の第一にして修行の目的でもある正見(偏見無く正しく物事を見る)は他の七つの正道と関連しているが、正見を得るために直接的に必要なのは第八番目の正定でありこれは非言語的な瞑想だ。仏教が偏見を嫌うように、科学の実験も偏見を断たねば誤った結果を出しかねない。自分の予想通りの結果であって欲しいとか、こうであったら業績が認められるとか、これで金儲け出来るなどという邪念が心にバイアスを生むのだ。煩悩を断つ仏道修行はきっと科学の発展にも寄与出来るだろう。  俗世間の日常生活も重んじる大乗仏教の視点では科学が発展し人々が幸せに生きやすくなるのは大変よいことだ。科学と仏教はお互いに対立すること無く助け合っていけるはずだ。科学者ならば分かるだろうが、科学実験には公正さや高い倫理性が要求される。科学者は仏教者に向いている仕事だと言える。また、世に仏法を説いても人々の空腹を救う事も病を治すことも出来ないが科学にはそれが出来る。素晴らしいことだ。

科学的に正しいという断言

 科学者は断言を嫌う。医学でも、例えば薬の効き目は偽薬との比較で統計学的に有意な差を持って有効であると思われたものや、既にある薬剤との非劣性をもって、効果があるモノとされる。絶対に効く薬ではないし、副作用も起こりうる。有効である可能性が高い、医者が処方するのはそういう断言できない薬だ。  一方で、医者が統計学的には効果が無いと思われるあるいは有害だと思われる薬剤を、医者の信念に基づき処方する場合がある。こうした処方は非科学的だと断言出来る。新型コロナウイルス感染症の患者にイベルメクチンやシクレソニドを処方するスカポンタンの医者は非科学的な呪術医と言っていいだろう。彼らは経験的にどうのこうの反論するが信用に足るエビデンスを用意してから文句を言うべきだ。  確かに、厳密な治験を経た統計的に効きそうな薬がなにかの間違いで実は全く効果が無い薬である可能性を完全に否定することは出来ない。しかし、それは実は私が記憶を失った空飛ぶスパゲッティ・モンスターだったという可能性を否定できないレベルのありえない話であり、通常はそんな馬鹿なことは無いと断言して構わない。  科学者は断言を嫌う。だから一般人に物事を説明する時に、煮え切らない自信なさげな印象を与えてしまう。有益性や危険性やそれを証明した方法などの仔細は別途説明するとして、少なくとも政治的には開口一番「科学的に正しい」と断言してしまった方が、科学を解せぬ人を誤った道から救うことになる。人口に占める科学リテラシーを持つ人間が少数派である以上は、科学的に正しいという断言は嘘ではなく方便というものだ。  また、一定の科学リテラシーを持っている人間にとっても、自分の専門以外の高度な分野に関しては理解が及ばない事がある。だから専門家はそうでない人に分かりやすく説明する技術が要求される。自分だけが理解出来る真実なんて検証しようが無い。表現出来ない物は科学的には無いのと同じだ。文章や図表や数式で表せる物しか取り扱えないのが科学の限界でもあるが、哲学的宗教的な真理の探求は科学の範疇ではないので気にする必要は無い。

仕事納め

 そろそろ仕事納めの時期です。小生は病院務めなので仕事納めは名ばかりです。病院はいつもよりスタッフは減り一般外来も閉鎖されますが年末年始も病棟や救急外来は24時間稼働しています。小生も年末年始期間の半分くらいは病院に泊まり込みです。病院は労基を守るように言ってます。しかし、緊急時に専門分野の人がいないと患者が死ぬので、それに備えてこちらが勝手に泊まるだけです。当然ですが実働分以外の超勤は付きません。宿舎は壁も薄く、暖房をつけていても寒いです。コンビニ飯をかっ喰らいつつ冬用寝袋を2枚重ねし硬い床で寝ると臥薪嘗胆の心構えが涵養される素敵な職場です。  とは言え、仕事納めが本当に仕事納めになっている職種もわりと少ないかと思います。みなさん過労死しないようになるべく休みましょう。  一部の右翼からは日本の医者は全く働かないとか、ただの風邪を大げさに騒ぎ立てているなどと罵倒されまくった1年でしたが、新型コロナウイルスは未だ十分に危険ですし、労働時間も過労死ラインを大幅に突破しているのでまあ勘弁してください。尤もほぼ不眠不休で何かを叩きまくっているネット戦士たちの活動時間には及ばないかも知れません。ネットで暴れている人達もたまにはゆっくり休んでみてください。きっと違うものが見えてきますよ。

美しい

 いわゆる美人は、世間から外見が美しいと評価されるだけではない。彼女らには様々な罵声が浴びせかけられる。ちょっと可愛いと思って好き勝手にやっているだとか、出世でもしようものなら美人だから引き立てられたとか、資産家と結婚すれば相手をたぶらかしたとか、そりゃあもう無茶苦茶な言われようをされる。さらに、次々と言い寄ってくるストーカーまがいの怖い男どもをいなす技も必要だ。そんな攻撃に耐える強い精神力と、実際に評判を落とさないための知性と教養を兼ねそ備えていないと美人は美人とは呼ばれないものだ。批判だけしている人間とは苦労の度合いが違う。実際に美人の方が社会的に優位な立場に立つのは遺伝的素養だけでなく、こうしたすさまじい努力の成果でもあるのは覚えておいてほしい。外見だけ良くても中身がアレならそんないい目にはあわない。外見という遺伝的要素は体力や知能などと同じで、それを持っているからというだけで批判されるいわれはない。  しかし、最近では人の外見を美しいと言うのも醜い者への差別だとしてルッキズムであると批判されるようだ。だが、美醜の判断というのは著しく主観的なものであり、ある人が美しいと思った物や者が、他の人にもそうである保証は無い。私が大学生の頃にこの世で最も美しいと信じていた女性は、同級生たちに言わせるとそうでもなかったそうだ。仏教者たるもの二項対立につながる偏見は避けるべきとの意見もあろうが、それが遍計所執性(言語に基づく分別で非実在)だと分かっていれば差し当たり問題なかろう。科学的視点でも美は絶対的な値として定量化される類のものではない。そんな曖昧な美について個人の感想すら制限されるのは人権侵害と言っても過言ではない。また、こうした美に関わる表現を完全に規制すべしとの思想は芸術の否定にもつながる。  一方、審美眼には大きな個人差があるとは言え、時代や地域によりある程度の傾向というものはあり、それで得をする人も損をする人もいるのは事実であろう。そこで損をした人は機会を平等にしても仕方がないので結果の平等を訴えるのも納得できる話ではあるし、それに同情した人がそうあるべきだと思うこともあるだろう。そういう人達が美を否定する価値観を持つのは自由だし、仲間内のコミュニティを形成するのも自由だ。だが、社会全体が美を否定するように強要するのは勘弁願いたい。美を主張する人は美が多様で相

