百丈野狐

 今日は有名な公案集の無門関にある百丈野狐です。これは臨済宗開祖であるバイオレンスな臨済義玄の師であるこれまたバイオレンスな黄檗希運のそのまた師である百丈懐海のお話となります。

 百丈和尚がお坊さんたちに説法をする時に、いつも後ろで話を聞いている老人がいました。ある日の説法で、お坊さんたちが退出してもその老人だけが残っていたので百丈和尚が何者かと訪ねたところ、この老人は人間では無く化けた野狐だと答え身の上を語ります。老人はお釈迦様の前の仏様の時代(大昔)に、ここにあった寺で住職をしていましたが、ある日ひとりの修行者から「十分に修行を積んだ者も因果の法則にしばられますか?」と尋ねられ、因果の法則にしばられないと返答したところ、この間違った答えのために野狐の身となり500回の転生を繰り返した言うのです。

 因果とは原因と結果の事でお釈迦様が説いた根本的な教えです。この世の苦しみの原因をたどっていくと煩悩にいきつき、煩悩を滅した結果として苦しみを消すことが出来るという考えで、この世の全ては原因と結果の複雑な関係とつながりにより成り立っているとされます。ならば、修行を完成させて原因と結果の関係から解き放たれた存在になれば因果にしばられない自由の身になれそうな気もしますが、それは違っていたというのです。話の続きを見ましょう。

 そこで、野狐の老人は百丈和尚に訪ねます「修行を十分に積んだものでも因果の法則にしばられるのでしょうか?」と、百丈和尚は答えて「因果の法則をごまかさない」と言うとその言葉を聞いた野狐は悟りを開き百丈和尚に礼拝します。抜け殻となった野狐を百丈和尚がお弔いしました。

 因果の法則から逃れようとこだわるのではなく、因果の法則をあるがままに受け入れた時に野狐は悟ったのです。受け入れてみれば500回の転生も苦ではなく風流の中にあったとわかったのでした。

 ところで、野狐をとむらった後、弟子の黄檗が師の百丈にこの野狐が間違わなかったらどうなっていたのか尋ねます。百丈が教えてやるから近くに来る様に言うと、近づいた黄檗は百丈を殴りつけます。殴られた百丈はここにも達磨大師がいたと喜びます。この暴力行為にどういう意味があったのかは色んな解釈がありますが、前段の話を読んで分かったような気になるなとの百丈と黄檗からの喝のようにも思えます。百丈野狐の話は次の偈文でしめられています。

 不落不昧両采一賽
 不昧不落千錯萬錯

 この偈は「因果から解き放たれるのもごまかさないのも一つのサイコロで二つの勝ちが得られ、因果をごまかさないのも解き放たれるのも混じり合っている。」とも解釈出来ます。この話から、悟っていないのに知った風な話をすることを野狐禅と呼ぶようになりました。私も在家の身で仏教系のブログなど書いていおるので野狐禅みたいなものですが、中道を歩けるようゆるゆると参りたいと思います。南無佛。

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