投稿

12月, 2020の投稿を表示しています

除夜の鐘

 除夜の鐘は鎌倉時代頃からの風習が少しずつ形を変え現代に伝わっており、年越しに打たれる108の鐘の音は人の煩悩を除くと言われます。近年では近所迷惑などという意見もあり除夜の鐘をつくお寺は減っている様です。今年はコロナ禍もあり参拝者も減ると思われ更に少なくなるかも知れません。  そんな中、独特の迫力ある鐘の突き方をする知恩院さんが今晩22時30分ごろから除夜の鐘をライブ配信するそうです。下にリンクを貼っておきますので、ぜひご覧になってください。 https://youtu.be/Ck915zpwKmI  新年の祝い事を重視する日本の文化では年末の内に掃除を済ませ家をきれいにして歳神さまをお迎えする風習があるように、鐘の音で怒りや貪りや偏見などの煩悩を除いて心をきれいにして新年を迎えたいものです。  今年も一年お疲れさまでした。皆様が除夜の鐘を聞いて気持ちよく新年が迎えられますようにお祈り申し上げます。南無佛。

今年の煩悩、今年のうちに

 明日は大晦日、除夜の鐘は煩悩を払うとされていますので、その前日の今日は一年を振り返り自分の煩悩を反省する機会としたいと思います。  108の煩悩を検証しても良いのですが、煩悩の基本である貪欲と瞋恚と無明について振り返ります。貪欲、瞋恚、無明は、現代語だと貪りと怒りと偏見といったところでしょう。  貪りに関しては、人に施しをする時ですら、その見返りや感謝を全く期待していなかったとはいえませんでした。貪りの対象は物やお金だけでなく、名誉や他人からの感謝も欲すれば貪りですので気をつけていきたいものです。  怒りは、デマやヘイトを撒き散らす人々に対する怒りを持ってしまいました。しかし、彼らは叩き潰す対象ではなく、その迷妄から救わねばならない可哀想な人達であることを忘れないようにしたいです。  偏見については、未だ避けがたし。これまでの経験からのバイアスは思考作業においては常にあり、諸行無常も諸法無我も意識しないと忘却の彼方です。  この身を今生をもって度すのは難しいけど、私を含めて大半の人でもごく短時間なら、座禅なり念仏なり題目なり真言なり何なりで煩悩が無い状態を作ることは可能な訳です。在家生活で持続させるのが難しいのです。なるべくよい状態を維持できるように年末や折々の節目に自分の煩悩を反省する機会を持ちたいですね。明日は除夜の鐘のライブ配信でも見ながらゴーンとこれらの煩悩を吹き飛ばしてもらいましょうか。  

羽田雄一郎議員について

 12月27日、羽田雄一郎議員が新型コロナ感染症により急死されました。謹んでお悔やみ申し上げます。羽田議員は発熱と体調不良はあったものの医療機関への負担に配慮され検査を一旦は断られたと報道では伝えられています。また、議員は糖尿病や高血圧など新型コロナウイルスの増悪危険因子もお持ちだったとのことでした。  新型コロナウイルス感染症は日本でも拡大が加速しており、感染を疑わせる症状がある人は医療機関への負担など配慮すること無く速やかに検査を受けていただくことが、逆に現場の負担も軽減させます。公衆衛生の改善を助けると思ってすぐに検査を受けるべきです。もし軽症でも検査して感染が認められれば早めに治療開始が可能であり本人の救命率が上がる以外にも、早期に隔離することで他の人への感染拡大も防げます。今回の感染症は発症前から他人にうつす事が知られていますので、早めに感染者が特定されれば無症状の接触者に関しても検査をしてさらに感染拡大を抑える事が出来ます。  特に糖尿病などの危険因子がある方は血管障害の合併症も起こしやすく、脳梗塞や心筋梗塞では本当にあっという間に悪化しますので、先んじて予防的な投薬を行い、急変した時にも即時に加療開始出来るように入院しておいた方が良いです。  感染拡大の防止には三密を避けマスク着用や手洗いなどを励行する以外にも、症状があったり感染した人との接触がある人は早く検査して感染の有無を確認することも重要です。繰り返しますが医療機関が多忙だからという理由での配慮は無用ですので、躊躇なく検査を受けてください。

延命処置

 もう手を尽くしても回復の見込みが無い患者様に対して本人や家族の希望に基づき積極的な加療を中止する場合があります。家族の入院に際して急変時の延命処置の是非を聞かれた事がある人も多いかと思います。今日はその意思決定はなるべく本人がよく考えて行うべきだという話をします。  先日、神経難病の患者様が安楽死を騙る営利殺人の被害に遭っていましたが、こうした事件も延命処置に対する誤解につけ込んだ卑劣な犯罪と言えます。人工呼吸器を望まない患者様に麻薬などの処方で苦しまないようにする事は現時点でも合法です。こうした問題に悩まれる方はまず主治医に相談して下さい。もちろん意志の撤回・変更はいつでも可能です。安易に安楽死を望む方は恐怖心からそう望む方も多いです。延命するかどうかは冷静に判断するべき話ですので、まずは怪しい殺人請負業者ではなく主治医に相談して説明を受けるべきなのです。  一方、末期癌などの場合の一般的な延命処置については、終末期に心肺蘇生を試みるかとか人工呼吸器を使うかというような話を思い浮かべるかと思います。こうした場合は、実のところ延命自体がしようにも不可能なのです。家族らがどうしてもと言えばやるだけやりますが、延命できない上に肋骨が折れ喉が切開される状況に追いやるのは患者様が可哀想でもあり、どちらかと言うと家族に延命処置が無駄である事の説明することが医療者の役目となります。  また他にも、延命処置は広義には病気や加齢から起きる緩徐な病状の進行時にどのように患者様をケアするのかという問題も含まれます。  新型コロナウイルスの流行に伴い、クラスターが生じ機能が破綻した老人病院から私の勤務する病院にも転院してくる患者様がいます。その中には、個人情報保護法や医師の守秘義務に抵触しないようにボカシますが、認知症の進行で反応が乏しくなり経口摂取も出来ず全身の関節が拘縮し体重も20kg代まで落ちて、中心静脈栄養(丈夫な太い静脈に管を入れて栄養を投与する方法)で何年も生きて来た患者様もいます。  認知機能障害が悪化し自分に何が起きたのか理解出来なくても、痛いとか怖いとか不安である事は分かる場合が多いものです。関節が固まって動けなくなり、筋力も落ちて、意思の疎通も状況の理解も困難な状態で生きてきた患者様の気持ちを想像すると悲しいものがあります。もちろんこの状況はご家族様の希望によるもの

