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明徳と仏性

 明徳とは儒教で説かれる人間がみな天から賦与されて持つとされる徳の事です。仏教でいうと仏性のようなものです。儒教の中で最も重要とされる四書五経の一つ「大学」の中に以下の文言があります。なお()内はだいたいの現代語訳です。 大学之道 在明明徳 (大学の道は明徳を明らかにすることにある) 在親民 在止於至善 (人々に慈愛を持てば善なる状態を保ち続けられる) 知止而后有定 定而后能静 (善の状態に留まるのを知っているから心が定まり、心が定まるから心静かになる) 静而后能安 安而后能慮 (心が静かであれば安らかであり、安らかだから思慮深くなる) 慮而后能得 (思慮深くあれば徳を得ることができる) 物有本末 事有終始 (物事には本末があり、始まりと終わりがある) 知所先後 則近道矣 (こうした順序を知ることが出来れば、大学の道は近い)  「大学」は元々は礼記の一部でしたが朱子学では重要視され独立して扱われることが多い書です。「大学」では、自身を修めているから家庭を整えることができ、家庭が整っているから国を治めることが可能であり、国を治めるレベルの上に明徳を天下に示し世を太平に出来るとする考えがあります。つまり、修身、斉家、治国、平天下の順に進んでいき、明徳を示しこの世を平和にすることが一つの到達点なので、為政者たちに重視されてきた歴史があります。戦前の道徳教育が修身と呼ばれているのもこれに由来します。戦後は道徳と名を変えますが、そもそも儒教では仁・義・道・徳を重視しており、修身が同じく儒教思想に由来する道徳と言う名の授業に変わったのは、名称を変えた人々が儒教的な価値観の継承を期待したのかも知れません。  さて、世の中を見渡せばとんでもない悪人が多く、儒教の説く明徳は本当に全人類に備わっているのかという疑問もあるでしょう。しかし、私は明徳は全人類に備わっていると考えます。儒教では家庭や社会の秩序を特に重視する傾向がありますので、社会性が善であり徳であると仮定するとわかりやすいです。人類はその社会性とそれによって生み出された組織の力で地球上の霊長としての地位を築いて来たのです。人類の進化の過程で、極端に社会性に乏しい発想をしやすい脳をつくる遺伝子は生存競争に敗れ淘汰されているとみて良いでしょう。つまり、突然変異や脳に何らかの障害がある人以外の全人類は社会性を持ちうる生物だと言えま

インドネシアのシヴァ−ブッダ信仰

 インドネシアのジャワ島周辺は13世紀後半、シンガサリ王国の最後にして最大の王であるクルタナガラ王の治世にあった。彼は自らをシヴァ神とブッダの融合した神聖な存在として君臨していた。発想としては別々の神と仏が融合したのではなく、シヴァもブッダも唯一で絶対の神的な実在の違う表現形だという思想だった。王国の滅亡後、インドネシアではイスラム教が優勢となっていった。このため、近代のインドネシアの国是であるパンチャシラの第一は唯一神への信仰となっている。国民に唯一神への信仰を半ば義務付けるのは純粋に宗教上の話だけでなく、国から無神論である共産主義者を排除する目的でもある(※)。一方で、インドネシアで公認されている宗教は、イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教、儒教であり、ヒンドゥー教以下の3つは唯一神がいない宗教でありパンチャシラに反するようにも見える。これが許容されているのはクルタナガラ王の考えたところの唯一の真理が諸宗教の根源にあるという解釈が現代に息づいているからかも知れない。  仏教に限らず、宗教が広がる過程で現地の風習や他の宗教と習合することはよくあるが、単に混じるのではなく、各地方や時代でそれぞれ特徴ある習合のしかたをするのはなんとも興味深い話だ。 (※)インドネシアの共産主義者狩りについては  インドネシア大虐殺その1   インドネシア大虐殺その2  を参照のこと。

