再チャレンジ

 例えば何らかの罪を犯し逮捕されて裁判で実刑判決を受け懲役刑を勤め上げて出所したとしても、社会の目は前科者には冷たい。人が人として生きていくには社会性が大切になってくるが、社会から爪弾きにされた前科者は生きづらくそれ故に再犯もしやすい。また、刑事罰とならなくても過去の不祥事が暴かれ仕事を失う人もいるだろう。そうした人達をリスクを取ってまで雇用する人は少ないし、起業しても顧客や取引先からも警戒されて上手く行きづらい。悪事をはたらいた者に対する社会の圧力は相当に強い。

 こうした悪人への社会の冷たさは、犯罪行為の抑止力となっている面もあるが、悪人をより悪い方向に追いやる効果もある。だから、犯罪者の更生を促すのは彼らの過激化を抑え社会の安全を守るためにも必要だといえる。罪を償えば再チャレンジ出来るのは良いことだ。

 だが、再チャレンジにも格差はある。地位の高い者やお金持ちの人達は、何か悪いことをしても罪を償うどころか、そもそも悪くないといった擁護論が勃興し反省の機会すら与えられない。立場上の責任はとっても実質的には大した被害は受けないし擁護した人への見返りもあるだろう。まれに実刑を受けた場合でも出所すれば普通に生活出来る。かたや、貧乏人が何かすれば擁護する人はほとんど無く、生活が困難なレベルにまで社会から排除される。要は再チャレンジとは貧乏人の為の言葉だといえる。貧乏人が行なった、自己の社会生活の基盤が破壊されるレベルの不祥事や犯罪は、地位が高いお金持ちには日常生活にちょっとしたトラブルが起きた程度の事だからだ。再びチャレンジする必要が無い。

 それゆえに、立場が強い者には己を律する心が強く求められる。極端な不公平感が社会に蔓延すれば、階級の分断と衝突を生むのは自然であり、それは歴史的に見ていつも悲劇を招いてきた。強い者が自己の利益にのみ執着すれば社会は破綻することもある。各地に伝わる帝王学が王者に公平さを要求するのは、倫理的宗教的観点のみならず自分を支える国民を痛めつけて分断が進めば王自身の身も危ういからだ。王にとって国民の幸せが自分の幸せである状態の時に王国は栄える。これは民主化しても同じであり、為政者が国民をないがしろにすれば、(選挙ででも革命ででも)打倒された為政者には再チャレンジの機会はそうそう与えられないだろう。

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