知の暴力

 暴力は直接的物理的な物だけではない。圧倒的な知的格差はそれを利用した暴力を生む。例えば認知症の患者様や知的障害のある人は、しばしば詐欺の被害に遭う。また、介護者から虐待を受けても確知されにくい。暴行されても上手く周囲に伝えられないし、介護者に口封じされるからだ。また、外見は親切そうにしている介護者ならば、知的障害のある被害者が虐められていると第三者に訴えたところでなかなか信じてもらえない。知的弱者は健常者に収奪されがちだ。  人間は残酷だが臆病でもある。知的弱者からは嬉々として収奪する人も、自分より圧倒的に賢い人間から騙され収奪されるのを恐れる。結果として自分の理解出来ない高度な話をする人を恐れるし、世界経済を動かす人を見ては自分が騙され収奪されているのだと妄想し憎悪する。  だから社会全体の知的レベルを向上させれば、妄想や陰謀論に取り憑かれる人は減る。その場合、知識を詰め込むだけでなく考え方をしっかり学ばせるべきだ。無知は恐怖を生む。知識を信じているだけでは発展性がなく予期せぬ事態に対応できない。より多くの人に分かりやすい教育が必要だ。昨今の反知性主義の陰謀論者の多さは戦後日本教育の敗北と言える。今や立法や行政に関わる人間の中にも下らない妄想や陰謀論に取り憑かれた人が散見される体たらくだ。  だが今日、陰謀論にハマっているのは概ね子供時代の教育制度が現在よりも歪んでいた中高年世代だから今の若い世代が大人になる頃には状況は改善するのかも知れない。とは言え現代の教育界にも問題は山積であり、引き続き改革はするべきだろう。

戦時中の浄土真宗教学

 昨日、 懐中名号 の話をした時に少し触れたが、戦時中の浄土真宗教学はかなり無茶苦茶だ。当時もかなりの数の浄土真宗団体が存在したので教学と括ってしまうのも乱暴かも知れないが、だいたいは阿弥陀如来と天皇陛下(国体としての日本)を同一視していた。阿弥陀如来としての権能まで勝手に期待された昭和天皇には同情を禁じえない。  また、日本を浄土とみなす説まであった。この世は穢土という浄土教の基本理念、換言された一切皆苦を根底から覆している。日本が浄土だといっても人は毎日死んでいるぞというツッコミには、日本人は肉体が滅びれば神になるから誰も死んでないとかいう理屈でゴリ押ししている。  さて、浄土真宗には特徴的な回向観がある。それによると回向には浄土に生まれようとする往相回向と、極楽浄土に生まれた仏が穢土に戻ってきて人々を教化する還相回向の二種類があるとされる。天皇陛下が阿弥陀如来で日本が極楽浄土で日本人が往相回向によって生まれた仏であるならば、その仏達は浄土日本の外の穢土に赴き人々を教化せねばならぬ。世界をあまねく浄土日本に組み込むのを是とする過激思想の完成だ。  こうして出来た浄土真宗過激派は極めてファナティックだった。さすがは一向一揆の末裔とでもいうか手段とか政治とかそんな自力のはからいを一切かなぐり捨てた、成功も失敗も何も分別しない暴力的なまでの信に没入するのを良しとしている。どうしてここまで過激になったのかを考えてみよう。まず、漢土の仏教では仏法(真諦)と王法(俗諦)、即ち宗教的な真理と世俗の常識は別にして考えるという真俗二諦という思想がありそれが日本にも伝わった。日本の、特に浄土真宗では仏法と王法はお互いに助け合うものとして重視していた。しかし、現実に存在する天皇陛下を阿弥陀如来に、日本を極楽浄土と捉えたことにより、世俗と宗教的真理が一体化してしまった。だから、本当なら自力のはからいでどうにかすべき世俗の問題も全て国の命令という他力を信じてまかせてしまうことになったのだと思われる。  真諦と俗諦は無駄に分裂していたのではなく、混ぜると危険だと先人は知っていたから分けていたのだろう。在家主義の大乗仏教では世俗から完全に離れるのは困難であり昔から似たような問題はあったはずだ。伝統には何らかの意味がある。目先の利益や雰囲気でやすやすと変更したら痛い目にあうものだ。

懐中名号

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 懐中名号は写真に示すように豆本大の超小型の名号で三つ折りにして持ち運べる浄土真宗の本尊だ。(五円玉は大きさの比較目的)  懐中名号は、先の大戦で出征した浄土真宗門徒の兵士が戦地で礼拝するために使った陣中名号が戦後に名前を変えたものとなる。現代では旅行先などに持って行く用途となっている。実際に展開して礼拝しなくても、本尊とともにあるという気持ちは門信徒の心を引き締めるに十分だろう。  懐中名号を戦争で使われた物として嫌う人もいるが、携帯可能な本尊が戦争を起こした訳ではない。陣中名号を開発した戦時中の浄土真宗の教学が好戦的だったという批判もあるが、名号に瑕疵がある訳ではなく人間側の問題だ。間違った行いを嫌うのは良いとしても、その時代の物を全て否定するのは中道的とは言い難い。懐中名号が存在を許されない悪だというのは、ラジオや自動車や船や飛行機が戦争で使われたので存在を許してはならない悪だと批判するようなものだ。  懐中名号は仏具店で販売している場合もあるが、西本願寺や系列の寺院でも授与可能なので門徒で興味がある人は問い合わせてみても良いだろう。

