貧者の一灯はなぜ尊く、またなぜ危ういのか

 貧者の一灯という言葉がある。ご存じの方も多いかと思うが、お金持ちが万灯の供養を仏に捧げるよりも貧乏な者の一灯の供養の方に価値があるとする言葉で、物よりもそれに込められた真心の方が大切だとする意味で使われる事が多い。阿闍世王受決経のエピソードに由来する言葉だ。

 真心が大切だというのはその通りだ。しかし、これは貧困が素晴らしいと言うことを意味しないという点に留意しなければ、恐ろしい誤解を招きかねない。この話をする前に、貧者の一灯の元ネタとなったお話とその背景を簡単にまとめておきたい。

 阿闍世王は父王を殺害して王位を簒奪した暴君であったが、後に改心して仏法に帰依した王として、史実でも初期仏教を支えた王だ。彼が仏教徒になったのはお釈迦様の入滅後だが、お経ではしばしばその時系列は無視される。浄土教の根本聖典の一つである観無量寿経にも登場する。

 さて、阿闍世王受決経ではこの阿闍世王がある日お釈迦様へ万灯を捧げることにした。そのための油1万リットルを輸送する車を見た貧乏な信心深い老婆が自分もお釈迦様に献灯しようと、どうにか0.2リットル分のお金を人々に無心し集めたところ、油屋さんは老婆の心に感動し0.5リットルの油を売ってくれて、貧乏な老婆はお釈迦様に一灯を捧げることが出来た。灯が捧げられた翌日、阿闍世王の万の灯は全て消えていたが、老婆の一つの灯は燃え続けていたという。

 この物語から貧者の一灯は、先述のように物より真心が大切だという風な意味で使われやすい。生活が苦しい中でも仏への敬意を示す老婆の真心は確かに立派だ。だが、果たして阿闍世王の真心は老婆のそれに劣るものだったのかに関しては実のところ分からない。献灯は布施の行為であるから、貧困に苦しむ者がどうにか捻出した物の方がお金持ちが軽く出せる物よりも自分への執着を捨てたと言える。だから老婆の方が偉いのではないかという論も成り立つだろうが、もし阿闍世王が食うか食わずになるレベルまでに布施をすれば、国の財政が破綻して多くの人が困ることになるだろう。仮に同じ心で同じ布施をなしても貧者の方により価値があるとするのならば、それは貧者にとって心の慰めになるかも知れないが、同時に貧困であることの甘受に繋がりかねない。

 いやいや、仏教徒は貪りを離れ少欲知足であるべきだろうとの反論はあると思う。特に出家した僧ならなおさらだ。だがそれを支える在家がいる俗世の自治体は、治水や防災や福祉や治安の維持がなければ運営が困難だ。貧困こそが素晴らしいという発想は、これらのインフラを悲劇的なレベルに落としかねない。また、昔なら暴君が、現代ならブラック企業が人々から搾取した結果として貧困があるならば、それを放置するのは正しいことと言えるだろうか?ブラック企業ではやりがい詐欺という、経営者の都合のいいように労働者を洗脳して奴隷労働を自発的にさせる技術が存在する。ブラック企業では、貪るなとか現状に満足して他につくせという仏教の教えは悪用しやすい考え方でもある。救われるべきは、搾取される弱者であるにも関わらず、結局は搾取する強者がその貪りを激しくし膨張していく。貧者が現状に甘んじることは時として大きな悪を育てることにもつながる。

 民が貧困でも構わないのなら福祉や治水や教育に尽力した日本仏教界の先人である聖徳太子や行基菩薩や弘法大師は間違っていたことになる。貪らず怒らず生きることは素晴らしいことだが、現代社会において生きるのがやっとの貧困者に対し現状で満足せよと怒る人が、貧者から搾取して貪りの限りを尽くす人であることは往々にしてある。貧者の一灯の言葉は格差社会の中の勝者や力ある者に対しての戒めであるべきだ。決して苦境にあえぐ人を圧倒的な勝者に奉仕させるために使っていい言葉ではない。

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