悟迹の休歇なるあり

 禅宗では仏法は言葉で伝えることが出来ないとする不立文字という考え方をしており、それゆえに座禅の実践による心の伝承が重要視されます。日本の曹洞宗の祖である道元禅師の代表的著作である正法眼蔵はそんな禅宗にあって、文字で禅を伝えようとした作品と言えます。文字で表された禅と言えば難解で一見すると意味不明ないわゆる禅問答である公案集が思い浮かびますが、正法眼蔵は具体的で実践的な内容です。しかも、かなりの大著で未完です。道元禅師がいかに言葉を尽くそうとしていたかが偲ばれます。

 悟迹の休歇なるありは、正法眼蔵の第一現成公按に出てくる言葉です。この文の悟迹とは悟りの跡のことで、休歇は休むことです。悟りを開いた時に悟りを開いた痕跡をみて悟ったのだと思えばそれはもう悟りではありません。自己の認識で物事を理解しようとするのが間違いで自己を縁起のなかの空だと観て自分自身がなくなり、自分とはこんな存在だという思い込みも全てが脱落したときが悟りであるから、悟りは継続的な禅そのものとなります。だから生活の全てが禅の修行である必要があるのです。

 不立文字の禅をあえて文字化する道元禅師の試みは僧侶の教育の効率化に寄与しました。悟迹の休歇なるありという結果に執着せずに行動に集中する姿勢は現代のスポーツにも通じるところがあります。鎌倉時代、禅は武家を中心に広がっていきましたが、高度な鍛錬を要求される武士にも親和性が高かったのでしょう。

 19世紀末イギリスの高名な(悪名高い?)某魔術師も、結果ばかりを求める欲望から解放され妥協されること無い目標に向かう純粋な意志こそ完全なのだと言っていましたが似ているものがあります。日々精進して行きたものです。

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