拡大自殺という言葉

 拡大自殺という言葉がある。言葉の定義にはやや混乱もあるが、アメリカ精神医学会によると、自殺のプロセスとして殺人と自殺の両者を行うことで、自分のアイデンティティの一部に属すると感じる「拡張された」自己(である他者)を殺害し、その後に自殺を遂行することだとされる。この拡大自殺(Extended murder)は自殺の前に意図的な殺人を行う(Murder-suicide)の一部だ。  最近この拡大自殺という言葉がMurder-suicideの意味でマスコミで使われているのではないかとの疑問がある。元々自殺する予定の人が自殺前に強い怨恨の念で行った殺人に拡張されたアイデンティは関与しない。自殺の前にやっていることはただの殺人だ。この行為を拡大自殺と言ってしまうと殺人のニュアンスが薄れてしまい、精神病理的な話に聞こえてしまう。また、自殺を企図する本来は救うべき人間に対して過度に何をするか分からない危険人物であるかのような印象をもたせる恐れもある。  拡大自殺などと言わずに、殺人後に自殺したと言った方が良いのではないかと思う。強いてい言うならMurder-suicideを直訳して殺人自殺か?

飲む中絶薬

 内服する人工妊娠中絶薬ミフェプリストン(と中絶胎児排出目的のミソプロストールのセット)が今週ラインファーマ社から厚生労働省に承認申請される。1年以内には承認される見通しだ。  人工妊娠中絶の手術は母体に大きな負担となるため、内服薬が承認されれば中絶する女性の心身の負担を緩和するのに役立つ。ミフェプリストンは1988年から一般に使用され既に80ヶ国近くで承認されており安全性は十分だ。手術と違って術者による当たりハズレが無く、ヒューマンエラーが起きる可能性も少ない。費用も手術より圧倒的に安く、手間や苦痛も少ない。画期的と言ってよい薬だ。国によって違いはあるが今回の申請では妊娠後63日目(第9週)までの服用が必要になるとみられる。ある程度の時間的余裕はあるので、気がついた時には内服出来る時期を過ぎていたという人もさほど多くは無いだろう。また、悪用を防ぐためにアメリカでは医師が見ている前で内服する形となっている。  コロナ禍の影響か令和2年の日本の人工妊娠中絶件数は14万5340と令和元年の15万6716より減少したがかなり多い。飲む中絶薬が認可されれば中絶が増えるのではないかと危惧する声もあるが、カナダでは中絶薬の導入前後で、明らかな中絶率や有害事象の変化はなかったという例もある。中絶手術費用が高額でも妊娠を継続し出産した方がかかる費用は高額であり、中絶の必要がある人は無理をしてでも中絶するものだ。また、出産の意思がある妊婦が、中絶費用が安くなったからという理由で中絶することもまずいないだろう。どっちみち中絶率が変わらないのなら中絶する人の経済的精神的肉体的負担を軽減するのはよいことだと思う。  個人的には全ての子供に無事生まれて幸せに生きて欲しいと思うが、例えば強姦などで望まぬ妊娠をした女性に命の危険まで背負わせて出産させるのは非人道的といえる。また、貧困状態で妊娠してしまい中絶せざるを得ないこともあるだろう。母体が妊娠に耐え得ぬ状態ならば言うに及ばない。中絶絶対反対のプロライフ派の人が想像するような気軽に胎児を殺しまくるサイコパスはいてもごく少数であり、彼女らの蛮行を防ぐためにその他大勢の人を不幸にするのは間違っている。  飲む中絶薬が無事に承認されるように祈る。

ミャンマー軍の住民虐殺を支援する日本

 元国会議員の渡辺秀央がミャンマー軍政を支援するように日本政府や企業に対するロビー活動を続けている。無辜の住民を拷問にかけ虐殺するミャンマー国軍は渡辺秀央に言わせれば素晴らしい民主化への努力をしているそうだ。また、渡辺によると今回の軍事クーデターはアウンサン・スー・チー氏率いるNLDの不正を糺そうと話し合いを持ちかけた軍をスー・チー氏が無視し続けた結果であり、そもそもクーデターにはあたらないとまで言い切っている。  もし日本が渡辺の言うところの素晴らしいミャンマー軍を支援すれば、多くの市民が殺される事になる。断じて許してはならない。この渡辺の暴挙は既にミャンマーで軍に迫害されている諸民族にも知られている。日本の信用や評判にも関わる話だ。ミャンマーの軍政が倒された時に日本が軍政を支援したなどという汚名をかぶらぬ為にも渡辺と彼が率いる日本ミャンマー協会の野望を食い止めねばならない。

バッシング

 犯罪者が社会的なバッシングを受ける時、攻撃する側の動機は何だろうか?社会的正義の実現を目指すものかもしれないし、被害者に共感するものかもしれない。また、自分はそんなことをしないと周囲に示すためにわざと目立つように非難したり、叩いても構わない相手を叩くのが気持ちよかったりするのかもしれない。  犯罪者だけではなく、何かしら目立った人間は叩かれる。それが例え善い事で目立った人でも売名とか偽善とかと言われて叩かれる。  そればかりか事故や犯罪の被害者までも叩かれる事がある。被害に遭ったのはあれが悪かったからだとかこれが悪かったからだとか、酷いものでは死ねばよかったのにとかザマアミロとか散々に言われる。  だから、もし自分や仲間が見ず知らずの人達から社会的に叩かれていても、実害が無ければ気にせずに、犯罪行為に及ぶ場合は粛々と法的対応をするのが良いだろう。何か問題が発生している時は、関係者からの苦情や報告をよく聞いて対応を検討するべきであり、外野からのバッシングに対応する時間も手間も勿体無い。  技術の発展によりネット上の嫌がらせも高度化しているが、法と秩序は守られるべきであり私刑を野放しにしてはいけない。メタバースなどにも対応可能な法整備は今のうちからしっかり考えておくべきだろう。