科学の発展と死

 科学技術の発展により人の寿命は大きく伸びました。それに応じて死を実感を持って捉えられる人も減っているように思えます。  どう見ても余命いくばくもない患者様の本人やご家族様が、延命とかいうレベルではなくどうすれば元通りの元気な状態に戻れるのかと尋ねてこられることも珍しくはありません。  これらかも科学の発展ともに人の寿命は伸びるでしょう。だけど人が必ず死ぬ事には変わりはありません。  健康で長生き出来る状態をなるべく維持したいのはほぼ万人の願いでしょうし、それを目指す事自体は何の問題もありません。ただ、死はいつも私達のそばにいるのを忘れていると、死が自分の目前に迫った時に慌てる事になります。別に宗教じゃ無くても哲学や個々人の思惟でも構いませんが、死に関しての考えはもっておくべきです。  科学の発展に伴い起きる死の問題でもう一つ気になるのは脳死です。現在の日本において、脳の全てが障害された為に死を免れ得ず意識や思考の回復の見込みも無い人から、臓器を他者へ提供する場合においてのみ発生する特殊な死が脳死です。つまり自分の死後に臓器移植を望む人と望まぬ人とでは、法的な死のタイミングが違うのです。一般的に法的には、自発呼吸と心停止と脳幹反射の停止をもって死であると決めていますが、脳死では心停止する前に各種臓器を摘出します。  個人的には、当人が死ぬ前に自分の臓器を他者のために役立てたいとの意思を示すのは尊いことだと思いますが、もし更に科学は発展し移植臓器の培養が可能となったり、高性能な機械化された臓器が出現した場合、おそらく脳死という概念も消失するでしょう。少なくない宗教家が脳死に反対なのは、きっと、人間の都合で死のタイミングを動かす事に対する反感もあるのかと思います。  しかし、どこからを死とみなすのかは難しい問題です。死が確実となった時と言うのであれば、我々は生まれた瞬間に死んでいる事になります。現在の法的に定義された死であっても、死が判定された時点では全身の細胞が死滅している訳ではありません。ただ、科学が発展する前は間違って死んだと判定され埋葬されるというあまり想像したく無い事態も稀にはありました。そう考えると科学の発展により、死に一定の線引がされたことはそう悪くないことなのかも知れませんが、死について深く考える機会を減らす原因となったのかも知れません。

現代詩の衰退を嘆く

 日本では詩人は絶滅危惧種だ。  漫画やアニメのキャラでポエムが趣味というのは失笑の対象となるイタイ人間であること示すアイコンのようなものだ。  それでも俳句や短歌やラップのリリックの様な一定の様式を持つ詩は社会的にある程度の評価を受けている。しかし、自由な現代詩などは危機的状況だ。昭和より後に生まれた詩人で名の売れた人間はほとんどいない。出版されても詩集は売れない。  この衰退の原因は様々に言われているが、ニッチになり過ぎて一般に理解されなくなっているのでは無いかとも思う。仏教の偈文や和讃は分かりやすく経典の内容を説明するのに詩を用いたのだが、現代の詩は分かりにくさをもってよしとしている感すらある。  現代詩が滅びるのもしのびないので、年末年始はビハーラ的現代詩でも書いてみようかと思う。

奄美群島

 昭和28年(1953年)の12月25日、米軍の占領下にあった奄美群島は日本に返還されました。今日は復帰から67年目の記念日です。  第二次世界大戦後、奄美や沖縄を含む南西諸島の大半が米軍の占領下に置かれました。米軍はこれらを奄美、沖縄、宮古、八重山の群島に分け、知事と議会を住民の投票で選ばせましたが、奄美で日本復帰派がその大半を占めると、それを嫌った米軍が米軍傀儡の琉球中央政府による支配を推進し奄美群島政府は解体されます。  またこの頃、日本本土という市場を失った奄美の経済状態は悪化しており、沖縄の戦後復興の為の労働力として多くの奄美人が沖縄へ渡っていました。  しかし、昭和28年に奄美群島が本土復帰するや、沖縄在住の奄美人達は外国人として公職を追放され、多くの財産が没収されるなど、差別的な扱いを受けるようになります。これは奄美の本土復帰派に共産主義者が多かったので、反共の米軍が奄美出身者を差別するように仕向けた側面もありますが、地元マスコミなどの知識陣も含む大半の沖縄人がこのレイシズム運動に加担し続け、昭和47年(1972年)の沖縄の日本返還まで行政上の差別は続きました。民間でのヘイト行為はその後も続きますが、徐々に沈静化していき少なくとも地元マスコミが奄美人差別を煽るような事は今ではもうありません。  こうした歴史もあり高齢者を中心に沖縄に恨みを抱く奄美人はまだいます。また、沖縄側にも一部には奄美差別が残っており、気に入らない人の祖先に奄美出身者がいたらそれ自体が悪であるかのように言う人もいます。  とは言え若い世代ではもうほとんどわだかまりも無いようで、この問題も過去のものになりつつあります。しかし、レイシズムは油断すればいつどこにでも現れうるものだという身近な実例として忘れてはいけない話だとも思います。  本土復帰や主権の回復の為に闘ってくれた奄美の先人達の苦労に感謝します。今日は不飲酒戒を破って豊年節を聞きながら黒糖焼酎で奄美の為に乾杯!

メリー納めの地蔵

イメージ
 12月24日は年内最後のお地蔵様の縁日ですね。メリー納めの地蔵!  地蔵菩薩は子供を守る事でも有名ですから、きっと今日は子供にとって楽しい事があるでしょう。  何かの理由で悲しい思いをしている子供にもお地蔵様の慈悲が届きますように。  子供たちが笑って過ごす事が出来ますように。  大人たちも子供たちに愛情を注ぎますように。  南無地蔵大菩薩 写真は善光寺の延命地蔵(ぬれ仏)

新型コロナウイルス感染症の拡大に思う

 全国的な新型コロナウイルス感染症の拡大の影響で、医療資源が多い都市部も、医療資源が少ないがそもそもの患者数が少なかった田舎も、医療の提供に問題が生じてきています。  これは新型コロナウイルス感染症の患者様の問題だけでなく、その対応で医療機関の余力が無くなることにより、他の疾患の患者が不利益を被る例が増えてきています。人手の不足や病院の受け入れが困難になることで緊急を要する手術の実施が遅くなることもあり、コロナにだけ気をつけていれば問題ないという話ではありません。  この期に及んでも、いまだコロナはただの風邪だといって特定の組織や人種が悪いとする陰謀論を唱える人も散見され、いやになってきます。何度かそういう人たちの説得を試みたこともありますが、正直に言ってかなり難しいです。いくら証拠を提示しても、彼らはコロナは幻だという結論を信じており、それを否定する証拠は根拠も無く捏造だと決めつけます。幸い、そういう人達が人口に占める割合は低く、拡大するようにも見えませんので、その他大半の人達が十分に対策を講じて感染症がコントロールされれば、陰謀論者らの命も救う事ができるでしょう。  人間無駄な努力をするよりも出来ることをコツコツしたほうがいいです。まずは自分自身がコロナに感染しないように注意し、医療機関の能力が落ちている現在、他の病気や怪我も負わないように注意しましょう。  歴史的にみてどんな疫病もいつかは落ち着きますので、諦めずに参りましょう。自分の心身の健康を保つように精進することが、全体の利益にもつながります。