ズィハール離婚

 イスラム教以前のアラブ地域ではズィハール離婚という制度がありました。  これは夫が妻に「あなたは私の母の背中のようだ」宣告することにより離婚が成立し、宣告された元妻は元夫に慰謝料や扶助を請求できず、再婚も禁止されるというものです。  この制度は男性が妻に対して事実上、生殺与奪の権をもっていることを意味します。当然ながらこの制度が是認される社会では女性の地位は著しく低く、女児が生まれれば殺害されることもしばしばでした。  イスラム教の誕生によりこれらの行為は禁止され、当該地域の女性の地位は向上しました。イスラム教はムハンマド以前の時代を無明時代(ジャーヒリーヤ)と呼びます。  しかし、現代では逆にいわゆる原理主義者のイスラム解釈は、女性に対して著しく差別的です。確かにクルアーンには夫はしつけとして条件付きで妻を殴る権利が認められたりしていますが、ジャーヒリーヤを終わらせた理念を考えれば、タリバンやイスラム国の様な歪んだイスラムの解釈で女性を殺害してまわる方がジャーヒリーヤ的だといえます。  アフガニスタンもまだまだ大変な状況です。彼の地で人権が守られるように願うばかりです。

聖徳太子の孝養像

 聖徳太子の像は、お札にもなっていた笏を持っている有名な摂政像の他、太子が二歳の時に合掌し「南無仏」と唱えたところその手から仏舎利がこぼれ出たという伝説に基づく二歳像、太子が十六歳の時に父の用明天皇の病気平癒を祈っている姿とされる柄香炉を持った孝養像があります。  孝養像の祈願と同様に、法隆寺に伝わる釈迦三尊像も聖徳太子を慕う人達が太子の病気平癒と助からぬ場合は苦しまず成仏する様に祈りをこめて造りました。聖徳太子は日本仏教の祖とも言える存在ですから、日本に仏教が伝来した頃には既に仏に対して病気平癒などの加持祈祷を行うことは一般的だったのだと思われます。  聖徳太子が重視した法華経も後半は祈祷的な内容が目立ちます。もちろん祈ったところで病気が治ったりはしませんが、その気持はありがたいものです。聖徳太子もただ祈るだけではなく成人してからは施薬院や療病院などの医療福祉施設をつくり病気に苦しむ人達を救う政治を行いました。これも仏教の心が政に活かされた結果でしょう。日本には千四百年以上も前から仏教とともに人の病を癒したいという祈りが連綿と受け継がれているのです。  先人の努力を無にすることがないよう努力したいものです。

文化の日と憲法記念日と明治節

 11月3日は文化の日です。1946年11月3日に日本国憲法が公布された日で、同憲法が平和と文化を重視していたからとして1948年に文化の日という祝日として制定されました。、、というのが建前になっています。  5月3日の憲法記念日は憲法が施行された日です。憲法が公布された11月3日こそを憲法記念日とするべきだとの意見も祝日を制定する為の話し合いでは言われましたが、同日が戦前は明治天皇の誕生日を記念した明治節であったことから、憲法と明治天皇を合わせるのはGHQ的には好ましくなく反対された経緯があります。また、当時の日本国内には明治節は明治節として残すべきだとの意見もあったのですが、当然これもGHQとしては望ましくない。そこで、憲法と明治天皇以外の名称ならGHQも許可するということで出来たのが文化の日だった訳です。  また、実は日本国憲法は1946年11月1日に公布の予定でした。半年後に施行の予定でしたので、そのままでは1947年5月1日、労働者の祭典メーデーの日が日本国憲法の施行日となってしまいます。だが、それでは共産主義者達に勢いを与えかねないとの懸念から、11月1日以外の11月3日に公布されました。しかし、元々は明治節であった11月3日がその後の祝祭日制定の口実とするためにあえて選ばれた可能性もあるかと思います。  日本国憲法が平和と文化を重んじるから文化の日というのも変な話で、日本国憲法の理念を考えれば平和の日の方がしっくりきます。明治天皇と言えば文明開化の象徴でもありますから、あえて文化の日としたと考える方が自然です。こうした流れで今でも11月3日を明治の日にしようとする運動もあります。  ともあれ例年、文化の日を記念して一部の博物館は無料になるなど文化的に良いことがあります。ご近所にもそうしたところがあれば訪れてみるのも良いでしょう。