香港の選挙

 本日2021年12月19日は香港の国会に当たる立法会議員選挙の日です。香港の一国二制度が崩壊し中国共産党の支配を受けるようになって、以前の自由な選挙はもうありません。3月に「愛国者による統治」を目指す選挙法改正があり、候補者と成るには親中派10名の推薦と、共産党に忠誠を誓う愛国者の認定が必要となります。民主派や独立派は立候補から出来ないのです。世界各国の親中マスコミにちゃんと民主派も候補者となっているけど共産党支持者達が選挙で圧勝したと宣伝させる為に、自称民主派の中国共産党の傀儡候補は出馬しています。しかも改選90議席中、住民の投票で選ばれるのは20議席、残る70議席は事実上共産党の指名で決定します。  近年まれにみる茶番です。残念なことに日本の国会議員の多くは中国を恐れており、勇ましいことを言う議員も口先だけで結局なんの行動もしません。北京五輪の外交的ボイコットも対中非難決議もマグニツキー法も全て叶いませんでした。かなわないどころか議題にすら登っていません。保守派の先生方も口先だけではないと言うのなら、発議くらいすれば良いのです。出来ることすらやらないのは本当はやる気のない単なるプロレスであることの証拠です。何某先生は頑張ったけど、岸田首相がダメだったとか公明党がダメだったとか支持者に言わせて次の選挙の票を確保したいだけのエセ保守いや商売保守議員に過ぎません。嘆かわしい。

健康詐欺

 個人的には自分が担当する患者様が、法外な値段でなく健康に害がない程度のサプリメントや健康食品や健康グッズを使うのを無理には止めない主義だ。もちろん特別な効果があると思っている訳ではなく、それで本人が安心するのならそれはそれで良いからだ。ただし、サプリメント等の効果は食品以上のものでは無いことや過剰摂取の危険性などは説明してるし、健康グッズに関しては正直に気休め程度であることと適正に使用しないと危険であることも説明している。  以前は怪しい電気治療機を何百万円もの金額で買わされたり、核酸飲料なるおよそ殆どの食べ物に含まれているであろう成分の飲み物を何万円もの高値で買わされていた患者様もおり、そういうものに関しては、無害そうでも詐欺ですよと教えてきた。しかし、敵もさるもの、近年では微妙に高い程度の金額設定が増えている。本人が騙されたと分かっても、被害金額がそこまで高くなければ家族にバレにくく、本人も恥ずかしがって黙っていることが多く、結果として詐欺師が訴えられるリスクが減る。薄利多売を目指しているようだ。  こうした詐欺被害の多くは認知機能に障害を来している独居老人だ。認知機能の低下で騙されやすくなっているのもあるが、ずっと孤独に耐えかねていたところに訪問販売員を装った詐欺師が親切そうな顔で話を聞いてくれるのだから情に絆される面もある。こういう事態を避けるためにも、家族の支援が期待できない患者様には公的な介護サービスの積極利用を勧めているがいやがられることもある。また、公的サービスを利用してもデイサービスなどで詐欺商品が口コミの蔓延をきたす場合もあり注意が必要だ。  先日、私の担当するごく初期のアルツハイマー型認知症の患者様(仮にAさんとしておく)に次のような話があった。Aさんにもアルツハイマー型認知症の患者様にスタンダードに投与されるドネペジルという薬を処方していた。ドネペジルは言うなれば認知症の進行を緩やかにする薬であり、内服を続ければ認知症が治るようなものではない。それゆえに、初期からの投与が重要となる。認知機能の低下が進行し生活や生命の維持にも重大な問題が発生するレベルまで病状が悪化してから投与しても意味はない。認知症患者の大半は高齢者であり、認知症の進行をある程度抑制できれば、寿命まで人間らしい生活も可能となりうる。そんなAさんは健康食品の訪問販売を受けてお

閑居

 遺教経に次の文言があります。  汝等比丘 若求寂静無為安楽 当離憒閙 独処閑居  (汝ら僧侶よ、もし煩悩を滅した静かで落ちつた安楽を求めるなら、喧騒を離れ一人で閑居せよ。)  この言葉の少し後には、世間で衆生を救おうとすれば、木に鳥がたかって枯れるように、あるいは泥沼にはまった象が溺れるようになるとも書かれています。  自利利他の菩薩行は大乗仏教の基本です。衆生を忌み嫌い山野に逃げ込むとはケシカランという人もいるかも知れませんが、菩薩行を修める仏教者自身が倒れたら元も子もありません。自分の健康を気遣うのも自利利他の心にかなうものです。閑居も修行ではありますが、人間関係のストレスに悩む時などはお坊さんでは無くても一人旅に出て静かに過ごすのもいいでしょう。  お釈迦様も6年の修業の後に一人菩提樹の下で悟りを開き法を説こうと決心されたのであり、イエス・キリストも40日間の荒野の誘惑が救世主としての活動につながり、ムハンマドもヒラー山で瞑想をしている時に天使ジブリールから啓示を受けたのです。皆ある意味で閑居して力を蓄えた後に人々を救ったのです。  彼らのような偉大な者では無い凡夫たる我々の菩薩行には限界があります。利他に疲れた時は少し休んで英気を養うのが良いのです。その中で見えてくるものもあるはずです。  日々あふれるデマに対して一つ一つ丁寧に対応されている色んな方面の専門家には、妄想にとりつかれた人からの攻撃もあります。人助けに尽力する専門家のストレスは大きく、その心身の健康が気がかりです。最近の例では、ドイツのザクセン州では反ワクチン活動家による首相の暗殺計画まであり、医師や政治家も攻撃されています。  そうだ閑居に行こう。

懺悔

 人間誰しも失敗する。その際に迷惑をかけた人に謝罪することが出来れば良いのだが、そうもいかない事がある。  例えば、電車の運転手のミスでダイヤが乱れたら、利用者にはあまり気にしない人から遅延のせいで人生に大きな影響が出てしまった人までさまざまな人がいるだろう。都会ならば影響を受ける人は万人に及ぶかもしれない。その一人ひとりに運転手が謝って回る必要は当然ない。会社が状況を説明・広報すれば済む話だ。だが、その運転手は責任を感じ気を病むかも知れない。国鉄系企業の悪名高い日勤教育は、個人の良心と責任感につけこんで会社の管理責任を末端の労働者に押し付ける洗脳的懲罰だ。  ヒューマンエラーは必ず起きる。それを防ぐためには仕組みの工夫をすることが第一であり、現場の人間を精神的に追い詰めてはならない。個人への懲罰を強めれば、エラーやそれに至るかも知れない危険性は管理職に報告されなくなり、やがて重大なエラーが頻発することになるだろう。  とはいえ、エラーをしてしまった者はやはり気にしがちだ。これは人として自然なことで、逆に全く気にしないのもどうかとは思う。  他にも雑踏の中で誰かの足を踏んだように感じても人流に流され相手が良く分からない場合は、謝ろうにも同様の加害/被害者は山程いて特定出来ない。お互い様だと割り切れればいいが気がかりで仕方がないこともあるだろう。  もちろん個人の責任が明らかな場合はまず責任をとるのが先決だ。しかし、慙愧の念は残るだろう。  こうした心のモヤモヤを解消するためにも神社や仏閣はある。神仏の前で静かに手を合わせて懺悔を聞いていただくだけでも精神衛生上よろしい。

中国が全て悪いのか?