立場が強い人間の方が怒りを表現しやすい

 表題の通り、立場が強い人間の方が弱い者よりも怒りを表出させやすいものです。理由は簡単で、立場が強い者の怒りは、弱い者達を萎縮させ強い者の意見に従わせやすくする効果があるからです。逆に弱い立場の者が立場が強い者への怒りをあらわにすれば、強い者やそれに従う者達から潰されます。  強い立場の者に気をつけて欲しいのは、一見怒っていないように見えるだけで立場が弱い人間も怒っているだろうことを忘れないようする事です。強い者が寝首をかかれる時、裏切られたなどと言いますが、多くは単に他者の不満に鈍感だっただけです。  立場が強い者にとって怒りの表出は、物事をすぐに思い通りに進めるのに最も容易な方法です。だから、世の独裁者は概ね怒っています。内外に敵を設定して恐怖で国民を支配するのです。また、民主主義国においても、首長の選挙などで何でも公務員が悪いとして怒ってみせる事で票を稼ぐのは、公務員は行政の長にとっては配下であり、圧倒的に有利な立場である事から報復される恐れがほぼ無いからです。  しかし、こうして行政の長が絶えず怒りその民を締め上げるのは、結果として水面下に怒りがたまりますし、スケープゴートとして公務員を過度に締めあげれば、社会のインフラや治安や福祉の面において行政の力が著しく低下するのは明らかです。結局、組織全体のためにもなりません。  そもそも仏教的には怒りは滅すべき煩悩の代表の一つですが、特に人の上に立つ者は怒ってはならないのです。社会的な責任がある者の怒りは個人だけでなく、全体に悪影響を与えるからです。別に国や自治体の指導者じゃなくても、会社組織や趣味のサークルに至るまで、上の者はより厳しく自分を律する必要があります。

今日は冬至で終大師で木星と土星が大接近し、ところにより星供養

 今年は本日12月21日が冬至で、12月21日と言えば弘法大師の年内最後の縁日である終大師で、また今日は木星と土星が397年ぶりの大接近をする日で、それとは無関係ですが浅草寺など一部の寺院では人の運命に影響する星々を供養し幸せを祈る星供養の儀式が行われます。  星供養は密教系の星占いから出てくる発想で道教の影響も受けているとされます。元々は1年で最も夜が長い冬至に行われていましたが、正月や立春にもよく行われる行事となっています。先述の浅草寺も今は聖観音宗ですが、昭和24年(1949年)以前は天台宗だったので密教の影響もあるのです。  原始仏教ばかりでなく日本仏教でも占いや祈祷を否定する宗派がありますが、そういう宗派の信者も、せっかく密教の皆様が祈ってくれているのでありがたくお気持ちを頂戴しましょう。  来年は良い年になりますように、お願いお星さま☆

父母恩重経

 父母恩重経は唐代には漢地で成立していたと思われる偽経で、儒教的な父母への孝行を促す教えです。これを偽物よと言ってしまうのは容易いのですが、大乗仏教は現地の文化と習合しながら発展してきた歴史があります。漢地の仏教が儒教や道教を取り入れただけでなく、日本では神道が、チベットではボン教が仏教に習合し地域に馴染んだ独自の仏教文化が形成されていてます。また、日本の仏教は漢地経由で伝わったので、父母恩重経など漢人の偽経も日本の文化に影響を与えています。  さて、タイトルこそ父母恩重経ですが、お経の前半部分の親の苦労話は母親の方にウェイトが置かれています。現在のジェンダー教育からしたらアウトでしょうが、長い歴史の中で母の愛は偉大であり続けたのです。お経の中盤では、苦労して育て上げた子も両親が老いると親を邪険に扱い早く死ねと言う子がいることを嘆き、そんな子は地獄や餓鬼や畜生道に堕ちると警告しています。後半はどの様に両親に報いるかが説かれており、おいしい食べ物を与えたり、看病したりという常識的な話もありますが、両親に道徳を踏み外す言動があれば必要に応じては自分の食を断ってでもこれを諌めるように説いてます。両親にただ贅沢な暮らしをさせるだけでなく信心を持つようにしなければ不幸であるとしています。  原始仏教的には親子の情も断つべき執着ですが、古い時代の漢地や日本では実際にそうなのかは別として家族は大切にするべきだという文化があり、日本仏教でも基本的には情に厚い教えが重んじられます。  父母恩重経は、仏教以外の宗教の教えを仏教風にアレンジして取り入れたという点で歴史学的にも興味深いですが、日本人や漢人の文化にそった情に訴えかける教えは仏教の普及にも一役かったと思われます。また日本人として個人的には好きな偽経です。

言論のデスマッチ

 暴力で全ての意思決定を行う社会があったらどうでしょうか?喧嘩が強い者やその仲間たちの天下となる社会です。方々で争いが起き秩序も何もあったものでは無いでしょう。だから、この世の全ての国で私的暴力は制限され、治安が保たれているのです。暴力ではなく話し合いで物事を解決しましょうというのは素晴らしい事です。しかしながら、言論は時に暴力的にもなります。  特に閉鎖された論争では無く、聴衆が動員されている状態では言論も暴力となります。例えば中国の文化大革命の批判闘争大会は、反共産主義的とされる人物をスタジアムに集まった群衆が罵倒しつくす行事です。もし、人気歌手のコンサートよろしく、東京ドームを埋め尽くす群衆が中央に立つ自分に対して一斉に罵詈雑言を投げかけ反共産主義的な自分を恥じて反省せよと詰め寄る姿を想像すればその異常さが分かると思います。これは言論による話し合いでは無く暴力でしょう。このような集団による言論によるいじめの多くは、誰かにとって都合の悪い人間を排除するのが目的な訳ですが、同時にその誰かに逆らえば自分も同じ目にあうという恐怖を大衆に植え付け、皆を加害者に駆り立てます。ネットいじめの場合は、その誰かが曖昧なことが多いですが一定の空気感によって似たような暴挙が行われます。政治においても大衆の暴力を扇動し政敵に圧力をかけるのは禁じ手ですが、古今東西しばしば行われます。激高する大衆に法的な秩序が通用しないと信じさせられれば、ほとんどの人は屈服します。  また一対一の論戦も彼我の実力が拮抗している場合は議論として成り立ちますが、その技術や言語能力や知力において著しい差がある場合はやはり暴力的です。多くの人は話し合いでは正しいほうが勝つと思いがちですが、よほど無茶な議題でない限り勝敗を分けるのは正邪では無く強弱です。例えば、どうにか自立している知的障害や軽度認知機能障害の患者様は、度々詐欺の被害に遭います。騙しやすいからです。どう考えても不合理な商品を売りつけられたり結婚詐欺で金品を奪われるなど枚挙にいとまがありません。また意図せぬ加害者にならないためにも、圧倒的弱者と話し合いをする時は十分な配慮が必要です。やろうと思えば自分の意見を相手に押し付けることが出来るので、ついそうなってしまわぬ様に慎重に相手の言い分を聞いて出来る範囲でその考えを叶えたいと思う心が大切となります。

