無料食堂

 数日前に、困った人を助けるために無料で食事を提供もする個人の店で、明らかに困窮しているわけではなさそうな人が大量にタダの弁当を要求し、店側もそれに応じているとの報道があった。世間の反応は不正利用する人に対する怒りに満ちていた。

 店主の貧困に苦しむ人を助けようとする想いが、悪い人たちの貪欲の標的にされたわけであり世間の怒りは一定の理解もできる。だが、不正利用する人も心は貧困であるとはいえる。タダ飯を食わせてやる義理は無いが、彼らも心の貧しさに関しては救済の対象ではあるだろう。

 店側は人を疑いたくはないとして不正対策の実施には消極的だ。また、貧困の判断に一定の基準を設けてその証明を求めるなどの不正対策を講じれば、利用へのハードルは上がってしまい本来の対象者も利用しづらくなるのは自明だ。

 しかし遺憾ながら、不正対策が無い善意は踏みにじられるのが普通であり、不正利用者に対して怒り狂う人達は社会の善意を信用しすぎのように思う。それに、不正利用者は憐れむべき対象であり、怒りをぶつける対象では無い。

 だが、不正利用を放置しその数が多くなれば、本来の目的である困窮者を救う効率は当然低下する。本来、行政が公的に困窮者へ十分な社会保障を施していれば、個人の店がこうした行為をせずとも済む話ではある。公的権力による福祉は不正利用を少なくさせるという点において個人の慈善事業より明らかに有利だ。効率のみを重視するのであれば、個人的努力よりも行政に働きかけたり寄付したりする方が有効だろう。一方、行政の手が届きにくい弱者に気軽に利用してほしいという理念を優先させて不正対策を行わない場合は、一定量の不正の発生は許容せざるを得ない。

 もし、こうした善意の施しを仏教者が行う場合は布施行としての性格を帯びることになる。ここで少し、この無料食堂の行為を布施行として考えてみたい。布施行を行う時は、施した相手が施された物や心に対していかに酷い扱いをしようが、施主は気に留めてはならない。それは自分が手放したものであり、布施とともに自分の執着も捨てる目的があるからだ。ただ、例えば人殺しを計画している人に武器を施すのは布施ではなく犯罪の幇助であるように、布施を施す人や内容は選ぶ必要はある。また、布施はする方が誰にどこまでするのかを決めることができる。布施はあくまでも志だからだ。無料食堂の事業を布施だと考えた場合、店側が布施を出来ないと判断すればしなくても構わないのだ。よって店側が気に病む必要は一切なく、出来る範囲で出来ることをすればいいのだと思う。

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