 中華人民共和国の習近平国家主席とその取り巻きは、過去と現在の人権蹂躙や膨張主義的行動により多くの人から反感をかっている。その問題に対しては文句を言うべきだ。だが、憎さ余ってか、地球温暖化は嘘で欧米諸国の力を削ぐためにデッチあげられた中国の陰謀だなどと真顔で言う人がいる。  もちろん地球温暖化は厳然たる事実であり、中国を守るために作られた陰謀では無い。脱炭素の取り組みについては、その方法論など考えるべき点も多いが、地球全体の問題だ。中国が規制を守ら無いから有利だと言うのなら下らぬ陰謀論を唱える前にルールを守らせる努力をすべきだ。  残念だが、このようなヘイトに突き動かされているだけの人は他の意見がいくら合っても味方にしてはいけない。その知見や言動は信用に値せず、つるんでいればいずれは正当な批判も世間から疑問視されることになろう。

未だにテレビでは

 テレビはあまり見ないから気づかなかったがYTVでとんでもない番組が放送されていたようだ。 https://twitter.com/netabaremtg/status/1469215355705106434  コロナは流行らせたほうがいいなどという馬鹿なことを言っている。流行らせて変異も大量に生ませて長期化しても、危険因子を持つ人が死にまくって健康な人もある程度死んで残った大体の人が免疫を獲得すればそりゃまあいつかコロナ禍は終わるだろうさ、大量の人命と経済的損失を残して。ワクチンや治療法の改善に注力してより短期間で終息させた方が圧倒的に死者も経済的損失も少ないのは明白だ。  さらに問題なのは、こんな番組を作っても多くの人がチェックもしただろうに放送されてしまったということだ。この番組制作に携わった多くの人は何がおかしいのかを理解していないことになる。日本社会の知的敗北だと言ってよい。しかも、この番組をみてそのまま信じてしまう人だって出てくるだろう。  科学的に明らかに誤った情報の流布は言論の自由ではない。今回は特にこの情報によって人命が奪われるのだからテロに等しい行為であり、行政的な処分を強く望む。

自損損他

 自損損他は、自らを損じ他者も損ずることです。大乗仏教の菩薩行の理念である自利利他の反対語になります。  自利利他は仏道修行において他者の利が自分の利と同じとなる状態で、世界の幸せが私の幸せという境地です。同様の意味の自行化他は自らが仏道を修めることによって得たものを他者の教化に役立てるニュアンスがあります。これらは利他の精神に基づいていますが、まずは自分が仏道に励むことが第一です。  対して、自損損他の自損は、怒りや貪りの煩悩に突き動かされた言動により自分を害する事です。そのような行為が他者にも迷惑を及ぼし損他となるのは自明です。菩薩行の基本は、物惜しみせずに施し、悪いことをせずに、怒らないように耐え忍び、努力を続けて、心を落ち着かせることですから、煩悩のままに行動することはまさに菩薩行の対局にあります。  菩薩行の実践は自利や利他になるのと同時に自損と損他を防ぐ意義もあるのです。

ナスルディン・エペンディ

 ウイグルの昔話にナスルディン・エペンディというおじさんがよく登場する。そのだいたいは頓智話で、王様や商人や役人や欲張りな人をやり込めるものが多い。  その一つに、王様から自分が死んだら天国に行くのか地獄に行くのかと訊かれたナスルディン・エペンディが王様に斬首された人で天国が満員だから地獄に行くと答える話がある。  なんとも因果応報な話だ。ナスルディン・エペンディが今の東トルキスタンを見たらなんと言うだろうか?全知全能の神の天国が定員オーバーすることは無いだろうが、あまりにも多くの人が死んでいる。  イスラム教では人間の左右の肩には天使がいてその人の行いを記録しているという。独裁者の肩の上で、その悪逆非道っぷりを記録し続けなければならない天使には同情を禁じえない。

輪廻三道

 仏教の前提として人は輪廻を繰り返しており、輪廻からの解脱を悟りと定義している訳ですが、その輪廻のあり方を示した考えに輪廻三道と呼ばれるものがあります。  三道の内訳は、人間の惑わす根源である煩悩を惑道、その煩悩により引き起こされる言動や考えを業道、業によって輪廻を繰り返すことを苦道としています。  このうち、怒りや貪りなどの煩悩から争いや罵りなどの行動が起きるという、惑道から業道までは理解しやすいですが、個人の行いである業がなぜに輪廻に結びつくのかは直感的にはわかりにくいところです。  この業と苦=輪廻は仏教の基本である縁起の考えによって結びつきます。昨今、流行っている親ガチャなる言葉にもありますように、人間は生まれた途端の個人の努力とは無関係な状態で、既に親の良し悪しにより生育環境に大きな差があります。縁起の考えに従えば結果には何かしらの原因があるはずですが、生まれたての赤ん坊が生まれた環境の原因となる何かをし得たとは思えません。こうした事を前世の業が相続された結果だと考えたのです。生まれたての状態のみでなく、個人の寿命や禍福も前世の業の影響だと考えられていました。  現在の東南アジアに根強い部派仏教もこの考えが基本にあります。部派仏教では出家していない在家信者は成仏の対象外なので、現世で善い業を積むことで来世でより成仏に近いポジションを狙おうとするのです。  日本を含む東アジア地域の大乗仏教は在家信者も成仏を目指していますが、善業を積んで来世につなぐという発想も併存してきました。しかし残念なことに、この業の考えを曲解し、現世で不幸な目にあった人は、前世での行いが悪かったから自分の業の結果を自分で得た「自業自得」であるして見捨てたり差別を助長する人もいました。全くけしからん話です。不幸な人を見捨てることこそ悪業なのは言うまでもありません。  輪廻三道をまとめると、人は煩悩に突き動かされた業によって解脱できずに輪廻して、煩悩→業→輪廻→煩悩→業→輪廻→煩悩・・・・を永遠に繰り返すと考えられています。この輪廻の大元は煩悩な訳です。煩悩を抑えて悪い業を積まずに生活するのは仏教者の基本となります。高度にストレスがかかる現代社会では煩悩も湧きやすいものです。用心して参りましょう。  どうしても煩悩を断ち難い時はとりあえず行動である業だけでも正しておけば、社会的な悪影響を最