全会一致の恐怖

 全会一致の幻想とか全会一致のパラドックスという言葉があります。何らかの議決で全会一致となる場合は何らかのバイアスや圧力がかかっている恐れが強いというものです。独裁国の選挙がほぼ100%の得票率を取ったりするような状況です。  世の中、どんなに当然だと思うようなことにも必ず反対意見は出るものですから、すんなりと全会一致で決まった決定には何か重大な欠陥がある疑いが持たれるのです。  しかし、これは全会一致を避けるためにヘイトやデマなどのとんでもない意見を放置しろと言っているのではありません。多数決の前に行われる議論は多数派工作という意味以外に、それぞれの案をすり合わせて妥協する目的もありますので、絶対に排するべきトンデモ論には断固たる対応をするべきです。  デマやヘイトなどの陰謀論の主張者は、自分たちが奉じる考えと違うものは全て敵とみなす傾向が強く、過激な集団は脅迫や恫喝や暴力を使い反対意見を封じていきます。そんな人達には立ち向かうべきなのですが、実際に抵抗出来る人は少数です。脅されなくても、強い力を持つ人間との衝突や揉め事を避けるために、多数決の際に不本意な賛成や反対を行ったことが無い人の方が珍しいでしょう。デマやヘイトを扇動する集団に対して、どうせ多数の支持を集められる訳が無いと慢心して彼らを放置すれば恐ろしい結果が生じるのです。  また、デマやヘイトで無くても、自分たちの絶対的な正義を信じて疑わない社会活動家も社会の多様性を奪い同化させようとする傾向が強いものです。社会に変革をもたらそうとする活動家は自己の内にその理想像ができあがっており、それ自体は別に構わないのですが、理想ではない現実世界においても一切の妥協を許さないとか、妥協案を考える仲間を日和見的だとかと言って粛清するような集団は危険です。  多様な意見がある集団が何か一つの決定をしなければいけない時に、ある意見が他の全ての意見を封じ込めるのがいいのか折衷案を作り上げるのがいいのかは状況に応じて違うでしょうし、議論する時間が無い緊急事態においては責任者の意見で物事が決まる事もあります。ただ、そのいずれの場合でも反対意見を表明する権利が奪われるようなことがあってはなりません。  また、意図せずに全会一致やそれに近い状態に遭遇したら、何か自分の所属する集団が偏見や誤解をもっていないか念の為にチェックする用心深

歳の市

 正月用品を扱い寺社やその周囲で開かれるその年の最後の市を歳の市と言います。羽子板市としても有名な東京の浅草寺で行われる市が代表的です。  コロナ禍でどうなるかと思いましたが、今年の浅草寺の歳の市はコロナ対策で規模を縮小して今日から3日間行われます。  浅草寺では御本尊の正観音菩薩の縁日が毎月18日ですので、12月のこの時期が歳の市となっています。各地の歳の市もその地域の寺社の御本尊様や神様の縁日に開かれますので、場所によって開催日は違います。  日本ではお正月を重視する文化があり、神道では12月には冬の大祓が行われ穢れをおとして年と月と日が新たに生まれ変わる新年に歳神様をお迎えして気持ちも改める節目となります。仏教でも除夜の鐘で煩悩を払い新年を待ちます。歳の市はお正月飾りだけで無く、日用品を新調する機会ともなっており、新年に物事をリセットする為の市でもあります。今年は中止のところも多いでしょうが忘年会もリセットの儀式と言えなくもありません。  今年は社会的に散々な年でしたが、来年は良い年になるようにお祈り申し上げます。

良弁忌

 今日は東大寺の開山である良弁(ろうべん)の忌日ですが、良弁は宝亀4年閏11月16日(11月24日との説もあり、西暦774年1月10日ないし18日)に亡くなったとされ、新暦で月遅れの命日に忌日を当てています。  良弁は百済氏出身で幼少の頃に鷲にさらわれてしまい、木に引っかかっているところを義淵僧正に拾われ育てられたとの伝説もあります。良弁の師の義淵僧正は有名な行基菩薩の師でもあり、二人とも東大寺の大仏の建立に尽力したことで知られています。  東大寺の大仏様と言えば盧遮那仏であり、華厳経の仏です。大仏建立に先立つ天平12年(740年)に良弁は東大寺の前身となった金鐘寺に華厳経の講師として審祥を招きます。審祥は唐の華厳宗第三祖である法蔵から教えを受けた僧です。天平15年に聖武天皇から大仏建立が発願されますので、審祥と良弁の影響は大きかったものと思われます。東大寺は今でも華厳宗の大本山であり現代に天平のロマンを伝えています。

Uber地蔵

 コロナ禍の影響で過剰に供給されたウーバーなどの配達員が配送まちで路上にたむろしている状態を地蔵と呼ぶらしい。路上でタバコをすったり通行人の邪魔になったりと迷惑行為が問題視されている。  こうした社会問題は労働者を叩けば済む話では無く雇用体系の構造的な問題だ。これら配達員は正社員やアルバイトではなく個人事業主であり、会社側からの給与などは一切なく出来高払いであり社会保障も何もない。企業としては安価な使い捨ての労働力だ。この雇用条件で倫理的にふるまえる人間は立派だが、そうでない人間がいたとしても雇用する側が制限をかけていないのだから末端の配達員だけを叩くのもおかしな話だ。  ちなみに被雇用者を個人事業主にしてしまえば、労働基準法の枠外でありいかなる長時間労働も低賃金も個人事業主の自己責任である。政府や大企業は労働者の個人事業主化の流れを推進しているが、これは労働者の奴隷化推進に他ならない。派遣業のピンハネも問題だったが、近年の日本の労働環境は悪化の一途をたどっており由々しき事態だ。  また、本題には関係ないが手持ち無沙汰で周囲に迷惑となりやすい待機中の配達員を評して地蔵という名が与えられ社会的に通用してしまっているのは、お地蔵さまに対して敬意をもつ人間がもう少数派になっていることを物語っており、これも悲しい事だ。

