科学の発展と死
科学技術の発展により人の寿命は大きく伸びました。それに応じて死を実感を持って捉えられる人も減っているように思えます。
どう見ても余命いくばくもない患者様の本人やご家族様が、延命とかいうレベルではなくどうすれば元通りの元気な状態に戻れるのかと尋ねてこられることも珍しくはありません。
これらかも科学の発展ともに人の寿命は伸びるでしょう。だけど人が必ず死ぬ事には変わりはありません。
健康で長生き出来る状態をなるべく維持したいのはほぼ万人の願いでしょうし、それを目指す事自体は何の問題もありません。ただ、死はいつも私達のそばにいるのを忘れていると、死が自分の目前に迫った時に慌てる事になります。別に宗教じゃ無くても哲学や個々人の思惟でも構いませんが、死に関しての考えはもっておくべきです。
科学の発展に伴い起きる死の問題でもう一つ気になるのは脳死です。現在の日本において、脳の全てが障害された為に死を免れ得ず意識や思考の回復の見込みも無い人から、臓器を他者へ提供する場合においてのみ発生する特殊な死が脳死です。つまり自分の死後に臓器移植を望む人と望まぬ人とでは、法的な死のタイミングが違うのです。一般的に法的には、自発呼吸と心停止と脳幹反射の停止をもって死であると決めていますが、脳死では心停止する前に各種臓器を摘出します。
個人的には、当人が死ぬ前に自分の臓器を他者のために役立てたいとの意思を示すのは尊いことだと思いますが、もし更に科学は発展し移植臓器の培養が可能となったり、高性能な機械化された臓器が出現した場合、おそらく脳死という概念も消失するでしょう。少なくない宗教家が脳死に反対なのは、きっと、人間の都合で死のタイミングを動かす事に対する反感もあるのかと思います。
しかし、どこからを死とみなすのかは難しい問題です。死が確実となった時と言うのであれば、我々は生まれた瞬間に死んでいる事になります。現在の法的に定義された死であっても、死が判定された時点では全身の細胞が死滅している訳ではありません。ただ、科学が発展する前は間違って死んだと判定され埋葬されるというあまり想像したく無い事態も稀にはありました。そう考えると科学の発展により、死に一定の線引がされたことはそう悪くないことなのかも知れませんが、死について深く考える機会を減らす原因となったのかも知れません。
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