仏法僧の三位一体
維摩経の中に多くの菩薩がそれぞれが思う不二の法門に入る事を説明し、最後に維摩居士が沈黙でこれに答える有名なシーンがあります。この中で寂根菩薩は次のように説きました。
「仏とその教えとその教えを実践する僧はをそれぞれ別のように見えて一つだ。仏はその教えに表れ、教えは僧によって実現する。この仏法僧の三宝は全て因果を離れた不生不滅の無為としての特性を持ち何者も妨げない虚空と同じだ。世の一切のことも同じ様に捉える事ができる。この行にしたがうならば、それは相対的な差別を超え絶対的な平等を実現する法門に入ることが出来ると言える。」
仏も法も僧も無為の表れとする仏教界の三位一体のような考え方です。キリスト教の三位一体は、神たる父と、子たるイエス、そして信者の内に宿る聖霊が等しく神の表れであり、同時に、父は子ではなく、子は聖霊ではなく、聖霊は父ではないとされます。つまり、神=無為、父=仏、イエス=法、聖霊=僧、に置き換えると類似の図式となるのです。ただし、キリスト教では「である」と「でない」は明確に区分されていますが、仏教では「である」と「でない」の区分を究極的には避けるのが大きな違いです。つまり、仏は法であり法は僧であり僧は仏になりえて、全てが無為なのです。
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