今年も世界人権デーがやってきたけれど

 今年も世界人権デーがやってきたけれど、世界の人権の状態は控えめに言って悪い。地域によっては最悪だ。  人権を守りましょうという記念日があるのは、世界で人権が守られていないからだというのは間違いないが、物事には限度というものがある。  冷戦の終結を直接的に知る昭和以前生まれの何人が21世紀になっても民族浄化を目指す独裁政権の超大国がこの地球上に存在するなどと予想し得たであろうか?少なくとも昔の私が人類をかいかぶりすぎていたのは明白だ。  日本人としてもっとも嘆かわしいのは日本政府が、その独裁国の顔色ばかりを伺い臆病な行動しかとらないことだ。  まあ、そんな政府を間接的にとはいえ選んだのは我々国民だ。世論を変えていけるように人権を守れと声をあげていくしか無い。  人権を守れ。

四十二章経の三十四

 四十二章経の第三十四章には鉄を鍛える時のように修行も少しずつ進めていくのが良いと書かれています。頑張り過ぎたらいけないのです。以下に一部を引用します。  於道若暴 暴即身疲 其身若疲 意即生悩 意若生悩 行即退矣 其行即退 罪必加矣  大まかな意味は「もし仏道の修行を(中道の精神を忘れ)激しくしすぎれば、体が疲れてしまい、疲れてしまえば悩みが生じてしまう、悩みが生じれば修行は退行してしまい、悪いことをしてしまうようになる」となります。  四十二章経は伝説によると西暦67年に漢土に初めて伝わった仏典とされていますが、実際には5世紀頃の作と考えられています。なんにしても古い経典です。そんな昔から頑張りすぎてかえって道を踏み外す人は多かったのでしょう。  何らかの修行をする人間にとって体調管理は基本のキです。過労に気をつけて加減良く精進して参りましょう。

成道会

 12月8日はお釈迦様が悟りをひらかれた成道の日とされます。成道の日が本当は何月何日だったのかは国や地域ごとに諸説ありますが、日付が違っても成道を記念する成道会の法要はそれぞれ行われます。日本の仏教界ではお釈迦様の成道は旧暦12月8日だとされており、現代では新暦12月8日を成道会をする事が多いです。お釈迦様が悟りを開かれた偉業を讃え、私達も成仏できるように精進したいものです。  また、成道会の12月8日は人権週間(12月4〜10日)の期間中でもあり、お釈迦様のように一切衆生の幸せを祈るには良い日です。  目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。(スッタニパータ 147)

老い

 人間誰しも健康でいたいものです。若くて持病も無い人間はあまり健康に気を使う傾向にはありませんが、これは健康であるのが当たり前だと感じているからです。年齢があがり老いてくると、目は見えにくくなり、体力も弱り、あちこち痛くなって、その他も多くの障害が出てきます。人は健康を失ってからしか、そのありがたみを実感できません。  老いは仕方のないことです。老いに抵抗する努力により健康寿命を伸ばすことは可能ですが、いつか必ず敗北します。それなのに何がなんでも人生最強の状態にしようと、現在の年齢や体力を無視したハードなトレーニングをすれば体を痛め、かえって体力を落とすこともあります。逆にどうせ老いるのだからと何もしなければあっという間に筋力が低下してしまいます。適切な強度の運動が効果的です。何事もちょうど良い加減というものがあるのです。成仏するまで中道の視点を目指したいものです。  診療現場では、病気の進行により余命幾許も無いと思われる人が「どうすれば元通りになりますか?」と聞いてくることがあります。どう答えるかは状況によりけりですが、少なくとも患者様自身は何かしら特別な努力すれば若い頃のように飛んだり跳ねたりできるようになると心のどこかで信じているか、そういう奇跡を願っているのです。残り少ない時間を実現しない夢を叶える努力に費やさせるよりは、現在の状態で出来ることを心残りの無いようにさせるのが良いと思いますが、最終的にどうするのかは患者様自身の意志によります。病状を説明して考えてもらう事になります。  老いと病と死に抵抗しようとするのは生物としては自然なことです。しかしながら、老いと病と死を覆そうと努力する人はしばしば詐欺に引っかかります。本人も見守る側も注意しなければなりません。老病死に苦しむ人に自分なら奇跡を起こせますと嘘をつき多額の金品を巻き上げていく詐欺師達の汚れた心がいつか浄化されるように祈ります。  また、家族が患者様にとにかく死ぬ気で頑張るように勧めることがあります。頑張ってどうにかなる状態の人ならばいいのですが、医学的に見て努力してもどうにもならない状態の人や、すでに十分に頑張っている人に、お前の状態が悪いのは努力が足りないからだと言うのはなんとも残酷なことです。家族としても元に戻って欲しいという気持ちで言っているのがなお辛いです。  必要以上に老け込む必要はな