赤穂浪士の討ち入り

 元禄15年12月14日(1703年1月30日)は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日です。主君の仇を討った忠義の士の美談として、忠臣蔵などは今でも年末にはあちこちで語られます。討たれた吉良上野介の再評価もされる事が多い昨今ですが、彼が浅野内匠頭に今で言うところのパワハラを働いていた事は確かで、浅野内匠頭が精神を病んで暴挙に出たのも致し方ない事かも知れません。  さて忠義の美談とされる忠臣蔵ですが、武士の心得を説いた「葉隠」では批判されています。大石内蔵助ら赤穂浪士が泉岳寺で切腹しなかったことと、即時の報復を行わなかったことが批判の対象です。勝敗や打算を度外視した絶対かつ即時的に実施される報復を是としそれ以外を恥とする考えは、仏道には反しますが当時の武家同士の抑止力としては役立ったのかも知れません。治安と秩序の維持にあたっていた幕府の苦労もしのばれます。  もし現代社会で上司のパワハラで追い詰められた父親が相手に怪我を負わせその責任をとった自死へと追い込まれても、恐らく仇討ちをする家族なんていません。ただ、そうして泣き寝入りする事が大人の対応だと分かっていても納得いかない気持ちの人も多いでしょう。赤穂浪士たちの物語は様々な逡巡や努力や忠義心が入り混じった果てについに主君の無念を晴らす目的を達します。社会のしがらみや規律を打ち破って本懐を遂げた赤穂浪士たちの姿は、規則にがんじがらめになっている現代人の心にこそ強く響くのかもしれません。  赤穂四十七士の墓所である泉岳寺では毎年12月14日に赤穂義士祭が行われていましたが、今年はコロナ禍で中止です。少し残念な気もしますが、四十七士もたまには静かな12月14日を過ごせていいのかも知れません。

毘婆沙

 龍樹菩薩の十住毘婆沙論は華厳経の一品として有名な十地経を一般向けに簡単に説明したもので、決して学僧向けの難しい学術論を展開するために書かれたものではない。元々の毘婆沙という言葉が物事をわかりやすく言い換えると感じの意味であり、十住毘婆沙論のタイトルを現代の出版物風に治すと「わかりやすい十地経入門」とか「凡夫でも分かる十地経講座」とかそんな感じだろうか?  十住毘婆沙論には十地のうちの初地に至るまでと第二地の途中までしか書かれていない。これは入門書の故なのか、書いてあったものが失われた為なのか分からない。歴史学的にはこの書が本当に龍樹菩薩の手によるものなのかどうか疑問視する向きもあるが、在家を尊重する大乗仏教においてわかりやすい説明は需要があったのだろうと思われる。  十地経は自利利他である無上菩提心の発願、即ち自分を利することと一切の衆生を救うことが一致する菩提の心を仏道の根幹としている。普通に考えれば自利利他の心をもって修行して仏の智慧を得ると考えがちだが、十住毘婆沙論では仏の智慧の働きを得て発願が可能になるとしている。他人を救うにはまず自分が強くあらねばならないという理屈だが、同時にこの菩提心が仏の智慧を得て悟るための手段では無いと宣言していることになる。この発願が可能となる段階で、ようやく十段階のはじめである初地だが、既に成仏が約束される位とされ、それだけ発願の重要性が強調されている。  古今東西、簡単に物事を説明する際に、本来のものから変質しているという批判はおこるものだ。実際にこの十住毘婆沙論では、十地経が本来ターゲットとしていたと思われる僧侶ではなく、そういう資質を持ち合わせていない凡夫を菩薩にしようとして書かれており多少の変質は避けられない。これは龍樹菩薩かあるいは別の僧侶が、一般大衆を教化する時に実際に経験した事をまとめた事では無いかと思われ、そう考えて読むと、オリジナルと違うと言って激怒するような原理主義的思考から脱却出来るのでは無いかと思われる。

永劫回帰と法蔵菩薩

 ニーチェの説いた永劫回帰という考え方は、語弊を恐れずまとめると、物質の組み合わせの変化が無限に行われるのがこの世界であるならば、遥か過去にはいま自分が経験しているものと全く同じ事があり、はるか未来にもまた何度でも同じ事が繰り返されるだろうとするものです。  この話が本当なのかどうかはともかくとして、この考え方が正しいとすれば自分が経験している事だけでなく、多くの想像できる出来事もまたはるかな過去や未来に起きたとも言えます。こう考えると時間はあまり意味を持たなくなります。物質の量が有限であるとすれば、その物質の組み合わせも有限でありその中で起きうる事は何度でも起きるので、過去も未来も差がなくなるからです。  というわけで、歴史学的にこの地球上には絶対に存在しなかったと断言できる法蔵菩薩も、永劫回帰的視点ではむしろ存在しなかった方がおかしい事になります。世界の全てを救おうとして凄い努力をした法蔵という名の菩薩はきっといたはずです。南無阿弥陀仏。  まあ、永劫回帰が真でも偽でも、観測できる範囲だけでも宇宙は広く、その外はどうなっているか分かりませんが存在はするでしょう。きっと色々と面白いことがあるに違いありません。

御朱印帳の修理

 先日、自分の御朱印帳の一冊を修理したので、同じ事で困っていらっしゃる方がいたときのため、参考までに手順を記載しておきます。ただ、各自の信仰によってはこの修理方法は宗教上の禁忌になる可能性もありますので、気になる方は各自の所属する寺社にご確認ください。  今回、修理したのは破損ではなく、御朱印を頂いた時に逆さに書かれたものがあったので正位置に戻す作業です。当該ページを切ってひっくり返して接着するのですが、そもそも御朱印帳を一旦切断するのは神仏に無礼だと考える場合は避けておいてください。作業に失敗してより破壊される恐れもありますからね。ただ棚に直した時に逆さの状態で御朱印があるのもどうかと思うのでやってみました。なお、今回の御朱印帳は蛇腹型です。  用意した道具  1.ニチバン 紙粘着テープ(和紙基材)、幅12mm  2.コニシ 木工用ボンド  3.スコッチ チタンコートカッタープロ Sサイズ  手順  まず、逆さに書かれた御朱印のページの折り目ちょうどの部分を谷側よりカッターで切断します。この時、御朱印帳を閉じた状態だときれいに切れます。反対側も切断します。  次に御朱印を正しい位置に戻して裏返し(表を下にして)御朱印帳も裏返して切断面をきれいに合わせます。切断線が直線で無いと詰みますので、切断するときは細心の注意が必要です。  裏側で合わせた線から1〜2mmはなれた位置に少量の木工用ボンドを線と平行になる形で塗ります。線の隙間にボンドが入ると表にまで染み込んで御朱印の表が破損するおそれがあります。また、ボンドを多く使いすぎると後でテープを貼った時に広がって同様の事態を招くのでボンドはごくごく少量で良いです。この作業は単に粘着力の弱い和紙テープの補強目的です。別のところにボンドを出して爪楊枝などで薄く伸ばすのが無難でしょう。また、御朱印帳の構造でページが二枚重ねになっている場合も多く断端で浮きがある場合はこちらも少量のボンドで固定します。  線が中央に来るように和紙テープを貼ります。この時に下敷きに罫線の入っている紙を使い目印にするとまっすぐ貼れます。テープは朱印帳からはみ出す形で貼って下敷きの紙に止め、余った部分をカッターで切断するとギリギリまでテープで抑えられます。  乾燥をまって完成です。  普通に使う分は問題ないですが、元々の強度は保てないので修理後はより優

