意見が違うことは必ずしも敵対することではない。それが多様性ある社会。

 公衆衛生に関する誤った知識や、事実無根のデマによって起こる憎悪犯罪は、誤った情報を否定し、正しい情報を広く告知しないと大変なことになる。これは言論や表現の自由を守る事とは相反しない。意見の違いではなく真偽の問題だからだ。

 しかし、なにかが美しいとか醜いとか、美味しいとか不味いとか、心地よいとか気持ち悪いというのは、あくまでも主観的な問題であり千差万別だ。これらは言論や表現の自由の範疇にあり、個人の主観を理由に迫害されてはならない。

 こうした主観やそれに伴う需要の違いがあるから、人の社会では無用の衝突を避けるためにゾーニングを行っている。工場や住宅地や小中学校や商店街や飲食店や性風俗店など、それぞれの秩序に基づいて混在せずにあるのは、まぜると主観の相違による問題や、物理的な危険も発生するからだ。例えば、大型車両の出入りが多い工場のすぐそばに小学校があることや、小学校の門前にソープランドがあることもない。

 しかし世の中にはこうした配慮を要請しただけで、恐ろしく攻撃的な態度でくる人達がいる。いわゆる表現の自由戦士だ。ゾーニングを守らずに自分たちの好き勝手出来ないのは言論弾圧であり表現の自由に反すると言うのだ。もちろん、意見としてそう言うのは良いのだが、実際の行動をともなってあまり無茶をすると無用の軋轢を生み、最後には本当に弾圧されることになりかねない。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない。それが意見の違う者同士がともに生きられる多様性のある社会を守ることになる。何事も穏便に解決するように努力したいものだ。

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