カルムイク、ヨーロッパの仏教国
カルムイク共和国はロシア連邦に所属する地理的にはヨーロッパに属する仏教国で、主にチベット密教が信仰されています。このため国旗にも白蓮華が描かれている他、旗が黄色なのはモンゴル地方ではチベット密教は「黄色の教え」とも呼ばれるからです。国旗の中央の白蓮華は青い丸で囲まれていますが、青や空色はカルムイク人の起源となった中央アジア東方の象徴的な色です。カルムイク人は民族的にはトルグートと呼ばれる遊牧民族の末裔となります。
トルグートはモンゴル西方のオイラト地方から東トルキスタンの付近の遊牧民です。伝説ではインドからやってきて漢土の西部に王国を築いた仏教の転輪王の子孫とされます。伝説の真偽はともかく一般にはモンゴル人に近いオイラト民族の中の一部族とされます。言語はモンゴル語族のオイラト語の方言で、カルムイク語として現在に伝わっています。
トルグートは同族間の争いを避けるために、故郷の天山山脈の付近からはるばると(独ソ戦でも有名な)ヴォルガ川の下流域に1630年に移住しこの地に住んでいたチュルク系の民族を攻めてカルムイク・ハン国を形成します。この時にチベット密教も彼らとともに伝えられました。遠くヨーロッパの地にあっても、彼らはチベットやオイラト地域とも連絡を取り続けました。
その後1637年に、トルグートの故郷である中央アジア東部にはオイラト民族によって世界最後の遊牧帝国とされるジュンガル帝国が成立します。しかし、ジュンガル帝国は清朝との争いに敗れ1755年に滅亡します。その後も一部は抵抗を続けましたが清朝による虐殺と疫病の流行でジュンガルの人は殆ど滅亡してしまいました。そしてこの頃、ロシア帝国との関係が悪化していたヴォルガ川のカルムイク人は、1771年に衰退した中央アジア東部へ戻ろうとします。しかし、ロシアはこれを妨害するために西トルキスタンの諸民族を使い攻撃させ大量の死者が出ました。現在、カザフスタンにあるバルハシ湖は彼らの血で染まったと伝えられます。そのような妨害に遭い出発時には17万人いたカルムイク人は7万人までに人口を減らして、清朝支配下となった東トルキスタンに到着し清朝の勢力として組み込まれました。しかし、そもそも出発の時点でヴォルガ川の西岸にいたカルムイク人はヨーロッパに取り残されてしまい定着しました。
ヨーロッパに残留したカルムイク人は後にナポレオンと戦ったり、独ソ戦に巻き込まれたりしました。戦後もソ連から弾圧を受けカルムイク共和国として復活を果たしたのは1957年のことでした。ソ連崩壊後もロシア連邦に留まっており色んな意味で大変そうですが、貴重な文化が守られるように願います。
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