毘婆沙
龍樹菩薩の十住毘婆沙論は華厳経の一品として有名な十地経を一般向けに簡単に説明したもので、決して学僧向けの難しい学術論を展開するために書かれたものではない。元々の毘婆沙という言葉が物事をわかりやすく言い換えると感じの意味であり、十住毘婆沙論のタイトルを現代の出版物風に治すと「わかりやすい十地経入門」とか「凡夫でも分かる十地経講座」とかそんな感じだろうか?
十住毘婆沙論には十地のうちの初地に至るまでと第二地の途中までしか書かれていない。これは入門書の故なのか、書いてあったものが失われた為なのか分からない。歴史学的にはこの書が本当に龍樹菩薩の手によるものなのかどうか疑問視する向きもあるが、在家を尊重する大乗仏教においてわかりやすい説明は需要があったのだろうと思われる。
十地経は自利利他である無上菩提心の発願、即ち自分を利することと一切の衆生を救うことが一致する菩提の心を仏道の根幹としている。普通に考えれば自利利他の心をもって修行して仏の智慧を得ると考えがちだが、十住毘婆沙論では仏の智慧の働きを得て発願が可能になるとしている。他人を救うにはまず自分が強くあらねばならないという理屈だが、同時にこの菩提心が仏の智慧を得て悟るための手段では無いと宣言していることになる。この発願が可能となる段階で、ようやく十段階のはじめである初地だが、既に成仏が約束される位とされ、それだけ発願の重要性が強調されている。
古今東西、簡単に物事を説明する際に、本来のものから変質しているという批判はおこるものだ。実際にこの十住毘婆沙論では、十地経が本来ターゲットとしていたと思われる僧侶ではなく、そういう資質を持ち合わせていない凡夫を菩薩にしようとして書かれており多少の変質は避けられない。これは龍樹菩薩かあるいは別の僧侶が、一般大衆を教化する時に実際に経験した事をまとめた事では無いかと思われ、そう考えて読むと、オリジナルと違うと言って激怒するような原理主義的思考から脱却出来るのでは無いかと思われる。
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