世界人権デー

 12月10日は世界人権デーです。1948年12月10日に国連から世界人権宣言が出されたのを祝い1950年より国際的な記念日となっています。  こうした経緯もあり、世界人権宣言は現代の人権思想のスタンダードとも言ってよい内容です。ただし、細かいところを見ていくと、第16条は結婚は男女間のものであることが前提として書かれている様にもみえ(違うようにも解釈は可能)、発表から70年以上も経つと時代ともに変化する人権の潮流との乖離も散見されます。  他にも問題点はあり、第15条では国籍を変更する権利も認めていますが、無制限に認めれば違う文化をもつ民族の大量移民により事実上の侵略も可能となります。第30条では条文の曲解による悪用を禁じてもいますが、もし大量移民による侵略が起きてもその意図をもった組織的行動であるかどうかの証明は難しでしょう。第17条では財産を保有する権利もあることになっていますが、共産主義国ではこの権利は認められていません。国民全員の共同財産という解釈で乗り切っているのでしょうが詭弁です。  こうした問題もありますが、全人類は平等に人権をもっているという基本理念で現代の国際社会は動いており、それ自体は素晴らしい事です。しかし残念なことに、世の中には全人類に平等な人権を認めない勢力もいます。多くの人種差別主義者は、差別対象を自分たちと同じ人間だとは認めていません。彼らから見た相手は、彼らにとって人間とは認められないから人権も無いとする考え方です。先日、中国共産党の地方組織の幹部がウイグル人には人権が無いと断言していたのも同様な考え方だと言えます。アメリカのKKKのようなあからさまに怪しい団体だけでは無く、国家ぐるみで人権を蹂躙する独裁国は意外と多く、世界規模では人権はあまり守られていないのです。  世界167の国と地域で民主主義的な国は75に過ぎず、半数以上の国が独裁的な状況にあります。さらに民主主義国であっても人権が十全に守られているとは言い難い国も多くあります。全人類に平等な人権というものは、極論すれば皆があると信じているからあるのであって、守らなければ容易に失われるものです。  世界人権デーにあたり、人権を守る思いを新たにしたいと思います。

日本の人権問題

  日本は諸外国と比べれば人権状態はマシな部類で、裁判なしに行政や警察・軍事組織が国民を殺すことが極めて少なく、この点では欧米各国よりも先進的ですが、もちろん人権問題は存在します。あげていけばキリがありません。その中で最悪なものの一つと思われる物に外国人の技能実習制度があります。これはある意味で国家的支援を受けた奴隷貿易であり、アメリカ政府の調査による2020年人身取引報告書でも、 日本政府は人身取引撲滅のための最低基準を十分には満たしていない、と技能実習制度などを理由に指摘されており、 人権状況示すレベルは 前年の第一階層から第二階層へと降格されています。あのアメリカから人権後進国と認定されたのは屈辱的ですが事実なので仕方ありません。  この降格の理由で技能実習制度が関わるものは、技能実習生の強制労働が多数報告されている現状で、当局はこれを人身取引事案としては一件も認知しなかったこと、政府が事案の発生阻止のための努力を怠ったこと、人身取引に関わった犯罪者の裁判はより軽微な罪で行われた上にその判決はほとんど執行猶予がついて収監もされず罰金刑で済むものもいたことがあげられています。  多くの外国人技能実習生は、労働力や金銭の搾取のみならず、抵抗できないように自由な行動も制限され場合によっては性的にも搾取されることすらあります。被害者はもちろん日本を恨みますし、苦しい生活から犯罪に走る人もいます。日本政府と当局は見てみぬフリをしています。行政がこうした事をする以上は、もしこの事実を知らなくても間接的に我々も加害者ですし、こうした悲劇から起きる犯罪に巻き込まれる可能性もあり他人事ではありません。さらに、こうした奴隷制度を利用して労働賃金が抑えられることは、当然ですが日本人労働者にも不利益をもたらします。  知らない内に人権蹂躙に加担するのはまっぴらです。技能実習制度のシステムが改善されない限りは即刻廃止すべきです。被害者への補償もしっかりしなくてはなりません。政治家が奴隷利権よりも国民世論の方を重視するレベルに世論を盛り上げていく必要があります。技能実習制度の問題に関しては度々報道されていますのでご存じの方も多いかと思いますが、ぜひとも情報と問題意識の拡散にご協力ください。

成道会

 旧暦12月8日がお釈迦様が悟りを開いた日とする言い伝えがあり、日本では新暦あるいは旧暦の12月8日に成道会として記念の法要を行う宗派が多いです。南伝仏教では現代の暦で4〜5月ごろの満月の日に、お釈迦様は悟りを開いたとされます。南伝仏教の多くでは、お釈迦様の誕生日の降誕会、お釈迦様の命日の涅槃会も成道会と同じ月同じ日だったとされ合わせてウェーサーカ祭として祝われます。  歴史学的に見て本当はいつだったのかは気になりますが、お釈迦様も考えても分かるはずのないことにこだわるのは愚かだとしておりましたし、お釈迦様の成道に思いを致しましてお祝い申し上げます。  お釈迦様の成道は人間は悟りを開けることを証明した瞬間でもあります。色々と問題があふれるこの世ですが、我々も成仏できると信じて乗り越えて参りましょう。  大乗仏教は原則的に仏に成ることを目指す教えです。単にお釈迦様の偉大さを褒め称えるだけでなく、我々も菩薩道を実践していきたいものです。12月8日は日本ではちょうど人権週間ですし、お釈迦様の悟りとその智慧や慈悲にそった行動を心がけましょう。

インドネシア大虐殺 その2

 昨日からの続きです。  前回、1965年9月30日にインドネシア陸軍の将官6名(将校7名)が共産党の影響があったと見られる大統領親衛隊に殺害された事からはじまったインドネシア内の大量虐殺事件について話しましたが、今回はこの事件の海外での取り扱いについてみていきます。  まず、インドネシア共産党の最大支援国だった中国です。なんと毛沢東はこの虐殺事件を歓迎します。これによりインドネシア共産党が生温い考えを捨て山岳ゲリラ戦を開始するだろうと考えたのです。中国ではインドネシア人亡命者に軍事訓練などを施しますが、その環境は劣悪で、しかも後年、中国が西側諸国と和解すると捨てられてしまいます。また、9.30事件以降インドネシア国内で迫害の対象となっていた華僑らも引き受けましたが、インドネシアに残留した華僑に対する同化政策(漢風の名前や中国語や宗教・文化の禁止)には強い抗議もしていません。文化大革命前後の混乱でそれどころでは無かったのでしょうが冷淡なものです。  当時最大の共産国だったソ連も中国の攻撃的な姿勢は好ましからざるものとみなしており、中国にのせられて失敗したインドネシア共産党には冷淡でした。ソ連はインドネシアとの経済的な繋がりも強く、それを保つため人道的な問題も無視されたのです。  米英などの西側諸国はどうでしょうか?こちらも共産党が壊滅するなら万事よしと無辜の市民が大量虐殺されるのを黙認し、寧ろ共産主義の危険性を積極的に宣伝し不安を煽って虐殺を促進していました。  日本はと言うと一部では批判の声もあがりましたが小さいものでした。ポル・ポトの批判すら大した事はありませんでしたがそれ以下です。一方でベトナム戦争に関する批判は社会現象となっていた事を考えると要はアメリカに直接的な責任が無い問題なんてどうでもいいようです。日本の人権派の大半は人権なんてどうでも良くて大嫌いなアメリカを批判するためのネタを探しているだけなのですから仕方ありません。アメリカへの打撃に役に立たない人命など彼らの中では無価値なのです。また、政府としてもソ連と同様の経済的な理由であまり批判しませんでした。インドネシアは資源が豊富で人口も多い東南アジアの大国です。戦後日本の経済発展にインドネシアは大きな寄与をしましたが、それは殺された多くの人の上に立っている事を忘れてはなりません。  インドネシア大虐殺は

