「私たちのちかい」闘争
今日は世界遺産としても有名な西本願寺の近年の方針転換について解説します。予め断っておきますが、ここでは方針転換の良し悪しは論じません。それによって生じた問題には言及しますが、どちらかに与することもしません。これはあくまで浄土真宗本願寺派の門信徒内の問題だからです。むしろこうした問題を知らない外野やこれから入信するかも知れない人への解説だとご理解下さい。
まず前提となる方針転換前の浄土真宗の基本的な考えについてまとめます。我々は凡夫です。八正道や六波羅蜜などの行を修めても悟れません。阿弥陀如来の救いを一心に信じて、死後は、阿弥陀如来の本願力により浄土に生まれ仏となり、現世に帰って人々を救済します。皆が仏になるので信心に恵まれた人は死別してもまたお浄土で逢うことが出来ます。信者はその救いに感謝しながら生きていくのです。過ちが多い凡夫であっても阿弥陀如来の救いにあずかる日々を過ごすことで自然に悪いことから遠ざかるようにはなりますが、自分の力を過信し思い上がって悟りを目指す修行をしてはなりません。南無阿弥陀仏という念仏も阿弥陀如来への感謝が自然にあふれてくるもので修行の呪文ではないのです。
では、方針転換後はどのようになったのでしょうか?阿弥陀如来の絶対他力に救われる基本的なフォーマットは変わりませんが、人々 に対して阿弥陀如来のように利他の行いに努め、煩悩を滅し、慈悲の心をもち、それらに精進することを勧めるようになりました。これはあくまでも悟りを目指した自力の修行とは違い、阿弥陀如来への感謝からそう励みましょうという努力目標として掲げられたものです。ただ、近年では阿弥陀如来の救いを基本としながらも、子供向けの出版物や大人向けの法話などで自力の行である六波羅蜜や八正道の実践を説く真宗僧侶もおります。
新方針も別に悪いことは言っていないのですが、浄土教、特に浄土真宗は凡夫や悪人のどうしても救いがたい衆生を救うために作られた宗教でもあります。つまり、利己的で煩悩だらけで慈悲の心もなく精進する気力も無いような人が、自らのダメさ加減に慚愧の心をもって一心に南無阿弥陀仏と念仏申し上げるわけですから、努力目標とは言え教団の方針として善行を打ち出されるとそれが出来ない多くの門信徒が萎縮してしまう恐れもあります。一方で、親鸞聖人の時代から阿弥陀如来が救ってくれるからと開き直って悪行三昧を尽くす人もおりましたので、浄土真宗の教えが別に悪事を勧めているわけではないことを殊更に強調する意義はあると言えます。
この新方針を端的に表したのが平成30年に発表された西本願寺門主の御親教「私たちのちかい」です。以下に全文を引用します。
一、自分の殻に閉じこもることなく、穏やかな顔と優しい言葉を大切にします。微笑み語りかける仏さまのように。
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず、しなやかな心と振る舞いを心がけます。心安らかな仏さまのように。
一、自分だけを大事にすることなく、人と喜びや悲しみを分かち合います。慈悲に満ちみちた仏さまのように。
一、生かされていることに気づき、日々に精一杯つとめます。人びとの救いに尽くす仏さまのように。
引用終わり。
この「私たちのちかい」に関しては発表後から支持派と反対派の論争があり今も続いています。また、西本願寺は平成24年から実践運動という組織的な社会問題への介入も行なっており、社会に対して明らかに積極姿勢に転じつつあります。日本最大宗派の動向が注目されます。
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