言論のデスマッチ

 暴力で全ての意思決定を行う社会があったらどうでしょうか?喧嘩が強い者やその仲間たちの天下となる社会です。方々で争いが起き秩序も何もあったものでは無いでしょう。だから、この世の全ての国で私的暴力は制限され、治安が保たれているのです。暴力ではなく話し合いで物事を解決しましょうというのは素晴らしい事です。しかしながら、言論は時に暴力的にもなります。

 特に閉鎖された論争では無く、聴衆が動員されている状態では言論も暴力となります。例えば中国の文化大革命の批判闘争大会は、反共産主義的とされる人物をスタジアムに集まった群衆が罵倒しつくす行事です。もし、人気歌手のコンサートよろしく、東京ドームを埋め尽くす群衆が中央に立つ自分に対して一斉に罵詈雑言を投げかけ反共産主義的な自分を恥じて反省せよと詰め寄る姿を想像すればその異常さが分かると思います。これは言論による話し合いでは無く暴力でしょう。このような集団による言論によるいじめの多くは、誰かにとって都合の悪い人間を排除するのが目的な訳ですが、同時にその誰かに逆らえば自分も同じ目にあうという恐怖を大衆に植え付け、皆を加害者に駆り立てます。ネットいじめの場合は、その誰かが曖昧なことが多いですが一定の空気感によって似たような暴挙が行われます。政治においても大衆の暴力を扇動し政敵に圧力をかけるのは禁じ手ですが、古今東西しばしば行われます。激高する大衆に法的な秩序が通用しないと信じさせられれば、ほとんどの人は屈服します。

 また一対一の論戦も彼我の実力が拮抗している場合は議論として成り立ちますが、その技術や言語能力や知力において著しい差がある場合はやはり暴力的です。多くの人は話し合いでは正しいほうが勝つと思いがちですが、よほど無茶な議題でない限り勝敗を分けるのは正邪では無く強弱です。例えば、どうにか自立している知的障害や軽度認知機能障害の患者様は、度々詐欺の被害に遭います。騙しやすいからです。どう考えても不合理な商品を売りつけられたり結婚詐欺で金品を奪われるなど枚挙にいとまがありません。また意図せぬ加害者にならないためにも、圧倒的弱者と話し合いをする時は十分な配慮が必要です。やろうと思えば自分の意見を相手に押し付けることが出来るので、ついそうなってしまわぬ様に慎重に相手の言い分を聞いて出来る範囲でその考えを叶えたいと思う心が大切となります。

 意外な事に昨今、言論(表現)の自由をと声高に叫ぶのは、人権団体などではなくヘイトスピーチをする差別主義者の集団です。彼らは彼らが行う恫喝などの暴力的言論を用いた禍々しくも騒がしいデモや集会などの表現を守りたいのです。また、ネット上に明らかなデマを流して広告費を稼いでいる方々も言論の自由には執着されています。一部の言語的な才能に溢れる方々も同様で、己が最も得意とする分野での規制は気に入らいないようです。彼らは言論のデスマッチ状態では無類の強さを発揮しますのでそういう世界をお望みなのでしょう。ですが、言語も暴力であるとの認識に立てば、ある程度の規制は必要です。ヘイトスピーチや誹謗中傷の自由など許容してはなりません。

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