百万塔

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 百万塔は、藤原仲麻呂の乱の後に、称徳天皇の発願により鎮護国家と滅罪の為に造られた百万基の小塔で、その中には無垢浄光第陀羅尼経の陀羅尼が銅版によって印刷され収められています。この陀羅尼の大半は西暦767〜769年にかけて印刷されており現存する制作年が明らかな世界最古の印刷物としても有名です。  称徳天皇と言えば、愛人の僧侶である道鏡に帝位を明け渡そうした愚行で知られますが、この無駄に多い百万塔の制作もむべなるかなというところです。  百万塔は、21cm強の三重の小塔十万基に十基の七重塔と一基の十三重塔がつけられた状態を一組として、十の大寺院に十万基づつ収められました。各寺院は小塔を収める泰安殿を作り小塔院や万塔院と呼ばれましたが、時代を経るごとに焼失などしていき現存するものは法隆寺由来の四万六千基ほどと言われます。現在でも法隆寺の大宝蔵院の順路の最後の方で百万塔の一部を見ることが出来ます。また奈良にある真言律宗の小塔院は元興寺の小塔院跡です。  過去には小塔が民間に譲渡される事もあり、その圧倒的な数からか勅願の品なのに割とぞんざいな扱いを受けています。勅願の品とは言っても奈良の大仏や各地の国分寺と比べるとインパクトにも実用性にも欠いており、有り体に言って数が多すぎなのでそんなものでしょう。とはいえ百万塔は約1300年の時を経て今に伝わる貴重な文化財ではあります。時々ネットでも売ってますが真贋定かでなく手を出さない方が無難でしょう。  

長春包囲戦終結の日に兵糧攻めを考える

 1948年10月19日は長春包囲戦が終結した日です。中華民国の長春を攻める共産党の人民解放軍が行った約5ヶ月に及ぶ兵糧攻めにより30万人を越す民間人の餓死者が出ました。改めて犠牲者の冥福をお祈りします。  さて、長春包囲戦のように第二次世界大戦以降も存外に兵糧攻めは発生しており、1967〜1970年のビアフラ戦争では都市だけでなくビアフラ共和国全体が包囲され物資の流通が滞った為に大規模な飢餓状態が発生しました。今世紀に入ってからも中央アフリカやシリアの内戦で局地的な兵糧攻めは多用されています。  兵糧攻めは非戦闘員に多大な被害をもたらす非人道的な作戦です。兵糧攻めを受けた時に真っ先に被害を被るのは社会的弱者からとなります。少ない食料が均等に配分されることは通常ありません。最後まで食事にありつけるのは組織的暴力を行使しうる勢力です。長春包囲戦でも少ない食料は国民党軍が独占し口減らしで市民を追い出すという暴挙も見られました。もちろん共産党が追い出された市民を救助するはずも無く、両軍が対峙する中で民間人が飢え死にしていったのです。  そんな非人道的な兵糧攻めですが、攻め手側からすると兵力の損耗を防ぎつつ勝てるので使われやすいのです。ただ、その実施には敵を包囲し物資を遮断して内部からの突破や脱出を防ぎ、外部の敵援軍を警戒せねばならず、相当に有利な状態で無いと出来ませんし、それを支える補給も大変なものになります。また、守る側も敵の兵力をその地点に拘束出来るメリットはあります。  諸問題はありますが、兵糧攻めは決して昔話では無く実際に今でも使われています。食料問題はそのまま安全保障問題であるのを忘れてはなりません。