廻向と安らかな社会

 仏教の基本は縁起です。何事にも原因があるとする考えです。だから、善いことをすると善い結果を生み、悪いことをすると悪い結果を招くことになります。そして、この世の全ては究極的には苦しみであり、苦しみの原因は怒りや貪りや愚かさの煩悩であるから、これらの煩悩を消滅させたら苦しみも生まれなくなるという思想です。

 ところが、自分が善いことをすれば自分に善い結果が生じるから善いことをして、自分が悪いことをすれば自分に悪い結果が生じるから悪いことをしない、という考えでは煩悩を滅することは出来ません。自分に善い結果が起きるようにと貪る心が自分に良い行動を取らせているだけだからです。このため、自分が行った善い行いの結果から生じる善い結果を自分以外に振り向けて自分への執着を捨てようとする考えが生まれます。この自分の善行の功徳を何かに振り向けることを廻向といいます。死者の冥福を祈る追善供養もこの考えから行われます。

 自分の善行の功徳を、自分の利益でなく悟りの為に振り向けることを菩提廻向、他の人達を救うために振り向けることを衆生廻向、自他の区別や廻向というこだわりから脱して仏の理にかなった善行を積んでいくことを実際廻向といいます。原因と結果が一対であるならば功徳を他に振り向けることがそもそも可能かどうかという疑問もあるでしょうが、廻向の精神は我執の心や物事をありのままに見ずに分別してしまう心から離れる考え方でもあります。自利と利他が同義となった人にとって自分が積んだ善行で他人が幸せになることは自分の幸せでもあり、やがて自他の分別にこだわらずに善行を積むようになるのです。こうして我執が無くなると功徳は世界全体に及ぶことになるから廻向は可能と言えるでしょう。

 とはいえ、廻向ではどうしても自分の功徳を振り向けるとの意識が強くなりがちで注意が必要です。この対策として例えば浄土教では如来からの廻向が私達に届いていることが強調されます。他者の功徳が自分に廻向されているとの意識を持って感謝するのは大切です。多くの人がその善行の功徳を差別なく振り向けているのだと考えると、自分にも多くの人や仏の功徳が廻向されている事になります。それは、どの人から見ても同じであり、皆が廻向の精神を発揮すればお互いが助け合う安らかな社会が実現することでしょう。

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