余計なお世話

 利他的な行為はしばしば偽善だとか余計なお世話だとか言って批判される。批判するのは他者の利他的行為に迷惑している本人だったり、まったくの第三者だったりするが、基本的には個人主義を優先し、他人への介入を嫌う姿勢だ。現代日本では自己責任論が強く、一見すると利他行為の否定は正しいかのように思えるかも知れない。  しかし、この考え方はイジメ問題などでいじめられる方にも問題があるとか、痴漢の被害は女性も悪いとかいう、極端な発想に行き着きがちだ。いじめられている子を助けるのも痴漢被害者を助けるのも利他的行為で、加害者側の意図を挫く他者への介入だ。  利他的行為の全否定はつまるところ強者全取りの支配構造を是とする思想でしかない。もし自身の利他的行為で相手が迷惑がればその時やめれば良いだけだ。臆せず利他行為に励めばいい。  他人がどうなってもよいという無関心さは、社会問題を深刻化させる。気がけて利他を強調する必要があるのは、人間の弱い心では注意しないとすぐに他人を見捨てる事に何かの言い訳をつけようとするからだ。  また、仏教的に考えると利他行は布施行であるべきだ。こちらの行為に対して相手が不満を言っても気を悪くするのは本末転倒だ。利他行は見返りを求めてはいけない。そういう邪心が起きる時は慈善事業のネット募金など、第三者から利他行がわかりにくい事をしてみるのもいい。求めてはいけない見返りとは直接的なものでなくても、利他行をする自分を周囲によく見せたいというものもあるからだ。古来から陰徳が重んじられたのは、目立つようにする善行はなにかしら有形無形の見返りを求める邪心が起きやすいからだ。もちろん、目立つからといって苦しんでいる人を見捨て悪を野放しにしてはいけない。目立ってしまう場合もやる時はやらねばならない。

叫び声

 軍事独裁政権下の民衆が時に伝える悲しい弾圧の光景は、単なる報道素材では無く、彼らが世界に助けを求める叫びだ。  情報統制がされている国では、こうした情報を外に持ち出すのも命がけだ。外の世界に伝わる情報はごく一部のものでしかない。  独裁支配体制が確立している北朝鮮などの情報はほとんど出てこない。出てくる情報がそもそも少なすぎる地域は、何か問題があると見ていい。そうした国で公的な支配を受ける報道機関等から出る情報は、地域の活力や美しさを全面に出しそれを導いた独裁者を称える。  中国が占領下におくウイグルなども好例だ。そもそも中国は独裁国だが、それでも昔はそこそこの現地情報はあった。ウイグルが巨大な監獄と化した現在ではそうした情報も減った。  ウイグル程は弾圧が強くはない香港でも、自由に物を言えば逮捕され最悪の場合は発言者ごと闇に葬り去られる現状では、積極的に情報を発信しようとする人も減る。  昨日、中国は中国的民主なるものを発表し、自国が民主的かどうかは国民が判断するとのたまわった。言論の自由を持たぬ国民の内心の判断は表には出ないだろう。  今日は、ミャンマー人のデモ隊が軍用車両に轢き殺される画像を見た。動画撮影者も配信した人間も軍に狙われるだろう。彼らは平和な国にニュース素材を渡す為にそんなことをしたのではない。助けて欲しいという叫び声なのだ。

ペットへのマイクロチップ装着義務

 来年6月から日本国内のペット販売の際に犬猫へのマイクロチップの装着が義務付けられます。コロナ禍の影響か昨今ペットの購入が増え、それと同時にペットの遺棄も増えています。ペットへのマイクロチップの装着はこうした遺棄の防止や、災害時にペットとはぐれてしまった際に発見しやすくするなどの効果が見込まれています。  現在でも犬の場合は、毎年の狂犬病ワクチン接種の義務があり、死亡した際にも役場に報告しなければならず、犬の生存状況は公的にある程度は管理されている形となっています。  対して猫はというと特に公的な管理はありません。そのため、無軌道な餌付けで増殖する野良猫も多く、捨て犬はほぼ見かけませんが、猫に関しては生きたまま袋詰にされてゴミとして捨てられるなどの痛ましい例もあります。  このような状況もあり、昨年度の日本で殺処分される猫は犬の約5倍にもなっています。公的な管理が動物虐待を防ぐのは間違いないでしょう。  一方で、今回導入されるマイクロチップは皮下に挿入されているだけですので、素人でもやろうと思えば切開して除去でき、証拠隠滅は容易です。それでも、遺棄が露見すれば罪に問われる可能性もあることから、毒殺やケージごと密閉して外傷のない自然死を装った殺害を行う人が増える恐れもあります。動物が不審死をしても検死はありません。結局は簡単に動物を殺す人間の取締りを強化しないと問題の根本的な解決にはならないでしょう。  フランスではバカンスに行くためにペットを遺棄する人が多く、世界中どこでも身勝手な理由でペットを殺す人がいます。そもそも、生き物を育てるのはかなりの手間と費用がかかります。知識や経験が不足している人がペットショップでプロが育て展示している可愛いペットを見て衝動買いをしても不幸な結果を招くことでしょう。安易なペット飼育は避けるべきです。売れれば良いからと飼育の大変さを説明せずに大量に犬猫を販売するペットショップとブリーダーも多く、もはや組織的動物虐待と言えます。ペット業界の闇は深いです。  マイクロチップの装着義務でペット虐待がなくなるわけでは無いでしょうが、一歩前進ではあります。次は虐待する人達への罰則強化とその確実な運用をお願いしたいものです。先日、子猫4匹をごみ袋につめて収集所に捨て殺害した男も、10万円の罰金のみでした。残念ながら動物愛護法は適正に運用されていませ