インドネシア大虐殺、その1

 人権週間でもあり今日も人権関係の話題です。被害者が膨大な割にあまり知られていないインドネシア大虐殺の話をします。  1965年9月30日にインドネシアのスカルノ大統領(今の人にはデヴィ夫人の旦那と言ったほうが通じやすいか?)の親衛隊が陸軍将官6名を殺害する事件がおきました。これはスカルノ政権の転覆を狙った国軍を廃するとの大義名分で行われましたが、当のスカルノ大統領がこの行動を事前に知っていたかは今も謎のままです。さて、この軍事行動に対して後に第二代大統領となるスハルト陸軍少将が反撃しこれを撃退、インドネシアの治安は一旦は落ち着きました。陸軍将校を殺害した親衛隊は共産党の影響を受けていたと見られていますが、一部の暴発だったのかインドネシア共産党の計画的な陰謀だったのかも未だに分かっていません。しかし、国軍は共産党の陰謀であると考え、虐殺を実施していきます。  この9.30事件に引き続く虐殺では50万〜300万人の人が殺害されたと伝えられます。この虐殺事件で悪質なのは、インドネシア国軍はほとんど直接的には手を下していないことです。民間で共産党関係者と疑われる者が殺される様に誘導したのです。この一連の殺人に対しては罪に問われる事はなく、地域の権力者に気に入られていない人や、共産党の会合に少し顔を出した人間なども含めてロクな証拠もない人々が隣近所の人らに次々に殺されていきました。この殺人に協力しないものも共産党員の嫌疑がかけられます。インドネシア国軍はあくまでも民衆が自発的に悪い共産主義者を懲らしめたとしています。保守的な国軍が共産主義者を気に入らなかったのは当然ですし、政権に参与していたインドネシア共産党には民衆を武装化させる計画もあり政府でも検討されていたので、国軍としては先手を打ったのだとも言えます。しかし、実際に殺された大半の人は9.30事件に関しては無実の罪で殺されたことになりますし、なによりもこの虐殺で国軍に逆らうと命が危ないとの認識が強まり社会的に様々な自由が制限されて行くことになるのです。 (つづく)

ウイグルの見えないフリをされる人権蹂躙

 世界的に品質の高い綿の産地として知られる新疆ウイグル自治区こと東トルキスタンだが、既に60年以上も中国の軍事占領下にあり、進駐している新疆生産建設兵団らによりウイグル人労働者や農民は不当な搾取を受けている。この非道に圧力を加えるべく、アメリカ政府は新疆生産建設兵団が関わる綿製品の輸入を禁じる命令を12月2日に出した。さらにアメリカでは中国によるウイグル人の強制労働を禁じる法律を審議中だが、ウイグル人の奴隷労働から利益を得ているコカ・コーラ、ナイキ、アップルなどの大企業が、この法案の廃止に向けたロビー活動を行っている事が明らかとなり報道されている。  もちろん、これらの大企業が直接的に奴隷労働をしいたりウイグル人を虐殺している訳ではない。やっているのは中国政府だ。そして、中国はもちろんそんな事はしてないと言う。だが、現地からの情報、衛星写真、亡命者の証言などを総合的に見てウイグル人が民族浄化の危機に瀕しているのは紛れもない事実だ。  例えば、近所の商店から強盗殺人をして仕入れてきた事が明らかな物品を安値で売っている人がいたとする。買い手としては魅力的な価格だが、犯罪には関与したくない。そこで、犯人にこれは犯罪で仕入れたものかと尋ねて「いいえ」との返事を貰えば、善意の第三者のフリをして盗品売買に加担する。果たしてこんな茶番が許されるのか?  新疆綿などの人権蹂躙と搾取の結果得られた製品は、欧米や日本の多くの大企業で使われている。日頃これらの企業は人権とか環境とか平和とかを企業理念として宣伝している。企業の皆様には言行一致を心がけてほしいと切に願う。

人権週間

 今日12月4日から12月10日までは人権週間です。1948年12月10日に国連人権宣言が採択されたことから、翌1948年に日本の法務省が定めた国内向けに人権の意識の普及高揚の運動週間です。なお、12月10日は1950年より国際的に世界人権デーとされています。   大乗仏教の如来蔵思想では、世界の全てに仏性がやどっているとされます。神道にも似たような考え方はあり、あらゆる命を尊重する精神は日本でも古くから涵養されてきました。世界各地でも古くからそれぞれのコミュニティ内で仲間を敬い助け合う精神や思想はありましたが、それは○○国民や△△民族や□□教信者以外に適応される事は少なかったように見えます。こうした事を考えると如来蔵思想の万物平等の心はかなり先進性があったと言えます。  現代の全ての人間に生来存在する人権の概念は18世紀の白人社会で確立しましたが、この当時の白人社会では非白人である有色人種は退化した人類であり真の人間である白人により管理や指導を受けるべきだとの考えが優勢でした。ゆえに当時の有色人種には人権が無く、黒人奴隷やネイティブアメリカンの大量虐殺が行われました。こうした非道も先人たちの努力により、今では少なからぬ白人が我々の人権を認めるようになりました。  こうした社会的な人権は多くの人間の流血により勝ち取ったものであることを忘れてはなりません。現代の世界にも国民に人権など無い独裁国家は沢山あります。日本や他の自由主義国がそうした独裁国家の支配下に落ちぬように努力しなければ人権は容易に失われてしまうでしょう。たゆまぬ精進が必要なのです。

