山に登る
山の上に立ち、眼下に自分の住む街を一望に見下ろす時、さまざまな個人的社会的問題もふと俯瞰的に見ることができるような気がします。眼前に問題が広がる平時とは違う感覚です。昔から西行はじめ多くの仏教者や詩人はよく山に登りインスピレーションを得ていました。お寺にしてもお布施を得るためなら都市の郊外が有利ですが、修行用の寺院である比叡山や高野山や永平寺は山の中です。自分と世界を見つめ直すには山は良いものです。現代でも半ば文明の外側にある山中では、警察も消防も救急もすぐには来てくれません。そんな社会から離れた環境で命をかけて自然と対峙する非日常的体験により感覚が研ぎ澄まされるのです。
最近では気楽なレジャー感覚で山に登る人も多いのでそういう感覚も薄れてきているのかもしれませんが、現実的に近所の低山でも自然を舐めては事故の元です。単独で山に行くときは必ず入山届を出すか、知人にいつ下山予定なのかを告げて不測の事態に備えましょう。
さて、そんな危険な山に登らなくても瞑想をする時に自分の視点を果てしなく遠く広くしたり果てしなく近く小さくしたりとする視点の移動をさせる技術は古今東西によくあります。密教でも自分を宇宙そのものの仏である大日如来と一致させる瞑想をしますが、こうした全世界、全宇宙にまでに自分の視点を動かす瞑想では、山の上から街を見下ろすよりもはるかに高いところから自分の日頃の世界を見下ろしています。もちろん、こうした瞑想では現実に観測される宇宙とは別のものが観られるわけで、世界中にある古い宇宙の予想図は人間の多様なイマジネーションの産物です。しかし、先人達が我々の銀河系とアンドロメダ銀河の衝突を予測できなくても、ブラックホールの内側を言い当てられなくても瑣末な問題です。最も大切なのは自分の所属する社会を外から見ることです。
極論すれば人の命がかかっていない殆どの問題は、自分の命をかけて悩むに値しません。たまには心の山に登って自分を見下ろしてみるのも良いでしょう。
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