悟りと諦め

 あきらめは何らかの意思を断念する場合に使われる言葉だが、漢字で書いた場合の諦めるの「諦」は物事を明らかにするとか真理とかの意味になる。  しかし、一般的な意味で物事を諦める時も、そこには一つの真実が明らかになる。それは何事も自分の欲望のままにはならないということだ。無限の財や権力を得ることも、誰かを無限に生かすことも、それをどんなに望んでも出来はしない。  頑張れば出来ることを諦めるのも問題だが物事には限界がある。私が生まれた時からどんな英才教育を施されていたとしても、ウサイン・ボルトより速くは走れないし、朝青龍と喧嘩をして勝つこともない、藤井聡太に将棋で勝つことも出来ない。そんなのは地面にパンチをして地球を割る努力をするようなものだ。もっとも、その努力の過程で培われた能力は他の仕事などに役立てることも出来るだろうが、無理なものは無理だと諦めるのは、より良く生きる為に必要なことだ。  欲望といっても、例えば生きるのに必要な適度な食欲は問題ない。だが、必要以上に貪り食うのは奪いとりや不健康を招くので避けたいものだ。また怒りの対象を破壊しよとする欲望も容易に人を傷つける恐ろしいものだ。無限に湧き出る怒りや貪りの煩悩に起因する欲望の全てを満足させることは不可能だが、持っている煩悩を捨て去りその欲望を諦めるのは可能だ。  煩悩を無くした穏やかな状態の極地が悟りだから、諦めとは悟りに近づく行為だと言える。しかし、煩悩を捨て悪いことをしないよう精進するなどの必要な努力は諦めてはならない。  また、科学の研究はそれ自体は善いも悪いも無いが、人間は科学技術を用いて、飢えや病や苦役を減らしてきた。戦争にも使われてきたが、生活が昔よりも明らかに楽になっているのも科学の恩恵だ。科学の発展に尽くすのもまた人のために役立つ。使い方を誤るのが問題であり、それは科学ではなく倫理の問題だ。科学の研究は利他主義の大乗仏教の心にかなうといえる。たとえ研究の結果が出なくても諦める必要はない。失敗した記録でも共有すれば後の研究には活きるものだからだ。また、大乗仏教も受け継ぐアビダルマの仏教は単に哲学的宗教的な思索だけでなく、現代で言うところ自然科学の分野も内包していた。もちろん、現代科学から見れば間違った内容だが、科学研究や学習も真理を明らかにすると言う意味で諦めることであり、科学の研究には高い倫理性も

オミクロンに関する一部の世論

 新型コロナウイルスの新たなに見つかった変異がオミクロンという呼称になった。この事についてまたも憶測であれこれ言う人がいる。  発見から日が浅く詳しい情報がまとめられるのはこれからなのに、ただの風邪だ的な事を断言する人が多いのには日本の教育レベルの低さに暗澹たる気持ちになる。  競馬の結果予想くらいにいい加減な事を断言する彼らの度胸だけは褒めてあげていいが、控え目に言ってアホだ。確固たるエビデンスに基づかない単なる願望は、予言として当たっても科学的な価値は無い。そんな無根拠な予測で、多数の命に関わる政策をどうこうしろなどと自信たっぷりにありがたい御提言をなさる元政府関係者様などは迷惑なだけでなく、陰謀論的な世論を育てる危険分子と言っても過言では無い。  もっとも彼らが言うには世界中にこれだけの被害をもたらしたコロナ自体がただの風邪なのだから、オミクロンの脅威の程度が本当はどうであっても仲間内ではただの風邪という認識になろう。結果、自分たちの妄想が正しいとさらに確信するに至ると思われる。  こういうリテラシーの低い人達が「医療関係者はただの風邪であるオミクロンを危険だと煽ってキャッキャと喜んでいる」などという意味不明の誹謗をしているが、こちとら胃を痛めながら警戒中だ。そしてこんな馬鹿な事を考え、発言し、公衆衛生に有害な行動を取る一部の国民も我々医療者が守るべき対象だ。  反ワクチン活動家もまだぼちぼちいる。ワクチンに関する正しいリスク・ベネフィットを理解しても感情的にワクチンを忌避するならまだ理解可能だが、無茶苦茶な陰謀論を根拠に公衆衛生を脅かす言動を取る彼らも、医療者は守らねばならない。  この2年近くで日頃の自衛官の苦労が少し分かった。彼らは過激派やそのシンパから罵詈雑言を浴び危険な嫌がらせを受けつつも、そんな国民も守るべき対象だとジッと堪えている。その強い忍辱の心は敬意に値する。

伝統宗派の護持

 都市部の寺院や観光化されている古刹は大丈夫だろうが、過疎化している地方ではここ数十年内にかなりの寺院が統廃合されるだろう。実際に多少名のある地方のお寺でもその建物や仏像がかなり傷んでいる例も見られる。既に補修する資金が無いのだ。  人が地方から大都市に出てそこで家庭を築けば、本人の存命中は故郷の墓参りもするだろうが、その子や孫の世代は墓にもお寺にも仏教にも縁遠くなってしまう可能性が高まる。つまり、地方のお寺が少なくなるだけではなく、仏教徒自体が人口の減少より早く減少する恐れもあることになる。  檀家が極端に減れば宗派の存続自体が危うくなる。問題はそれだけではなく、伝統宗派との縁が薄くなった人はカルトに狙われやすくなる。カルトだけでなく、上座部仏教も昨今はさかんに布教しており、その信者の一部は極めて攻撃的に日本の伝統宗派があたかも悪鬼羅刹であるかのように罵ってくる。こうしたカルト等の信徒が瞋恚にとらわれ祖国の伝統に対して悪口の限りを尽くす姿はなんとも哀れだ。また、仏教だけでなく宗教自体を前時代的悪習として排撃する左翼過激派思想なども伝統宗派との縁が薄くなっている人には浸透しやすい。日本の伝統宗派は日本の文化に長年かけて馴染んできた仏教でありなんとか護持していきたいところだ。  大都会に生活の拠点を移した人も故郷の宗派は都市部にもその寺院はあるので縁を持ち続けてほしい。地方の過疎化は深刻で、故郷に残った親族が皆死んでしまったり最悪の場合お寺自体が廃寺になることもあるだろう。だが、お墓は放棄せずに移設するか維持が困難なら合同墓にお骨を移すなどしてお参りする場所は残しておいてほしい。また、仏壇の無いご家庭が増えているのも、主には都市部への転居によるものだろう。故郷の実家には仏壇はあったはずだ。大都市に出た第一世代は子供の頃は仏壇がある家庭で育ったが、その子は仏壇の無い家庭で育っており、将来独立しても仏壇を住居におく可能性は低い。戦後、地方から上京し金の卵などと言われた世代はもう鬼籍に入る時代となっており、そういう家庭では既に3世代ほど仏壇を知らない生活が続いていることになる。仏壇を置くのがスペース的に難しければ、小さな仏像やお軸だけでもお祀りして聖徳太子以来の伝統を守っていきたい。お金が無ければ自分で紙に名号や題目を書いたり、仏画を描いたりをコピーしたものでもいい。仏壇の