仏教者と詩
言に寺と書いて詩という文字になる。漢字の成り立ちとしての詩は別にお寺とは関係しておらず、寺は発音を表す符号に過ぎない。また、元来の寺という言葉の意味は役所や外交使節の迎賓館のような性格の建物であり、寺が現在のお寺の意味になったのは、西域から旅をしてきた仏僧が白馬に乗り四十二章経を携え洛陽の寺に迎えられたことに起源があるとも言われる。この伝説は後漢初期の話であり、漢字の歴史を考えると詩という文字にお寺の意味は込められていない。
だが、古来より多くの偈文や和讃などの仏教詩が作られてきた。初期仏教の経典に至っては全て詩の形式をとっている。これは仏教の特性というよりは、強い想いを伝えるのに詩という形式が適していたのだと思われるのと、初期仏教においては経典は書字には残されず全て口伝であった為に覚えやすい形式とする必要があった為でもあるだろう。
このように仏教と詩の関係は深く、このブログでも幾つか仏教に関係する詩歌も紹介してきたが、こうした詩の鑑賞にはある程度は仏教の前提知識を要するものが多く、詩人の魂の咆哮たる一般の詩文とはいささかの違いがある。仏教詩には程度の差こそあれ、その教えを伝えようとする意思が込められており、そこには、市井の自由詩のようなあるいは流行歌にのせられた歌詞のような、感情から迸る執着や愛憎や貪りや怒りはない。良寛さんの歌の一部にあるような感情に富む歌ですら、それが仏教詩として読まれる時は裏の意味付けを考察されてしまう。禅問答などに見られる詩的で強い言葉も、実は計算ずくで弟子への教育のためのものであり、やはり一般の詩とは一線を画する。
だが、心に訴えかける勢いを持つ一般の詩文を感情的な煩悩の塊よと見下すのは仏教者として適切ではない。方丈に閉じこもり瞑想の世界に遊び他人の苦しみを知らない者にいかなる慈悲の心が持てようか?世間の詩歌にこもる想いを体感として理解出来ない者は人の苦を苦として感じないことになる。自分が苦を感じなければ、他人の苦には共感せずに知らぬ存ぜぬという態度は少なくとも大乗仏教的とは言えない。また、他人の苦など知らないとする聖者が果たして本当に苦を滅し尽くした聖者なのかは怪しいものだ。自分の煩悩に蓋をして見ないようにするだけでは煩悩は消えはしない。自分の煩悩を直視して苦悩する詩人の方がよほど誠実だと言えよう。
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