貧者の一灯はなぜ尊く、またなぜ危ういのか

 貧者の一灯という言葉がある。ご存じの方も多いかと思うが、お金持ちが万灯の供養を仏に捧げるよりも貧乏な者の一灯の供養の方に価値があるとする言葉で、物よりもそれに込められた真心の方が大切だとする意味で使われる事が多い。阿闍世王受決経のエピソードに由来する言葉だ。  真心が大切だというのはその通りだ。しかし、これは貧困が素晴らしいと言うことを意味しないという点に留意しなければ、恐ろしい誤解を招きかねない。この話をする前に、貧者の一灯の元ネタとなったお話とその背景を簡単にまとめておきたい。  阿闍世王は父王を殺害して王位を簒奪した暴君であったが、後に改心して仏法に帰依した王として、史実でも初期仏教を支えた王だ。彼が仏教徒になったのはお釈迦様の入滅後だが、お経ではしばしばその時系列は無視される。浄土教の根本聖典の一つである観無量寿経にも登場する。  さて、阿闍世王受決経ではこの阿闍世王がある日お釈迦様へ万灯を捧げることにした。そのための油1万リットルを輸送する車を見た貧乏な信心深い老婆が自分もお釈迦様に献灯しようと、どうにか0.2リットル分のお金を人々に無心し集めたところ、油屋さんは老婆の心に感動し0.5リットルの油を売ってくれて、貧乏な老婆はお釈迦様に一灯を捧げることが出来た。灯が捧げられた翌日、阿闍世王の万の灯は全て消えていたが、老婆の一つの灯は燃え続けていたという。  この物語から貧者の一灯は、先述のように物より真心が大切だという風な意味で使われやすい。生活が苦しい中でも仏への敬意を示す老婆の真心は確かに立派だ。だが、果たして阿闍世王の真心は老婆のそれに劣るものだったのかに関しては実のところ分からない。献灯は布施の行為であるから、貧困に苦しむ者がどうにか捻出した物の方がお金持ちが軽く出せる物よりも自分への執着を捨てたと言える。だから老婆の方が偉いのではないかという論も成り立つだろうが、もし阿闍世王が食うか食わずになるレベルまでに布施をすれば、国の財政が破綻して多くの人が困ることになるだろう。仮に同じ心で同じ布施をなしても貧者の方により価値があるとするのならば、それは貧者にとって心の慰めになるかも知れないが、同時に貧困であることの甘受に繋がりかねない。  いやいや、仏教徒は貪りを離れ少欲知足であるべきだろうとの反論はあると思う。特に出家した僧ならなおさらだ。だがそれを支

菩薩が救う対象

 菩薩は一切の衆生を救う事を目指している。だから目の前で暴れている通り魔であろうが、悪逆非道の独裁者だろうがこれを救わなければならない。それはとんでもないことではない。人の身の菩薩ならば、生きていく上で他の犠牲は不可避であり、通り魔や独裁者と菩薩の違いは程度の問題でしか無い。程度の差は大きな問題ではあっても、自分の命も他の犠牲の上に成り立っている事を忘れてはいけない。  では通り魔や独裁者をどう助ければいいのか、通り魔に自分が殺されてあげればいいのか?独裁者の手先となって働けばいいのか?もちろん違う。では、相手を暴力で立ち向かえばいいのか?相手を傷つけるのは菩薩には禁じられているのでこれも難しい。ならば、何もせず逃げて他の人々がひどい目に遭うのを傍観すればいいのか?否だ。  こうした問題に関して初期仏教や部派仏教は明確な答えをもっている。俗世の問題に関して僧侶は関与しない。暴君や人殺しを止めるのは俗世の人の仕事だ。僧団内で殺人などの問題が起きれば、犯人は僧侶の地位を剥奪され俗世に追放される。それを裁くのは俗世の権力機構だ。僧侶に対して俗世の人間や権力から殺意を向けられても殺されるか逃げるかを選択するはずだ。彼らは戒律を守り暴力をもって抵抗したりましてや加害者を殺したりはしない。  だが菩薩はそうはいかない。菩薩は一般衆生から離れては存在しないからだ。目の前の悪漢を倒せば、他の多くの人の命が助かる場合に菩薩はどうするべきだろうか?昔、地下鉄に毒ガスを撒いた教団ならば、相手にこれ以上の悪業を積ませないために速やかに殺害するのが良いとするだろうが、殺人を目的とした時点で邪教の発想だ。  無難な答えの一例としては、自分と他人の身を極力まもりつつ相手を殺さないようにして無力化を試みるとなる。殺したほうが早いとの意見はあるだろうが、ここはどうするべきかを論じているのであって、最も容易な解決手段を探っている訳ではない。トロッコ問題では、選択肢が限定されており他の手段を考える事を禁じられているが、現実の問題では何かよりよい方法が無いか考え、それが図に当たろうが失敗しようが実行してみるしか無い。  江戸時代の武士の教科書とも言うべき「葉隠」には、武士道というは死ぬことと見つけたり、という有名な一文がある。これは死ぬことを推奨していると言うよりは、人間誰しも我が身の可愛さに自分がなるべ

仏説でないお経はどうやって作り出されたのか?

 宗教的な視点でみればお経とはほとんど仏説、すなわちお釈迦様の直接の教説であるとされるが、歴史学的な視点では南伝のごく一部に原型を留めると推測されるのみで、確実なものは現存していない。つまり、現在あるほとんど全てのお経は非仏説の偽経と言うことになる。では、その教え自体が仏の教えで無いのかと言えばそんな事はない。今日はいかにして非仏説の仏説経典が作られていったのか解説してみたい。  まず大乗仏教の元祖とも言うべき般若経典について考えてみる。以前にも述べたように大乗仏教は当時の部派仏教へのアンチテーゼとして出来た歴史はあるが、実のところ初期仏教の根幹にある縁起の法への原点回帰であり、空の思想はその発展型だ。これらは歴史学的には決して仏説では無いのだが、仏教の基礎に基づいた思索や瞑想により導きだされたものとなる。この時代にはお釈迦様の神格化は完了していたので、この世の全てを包括する真理がお釈迦様の教えであることになる。そうすると、お釈迦様の教えから導き出される確実に正しい事はお釈迦様の教えと言って良いことになる。あるいは本当に瞑想中にお釈迦様の教えを受けたと信じ込んだのかもしれない。  チベット仏教などには埋蔵経典という考え方があり、お釈迦様が適切な時代に出現するように物理的にあるいは霊的に託した教えが発掘されて現れるとされる。この考えのもとでは、瞑想などにより得られた教えが、仏説として流布されていくこととなる。伝説では大乗仏教の実質的な祖である龍樹は竜宮に行って大乗仏典を授けられたとされ、お釈迦様の仏説経典を再発見したという設定がある。だから大乗仏典は仏説だと少なくとも宗教上は言える。  そこで気になるのは十地経が含まれる華厳経などの人間が修行を積み菩薩となり仏に至る道を示した教えは、歴史学的に仏説でなければ、後世の誰かが体験した話となる。ファンタジー小説のようなよく出来た作り話である可能性も否めないが、修行を重ねる内に現れる壁の存在を複数述べており、実際に菩薩行に励んだ人の実体験であると思われる。そうなると、十地経の成立時期には、修行をして仏の後を継ぐ菩薩の階位である法雲地に達した人がいる事となる。法雲地は菩薩52階説でも50番目でありほぼゴールだ。十地経はその経験に基づく話が述べられたものである以上は、古くてもたかだが1900年くらい前にはそのレベルに達した修行者が