菩薩が救う対象
菩薩は一切の衆生を救う事を目指している。だから目の前で暴れている通り魔であろうが、悪逆非道の独裁者だろうがこれを救わなければならない。それはとんでもないことではない。人の身の菩薩ならば、生きていく上で他の犠牲は不可避であり、通り魔や独裁者と菩薩の違いは程度の問題でしか無い。程度の差は大きな問題ではあっても、自分の命も他の犠牲の上に成り立っている事を忘れてはいけない。
では通り魔や独裁者をどう助ければいいのか、通り魔に自分が殺されてあげればいいのか?独裁者の手先となって働けばいいのか?もちろん違う。では、相手を暴力で立ち向かえばいいのか?相手を傷つけるのは菩薩には禁じられているのでこれも難しい。ならば、何もせず逃げて他の人々がひどい目に遭うのを傍観すればいいのか?否だ。
こうした問題に関して初期仏教や部派仏教は明確な答えをもっている。俗世の問題に関して僧侶は関与しない。暴君や人殺しを止めるのは俗世の人の仕事だ。僧団内で殺人などの問題が起きれば、犯人は僧侶の地位を剥奪され俗世に追放される。それを裁くのは俗世の権力機構だ。僧侶に対して俗世の人間や権力から殺意を向けられても殺されるか逃げるかを選択するはずだ。彼らは戒律を守り暴力をもって抵抗したりましてや加害者を殺したりはしない。
だが菩薩はそうはいかない。菩薩は一般衆生から離れては存在しないからだ。目の前の悪漢を倒せば、他の多くの人の命が助かる場合に菩薩はどうするべきだろうか?昔、地下鉄に毒ガスを撒いた教団ならば、相手にこれ以上の悪業を積ませないために速やかに殺害するのが良いとするだろうが、殺人を目的とした時点で邪教の発想だ。
無難な答えの一例としては、自分と他人の身を極力まもりつつ相手を殺さないようにして無力化を試みるとなる。殺したほうが早いとの意見はあるだろうが、ここはどうするべきかを論じているのであって、最も容易な解決手段を探っている訳ではない。トロッコ問題では、選択肢が限定されており他の手段を考える事を禁じられているが、現実の問題では何かよりよい方法が無いか考え、それが図に当たろうが失敗しようが実行してみるしか無い。
江戸時代の武士の教科書とも言うべき「葉隠」には、武士道というは死ぬことと見つけたり、という有名な一文がある。これは死ぬことを推奨していると言うよりは、人間誰しも我が身の可愛さに自分がなるべく死なないで損をしないような行動を色々と理由をつけて選択してしまうから、生き死にを度外視してなすべきことをなせというニュアンスの言葉だ。結果としてその目標が達成できなくても、正しいことをして死ぬのは恥ではないという趣旨の言葉が続く。
菩薩行を積むにあたっても、私利私欲から生じた間違った行いにもっともらしい言い訳をつけて居直るのは恥ずべき事だとの認識はもちたいものだ。その上でも、何が正しいのかは人によって差があるだろうが、いかなる人間も菩薩が救うべき対象である事を念じて忍辱したい。
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