良寛さんの辞世を公案的に読む

 良寛さんの辞世と伝えられるものは複数ありますが、今回は以下の歌を辞世として、その謎を公案風に好き勝手に解釈してみました。

 形見とて何残すらむ春は花、夏ほととぎす、秋はもみぢ葉

 現代語訳では「形見になにをのこそうか、春は花、夏はほととぎす、秋は紅葉」となります。さて、皆さんこれを見ると冬はどうした!と言いたくなりますよね?実はこの歌には元ネタがあって、そちらには冬が含まれています。道元禅師の傘松道詠集より本来面目と題された有名な歌です。

 春は花 夏ほとゝきす 秋は月
 冬雪さえて冷しかりけり

 題名の本来面目は本来の自分(仏性)というニュアンスで、六祖壇経の中にある善悪を超えた本性を問う公案の文言です。つまりこれに続く道元の和歌も単に四季の美しさを詠んだ歌ではありません。それぞれに暗喩が込められていますが、特に秋の月は仏法そのものを表し、冬の雪は達磨大師から第二祖慧可への伝法を示すとの説もあります。そうすると、冬の雪を中心とする下の句は悟りを示す冷しかりけりの完成と解釈できます。

 つまり、良寛さんの辞世には道元禅師の説く仏法と悟りが欠落していることになるのです。春と夏までは道元禅師と同じですが、秋の紅葉でターニングポイントを迎えています。これはどういう意味でしょうか?その謎を解く鍵が次の句になります。この句は良寛さんが最後に詠んだ句とされますが、貞心尼が伝えるところでは良寛さんのオリジナルでは無いそうです。

 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

 この句は人生の良い面も悪い面も見せて散っていく感慨を述べたと言われます。良寛さんの辞世で秋が紅葉になっていたのは、道元禅師の冬に到達出来ずに散る自身になぞらえた物だったのかも知れません。

 良寛さんは曹洞宗の禅僧ですが、晩年は浄土真宗の信徒である木村家に滞在していた事もあり、浄土教にも理解を示していたと言われ、墓も浄土真宗の寺に祀られています。そう考えると、秋に散った紅葉は死後、極楽浄土で冬を迎え真の悟りを得たのかも知れません。辞世にも最後に詠んだ句にも、ある種の清々しさが溢れており、悟りへのこだわりもすてて堂々と生ききった事を示す素晴らしい歌だと思います。

 以上より、もし、良寛さんの冬抜きの辞世が後世の人に問われた公案だとしたら、私はこう答えます「人生、これでいいのだ」と。

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