戦時のジェンダー論

 当然と言えば当然だが戦時下において平時のジェンダー論や男女平等論は通用しない。侵略され多数の命が失われることが見込まれる際に、将来を担う子供や人間の再生産の律速段階である出産可能な女性は第一の庇護対象であり、その他の人間が敵を食い止めている間に逃げてもらわねばならない。動けぬ高齢者も逃げてもらわねばならぬが、移動にかかるコストから見殺しになることもある。敵を防ぐことに割くリソースが大きすぎて手が回らないからだ。

 防御側からみた場合、男は戦い女は逃げるのが基本であり、そこで男が平等を主張して逃亡を図るなど唾棄すべき臆病者との扱いとなる。女性でも戦う人はいるが、それは特殊技能を持つ者か人員が払底した場合だ。戦時には明確な性別による区分が存在する。女性は四の五の言わず前線から離れ後方に逃げるべきだ。

 侵略側の視点ではもちろん男女平等など存在しない。抵抗に失敗し男性の大半が死んだ街では強姦と略奪が横行する。侵略者が勝者であることを見せつけて恐怖で支配し、後の入植や同化を見据えたうえで必要な工程だ。非人道的だがそもそも侵略軍に倫理性を期待するほうが間違っている。戦時下においても男女平等や人権が尊重されると信じる輩は無防備都市宣言なる利敵行為をすれば死者が減るなどというが大間違いだ。無抵抗で都市を明け渡せば、無傷で入ってきた侵略軍が元気いっぱいに、市民を見せしめ目的で大量死刑とし残る人間の奴隷化が進むだけだ。徹底抗戦して脱出可能な人間を出来るだけ逃した方が助かる人数も多いだろうし、侵略軍に損耗が多いほうが占領後の組織的虐殺の遂行能力も下がるというものだ。

 日頃、やれジェンダーだ男女平等だと言えるのはひとえに平和であるからであり、恐怖と暴力が支配する環境ではなんの意味もない理念だ。だからこそ平和は大切なのであり、平和を守る為のコストを惜しんではならない。財務省にはそれが分かってない。

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