イデオロギーが生む偏見

 福島の原発事故の時も、今回のコロナ禍でも概ね右翼はそのリスクを過小評価する傾向がある。原発事故が話題になっていた頃は大量に被曝してもかえって健康になると言った元航空自衛隊幕僚長もいたし、今回のコロナ禍が始まったごく初期にYoutubeで激怒しながらコロナはもう終わったんだいつまで対策なんてするんだ!と狂ったように喚き散らす右翼の言論人もいた。右翼は概ね何のリスクでも過小評価する。これはある種のマッチョ主義というか、自分達は強くて人々が騒ぐ脅威なんて恐るるに足らずと見せたい心があるのかも知れない。また、彼らはリスクの過小評価を、世間や政敵がリスクを過大評価しているとして攻撃するためにも利用している。その敵に対する怒りがますます過小評価に拍車をかける構造がある。

 一方の左翼はどうか?彼らは基本的に原発が嫌いなので原発事故の時はそのリスクを過大評価しまくりだった。先入観がリスクコミニュケーションを無力化していた。会話が通じないというか、中には当時の左派政権を擁護するために、東日本大震災自体がアメリカの秘密兵器による物だという荒唐無稽な話を信じ込んでいる人までいて全くお話にならないレベルだった。しかし、今回のコロナ禍ではそのリスクを過大評価する人もいれば過小評価する人もいる。そして過大評価する人は政府の対応が手ぬるいと批判し、過小評価する人は政府の対応が大袈裟だと批判する。彼らが大嫌いな自民党政権を批判するためにはリスクの評価は極端であればあるほど都合がいいので勢いそういう認知の歪みを生みやすいのだろう。

 その辺、中道勢力は概ね冷静だと言える。イデオロギー的な立ち位置が偏っているとどうしても誰かを攻撃し怒りを向ける傾向が生まれる。それは本来は冷静に判断すべき脅威をも政争の道具に使ってしまうという結果を招く。脅威に対する科学的知見や公共の利益の前に、より極端な解釈をして相手を困らせることが第一になっている。困ったものだ。

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