赤穂浪士の討ち入り
元禄15年12月14日(1703年1月30日)は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日です。主君の仇を討った忠義の士の美談として、忠臣蔵などは今でも年末にはあちこちで語られます。討たれた吉良上野介の再評価もされる事が多い昨今ですが、彼が浅野内匠頭に今で言うところのパワハラを働いていた事は確かで、浅野内匠頭が精神を病んで暴挙に出たのも致し方ない事かも知れません。
さて忠義の美談とされる忠臣蔵ですが、武士の心得を説いた「葉隠」では批判されています。大石内蔵助ら赤穂浪士が泉岳寺で切腹しなかったことと、即時の報復を行わなかったことが批判の対象です。勝敗や打算を度外視した絶対かつ即時的に実施される報復を是としそれ以外を恥とする考えは、仏道には反しますが当時の武家同士の抑止力としては役立ったのかも知れません。治安と秩序の維持にあたっていた幕府の苦労もしのばれます。
もし現代社会で上司のパワハラで追い詰められた父親が相手に怪我を負わせその責任をとった自死へと追い込まれても、恐らく仇討ちをする家族なんていません。ただ、そうして泣き寝入りする事が大人の対応だと分かっていても納得いかない気持ちの人も多いでしょう。赤穂浪士たちの物語は様々な逡巡や努力や忠義心が入り混じった果てについに主君の無念を晴らす目的を達します。社会のしがらみや規律を打ち破って本懐を遂げた赤穂浪士たちの姿は、規則にがんじがらめになっている現代人の心にこそ強く響くのかもしれません。
赤穂四十七士の墓所である泉岳寺では毎年12月14日に赤穂義士祭が行われていましたが、今年はコロナ禍で中止です。少し残念な気もしますが、四十七士もたまには静かな12月14日を過ごせていいのかも知れません。
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